(旧軍の遺構資料館など)
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(中京・東海エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る) |
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現在は太刀洗いに移転した零戦32型です。以前、名古屋空港に 展示してありました時に戦艦榛名様が撮影したものです。 |
陸軍歩兵第三十三聯隊・
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≪ 戦艦榛名 様のリベンジ編 ≫ |
戦艦榛名様が前回、駐屯地祭では見学できなかった資料館を この桜の満開の時期、駐屯地を開放して行われる桜フェスティ バルを利用してリベンジ取材を果たしていただきました。 |
桜フェスティバルの名にふさわしい見事で美しい桜です! |
明治陸軍時代から使われた聯隊本部庁舎です。現在は資料館 として使われています。 |
明治30年に建築されて以降使われています。現在は資料館として の他に外来者の宿泊施設にもなっているようです。 |
以下、資料館内部の展示品の紹介です。 |
旧軍の伝統を継いだ自衛隊のまさしく戦後史が現在までを紹介 しています。新旧の防人の資料館です。 |
駐屯地内には旧軍時代に度重なる戦役で多くの犠牲者を 出した部隊の慰霊碑や戦死者の碑…記念碑があります。 そして戦後の自衛隊の時代になり半世紀以上が経過して 多くの隊員が職務中に殉職されております。これ等を含め て新旧の慰霊碑や記念碑を多数見る事ができます。 |
海軍航空隊 明治基地の遺構
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(取材&撮影:戦艦榛名様) |
今回もまた御馴染の戦艦榛名様が取材及び撮影を行って下さいました。 大東亜戦争の後期から敗戦まで名古屋・中京地区の防空を担いB-29 や米機動部隊艦載機との迎撃戦に、南九州に進出し米艦載機との死闘。 そして特攻隊としての出撃。…多くの若者が死地へ赴きました。 海軍航空隊”明治基地”の跡地にある明祥中学校です。今の中学校の 正門の位置は海軍時代の明治基地の隊門位置と同じです。かつて明治 基地の兵舎や士官宿舎等があったのも、この明祥中学校です。 |
戦後の昭和22年に米軍が撮影した空撮写真です。かなり 滑走路が薄れていますがまだ滑走路が判ります。またまだ 兵舎や格納庫が残っています。この部分が後に明祥中学 校になります。 |
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歴史は非常に浅いけれども…かなり大きな基地です。滑走路も全部で6本あり メインの主滑走路が1400m×50m、その他の副滑走路は1200m×50mです。 今は衛星写真で見ても畑か工場しか見ることが出来ません。 |
流石は軍需工場が集中した中京地区を守る為に作られた飛行場です。 近くには西に行くと遠くない距離に中島半田飛行場があり、北東に行く と岡崎飛行場があります。岡崎基地は予科練の練習航空隊があり、 そこ卒業した搭乗員が実戦部隊基地である明治基地で実用機による錬 成訓練を行いました。 |
昭和19年9月15日に各機種混成の錬成部隊として開隊した海軍 第二一〇航空隊(初代司令:田中 義雄 海軍大佐)は甲戦(零戦) 二隊(48機)、乙戦(紫電)二隊(48機)、丙戦(月光)二分の一隊 (12機)と艦上戦闘機に局地戦闘機、夜間戦闘機だけでも100機 以上を定数とする大規模な部隊です。この他に彗星に天山、錬成 用の九九艦爆に九七式艦攻も装備し…本来は三菱、中島をはじめ 多くの航空産業が集中し新機体の供給が容易な明治基地で搭乗 員の錬成を行い慣熟訓練後に第一線の前線部隊に搭乗員を送る 予定でしたが…既に日本本土そのものが空襲を受ける状態で否 応なしに実戦部隊として常に慣熟する間もなく消耗戦を強いられま した。部隊は昭和20年3月に神風特攻隊を出しながら南九州の国 分・出水・串良基地に展開し、菊水三号作戦を戦い4月下旬に原隊 に復帰。5月5日以降は零戦隊に機種を統一し、月光隊と彗星隊は 解散し各隊へ、紫電隊は筑波空へ転出します。この編制変更で 210空は332空と共に第三航空艦隊の第五十三航空戦隊(司令部 :明治基地)に転籍し本土決戦への配備となり戦力の温存が図ら れ昭和20年6月後半以降は空戦での戦闘出撃記録は目にしませ ん。尚、敗戦時に飛行不能の機体を含めて65機が残存していまし た。敗戦の後、最後の特攻機が大分から飛び立ちました。五航艦 長官の宇垣 纏 海軍中将が彗星にての所謂、私兵特攻です。この 中将と共に特攻に志願した11機22名の若者達が沖縄の空に散り ましたが、その中に210空の艦爆隊の搭乗員として明治基地で錬 成した伊藤 幸彦 海軍中尉と北見 武雄 海軍中尉が含まれており ました。 |
ここは大きな明治基地の南地区と謂われた所です。この南地区以外にも 北地区(滑走路の北側部分)がありここにも兵舎や士官宿舎などがあり ました。 |
八剣神社と道路を挟んだ場所に殉国戦士の碑があります。 ここは旧飛行場の飛行隊指揮所があった場所です。 |
殉国戦士の碑です。この辺りに飛行隊指揮所がありました。 |
明治航空基地之碑 |
今も残る数少ない遺構である燃料油庫です上が前の部分で 下が後ろの部分です。 |
内部は70年以上の歳月を感じさせないしっかりとした 造りです。開口部から奥までは約10m前後でしょうか。 |
燃料油庫近くで空襲で破壊された施設の残骸です。外壁だった 煉瓦部分が一部だけ残っています。何の施設だったのかは不明 です。 |
空襲で破壊された弾薬庫の跡です。 |
こちらは上半分が飛ばされたが下半分がキレイに 残存した弾薬庫です。おかげで再利用されて今に 至るも現役で活躍しています。 |
琵琶湖で引き揚げられて南紀白浜 嵐山美術館”零パーク” に展示され、現在は呉の大和ミュージアムに転売されて展示 されている零戦62型です。尾翼の210-118は敗戦間近の昭和 20年8月初頭に明治基地を飛び立った210空附の吾妻 常雄 海軍中尉(海兵73期)の搭乗した零戦と謂われています。 |
陸軍明野飛行場・陸軍明野飛行学校の遺構
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(取材&撮影:戦艦榛名様) |
陸上自衛隊の航空学校がある明野駐屯地です。旧帝国陸軍の 明野飛行場を戦後に使用している伝統ある基地と謂えます! 日本初の飛行場で陸軍航空隊発祥の地と謂えば所沢ですが… この明野は下志津と並び陸軍航空隊のメッカと謂えます。この地 より数多くの優秀なパイロットを輩出し、また様々な空戦術が生 み出され、陸軍戦闘機隊の総本山と呼ばれたものでした。昭和 19年6月から明野教導飛行師団に改編されとなり、B-29などへ の迎撃任務にも活躍。また敗戦までに特攻でも多くの将兵が散 華しております。 |
今回も戦艦榛名様が明野駐屯地創立62年、航空学校創立 65周年のイベントに来訪され撮影取材をされてくれました。 |
大正10年4月に所沢の陸軍航空学校の明野分校として開設。 同13年5月に明野陸軍飛行学校として独立しました。この明野 は主に戦闘機の空中射撃、空中戦闘に関する教育や研究等を 行っていました。その後、各地に分校や分教所を開設。昭和19 年6月に明野陸軍飛行学校は明野教導飛行師団に改編されま す。そして敗戦前の昭和20年7月になると明野教導飛行師団は 教導飛行師団第1教導飛行隊と飛行第111戦隊に改編分離さ れましたが…すぐに敗戦を迎えます。その後、10年のブランクを おいて昭和30年8月に浜松より陸自航空学校が移転し明野駐屯 地として基地が再開されました。以来、再び…飛行機が飛ぶよう になりましたが…現在はヘリが主体の航空部隊の基地に変貌を 遂げています。 |
上が現代の航空写真です。下が戦前の航空写真です。 |
明野駐屯地開設62周年と航空学校創立65周年記念行事で一般解放された 時に戦艦榛名様が撮影してくださりました。滑走路の広さがよく判りますね。 現在、この駐屯地では、航空学校、第10飛行隊、第5対戦車ヘリコプター隊、 教育支援飛行隊、飛行実験隊が存在します。 |
左上はAH-64D アパッチ・ロングボウ。右上は観測へ入りのOH−6D |
左上は管制塔が見えています。右上の格納庫前のヘリと下の画像 は、いずれも世界初の攻撃ヘリであるAH-1 コブラです。 |
矢印の下のバナーをクリックすると駐屯地の公式 サイトが開き見る事ができます。 ↓ |
旧陸軍の将校集会所だった大正時代の建築物です。現在は航空記念館 として顕彰室として陸軍飛行学校の展示室と陸軍装備品の展示室があり 一般公開されています。 |
戦時中の昭和17年1月に建立された忠魂塔です。戦後は陸自の航空学校 殉職者も合祀されております。 |
明野ので育った名パイロットと言えば北海道の産んだスーパースター 我郷戸の英雄である軍神・加藤 建夫 陸軍少将です。こちらでも加藤 コーナーではありませんが、展示されております。 |
↑ 軍神・加藤少将に興味をお持ちの方は、上の矢印の先のバナー をクリックすると私の集めた遺品の一部を公開したページが開き ます。 |
この上の飛行第八十一戦隊の百式司偵の写真も当サイトの 収蔵品にあります。以下、この写真は大東亜戦争中に第五飛 行師団の参謀を務められた緒方 奨 元陸軍少佐の所持品さ れた品です。この方は戦後、公職追放が終わると航空自衛隊 (前身の警察予備隊)に入り最終的に空将補で空自の美保基 地司令 兼 第三術科学校長を勤めあげられた方の遺品にあ ったものです。 |
緒方 奨 空将補(元陸軍少佐)の所持品に興味の ある方は、以下の矢印の先のバナーをクリックする と収蔵したページが開きます。 ↓ |
陸軍の明野飛行場は長らく教育修練の基地として存在し多くの 名パイロットを輩出しました。しかし大東亜戦争の戦局が悪化す ると実戦部隊へとその姿を変えていきます。そして特攻隊を送り 出し…本土防空の死闘に参加する基地に変貌し ました。 |
黎明期の写真なども展示されています。右下は徳川好敏中将の 愛機だった九一式戦闘機の操縦桿です。徳川閣下はこの明野の 第八代校長でもあり、敗戦時の陸軍航空士官学校の校長でもあ りました。 |
明治43年12月19日、に徳川中将は日野熊三元中佐と代々木練兵場 で日本国内の初飛行を成功させました。その後は日本人の記憶に アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行…の新聞の見出 しが刻まれました。 |
以下は軍装品の展示コーナーです。特に珍しい展示品はありません。 |
工事中です〜(* ̄□ ̄*; |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |