(旧軍の遺構資料館など)








ネット博物館同様に今後、ページが増設されていく事が予想
される為、早目にページ分類し来訪者に出来るだけ判り易い
作りを目指したいと思います。こちらの遺構のページでも他の
コンテンツ同様により多くの若い日本人の方々を中心に少し
でも忘れ去ら埋もれゆく歴史に興味を持って御来訪され見て
欲しい。そして日教組などのド腐れ国賊教師どもやプロ市民の
アカどもが歪んで教えている嘘で固めた近代史や、支那・南北
朝鮮のプロパガンダの大嘘に興味を持ち…真摯に勉強して下
さるようになり…奴等の洗脳とマインドコントロールから一人で
も多くの人々が開放される事を嬉しく思います。
また多くの若い
日本人の方だけでなく、其々の国で大嘘を教え込まされている
支那人や朝鮮人の若者達…いや大人達にも、亜細亜解放を成
した旧日本の実態と止むに止まれぬ民族興亡の大戦争に突入
していった日本の真の実態を知る第一歩や興味を持つ第一歩
になって下されば誠に幸いに思います。

                    皇紀2669年12月

                       管理人 憂国烈士











〜陸軍造兵廠東京工廠
   (東京第一陸軍造兵廠)
     練馬倉庫の旧正門と歩哨所〜



東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫の旧正門前です。現在は練馬区
北町にある陸上自衛隊 練馬駐屯地になっています。
いつも渋滞している川越街道沿いにある旧正面ゲートです。
陸自の練馬駐屯地の正門ゲートは、これよりもう少し池袋よ
りに戻るとあります。
歩哨所がしっかりと当時のまま残っています。
誰が置いたのか椅子にお茶までありました。

          ◆東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫◆

昭和 5 年      - 現在地に、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成。
              敷地面積1万坪

昭和18 年      - 陸軍第一造兵廠構内駅(後に"東武啓志線")が、
              敷地内に開業。

昭和20年8月15日 -敗戦

昭和21年3月25日 - 陸軍第一造兵廠構内駅を練馬倉庫駅に改称。

昭和26年9月    - 警察予備隊が久里浜から移転。敷地面積を
              8万坪に拡張。

昭和27年10月15日-保安隊 に改組。

昭和29年7月11日 -陸上自衛隊(保安隊の廃止により)練馬駐屯地
             となる。

昭和34年7月22日 - 練馬倉庫駅廃止。

平成14年3月    - 第1師団が政経中枢師団へ改編。








目 次 (table of contents)



  ・筑波海軍航空隊の遺構 ・陸軍柏飛行場の遺構 
・土浦海軍航空隊の遺構 ・霞ケ浦海軍航空隊の遺構
・鹿島海軍航空隊の遺構 ・予科練平和記念館
・大日苑(鹿島海軍航空隊司令 久邇宮朝融王殿下の
 仮官舎)          ・谷田部海軍航空隊の遺構



  ・陸軍成増飛行場の遺構  ・振武台陸軍病院の遺構
・神之池海軍航空隊の遺構(神雷部隊と龍巻部隊) 
・北浦海軍航空隊の遺構  ・巣鴨プリズンの遺構
・百里原海軍航空隊の遺構 ・茨木空港(2010年開港)



・陸軍調布飛行場の遺構(飛行第244戦隊 及び 東部
                          1903部隊)
・陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)練馬倉
 庫 及び 陸軍歩兵第一連隊の遺構(現・陸上自衛隊

 練馬駐屯地:第1師団司令部等)



・陸軍予科士官学校の遺構(相武台の陸軍士官学校
 皇族舎<振武記念館>、振武台正門、振武台碑、
 雄叫神社。現・陸上自衛隊朝霞駐屯地:東部方面総
 監部、陸自 輸送学校、等々) ・陸軍士官学校・大本
 営陸軍部・陸軍省・参謀本部の遺構<市ヶ谷記念館
 >、現防衛省・陸自市ヶ谷駐屯地



・陸軍駒沢練兵場・野砲兵第一聯隊・野戦重砲第八聯
 隊・近衛野砲兵聯隊・陸軍糧秣廠倉庫の遺構(現陸
 自三宿駐屯地・自衛隊中央病院・陸自衛生学校・彰
 古館)・陸軍宇都宮師管区司令部の地下司令部壕の
 遺構(現 八幡山公園)



・陸軍少年戦車兵学校の遺構(静岡県富士宮市)
・大宮陸軍病院の遺構(静岡県富士宮市)
・中島飛行機の発動機地下工場(埼玉県)
・熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の遺構(埼玉県)
・相模陸軍飛行場(中津飛行場)の遺構(神奈川県)
・陸軍衛戍刑務所跡と二・二六事件慰霊像(東京)
・旧東京第一陸軍造兵廠の遺構(東京)



・戦艦 三笠の遺構(横須賀 三笠公園・記念艦 三笠)
・第三海堡(大型兵舎)の遺構(横須賀うみかぜ公園)
・館山海軍航空隊の遺構(海自・館山基地及び赤山地
 下壕、宮城の戦闘機掩体壕、水上機基地滑走台、第
 二海軍航空廠館山補給工場、横須賀海軍々需部館
 山軍需支庫揮発油格納庫)
・洲崎海軍航空隊跡地の石碑
・館山海軍砲術学校の遺構(正門跡、ボイラー、平和祈
 念の塔)
・第一特攻戦隊第十八突撃隊第五十九震洋隊の遺構
・横浜海軍航空隊 及び 大日本航空(株)の遺構
・野戦重砲第二聯隊の遺構(静岡県三島市)



・国立科学博物館の零式艦上戦闘機二一型
・軍人会館 (現 九段会館)
・近衛師団司令部庁舎 (現 国立近代美術館工芸館)
・北白川宮能久親王殿下の銅像(皇居・北の丸公園)
・皇居・北の丸公園の馬頭観音
・千鳥ケ淵の高射砲陣地跡
・千鳥ケ淵戦没者墓苑
・東京都戦没者霊苑
・旧 陸軍前橋飛行場(別名:堤ヶ岡飛行場)の跡地
・高崎 歩兵第十五聯隊( 照7757部隊 )跡 石碑
・東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所の遺構
   (岩鼻陸軍火薬製造所)



・茂原海軍航空基地の遺構(第ニ五ニ海軍航空隊)
・陸軍 豊成飛行場(東金飛行場)の遺構
                (陸軍飛行第二八戦隊)
・陸軍 横芝飛行場の遺構
(水戸陸軍飛行学校横芝分校/
               仙台飛行学校横芝教育隊)
・香取海軍航空基地の遺構
・下志津陸軍飛行学校銚子分教場の遺構
・日比友愛の碑(地球の丸く見える丘展望館)
・元 横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所 水光荘
            (現在は一般民間人の住宅)



・旧 陸軍所沢飛行場(所沢航空記念公園 所沢航空
 発祥記念館)(・所沢陸軍飛行学校 ・陸軍航空整
 備学校 ・陸軍航空士官学校所沢分校 ・第三航空
 教育団) ・陸自 北富士駐屯地資料館 ・旧 前橋陸
 軍予備士官学校(陸自 相馬原駐屯地)友魂記念館
 と桜武記念館



・歩兵第十四師団 将校集会所跡(陸自 宇都宮 
 駐屯地防衛資料館、・アッツ観音 保寿院、
 
 …工事中



*当サイトの内容には御遺族や提供者のある内容物
も多く含まれてありますので写真及び画像、文章等の
は無断転写やコピーを含めての二次使用の一切をお
断り致します。










この日本と謂う国が我物顔に勝手な正義を押し付ける図々しく迷惑な
米国を中心とした白人国家に戦争で負けて以来、誰よりも正義を求め
自由を愛する優しき日本と日本人は悪の権化とされどん底の生活を余
儀なくされました。そんな敗戦の苦難の日から早、六十五年の月日が
流れ…未だに米国の属国で大きな顔も出来ない情けないが経済的に
は世界第二位の経済大国として復活を遂げました。…宮城(皇居)は
天子様と呼ばれ現人神と呼ばれた大元帥である天皇陛下が住まわれ
る帝都の中心であり最も神聖な場所の一つであります。また靖國神社
は、この国の防人達が命を賭して戦い天に召された時、生前に『靖國
で逢おう』と友と語り合い死して神として祀られる英霊の眠る栄光の約
束の地であり神聖な場所であります。旧帝国陸海軍の遺構ではありま
せんが、旧軍の最高司令官は陸海軍の大元帥である天皇陛下であり
ます。皇軍の最高司令官の宮殿のある宮城と皇軍の将兵が英霊とな
って眠る安息の地が靖國神社であれば…旧軍の遺構を巡る者がまず
真っ先に手を合わせ頭を垂れるべき場所と謂えるでしょう。日本に生ま
れ日本人であれば必ず一度は訪れて欲しい神聖な場所だと思います。






































〜陸自 霞ケ浦駐屯地で見た
  レストア中の百式鉄道牽引車と
   役目を終えて解体を待つ御召機の
    政府専用要人ヘリスーパーピューマ〜





朝霞の陸自輸送学校から関東給処でレストアの為
     運搬されレストア作業行程中の百式鉄道牽引車


長らく朝霞の陸自輸送学校の前に展示されていた
100式鉄道牽引車です。平成21年11月レストアの
為、朝霞より霞ケ浦へ移動しました。
朝霞にまだ九七式貨車も残されて飾られていた頃の写真です。




戦後も自衛隊で使用されてきた為、老朽化が激しくレストアが
必要となりました。



霞ケ浦駐屯地の関東補給処での作業工程表です。平成21年末に移動し
約一年三カ月で完成し来春には、再び展示される予定になっています。



残念な事に前々から調子の悪かった愛用のデジカメが遂にオートフォーカスが
壊れ…撮れたり撮れなかったりで…この撮影でオシャカになりました。かなり
ピンボケで残念な画像が多くなりますが代用が無かった為、仕方なく掲載しま
す。お見苦しい点が多いですがピンボケ写真で勘弁下さい。バカチョンカメラな
のでマニュアルフォーカスがありません。オートフォーカスが壊れ始めると殆ど
ピンボケばかりになります。
移動前に朝霞での調査風景
移動開始(吊り上げて大型トレーラーに載せる)



分解されたパーツが並べられています。
新しく新調された荷台部分とその下の台座は木製です。ボンネットの
一部をヤスリで磨いています。
精巧に再現され新調された荷台です。穴の部分は砂を落とす所です。
荷台は金属ですが…薄くて小銃弾も貫通する程度なので装甲性はZEROに等しく
期待できなかったと想像されます。


フレームの上に荷台を乗せる為の台座です。意外にも木製なので驚きました。
上がオリジナルのステアリングで下が新しく作成したステアリングです。
右上は砂を入れる容器。下はヘッドライトカバーです。

砂を詰める容器です。

こちらも意外ですがキャビン部分は金属で無く樫の木で出来ています。
これも同じ樫の木で新品を精巧に作りだしています。
タイヤとホイール、シャーシなどはオリジナルのままです。










簡単に手動で操作できるジャッキが四隅に付いています。






                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           





                                            



 




ありし日の百式鉄道牽引車の勇姿です!
こちらは珍しい満鉄の置物で有名な九八式鉄道牽引車です。百式の前身となったもの
です。場所はマレーシアのイボー(昭和17年1月7日)で九七式貨車を4輛を牽引し、その
百m後方に有蓋貨車を牽引した百式が見える。この九八式…空冷でオーバーヒート気味
らしくボンネットを開いている…猛暑なので荷台にもキャンパスを掛けている。


戦後の鉄道牽引車たち
昭和28年に安比奈で撮影された西武鉄道で再利用されていた九七式鉄道牽引車
です。川越の安比奈線は今は廃線となっていますが…安比奈採砂場で使われた姿
です。砂利積載用に荷台を改造されている以外は殆ど原形をとどめています。
西武鉄道は鉄道連隊の資材を丸ごと持ちこんだ事で知られますが鉄牽も複数
手に入れて使用していたと聞きます。


旧国鉄の田端機械軌道区に所属した百式です。既にエンジンもボンネットも
取り外され廃棄処分を待つ姿です。運転席のしたにあった筈のマフラーも既
にありません。その他は…原形をとどめています。


この画像のように旧国鉄で第二の人生を歩んだ百式の多くは
最後まで原形をとどめてリタイアするものが多かった。
リアビューですがほぼ陸軍時代のまま原形を
留めています。
ほぼ原形通りの百式の右前の部分と下は、エンジン下部です。

戦後に大阪駅で撮影された百式鉄道牽引車。こちらも原形が保たれています。





百式の前身の九八式の前身となった九一式牽引車(鉄道第六連隊)の珍しい写真。




有名な戦争映画で『戦場にかける橋』の”クワイ河マーチ”が余りにも有名ですが
今もタイのクワイ河鉄橋のリバークワイ駅構内に保存されている一式鉄道牽引車
と九七式貨車の写真です。下は、クワイ河鉄橋です。



映画「戦場にかける橋」 BridgeOnTheRiverKwai
のクワイ河マーチのYoutubeの動画です。最上段
のMIDIの音源をオフにしてからお楽しみ下さい。




旧陸軍 100式 鉄道牽引車 旧陸軍色 (鉄道模型)
で真鍮製のHOゲージ、16番ゲージ、1/80。
16番100式牽引車の完成品
大戦中に陸軍が用意した鉄道保守や警備に使われた車両で
タイヤで道路を、鉄輪で線路が走行できるトラックです。戦後
は、保線用や入換機として使用された車両も存在しました。










昭和天皇の「お召し機」スーパーピューマ 332L

三機の政府専用ヘリコプターです。三機とも天皇陛下(昭和天皇)が乗られた『お召し機』
です。手前の”はと号”が一番機となり内部を拝見させていただきました。この三機も廃棄
処分待ちなのだそうです。



陛下がお座りになり伊豆・大島など災害地をお見舞いに行かれる時、座られた貴賓席
の四席です。総皮張りの豪華なシートで座らせていただきましたが…流石にファースト
クラス以上の座り心地の良さでした。奥はコクピットになっています。


左右にドリンクホルダーにあるテーブルになるキャビンに専用電話が設置されており
内装もカーテンも素晴らしいものでした。貴賓席(VIP席)が4席で敷居とカーテンの向
こう、後部に随員席8席と更に後方にクルー用のスペースがあります。
このヘリを日本政府が政府専用機としてフランスから購入したのは昭和61年のことです。
何故か機体は、総理府の所属ですがパイロットや整備士は、陸自から総理府に出向して
自衛隊機ではなくて民間機として飛行することにしていました。実にバカげた話です…。
更に奥にお付きの方などのシートが8席分。その奥はクルー用のスペースとの事でした。


コクピットです。座らせていただき操縦桿を握ると
思わず童心に帰ります…。
コクピットに座った時、背中の薄壁一枚で1m〜2mの距離で陛下をお乗せしたパイロットは
その栄誉もそうですが緊張したでしょうね。陛下のお命を預かるのですから…そう考えると
手に汗をかきました。











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