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(旧軍の遺構資料館など)
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(中京・東海エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る) |
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現在は太刀洗いに移転した零戦32型です。以前、名古屋空港に 展示してありました時に戦艦榛名様が撮影したものです。 |
歩兵第十八聯隊の遺構と
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現在の豊橋公園の入口は旧 歩兵第十八聯隊の営門と歩哨の哨舎が残されています。 ここ愛知県豊橋市は、歩兵聯隊の他に豊橋陸軍教導学校が存在し軍都と呼ばれており ました。 |
旧 歩兵第十八聯隊の営門 |
吉田城の城址をそのまま歩兵第十八聯隊が使用し戦後は公園として 利用され現代に至る為、比較的・・・当時の遺構が残っています。 |
公園のシンボル的な存在となっている吉田城 |
左上は公園・・・。右上は戦災復興の碑です。 |
旧歩兵第十八聯隊の歩哨の哨舎 |
歩兵第十八聯隊之址です。 |
歩兵第十八聯隊(通称号:雷3219)は、 明治17年に名古屋にて一1から第三大隊が設置され 明治19年までに豊橋に移駐しました。そして同年8月15日に軍旗を親授されます。明治21年 5月に名古屋第三師団が創設され明治27年に日清戦争、明治37年に日露戦争に従軍。明治 40年に第十五師団に所属変更されるが後に宇垣軍縮により第十五師団が廃止、第三師団に 復帰。昭和3年5月、済南事件で出動し天津に駐屯。昭和8年2月には熱河作戦に参加。昭和9 年、満州駐剳し昭和11年に帰国。また昭和12年8月に 動員下令、上海から上陸し南京攻略戦 に参加。更に昭和13年に漢口作戦、昭和14年にカン湘会戦、昭和15年に宜昌作戦、長沙作 戦、漢水作戦に次々と参加しました。昭和17年7月に第三師団から第二十九師団隷下に所属 が変わり奉天省海城に駐屯。昭和19年2月に動員下令、2月末にサイパン島にに向けて輸送 船団で出港するが2月29日、本土南方沖で米潜”トラウト”の雷撃を受け輸送船”崎戸丸”に乗 船中の連隊長 門間 健太郎 陸軍大佐以下2.200名が戦死します。残存将兵約.1800名がサイ パン島に上陸し3月28日に新連隊長 大橋 彦四郎 陸軍大佐が赴任。同年5月、聯隊主力は グアム島へ移駐。移駐に間に合わずにサイパンで米軍を迎えた第一大隊と第三迫撃砲中隊に 衛生隊はサイパンで6月20日に交戦し壊滅。グアムの聯隊主力も7月21日に米軍上陸がはじま りマンガン山で指揮を執り各中隊は上陸地点の要所に配置され激戦を繰り広げるが、7月25日 に師団長の許可を得て軍旗奉焼、その後の夜戦で連隊長以下の大部分が悉く戦死し玉砕しま した。2年前に映画化されヒットした"太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男"はサイパンに残っ て米軍を迎えてしまった歩兵第十八聯隊の衛生隊の隊長だった大場 栄 陸軍大尉が指揮して 遊撃戦を戦った実際の話ですが、映画は元米合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の”OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945”(1982年刊行 中村定翻訳、祥伝社)を原作として 映画になりました。 |
左上は昭和15年の宜昌作戦で漢水右岸を進撃中の歩兵第十八聯隊。右上は昭和12年、上海戦での歩兵第十八聯隊です。 |
ヒット映画となった”太平洋の奇跡”です。 |
この映画でも感動的なラストシーンとして描かれた歩兵の本領を歌いながら 日章旗を先頭に隊列を組んで堂々と投降し降伏した場面です。これとほぼ同 じ事が実際のサイパンでも行われており・・・その投降式典の写真などが残っ ております。 |
軍歌”歩兵の本領”です。動画の再生時はページTOPの MIDIプレーヤーを停止してからお楽しみください。 |
こちらの動画は映画”太平洋の奇跡”のラストシーンを そのままパクってUPしたものです。無茶していますが 削除されないから不思議ですね(苦笑)。 |
実際の当時の写真です。大場 栄 大尉は地元愛知県の出身で昭和9年に徴兵で 歩兵第十八聯隊に入営されます。徴兵前は実業学校の地理教師をされておられ ました。昭和10年に甲種幹部候補生。翌11年に豊橋市立吉田方尋常小学校教諭 をされておりましたが、昭和12年8月に支那事変で再召集され、同年12月に陸軍 歩兵予備少尉に任官し原隊である歩兵第十八聯隊付となります。昭和14年4月に 特志(特別志願将校)となり昭和15年8月に現役将校になり陸軍歩兵中尉に昇進し 同年11月に中隊長。昭和18年3月、任陸軍大尉。昭和19年2月、同聯隊衛生隊の 隊長となり聯隊とともにサイパン島に進出。その後は敗戦後までサイパン島で米軍 と戦い残存兵と共にタッポーチョ山にこもり遊撃戦を継続。昭和20年11月27日、独 立混成第九聯隊長 天羽 馬八 陸軍少将の降伏命令を受けて降伏し投降を決意。 同年年12月1日、大場隊残存47名は戦死者に対し3発の弔銃を捧げ慰"歩兵の本 領”を歌いながら行進し下山、米軍に投降しました。投降式典において大場 大尉は 軍刀を米軍将校に手渡し降伏の意を示しました。この時の写真が右下のものです。 |
戦後、復員された大場大尉は郷里に戻り会社経営を行う傍ら、地元 愛知県蒲郡市議会議員を12年間勤められました。平成4年に78歳で 他界されております。 |
静かな公園の中で時が止まったような空間があります。市民は運動に散歩にと思い思い に公園を利用し楽しそうです。…これ等の点在する記念碑や像などに我々の先人である 日本人たちが国の為、郷里の為、愛する家族の為に身を削ったかを語りかけてくれます。 物言わぬ振り返る人は殆ど居ませんが…どうか身近なこうした公園や神社や仏閣の片隅 にある遺構や記念碑に目を凝らして見て下さい。今日、我々や公園で運動する市民達や 子供と遊ぶ親子連れや文化サークル活動で行き来する楽しげな市民達が平和で豊かな 生活を享受できるのも…ここに刻まれた部隊の名のもとに集い戦った多くの名も無き先人 同胞の日本人達の活躍があったればこそであると努々忘れる事無く…暫し束の間の瞬間 でも想いを馳せて欲しいと願うばかりです。 |
吉田藩祖豊城神社 |
軍人記念碑(神武天皇像) |
歩兵第十八聯隊の通用門(一部で将校用とも謂われていますが真偽は不明です) |
無残な聯隊記念砲の記念碑の跡です。戦後の左翼 旋風で破壊されたものでしょう。上にあった聯隊砲は 撤去され廃棄されたのでしょう。銘はコンクjりで塗り つぶされのが長い年月で剥がれて元の銘が浮き上が り”聯隊記念砲”とはっきり読めますが・・・無残なもの です。 |
公園内には聯隊の跡のコンクリがあちらこちらに見られます。 |
公園の外になりますが豊橋市役所駐車場入り口横に移転し置かれた 歩兵第十八聯隊西門です。創設期の明治の時代には営門として使わ れ・・・・暫く前までは木製の門扉も残っていましたが現在はありません。 |
下は西門時代でなく営門として使われていた明治時代の写真です。 |
"此処に歩兵第百十八聯隊ありき"の碑 |
歩兵第百十八聯隊(中部第六十二部隊:通称号・誉11933)は、昭和16年5月21日 に軍旗親授されこの地で編成された新しい聯隊です。当初は中部軍の隷下で名古屋 地区の警備に就きましたが、昭和18年5月に第43師団の隷下に所属が変更されまし た。昭和19年5月29日、サイパン島防衛の為に横浜港を出港の輸送船団に聯隊将兵 約約3,300名が乗船します。同年6月4日〜6日までにこの輸送船団のうち3隻が敵潜 水艦に雷撃され撃沈し聯隊長 伊藤 豪 陸軍大佐以下 2.240名が戦死します。6月7日 にサイパン島に到着し生き残った将兵は約一千名のみで第三大隊長の大塚少佐が 指揮をとるも、装備の多くを失った将兵は師団予備とされ、すぐに上陸を開始した米軍 と対峙し、同年6月17日、フィナスス山で第一大隊が壊滅的被害を受けます。続く6月 22日には師団戦闘司令所のあったチャチャで第三大隊も大塚大隊長以下がことごと く戦死。その後、6月26日のタポチョ山の戦いで神田大尉以下27名の残兵が戦死し聯 隊は組織的に玉砕して果てました。 |
豊橋海軍航空隊の遺構(大崎島)
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戦後の空撮写真ですが八角形の人工島に残る滑走路と誘導路に 基地施設跡がはっきり判ります。また旧豊橋海軍航空隊の大崎島 に唯一通じた連絡通路の海軍橋も見事に確認できます。 |
かつて戦前に壮大な計画で三河湾に人工の埋め立て島(大崎島)を作り まるで今の関空や中部国際空港を先取りしたような飛行場の島が作られ 運用されておりました。これが豊橋海軍航空隊です。現在は戦後に更に 埋め立てられて巨大な明海地区工業団地になっております。 |
海軍は中攻(陸上攻撃機)の増強を目的に呉鎮と横鎮(横須賀鎮守府)の中間点として 東海地方に目を付けて三点に着目して候補地を絞りました。@気象:冬季に強い北西の 季節風が吹き大型機の着陸に適している事。A地形:飛行機の離着陸に邪魔する高い 山々が少なく三河湾なので事故に際しても被害が少ない事。B補給:愛知には航空関 連産業が多く機材から部品の調達に便利がよく何より海上輸送も活用可能な点。…これ 等により豊橋沖の大津島や欠島や平島島を埋め立てる人工島の基地を作る計画が実行 され昭和14年に着工、約5年の歳月を掛けて八角形の人工島(大崎島)が昭和18年4月 の完成と同時に搭乗員の練成を目的とした豊橋海軍航空隊(定数60機の陸上攻撃機) が開隊されます。昭和19年2月、この豊橋空は錬成部隊から実戦部隊に変更され701空 と名を変えて陸攻機48機で千歳基地に進出し北海道〜千島で活躍します。空き家状態に なった豊橋基地は約1500mの大型滑走路を三本と小型機用の約1000mの滑走路を一本 の合計四本の滑走路を持つ贅沢な飛行基地の為、南方に進出しては航空撃滅戦で戦力 を消耗して内地に帰還し戦力の回復と錬成を図る各中攻部隊の格好の基地として活躍し ました。昭和19年7月には豊橋空(二代目)が錬成部隊として開隊。この錬成部隊も翌20 年5月に実戦部隊として移動。この頃には空襲も始まり次第に激化するなか大型機は各 地の空襲の少ない地方へ分散し基地は機能しないまま敗戦を迎えました。 |
上が大正七年の地図でまだ人工島(大崎島)は存在していません。 下は昭和15年の地図ですが…既に工事もかなり進み八角形の人工 島の形と対岸を繋ぐ海軍橋が描かれています。 |
戦後、開墾され農地になったり放置されたりした後に更に埋め立てられて巨大工業団地 に生れ変りました。右下です。 |
戦後になり入植した製塩工場が廃業して10年ほど跡地は放置されていましが 昭和30年代に拡張埋立て工事が実施され人工島の面影が無くなりましたが、 工業団地として成功し、まず東都製鋼(現在のトピー工業)が昭和33年に進出 その後は次々と企業が進出し…現在の大規模な工業団地に姿を変えました。 下の画像はトピー工業の豊橋製造所の全景です。敷地は実に55万坪(1,810, 000u)です。下の画像をクリックすると公式サイトが開きます。 |
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左上はトピー工業の前です。丁度、下の画像の黄色の星印の辺りです。 目の前が海で右上の写真の工場の切れ目の先が元々の島の素の形が 残っている唯一の部分です。 |
左上の海の対岸は海軍橋を渡った陸地側です。右上はトピー工業(豊空の管理区域)を背に 元々海軍の道路があった道です。右手に昔のコンクリの柱のようなものが残っているのが判 ります。下はかなり乱喰歯のように抜け落ちていますが下地の元々の基礎部分と昔のアスフ ァルト部分が判ります。引き潮の時でしたのでよく見えました。 |
島側から見た海軍橋に続く海軍道路です。海軍橋は下の水色の◆の部分です。 上の道路の部分と周辺は元々は長い海軍橋しかなかった道路ですが、埋め立て られて陸地続きのようになっています。 |
島のある基地側を背に海軍橋を渡った写真です。 |
逆に陸地側より大崎島(基地側)に海軍橋を渡らんとしている写真です。 右下の道路標識の直進の明海町が旧基地のあった大崎島の今の地名 です。 |
河和第一・第二海軍航空隊の遺構
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三河湾に面した内海に日米戦の開戦直前の昭和16年に来る大戦争で 急を要して求められる航空機整備員の大量養成を図る目的で相模野・ 出水に続く三番目の整備訓練航空隊として横須賀海軍航空隊知多分 遣隊が組織され美浜町を中心に用地買収が行われ基地建設が行われ ました。上の地図の★印に昭和18年12月1日、河和海軍航空隊が開隊 されました(後に第一河和海軍航空隊と改称)。この一年後の昭和19年 4月1日、小松島海軍航空隊知多分遣隊が独立して第二河和海軍航空 隊を開隊します。翌月に北浦海軍航空隊より予備学生が転入し、紫電の 原型となった川西飛行機の水上戦闘機”強風”が配備されます。整備員 を養成する第一航空隊は全期間を通して常に数千人規模の訓練生を抱 えていましたが、最盛期には9,000人とも謂われる数がここに集い学び ました。昭和20年1月になり第二航空隊は…ガソリン欠乏に貧窮し飛行 訓練もままならない状況下で名古屋へのB-29の空襲が始まり、これに 対して二式水上戦闘機や強風で迎撃戦が開始されるも下駄履きでは接 敵もままならない状況でした。そんな中でも1月19日、浜名湖上空で行わ れたB-29迎撃戦で強風隊2機がB-29を1機撃墜したと謂います。恐らく は高高度を飛び中京方面各地を爆撃したB-29の編隊を一般戦闘機でも 迎撃が難しいのを下駄履きの水上機で追いかけてもまず撃墜は不可能 であれば…帰還するB-29の編隊を予め高度を上げて浜名湖上空で待ち 受けてワンチャンスの攻撃に望みを託して攻撃したのでは無いかと想像 します。これ以外に不可能であった事でしょう。敗戦までに河和空は硫黄 島からのP-51の攻撃を執拗に受けていますが、二式水戦も強風も対処 不能で退避して温存する事しか対処する術はありませんでした。こうして 敗戦の日を迎えて僅か2年・1年余りの基地の歴史は終止符を打ちます が…この第一と第二河和空の面白いのはこれだけ立地上近くにありなが ら海辺の水上機部隊である第二河和空と山側で整備教育を行う第一河 和空は直接的な密な連携も連絡も余り無い点です。出身母体が其々に 全く違い第一は追浜の横空(横須賀空で横鎮隷下)を母体に、第二の方 は小松島空(呉鎮隷下)。またこの第二河和空からは神風特別攻撃隊 御楯隊河和隊として昭和20年8月5日、零式観測機38機(隊員48名)が この河和の地を飛び立ち福岡に向かいました。敗戦の当日の8月15日に 出撃予定でありましたが玉音放送と敗戦で中止となり隊員達は九死に一 生を得ます。 |
近接した地域に同じ名前だが二つの違う顔を持つ航空隊が存在し 互いに連絡や連携を密にする事も無く広大な基地エリアで約2年の 短い基地の歴史の幕を閉じました。 |
実際にこの基地で使用された水上機達です。上は強風。下は二式水戦。 |
下は零観です。 |
下は九五式水偵です。これらの機種で全盛時は約90機の 水上機が基地で稼働していたと謂います。 |
河和海軍航空隊跡記念碑 |
第二河和航空隊の遺構 |
・航空隊本部正門の跡
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第二河和空の正門跡 及び 水タンク |
上は現在の衛星写真で下は昭和22年の米軍が撮影した空撮写真 |
拡大してもこれが限界です。現在の河和中学と町営団地 の辺りが司令部庁舎など本部のあった場所です。 |
現在の河和中学校の敷地から海に掛けては司令部庁舎や隊舎等の管理施設 のあった場所になります。正門の一部が半壊しつつも残存しています。 |
無残なものですが何とか残存している正門の一部です。…戦後のこうした扱いの杜撰さ というのか…この仕打ちは栄光を極めた国軍だけに実に哀しく憐れになりますね。 |
今も河和中学校の敷地内に残る当時の水タンクです。 |
衛星写真で見てもはっきり水タンクが判ります(右上の画像)。 |
水上機基地の三か所のスリップ(すべり) |
ここのスリップも綺麗に残っています。規模も大きく見た中では 霞ヶ浦の鹿島空のスリップに次ぐ位か同等の規模だと思います。 左上は現在の衛星写真。右上は1970年代頃の衛星写真です。 下は敗戦後2年の昭和22年に米軍が空撮したものです。 |
東側小すべり(スリップ) |
第二河和空の水上機隊が使用した3つのスリップのうち二番目に大きい スリップで軍港に最も近い場所にあります。当時と違うのは後方にある 防波堤が戦後に増設された事です。このスリットで約80m位あると思わ れます。 |
三つのスリットの全てに共通しますが、敷き詰められたコンクリートに大きな割れやヒビが見られるものは 経年の痛みでは無く当時、繰り返し受けた米軍機の爆撃や銃撃によるものだそうです。 |
東側大すべり(スリップ) |
第二河和空の水上機隊が使用した3つのスリップのうち一番最大で メインで使用されたスリップです。全長は約200m位あります。 |
下は実際にこの河和の大スリップで零観を引き上げている写真です。 |
北側すべり(スリップ) |
第二河和空の水上機隊が使用した3つのスリップのうち一番 北にある小さいスリップです。それでも約50mはあるでしょう。 |
旧格納庫等の基地バックヤードスペースの遺構 |
左上は現在の衛星写真で北側スリップと東側スリップの奥側になる旧格納庫の 跡地です。スリットにはみて判るように碁盤の目のようにコンクリートが敷き詰め られています。格納庫前と思われる辺りにはより一回り小さなコンクリートが敷き 詰められているのが判ります。右上は東側小スリットの後ろになる部分です。下 は昭和22年の米軍撮影の空撮写真です。 |
下は拡大した画像です。格納庫前の碁盤の目のコンクリートが左下で右下は東側大スリットの 大きな碁盤の目のコンクリートです。スリットの方は基礎の石積が沈んだりで歪みが見えます。 また場所によって砂に沈み無くなったりしています。これは一番規模の大きい東側大スリットの 東端の方で顕著です。 |
北川スリットの裏手の加藤化学です。下は加藤化学の裏の旧格納庫跡です。 |
上の画像の防波堤の右側は東大スリットです。左側は旧格納庫跡になります。 |
東小スリットの裏手にある空き地です。ここも水上機の出し入れを 行う格納庫等があったものと思われます。しかしここの門構えから して初めはてっきり正門なのではと思ったものです。 |
門の奥には広大な空き地が広がり…その真ん中に立派なソテツが立っています。 思わずこのソテツを囲むスペースがあって庭のようになっており車寄せのあるエン トランスのある庁舎がありそうな雰囲気が想像されました。 |
旧軍港 及び 連絡陸橋跡 及び 修理工場跡 |
伊勢湾台風以後に出来た防波堤で埋め立てられたような感じの元軍港部分です。 満潮時には干上がった部分にも海水が満ちるようでボートが何隻か置かれていま す。その後方で川を渡り・・国道217号線をまたぐように敗戦までは連絡橋が架けら れてその後方の第一河和空の本部まで交通できました。現在は橋の袂の基礎だ けが残るのみです。 |
元の軍港部分も防波堤で封鎖され開口部が小さいのと干潮で干上がり ずっと先まで海水が見えません。夏草がこの下にある川までも覆ってし まい見えません。 |
望遠にして拡大するとやっと軍港の基礎部分の石垣積と僅かな海水が見えます。その上の段の 石垣は連絡橋に続く道路だった筈です。今や森林と化しております。 |
連絡陸橋の袂の基礎部分です。手前のガードレールの内側が国道217号線 です。ガードレールの向こうは川になっています。その先は軍港に続く石垣の 基礎になっておりその上に国道をまたぐ連絡橋がありました。今や橋があった 事さえも通過する車の列は気が附かず…橋の基礎の上には樹木が生い茂り まるで昔からある森のようです。その緑の下の頑丈なコンクリートの塊を見る とかつての帝國海軍の軍旗はためく下で多くの若い兵達が駆け抜けた様を 彷彿させ…まるで”夏草や兵どもの夢の跡”と芭蕉の句を思い出しました。 |
修理工場跡です。今や田んぼの中にコンクリの塊が浮いているような妙な 光景になっていますが、大型機械を添え付けた土台の基部と思われます。 |
右上は衛星写真を拡大した画像です。 |
第一河和航空隊の遺構 |
・第一河和航空隊 本部の司令部防空壕
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練兵場と本部の司令部防空壕
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現在の国交省大阪航空局名古屋航空無線標識所は旧第二河和空の練兵場と本部防空壕のある場所でした。 右上の衛星写真で見ると緑で覆われている部分と左横の畑の部分が全て練兵場でした。 |
今はただフェンスで囲まれた中は雑草の生い茂る静寂の世界です。 |
一際こんもりとした緑地部分に一部コンクリの頭が見えています。ここが防空壕です。 フェンスが邪魔で入口は確認できませんが、おそらく閉じられているのでしょう。下は 衛星写真で確認したコンクリ部分です。かなり大きな壕が下にあるようです。 |
こちらは田んぼの中に残る兵舎の大浴場の基礎部分です。 |
かなり大きな入浴施設だったことが長さからも判ります。 |
海軍道路と対空機銃陣地の跡 |
丁度、海側からは逆サイドの内陸側を回り第一空側から第二空側に至る海軍道路です。 |
対空機銃座の置かれた陣地跡です。今は記念の植林などがされた だけで痕跡と呼べるものは殆どありません。 |
位置的には第一河和海軍航空隊のエリアですが植樹など寄贈の記念に 建てられているものを見ると何故か第二河和空の方の物が多いです。 |
銃座のあった跡の前には新池と謂う小さなため池があり釣りをしている人が おりました。なんでもブラックバスが釣れるそうです。 |
このかつてあった対空機銃座を見つめたであろう新池の脇には、この池を 作った時の記念碑が置かれていました。大正15年とあり意外と古くからあ った事が判ります。 |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |