旧軍関連・戦前資料収載品 
  (軍装品...etc) Part W












その他、資料…etc


















2.26事件の貴重な裁判資料




左の画像は、北 一輝の遺影。右は、彼の墓です。以下の
資料は、2.26事件の青年将校に多大な影響を与えた北が
事件には、事前謀議など直接の関係はなかったが、蜂起し
た部隊に真崎大将に後事を一任するよう助言したなどもあ
って、事件鎮圧後に逮捕され、民間人であるが非公開の
特設軍法会議に掛けられ、死刑判決を受けた極秘裁判記
録である。この資料は、青年将校達の精神的支柱を形成
した北一輝の資料として裁判全般に使用されたと考えられ
ております。画像にあるとおり25冊中の13冊目の資料です
。歴史的な資料とも言えます。尚、北一輝は、1937年
8月処刑されております。






下の画像のものは、戦後のものです。
cf:北一樹

新潟県出身、旧制佐渡中学を中退し、その後、早稲田大の聴講生と
なる。独学で「国体論及び純正社会主義論」を発表するも、発禁処分
を受ける。普通選挙と経済革命、世界連邦を提唱し、本の出版による
縁で中国革命同志会・黒龍会とつながりを持つ。辛亥革命で宗教仁
に招かれ上海に渡航、宗の暗殺事件を受け国外退去処分とされ帰国
する。中国革命に関する本を執筆し、革命の支援と列強の中国分割
政策撤回を主張。再び上海へ渡航。その後、パリ講和会議の結果で
5・4運動が起こり、”国家改造案原理大綱”を執筆する。天皇を奉じ
て革命を起こし、階級制を打破した後、亜細亜連盟を掲げ、英国の侵
略からアジアを解放すべきであると主張する。帰国後、”日本改造法
案大綱”と改めて、刊行。特に陸軍青年将校に大きな影響を与える。
大川周明の猶存社参加して宮中某重大事件や安田生命争議。十五
銀行事件や朴烈怪写真事件など各種の事件に関わり、政府攻撃を展
開した。その後、ロンドン軍縮条約では、統帥権干犯を問題とした。こ
の頃よりテロの標的になる事を恐れた企業からの献金を受けるように
なり、終に2.26事件が起こる。1937年8月に刑死する。



事件解決後に各地で購入回覧された資料





この2部の資料は、東西両本願寺が社会思想対策調査
として官報より出た資料をまとめたもので…関係宗教団
体にも有料で配られた物のようです。これを印からする
と郡山市の秘書課が、各課長に意見統一するために廻
したもののようです。「マル秘」 「禁持出公開」の文字が
あります。








とある色紙より…。




上の画像の色紙の故 宇野元総理の寄書き部分を拡大したものです。
達筆な文字で”当時、陸軍主計少尉 宇野宗佑”と寄せ書きしてありま
す。生前、不名誉な女性問題で最短記録で内閣を失い、以降は、陽の
目を見る事が無かった不運な政治家ですが、先の大戦では、学徒出陣
で出征し、シベリアで2年間の抑留生活を体験されております。上の寄
書きを見ると…ソ連邦マラザ収容所で別れて27年とあります。恐らくは、
シベリア抑留から解放されて帰国復員して27年目で再会し宴を持ったの
だと思われます。他の方の寄書きには、”巡りきて生命ありて今宵よし”
、”生きてよかった生きててよかった27年”…まさに極寒のシベリアで非
道といえる処遇を生き延びた元日本軍人達の素直な心境が吐露されて
いる感じです。当然の事ながら個人的には、好きになれなかった宇野元
総理ですが…人に人生ありで仏になられた元総理に鞭打つような他サイ
トの記載がありますが、改めて見直すべきと思い至りました。故人を偲び
改めて以下に宇野元総理の略歴を記載致します。
  宇野 宗佑氏 略歴

1922(大正11)年8月27日生
1998(平成10)年5月19日没

滋賀県野洲郡守山町(守山市)出身

職業 政治家

趣味、俳句 俳号、犂子(れいし)

1943(昭和18)年 学徒出陣 神戸商業大学中退
戦後、2年間、シベリア抑留される
滋賀県議会議員を経て河野一郎秘書になる
1960(昭和35)年 衆議院議員(自民党・河野派)
1974(昭和49)年 防衛庁長官(第2次田中角榮内閣)
1976(昭和51)年 科技庁長官・原子力委員長(福田赳夫内閣)
1979(昭和54)年 行政管理庁長官(第2次大平正芳内閣)
1983(昭和58)年 通産大臣(第1次中曽根康弘内閣)
1988(昭和63)年 外務大臣(竹下登改造内閣)
1989(平成元)年 第13代自民党総裁
1989(平成元)年 第75代内閣総理大臣
 同年6月 女性スキャンダル発覚
 同年7月 参議院選惨敗(36議席) 引責辞任
   首相退任時の心境を「明鏡止水」と表現した
1996(平成8)年 政界を引退
守山市名誉市民
1998(平成10)年5月19日 肺癌のため死去
 最後の言葉は「今何時だ」








皇軍の記念メダルなど!




朝鮮軍(派遣軍)特演習参加章
後ろの文字がどうもピンボケしていましました。
このメダルは、帝国陸軍の朝鮮軍の師団対抗
特別演習の参加章の記念メダルです。皇紀弐
五九五年 非常時 とあります。真ん中の参加
章の下は、立襟の鍬型兵科章を模り、左に野
砲、右に26と彫ってあります。つまり皇紀2595
年(昭和10年)に京城に軍司令部を置く朝鮮軍
隷下の第20師団(龍山)、歩兵第40旅団の野
砲兵第26連隊(龍山:京城)のものである事が
判ります。因みに当時、朝鮮軍は羅南に展開
する第19師団と上記の第20師団を基幹として
いました。



満洲事変二周年記念章
  関東軍 皇紀二千五百九十三年 
 満洲事変二周年記念  九月十八日



満州事変出動記念 文鎮
昭和9年〜11年 歩兵第六連隊
 裏面は、満州の作戦地図



軍事功労章
これは、一般軍人でなく民間人で
軍に協力を惜しまなかった方に贈
られた徽章です。



第一船舶輸送司令部のメダルです。第一船舶輸送
司令部は現在の広島市南区、宇 品波止場公園一
帯にあり、この司令部は、日清戦争から太平洋戦争
まで陸軍の補給基地の心臓部として、 兵士、軍需
物資を戦線に輸送しました。末期の昭和20年になる
と、100トン以上の民間の船と船員は、軍の管理下
となり、 順次徴用され、暁部隊の結成となっていき
ました。



独立第二守備隊鉄道警備無事故功績徽章



熱河討伐章



海軍 普通科信号術練習生卒業記念徽章
海軍 通信学校 第七十一期高等科 卒業記念徽章

近衛歩兵第二連隊 在営記念の徽章


野砲第三連隊 従軍記念の徽章


陸軍特別大演習参加記念の徽章


昭和九年七月の近畿防空演習
参加記念 中大江防護分團


昭和九年・陸軍特別大演習記念・
      宇都宮・運輸保線事務所

昭和九年秋・前橋地方で大元帥陛下
の御統監で陸軍大演習が行はれた
時の御召列車を運行した記念に出さ
れたメダルです。


昭和8年11月、赤坂憲兵分隊
祝 宿舎竣工の記念メダルの
ようでです。


満州軍人後援会普通賛助員章
底角に欠けありますが、オリジナル桐箱
があり、良く見られる星章の欠落の無い
完全な品です。



陸軍野戦砲兵学校昭和九年度
分遣の記念もののようです







日独会議記念バッチ




上記画像のバッチは、1940年に結ばれた日独伊三国同盟の
事前会議などの記念バッチでしょうか?…1936年に日独防共
協定が結ばれて39年にドイツの外相が三国同盟を提案してい
ます。このバッチは、
         DEUTSH       ニチ
          JAP         ドク
         TAGUNG      カイギ
                1939

とあります。ドイツ語と日本語ですが…ドイツ語の方は、そのま
ま、独日会議となります。…ただ日本の表記がJAPですので…
恐らくドイツ側が製作して配ったバッチだと思います。バッチの
スタイルも日本では、珍しい釦に引っ掛けるタイプのものです。
また日本側で作成したものであれば右側の日本語をワザワザ
カタカナ表記にする必要も無く、日独会議とすれば4文字で収ま
ります。



日独文化協会記章





宮内庁御用達の安藤七宝店の箱に入っております。箱の内部には
本記章は昭和五年十一月三日東京ニ負於テ全国男女青年代表者
ノ御親閲ニ際シ参列者に交付シタルモノナリ  文部省とあります。
未使用でとても状態の良い物です。



帰朝歓迎記念の徽章(昭和13年)




日・独・伊の国旗があしらわれたデザインです。







支那事変記念章の変り種!




那事変の協力者に対し制定された記念章です。
授与対象者が少なく、発行も少ない為、希少と言
われた物です。また綬が付いた物は、特に少なく
殆どが下の画像の左の様に綬無しです。下の右は
、上の画像の綬を外した物です。知る人も少ない
事もあって超珍品とされ、バブルの頃には、10万
円の値段が付いたそうです。

こちらの支那事変記念章は、通常の記念章と少し違います。
また多くは、綬がありません。たまに綬をを付けた物も見受
けます。この記念章は、支那事変に従軍した陸海軍軍人に
授与された記念章では無く…現地の朝鮮族を中心に中国人
など日本軍に対して協力した者に授けられた記念章です。
これが一般的な支那事変従軍記念章です。







軍 票








旧軍が戦地及び占領地域で使用した軍票です。3枚目の
画像の縦長のものが最も古く日露戦争の時の軍票(銀10
銭)です。この他、フィリッピン等で使用されたペソ、センタ
ポ、ドル、セントなどの他、中国及び台湾や朝鮮で使用さ
れた円や銭、また南印でしょうか…ルピアなどがあります。


上の画像は、旧軍がフィリピンで使用していた
軍票。1センタボ−1000ペソまで10枚です。
大東亜戦争軍票 に号10ドル(斜M)と、に号
5セント(単記号ML)です。共に未使用品。
日華事変軍票 戊号1銭です。
日華事変軍票 上より右に丁号10円、丁号
5円、左下より右に戊号1円、丁号50銭
日華事変軍票 上より右に乙号
10円、丙号10円、下が丙号1円
日華事変軍票 左上より右に乙号100円、
丙号(異式)100円、下が丙号5円


丙号の100円札未使用3枚、戊号100円札
未使用3枚、戊号5銭札未使用3枚です。




フィリッピンのペソ軍票






昭和13年、五円の軍票の100枚束です。
まだ封は未開封のピン札です。







各種 割引国債・戦時貯蓄債




大日本帝国政府 支那事変割引国庫債券 壱拾円
大東亜戦争 戦時貯蓄債券 七円五拾銭
昭和17年 大東亜戦争国庫債券 百円 は号
貯蓄債券50円
大東亜債券20円
大東亜債券10円と20円
昭和16年 戦時貯蓄債券 7円50銭
昭和18年 支那事変割引国債







家族の肖像??




一枚の小さな写真立てに子供の写真と…使用済みの切手
兵隊さんの写真が入っております。セピア色の古びた写真
兵隊さんの写真は、ガラスに張り付いて剥がすと破れそう
です。子供の写真の裏には、名前と年齢、撮影年月日が
記載されております。昭和27年の撮影になっています。
写真の兵隊さんがお父さんなのでしょうか?…馬上の兵隊
さんは、騎兵用のサーベルから騎兵だと判ります。小銃を
肩に戦闘帽に背中に鉄兜で写真に納まっています。戦地
から家族へ送られた写真でしょうか…切手は、大日本帝國
とありますので敗戦前の使用済み切手です。家族とのやり
取りに使われた切手なのでしょう。…想像ですが戦死され
て復員しなかった騎兵のお父さんと戦後に育つ二人のお
子さんでは、無いかと思います。









各種衛生材料と衛生・軍医等の品




陸軍の点滴・注射用のアンプル類




海軍の点滴・注射用アンプル関係




今でも使えるようなアンプル類です。見事に箱入り
のまま残っています。封印も製造年月日の記載の
ある物もあります。懐かしいアンプルカッターが付属
されています。


ヨードチンキです。


当時は、強心カンフル剤として
使われたビタカンファーです。






星秘薬・陸軍需品廠・陸軍衛生材料廠…性病薬です。


りバノールを染込ませた滅菌ガーゼです。




九一年式繃帯 陸軍衛生材料本廠






















陸軍の縫合用の糸です。




陸軍薬局方・キニーネ錠瓶・大瓶と小瓶に・モヒ液瓶です。
キニーネは、一般に抗マラリア薬です。モヒ液は、良く判り
ませんが、塩酸モルフィン…モルヒネの略だと思いますの
で…液状で塗布して痛み止めとして使用したのかもしれま
せん。大瓶のキニーネの方には、まだ数錠の残薬がありま
す。
海軍で軍医されていた方が戦後も
所持されていた合成マラリア甲・乙
剤の二種類です。
甲剤の大瓶の方のラベルは、薄れて
海軍マーク等が読み取れませんが、
乙剤の方は、17.12.8と横須賀海軍
病院薬剤部としっかり読めます。



ラベルに陸軍衛生材料廠・莫比水・1cc=0.01とあります。


所謂、強心薬です。


止血剤の一種でしょうか。



良くわかりませんが局麻薬の一種でしょうか?
…若しくは、強ミノの類かも知れません。




横須賀海軍病院薬剤部製の消毒クリーム


所謂、トラコーマ(ドイツ語では、トラホーム)の治療剤として用いられた
ホー酸です。トラコーマは、クラミジア感染症であり性病として有名です。
またクラミジア肺炎も有名ですが、現在では、抗生剤の投与で大事に至
りませんが…当時では、まだ抗生剤も開発されておらず失明にいたる主
用な失明疾患の一つでした。開発途上国では、まだ伝染性疾患として猛
威をふるっています。この陸軍衛生材料廠の硼酸錠は、中身がそのまま
詰まっています。今でも硼酸は、結膜嚢の洗浄・消毒に使われています。




獣医部で使用されたヨードチンキです。


こちらも獣医部のものです。昭和18年塩野製と印
があります。現在の塩野義製薬の事でしょうか。




陸軍の浄水錠入れの金属ケース。説明文字はしっかり
残っています。中身はありませんが、試験用の薬液が入
ったガラスケースが残っています。


陸軍の医療鞄より出た薬品関係との事です。注射器は
ケースに格納され「針」も健在です。薬品はどれも未開
封、未使用、官許の”騙梅丸”梅毒、痔疾二袋、陸軍”
星秘貢”二箱、性病防止薬と塗薬の”蘇神薬”一箱、
食中毒の薬です。


クロールエチールは、当時、麻酔導入に使われた薬品です。
これで導入後、エーテルで全身麻酔の維持麻酔を行なった
ようです。導入の仕方は、ガーゼに含ませて吸入させていた
ようです。


陸軍の衛生材料のメンタ酒です。
メンタ酒は、陸軍衛生兵の四〇式包帯嚢の内容品として必ず一本づつ入っており
ました。最前線で用いられる衛生材料です。メンタ酒は言わばメントールを入れた
アルコールであり、ミントとアルコールによって作られた消毒薬です。証言などから
も消毒だけでなく傷病兵などへの気付け薬としても使用された例が確認できます。
割れないように専用の木製の筒に収納されメンタ酒と記入されています。既に揮発
してしまい中身は空です。包帯嚢はよく出て参りますが、メンタ酒は余り見かけませ
ん。珍しい一品と思います。


突撃一番…コンドームですが、ある意味
やはり衛生材と言えます。
兵用の支給品。初期の図案の物で、
中々出ないものだそうです。






戦中・戦後資料 嗚呼…ヒロポン




戦後の一時期まで合法的に販売された大日本製薬株式会社ヒロポン錠
(20錠)の空き瓶・箱・説明書の3点です。中身はさすがに残存していま
せん。
ヒロポン(Philopon)とは、大日本住友製薬によるメタンフェタミンの商品名であり
このメタンフェタミンの開発者は日本人です。明治26年に薬学者の長井 長義 氏
によりエフェドリンから合成されました。大正8年、これを緒方 章 氏が結晶化に成
功したものです。成分名は塩酸メタンフェタミン錠。剤型は紹介している錠剤の他
にアンプルがあり映画やテレビなどでは…錠剤より注射の方が覚醒剤・シャブや
ネタの名称で一般的かもしれません。このヒロポンの名は、”疲労をポンと取る”に
も掛けておりますが、英文綴りに見られるように、ギリシア語の”労働を愛する”を
由来としているそうです。
日本では大東亜戦争以前より製造されており”除倦覺醒劑”として販売されていました。
その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で、軍・民で使用されており
ました。現在でこそ覚醒剤の代名詞であるヒロポンですが、当時は副作用についてまだ
よく知られていなかった為、全く規制もされず、一種の強壮剤のような形で利用されて
おりました。当時の適応症は、”過度の肉体および精神活動時”、”夜間作業その他睡
気除去を必要とする時”、”疲労二日酔乗り物酔い”、”各種憂鬱症”でありました。軍で
は長距離飛行を行う航空兵等に支給されていました。ヒロポンの注射薬は”暗視ホルモ
ン”と呼ばれ、B29の迎撃にあたる夜間戦闘機隊員に投与されていました。中には一晩
で5機のB29を撃墜した例もあったようです。この為、ヒロポンは”決戦兵器”のひとつと
して量産され終戦時に大量に備蓄されていきました。敗戦により軍の備蓄品が一気に
市場へ流出すると酒や煙草といった嗜好品の欠乏も相まって人々が精神を昂揚させる
手軽な薬品として蔓延し市中に流れました。その依存者即ち”ポン中”が大量発生し、
中毒患者が50万人を超えるなど当時国内の社会問題となりました。加えて中毒者が行
う不潔な注射は、肝炎ウィルスの伝染機会を増加させて輸血後肝炎が拡大する遠因と
なりました。
政府は昭和24年にヒロポンを劇薬指定して覚醒剤としての製造の禁止を製造業者に勧告し
昭和26年に覚せい剤取締法を施行しました。これに伴い、日本国内では同法により規定さ
れた少数の研究・医療機関への販売や、統合失調症やナルコレプシーの治療等、限定的な
医療用途での使用といった項目を除いて、一切の使用・所持が禁止された(但し、日本薬局
方の医療用医薬品の麻薬として、未だに処方薬として残っています)。
現在は医療用として使われているのはヒロポンで無くメチルフェニデート (Methylphenidate)
で商品名は悪名高い”レタリン(リタリン)RitalinR”です。 精神科医(心療内科)がきちんとし
た診察もせず処方し中毒者を蔓延させたり…無資格者に処方させたなどで摘発を受けてニュ
ースになり記憶に新しいところですが…この薬はナルコレプシーならびに18歳未満のADHD
患者に対して使われれています。アンフェタミンに類似した中枢神経刺激薬です。慢性疲労
症候群といった症状に対しても効果があるとされています。リタリン (RitalinR) の他に、コン
サータ (ConcertaR) がメチルフェニデートを含む医薬品です。日本におけるリタリンの適応
症はナルコレプシー、コンサータの適応症は18歳未満のADHDです。
現在、大日本製薬(大日本住友製薬)の主力商品は、高血圧の降圧薬の
アムロジンや胃腸薬のガスモチン、抗アレルギー剤ではエバステルやジ
ルテック、糖尿病ではセイブルやメルビン等のお馴染の薬があります。
最近は目新しい新薬が無く…塩野義のイルべタンと同じARBでアバプロ
位のものでしょうか。










               ↑
大日本製薬は住友製薬を合併して大日本住友製薬
になっています。クリックで公式HPが開きます。








陸軍の軍医携帯嚢です。底の検査印は昭和十三年
になっています。中々しっかりした作りです。赤十字
のマークも綺麗に残っております。




脊椎麻酔と脊髄液穿刺に使われた当時のものです。








別の陸軍 軍医携帯嚢です。締め革に破れが
有ります。中身は大部分が欠品しています。




ペンのような物のキャップを外すとメスが仕込まれています。
これで咬傷の部位を切るのでしょう。その後、このメスの部
分を外すと本体に黒い粉末の薬が入っており傷口にまぶす
ようになっています。…効いたのでしょうか??…無理のよ
うな気がしますが…!?



長野県の内地部隊付軍医として敗戦を迎えた軍医少佐の携帯嚢です。
昇昂錠、ゴム絆創膏、薬用石鹸、その他含めて合計7本の薬入れと三
角巾、包帯等が入っています。戦後も使用していたらしく本体裏面の上
蓋を留める部分が取れかかっている事と負い革と本体をつなぐ所に補強
・補修があります。





陸軍 2瘉繿烽フ医柩 赤十字マーク入り
  寸法:72*28*35cm








旧型の将校用野戦行李ですが軍医もしくは、
野戦病院の物資輸送用のものです。


従軍看護婦用の包帯嚢。状態は、未使用。
標記は取り外されています。
  大きさ幅18x高さ22x厚さ7cm。


軍医の図嚢です。



海軍省医務局・色神表



海軍々医が将官の持ち物です。先天性識力の異常・
全色盲・部分色・色弱の検査に使用した式盲検査の
本です。指標は12枚付いてます。参考の為、現在で
も学校検診等で使用している色盲判定の本を以下に
画像出します。昔と大して変りません!




海軍醫務規則本






上の規則本は。昭和14年改正の美品です。
下のは、上に比べて痛みが表紙にあります。




石川県出身の元海軍医少佐吉野彦助(故人)氏が所持
していた物です。各所に書き込みがなされ相当に使い
込まれております。吉野氏は、明治四十四年に石川県
志雄町に生まれ、京都帝国大医学部を卒業後、軍医と
して入隊。四六年七月に復員して金沢市内で開業した
が、翌月、戦犯としてパプアニューギニア(当時はオース
トラリア)のマヌス島収容所に抑留され、六年後に刑期
を終えて帰国した。戦犯として南海のマヌス島収容所に
抑留された時に作詞した「星はめぐれど」は、ラジオを通
じてマヌス島にも届けられたといいます。その後、医療
関係者の協力により、「星はめぐれど」は軍歌などととも
にレコード化されたが、現在はほとんど残っていない状
況だそうです。…その歌を私は、聞いた事がありません
が機会があれば是非、一度聞いてみたいと想います。


以下の衛生材は、吉野軍医少佐の所持品です。
復員船で持ち帰った陸軍衛生本廠の昭和17年3月製造
のりバ湿布用のガーゼでしょうか…未開封の新品です。
今でも使えそうな状態です。
復員までの間に豪軍か米軍に支給されたと
思われる新品未開封の連合軍のガーゼや
包帯などです。
戦後の品でしょうか国内のメーカー
製造の包帯です。



cf. 吉野 海軍軍医少佐に関しての戦後資料!

上記で紹介した吉野少佐ですが戦犯としてマヌス島で抑留
生活を送るわけですがそちらに送られる前に巣鴨プリズン
(巣鴨拘置所:現在では、池袋のサンシャインが跡地に立っ
ており当時の面影はありません。)に収監されています。
この時の資料が以下となります。因みに戦犯の理由は、
上官の命令により連合軍捕虜に対して細菌注射を行った事
とその後の死体解剖となっております。 明らかなでっち上
げの戦犯容疑で…まともな裁判なら無罪となるべきところで
すが…多のBC級戦犯だけでなくA級を含む戦犯裁判そのも
のが戦勝側の明らかなガス抜きの報復行為に過ぎない事は
、歴然です。悲しい事ですが多くの名も無き将兵が無実の罪
で断罪されました。そうした意味で吉野少佐が6年の刑期を
終えて無事に帰国を果たしておりますので幸運な方と言える
かも知れません。 




葉書の方は、外務省巣鴨分室より家族宛てのものです。
マヌス島へ出発に際して家族が送った荷物が宛名の記載
が違った為、戻されたという内容です。手紙の方は、は巣
鴨拘置所からマヌスへの出発が近いとの知らせ、その他
の弁護士の話などで全て鉛筆書きです。手紙の日付けは
、2月24日で消印は、昭和25年3月6日になっています。
葉書の方は、昭和25年3月8日になっています。これから
家族と別れもう二度と逢う事も適わないかもしれない人間
に記載ミス程度であれば、外務省で尽力出来た筈とも思い
ます。これを受け取った家族の心中を察すると気の毒で胸
が痛む思いがします。  






外務省から送られた巣鴨留置所に入所時の
旅費送付書です。巣鴨留置所までの地図案
内もあります。 先の手紙で判りますが地元
の金沢の刑事が1名付き添ったようです。扱
いがとても丁寧だったのでお礼をと家族に宛
て記載されていました。
海軍の軍医時代の吉野少佐。




豪州より外務省を通じて家族に
通知された判決に関する文章で
す。





元海軍 軍医少将 本間正人医師の書いた嘆願書です。
かつて戦艦陸奥の軍医長だった時代に吉野少佐が本間
少将の部下だった縁で嘆願書をしたためたものです。
昭和25年3月19日ぼ日付けがあります。日本海員掖済会
小樽病院とあります。現在も当地には、小樽掖済会病院が
あります。不思議な縁ですがこの嘆願書を書いた本間先生
は、私の父の知人であります。確か御子息は、開業されて
いるはずで恐らく三代目の方が継承されていたかと思
います。本間先生が現役で掖済会病院で診療されていた頃
は、亡くなった私の父も帝大の大学病院におった頃です。ま
た奇しくも私の父は、旧制四高出身(金沢の旧制第四高等
学校)ですので吉野少佐の郷里である金沢に同時代に生き
ておりました。…金沢は、小さな町で人口も多くありませんか
ら、何処かですれ違っていたのかもしれません。…何となく
不思議な縁を感じました。







陸軍 包帯嚢と中身




皮製の陸軍 包帯嚢です。昭和18年の検定印があります。
中身は、衛生全書ポケットブック、衛生腕章、死傷手帳、通
信封筒及び通信便箋、衛生タスキ、携帯用注射器セット、
巻軸帯、91式包帯包、ヨードチンキなどに止血用のバンド
なのか不明のベルト状のものに将校用拳銃ベルト、マーゲ
ンチューブなどの代わりをするのか不明のゴム管などが入っ
ています。未使用品のようです。惜しい事に鞄のストラップが
切れています。












注射器一本と使い回しの注射針四本、薬剤壜が
四つのキットです。表に陸軍の星章があります。
一般的なキットだったのでしょう。携帯に便利な
頑丈な作りです。


画像は、休憩中の第二師団衛生隊
(通称:勇1312部隊)のものです。







陸軍 野戦気管切開器








セロハンに包まれて未使用の状態の品です。
気切をする握りとカニューレが三人分あります
。当時は、気管内挿管チューブが無かったでし
ょうから、顔面や口腔・咽頭に負傷し呼吸が行
なえない負傷兵には、軍医や衛生兵または、
使用法の講習を受けた兵士が緊急で気切をし
たものと思われます。











陸軍 外科嚢










軍医携帯嚢に入っていた物と思われる外科嚢
です。欠品がありますが研ぎ革に備品の一覧
が示されています。












陸軍の外科嚢です。





























陸軍 外科器械












外科の器材一式が木箱に詰められています。箱の
裏蓋に揃いの一式の定数と種類が記載されていま
す。また完全状態の備品の白黒写真が入っており
ました。

一緒に残されていた書類です。この方が戦後も保管
し続けたのでしょうか?それとも保管責任者の看護
婦だったのでしょうか。…不明ですが、これだけ
しっかりと残されており、今も現役で使えそうです。







陸軍 野戦用処置器具と嚢




コンパクトにまとめられている嚢です。
点滴用の器具と止血用か骨折などの処置に
使う器具にステート等がまとめられています。
点滴の器具は、通常時の点滴棒と違い樹木や
その辺の高さに合う物を利用できるように鎖状
になっています。緊急時の輸血や点滴には、も
ってこいの器具です。







陸軍獣医部の馬療嚢に衛生材料と旧型水筒




馬療嚢の右内側にセッシやカンシ(大、小)など
があります。アルミのケースに革製の衛生材料
嚢が収まってます。”馬療嚢内容品目表”の裏
に”昭和17”の印。水筒に『榎本放出班一班』と
氏名がありますが詳細は、不明。ゴム引き袋は
、マーゲンチューブのような物、空気入れや木製
の棒などが入っています。☆マークの衛生材料
は”○×ラビン錠”とあります。
馬療嚢は、負布や革に欠損など一部痛みあります。
検定印は、抱茗荷で獣医部を表しています。”馬療
嚢内容品目表”の留め部品が欠損しています。アル
マイト・ケースのガラスの注射器の先端が割れてい
ます。







陸軍獣医 携帯嚢















海軍 二號ガス救急箱








二号ガス救急函使用書と内部に記載され、”戦闘中化兵薬
に冒されたる時は自分で本器によりて手当てすべし”と有り
ます。化学兵器(イペリット・ルイサイト)に冒された状態によ
り手当ての方法が書かれています。







海軍 二號救急嚢

















海軍 陸戦隊 小医療箱・丙




意外に大きな物で驚きました。
民間の会社に委託して海軍が作らせたか、民間の
そうした製品を指定して買い上げた物のようです。
内部にアルマイト医療器工業株式会社の名前と共
に外科処置が出来るキットや消毒関係、注射等が
記載されています。
海軍陸戦隊の看護兵が使用した救急箱のようです。
戦後に薬の行商等をなされたようで中身は、
民間の薬に殆ど置き換わっています。


看護兵の衛生(赤十字)腕章やゲートル
など一部を除くと一般の民間市販薬に
置き換わっています。
左と下の画像は、大竹海兵団時代の記念写真です。
検閲印が広島憲兵隊で昭和19年7月30日になって
います。教育担当が軍医中尉と記載されていますの
で初めから看護兵として教育された模様です。上の
右の写真は、普通特技章が左臂についています。
右の臂章は、一等看護兵でしょうか。この方が持主
となった(戦後も)小西進氏と思われます。中にあっ
た戦後に記載された手帳や薬屋(富山も薬売りのよ
うな行商と思います。)として紹介してもらう名刺など
がありました。


陸戦隊医務課 小西進 と記載があります。











敗戦期に使用されたと思われる
    軍医または医師の衛生(赤十字)腕章




外地で使用された腕章だと思われます。
日本人國衛生部と判が捺されています。







陸軍 耳鼻咽喉器械小

















陸軍 代用歯科嚢



















明治の陸軍々医の資料


















明治32年3月静岡県立浜松尋常中学校(現浜松北高校)を
経て千葉医専(現千葉大学医学部)を卒業された医師です。
卒後は、千葉県立病院に奉職。風雲急を告げる日露戦争で
陸軍軍医として出征、戦役に従軍。凱旋、復員後は、再び
民間医療に尽くし、昭和3年従七位に叙せられるまでの辞令
、位記、卒業証書等で大小16枚、同一人物の記録です。








航空糧食 葉緑素食 昭和19年






大阪糧秣廠 サイズ 6×5×1.7cm の
一口サイズ!赤血球増多の目的で航空
耐性を増加する…との事です。一人1日
45gとなっており…この一箱が摂取量の
ようです!



陸軍航空隊で特別糧食として搭乗員などに支給
された航空糧食・航空元気酒の使用済空瓶です。
財団法人糧友会納(大正14年に発足した陸軍糧
秣本廠の外郭団体)糧食関係の史料は消耗品扱
いなので現存数も少なく糧食のデットストックが
出てくる事も稀なようです。







昭和10年 軍艦・沖島 進水記念 機雷型灰皿










軍艦・沖島 進水記念 昭和十年十一月十五日 (株)播磨造船所 。
籾山模型と裏にあり。重厚感のある立派な灰皿です。使うのが勿体無
い感じです。高さ9,6cm 直径7,1cm 銅製です。尚、軍艦 沖島は、
機雷敷設艦 沖島の事を指しています。意外と大きな艦です。基準排
水量 4,470トン、最大速度 20ノット、武装は、14cm砲4門、
8cm高角砲2門、機雷500基を搭載しています。更に水偵1機を搭載し
ている。特務艦にしては、結構な重武装艦です。機雷を敷設や除去を
専門とする軍艦です。元々この任務は専門艦種がなかったため、他の
艦で代用していました。大正9年に敷設艦という分類が置かれた。任
務は機雷関係にとどまらず、上陸支援や輸送、哨戒など様々でした。
また機雷の敷設は、これらの艦以外に一般から徴用した船も多様され
この沖島は、同じ敷設艦の津軽、常盤の三艦で第19戦隊を構成し、
開戦後は、トラック方面に進出し、警備任務等に就いていた。同年5月
11日、アメリカ潜水艦(SS153)に雷撃され第23駆逐隊の駆逐艦”夕
月”と共に…その後、沈没するが沖島は、翌日、ニューアイルランド島
セントジョージ岬北東海上において松岡汽船所属の貨物船 松栄丸
(5.644トン)が救難作業を行うが、この松栄丸も救難中、左舷に二発
被雷して横転沈没し、船員8名が戦死しています。横須賀のヴェルニ
ー公園に沈没した沖島の記念碑があります。その碑には、
『原始 海は生命の故郷であった その海に果て その海深く眠る
戦友たちの御魂やすかれと いのちながらえしもの あい集い
再び いくさあらすなと ねがうものなり』 と刻まれています。








各 種 地 図




昭和19年の北支那(中国東北部)の地図

きれいなカラーの地図です。今の地図と見劣りがしません。
漢字表記が左からでなく右からなのと…占領時代の地名
が違うくらいの物です。



作 戦 地 図




歩兵第三十一連隊 連隊長 伊藤晃大佐の地図です!


琵琶湖周辺の地図です。演習用に使用した
と思われます。
10万分の1盧溝橋付近の地図です。


旧満州の地図だと思われます。
図上演習想定図もあります。






5万分の1の地図を12枚張り合わせて
います。満州の地図かと思われ,集廠子
等の地名があります。



演 習 地 図






昭和8年の歩兵第29旅團団秋期演習地図
です。静岡地区の地図となっています。



上海日本租界攻防作戦図(上海事件)






  【海軍々事普及部・上海付近図・昭和十二年九月製作】

大きさ幅148x高さ205cm(超大型)。上海租界(日・米・英・
仏)の全図。日本海軍陸戦隊本部・海軍陸軍武官室・日本海
軍クラブ・銀行・学校・寺社・紡績工地帯・・・この地図に第二
次上海事変の上海における抗日軍と日本軍の攻防を示す作
戦が書き込まれています。赤線は日本軍・青線は抗日軍・10
月23日日本軍増援隊上海上陸・10月27日中国軍撤退が書
かれております。上海租界の日本街を知るのに参考になりま
す。







海軍の海図(小樽港) 






大正9年 小樽港の海図です。…海軍
の昭和16年水路部印があります。







貨物船 山月丸、進水記念の斧
   (昭和12年 三菱重工 横須賀船梁)








山月丸は、軍の輸送船として徴用され、1942(昭和17)
年11月15日、午前2時頃ガダルカナル島に到着、揚陸
開始し午前3時に作業打切り帰途につくが、敵艦6隻を
発見して反転。午前4時16分頃、アルリゴ川口南東に座
礁、身動きが取れなくなったところで空爆を受ける。船員
43名が戦死。

山下汽船所属 6438t


今も尚、ガダルカナルに骸を晒す山月丸







軍艦 羽黒 就航記念の斧




昭和三年三月 三菱造船株式会社長崎造船所と
刻まれています。また三菱のマークがあります。


重巡洋艦 羽黒は、妙高型重巡の二番艦です。この画像
は、昭和5年1月頃に妙高型重巡が四隻、勢ぞろいした
珍しい画像です。手前から第四戦隊 旗艦 足柄、二番艦
羽黒。三番艦 妙高、四番艦 那智 となります。当時、
妙高型の四隻は、第二艦隊第四戦隊にあって、
重巡 古鷹、青葉型 などで編制された第五戦隊と共に
第二艦隊の主力として存在していました。
羽黒は、大正9年に三菱重工長崎造船所で起工。昭和4年に
就役しました。帝國海軍の誇る主力重巡として戦いましたが昭
和20年5月16日 ペナン沖海戦で駆逐艦 神風とともに航行中
、英海軍の駆逐艦五隻と交戦となり、先制するが英駆逐艦の
雷撃を受け沈没。橋本信太郎 中将以下400余命が戦没しま
した。同型艦で生き残った艦は、妙高だけとなります。この
妙高も敗戦後、英軍の手によりマラッカ海峡で海没処理されま
した。

        【基本性能】

・基準排水量:13,000t, 公試排水量:14,743t

・全長:203.76m 全幅:20.73m

・最高速力:速力 34ノット

・兵装:
   20.3cm連装砲5基10門, 12.7cm対空砲連装4基8門,
   25mm対空機銃8門, 13.2mm対空機銃4門,
   61cm魚雷発射管4基16門, 航空機3機







ある航空兵の記録




私の手許にある3冊の手帳、ある航空兵の記録
です。少し、紐解きながら見ていこうと思います。
ここに3つの手帖があります。一番左は、軍隊手帖。
…召集された兵士なら誰でも持っていたものです。
右の2冊は、航空手帖となっております。一号と二号
です。記名欄の階級は、初めが…陸軍騎兵軍曹、そ
して第二号の方には、陸軍航空曹長となっています。
軍隊手帖の中身です。今で言うなら身分証明に当たる
部分です。明治32年生まれの長崎出身の方です。存命
であれば105歳となります。族籍には、士族とあり、時代
を感じさせます。つまり明治維新前の身分は、武士階級
出身と言う事を示します。所属は、第12師団、飛行第八
連隊第一中隊、階級は、曹長です。特業の欄には、偵
察操縦となっております。兵種は、航空兵です。これらは
、修正され貼り紙をされております。その修正前を透かし
て見ると兵種は、騎兵、特業も騎兵、階級は、軍曹となっ
ています。所属は、騎兵第22連隊第三中隊。つまり騎兵
軍曹から航空兵に転科し、航空曹長に昇進した人物であ
る事が判ります。




この方の軍歴のはじまりは、大正7年の召集から始まります。
騎兵第22連隊第一中隊に入営。翌8年、一等卒、9年上等
兵。10年に伍長勤務上等兵、1同年に伍長へ昇進。翌11年
第三中隊付となり、同年飛行第四連隊付を命ぜられ軍曹に
昇進する。そして航空学校操縦学生として所沢の航空学校
に入校。大正13年操縦課程を修了、下志津飛行学校へ偵
察操縦兼射撃学生として入校。同年、退校し、射撃学生とし
て明野飛行学校へ入校し翌14年卒業と同時に曹長に進級。
飛行第八連隊付となる。その後、昭和2年に下士官勤功章を
授与され、翌3年の観兵式参加まで記載されているが…以降
は、恐らく准尉に昇進した為、准士官となり記載しなくなったも
のと思われます。この段階でまだ28歳ですので日米戦の開戦
時で41歳です。恐らく中・大尉、開戦後に実戦に出ていたら、
下手すると少佐位まで進級していたかも知れませんね。
航空兵として転科した最初の手簿第一号です。
これ以降教練の内容等が詳細に記載され
ます。練習機の機種から馬力まで…。


   






曹長に昇進後第二号の手簿になります。
昭和元年12月までの累積の搭乗回数1059回
搭乗時間は、359.42時間となっております。
錬成の為の飛行が中心で実戦が無い為とい
う事もあり大正13年から昭和元年末の3年間
で飛行時間360時間と言うのは、年間ベース
で120時間ですから少ない方だという気がし
ます。




第二号は、昭和2年1月より始まります。主に慣熟飛行や
高等飛行、無線通信などから編隊飛行、写真撮影、射撃
訓練などが初めは、中心です。この年の年末には、アクロ
バット飛行なども入り、明けて昭和3年からは、薄暮飛行、
台湾までの羅針盤飛行、払暁飛行など難易度の高いレベ
ルに移行しています。また砲兵観測や地上攻撃、対戦闘
機単機訓練なども頻回に行っています。昭和3年暮には、
観兵式の分列編隊飛行にも参加し、昭和4年に入ると主に
夜間飛行や防御戦闘を訓練しています。昭和5年に入ると
訓練の合間に空からの砲兵協力を積極的に行っています
。この年の暮には、アクロバット飛行を相当行っております
。昭和6年に入ると八八式に乗機が変わり、習熟訓練に集
中しており、この機体での計器飛行を集中しています。昭
和7年になり編隊飛行訓練も入りますが相変わらず、実戦
らしい実戦は、無く訓練に次ぐ訓練に終始します。この年の
11月21日の場周飛行を最後に記載は、途切れてしまいま
す。この時まで累積搭乗回数1162回、累積飛行時間464.
50時間です。6年間で飛行時間は、105時間増加、搭乗回
数は、103回増加でした。年齢は、32歳…。これで退役した
とは、考えられません。訓練中の事故等で亡くならない限り
陸軍航空隊に存在していたと考えます。…日米戦開戦まで
後10年の時期です。







手 紙




この達筆な手紙は、日露戦争で活躍した陸軍
中将 松永正敏 が知人に宛てたものです。

(松永中将略歴)

1907年9月21日生まれ 肥後(熊本)
男爵 西南戦争・日清・日露戦争の功労。
第三軍参謀長、第三・二各師団長







陸軍 軍医 三木良定氏の所持品




三木軍医の所持していた陸軍医学校50年史と軍関係
(特に衛生部)の名刺入れ2冊です。それぞれの名刺
入れには、名刺が407枚と179枚が入っておりました。

名刺入れの中の一部です。

cf.三木良英 陸軍軍医中将に関しまして
       (兵庫県出身)

昭和2年12月16日  軍医学校部員
   3年 8月10日  一等軍医正 医学博士
   8年 8月 1日  軍医監
  10年 8月 1日  近衛師団軍医部長
  11年 8月 1日  陸軍軍医学校幹事
  12年 3月 1日  中将 朝鮮軍々医部長
  13年12月10日  陸軍医務局長 兼
             大本営野戦衛生長官
  18年 3月 1日   待命
      3月 2日   予備 陸軍軍医学校長
  19年12月13日   応召解除







東京・電信第一連隊工兵の資料








開戦の年の正月に曹長に上りつめた方です。
下士官の最高峰を極めたこの方は、年末に
開戦となり…恐らく士官へ昇進したものと思い
ます。







ある陸軍少尉の除隊証明と引揚証明書




大阪出身で昭和18年の暮れに少尉に任官した
方の物です。満州から引揚げて来た事が記載さ
れております。昭和20年9月1日に召集解除され
ています。引揚証明書から元々大阪市の市吏員
であった事が判ります。御家族は、4名。20年9月
の時点で30歳となっております。その後、旧軍人
の公職追放でこの方も役所の公務員の仕事を外
されたのでしょうか…戦後をどう生きられたので
しょうか。







徴兵免除証書











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