旧軍関連・戦前資料収載品 
  (軍装品...etc) Part Wa












その他、資料…etc









満州事変記念に満州鉄道株式会社が作った記念の置物(大阪生駒時計店謹製)












〜戦前戦時の滿洲関連特集〜



=主に南滿洲鐵道株式会社の関連資料=
 (South Manchurian Railway Co., Ltd.)



大滿洲帝國の國旗




かなり痛みがありますが…当時の大滿洲帝國
の國旗です。縦約67センチ、横約94センチ




こちらは、小さな滿洲帝國の國旗です。恐らく当時の
商店街やその他で万国旗として使われていたものと
想像します。

因みに、滿洲帝國は、かって日本が後ろ楯となって
五族協和の旗印に最後の清朝皇帝・溥儀(ラストエン
ペラーで有名な)を皇帝として招き建国されました。
当時、この国を承認した国は以下となります。

日本・エルサルバドル・バチカン・イタリア・スペイン・
ドイツ・ポーランド・ハンガリー・スロバキア・
中国(汪兆銘政権)・ルーマニア・ブルガリア・
フィンランド・クロアチア・デンマーク・タイ・ビルマ・
フィリピンの18カ国に及びました。主に枢軸国などの
同盟関係や友好国が中心でした。
上記の画像は、滿洲帝國の建国宣言です。1932年から敗戦の1945年
と言う僅かな年月に仇花のように咲いた…幻の国家…滿洲國は、今の
中国東北部から内モンゴルの自治区の一部までの広大な地域でした。
王道楽土…八紘一宇…五族協和と言う言葉が脳裡に浮かびます。国旗
の5色は、その五族協和を指していると言われています。青が漢民族を、
赤が大和民族(日本民族)を、白がモンゴル民族を、黄色が満州民族を、
黒が朝鮮民族を表し五民族が共に手を携え暮らす国を夢見ました…この
国は、これら滿洲人による民族自決の原則に基つづいた国民国家を理念
としました。国家元首を愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)とし日本の敗戦
まで束の間の夢物語を形成しました。


滿洲國軍の大日本義勇軍防諜徽章
裏に裏に純銀の刻印があり油紙包まれていた品です。
恐らく未使用だったようです。


滿洲國 国勢調査記念(康徳七年十月一日:1940)






滿洲軍人後援会普通賛助員章
底角に欠けありますが、オリジナル桐箱
があり、良く見られる星章の欠落の無い
完全な品です。


大滿洲國建国功労章        滿洲国皇帝訪日記念章


建国神廟創建記念章


国境事変(ノモハン事変)記念章


cf.国境事変記念章のお話

上の画像のように三つの国境日事変記念章があります。この記念章は、二種類
ある事が知られています。製作地により二種類になりますが、以下に三つを拡大
した画像を示します。
製作地ですが滿洲と日本の本国により二種類に分けられます。その違い
ですが記念章表の鳩と地図にあります。真中の鳩が細い鳩である場合は、
日本の本国で製作された物です。対して真中の鳩が太い鳩が満州で作ら
れた記念章となります。また鳩の下の地球儀の地図ですが満州製作の
記念章には、朝鮮半島が描かれており、対して日本の本国で生産された
記念章は、日本本土の一部が描かれています。画像のうちの三つの中で
は、お判りのように真中の物が満州製作の記念章となります。
両側の記念章は、本国製作のものです。こうした違いを探して見るのも実
に面白いものだと思います。



珍しい国境事変従軍記章證書です。康徳七年。證書は、
勲章よりも希少品で滅多に見ません。


勲八位 滿洲國景雲勲章


勲五位 滿洲國景雲勲章



以下は、同一人物の勲記の証書など三点です。
持主だった方は、陸軍歩兵二等兵となっており
ます。
滿洲帝國「建国功労章證書」
左は「外国記章佩用免許證」で右は「昭和六年至九年
事変従軍記章之證」です。外国から授与された勲章の
佩用にも許可が必要で免許証がある事が不思議な感
じがします。





滿洲國赤十字社章
康徳五年の物です。
合せ桐箱付









康徳6年・満州建設勤労奉仕記念章
康徳8年・満州建設勤労奉仕記念章



滿洲國より贈られた銀製シガレットケース


表面に七宝の滿洲國旗と、牡丹の彫刻のなされた
銀製(上に「SILVER 0.950」と燕の様な刻印がある
)のシガレットケースです。重量は本体のみで約
130gあります。内側には、来歴が記されております。

日本の皇室・宮家の御下賜の銀製のシガレットケース
は見かける事がありますが、滿洲國のものは、非常に
珍しいと思われます。



南滿洲鉄道の株券です。
こちらの二枚の満鉄の株券は、某有名な海軍々人の遺族が購入されたものです。





旧・満鉄の書類クリップです。満鉄の刻印があります。







南満州鉄道 ”フォーク&ナイフ” 
           2種5本と”スプーン”




満鉄及び関連会社・ホテル等が使用した物。
ナイフ:全長210mm、フォーク:全長180o。


満鉄のマークのある大型のスプーンです。







滿洲鐵道乗車券・旅行関係許可書等一式


















滿洲國は庚徳9年(昭和17年)に日本人姉弟の滿洲視察目的で旅行、当時
国外旅行には各種の制約が有り、その関係の書類一式です。南滿洲鉄道
乗車券・日本旅行協会発行(朝鮮・京城)自満州大連→至朝鮮安東・2等
1枚(帰りの券)。奉天鉄道警護本隊長・予防接種済証明書・新京鉄道警
護隊長・住居証明書2枚(姉弟)。ロシヤ文の領収書1枚。紹介状一通。旅
程表2枚。電報送達紙(連絡文章)1枚。封筒・朝鮮総督府鉄道局内東亜
旅行社1枚。関係者名刺4枚。旅程表を見ますと特急アジア号に乗った記
録が有ります。ヤマトホテルは満鉄が経営していて一般人は泊まる事出来
ませんが、紹介状の通り特別な人です。ヤマトホテルは現在も有ります。

左が大連のヤマトホテル。前の銅像は、関東都督であった大島大将。右は、亜細亜号







”南滿洲鐵道株式会社”の大表札




この表札の取り付け場所は、今となっては、不明です。
滿鐵関連会社は、数十社がありました。これ等は、個々
の社名を持っていたので、考えられるのは、滿鐵の大連
本社・総局・東京支店・大連・奉天・吉林・錦州・牡丹江
・齋々哈爾・哈爾濱・七鉄道局の計十箇所の関連と考え
られるとの事、この表札は、裏を見ると釘穴跡を見ると吊
る下がりでなく、打ち付けられていたようです。何方かが
敗戦の時に惜しんで看板と共に本国に持ち帰ったのでし
ょうか??
材質・欅。文字陰字(彫り文字)銀色彩色が残ってます。








南滿洲鐵道株式會社の珍しい円形の大表札




珍しい円形の大表札です。直系企業15社、傍系企業75
社を要する巨大なコンツェルンであった滿鐵の大表札で
す。この円形の珍しさに惹かれて入手しました。裏面の
取付を見ると四角い木枠を取り付けて壁等につけたの
でしょう。四角い木枠縦に沿って二本汚れのない分が
壁に作った取付の木部の跡と思われます。

直径約80cmあります。








南滿洲鐵道の大社旗






”大連埠頭運動会・昭和五年五月一日・必勝”
とあります。毎年、満鉄の各地方局の代表選手
による対抗競技が行われたそうです。その時の
応援の旗です。絹製手書で大きさ縦90cm、横
120cm。…ありし日の満鉄の栄光時代を偲ばせ
る様な気がします。

大連の滿鐵本社


灰皿




滿鐵の鍔型メダル
大正四年滿洲大連道場剣道大会



滿鐵で使用された五玉の算盤


真鍮製の滿鐵で使用された定規です。
大連の文字が入っています。



昭和16年製の滿鐵の飯盒です。










旧滿鐵社服 各種




滿鐵の社服です。右側の胸には懐中時計を
入れるポケットが付いてます。



こちらは、上と違う滿鐵の制服です。虫食いが多く
片袖の袖釦がなくなっています。納入は、系列企業
の大連工業(株)になっています。



下に参考の為、知人の所持している国鉄の昭和20年、
戦時国防色型の制服を載せます。滿鐵も国鉄も襟にカラ
ーが付くようになっています。









滿鐵の駅員が使用した懐中時計















滿鐵の制帽






旧滿鐵の制帽です。



滿鐵のベルトのバックル











滿鐵の防寒帽




非常に状態の良い、南滿洲鐵道株式会社の従業員用防寒帽。
マ・昭19・本・大・奉天のスタンプあり、昭和19年本廠検定の大号
内部の毛皮の状態も良く、無記名で未使用の極美品です。







滿鐵の腕章













滿鐵東京支社の公印




人生の大先輩である方が青春の想い出の品として大事に
今日まで手元で保管されていた滿鐵東京支社の公印です
。大先輩は私と同郷の方で…20歳で単独北海道から上京
はじめて働いた旧 丸ビル5階504号室の滿鐵帰りの社員
達が作った会社でした。その時にいただいた想い出の品と
の事で譲り受けました。
材質は水牛角(大きさ:2.8cm角・高さ:5.5cm)
敗戦前の帝都・東京でこの公印は多くの
滿鐵の書類の決裁に使用されたのでしょ
うか…歴史を感じさせます。







南滿洲鐵道 ”新京行〜大連行”行先板(琺瑯製)








アカシヤの街 大連 滿鐵本社は現在も保存され、当時の姿そのままに
毅然と建っています。大連広場(ロータリー)には当時の建築群が立ち
並んでいます。三十五万人いたとも云われる社員の総合病院は赤レン
ガ造りで広大な敷地に建ち、現在も病院として使用されています。…壮
大な夢物語のような満州…日本人が夢見て大風呂敷を広げた幻の帝
國ですが…今の日本人から見ると、当時の日本人の方がロマンとも…
器が大きいというか…違いを感じます。







南滿洲鐵道 ”奉天行〜釜山行”行先板(琺瑯製)








明治四十五年(大正元年)年六月1十五日直行列車運行が
開始されたそうです。王道楽土・沃野開拓を夢見た人達は
下関より釜山に、そして満州へと数10万の人達が、この行
先板の付けられた列車に乗って行った模様です。敗戦前後
に、裸一貫で築いた財産のずべてを失い、命からがらこの
列車で逃げ帰国した方々の辿った路線です。







南滿洲鐵道 ”奉天行〜山海関行”行先板(琺瑯製)








奉天⇔新民⇔山海関。山海関は、中国大陸と
満州の国境で万里長城の基点であります。








南滿洲鐵道 ”奉天行〜牡丹江行”行先板(琺瑯製)










奉天⇔哈爾浜⇔海林⇔牡丹江。牡丹江は戦前
より多くの日本人が王道楽土を夢見て行った所
で知られています。








南滿洲鐵道 ”奉天行〜北京行”行先板(琺瑯製)






北京は、支那の首都です。考えてみれば実に
広大な地域を我国は、治めていたわけです。
改めて戦前の日本人のスケールの大きさに
感心します。









南滿洲鐵道 ”図們行〜羅津行”行先板(琺瑯製)






滿洲図們は、現在朝鮮自治区で朝鮮人が多く
住む国境の町。鴨緑江を挟んで向こうは朝鮮
の日本海に面した羅津です。現在は鴨緑江が
国境線となり、北朝鮮に小さな橋が架けられ、
両方に監視小屋が有ります。ここは、北朝鮮の
圧制や飢えから脱北する場所としても有名です。







南滿洲鐵道 ”大石橋行〜瓦房店行”行先板(琺瑯製)






渤海に突き出した遼東半島の根元に
大石橋が有り、旧関東州の入り口に
瓦房店が有ります。







南滿洲鐵道 ”一面行坡行〜綏芬河行”
                 行先板(琺瑯製)綏芬河






牡丹江と哈爾濱の中間辺りにあるのが一面坡駅です。
また綏芬河は、牡丹江よりウラジオスットクに向う途中
にある町です。







南滿洲鐵道 ”齊齊哈爾行〜哈爾濱行”
                 行先板(琺瑯製)






齊齊哈爾(チチハル)は、黒竜江省の省内第二の
大都市であり、省直轄市である。近代に東清鉄道
が建設されるとハルビンが勃興し、新中国が成立
後に省都が移ったが、現在でも黒竜江省西部の
政治、経済、文化の中心であります。市名は、
満州語で辺境あるいは、天然の牧場の意味する
との事です。
哈爾濱(ハルピン)は、中国でもっとも北部に位置する黒龍江省
の省都で、中国東北部の経済・文化の中心の一つで東北経済
地区第二の都市です。19世紀末まで小さな漁村にすぎなかった
ハルピンが劇的な変化をきたしたのは、清朝と帝国ロシアの
不平等条約によって開始された東清鉄道の建設によります。そ
の帝政ロシアの支配の下、人口は急激に増えていきハルピン
は、近代都市として大きな変貌を遂げました。20世紀初頭には
秋林公司や馬迭爾賓館といった現在も著名な欧風建築が数多
く建築され、これらの欧風建築物がある事によって今のハルピ
ンは、東方のモスクワ、東方の小パリなどと呼ばれています。
日本とハルピンとの関係は深く、ハルピンに日本人が増えたの
は、日露戦争が始まった1904年頃からです。この頃には、日本
人の人口が千人を超え、1909年にハルピン駅で伊藤博文の暗
殺事件も起きた事は、日本人の記憶に深く刻まれた歴史であり
ます。














滿鐵の三等の切符




下の画像の二等の乗車券も珍しいですが
今となればこの三等の切符も珍しいもので
す。


通遠堡駅より開原駅までの切符です。通遠堡駅は、
安奉線の奉天駅より安東駅に至る14個目の駅に当
ります。開原駅は、滿鐵・本線(大連駅〜長春駅)の
大連から45個目の駅が開原駅(奉天駅を超えて9個
目の駅)に当ります。







滿鐵 三等乗車券 "綏中〜山海関"
              と八名分同団体票




大同2年12月24日に「綏中〜山海関」で使用された
乗車半券と団体票です。半券には「奉山三等乗車
券」と発行日時が有ります。団体票にはカ−ボン写
し字で「陸軍上等兵(団体代表姓名 成人8名」の
文字が有ります。







南滿洲鐵道★ホテル・お食事クーポン3枚セッ




南滿洲鐵道発行、HOTEL MEAL-SERVICE COUPON
(ホテルお食事クーポン)の綴り券です。5枚連綴の2円券
2種と4枚連綴の1円券の三種類です。全てに見本の判
が捺されています。中々、珍しい物です。







滿鐵 亜細亜号の車内で
    使われていたオリジナルレター




旅の想い出に持ち帰られたものでしょう。
無記入で10数枚あります。













滿鐵留魂碑の建設記念のミニチュア














食玩のおまけのパシナです!









撃沈された大連丸の遺品…乗船記念券(鉛メダル)






この鉛製メダルは、乗船記念と乗船券を兼ねたもの
と思われます。乗船日は、昭和14年7月8日という事
でしょうか。大連丸(3.748t)は、大連汽船所属。
昭和19年11月30日、大連発門司へ向け航行中
、14時10分頃、朝鮮長山串西南海上にて被雷し沈
没。乗客7名が死亡。また船砲隊員7名が戦死。
船員12名が殉職致しました。

メダルの大きさ:直径64mm・厚3mm。

大連丸


建造中の大連丸
上下とも進水式






豪華な内装の大連丸











cf.南滿洲鐵道株式会社
   (South Manchurian Railway Co., Ltd.)について


1906年に設立された南滿洲鐵道株式会社(略称:滿鐵)は、日露講和条約
により、日本はロシアから東清鉄道の支線のうち、長春から大連間の鉄道
施設と経営権を譲り受けました。その際に設立した半官半民の国策会社で
す。中国東北部において鉄道経営を中心に、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農
林牧畜に加えて、ホテル、図書館、学校などの整備を行い、「滿洲国」の成
立まで日本の中国東北部経営の中心となりました。日本の対大陸政策の
拠点であり、1916年(大正15)には鞍山製鉄所を設立したのをはじめ、1937
年(昭和12)には直系企業15社、傍系企業75社を要する一大コンツェルン
にまで発展いたしました。



滿洲帝國 中央銀行発行のマグネサイト貨(陶貨)です。康徳12年の5分と1分
滿洲中央銀行硬貨−1分と5分マグネサイト貨(陶貨)
康徳12年の5分は発行されていないとの記載があり
ましたが、実際に流通したかどうかは定かではないが
、中国の東北部の農村でマグネサイト貨何百枚の中
で十数枚を見つかったものの一部だそうです。。
滿洲中央銀行硬貨 五厘(大同3年)と(康徳元年)の2種


康徳8年、昭和16年、満州國通貨の一角のアルミ貨


壹角・康徳元年が2枚、壹角・康徳三年が1枚、
五分・康徳3年が1枚、アルミ貨の壹角・康徳八
年が1枚の計5枚


滿洲中央銀行−丙号券100円

 発行:康徳11年11月(昭和19年)
 
銘版:大日本帝國内閣印刷局製

滿洲中央銀行−乙号券100円

 発行:康徳5年4月(昭和13年)
 
銘版:大日本帝國内閣印刷局製造
滿洲中央銀行 丙号券5角(昭和16年発行)
滿洲中央銀行 丙改券1円(昭和19年発行)
下は、何故か一枚だけ台湾総督府の一円が入っています。







滿洲のホテル(旅館)の荷物タグやシール




牡丹江の北満旅館のシールとハルピンの
ハルピン・ナショナルホテルの荷札です。
bag_tag







南滿洲鐡道株式會社に勤務
   されていた奥山 市之助 元陸軍
            工兵伍長の縁の品々




昭五式軍衣(冬)です。
九八式への過渡期に使用したらしく良くある
立襟に襟階級章を縫い付けた痕が残ってい
ます。肩章留は、取外されています。
昭和十三年製、広支検定です。



昭和15年1月10日にハルピン鉄道第三連隊
第八中隊に入営されておるようです。入営前
に滿鐵で奥山氏が使用していた制帽です。


制帽は、顎紐も無くボロボロです。



滿鐵の社服です。
本人記載の中で昭和7年1月の日付で
南滿洲鐵道(株)の記念の…不明。と書
かれておりました。15年の鉄道連隊へ
入営前は、長く滿鐵に勤務されて居った
ようです。



こちらも滿鐵の社服です。この奥山氏
は、敗戦後も無事に生き昭和21年4月
5日に鹿児島に上陸し4日後に郷里へ
帰還を果たしたとの記載が梱包の箱に
直筆で記載されておりました。







滿鐵職員の外套




旧滿鐵の職員外套です。
前釦が5個、滿鐵釦以外の物が付いています。また
一度、外套の襟は切られた跡があります。戦後に
改造されたものを修復した物かもしれません。











A級戦犯 元総理大臣 岸信介氏の
  滿洲帝國発明局々長時代の紙物






岸元総理の滿洲帝國特許発明局々長 時代の商標註冊證。
…又一(株)…現在の(株)又一洋行の繊維製品の商標と思
われます。康徳四年、特許発明局長・岸信介の名があります。


cf.岸信介

明治29年山口県に生まれる。大正9年 東京帝国大学法科大学を
首席で卒業し、農商務省(のちに農林省と商工省に分かれ、岸は
商工省に移る)に入省。昭和11年、満州へ渡り満州国経営に辣腕
を振るう。昭和14年、日本に帰国し商工次官となる。昭和15年、第
2次近衛文麿内閣で商工大臣での入閣を打診されたが辞退。その
後、小林一三商工大臣と衝突し辞職。しかし、昭和16年10月に発
足した東條英機内閣で商工大臣として入閣。その後、大東亜戦争
の戦況悪化に伴い”反東條”に転じ、昭和19年7月に閣内不統一
で東條内閣を総辞職に追い込む。敗戦後、東條内閣の閣僚として
A級戦犯容疑者として逮捕されるが、起訴されずに昭和23年12月
に釈放される。昭和27年4月の講和条約発効後、日本再建連盟を
発足。同年10月の衆議院選挙に立候補者を擁立(岸は不出馬)す
るも惨敗。24年4月の総選挙に外遊先から自由党公認候補として
立候補、当選。昭和29年4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成
促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名されるが、日本民主
党の結成に参加し幹事長に就任。同年12月に社会党の協力を得
て第5次吉田茂内閣を倒し、第1次鳩山一郎内閣を発足。昭和26年
11月に自由党と民主党が保守合同、自由民主党を結成に参加、幹
事長に就任。昭和31年12月の鳩山総裁の後継総裁公選に立候補
するが、石橋・石井光次郎連合に破れる。石橋内閣では外務大臣と
して入閣。石橋首相が病気に倒れると首相臨時代理に就任。昭和
32年2月、石橋内閣が総辞職すると全閣僚留任、内閣を引き継ぐ形
で首相に就任。岸内閣の前半はは勤務評定実施・警察官職務執行
法改定(社会党などの反対で廃案)などが大きな問題となり、後半は
新日米安全保障条約調印・批准に力を注いだ。結果として新安保条
約に関連した一連の混乱の責任をとって、昭和35年6月23日に総
辞職。退陣後は憲法改正運動などを積極的に行うなど精力的に活動
。自民党政権にも影響力を残した。昭和48年4月25日、88歳でこの
世を去る。

歳)







滿洲國 御賜の煙草五本入(未使用品)













滿洲帝國大同学院卒で滿洲帝國
           の高級官僚となった方の資料




三枚とも同一人物。上と下の二枚に”滿洲帝國”
の透かし文字入りがあります。




その後、この方は、甲種幹部候補生
として陸軍の通信将校になり戦死さ
れたようです。この冊子は、大学の
同期生の有志により、追悼の為に作
られたもののようです。


こちらは、御本人の所持されたもので幹候の日程
や資料、私物の軍刀やら双眼鏡…など酒保で購入
できるものの一覧等など多岐に渡りスクラップされ
ています。

















新京首都協和義勇奉公隊の特別班員とある
昭和十四年の修了証。徴兵される前の年です。
”挺身興亜 滿洲帝國大同学院”の
記載に寄書きのある日章旗
上の勲記より、昭和15年429日現在で陸軍二等兵
でしたが、下の画像のように昭和16年12月1日に
陸軍少尉に任官し昭和17年1月12日には中尉に
昇進しております(戦死後)。
甲幹で日米戦の開戦直前に少尉に任官しています。


少尉任官後の2ヵ月に支那の湖南省で
戦死し中尉に昇進しています。


軍隊に入営する前に滿洲帝國の国務院
の文官時代の物です。下に拡大しました
が滿洲帝國政府の記載があります。


上の封筒は、綱脇中尉の母校から
御父上にだされたものです。
綱脇中尉の御父上は、この福岡県、現在の宗像市
でしょうか、勝浦国民学校の教職を務められていた
ようです。画像の封筒のように、この学校の卒業生
で出征した人に故郷の近況から児童からの励まし
の手紙などを送っています。該当者不明で差出人に
返送された封筒がまとまって残っています。校長先
生とか教頭先生とか管理職だったと推察します。
下のような子供達からの便りが詰まっています。
下の物は、郷戸の近況をガリ版で刷ったものです。


これは、面白い葉書です。軍需品商会とあります
が、軍装店が学校の軍事教練で使うグッズの売
り込みの宣伝の葉書です。今も昔も変わらないよ
うです。


滿洲帝國政府の便箋に御父上に書かれた
手紙の内容は、戦死された御子息の恩給
関係は、滿洲帝國からも出ると言う内容の
話しです。


戦死した綱脇中尉の友人です。中支から
御父上に慰めの手紙です。


綱脇氏の歩兵科幹部候補生時代
のものと思われます。



通信学校で使用したものです。
















練習で使っているものと日記代わりに記載
されているものなどがあります。












            ◇綱脇貞美 陸軍中尉の履歴◇

本籍:福岡県
           大正4年8月2日生


昭和14年3月30日 京都帝國大学農学部卒業

同年 12月20日  滿洲帝國大同学院卒業

昭和15年3月1日  熊本歩兵第十三連隊補充隊に現役兵で入営。

同年 8月1日    歩兵科幹部候補生、陸軍一等兵に昇進。

同年 10月1日    陸軍上等兵に昇進。

同年 11月1日   甲種幹部候補生に任命。

同年 12月1日    陸軍通信学校幹部候補生師団通信中隊に入学。
             陸軍伍長。

昭和16年2月1日   陸軍軍曹に昇進。

昭和16年7月29日  同校 卒業。陸軍曹長に 昇進。

同年 8月21日    中支戦線 見習士官

同年 11月1日    陸軍少尉に任官

昭和17年1月12日 午後0時30分、湖南省長沙県白沙橋に於いて戦死。
             陸軍中尉に昇進。功五級金鵄勲章授与、勲六等単
             光旭日章を授与。

同年 1月29日    中支派遣部隊にて合同慰霊祭

京都帝大の学生時代の綱脇氏の画像です。


学生証です。










左は、帝大時代の写真で右は、その前に旧制
第六高等学校に在学中の写真のようです。
袴にマントに高下駄…寮歌を歌いながらバンカラ
が行くそんな時代の旧制高等学校のイメージその
ままの綱脇氏です。




左は、綱脇氏の軍隊手帖の中身です。右は、
お兄さんの軍手帖の中身です。お兄さんは、
陸軍軍曹で予備役になっています。







滿洲帝國(康徳七年) 建國神廟創建紀念の招待状















滿洲醫科大學から岩崎 醫博に
 贈られた光之國手と記された記念盾




非常に入れ物も手の込んだ立派な記念盾です。












上の二枚は、ありし日の滿洲醫科大學の附属病院と
本館です。下は、病院を視察する滿洲皇帝 溥儀に
手術台や器械を説明する愛新覚羅憲均(清王朝の
王族の末裔の一人で滿洲國衛生部のTOPです)。







軍人外食券(滿洲國)




滿洲國各地で使用できる軍人外食券です。
裏面の記載事項に「本券は全満各地に適用す」とある通り、滿洲国内を
公務等で移動する陸海軍軍人のみを対象とした軍人外食券です。民間
民需の配給券と比べて非常に珍しいものです。







滿洲國薬局方…南満陸軍造兵廠の蔵書印が
あります。戦前の滿洲で発行された、薬品の
解説書です。戦後、中国の機関の蔵書になっ
ていたらしいですが、流出したようです。







ありし日の新京の写真です。













康徳二年発行の滿洲國官吏録です。




面白いのは、いまの雑誌や本と同じように
郵便為替での発注書が付いています。大阪
の業者になっています。







滿洲帝國の國民手帳 康徳12年(昭和20年)





指紋の捺印があり、漢民族の姚廷會(男性)、
兵役:無、職業:農民、と吉林省の住所の記載
があります。写真の貼付欄ありますが、貼付
されていません。







滿洲國陸軍 戦闘帽(略帽:第二種軍帽)




珍しい滿洲國陸軍の戦闘帽です。顎紐が無いのが最大の特徴です。
階級を示すのか濃い海老茶色(濃ワイン)の一本線が縫いこませて
あります。帽子の裏に”軍政部被服廠附業部製・HOTEN”の標記が
あります。ほぼ未使用の品だと思います。
惜しい事に、五色章(黄・黒・白・藍・紅)の白に虫食いがあります。







滿洲國陸軍 軍帽(第一種軍帽)の
           前章(
五色星章の七宝焼)











滿洲國海軍 少尉階級襟章




右の襟章のみですが、未使用の非常に美しい襟章です。
日本海軍と同じ黒絨のこれも同じ金線で一本に”五色梅
花”の徽章が一つ付いています。”五色梅花”の徽章は、
七宝焼きです。滿洲國海軍少尉となります。

因みに満州国陸海軍の将校の階級呼称は、以下。

尉官:上尉(大尉)・中尉(中尉)少尉(少尉)

佐官:上校(大佐)・中校(中佐)・少校(少佐)

将官:上将(大将)・中将(中将)・少将(少将)

また日本での元帥に当たる称号は、単に将軍と言い
元帥府にあたるものは、将軍府が置かれている因み
に上将以上の4名がこれまでに将軍の称号を与えら
れています。







滿洲國陸軍の防寒帽




満陸軍官用防寒帽です。
オリジナルの鼻覆いが残っています。
当時の日本陸軍将校で滿洲國軍の軍官に転じた方も多かった
ので、この品もそのような方が着用し、何らかの事情で内地に
持ち帰った為、現存するものと思われます。画像から判りづらい
ですが記名布に大口または、大田とうっすら墨書き注記が残っ
ています。
非常に珍しく希少な一品です。状態も
非常に良いです。
立襟時代の同一人物の少尉時代と中尉時代です。中尉の右の写真
には、騎兵用のグルメットが軍刀に繋がっているのが見えます。きっ
と騎兵科だったのでしょう。良く見ると判りますが右は、滿洲國陸軍の
軍服姿(満陸の軍官の軍装)です。左は、日本陸軍の少尉です。日本
陸軍から滿洲陸軍に転じた方だと思われます。…恐らくこのような方
が軍官の防寒帽を使われたものと思います。







滿洲帝國陸軍大学校生卒業者の新任挨拶状




滿洲國軍制・将官は、日本と同じ階級名称ですが
佐尉官は少校・中校・上校になってます。







滿洲國陸軍の兵下士官用(冬)軍衣




珍しい滿洲國陸軍の腰のポケットが無い兵下士官用の軍衣
です。厚手の日本陸軍の軍衣よりは、品質の悪い羅紗で
仕立てられてます。肩章止め、ボタン類欠。尚、残念な事
にこの軍衣は、旧ソ連の映画製作会社で衣装として保存
されていた品で、袖を長めに改造する加工と、内張りの背
中に本来は無い下の画像のように数字の印が押されてい
ます。それでも滿洲國軍の軍服自体が残存数が非常に少
ないので改造品であっても実物は非常に希少なものと思わ
れます。


軍需本廠製、康徳七年、四号







無残に切断された滿鐵刀の残骸




滿鐵刀の無残な切断された残骸です。
銘文 満鉄鍛造之  (満の上3cmの所に 南 の刻印有)
    昭和癸未春
中茎峰に ヒ 二二六 の刻印があります。
昭和癸未春 → これは、昭和18年春を意味します。この年の
戦局は、1月にガダルカナル島で25.000人の戦死・餓死者を残
して撤退。4月18日に山本五十六 連合艦隊司令長官が戦死。
5月29日にアッツ島守備隊が玉砕等々と日増しに悪くなる状況
でありました。








興亜一心刀(滿鐵刀)を仕込んだ
  昭和十三年制定陸軍制式軍刀の美品
              (通称 九八式軍刀)




拵えも美しい昭和十三年制定陸軍軍刀です。
通称 九八式軍刀と呼ばれているものです。先
に掲載した無残に切断された滿鐵刀と違い、
登録証を取得して戦後も完全な形で保存された
滿鐵刀です。

非常に美しい軍刀です。





厚みがあり透かし入りの立派な鍔です。



昭和庚辰春と刻まれています。これは、
昭和15年春を意味します。もう片面は、
興亜一心 満鉄作之と刻まれています。
興亜一心刀(滿洲刀)に関する詳細は
以下のサイトで知る事が可能です。以下
のバーナーをクリックして見て下さい。







切羽も全て同じ通し番号です。拵えも気になるガタ
付きも無くストッパーも十分に効いています。
















滿洲帝國時代、地方軍閥のものと思われる湯呑茶碗




滿洲帝國軍の物の場合、一番上に黄色がきます。
従いまして満州帝國時代の地方軍閥のものではな
いかと思われます。








滿洲日報のインク壷




滿洲帝國時代の新聞社である滿洲日報のインク壺です。
サイズは、5センチ×15センチ×4センチ。








滿洲銀行の算盤













滿洲帝國皇帝紋章
北満を警備する滿洲國陸軍の兵士。右は、滿洲皇帝 溥儀


宮内府 正門
夢幻と消えた国…滿洲帝國
左は国務院会議後の各大臣。右は軍旗拝受式。









滿洲國警察の肩章




滿洲國警察"警尉"肩章
肩章は、梅花章を昇進により加章しています。


左から滿洲國警察官の通常の制服、防寒装備、正装となります。
ありし日の滿洲國 治安部庁舎
左が治安部大医于苫山で形式上は
滿洲國警察の最高責任者であり保
安部(秘密警察)のTOPでもありまし
た。







滿洲國軍政部之印












滿洲 独立守備隊警備記念章











滿洲國軍外套と軍衣




標記は、康徳五年十二月、新京特別市、被服工廠とあります。


滿洲國軍の軍衣。貼り付け式ポケット、全体に綿入れとなっています。
旧軍と同様の位置に剣吊がありますので、三十年式銃剣の剣差を使
用していたと推察されます。検定印等は、見当たりません。







滿洲第七三一部隊のボイラー室の瓦礫




滿洲(中国東北部)の哈爾浜にあった秘匿名:滿洲第七三一部隊
関東軍防疫給水部本部があった事は有名です。別名 石井部隊と
言われておりました。この細菌兵器部隊の有名なボイラー室の瓦
礫の一部が画像の物です。現在は、世界遺産に申請しており採取
禁止地区となっておりますが、かなり以前に問題化される前後に調
査に出向いた大先輩から戴いた品です。戦後60年の経過で既に崩
落がはじまっているようです。
左から石井四郎軍医中将、真中の画像は731部隊の専用引込線、右は、ボイラー室。
焼却炉の煙突


731部隊の石井式濾水管です。野戦でも汚水を濾過して安全な水にする装置。
パイプ中央に汚水を入れて圧力をかけパイプ部分で濾過し周囲に染み出た水
は浄化された水となります。石井四郎軍医は、陸軍高官の前で、小便を濾過し
て飲んで見せたのは、有名な話です。石井軍医は、この濾水器により軍内部
で認められ731部隊創設に繋がっていきました。原理的には、ヒチリンと同様
の珪藻土で作られています。直径8cm、全長45cm、両端にアルミの金具がつ
いています。この金具部の両端に”軍事秘密”の文字があります。







南滿洲鐵道株式會社の奉天及び安東の案内パンフレット




どちらも昭和11年8月25日発行となっています。奉天及び安東の市街地図と見所、
それにその解説が詳しく書かれています。保存状態が驚くほど良く経年のくすみが
表紙にわずかに見られる程度で、大変にきれいな状態です。







南滿洲鐡道株式會社、大連のパンフレット






昭和8年の大連市街図と観光名所の写真や
各名所の説明やホテルの所在地や料金表な
どが記載されております。







滿鐵の冊子 ”事変と北支鉄道” 滿鐵北支事務局版




昭和十三年七月発行です。
最後の折込ページに北支鉄道の時刻表があります。
上と下の画像の右の方に載せました。







滿鐵冊子 ”北支旅行の手引” 滿鐵 鐵道総局




こちらも昭和十三年五月発行です。









滿鐵の冊子 ”満鐵事業概況”




滿鐵の事業概況をまとめた冊子です。







滿洲旅行の栞(昭和十三年度版)
          南滿洲鐡道株式會社



















旧滿洲帝國の民家の戸口に貼った
         家族構成の掲示板(ホーロー)




サイズは、180×130mm、90g







滿洲國・臨時国税調査記念切手
            (二分・四分)康徳七年










説明文等かなり薄れていますが、中国語と日本語
での切手の説明文になっています。







(財)滿洲電気協会小刷子 
  滿洲電気
週間と電気の心得











戦時資料:昭和九年一月十二日の読売新聞号外
         
   〜滿洲、帝政をしき滿洲帝國となる!〜




”陽春の佳節、三月一日・溥儀執政・帝位に即く”
そして”友邦 滿洲国 愈よ帝政を布く”と題した
読売新聞の号外です。昭和九年一月十二日のも
のです。







戦時資料:滿洲関東軍の極秘・遼陽演習場図




滿洲國奉天省遼陽(現・遼寧省)の堡塁台附近陣地編成図
です。縮尺五千分1之尺。4枚貼り”極秘”と記載あります。







戦時資料:南滿洲鐡道株式會社
          第六拾弐回社債券・金壱万円




新品の様に状態の良い、一年利息券12枚付の物です。
総裁 松岡洋右の名があります。









戦時資料:滿洲重工業(株)乙種 十株
              五百円株券 二枚




昭和13年9月のものです。







戦時資料:滿鐵グループの学生用マント




くたびれてボロですが滿鐵のマントです。防水性の高い布で
作られています。滿鐵が持っている各種学校用と思われます
。丈は70センチあり頭巾も扮失せず付いております。







戦時資料:滿洲國登基大典記念メダル




帝出乎震・滿洲國皇帝登基大典記念メダル
1934年(昭和9年)3月1日、溥儀執政・帝政に
即く、登基大典記念メダル。







不明の滿洲警察のプレス梅花章…




明らかにボロボロの日本陸軍の軍帽に何故か旧滿洲國
警察のプレス梅花章が帽章として付けいます。滿洲國陸
軍の場合は、第一種軍帽の帽章は、五色七宝の星章と
なります。その帽章は、以下にあるとおりです。また二種
軍帽(略帽)の場合は、以下にあるとおり帽章は、金属で
なく布製の五色星章が付きます。また滿洲國警察の帽章
もこれでなく、以下にある図とバッチのスタイルが正式な
ものです。このプレス梅花章は、その下に表示した警察官
肩章の梅花章と同じものとなります。大きさは、肩章の梅
花章に比べると帽章の大きさです。こうしたプレス帽章も
かつて使われたかどうか不明ですが面白いものです。尚、
滿洲國陸軍の一種軍帽は、緋色の鉢巻や緋線の無い帽
章だけの軍帽を使用しています。下に示した満鉄の制帽と
同じで満鉄の帽章を外し、五色七宝の星章を付けるとその
まま滿洲國陸軍の軍帽となります。

上下の図柄が満州国警察の帽章
となります。


滿洲國警察官の肩章です。このプレス梅花章
の大きいのが上の軍帽に付けている梅花章で
す。


滿洲國警察官です。帽章が良く判ります。



滿洲國陸軍の二種軍帽(略帽・戦闘帽)です。




滿洲國陸軍騎兵中尉の軍装姿です。
滿鐵の制帽です。この帽子の帽章と耳釦を
替えれば滿洲國陸軍々官の一種軍帽となり
ます。











滿洲から引揚者の腕章等々




日僑(中国からみた日本人)捕虜収容所に居られた方の
ものです。名札には、日僑身分証明書が綴じられていま
す。よほど大事なものだったのでしょう。(これが無ければ
、日本に帰国できなかったと思われます。)格子状に綴じ
てあるので、何となく怖くてまだ中身を見ていませんが、
その思いが強く感じられます。






滿洲に移民する為のパンフとハルピンのホテル
備え付けの便箋(綴じれば封書になる)と引揚げ
関係の案内本です。

この下の物は、栃木県引揚者協会の角印です。







滿洲國 慶祝建国十周年絵葉書 
            郵政繪圖明信片




康徳9年、交通部発行で満州・凸版印刷の記載があります。









【戦時資料】 滿洲航空の搭乗記念の紙物資料




残念な事に搭乗券入れに入っていた搭乗券は、残っておりまません。
その他の記念袋に入っていた品は、保存されています。当時、満空の
空の旅を経験された方が記念に残された品です。既に跡形なく存在し
た国家さえ消滅してしまった往時の航空会社のものであり、民間人が
空の旅を一般的に行っていない時代のものですから珍しく貴重な品と
いえます。
この記念の紙袋に入れられておりました。
搭乗券(航空券)入れの紙ケースです。中の注意書きは
搭乗30分前に飛行場へ来て下さい…。と手荷物の扱い
と超過に対しての料金や…当局の規制で空中からの写真
撮影は、厳禁となるので機内でカメラを預かるというような
記載があり…今の民間機の案内とさして変わらない内容
に改めて感動します。




満空のステッカーが三点です!
満航の新京管区のステッカーです。


満空の総合案内のパンフレットです。カラー刷りで写真を使い豪華な
パンフです。広げた全紙のサイズが約35cm x 32cmとかなり大きな
ものです。
満州国内、支那・日本の全ての営業所などが記載されています。







こちらは、以前ヤフオクで出品されていた満空の搭乗券です。
仕事の関係で入札できず手に入れられませんでしたが、まさ
にこうした券が上の航空券入れに入っていたわけですが、現在
と様式が殆ど変わっていない事が良く判ります。



満空の旅客機。五族協和を国是としていた満州では、
飛行機の識別マークも五族の色が塗られていました。
飛行機は、満空創設以来、主力輸送機として使われて
いた満航式1型スーパー輸送機です。
モノクロ画像ですが飛行場の窓から搭乗する人を見送る女性でしょうか
何故か非常にノスタルジックで旅愁をかき立てられる画像です。
上下とも満航式”隼”型輸送機
隼型輸送機は、佳木管区で撫遠定期で就航し
その後は、他の管区でも定期便となっ多様です。


中島製の中型旅客機で通称:ATと呼ばれた
満航初の全金属型の旅客機です。


満航式”3型プスモス小型輸送”、輸送・連絡用として活躍!
軽旅客機として活躍したBf 108 タイフーン輸送機
ドイツから輸入された双発のユンカースJu86型輸送機。
定期便の主力機として活躍しました。
Ju86型輸送機の就航を記念して作られた満航のステッカー
オランダ製 フォッカーF-7-3M輸送機。満航の設立当初の花形輸送機!
陸軍の九七式重爆を改造して作られた旅貨客機。三菱MC-20
型輸送機です。昭和19年から満航に採用され東京定期便として
活躍しました。








満空の大株主は、満州国(政府)に満鉄、
住友合資会社でした!!その系列会社に
は、新京とドイツの首都のベルリンとの間
の長距離定期航空路線開設のために設立
された国際航空株式会社(昭和13年に日本
航空輸送と合併し大日本航空となりました。
)などがありました。


昭和6年に関東軍が奉天にあった日本航空輸送の
満州代表部に対し満洲内を結ぶ軍用定期航空路の
開設を依頼し、”関東軍 軍用定期航空事務所”とし
て発足したのが満空始まりです。満州国が建国され
た際昭和7年に社名を”満州航空株式会社”に変更し
ました。単なる営利目的の民間航空会社ではなく、
民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送
、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から
航空機製造まで広範な業務を行っておりました。






別に入手した満航のパンフレットです!







こちらも別に入手したパンフです。




cf.満空関連では、当サイトでリンクしている古本屋の常連様の
 HPで”みに・ミニーの部屋”にある『満州写真館 満州航空』
 でも珍しい絵葉書画像が一杯掲載されています。御興味のあ
 る方は一度、訪問されて下さい。以下のバーナーをクリックする
 とウィンドーがが開きます。



次のページで紹介される特務機関の機関長などを歴任された
河野中将の旧蔵の写真の一部です。珍しい昭和14〜15年の
頃のドイツを中心とした外国記者団が取材に満州を訪れた際に
一行を案内した時の生写真です。満空の中島式AT8人乗りが
堂々と写っています。




現在、中島式ATの生写真は数あれど機内の写真は数が少ないと
思います。笑顔で写るのはドイツ人記者のエルンスト・コーデス氏
です。機内座席の頭上に網棚がありシートは、かなり重厚で頭まで
あり豪華です。機内の窓は、ロール式で上から遮光するようです。
また頭上に送風口と思われる大型の突起があります。
昭和9〜10年の河野悦次郎中将が関東軍参謀の中佐時代の写真
思われます。左端で略帽に立襟で参謀飾緒を吊り陸大卒徽章をつけ
ている方が当時の河野関東軍参謀中佐です。また真ん中の閣下は、
後に中将となり関東軍参謀長になった板垣征四郎大将(東京裁判で
法務死)の関東軍副参謀長(少将)時代と思われます。後ろに写る
航空機は、満州国の国旗を翼に標した満航式3型プスモス輸送機で
す。将校団の風情といい最も帝國陸軍が良かった最盛期の頃の生写
真のような気がします。







滿洲飛行機の隼型旅客機の写真




滿洲飛行機が開発した”隼”の写真です。35年ほど前に
撮影した方からネガを借用し引伸しをしたものだそうです
。キャビネ・サイズ(16.0x11.6cm)で、非常にシャープな
写真です。







戦時資料:滿洲飛行機製造から贈られた記念盾




支那や大陸ではこの手の記念盾を良く贈るようです。
贈られた方は日下部工手長という方です。永続勤務
で表彰されたか勤務態度その他、優秀で表彰された
ものと思われます。
記念盾の額の大きさは、40.5cm×32.5cm
滿洲飛行機製造は、元々は満航(満洲航空)の工廠として
スタートしましたが昭和13年に航空機メーカーとして独立を
しました。







恐らく満州航空乗員訓練所から
  陸軍予備下士官の道を歩まれた
   と思われる方のアルバムからの写真




あどけない笑顔と作業着で練習機の前で
記念撮影をする少年と言うより子供です。
恐らく内地の航空機乗員養成所と同様で
12・13歳で入学し5年間の民間飛行士訓
練を受けたものと思われます。
同期生達です。内地の制度と違い満州での扱いが良く判りません
が帽章を見ると明らかに陸軍の星章です。内地の航空機乗員養
成所であれば逓信省の管轄となり、帽章が違います。恐らく満航な
どと同様に関東軍交通監督部のの管轄になるので、軍直轄に近い
扱いだったと想像されます。生徒達は、お揃いの洒落たダブルのス
ーツ姿で何故か社章のような徽章は、満鉄の社章と同じです。経営
母体は、満鉄グループのようです。下の写真に野球のユニフォーム
姿の訓練生の姿がありますが、胸のマークも満鉄のもの旗も満鉄の
社章です。
内地での航空機乗員養成所は、昭和10年代に逓信省の外局
の航空局が設置した民間航空機乗員を養成する施設でした。

実業学校相当の学校教育機関でもあり、昭和13年から順次
地方航空機乗員養成所が全国に15ヵ所設置され、昭和14年
には中央航空機乗員養成所が設置されました。昭和18年に
地方航空機乗員養成所は、航空機乗員養成所と改称され、
中央航空機乗員養成所は高等航空機乗員養成所に改称され
ましたた。全寮制で学費は無料。生活は軍隊式で所長はじめ
教官も予備役軍人で卒業後は、陸海軍の航空隊に入隊して
予備下士官に任官するなど軍学校としての要素が強かったの
が最大の特徴と謂えます。元々は民間飛行士の養成機関でし
たが戦時下の流れで陸軍の予備生徒として教育を与える学校
となっていたようです。
これら航空機乗員養成所の本科生は、尋常小学校6年卒(12〜13歳)
を採用して、5年間の在学中に文部省令による甲種工業学校課程の
普通教科と航空機製作、修理、整備等の技術、グライダー及び飛行機
の操縦術を教育されます。適性によって操縦と機関に別れ、操縦科は
卒業後に二等飛行機操縦士、二等航空士、二等滑空士の免状を交付
され、本人の希望により、陸海軍軍人や、旧制高等学校、旧制専門学
校、大学予科への進学が出来ました。またこうした本科生と別に操縦生
も採用。これは、満17歳〜19歳で旧制中学校3年生1学期終了以上の
学力を有するものから選抜して修業期間約8カ月で飛行機の操縦を専
門に教育します。卒業と同時に二等飛行機操縦士と二等航空士の免状
を交付され、予備下士官として任官しました。
旗もユニフォームも何故か満鉄社章が使われています。
ある主計科高級将校(大佐)の経歴を調べていた
時に関東軍交通監督部部員兼奉天航空廠員に補
されて渡満し満州航空の会計監督官として勤務し
後に関東軍参謀付に補され新京に赴任された陸軍
軍人がおられました。その方は、経済参謀として当
初、農業を担当し後に商工部門を担当しました。こ
の時の主な仕事は、満鉄改組に伴う満州重工業
開発会社の設立や日産コンツェルンの満州移駐の
手伝いであったり軍幹部が強く満州の財界に強力
に入り込んでいる事が良く判りますが…こうした事
例からみても、これら学校生徒が満鉄の社章を付け
た制服に帝国陸軍の帽章を付けた制帽を被っても
何等、不思議でないのかもしれません。
こちらの画像は、比較の為に載せました昭和18年
9月の満州航空乗員訓練所第11期卒業生(後列)
で前列は、教官他です。帽章を見ると明らかに満州
航空の物になっています。一連の写真は、昭和11
年頃の卒業生の写真だと思われますので、同じ学校
であれば第4期生と言う事になると思われます。
九一式戦闘機です。満航では主に乗員訓練用に使用されました。
上下とも日の丸がついており満州国のマークでは、ありません。
89+








本当にまだまだ子供の幼い顔です。入学当初の13歳とか
14歳なのではと思います。


上の写真の作業衣の少年は、軍属の臂章を付けています。


唯一の満州国軍官の将校の写った写真。
中央の幹部は、皆日本の陸軍軍人です。下の写真は
入り口のゲート付近のようです。警戒が厳重そうです。


一緒にあった上は、ヤマトホテルの写真。
下は、満鉄の機関車です。










この写真アルバムの持ち主です。上は、入所前の
尋常小学校卒業時に母上様と撮影された写真と思
います。お母さんもさぞ心配だったでしょうが、裕福
な家庭のお子さんの印象があります。




裏書に皇紀2594年(昭和9年)5月6日、於 奉天省東陵
とあり、S Fukuda のサインがあります。


もうすっかり大人びて酒を飲んでいます。まだ卒業前後と
しても17歳位でしょうか。



昭和12年に奉天の陸軍病院に入院の時の写真と
裏書があります。軍に入り長髪も丸刈りになってい
ます。少年下士官と言う事でしょう。


陸軍病院に慰問にきた人達との記念撮影のようです。









滿洲航空の記念バックル




未使用で仕舞ってあったバックルと思われます。まるで最近の新品のようです。









満洲飛行機製造(株)のパンフレット




基本的に満洲飛行機のパイロットを
除く整備関係の技師から管理部門の
要員の育成部門を紹介しています。













満洲航空が採用した
 メッサーシュミット Bf 108 タイフン
   当時の珍しいJ-BACCの全金属製模型




戦前に満空で勤務されていた関係者のお宅から
出た珍しいJ-BACCの登録記号の入った記念の
メッサーシュミット Bf108 タイフーンの全金属製
模型です。残念ながら台座がありません。代用し
て撮影しました。
日本では読売新聞社がベルリンオリンピックの写真原稿輸送のために昭和11年
8月に1機を購入、ベルリン〜東京3日間の連絡飛行を企画したが、ソ連上空の
飛行許可が下りず、結局船便で輸入され国内では「よみうり6号機」として使用さ
れました。登録記号J-BACCは、満州国でも同様で満州航空で採用されています。
メッサーシュミットBf108「タイフン」(Taifun:台風)は1934年にバイエルン航空機製造
(BFW)社(後のメッサーシュミット社)で開発された単発スポーツ機。
もともとはヨーロッパ周回国際レースの参加機として設計されたもので、著名なメッサー
シュミットBf109戦闘機に通じる全金属性引込脚の先進的なスタイルを持っている。
その後ドイツ空軍にも採用され、輸送や後方連絡用に広く使用された。本機の「タイフン
」というニックネームは女流飛行士として世界で2番目に単独で世界一周を行ったドイツ
のエリ・バインホルンによって与えられたものです。

                     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


      < Bf108B 性能諸元 >

  • 乗員:1名, ,乗客:3名
  • 全長:8.29 m ,,,全幅:10.62 m
  • 全高:2.10 m ,翼面積:16 m2
  • 自重:805 kg ,全備重量:1,400 kg
  • エンジン:アルグスAs10C(270 hp)
  • 最大速度:300 km/h
  • 巡航速度:260 km/h(高度 2,440 m)
  • 降着速度:80 km/h
  • 航続距離:1,000 km
  • 実用上昇限度:6,200 m

台座以外に欠品も破損もありませんが戦後、長い歳月の経過で
塗装の剥げや小傷などがあり保存状態が良好とは謂えない一
品です。しかし日本国内では1機しか輸人されなかった名機で
すので貴重な模型機の記念品と謂えます。
満洲航空で採用されたこの機体が他のユンカースJu86,160
やハインケルHe116などと共に満洲〜支那各地の空を翔け
抜けた事を夢想すると当時の日本人のスケールのでかさを
改めて思い知らされます。ドイツ機だけでなく英国機に米国
機も採用し新型機の開発のサンプルとしています。
















【戦時・戦前資料】内外各地で活躍した
             国策航空結ぶ航路等
                 のステッカー等々




中華航空株式会社は、日中戦争期、日本軍占領下の地域で運行してい
た航空会社です。昭和11年に関東軍と冀察政務委員会の合弁企業とし
て設立された恵通航空を前身とし、昭和12年に中華民国臨時政府・中華
民国維新政府・蒙疆連合自治政府の出資を仰いで設立されました。因み
に1959年に設立された現在の”中華航空”(チャイナエアライン)は、台湾
(中華民国)の航空会社であり、この航空会社とは無関係です。
上とは別のステッカーです。


中華航空の"白鶴号"(三菱MC-20)
これは非常に珍しいもので中華航空の前身の恵通航空有限公司
の航空券袋です。中華航空は昭和11年11月に関東軍と冀察政務
委員会の合併企業として設立された恵通航空を前身として、中華
民国臨時政府、中華民国維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰
いで、昭和13年12月16日に設立された航空会社です。日中戦争
では広大な中国の領土を占領したが、中国大陸の運輸交通手段
のうち鉄道や道路はしばしば戦争による破壊行為の被害を受けて
いた為、同航空による航空輸送は敗戦まで迅速な交通手段として
機能していました。
非常に珍しい航空券を入れる航空券袋と中華航空絵葉書です。
絵葉書には昭和14年5月3日の日附けの北京飛行場のスタンプ
が捺されています。







【戦時・戦前資料】1933年(昭和8年) 
 シカゴ万国博覧会で使われた南滿洲鐵道
   の展示ブースの英語版案内のパンフレット




A century of progress International Exposition, Expo 1933
1933年のシカゴ万国博覧会で使われた満鉄のパンフレットです。




五族協和の理想に燃えた国…今は亡き滿洲帝國
に想いを馳せる人が日本人以外にいるのでしょう
か?…傀儡と謂われるが夢の理想郷を一度この
目で見たかったと思います。


1933年5月27日から11月12日、および1934年5月26日
から10月31日まで開催された国際博覧会です。この博覧
会で始めてテーマ「進歩の一世紀」が設定されました。
21ヶ国が参加し、会期中に約2232万人という膨大な数の
人々が来場しました。







珍しい元箱の残る
  滿洲國協和會儀禮章(美品)




元箱附きの非常に美品の滿洲國協和會儀禮章です。
滿洲國協和會で協和服と共に佩用したものです。今と
なれば協和服も珍しいですが、この儀禮章ももっと珍し
いものとなっています。僅かな期間に仇花の様に滅び
た国の品です。









  ◆滿洲國協和會◆


滿洲國協和會とは滿洲事変以後、中華民国からの分離
独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた「
自治指導部」が協和会の起源である。滿洲國建国に至
り、自治指導部は発展的解消したが、官民の一体化を
図る何らかの組織が必要ということで、新たに「満州国
協和会」が結成されました。協和会は、滿洲國政府と表
裏一体となって建国理想(王道楽土の建設)の実現を
図るべく、国民に対する教化を進めていきました。協和
会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立されました
。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これ
らの分会を統括しました。また開設されなかった立法院
に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に
民意を汲み取る機関として期待され、石原莞爾将軍に
至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」とし
て設定し、協和会による一党独裁制を志向していました

                 

 <綱領>

   満州帝国協和会は唯 団体として政府と表裏一体と
     なり一永久、挙国一致の実践               


   建国精神を顕揚し 民族協和を実現し 宣徳達情を
   徹底し 国民生活を向上し民動員を完成し 以って
建国理想の実現、道義世界の創建を期す。





実際に佩用している当時の画像です!


下の画像は、有名な甘粕大尉の協和服姿です。


滿洲國協和會の徽章です。








             ↑
こちらをクリックすると別なページで収載した
滿洲國協和會儀禮章と協和服各種が見れ
ます。


画像一部引用の出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







あゝ慟哭の滿洲…






上下とも満蒙開拓団の人達。この中でどれだけの方が日本に帰りついたものでしょうか。


右は鉄道警備に当たる満蒙青少年義勇隊の少年達。左は徴兵検査での開拓団の青年達。
左は僅かな荷物で引揚げる邦人、右は奉天の孤児収容所
日本に引揚げる人々







珍品!滿鐵マークにそっくりの帽章のある略帽




滿鐵の社章に非常に良く似ていますが、明らかに違います。
面白い物です。標記には、”公定価格認定証・規格11−7・
認定78・小売一圓50銭・日本帽子聯盟”とあります。
なんとも面白い物です。







滿洲事変で右手の手指と眼球を
            失った皇軍兵士の義指





































滿洲國旗を模した絆創膏ケース











全日本アマチュア拳闘連盟の
     1939年滿洲遠征記念のバックル













支那の土産物屋で売られてい旧滿洲物




中国語で次のようなことが書かれています。かつてあった
旧滿洲帝國は、偉大な国家であり五族協和と王道楽土を
謳った夢のような素晴らしい国家でした。その皇帝として
清朝最後の皇帝である溥儀を戴いた事は、非常に名誉な
事である。またこのような偉大な国家が旧ソ連と米国の手
により崩壊した事は非常に残念なことであり、戦後、支那
の手に入って以降、この地域は非常に貧しく発展と言う言
葉から置き去りにされていた。







滿鐵グループのバックルです。






















〜戦前戦時の滿洲・滿鐵関連特集〜

    (特集はここまでです。)










ある陸軍曹長さんの記録




下に幾つかの書類と名刺、軍隊手帖がります。
左は、昭和20年8月31日と9月1日の身分証明と従軍証明です。右は、
軍隊手帖と名刺(下2枚)です。




軍隊手帖より、この方は、明治41年京都出身の男性で階級は
、陸軍曹長、兵種は、輜重兵です。所属は、第16師団 輜重兵
第16大隊となっております。入営前の履歴は、高等小学校卒業
後、15歳より桶職人見習として修行中の身であったようです。こ
の方の軍歴は、昭和2年1月10日に現役志願兵として輜重兵第
十六大隊に入隊する事から始まります。第一期を卒業し同年11
月に一等卒、翌3年4月には、上等兵に昇進する。同年11月末
日に現役満期となり退嬰。予備役編入される。昭和3年2月末日
に精勤賞を授与。同年11月末日には、善行章を付与されている
。予備役編入後は、在所にありて昭和4年、6年、8年、10年と
2年おきに観閲点呼を受けています。昭和11年8月に勤務演習
の為、臨時応召を受けて、すぐに解除され、この時に下士官適任
証を与えられる。翌12年7月に動員下例により8月、充員召集の
為、工兵第16連隊に応召集される。すぐに第一渡河材料中隊に
編入される。翌13年7月に伍長に任じられる。翌14年、3月に
軍曹に昇進。この昭和12年より材料中隊に配属後は、すぐに
宇品港を出発、釜山港上陸し朝鮮国境を通過して満支国境も通
過して部隊と共に支那駐屯軍隷下の第10師団に配属される。津
浦沿線を転戦し馬廠、徳州付近での戦闘に参加する。その後、
部隊は、第2軍、第10軍の隷下に移り12年11月に塘沽港を出
発し、杭州湾上陸、第114師団に組み入れらて湖東会戦に参加。
12月中旬には、第10軍直轄部隊となり南京追激戦に参加、続い
て杭州攻略作戦に参加後12月19日に第18師団に配属され
杭州における警備勤務に就く。その後、再び第10軍の直轄部隊
に戻り、翌13年1月末より上海における警備勤務。2月中旬に
中支那派遣軍の隷下に入り第101師団に配属される。2月末より
祟明島及台作戦に参加して上海付近の警備任務、4月末には、
徐州会戦竝上海蘇州付近の警備、6月からは、阜寧付近掃討戦
に参加、7月には、第11軍隷下に入る。こうしてその後も武漢攻
略、南昌攻略などの日中戦争の主要な戦いに参戦し、陸軍軍曹
となり昭和14年12月25日に内地に帰還する。同年12月30日
に召集解除となる。翌15年4月末に支那事変の功に依り勲七等
青色桐葉章を授与される。同日、支那事変従軍記念章も授かる。
この軍曹さんは、32歳になり民間に戻る事となる。そうして一息つ
く間も無い3年後の昭和18年12月2日に臨時召集が下り、中部
第43部隊に応召され、同日、西田隊に編入される。翌19年10月
末に大阪陸軍航空補給廠要員として中部第40部隊に隷属となり、
荒木田隊に編入される。その後、大阪陸軍航空補給廠附きとなり
昭和20年3月1日、陸軍曹長に任じられる。その後、同年8月15
日、敗戦を大阪で迎える。…37歳の時であった。







ある陸軍工兵少尉の記録




下の画像は、陸軍少尉の肩章と付箋のついた
軍隊手帖です。手帖の付箋には、明治四十二
年徴集 予備役陸軍工兵軍曹○○○○とあり、
一月十日付 任官の為、不用に付返戻とあります


軍隊手帖から明治17年生まれの大分の方で身分は、士族。
一年志願兵として入営。兵科は、工兵で所属は、近衛師団 
鉄道連隊第四中隊に現役一年を明治42年12月1日より明治
43年11月末日までの入営となっています。軍歴は面白いよ
うにスピード出世しています。明治43年4月1日に一等卒、
6月4日に上等兵。11月30日に伍長に昇進。一年現役の終
わる最終日の11月末日に志願兵終末試験及び等級昇進証
書付典にて工兵軍曹に昇進して除隊しています。翌年の
観閲点呼は、執行済みで明治44年9月1日に鉄道連隊第一
中隊に入隊、翌日、予備見習士官に任じられる。11月30日
召集解除となっております。大正元年(明治45年)の観閲点
呼執行済を最後に履歴欄の記載は、無くなっています。…下
の画像より大正2年1月10日に陸軍工兵少尉に任官してお
りますので、軍隊手帖の表紙の付箋の1月10日付は、大正
2年に一度返戻した物と思われます。明治45年6月15日に
鉄道院の技手に任じられています。鉄道院は、後の鉄道省、
戦後は、運輸省となり現在の国土交通省となるので予備役
見習士官で鉄道院の官吏となったものと思われます。








明治17年生まれですので初めの現役志願兵の時が25歳です。翌年には
軍曹。27歳で予備見習士官。28歳で鉄道員技手。大正2年、29歳で工兵
少尉任官。そのまま鉄道院に勤続しながら大正13年には、旧鉄道省の
鉄道技師に昇格し高等官七等に任じられています。この時点で40歳になら
れています。最後の画像の昭和10年7月に国勢調査員に命じられたのは
51歳の時です。既に職を辞されて名誉職みたいなものかと推察します。


H
(補足)一年志願兵制度ですが1927年(昭和2年)に幹部候補生制度に
変わった前身の制度です。この一年志願兵制度は、旧制中学卒業以上の
学歴を対象に当時は、一般徴集兵の在営期間3年(後に2年になるが)の
ところを一年の在営期間で最終的には、予備役少尉まで昇進する事がで
きました。但し、一年の在営期間の食費や被服等は、自前持ちでした。上
記の幹候制度がスタートすると甲種と乙種に別れ、甲種は、見習士官を経
て予備士官に、乙種は、下士官に短気養成して、戦場で最も消費される
下級将校と下士官の補充を計りました。但し、海軍の予備士官制度と違い
陸軍では、最初の一年は、兵として勤務し二年兵よりスタートしました。こ
の為、辛い思いをしない海軍へ行きたがる学生が多かったと言われていま
す。また、支那事変が勃発した頃の陸軍将校は、一万一千名程度でした
が、この幹部候補生制度により下級将校の急造で昭和14年には、将校の
数は、六万五千名に達し、敗戦時には、二十五万名もの将校が居りました。
この在営一年は、ドンドンと短縮化されて最後には、4ヶ月と言う短さになり
ました。それだけ下級将校の戦死、消耗が激しかった事を意味しています。
しかし、急造の将校の増加は、質の低下を招き…精強を誇った帝國陸軍の
戦意、戦力に大きな影を落とした事も指摘されています。(尚、各種士官学
校、幹部候補生制度、海軍予備士官制度等に関しては、当HPの鎮魂(req
iem)の中で説明を入れてありますので御参照下さい。







海軍手帖と写真と肩章




下にあるのは、昭和20年度版の海軍手帖と個人の手帖に
3枚の写真、そして少尉候補生の肩章一対でしょうか。写真
の顔が似ているので3枚とも同一人物なのか、兄弟でしょう
か?…不明です。一番左の水兵服の写真は、ぺネントが
佐世保海兵団と読めます。右の2枚の画像は、一種と二種
の海兵生徒の軍衣袴を着ております。別人のような気もし
ますが、水兵さんと右端の二種服の方は、非常に良く似て
います。兄弟のような感じです。…海軍手帖には、何の記載
もありませんが…私物の手帳の方には、海軍体操の順番や
モールス信号、手旗信号の記載と手書きで様々な軍歌の歌
詞が書かれています。











ある海軍上等機関兵曹の履歴表と戦友の寄せ書
           (魚雷艇要員)




この海軍履歴表は、昭和9年12月1日の現役編入より始まります。
大阪市に住む方で本籍地は、奈良県です。所属は、呉鎮守府…
兵種は、機関兵となっております。昭和10年1月に呉海兵団に入団
。四等機関兵を振り出しに三等機関兵で駆逐艦”叢雲”乗り組みに
なり、第四艦隊第12駆逐隊の所属となる。昭和11年五月1日に
海軍二等機関兵に昇進。そのまま第12駆逐隊所属の叢雲乗組。
翌年11月1日、一等機関兵に昇進。兵役法の規定により服役が延
長され、呉鎮の所属となる。昭和11年11月に舞鶴防備隊勤務にな
り特設掃海艇”八幡丸”乗組となる。昭和12年12月第三艦隊に編
入され、第二掃海隊の所属となる。昭和13年2月、普通善行章が
一線付典される。同年8月、一時、支那方面艦隊に八幡丸は、編入
される。同年12月、海軍三等機関兵曹に昇進し呉鎮所属になる。
12月10日、服役優等証が下付され、服役延期が解除され満期除
隊となる。その後、民間にて観閲点呼を毎年受けて開戦後すぐの
昭和16年12月12月13日、呉鎮所属で充員召集を受ける。呉海兵
団の団内臨時勤務となり、昭和17年1月に第1回電気技術臨時講
習を受ける。同年4月、佐伯防備隊所属となり興亜丸乗組となる。
同年8月には、繋留気球講習を千葉市の東部第76部隊に派遣され
受講する。同年11月、海軍二等機関兵曹に任じられる。同年12月
、第31号哨戒艇の乗組となる。昭和18年1月、紀伊防備隊付となり
、9月19日〜10月末日までオデリー丸乗組となる。同年11月、海軍
水雷学校に入校。同時に海軍一等機関兵曹に昇進。同年12月13
日、水雷学校・魚雷艇講習終了、同日、呉潜水艦基地隊付を命ぜ
られる。昭和19年3月普通善行章一線附典(計二線)される。同年
8月、結婚・入籍。同年10月18日、佐世保防備隊付を命ぜられる。
同年11月海軍上等機関兵曹。昭和20年7月13日、佐世保防備隊
所属の第35突撃隊付となる。同年8月20日基地に赴任。同年9月1
日、解隊により任務を解かれる。


戦友の寄書きは、昭和19年の記載があるので呉潜水艦基地と佐世保防備隊
の何れかで魚雷艇要員として勤務していた時と思われます。




以下の画像は、珍しい魚雷艇の乗務体験と爆雷投下
訓練の画像です。いずれも海軍予備士官の訓練風景
です。





各種、日本の魚雷艇の画像です。大海軍を誇った
日本海軍は、小型戦闘艇である魚雷艇の開発・運
用に出遅れました。欧米が魚雷艇を活躍させて大き
な戦果を上げたのに対して日本は、殆ど目立った
活躍をしませんでした。
上の左画像は、建造中のT-1型の第一号魚雷艇
右上の画像は、開戦前に公試中の第二号魚雷艇
38ノットの高速を出し最も成功した日本の魚雷艇
と言われています。下は、外用行動を想定して大
型化が図られた第十四号魚雷艇の公試中の写真
です。大型化の為、速度は29ノットと低速になった
そうです。


敗戦の半年前に舞鶴で試験中の乙型魚雷艇。両弦
の落射機に45cm魚雷が搭載されているのがわかり
ます。ブリッジ後方の機銃は、13mm単装機銃です。
艇尾スロープ部に爆雷の搭載が可能であった。







海軍現役兵証書




珍しい現役兵証書です。同じ方の青年訓練手帳(村立大和)
大正5年7月1日〜昭和4年12月25日もあります。海軍の
現役兵証書には、甲種水兵第壱番山内寛・右現役兵ニ徴集
シ左ノ通入営ヲ命ス・・・。この方は満二十歳の徴兵検査で
甲種合格された人です。







海軍上等兵曹の海軍履歴表










この履歴表の方は、大正9年元旦生まれの福岡出身です。入隊前の職業は、
木工仕上工職人となっています。昭和15年12月1日に現役編入、翌年1月、
佐世保海兵団に入団。海軍四等水兵となります。同年4月15日、三等水兵に
昇進し、軍艦 出雲 乗組となります。以降は、出雲に乗艦し、支那方面艦隊
で戦地勤務。以降、昭和17年4月初旬まで同艦にて勤務。4月12日、臨時・
機雷水中測的特技兵として海軍機雷学校に入校。5月1日、海軍二等水兵に
昇進。8月15日、同校卒業。同日、鎮海防備隊付を命ぜられ、8月18日、
釜山着入隊となる。11月11日海軍上等水兵に昇進。昭和19年2月10日ま
で海上勤務配置となる(18年元旦、特技章を付与)。18年5月1日、海軍水
兵長に昇進。18年12月、現役延長2年となる。11月3日婚姻許可。12月1
日、志願兵籍に移籍。昭和19年2月1日、普通善行章一線付与となる。同年
2月27日、高等科水測術練習生(第11期)として海軍機雷学校封潜学校に
入校。5月1日、海軍二等兵曹に任じられる。7月27日、同校卒業。同日、佐
世保防備隊付を命ぜられ、7月29日、入隊海上配置勤務(水中測的員)とな
る。9月25日、第52号海防艦乗組を命ぜられ、10月3日、門司港を出港(戦
務甲)…南支那海方面にて船団護衛任務に就く。昭和20年元旦、門司港帰
港(戦務丁)。1月5日、第22海防隊編入。1月24日、門司港出港、太平洋方
面に(戦務甲)。3月4日、門司港帰港。3月21日〜4月29日、太平洋方面へ
(戦務甲)。5月1日、海軍一等兵曹に任じられる。5月2日〜7月5日、太平洋
方面(戦務甲)。7月5日、舞鶴入港。7月20日、大湊警備府府護衛部隊に編
入。7月22日、津軽防備部隊に編入。敗戦後、9月1日、海軍上等兵曹に任じ
られ同日、予備役に編入されています。この方の軍歴は、調度、日米戦の回線
一年前より始まり、敗戦までを海軍で過ごしております。運がよい方なのでしょ
う。一度も南方勤務する事無く、戦争の初期から中期までは、比較的安全な支
那方面、その後も本国周辺での勤務が敗戦まで続いておりました。尚、この方
は、高等科水測術章(高等科特技章)と海軍小銃優等章を受けております。ま
た昭和16年度の支那方面艦隊射撃幹部付検定にて褒賞を授与されています。
模範的な叩き上げの下士官であり、帝國海軍の終焉と共に海軍下士官の最高
位に上り詰め約6年に及ぶ軍歴を終えています。







明治〜大正と古き良き時代
       …ある一等兵曹の履歴表






明治41年9月に志願兵として海軍に入隊。大正四年10月31日に現役
満期除隊をされた一等兵曹殿の履歴表です。在籍鎮守府は、横須賀。
主に駆逐艦の乗組みが当初、多くその後は、長く入退院を繰り返して
います。しかし出世は、早く大湊防備隊を経て戦艦 金剛 乗組みにな
っています。これがこの方の最も良い戦闘艦艇への任務のようです。
最後は、横須賀海兵団の教員として現役生活を終えております。海軍
の下士官の最高位に立ち善行章四線を腕に入れていればもう怖いも
のは無かった事でしょう。







海軍の門鑑(通行証)




出入りの商人や職人の門監です。戦艦”金剛”、”陸奥”に
海軍砲術学校です。うち三枚は、同一人物です。手広く海軍
さん相手に商売をしていたのでしょう。門監にも甲乙丙がある
ようで、以下、4枚は、甲種になっています、珍しいものです。













海軍工廠の工員の身分証明書




上記の商人や職人は、部外者の門鑑です。こちらは、
海軍の雇用労働者の為のものです。









陸軍営門の門鑑(通行証)




表に歩兵第六連隊・通門鑑の焼印、裏に138の焼印
があります。大きさ幅60o・高さ70o・厚7o


輜重兵第三大隊補充隊印・第三八号・通門証。吉田の
名前が木札の横の部分に墨書されています。この方は
常時外出が必要な職務があった方のようでで専用の
通門証のようです。
     大きさ幅58o・高さ74o・厚9o


輜重第三大隊印・第十三号.通門証。
  大きさ60o・高さ76o・厚9o







  手 旗
(陸軍・海軍)




陸軍手旗

手旗は通常は赤白の大きさは同じですが、この
旗は遠くから見た時に赤は目立つが白は目立た
ないので大きさを変えた旗です。
     大きさ赤33x33cm。白38x38cm。




海軍手旗










台湾総督府の兵隊さん




上の画像は、ある人の軍隊手帖と在郷軍人会の手簿です。


さてこちらの兵隊さんは、明治21年の島根県生まれの方です。族籍が島根
平民となっているのが時代を感じさせます。兵科は、歩兵で所属は、台湾総
督府で台湾歩兵第二連隊第三中隊、階級は、一等兵です。軍歴は、明治
41年12月3日徴兵にて台湾歩兵第ニ連隊第三中隊に入隊。明治43年6
月に一等兵。同年11月21日に3年の現役を終えて帰休退営となる。以降、
予備役を4年4ヶ月、後備役を10年服務している。毎年の観閲点呼と数年
おきの勤務演習に参加し、最後の記載は、大正10年の観閲点呼となってい
る。この方が33歳の時である。…時代により現役召集より後備役終了まで
の17年4ヶ月の間、この方は、一度も戦場に出ておりません。…運不運は、
人の世の常ですが…。







海軍下士官の満期調書




上の画像は、一等水兵さんが
大正15年に作成した上官の
満期調書です。海軍入籍が
大正七年六月一日、現役満期
が大正十五年五月三十一日。
被服の寸法、本籍地、寄留地
恩給の有無、適任配置:砲員
などが記載されています。







明治39年の歩兵軍曹の叙勲に際して提出された履歴書と思われます。
現役入隊から満期除隊、予備役、後備役編入までの軍歴、戦歴と共
に賞罰等が詳細に記載されています。







大阪の歩兵軍曹の軍歴




大正7年生まれの大阪出身の歩兵軍曹の
軍隊手帖の中身です。所属は、第四師団
歩兵第三十七連隊 留守隊となっておりま
す。特業は、擲弾兵のようです。
昭和14年五月一日、20歳で現役兵として歩兵第37連隊
第1中隊に入隊しています。同年8月7日に歩兵第137連
隊要員として転属の為、大阪港より出国し、同年同月25
日に汕頭到着、その日より現地付近の警備任務に就く。

その後、中国々内を転戦し、同年11月4日、陸軍一等兵
に昇進。潮州、意渓、楓渓などを戦闘しながら転戦、翌15
年3月は、楓洋砲台〜潮州西部地区、鳳地山、筆哺、手
頭、望天石などを転戦して4月23日、潮州第三野戦病院
に入院。26日に汕頭野戦予備病院第5班に後送。7月1
日に歩兵上等兵に昇進。予備病院を7月22日に退院し第
三野戦病院に戻り入院。31日に退院、原隊に復帰する。
その後、昭和16年1月に部隊は、廣東に進出し戦闘及び
警備任務に就く、同年五月10日に陸軍兵長に昇進し、6
月6日より下士官勤務となる。6月18日、陸軍伍長に昇進
。この日、現役満期となり予備役編入となり即日臨時召集
となる。以降は、四邑、九練坂、担水など廣東省内を転戦
、昭和17年2月10日、第104師団第二野戦病院に左混性
胸膜炎の診断で入院。3月3日、右慢性上顎洞蓄膿症及
び右鼻茸、慢性肥厚性鼻炎の診断が追加される。同年4
月3日に退院。5月27日より9月2日まで従源作戦に従事。
10月に東莞県に移動、現地の警備任務に就く。8月1日、
陸軍軍曹に昇進。11月25日まで現地周辺で警備及び掃
討作戦に参加し、昭和18年2月14日黄哺出港、南京を経
て3月14日、帰国門司上陸。同日歩兵第34連隊補充隊に
転属。3月31日に召集解除となる。その後、昭和19年12
月3日に臨時召集がかかり中部第23部隊に応召される。
12月19日大阪連隊区司令部勤務となり、昭和20年3月2
日に中部第7627部隊に転属となる。同日第3中隊附とな
り3月5日に動員完結となり除隊となっています。







未入営補充兵






通常、兵役の歳(20歳の成人)になると徴兵検査が行われます。身長・体重など
より甲・乙・丙に分類されます。…所謂、甲種合格は、歩兵の現役兵になります。
それ以外は、順に第一補充兵、第二補充兵となります。一般に現役兵で欠員が
埋まらない場合、第一補充兵、次いで第二補充兵が補欠として充足される事に
なります。こうして虚弱体質等で現役兵に不適とされた人がその程度により第一
、第二補充兵として振り分けられて陸軍で2年の現役期間を未入営補充兵として
民間で過します。第二乙種合格の場合は、第一補充兵役が枯渇した場合に召集
されますが、実際には、よほどの大戦争でない限り、戦時でも召集対象とは、なり
ませんでした。…上記画像の方は、東京の方で明治44年生まれで職業は、ゴム
製品製造業となっています。また兵種は、輜重兵となっていますので第二乙種と
考えられます。軍隊手帖には、所属 京城師団 朝鮮第三十部隊 二等兵となっ
ていますが軍歴の記載は、一切ありません。未入営補充兵手帳の方に在郷軍人
会入会が昭和13年4月1日となっています。履歴に上の画像にあるとおり昭和14
年度未入営補充兵教育終了の判だけが捺されています。昭和14年当時で28歳
と想われます。敗戦の昭和20年で34歳…恐らくは、何の記載も無いので一度も
軍隊経験をせず敗戦を迎えたゴム職人さんだと思います。ただ向島の方ですの
で帝都大空襲で被害にあわれている可能性もあります。
未入営補充兵の徽章です。







補助憲兵




下の画像の軍隊手帖の主だった方は、明治35年生まれの京都の方です。
兵科は、歩兵で第十六師団の歩兵三十八連隊が所属です。大正12年1月
に徴兵により同連隊第七中隊に入隊。第一期卒業後、同年10月4日より、
補助憲兵要員として横浜憲兵隊に配属となり移動、6日より戒厳地域内の
憲兵司令部及び横浜憲兵隊に在りて戒厳に関する警備任務に従事する。
同年11月16日からは、通常警備任務となり、12月1日に一等卒に昇進。翌
13年3月20日に原隊復帰となる。その後同年11月の特別大演習(石川県)
に参加。同年11月30日に満期除隊となります。その後は、毎年、観閲点呼
を受けて、昭和7年6月3日に勤務演習の為応召、歩兵第四十連隊第二中
隊に入隊、6月17日に召集解除される。その後も、昭和12年8月31日に充
員補充召集を受け、歩兵第二十連隊に応召される。同日補充隊第三中隊
に編入される。同年12月30日に解除される。最後に昭和20年3月に臨時
動員を受けて同年4月8日、独立第644大隊要員として戦車第19連隊補充
隊に応召される。同日、独立歩兵644大隊第四中隊に編入。4月13日博多
港を出発、17日、済州島上陸、同年4月17日より8月20日まで済州島警備
任務に就く。8月21日、復員業務。11月2日、復員完結・召集解除となる。
最終階級は、陸軍上等兵でありました。









この方の所持していた歩兵第38連隊のアルバムより
所属した第16師団の師団長でしょうか、陸軍中将です。
御当人は、前列右より二人目の方です。歩兵第38連隊
第7中隊の第3内務班の集合写真です。
補助憲兵をしていた横浜憲兵隊本部









陸軍士官学校予科生徒の軍隊手帖










この方は、福岡県出身の明治41年生まれです。手帖の所管
は、教育総監部、部隊名は、陸軍士官学校予科第二中隊、
官等級は、生徒となっています。修正された、これ等の下に
は、歩兵第24連隊第十中隊、陸軍軍曹の文字が透けて見え
ます。軍歴は、昭和4年1月10日に徴兵にて歩兵第24連隊第
十中隊に入隊。同年4月第一期教育が終了。同年7月12日陸
軍一等兵。同年12月1日、第三期学生として熊本陸軍教導学
校に入校。学生隊第三中隊に編入される。同日上等兵に昇
進、同時に伍長勤務となる。昭和5年11月26日卒業。12月1
日、任歩兵伍長。歩兵第6連隊留守隊第三中隊に編入される
。翌6年12月、任歩兵軍曹。昭和7年2月、上海派遣混成旅団
編成下令にて機関銃中隊附となる。大陸に渡り、各地を転戦
し、同年3月8日、上海を出発し帰国する。3月29日、陸軍士官
学校入学。4月1日、陸軍士官学校予科入学、昭和9年3月17
日、陸軍士官学校予科卒業、同日、士官学校生を命ぜられ、
原隊に復帰。同年9月1日、陸軍士官学校本科入校。昭和11
年6月29日、陸軍士官学校本科を卒業。ここで軍隊手帖の記
載は、終わっています。晴れて任官した為、軍隊手帖が不要と
なったためと思われます。







前哨中隊長の配備報告例




こちらも面白い紙物です。中隊長の大尉から司令官の少佐に宛
てる報告例のようです。…前線の中隊長が斥候・偵察を行い敵
情を把握し中隊を、それに合わせて配置完了した事を大隊長に
報告する為の書式のようです。裏面が地図となって現況を現し
ています。演習や実戦でも使用されたのかも知れません。











報償休暇証明書




以下の紙物は、明治32年当時の期日記載のある報償休暇証明書
です。兵役にある者が民間でブラブラしてると職質にでもあうのでし
ょうか。そうした時に軍隊手帖と一緒にこの証明書を提示したのか
も知れませんね。







公務運賃割引証




その名の通り軍人が公務で汽車などを利用する際に割引運賃になる
為のもののようです。まあ学生の学割などに近いと思います。







マリヤナ時報・号外・三国共同宣言




当時、日本の信託統治領マリヤナ諸島に出された号外です。
ワシントン1945年7月29日発・【三国共同宣言発表】







東部軍管区情報の解説要図




ラジオを通じて出される、空襲警報の基となる敵機飛来の方向(場所)を
区切った地図です。…大きさ25x36cm







当時の御時世を反映するような面白い紙物








名古屋から神奈川の座間警察署に宛てた手紙と神戸水上警察署の
発行した刀剣類運搬届です。昭和12年12月17日の日付があります。
陸軍予備士官学校を卒業につき叔父より祝いの日本刀を東京の陸軍
士官学校まで所持運搬する事の届出を許可した書類です。手紙の方
は、座間警察署に愚息が士官学校に祝いの日本刀を持って入校して
上記の届出の書類を息子が持参し提出するはずでしたが、都合により
福井県鯖江の連隊に入隊した為…という母親からの警察に宛てた内容
となっています。12月25日の日付になっています。







陸軍航空隊中尉の戦死に関する書類




この遺族に宛てられた軍からの手紙の
中の書類が3枚ありました。
遺族の地域の町長に宛てた死亡報告書になります。
左の書類は、第三飛行集団の3課長より国内の留守部隊
の部隊長宛てに書かれた中尉の行方不明の通牒です。
右は、遺族に宛てられたものです。開戦後すぐの昭和16
年12月25日午後2時、英領ビルマ蘭貢攻撃の際、空中
戦にて敵弾を受け蘭貢市街に突入し壮烈な自爆を遂げ戦
死された事を通告する旨が留守部隊長より記載されてい
ます。







ある擲弾筒手の歴戦の帯皮






大先輩よりいただいた帯革です。この帯革の持ち主は、
少年兵として志願、中国に渡ったのは、昭和18年前後と
お聞きしています。以来、中国での戦いから仏印まで戦
い抜いて復員された擲弾筒手の伍長さんです。杭州湾に
上陸して桂湘作戦を戦い抜き、最後は八月二十何日かに
サイゴンでフランス軍と戦い(敗戦後にも戦ったようです)
生き残ったそうです。数百人の所属部隊が敗戦時には、
数人だけになったと言っておられたとの事です。幾度もの
死線を潜り抜け艱難辛苦の汗と涙が染込んだ帯革ですが
、まだまだ柔らかな帯革を手に取ると、薄くなり相当に使い
込まれていますが、長い従軍の御苦労が偲ばれ感無量の
想いが致します。

cf.元伍長さんのエピソード

擲弾筒手は力が有り、優秀な兵士が選ばれました。擲弾筒は
重くはないものの、擲弾の数が多ければ、かなりの重量になり
ました。兵士の中で、主に戦闘中に敵の兵隊を殺すのは、擲弾
筒手か機関銃手だからだそうです。擲弾筒は、対支那戦でも米
英軍に対しても非常に火力として有効だった事が知られていま
す。普通の兵隊にはこのような重要な火器は任せられません。
擲弾筒はかなり敵をを苦しめたようです。また擲弾の爆発音は
物凄かったので、中国軍は「小砲(シャオパオ)」とか言って、か
なり恐れていたようです。元擲弾筒手の伍長さんの話では、目
標に三発目で必ず命中させたそうです。擲弾筒を45°の角度に
保ち、つまみ(正式名称は忘れました)を回して、距離を調節した
そうです。夜でも、指先で射程を合わせて命中できたようです。
擲弾筒は続けざまに撃つことが出来ます(1分間に約20発)。ポ
ータブルだし、精度は悪くないし、射撃速度は速いし、殺傷範囲
が直径20mも有るし、600mまで届くし・・・、実に恐ろしい兵器
です。別の方の話しでは、木の枝を狙って擲弾筒を撃ち、枝の
所で爆発させて、下にいる敵を殺すテクニックも有るそうです。こ
の伍長さんは特務機関の訓練も受けたと言われていたそうです
。一番始めに教わるのは、肥桶の担ぎ方だそうです。例えば、右
足が前だとすると、中国人は左足を右足の所に持ってきて、次に
右足を進め、左足をまた右足の所という具合で、右、左が交互に
前になると云うような歩き方はしないそうです。これをみっちり仕
込まれたと言ってました。肥桶は武器を隠すのには持って来いで
す。








こちらは、中田商店で出している
複製品の擲弾筒嚢です。







ある陸軍軍曹の所持品




昭和14年度の剣術大会成績優秀の賞状が2枚
昭和15年度の剣術大会成績優秀の賞状が2枚


剣道が得意な人だったのでしょう。一種・二種剣術徽章をもらっております。


昭和16年の善行証書と独立守備隊記念章です。
入手しませんでしたがこの方は、小銃射撃徽章ももらっておりました。
昭和20年8月14日の表彰状と賞詞では伍長となっております。
引揚証明書と下は、復員証明書です。復員時は軍曹に昇進しています。
第54師団、歩兵121聯隊。満州守備隊〜インパール作戦〜昭和22年7
月にラングーンから引揚られてます。インパール作戦時には「切込隊」とし
ても生き残られた真の軍人との事です。


山本隊 同年兵住所録(ガリ版)