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(旧軍の遺構資料館など)




鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編X







旧軍の遺構や資料館など・・・中京・東海編 (4ページ)



(中京・東海エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)




先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
65年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。


この中京・東海編は主に鹿児島出身で現在は、
名古屋在住の戦艦榛名様のご協力を得て画像
撮影・取材・レポートによつて実現したページで
あります。その点では、まさに”戦艦榛名様スペ
シャル”または”presented by 戦艦榛名 ”と謂
う感じであります。篤い愛国心で旧軍遺構の探
索も二つ返事で引き受けて下さった戦艦榛名様
に改めて感謝を致します。

              皇紀2670年11月

                管理人 憂國烈士


更に暫く此方の方面は更新を怠っていましたが
少しずつ遺構探索を行い消えゆく旧軍の足跡を
記録すべく更新努力を再開しました。

              皇紀2673年 6月

                管理人 憂國烈士

現在は太刀洗いに移転した零戦32型です。以前、名古屋空港に
展示してありました時に戦艦榛名様が撮影したものです。










愛知航空機(株) 永徳工場に残る水上機用スリップ
 (現 愛知機械工業株式会社)

(取材&撮影:戦艦榛名様)




名古屋にお住いの戦艦榛名様からの取材・画像提供です。
かつて海軍に水上機や艦上爆撃機や艦上攻撃機や特攻機の桜花に至るまでを
生産した中京地区の航空産業の一大拠点であった愛知航空機の永徳工場のあっ
た場所です。上の画像は此処で生産された水上機を艤装する各水上機基地へ送
る為に水面に水上機を滑走させる滑り(スリップ)の全景です。鹿島や河和など
水上機基地のスリップに比べるとかなり小さい規模のものですが、今も健在です。
左上は昭和20年に米軍が撮影した航空写真です。右上は
現在の衛星写真です。★印にスリップが確認できます。


この愛知航空の親会社である愛知時計製造(現在の愛知時計電機)は古くから
軍需産業メーカーとしての側面を持ちます。その歴史は古く明治37年に陸海軍か
ら砲弾の信管などを初めて受注し以後は多くの兵器を生産しました。特に海軍との
関係は深く機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械
式計算機)の国産化にも協力してきました。航空機の生産も第一次大戦後に始まり
主に水上機や飛行艇を生産していましたが、昭和18年に航空機増産の為、同社の
航空機部門を独立させて愛知航空機株式会社を設立しました。敗戦後は民需への
転換に迫られ印刷や様々なものに手を伸ばしましたが、昭和24年に新会社として
新愛知起業株式会社を設立し3年後に現在の名称である愛知機械工業株式会社
に名称を変更しています。コニーシリーズなどの軽商用車などを製造し、その後は
大手自動車メーカーの自動車用エンジンやトランスミッションの製造等を手がけて
います。


引潮で判りづらいですが当時のスリップが庄内川にあります。野晒しで手入れがされておらず
痛みはありますが、まだまだ健在です。





零式水上偵察機 水上偵察機”瑞雲” 特殊攻撃機”晴嵐”


二式練習飛行艇 桜花


九九式艦上爆撃機 艦上爆撃機”彗星” 艦上攻撃機”流星”





         
上のバナーをクリックすると
愛知機械工業の公式サイトが
開きます。








名古屋海軍航空隊と
  愛知時計電機の伊保原飛行場
         の遺構(現 愛知少年院)

(取材&撮影:戦艦榛名様)







大戦末期にこの名古屋海軍航空隊より送り出された神風特攻隊
の草薙隊の記念碑があります。この伊保原飛行場は…当初、昭和
15年に愛知時計電機の約千mの滑走路を持つ試験飛行場として
建設されました。ここに2年後に霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊が来て
名古屋海軍航空隊となり軍民共用飛行場になりました。昭和20年
4月には特攻隊・草薙隊が編成され沖縄方面に向けて三度に渡り
出撃し62名が散華いたしました。
神風特別攻撃隊草薙隊の碑




海軍の消火栓と錨が置かれています。







この基地から飛び立った草薙隊が九州の特攻基地である
第二国分基地から出撃散華しましたが、その第二国分基
地の遺構を紹介したページが下のバナーをクリックすると
開きます。
                 ↓



此の地より出撃した名古屋海軍航空隊の神風特攻隊 
                     
       第 一 〜 第 三 草薙隊の英霊達



昭和20年4月6日 第二国分基地を出撃
                    (沖縄方面)

  神風特別攻撃隊 第一草薙隊(九九艦爆)



操縦 高 橋 義 郎  中 尉  
          (海兵72期/宮城県出身)
偵察 時 任 正 明  少 尉  
          (予学13期/鹿児島県出身)


操縦 中 村 盛 雄  少 尉  
          (予学13期/岩手県出身)
偵察 桜 井 利喜一 二飛曹  
          (乙飛18期/山形県出身)


操縦 阿 部 英 治  少 尉  
          (予学13期/東京都出身)
偵察 長谷川 喜 市 二飛曹  
          (乙飛18期/群馬県出身)


操縦 網 田 浩 之 二飛曹  
          (甲飛12期/熊本県出身)
偵察 船 生 敏 郎 一飛曹  
          (乙飛17期/栃木県出身)


操縦 大 田 鎮 雄 二飛曹  
          (甲飛12期/熊本県出身)
偵察 小 田 好 郎 二飛曹  
          (乙飛18期/佐賀県出身)


操縦 作 田 幹 雄 中 尉  
          (予学13期/大阪府出身)
偵察 松 本  厚   少 尉  
          (予学13期/京都府出身)


操縦 太 田  潔  一飛曹  
          (乙飛17期/福岡県出身)
偵察 佐 山  一  二飛曹  
          (甲飛13期/愛媛県出身)


操縦 三 井  位  二飛曹  
          (丙飛14期/長野県出身)
偵察 水 品  清  一飛曹  
          (乙飛17期/静岡県出身)


操縦 吉 岡 隆 成 二飛曹  
          (乙飛特1期/広島県出身)
偵察 斎 藤 義 正 二飛曹  
          (乙飛18期/千葉県出身)


操縦 中 西 三津夫 一飛曹  
          (乙飛17期/滋賀県出身)
偵察 今 井 敏 夫  二飛曹  
          (乙飛18期/宮城県出身)


操縦 鈴 木 幸 一  二飛曹  
          (乙飛特1期/東京都出身)
偵察 五十川 武 夫 二飛曹  
          (乙飛18期/愛知県出身)


操縦 小 鷹 時 雄 上飛曹  
          (乙飛12期/山梨県出身)
偵察 阪 本  充   少 尉   
          (予学13期/熊本県出身)


操縦 後 藤 友 春  一飛曹  
          (乙飛17期/宮城県出身)
偵察 柏 村 成太郎 二飛曹  
          (甲飛12期/茨城県出身)






昭和20年4月12日 第二国分基地を出撃
                    (沖縄方面)

  神風特別攻撃隊 第二草薙隊(九九艦爆)



操縦 高 橋  渡   少 尉  
           (予学13期/東京都出身)
偵察 田 村 諌 雄 二飛曹  
           (乙飛18期/福岡県出身)


操縦 高 瀬 義 則 二飛曹  
           (甲飛12期/福岡県出身)
偵察 宮 崎 光 夫 二飛曹  
           (乙飛18期/山口県出身)








































































昭和20年4月28日 第二国分基地を出撃
                    (沖縄方面)

  神風特別攻撃隊 第三草薙隊(九九艦爆)



操縦 渡 辺  浄   中 尉  
          (海兵73期/広島県出身)
偵察 厚 地 兼之輔 少 尉  
          (予学13期/福岡県出身)


操縦 吉 武 淑 郎 少 尉  
          (予学14期/大分県出身)
偵察 萩 田 祥 敬 候補生  
          (予生1期/徳島県出身)


操縦 上 村 須佐夫 一飛曹  
          (乙飛17期/福岡県出身)
偵察 竹 村 久 志  二飛曹  
          (甲飛12期/北海道出身)


操縦 菊 地 利 夫 少 尉  
          (予学13期/宮城県出身)
偵察 鹿 野  茂   候補生  
          (予生1期/茨城県出身)


操縦 久 保 登美夫  少 尉  
          (予学14期/北海道出身)
偵察 犬 飼 成 二  二飛曹  
          (甲飛13期/愛知県出身)


操縦 笠 原 越 朗  少 尉  
          (予学13期/岡山県出身)
偵察 近 藤 徳 武 候補生  
          (予生1期/宮城県出身)


操縦 遠 藤  清   少 尉  
          (予学14期/岐阜県出身)
偵察 吉 田 武 夫 候補生  
          (予生1期/愛知県出身)


操縦 吉 田 弘 資 候補生  
          (予生1期/岡山県出身)
偵察 井 上 信 高 二飛曹  
          (甲飛13期/大阪府出身)


操縦 永 尾  博   中 尉  
          (予学13期/佐賀県出身)
偵察 江 沢 敏 夫 少 尉  
          (予学13期/神奈川県出身)


操縦 奥 村 周 一 少 尉  
          (予学14期/愛知県出身)
偵察 大 塚 晟 夫 候補生  
          (予生1期/東京都出身)


操縦 正 木  蕃   少 尉  
          (予学14期/愛媛県出身)
偵察 下 地 恵 尚 候補生  
          (予生1期/沖縄県出身)


操縦 村 田 定 雄  少 尉  
          (予学13期/東京都出身)
偵察 梅 澤 一二三 二飛曹  
          (甲飛12期/東京都出身)


操縦 宮 内  榮   候補生  
          (予生1期/茨城県出身)
偵察 寺 戸 宏 和 二飛曹  
          (甲飛13期/山口県出身)








東日本大震災のあった年の暮れに中日新聞に掲載されたものです。
第二国分基地から出撃した名古屋海軍航空隊から編成された草薙隊
の九九艦爆のペアのエピソードです。
名古屋海軍航空隊の特攻と謂う事でこの草薙隊哀史を地元紙の中日新聞が
平成23年の暮れに1話から7話で連載されたようです。たまたま東京でこの紙
面を目にして掲載しましたが、購読できない地域でも暫くはWEB上でも見る事
ができました。




左上が昭和20年に米軍が撮影した飛行場。右上が現在の衛星写真です。
下の現在の地図と滑走路の位置関係とを重ねるとよく判りますね。丁度、
少年院と滑走路を挟む形で今あるのが名鉄の浄水駅ですね。浄水場、少年
院、名鉄浄水駅一帯がかつては航空隊です。右下の駅は名鉄豊田線の浄水
駅です。この路線は昭和47年の開業ですので…当然、当時はありませんで
した。時代と共に様変わりして宅地化された事が良く判ります。
下の道路の画像は伊保原飛行場の滑走路だった場所です。
今は何処にでもありそうな郊外の市街地の道路ですが…敗戦前まで
は伊保原飛行場の滑走路が存在し…下の写真の彗星が存在してお
りました。
敗戦直後に撮影された伊保原飛行場の滑走路での彗星



少年院の敷地の脇に記念碑があり更に道を挟み横の職員宿舎
の駐車場と豊田浄水場の施設の間の深い藪の中に司令部地下
壕となる地下戦闘指揮所や通信施設などが残されています。

正確には現在は浄水場の敷地の中だと思われます。
地下戦闘指揮所や通信施設などある地点(★印)です。
下の画像の藪の奥が該当地点ですが少年院の敷地内
との事で入口も不明の為、入れなかったそうです。
下の画像のように冬になり下草が枯れるのを待ち戦艦榛名様がリベンジに
突入しましたが…藪の向こうにフェンスが張られ侵入できないようになって
おり断念されました。



開豊神社と愛知少年院のある辺りが基地の中心でありました。


今や民家の庭に残るかつての正門の門柱です。




正門の位置から見たパノラマ画像です。まさにこの位置に隊門があってフェンスの向こうに道が繋がっていたものと思われます。
フェンス向こうの施設は豊田浄水場です。この豊田浄水場は、豊田市の中心部から北へ約4.5キロメートル、標高90メートルの
伊保原台地にあり、敷地面積約133千平方メートルで昭和47年7月から給水を開始し、現在、給水能力は231千立方メートル/
日で、市町に水道水を送っているそうです。












愛知縣護國神社 及び 愛知平和記念館

(取材&撮影:戦艦榛名様)




日本三大都市の一つ名古屋市にある愛知縣護國神社です。戊辰戦争から
大東亜戦争まで愛知県ゆかりの御英霊九万三千余柱を祀っております。
季節がら夏越の大祓で境内大鳥居前に設けた大茅の輪が印象的です。
こちらも名古屋在住の戦艦榛名様が取材され画像を提供くださいました。



下のバナーをクリックすると公式サイトが開きます。
               ↓






戦艦大和記念碑です。46センチ主砲弾が目をひきます。






東郷元帥の書による殉職警官・殉職消防員の慰霊碑です。



海軍パラオ会の慰霊碑です。また同会が奉納した艦名不明の駆逐艦の主錨です。



海軍飛行予備学生慰霊塔



陸軍少年飛行兵慰霊碑



愛知平和記念館です。以下はこちらの展示品です。


南方の戦地での遺骨取集や慰霊の際に収取され持ち帰られた品々が
数多く展示されています。










伊401の搭載機の搭乗員の方の飛行手袋です。








梓特攻隊で散った宮澤少佐の遺影並びに軍服です。









旧陸軍 小牧飛行場の遺構
       (陸軍飛行第五十五戦隊)
   
     (現 航空自衛隊 小牧基地
           県営 名古屋飛行場)


(取材&撮影:戦艦榛名様)




航空自衛隊”小牧基地”です。元は敗戦の一年半前の昭和19年2月に
陸軍小牧飛行場として誕生したのが始まりです。今回、お馴染みの戦艦
榛名様が小牧基地航空祭に合わせて見学取材してくれました。



航空写真からもお分かりのように自衛隊と県営名古屋空港の
共用の空港です。しかし中部国際空港が出来てから名古屋の
玄関であった小牧空港の役割は大幅に低下し、現在は名古屋
飛行場という名称に変わっています。管制は空自側が全面的
に担っています。

かつて旧軍時代は、1500mの滑走路を二本を作りました。
戦後、米軍から返還されると拡張工事を行い2740mの滑
走路を持つ飛行場になっています。陸軍小牧飛行場時代
の滑走路と基地エリアは現在の空自小牧基地側にあった
ようです。




戦艦榛名様がいかれた航空祭の見学範囲





かつては名古屋の空の玄関口として活況を呈した小牧空港も
その地位を新しくできた中部国際空港に譲り、規模を縮小して
県営名古屋飛行場になっています。



民間空港側から見た滑走路…奥が空自”小牧基地”側です。




昭和20年当時の陸軍小牧飛行場の写真


小牧飛行場から名古屋の空でB-29と死闘を演じた飛行
第五十五戦隊の三式戦”飛燕”…プラモデルの箱の挿絵
より…。下は現在も小牧基地に残る掩体壕の空撮写真
です。
敗戦時は20基以上のこうした掩体壕がありましたが
現在、小牧基地内には…この掩体壕以外に3基、合
計4基が残るのみです。以前は航空祭で旧軍遺構の
掩体壕も見学できたようですが、今回は立ち入り見学
する事が出来なかったようです。



〜飛行第五十五戦隊に関しまして!〜
      (鷲第18427)


飛行第五十五戦隊は昭和19年4月30日に大阪の
大正飛行場で編成されます。三式戦”飛燕”を装備
した戦闘機隊でしたが
、初代戦隊長の岩橋 重夫
少佐(陸士48期)は重爆からの転科で隊員の大多
数が実戦経験のない未熟な部隊でした。同年の5月
後半に小牧飛行場へ移動し中京地域の防空任務を
主に担当しました。同年11月には錬度の極端に劣る
未熟な搭乗員約20名を小牧飛行場に残留させ、戦
隊長以下38機が三式戦T型で九州〜沖縄〜台湾
を経由してフィリッピンのクラーク基地近くのアンヘレ
ス西飛行場に進出。同月23日に約半数にあたる20
機の三式戦T型を引き連れて岩橋 戦隊長はネグロ
ス島タリサイ飛行場に進出。翌日にレイテ航空総攻
撃に54戦隊の隼12機に200戦隊の四式戦13機と共
に出撃してP-38との空戦で55戦隊は、岩橋戦隊長
以下8名が戦死しました。残存戦力は飛行隊長の
矢野 武文 大尉 (陸士54期)が指揮を取り船団護
衛任務や攻撃任務を行い戦力を消耗しました。この
代理で指揮を執っていた矢野大尉も戦死し、昭和20
年1月5日に内地へ帰還しました。一方、名古屋では
国内残留組がB-29による大空襲の迎撃戦を行って
おりました。昭和20年1月3日には名古屋市街地に
焼夷弾空襲を行う米第21爆撃集団第73爆撃群第
882爆撃隊のB-29一機に55戦隊の代田 実 中尉
の操縦する三式戦T型が体当たり相手を撃墜し、
代田 中尉は落下傘で降下しましたが翌日に亡くなり
ました。撃墜されたB-29は搭乗員9名が戦死し、一
名だけ尾部銃座員だけが生存し捕虜となりましたが
戦後に解放され帰国したというエピソードも残してい
ます。






様々なアングルで撮影した基地滑走路のパノラマ撮影写真です。




以下、展示された航空祭の航空機です。







東日本大震災で被災した戦闘機として記憶にも生々しく残るF2戦闘機です。高性能で
評価も高いがお値段もえらく高いのが辛い機です。











50年以上現役で世界各国で飛ぶ戦闘機です。F15イーグルJが主力戦闘機となる前は
空自でも花形の主力戦闘機でした。ベトナム戦争で戦っていた機体ですから…改修に
改修を重ねたとは謂え…古い飛行機です。







導入から30年…現在も空自の主力戦闘機として活躍するF15Jです。






イラクにも派遣されたC-130H輸送機です。










このC130Hに搭載できる 機動衛生ユニット!




小さいながらコンパクトにまとめられた空飛ぶICUや手術室
と謂う感じです。人工呼吸器に各種ポンプにA-ilneやCVに
も輸血用にも使う加圧バックに除細動器とお一人様用ですが
空飛ぶ救急救命室です。1機につき2基のユニットを搭載でき
ますので最重傷者を二名収容でき…他に移動式担架を1基に
つき2台搭載しているので最大4名の軽症者を同時に収容で
きる事になります。6名を2基に詰め込めば立錐の余地もない
かもしれませんが…。


















C-1輸送機




















小牧基地に残る陸軍三式戦”飛燕”
 を収めた掩体壕三基と高射砲陣地
       の台座二基(平成30年3月)


        + 掩体壕 他
              (令和元年11月)


(撮影:戦艦榛名様)



戦艦榛名様による撮影で新たに追加した小牧基地の掩体壕です。
残念ながら接近しての見学等は不可なので遠景での撮影のみです。
自衛隊の基地の敷地内だからこそですが…よく残存したものです。
当時のままに近い形で三基の小型機用の掩体壕が並びその上には
高射砲砲台の台座も二基残っています。
基地内にはこれ以外に大型機用の掩体壕が1基倉庫代わりに
使われていたようですが、今も残存しているのか判りません。
下は高射砲の台座を拡大したものです。
小型機専用である事が良く判ります。掩体壕に比べて高射砲
の砲台の台座の方がえらく大きいのが対比でわかります。
中に随分前に空自で使用したT-3(上)とT-6(下)練習機が当時
さながらに格納されていました。
今も飛燕が颯爽と引き出されてタキシングしていく勇姿が
浮かんでくるようです。T-3とT-6だと少し間が抜けて見え
ます。
今見ると少しのんびりした風景ですが、敵の空襲を避け戦闘機を
まもる掩体壕もその上の高射砲の台座は敵の攻撃機を迎撃する
為の砲台の址です。…平和ボケした日本人が住むこの日本が73
年前には国道が昼夜問わず戦場と化して老若男女を問わず全て
の日本人が敵の空爆銃撃で生命を簡単に奪われていた時期があ
りました。…長く平和が続くとお花畑に住む日本人が増えて日本
人を虐殺して戦勝国となった米国が日本支配を永続的に確実に
する為に日本に強制的に与えた日本憲法特に9条ですが…おバ
カな連中は9条のお蔭で平和を長く続けられたなどとほざく輩が
大勢いて閉口してしまいます。全国に残る旧軍遺構を見ると一国
だけで世界を敵に回し最後は国内を無差別絨毯爆撃や原爆で焦
土と化す壮絶な戦いを経験した歴史を想い起こせます。…戦後に
なり朝日新聞やNHKを筆頭とするオールドメディア…所謂、
マスゴミはフェイクニュースや偏向報道で真実を歪め国民の危機
意識の高まりと悪意ある隣国への防衛意識の形成を阻止しようと
工作活動を行っています。しかしテレビや新聞を唯一の情報源と
する団塊の世代以降を中心とする国民はオールドメディアに見事
に洗脳され反日の活動に参加している事に気がつきもしない現状
には強く強く心憂うばかりです。
後日、戦艦榛名様から追加で送られた画像です。やはり
倉庫代わりに使用されている単体の掩体壕が残存してお
りました。車の車内から撮影された画像のようです。
下が拡大した画像です。



令和元年11月に戦艦榛名様がまた掩体壕をバスの車窓
から撮影してくださいました。



こちらも戦艦榛名様の撮影です。どうしても展示物を
カバーするガラスやビニールがストロボに反射するの
が惜しいところですね。








名古屋にお住まいの
 戦艦榛名様(HN:おいどん)から
   御提供いただいたオマケ画像
             (PartU)です。


(平成二十五年★夏休みスペシャル)






護衛艦(Destroyer) DD-115 ” あきづき ”




平成25年8月3日…暑い名古屋の港に日本で…いやアジア最強の駆逐艦
とも謂われる海自最新鋭の護衛艦”あきづき”が寄港し一般公開に戦艦榛
名様がまた参加され撮影をして下さりました。


最新鋭の海自の主力艦です。甲型駆逐艦と謂いますが五千トンクラスともなれば
旧帝國海軍では駆逐艦でなく軽巡洋艦に相当します。汎用護衛艦は従来の対潜
護衛艦(DDK)や対空護衛艦(DDA)統合した後継の新艦種とされています。実に
堂々たる艦ですね!
美しい艦尾の軍艦旗に艦首の日章旗…隣の愚かな南朝鮮は、劣等感に凝り固まるあまり
この美しく伝統と栄光に彩られた軍艦旗をナチス旗と同列に扱おうとしていますが…実に愚
かであり、受けた恩を仇で返すクズ民族がいずれ強いしっぺ返しを喰らう事は間違いないも
のと確信します。


            ≪主要諸元≫

排 水 量  基準 5,000トン
       満載 6,800トン

 全 長    150.5m

 全 幅    18.3m

 吃 水    5.4m

 機 関   COGA方式
        SM1Cガスタービンエンジン ×4基

機 関 出 力  16,000PS

 速 力    最大速 30ノット

 乗 員    200名

 兵 装   Mk.45 62口径5インチ単装砲  × 1基
        90式 SSM 4連装発射筒     × 4基
        Mk.41 VLS (32セル)1基    × 1基
        高性能20mm機関砲(CIWS)  × 2基
        HOS-303 3連装短魚雷発射管 × 2基

        SH-60K哨戒ヘリコプター   常用1機
                         (最大2機)



こちらが帝國海軍で防空駆逐艦として活躍した秋月です。


あきづき型のイージスシステムは、C4ISRシステムとしてFCS-3A、艦対空ミサイルとしてESSMを採用
して個艦防空機能のみならず艦隊防空までいかないが僚艦防空(LAD:Local Area Defense)まで
を可能にしています。この為、旧海軍の防空駆逐艦”秋月”の名を継ぐ三代目の艦となった事も頷けま
す。個人的には秋月よりも…軽巡洋艦の阿賀野型を名乗ってもらいたかったですね。阿賀野、能代、
酒匂、矢矧の四艦がありますが…軽巡洋艦としては夕張型以来20年の時を経て新造された軽巡洋艦
です。水雷戦隊旗艦として指揮・索敵・通信能力が完備され雷装に航空機2機を搭載し航続距離も長く
性能だけでなく重巡のようなフォルムもまた高い人気の一因となりました。私的には…こちらを使用して
欲しかったですね…。




面白い画像です。…パノラマ撮影だと主砲も象さん鼻のように曲がっています。








日本三大都市のひとつ名古屋港と名古屋市をパノラマ画像で!
名古屋港のランドマーク・名古屋港ポートタワーからの眺望です。



2日後の8月5日の出港まで収めてあります。

下は出港時に戦艦榛名様が撮影された動画です。












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(平成二十五年★夏休みスペシャル)







陸軍歩兵第三十三聯隊・
 騎兵第三聯隊・野砲第三聯隊の
   本部地 兼 第三師団司令部跡地
   (現 陸上自衛隊 守山駐屯地)

(撮影:戦艦榛名様)




今年の8月に行われた名古屋市の守山駐屯地祭に見学に行
かれたお馴染みの戦艦榛名様が撮影して下さった写真です。
上の建物は明治30年建造の旧軍時代の建物で第三師団第五
旅団歩兵第三十三聯隊で使われた兵舎を今も駐屯地史料館と
して使用しています。かつて皇軍(帝國陸海軍)を象徴した菊の
御門が輝いた場所には守山駐屯地のシンボルマークの名古
屋城の金の鯱のマークがかたどられた部隊章が飾られており
ます。下は…歩兵第三十三聯隊、その後の騎兵第三聯隊や
野砲兵第三聯隊を隷下に置いた歩兵第三師団もまたこの守山
に師団司令部を置いていましたが、その時代のものです。



地域と共にある今の自衛隊の年に一度の地域市民との触れ合いの場である
守山駐屯地納涼祭です。以下も戦艦榛名様の撮影による画像です。



            ↑
上のバナーをクリックすると守山駐屯地の
公式サイトがひらきます。



今も自衛隊の戦車の中で一番大好きなのがこの74式戦車です。
部隊マークとなっている金の鯱がカッコいいです!







今となれば懐かしい61式…子供の頃、真駒内駐屯地や千歳の駐屯地で
これにたくさんの子供が乗って走行した楽しい想い出を忘れられません。
当時は展示武器もグリースガンや米軍貸与というかライセンス生産だった
のか判りませんが純国産の火器が少なかった時代でした。










メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。