旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_24














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








元第五飛行師団(高9683) 参謀で
 戦後は空自で美保基地司令 兼 第三
    術科学校長を最後にリタイアされた
     緒方 奨 空将補 の思い出深き遺品




大東亜戦争中に第五飛行師団の参謀を務められた緒方 奨
元陸軍少佐の所持品された品です。この方は戦後、公職追
放が終わると航空自衛隊(前身の警察予備隊)に入り最終的
に空将補(旧軍では少将)でそのキャリアを終えています。






 空自 美保基地は西日本唯一の輸送機部隊で
 ある輸送航空団が所属する基地。現在は輸送
 航空団は第3輸送航空隊に変更されています。

  


  民間共用の所謂、米子空港(美保基地)です。


 



下の矢印先のバナーをクリックすると緒方元空将補
が司令をされていた美保基地のサイトが開きます。
               ↓


第五飛行師団司令部の戦友会でしょうか…戦後に作られた高司会
と謂う会の会長を 緒方 空将補が務められていたようです。師団司
令部の将校以上の記念撮影です。敗戦の約1年2カ月前の撮影で
場所はラグーンです。この約11カ月後の昭和20年5月にはビルマ
よりカンボジアに転進(撤退)します。そして師団司令部はブノンペン
で敗戦を迎えます。
元の写真パネルが粗いものなので拡大しても限界がありました。
右上が当時の 緒方 少佐(師団参謀)です。
上の画像の左端の大柄な軍人が師団長の服部 武士 陸軍中将
(岡山県出身、陸士27期、陸大38期)と思われます。その横の
小柄な眼鏡の方が兵器部長の岡本 熊吉 陸軍大佐と想像しま
す。
上の画像の右端が参謀長の桑塚 城 陸軍大佐(陸士33期、陸大
42期)と思われます。その隣が経理部長の遠藤 多喜 陸軍主計
大佐と考えます。左端の参謀は名前は判りませんが…席順から
考えると主任参謀と思われ緒方 奨 陸軍少佐より上席の中佐また
は少佐(先任)と考えます。
右上の左端が高級副官の斎藤 照之助 陸軍中佐で右横の方が
軍医部長の西郡 彦嗣 陸軍軍医大佐と推察します。西郡 彦嗣
陸軍軍医大佐は少佐・中佐時代に石井 軍医中将の下で731
部隊の幹部士官でした。右端の参謀は串岡 周甫 陸軍少佐(陸
士49期、陸大57期)
緒方 少佐の左後方で立って写る参謀は 小柳 武次郎 陸軍少佐
陸士45期、陸大58期)で末席の師団参謀と思います。



緒方 空将補が旧軍での従軍していた時に所持していた各地
のお守りです。御両親や奥様…など身内の方が心配して送っ
たり持たせたものと思われます。緒方 空将補は陸大の卒業と
同時に日米戦が開戦して敗戦まで約4年…主に南方の戦場に
ありましたから、お身内の方は尚更…心配されたものと想像し
ます。
敗戦まで緒方 空将補は、陸士・陸大出のバリバリの帝國陸軍々人
として軍務についておりました。航空科を兵科として陸大卒後は第五
飛行集団で緒戦をフィリッピンで戦い、昭和17年4月にビルマに転じ
て第五飛行師団に改称し、以降はビルマ作戦を戦います。大戦後半
は戦力を消耗し…昭和20年5月にビルマから転身し師団司令部は
プノンペンへ移動。師団主力もカンボジアへ撤退するも一部の部隊が
ビルマに取り残され…敗戦を迎えます。師団司令部の幕僚で参謀長
の桑塚 城 陸軍大佐の次席となる主任参謀であった緒方 陸軍少佐
は師団長である服部 武士 陸軍中将と共にプノンペンで敗戦を迎え
…後に祖国へ復員を果たしました。





第五飛行師団参謀として敗戦まで佩用されていた参謀飾緒
です。かなり使い込まれており…痛みやホツレなど見られま
すが…欠品等はありません。
海軍と違い陸軍の参謀は誰にでもなれるものではありません。
陸軍の場合は参謀になる為には参謀適任証が必要です。これ
は陸軍大学を卒業しないともらえないので第一線の師団参謀た
る当時の緒方 少佐はエリートと謂えます。彼の時代には公式に
佩用する人はおりませんでしたが…少し前で謂えば天保銭組で
す。陸士出の無天の将校は数多おりますが陸軍中央を担う天保
銭組は僅かな存在です。陸軍の参謀飾緒とは…そうした意味で
海軍の参謀飾緒とは重みが違います。


緒方 景俊 空将補の旧軍時代に使用された
佐官正剣帯です。戦後に使用された訳では
無いでしょうが…かなり使い込まれています。




緒方 景俊 空将補の旧軍時代に使用された小型の
双眼鏡です。deraisme fab paris の文字が読み取
れます。フランス製の双眼鏡で1930年代から40年
代にかけて使われた品のようです。今もアンティー
ク品やヴィンテージ物としてよく出てくる品です。




同じメーカーの双眼鏡各種です。左上で 緒方 中尉(当時)が
胸に下げている双眼鏡ケースも非常に小さいものなので…同
じものと思われます。
海軍など艦船にあって遠くを覗くには大きな双眼鏡はあり
でしょうが…地ベタを這う陸軍では将校だけでも私物の拳
銃に予備の弾倉(二本程度)に軍刀、図嚢に水筒など野戦
装備ともなると大変な装具になります。例えば下士官に官
給品として与えた小型タイプの九三式双眼鏡でも大きいと
感じる筈です。合理的に考えると更に小さいもので敵状や
周囲を確認出来うるだけの双眼鏡と考えると…この小ささ
はベストなのかもしれません。





以下は 緒方 空将補が所持されていた古い戦前の写真です。
緒方 空将補の父上と母上のお写真です。少なくとも上の
写真から父上が陸軍大尉以上の士官であった事が判りま
す。緒方 空将補が陸軍軍人の道に進まれたのも親子鷹で
お父上の影響が強いものと推察されます。


明治42年1月1日撮影とあります。緒方 空将補の父上です。


昭和10年、少尉任官したばかりの初々しい美男子です。昭五式
軍衣袴姿に襟高のハイカラーの立襟にチェッコ式軍帽…そして
短袴に長靴とグルメットと典型的なお洒落な青年将校姿の緒方
少尉です。…やはり自衛隊の制服より…見栄えがするしカッコイ
イものですね。因みに右上の方は、当時の聯隊長である今泉
吉貞 陸軍大佐(後に少将)です。
昭和13年、陸軍中尉時代の緒方 空将補です。胸に吊るした双眼鏡は
小型のもののようですから…今、遺されている仏製双眼鏡と同じかもし
れません。この一年後に大尉に昇進して陸大に入学します。
昭和16年、お子さんを抱いております。結婚されて子供がお生れに
なられたようです。所謂、九八式の軍衣で大尉に昇進されておりま
す。この年に陸大(55期)を卒業されます。
昭和9年の裏書があります。緒方 空将補の姿は写真にはありま
せんが…時期的には見習士官として原隊に戻っていた時期でし
ょうか…。


昭和8年の裏書があります。学校教練や青年学校等の非軍隊
であり…軍人でなく全員が民間人のようです。緒方 空将補の
兄弟や親戚の関係の写真かもしれません。
昭和8年と裏書があります。明らかに日本でありません。恐らく支那や仏印
など外国での写真と思われます。ご家族に関係する写真でしょうか…。


昭和8年の裏書があり…左上は工場なのかよく判りませんが
日本では無いようです。右上は女学生が見学している真中に
餅つきでもしているのかと思いましたが…よく見ると海軍の水
兵姿です。…一体何を作っているものでしょうか?…不明です。
下の写真は裏に昭和13年一月28日、記念写真とあります。
…これも不明写真の一つです…。



下の文面は、戦後に戦友会である高司会の会長を務めていた
緒方 空将補が昭和50年代に出版された「三〇三〇部隊の集
い」三〇会 編の序文に元師団長である服部 武士 元陸軍中将
と共に寄稿したものです。
以下の写真は第五飛行師団隷下の主力偵察機部隊である
飛行第八十一戦隊の第一中隊所属の百式司偵の勇姿です。
戦友会である飛行第八十一戦隊と飛行第八戦隊第一中隊
合同の”つばさ会”の合同慰霊祭で昭和44年に配布された記
念品です。
飛行第八十一戦隊の戦友会で配布された同隊所属
の百式司令部偵察機が飛翔する雄姿です。
飛行第八十一戦隊は対米戦の開始される約3か月前の
昭和16年9月、支那(彰徳)で独立飛行第十六中隊を核
として編成され、開戦後は主にビルマ方面を中心に作戦
に従事し一部部隊はニューギニア戦にも投入されました。
開戦前から日本陸軍初の戦略偵察機とし戦闘機を優に
しのぐ高速を利して大戦期間中、全戦域で活躍した名機
です。実にスマートで美しい機体です。大戦後期には武
装して迎撃機としても使用されました。







マレーの虎の異名を持つ国民的な英雄で
  マニラで悲運の刑死を遂げた悲運の名将
      山下 奉文 陸軍大将の肉筆紙本 扁額




山下大将の直筆の扁額です。幅が165cmある
立派なものです。




今も尚、 その大きな存在感で海軍の山本 五十六 GF長官
と並び陸軍の一番人気の山下大将です。…指揮官としての
直接の実績で謂っても陸軍の山下大将の方が上のように思
います。山本長官の死に方も最高司令官としては余りにも無
防備で戦い半ばで死ぬ事は無責任だと感じます。

          <山下 奉文 陸軍大将>

                (略 歴)

  従三位勲一等功三級

  高知県出身、明治18年11月8日生
 
  海南中学校から広島陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校
  に進む。

明治38年11月25日 - 陸軍士官学校卒業(18期)
明治39年 6月26日 - 任陸軍少尉(歩兵第十一連隊附)
明治41年12月 - 任陸軍中尉
大正 5年 5月 - 任陸軍大尉
大正 5年11月25日 - 陸軍大学校卒業(28期優等)
大正 6年 8月 - 参謀本部附勤務
大正 7年 2月 - 参謀本部部員(ドイツ班)
大正 8年 4月 - 駐スイス大使館付武官補佐官
大正10年 7月 - ドイツ駐在
大正11年 2月 - 任陸軍少佐
大正11年 7月22日 - 陸軍技術本部附兼軍務局課員
                      (編制班長)
大正14年 8月 - 任陸軍中佐
大正15年 3月16日 - 陸軍大学校教官(兼任)
昭和 2年 2月22日 - オーストリア大使館
                    兼ハンガリー公使館附武官
昭和 4年 8月 1日 - 任陸軍大佐,陸軍兵器本廠附
             (軍事調査部軍政査会幹事)
昭和 5年 8月 1日 - 歩兵第三連隊長
昭和 7年 4月11日 - 陸軍省軍事課長
昭和 9年 8月 1日 - 任陸軍少将
昭和10年 3月15日 - 陸軍省軍事調査部長
昭和11年 3月10日 - 歩兵第四十旅団長
昭和12年 8月26日 - 支那駐屯混成旅団長
昭和12年11月 1日 - 任陸軍中将
昭和13年 7月15日 - 北支那方面軍参謀長
昭和14年 9月23日 - 第四師団長
昭和15年 7月22日 - 航空総監兼航空本部長
昭和15年12月10日 - ドイツ派遣航空視察団長
昭和16年 6月 9日 - 軍事参議官
昭和16年 7月17日 - 関東防衛軍司令官
昭和16年11月 6日 - 第二十五軍司令官
昭和17年 7月 1日 - 第一方面軍司令官
昭和18年 2月10日 - 任陸軍大将に昇進
昭和19年 9月26日 - 第十四方面軍司令官
昭和20年12月   - マニラ軍事裁判で死刑判決
昭和21年 2月23日 - 刑死(絞首刑)享年六十二歳


               <辞世>


 待てしばし 勲のこして ゆきし友
                  あとなしたいて 我もゆきなむ


    (妻に宛てた辞世)

 満ちて欠け 晴れと曇りに かわれども
                    とわに冴え澄む大空の月




紙本の大きさは、33cm x 128cm











初めての自作、陸軍大元帥三式襟章




生まれて初めて加工して作った陸軍大元帥の三式襟章です。




大元帥襟章のレプリカを作る動機となったのは上と下のレプリカ
です。ヤフオクで何と下が6万2千円で上の陸軍大元帥の三式
襟階級章が9万1千円です。…上の襟章は手に触れて確認しな
いと何とも言えませんが、実物将官襟階級章を土台にしてたとし
ても、あくまで仮定なので異常な高さで驚きました。同じようなレ
プリカは陸海軍の襟階級章で5000〜6000円、肩章でも8000〜
9000円前後で売られていますので…今まで考えた事もありませ
んでしたが…自作するのを試みてみました。まあ余りうまく出来
ませんでしたが、少しは雰囲気が出ていると思います



ベースに使用した中田商店製のレプリカ





初めての自作にしては中々、雰囲気が出ていると思います。









関西の某ショップの大元帥階級章各種


陸軍大元帥の四五式肩章に九八式襟章、そして三式襟章の
三点です。肩章が8,500円位で襟章が7,000円弱の値段でした。
大元帥 三式襟章です!




陸軍大元帥 九八式襟章です。




陸軍大元帥 四五式肩章です。












敗戦時、和歌山地区憲兵隊長であった
 尾崎 勝 陸軍憲兵中佐の憲兵少佐時代
      の紀元二千六百年祝典記念章の証




尾崎 勝 憲兵中佐(陸士39期)が和歌山地区憲兵
隊の隊長になられたのは昭和20年3月17日です。
その5か月後には敗戦を迎えています。和歌山地
区憲兵隊は中部憲兵隊(司令官 長友 次男 陸軍
憲兵少将)の隷下にあり、 管轄下の憲兵分隊とし
て御坊分隊と串本分隊を配下に持ちます。尚、上部
組織の中部憲兵隊は大津・福井・奈良・和歌山・
神戸・京都・舞鶴の各地区憲兵隊を管轄し、中部憲
兵隊が直轄分隊として高槻・梅田・大手前・築港・
布施・西成・堺・和泉の各憲兵分隊と機動隊を持ち
ます。








旧制 神戸商大 初代学長の
        田崎 慎治 氏の瑞三の勲記




旧制 神戸商業大学(官立)の初代学長
田崎 慎治 氏(正三位勲一等)の瑞三
の勲記です。











【陸軍 四散シリーズ】

  河野 悦二郎 陸軍中将の将校行李




この河野 悦二郎 陸軍中将も海軍の小田中 機関大佐のように
四散シリーズで全国あちらこちらに一括りだった品がバラバラに
なっています。こちらも不思議な縁で…他の品と同様に少しずつ
少しずつ引き寄せあうように集まってきますから不思議なもので
す。
随分前になりますが 河野 中将の資料を関西の方より色々と
何度かに手に入れましたが…面倒なので一括で購入させてく
れるように希望して…一切合切で購入した時に『これで一切、
後はありません』と謂われたものでしたが…半年もしないうち
に同中将の品をオークションに出品しており…呆れながらも面
白いので落札しましたが…全く悪びれる様子もありませんでし
た(苦笑)。…流石は関西人・関西商人と思った事を想い出し
ました。…因みにこの方は高名な仏文学者の御子息で高名な
コレクターでもあるのですが…(^^;
概ね外側のカバーもきれいな将校行李ですが
蝶番部に一部破損があります。


下の矢印の先のバナーをクリックすると 河野 中将
旧蔵の資料多数を収載した当サイトのページが開
きます。
               ↓








陸軍が戦場で使用した
 野戦気管切開器(昔の気切セット)




現在でも長期呼吸管理の必要な患者さんや咽頭部や喉頭部の
主に癌などで手術でも気切はよく行われます。まあ昔は気管内
挿管チューブが無かったので非常に多くが気道確保の為に気切
を行ったと考えられます。特に外傷が殆どを占める戦場での戦傷
では陸軍・海軍を問わず相当に活躍したものと思われます。
70年以上前の品ですが余り古さを感じさせません。
確実に陸海軍共通のセットであります。
通常、オペ室などで全麻下で行うのは外科的な気切
でメスを使い行いますが…病棟などではディスポの
使い捨てでガイドワイヤーか穿刺具とカニューレが一
体となった簡単に素早く挿入できるキットがよく使われ
ています。急速な高齢化が深まる日本では今後も長
期の呼吸管理が必要な患者さんが急増する事が予想
されますので気切は今後も本邦では行わる頻度は高
いものと思われます。
当時は唯一の気道確保手段ですから軍医や衛生兵
の必須アイテムであったでしょうが…金属カニューレ
と気切具です。…とても痛そうです…。








【戦前資料】皇宮警察官(昭和三年制式)の略帽前章








当時の警察官の略帽は海軍と同じような濃紺です。
消防や警防団などもそうですが…。海軍一種戦闘帽
に合わせてみました。思ったより大きく迫力がありま
す。警防団や一般警察の略帽章に比べると格段に
豪華です。陸軍の制帽や略帽の星章と近衛兵のもの
と比べた時の違いよりも立派に見えます。





因みに昭和三年制定以前の皇宮警察官の略帽前章
が以下となります。明治十九年制式のものです。下の
ものは所持品でなくヤフオクで売られていた画像のも
のです。








【戦時資料】戦時学童疎開
  都市疎開ニ伴う地方転出証明書




都市疎開ニ伴う地方転出証明書です。国民学校生徒の疎開に伴う証明書となります。
戦時下の銃後、空襲関連の史料としては罹災証明がよく目につきますがこの疎開に伴
う転出証明の存在は現存数が少なく希少な関係から認識される事も少ないようです。
学童疎開の記憶も…その悲喜交々の歴史も今や記憶を残す人も減り…風化しつつあり
ます。貴重な資料と謂えます。

昭和19年8月転出で9月1日に中野駅の印が押されています。中央線の中野駅から
富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)の禾生駅までの輸送とあります。中村直也(
中村正夫の次男)で5名の人員疎開の1名とあります。中村直也氏は戦後を逞しく
生きられたのでしょうか?…また中野区に残った家族は地獄の東京大空襲を生き延
びて彼と再会を果たすことが出来たのでしょうか?…1枚の証明書を見ながらそう思
わずにはいられません。











引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)








【戦前資料】南滿洲鐵道株式會社
         の珍しい円形の大表札




珍しい円形の大表札です。直系企業15社、傍系企業75
社を要する巨大なコンツェルンであった滿鐵の大表札で
す。以下のような普通の大表札は昔から所持しておりま
したが…円形の珍しさに惹かれて入手しました。裏面の
取付を見ると四角い木枠を取り付けて壁等につけたの
でしょう。四角い木枠縦に沿って二本汚れのない分が壁
に作った取付の木部の跡と思われます。

直径約80cmあります。



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ページが開きます!    
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オマケ…陸軍士官学校の善行證書




陸軍士官学校の珍しい善行證書です。熊本県士族と
あって陸軍歩兵曹長勲七等功七級 小森 虎熊 この
名前も凄いですが…現役下士官から受験して陸士に
入られた方のようです。








逓信省 顕功章 正章 です。色字鮮やかで満州国の物かと勘違いしそうです。






船員勤労章と比較で並べて撮影してみました。











〜 脱 線 〜




平成23年10月に63歳の若さでこの世を去った
不世出の天才ボーカリスト…柳ジョージです。大好き
でアルバムは全部買って若い頃はよく聞いていました。
和製クラプトンと称され…人気を博した柳ジョージ…。
このページのBGMは、柳ジョージ&レイニーウッドの
セカンドアルバム”WEEPING IN THE RAIN”からアル
バムタイトル曲の”雨に泣いている…”です。シングル
カットされ大ヒットしたのが昭和53年です。実に懐かしい
です。翌年には資生堂のCMソングになった”微笑の法
則 SMILE ON ME”もオリコンアルバムチャートで初登
場1位の大ヒットを記録しました。

















































〜 脱 線 2 〜




平成26年7月、我愛機 CB1100FD…まだまだ元気です!












〜 脱 線 3 〜




WIT'S 1/12 CB900F
   ヨーロッパ仕様 ヒーリオスレッド



以前、ミニチャンプスやPMA製のCB900F ボルドール
1978 を購入してサイトでも掲載しましたが…似たような
ものでもツイツイ毎回、買ってしまいます。このCB-F系
の流麗な美しさに若い時に一発で魅せられたものです。
それから37年の歳月が流れましたが…今見ても色褪せ
ることなく…その造形美は…多くのHONDAが世に送り
出した単車の中でもTOPクラスだと思います。他には
SOHCながら流麗なカフェレーサーのCB400F(ヨンフォ
ア)位でしょうか…しかし4in1は…中型サイズの単車な
のでオーバー750のビックバイクには双璧をなすバイク
は皆無だと思います。他社ではライバルのGSX1100Sカ
タナとZ1000Rが真っ先に脳裏に浮かびます。
この時代は今の様に金さえ出せば教習所で大型二輪の免許が
取れるという時代ではありませんでした。ビックバイクに憧れる
青少年は一発受けの限定解除に挑み…当時の私も御多分に
洩れずで一生懸命挑んで限定解除ライダーになりました。当時
は大型限定解除ライダーの比率が全ライダーの1%と非常に少
なく警察の運転免許試験場が如何に限定解除を難関にして増
やさないようにしたか…当時の高校生の三ない運動など社会
的な背景もありましたが…。
今に至るまでホンダ、カワサキ、スズキと多くのバイクに乗り継ぎましたが
一番長く手放さないでいるのがCB1100Fです。若い時に一目惚れした流
麗なフォルムのCB-Fは、その後のカタナやローソンレプリカを見てもこれ
程に一目惚れをする事は無く…CBX1000など手放せてもイレブンだけは
手放さずにいます。今や人生の半分以上を一緒に過ごしている単車となっ
ております。












〜 脱 線 4 〜




若かりし頃の昔に夢中になって乗った四輪車や単車は今も尚
脳裏に懐かしい思い出と共に鮮明に記憶されています。そんな
昔懐かしい愛車達の模型を集めてみました。その中から毎回
何台かずつ紹介していきます。 
懐かしのTE71のレビンです。本当はこの同じ型のトレノに乗っていましたが
何故かTE71はスプリンター・トレノは模型化されてなく…出てくるのはこの
カローラ・レビンだけです。仕方ないのでレビンの完成プラモデルの白を購入
しました。

カローラ・レビンと同様に昭和47年3月に登場したTE27を祖とする兄弟車の小型スポーツ
クーペです。トレノとレビンの違いは名前以外では…フロント周りのFaceの僅かな違いで
しかありません。真横から見たら見分けがつかない位です。…このTE71の後継車が爆発
的な人気を博した4A-GE搭載のAE86もまた同じでした。
思い入れの深き71トレノです。初めてのツインカムエンジンです。バイクのDOHC
は既に当然の感がありますが四輪の技術の世界は二輪のそれに少し遅れている
感があります。…DOHC2バルブ直4気筒の8バルブ1600ccのエンジンですが…そ
れでも感激したものです(笑)。若い頃、お金が無いのでバイトしながらコツコツと
いじった愛車です。


TRDのスポーツシートに4点。足回りにKYBを入れて
タコ足に2T-Gをボアアップして3Tクランク流用の2000
cc仕様に、この後…40φストレートマフラーを入れて
頑張りましたが…最期は事故ってオシャカになりました。



TE71 COROLLA LEVIN…私が乗っていたスプリンタートレノの前期型と
同様に昭和54年3月にフルモデルチェンジが行われ登場。ボディは3ドア
ハッチバックのみで…これが最後の2T-G型エンジン搭載モデルとなりま
した。


懐かしき愛車の模型と写真は…遠い遠い30年近く前に
過ぎ去った時代の想い出を掘り起こします。



1/43 ハイストーリーのレジン製 トヨタ カローラクーペ レビン(1979)
です。出来れば同じスプリンター トレノを製品化してもらいたいものです。










業務用で買ったデリカのスペースギアーです。荷物を車の上に載せて
人をドライバーを含めて8人載せられるので重宝した車です。パジェロ
譲りのフレームボディにスーパーセレクト4WD…6G72型のV6の3.0L
はそこそこの走りをしてくれました。
主に首都圏と伊豆半島の海を中心にひたすら走り続けて
くれました。気が向くと三浦半島に千葉方面と頑張ってく
れたものです。




CB400T ホークUです。色を昔乗っていた黒に塗るつもりで
手に入れたものです。まだ色を塗っていません。





カワサキ、スズキ、ヤマハなどのライバル
メーカーが次々と直列四気筒マルチDOH
C搭載車を投入する中、直列二気筒SOH
C6バルブでホークU、ホークV、スーパ
ーVとマイナーチェンジで誤魔化し続けて
最期にCBX400Fを投入し、ホンダは直
四マルチ戦争に勝利しました。四気筒マル
チ戦争の始まる前に乗っていた中古のCB
400TホークUです。
懐かしいバイクです。10代の頃ですので…もう
かれこれ35年以上前になるでしょうか…この
ホークUは当時、底値で10万円以下で売られ
ていた中古車です。それが一時期、旧車ブー
ムでヨンフォア並みの高値が付いたのを見た時
は腰を抜かして驚きました。今もって当時より高
額な意味が不明です。当時は屁みたいな扱い
でしたから…(笑)。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!