旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part V_3












〜書〜




陸軍少将 福永 宗之助
福永少将は、日露戦争時の第二軍所属の野砲兵第一
旅団長を勤められた方です。




第20師団長 室 兼次 陸軍中将
室中将は、陸士9期、陸大20期、最終職は、第20師団長




陸軍教育総監 岸本 鹿太郎 大将
岸本大将は、陸士5期、陸大15期、岡山出身、最終の
現役職は、東京警備司令官。




陸軍大将 黒木 為
黒木大将は、鹿児島県出身、父は、薩摩藩士。戊辰戦争に従軍。
維新後、御親兵隊に入り大尉となる。西南戦争に出征。日清戦争
では、第六師団長として威海衛の攻撃に参加。明治36年に陸軍
大将。日露戦争では、第一軍司令官として鴨緑江から奉天の会戦
まで連戦。戦功により男爵、のちに伯爵を授けられたが、長州閥
全盛期の為、元帥への道は、適わなかった。大正6年、枢密顧問
官となる。大正12年2月3日に逝去。



清水 喜重 陸軍中将は、この式の行われる3ヶ月前まで
第116師団長をされていた方です。愛媛県出身、士候14
陸大22期、第十二師団長を最後に昭和12年に予備役に
なっておりましたが、支那事変の拡大で京都に新設の第
116師団が特設されると召集を受けて昭和13年5月15日
に師団長になります。翌14年4月19日に召集解除されま
す。この葬儀の時は予備役陸軍中将です。昭和28年8月
15日に歿。色紙の表裏に記載があります。

稲垣 孝照 予備役陸軍中将の色紙に書かれた書です。
この方は士候12期、愛媛県出身です。昭和10年3月30
日に予備役になられた方で、最終職は第三師団留守司
令官、その前は歩兵第十旅団長。昭和17年に大政翼賛
会市協力会議々長そして翼賛政治体制協議会京都府支
部長を歴任されていたので京都在住者で前の百十六師
団長 清水閣下と同郷の愛媛県の繋がりで来賓として呼
ばれたものと想像します。



左は、海軍中将 村田豊太郎の書。真ん中は、村田中将がラバウルの
空襲で戦死した海軍上等兵長の死を悼んで、昭和22年に書家の方に
書いていただいた書の様です。右は、陸軍大将 佐久間佐馬太の書
です。尚、村田中将は、鹿児島出身。昭和2年舞鶴工作部長、昭和7年
横須賀工廠長。昭和2年少将、昭和7年中将。造艦畑を歩んだ方です。
また、右の佐久間大将は、山口出身。明治7年熊本鎮台参謀長、明治
8年第6聯隊連隊長、明治29年近衛師団長、明治39年台湾総督。20
年男爵、28年子爵、40年伯爵。明治初期に活躍した方です。






瓜生外吉 海軍大将(上)と旧 日本電力 社長 池尾芳蔵氏
(下)の手紙を軸にしたものです。

上の画像は、瓜生大将の書です。瓜生大将は、明治期の海軍々人で加賀大聖寺藩
出身。海軍兵学校に入学するも卒業せず渡米し海軍学を修め、西南戦争に参加して
明治13年海軍少尉に任じられる、24年に大佐、日清戦争時は、仏大使館付武官で
参戦せず、日露戦争時に少将で第四戦隊司令官で仁川沖海戦でその名を上げる。
竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任し
男爵、大正元年に海軍大将。昭和12年11月11日、81歳で没している。


上は、池尾芳蔵氏の手紙です。池尾氏は、昭和11年電気協会々長として電力
国家管理法案問題が持ち上がると軍部と真っ向から対決し。一時廃案に追い込
む程の手腕を見せました。昭和16年、日本発送電総裁となり、敗戦後は関西電
力相談役を勤め、昭和34年9月8日に81歳で没しております。




海軍大将 山本英輔 の肉筆の書です。
山本大将は、鹿児島出身、海兵24期、
連合艦隊司令長官をされた方です。
山本權兵衞の甥としても有名です。下
の画像は、山本權兵衞 海軍大将(功
一級、伯爵、総理大臣)です。
下は、横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所
水光荘に飾られていた山本大将の扁額です。



南次郎 陸軍大将の書です。南大将は、大分出身。
大正15年、第16師団師団長、昭和4年、朝鮮軍司
令官、昭和5年陸軍大将、昭和6年陸軍大臣。政治
家としても有な方です。
下の書も 南 次郎 大将 のです。




右から佐藤鋼次郎 陸軍中将の書、次が細野辰雄 陸軍少将の書
です。黒い点状の痛みのあるのが…海軍大将米内光政と思われ、
その左のものは、不明です。左端は、大塚堅之助 陸軍中将の書で
す。尚、佐藤鋼次郎陸軍中将は、重砲畑の方です。愛知出身。明治
38年旅順要塞参謀長、明治40年重砲第五聯隊連隊長、明治45
年支那駐屯司令官、大正3年重砲兵監。また、細野辰雄陸軍少将は
歩兵第70聯隊連隊長、大正7年少将になられた方です。そして大塚
堅之助陸軍中将は、愛知県出身、歩兵畑の方で、大正15年歩兵第
33聯隊(三重県津)、昭和6年近衛歩兵旅団長、昭和9年陸軍中将、
留守7師団師団長、陸大25期です。
米内光政 海軍大将
米内海軍大将の書です。
下は、横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所
水光荘に飾られていた米内大将の扁額です。




右から鹿児島出身の陸軍大将 町田経宇(英堂)肉筆の書、その左の
2点は、堀内中将の書となっております。堀内中将ですが、陸軍に1
名、海軍に2名います。陸軍は堀内次郎中将で海軍は堀内三郎中将
と堀内茂札中将になります。左の2点は、久保隊長と有り、中将という
札が付いていました。そのまままま解釈しますと、昭和15年鉄道第6
聯隊連隊長、17年関東軍築城部長などを歴任した技術畑の人物の
ようです。尚、先の陸軍の堀内次郎中将は、明治39年58連隊長、
明治44年23旅団長。そして海軍の堀内三郎中将は、大正7年砲術
学校校長、大正13年横鎮長官。もう一人の堀内茂札中将は昭和8
年球磨艦長をされた方です。
町田 経宇 陸軍大将



           ◆伊豆 凡夫 陸軍少将◆

群馬県出身、軍人・実業家、従2位勲3等功3級

17歳で陸軍教導団に志願。卒後、熊本鎮台歩兵13連隊付
(軍曹)。明治16年、陸軍士官学校入学。その後、陸軍大学
に進み、日清戦争で大山巌の副官として金洲半島に上陸、参
戦。大尉で凱旋の後、参謀本部に入り、陸軍大学の教官を兼
ねました。日露戦争の際には、乃木大将に従って、旅順の
203高地の激戦に参謀中佐として参戦。明治41年、大阪歩兵
第37連隊長となり、少将に昇進。退役後は、富国徴兵保険会
社を創設し、実業界入りました。その後、多くの団体役員を兼ね
公共事業に尽力しました。

こちらの肉筆短冊も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。


こちらの肉筆色紙も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。



こちらの肉筆短冊も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。





「坂の上の雲」登場人物で知られる
佐藤 鉄太郎 海軍中将の
肉筆短冊




              ◆ 佐藤 鉄太郎 海軍中将 ◆

慶応2年7月13日〜昭和17年3月4日。海軍中将。山形県鶴岡市出身。
旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名
中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。日清戦争に砲艦「赤城」航海
長として参加。その際、艦長が戦死し代わりに艦の指揮を執る。その後海軍
大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊参謀と
して参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[1]。日本海海
戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝
利に貢献した。日露戦争後に海軍大学校選科学生在籍のまま同時に
海軍大学校教官に任命されると言う一見すると矛盾の様に見える人事を
拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅い事から学生のまま他
方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した様である。軍令
部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、
加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年に予備役に編入さ
れる。昭和9年勅選の貴族院議員となる。陸軍の東條英教陸軍中将と並
ぶ戦史研究の大家と称されていた。
 
               出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


同じく佐藤 鉄太郎 海軍中将の二行書





右はじは、福田海軍少将の書です。福田海軍少将は、青森出身。
昭和11年龍田艦長のあと、14年第三砲艦隊司令、15年漢口特
務部長、19年第24根拠地司令官。揚子江などの江上艦隊で活
躍した人物です。次の書は、建国の書軸で表装などの程度も良く、
絹に書かれているようです。続いて陸軍少将 古城胤秀氏の書で
す。古城少将は鹿児島出身で、昭和7年から近衛第一、第二聯隊
連隊長を務められた方です。



正木 義太 海軍中将 自筆書「観世音菩薩」

        ◆ 正木 義太 海軍中将 ◆

                (略 歴)

 明治4年10月25日生 広島県出身

 海軍兵学校(21期)

明治28年12月 任海軍少尉任官(佐世保鎮守府海兵団分隊士)
明治32年 9月 「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)
          「鳥海」分隊長、同航海長
          呉水雷団第2水雷艇隊艇長
          「橋立」分隊長、艦政本部副官
明治36年 5月 「富士」分隊長
          海兵航海術教官兼監事
          「高砂」分隊長
明治37年 1月 「高砂」砲術長
明治37年 2月 旅順港閉塞作戦
明治37年 4月 佐世保鎮守府付
          海兵砲術教官兼監事
明治38年 8月 任海軍少佐

明治39年 1月 海軍大学校(選科学生)
明治39年 4月 砲術練習所教官兼分隊長
明治40年 9月 海軍教育本部員、海軍砲術学校教官
明治42年10月 任海軍中佐
明治42年12月 「薩摩」砲術長、兼横須賀海軍工廠艤装員
          造兵監督官(イギリス出張)
          艦政本部艤装員兼造兵監督官
          造兵監督官兼英国駐在
          「金剛」副長兼艦政本部艤装員
           造兵監督官を歴任。

大正2年11月  海軍省出仕、横須賀鎮守府付、艦政本部員
大正3 年 9月  第2艦隊付兼重砲隊指揮官 青島の戦いに参戦。
大正3年12月  任海軍大佐「橋立」艦長。
大正4 年 2月  海兵教頭兼監事長
大正6 年12月  戦艦「河内」艦長
大正7 年 7 月 「河内」徳山湾にて火薬庫の爆発事故により爆沈
大正7 年 9月  呉鎮守府付、呉海兵団長兼「石見」艦長
大正9 年12月 任海軍少将。呉鎮守府参謀長
大正11年12月 舞鶴海軍工廠長
          舞鶴要港部工作部長
          横須賀海軍工廠長
大正13年12月 任海軍中将
大正14年 4月 軍令部出仕
大正14年 7月  待 命
大正14年12月 予 備 役

昭和9年10月29日 逝 去




      初代連合艦隊司令長官 伊東祐亨 元帥の書

伯爵・功一級・大勲位・元帥・海軍大将 初代連合艦隊司令長官
伊東祐亨の書です。日清戦争時は連合艦隊司令長官として旗艦
「松島」に乗り込み黄海海戦で清国の北洋艦隊を全滅させ、のち、
軍令部総長になっています。「碧海」は伊東元帥の号です。





斉藤 実 海軍大将の横額2枚です。


斉藤 実 海軍大将は、岩手県出身、明治31年厳島艦長 36年海軍次官
 39年海軍大臣 大8年朝鮮総督 昭和7年内閣総理大臣 昭和11年2
月26日逝去。泉水は、斉藤大将の号です。





    海軍中将 東郷吉太郎の書
海軍元帥 東郷平八郎の甥にあたる方です。




右が日比野正治 海軍中将の書。愛知出身、昭和6年日向艦長、
15年呉鎮守府長官・功三級。左の書が佐藤鋼次郎 陸軍中将。
愛知出身、明治37年重砲第五連隊長、大正3年重砲兵監。




牛島貞夫陸軍中将の書。大正12年、歩兵第三聯隊連隊長、
昭和12年、第十八師団師団長となっています。裏にペン字で
、”昭和19年8月8日お泊り 帝国在郷軍人会副会長牛島中
将”とあります。おそらく地方の旅館で宿泊の際に書いていた
だいたものと思われます。




皇道派の領袖というべき荒木貞夫陸軍大将の書です。
青年将校の信望を集めた将軍として有名です。東京
裁判ではA級戦犯で終身刑。荒木大将の講演会「天地
正大会」の箱書き付 紙本 布表装 193cm×43cm
軸は木製です。




皇道派の盟主的な存在で有名な荒木貞夫 陸軍大将の
書です。1877年5月生まれ、東京出身で陸士9期、陸大
19期首席卒業、憲兵司令官・陸大校長・第6師団長・教育
総監部本部長などを歴任後、犬養内閣で陸軍大臣、軍事
参議官。2.26事件で青年将校に同情的であり予備役に。そ
の後、近衛内閣で文相、内閣参議官。敗戦後にA級戦犯と
され終身刑となるが病気にて出所、1966年11月没。書に
は、箱書きと由来書が一緒にありました。
こちらも荒木大将の書です。
東京出身 陸大主席恩賜組 功四級 男爵 
大正8年 歩兵第二十三聯隊連隊長、大正
13年 憲兵司令官 昭和6年 陸軍大臣。




左の書の大塚陸軍中将は愛知出身、歩兵第33連隊長、近衛第一
旅団長、昭和9年中将に昇進した方です。右の書の山田虎夫陸軍
中将は愛知出身、第6師団師団長、大正10年に陸軍中将なられた
方です。




竹下勇海軍大将の肉筆書です。海軍兵学校十五期
海軍大学一期 第一艦隊長官 軍令部次長 連合
艦隊司令長官 呉鎮守府長官等を歴任されました。
米大統領のセオドア・ルーズベルトとは個人的な友
情が深かった事でも有名な方です。

昭和15年4月30日の消印のある竹下勇予備役海軍大将の
出された葉書です。この年に皇武会初代会長に、その前年
に大日本相撲協会会長をとつめてられています。




菱刈隆陸軍大将の書です。
鹿児島出身 昭和4年 陸軍大将、大正3年 歩兵第四聯隊連隊長
昭和2年 第四師団師団長、昭和5年 関東軍司令官。


上下の色紙も菱刈隆陸軍大将のものです。









嶋田 繁太郎 海軍大将の扁額です。東京出身、山本五十六
大将と同期の海兵32期。海大13期。海軍大臣、軍令部総長を
務めます。敗戦後は、A級戦犯として終身刑となるも昭和30年
に仮釈放後赦免され、昭和51年に死去。




左から陸軍大将 大迫尚道の書、陸軍中将 茨木惟昭の書、
陸軍大将 福田雅太郎の書、海軍大将 八代六郎の書です。

大迫陸軍大将、鹿児島出身、砲兵科、明治39年野砲兵監
第十八,十四師団長をへて軍事参謀官となる。
茨木陸軍中将、和歌山出身、功三級、男爵、
歩兵第八旅団長、第六師団長。
福田陸軍大将、長野出身、功三級、陸士9期、
関東大震災時の関東戒厳司令官として有名な
方です。下の色紙も福田大将の書です。

八代海軍大将は、愛知出身、功三級、
明治42年に第一艦隊司令長官、大正
3年に海軍大臣、大正7年に海軍大将
です。




第七代 台湾総督 明石元二郎 陸軍大将

福岡出身、陸士6期

台湾総督在任中は、水力発電所を設置し日本人と台湾人
が均等に教育を受けられるよう法を整備し華南銀行を設
立した事で有名。日露戦争においては、機密工作により
ロシア革命を支援し、日本の勝利に大き く貢献した蔭の
立役者でありました。死後は大将の遺言により、遺体は
台湾に埋葬され、2000年に国民党の支那人に荒らされた
墓を現地の有志により改葬されました。





大西 海軍少将の肉筆扇面です。
大西次郎 海軍少将は、三重県出身。海大18期です。
昭和3年:古鷹艦長、昭和4年:那智艦長、昭和6年:赤城艦長、
昭和6年:加賀艦長、昭和7年:横須賀航空隊司令と、艦長の経
歴の長い方ですが航空畑の方になっています。




林仙之陸軍大将の色紙です。熊本出身で
陸大20期。大正8年:歩兵第三聯隊長、
昭和2年:陸大校長、昭和6年:第一師団長




加藤 寛治 海軍大将の直筆色紙です。
海軍大将 加藤 寛治 海兵18期(首席)、連合艦隊司令長官、軍令
部総長、軍事参議官等の要職を歴任。日露戦争では、戦艦”三笠”
の砲術長として日本海海戦を戦いました。海軍砲術学校校長、第五
戦隊司令官、海大校長など歴任後、ワシントン軍縮会議主席随員な
どを経て軍令部総長となる。ロンドン軍縮では、巡洋艦対米7割を強
硬に主張した事で有名。浜口首相や財部海相と対立、統帥権の独立
を主張し抗議の辞任で海軍部内にしこりを残しました。米内光正など
条約派に対し、伏見宮・末次信正らと共に艦隊派の中心人物の一人
でありました。1939(昭和14)年4月9日、静養先の熱海で死去。




小笠原 長生 海軍中将(子爵)の直筆色紙です。
東京出身の海軍中将(子爵)。

唐津小笠原家の最後の藩主長行の後嗣になり、事実上、
最後の”お殿様”として唐津に尽くした人物。まさに唐津の
貴公子です。 長生は慶応3年(1867年)江戸八重洲町の
老中役邸で生まれ、父は老中職にあった小笠原壱岐守長
行(いきのかみながみち)、母は儒者 松田迂仙(まつだう
せん)の末娘美和。鳳凰・鉄桜・金波楼主人と号する。
海軍大学校教官・海軍軍令部参謀・宮内省御用掛等を歴
任。日清・日露両戦役に従事した。また文筆に長じ、『東郷
元帥詳伝』『東郷元帥金言集』『海戦日録』等多くの著があ
る。昭和33年(1958)歿、90才。




子爵 川村景明 陸軍元帥の書です。

川村景明 元帥は、御存知のように功一級金鵄勲章の受勲者です。
嘉永3年(1850)2月26日〜大正15年(1926)4月28日。鹿児島出身。
父は、薩摩藩士。薩英戦争と戊辰戦争に従軍し、維新後、陸軍へ。
日清戦争では、近衛歩兵第一旅団長として台湾に出征。日露戦争時
では、第十師団長。明治38年に陸軍大将となり鴨緑江軍司令官として
奉天会戦で活躍しました。明治40年、戦功により子爵となるその後は
東京衛戍総督となり、大正4年に陸軍元帥となりました。




島村 速雄 海軍元帥の書です。


島村 速雄 海軍元帥 

高知県出身(海兵7期、海大甲種1期)

連合艦隊参謀長として日本海々戦を戦い、連合艦隊司令長官
東郷平八郎と作戦参謀 秋山真之の其々の能力を思う存分に
発揮させ、日本を亡国の淵から守り抜いた寡黙にして功を誇らぬ
武人。海軍きっての国際通
と言われ、その清廉な人柄が民間に
も人気高かった提督です。村上君宛の為書です。




寺内正毅 陸軍元帥の書


寺内正毅 陸軍元帥

伯爵、従二位、功一級

長州藩出身、戊辰戦争では御盾隊隊士として従軍、箱館五稜郭
まで転戦する。その後、陸軍士官となる。西南戦争で右手の自由
失う。フランスへ留学後、陸軍士官学校長、教育総監、参謀次長
などを歴任。第1次桂内閣の陸相となり、日露戦争の勝利に貢献
する。第2次桂内閣でも再び陸相をつとめた。明治42年10月26日
ハルビンにて伊藤博文初代韓国総監暗殺後、第2代韓国統監の
曽禰荒助が辞職すると明治43年5月30日、陸相のまま第3代韓国
統監となる。そして明治43年8月22日の日韓併合を断行しました。
明治43年10月1日、朝鮮総督府が設置されると陸相を辞任して、
初代朝鮮総督に就任しました。大正5年10月19日に内閣総理大臣
に就任し寺内内閣を組織する。時は、まさに第一次世界大戦の真っ
只中であり、寺内首相は、大正7年8月2日にシベリア出兵を宣言し
たが、米騒動の責任をとって同年9月21日に総辞職しました。
大正8年11月3日に逝去されています。尚、寺内寿一陸軍元帥は、
息子に当たります。親子で陸軍元帥を極めたのは、凄い事だと思い
ます。寺内寿一陸軍元帥は、南方軍総司令官で敗戦を迎え、昭和
21年6月 シンガポールのレンガムで拘留中に病死されています。
ありし日の朝鮮総督府

寺内元帥は、陸軍大臣を二度務めています。
どちらかは、判りませんが…その時の大臣の
陸軍省在職記念で関係者に配布した煙草入
れと思われます。
三越製・一照刻 と読めます。




畑 俊六 陸軍元帥の書(中将時代の書)

畑 俊六 陸軍元帥

福島県出身、功一級、陸大首席

東京府立一中から陸士へ、明治33年に陸士を卒業。日露戦争を
中尉で参戦し負傷する。ドイツ駐在武官、参謀本部作戦班長、
参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など中央の要職を
歴任する。昭和11年、台湾軍司令官。翌12年に陸軍大将に昇進
し軍事参議官・陸軍教育総監を兼任。昭和13年に中支那派遣軍
司令官に就任し武漢作戦を指揮。昭和14年8月に成立した阿部
信行内閣で陸軍大臣に就任。次の米内光政内閣でも陸相として
留任。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにも関わら
ず、単独辞職して米内内閣の瓦解の原因を作る。
その後、支那派遣軍司令官、昭和19年に元帥に列せられる。
東京裁判では、A級戦犯として起訴され終身刑に。
昭和29年に仮釈放となる。その後、偕行社会長を務めた。
昭和37年5月10日、逝去。尚、陸軍大将で陸軍省軍務局長や
関東軍司令官を歴任した畑 英太郎 氏は、兄にあたります。
畑俊六元帥の出した葉書です。日付印が無いので何年か
判りませんが、文面の最後に南支那派遣軍11月26日とあ
りますので、昭和13年に松井岩根大将の代わりに中支那
派遣軍司令官となり、武漢作戦を指揮していますので、そ
の時期に出した手紙と思われます。
こちらも畑閣下の支那派遣軍司令官時代に
出された直筆書状の軍事郵便を裏打ちした
物です。




松井 岩根 陸軍大将の書

 
松井 石根 陸軍大将

愛知県出身、正三位勲一等功一級、陸大首席

上海駐在武官、歩兵第三十九連隊長、ハルピン特務機関長
、歩兵第三十五旅団長参謀本部第二部長、第十一師団長、
ジュネーブ会議全権委員、軍事参議官、台湾軍司令官、
上海派遣軍司令官、中支派遣軍司令官を歴任。

親中派の松井大将は、謂れ無き”南京大虐殺”の汚名を着せ
られ戦犯として処刑された悲劇の将軍です。昭和15年2月、
日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市
伊豆山に興亜観音を建立した事でも有名な方です。

日中戦争前に予備役であったが、第二次上海事変が勃発する
と軍務に復帰し、上海に派遣される。参謀本部と政府は、上海
事件の不拡大を望んでいた。しかし松井は、上海近辺に限定さ
れていた権限を逸脱し当時の中華民国の首都南京を攻撃・占
領した。これで中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻
される。
この南京占領の際に中国側が後に捏造する事件”南京大虐殺
”があったとされ、この責任を敗戦後に問われ戦犯となる。昭和
23年12月23日に巣鴨プリズン内で絞首刑で刑死する。大将は
、孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援した事
で良く知られています。昭和8年、大亜細亜協会の設立発起人
となり(後に会長に就任)。同年8月には、台湾亜細亜協会を設
立。また蒋介石とも親好が深く、蒋が政治的に困難な時に、時
の首相・田中義一氏との会談を取り持ち事態を好転させたのも
松井大将であります。また大将は、軍紀に厳しいことで知られ、
昭和3年に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍
河本大作の厳罰を要求した事も良く知られています。
尚、昭和41年9月に「興亜観音を守る会」会報『興亜観音第15
号』(2002年4月18日号)に田中正明ら5人が岸信介の名代とし
て台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしな
い。何応欽 将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録して
いる筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはな
い。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったと
いう体験談が記されています。




松井大将の肉筆の辞世です。
      松 井 石 根 

天地も人もうらみず一すじに

       無畏を念じて安らけく逝く

いきにえに尽くる命は惜かれど

        国に捧げて残りし身なれば

世の人にのこさばやと思ふ言の葉は

        自他平等誠の心


衆生皆姑息  正気払神州

無畏観音力  普明照亜洲


    昭和二十三年十二月二十三日
                午前零時一分





こちらも松井大将の肉筆一行書です。
”皇威輝八紘”とあります。





山梨 半造 陸軍大将の一行書です。
山梨閣下はバターン死の行進の責任を取らさ
れて戦犯で死刑となった本間 雅晴 陸軍中将
の義兄であります。




         ◆ 山梨 半造 陸軍大将 ◆


 元治元年3月1日生
 神奈川県出身
 正三位勲一等功二級
 歩兵科
 士官生徒8 陸大8

               (略 歴)

明治19年 6月25日  陸軍士官学校卒業・陸軍歩兵少尉
明治22年12月 2日  陸軍大学校入校
明治25年12月 2日  陸軍大学校卒業
明治37年 3 月 6日  第2軍参謀(作戦主任)
明治38年 1 月13日  第2軍参謀副長
明治38年 7 月18日  第3師団参謀長
明治38年12月20日  オーストリア公使館附武官
明治40年 1月12日  ドイツ大使館附武官
明治40年11月13日  任陸軍歩兵大佐
明治41年11月10日  陸軍大学校幹事
明治43年11月30日  歩兵第51聯隊長
明治44年 9月 6 日  任陸軍少将・歩兵第30旅団長
明治45年 3月 5 日  歩兵第1旅団長
明治45年 4月24 日  参謀本部総務部長
大正 3 年 8月16日  独立第18師団参謀長(青島攻略)
大正 5年 1 月21日  教育総監部本部長
大正 5年 5 月 2 日  任陸軍中将
大正 7年 10月10日  陸軍次官兼臨時軍用気球研究会長
大正 9年 5 月 14日  免兼
大正 9年 8 月 1 日  兼航空局長官
大正10年 6 月 9 日  陸軍大臣
大正10年 12月19日  任陸軍大将
大正12年 9 月 6 日  軍事参議官
大正12年 9 月 20日  関東戒厳司令官
大正12年 11月 16日  東京警備司令官
大正13年 8 月 20日  軍事参議官
大正14年 5 月 1 日    待命
大正14年 5 月 25日  予備役
昭和 2年 12 月 10日  朝鮮総督
昭和 4 年 8 月 17日     辞
昭和 7 年 4 月     無罪判決(疑獄事件)
昭和19年 7 月 2 日  鎌倉市塔ノ辻177で狭心症により死去







林 鉄十郎 大将の書です。

林 銑十郎 陸軍大将(首相・陸軍大臣)

石川県出身。父は、加賀藩士。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。
日露戦争に出征。陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官等を
歴任し、昭和7年(1932)陸軍大将。斎藤内閣と岡田内閣では陸相とな
る。昭和12年2月に首相に就任する。政党を除外し、祭政一致を掲げた
内閣であったが、議会での審議が滞り、議会を解散。総選挙で野党が
圧勝した為、5月に内閣総辞職した。4ヶ月間の短命内閣でありました。




福島 安正 大将の書です。

福島 安正 陸軍大将

長野県松本市出身。父は、松本藩士。大学南校で学んだ
後、明治7年陸軍省に出仕。情報収集に手腕を発揮し、
朝鮮半島・満州などの調査を命じられた。特に、明治25年
、ベルリンからウラジオストクまで1年4ヶ月をかけて単騎で
横断し、シベリア鉄道の建設状況を視察したことで知られる
。日清戦争時は第1軍参謀。のち、参謀本部第3部長、第2
部長、臨時派遣司令官(北清事変)、満州軍参謀・大本営参
謀(日露戦争)、参謀本部次長等を歴任。明治40年、男爵。
大正3年、大将昇進とともに後備役に編入。後備役編入後
は、在郷軍人会の副会長もつとめた。




左の書は、大角 岑生 海軍大将。右は、末次信正 海軍大将。
大角 岑生 海軍大将

愛知県出身、海兵24期 、海大5期、海相、海軍次官、
海軍軍務局長横須賀鎮守府司令長官、第ニ艦隊司令
長官

日露戦争では、閉塞隊員として旅順口閉塞作戦に参加。
ドイツ駐在、フランス駐在などを経て、パリ講和会議に随
員として出席。軍務局長など歴任後、加藤(高)内閣に海
軍次官として軍政面に手腕を発揮。第ニ艦隊司令長官、
横須賀鎮守府司令長官などを歴任後、犬飼内閣の海軍
大臣として活躍する。五・一五事件で軍事参議官となるも
、続く斉藤内閣で岡田海相が辞任すると再び海相に就任
。海相としては、統帥権干犯問題に人事、機構改革な
どで艦隊派寄りの政策をとる。岡田内閣に留任、二・二六
事件では、内閣が総辞職するまで海相を務める。靖国神
社第一次合祀祭臨時大祭委員長のあと、寺内寿一陸軍
大将とともに独伊に出張。帰国後、飛行機事故で殉職す
る(享年66歳)。


末次信正 海軍大将

山口県出身。海兵27期、海大7期
内相、軍令部次長、連合艦隊司令長官、大政翼賛会
中央協力会議議長

第1潜水戦隊司令官、教育局長などを歴任後、軍令部
次長に就任。艦隊派の中心人物の一人として、ロンドン
海軍軍縮条約には加藤軍令部長らと反対。その後、連
合艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任
。予備役編入後、近衛内閣の内閣参議、ついで内相に
就任する。大政翼賛会中央協力会議議長。東亜建設
連盟会長などを歴任する。




有栖川宮熾仁親王の肉筆書の掛軸です。
  有栖川宮熾仁親王

  皇族、大勲位功二級、海軍元帥


有栖川宮熾仁親王は、天保6年(1835年)に有栖川宮家
の第一王子として京都に生まれました。17歳で孝明天皇
の妹 ・和宮と婚約しました。しかし文久2年(1862年)に
徳川幕府との政略結婚で皇女・和宮は、十四代将軍家茂
に降嫁。その後、倒幕を決定づけた戊辰戦争が慶応4年
(1868)1月勃発すると、熾仁親王は”東征大総督”に任
ぜられます。明治10年(1877年)の西南戦争では、”征討
総督”となって明治政府軍の最高指揮官を務めましたた。
日清戦争では、陸海全軍の参謀総長を務めました。明治
28年(1895年)61歳で没。




塩沢 幸一 海軍大将の肉筆書の掛軸です。
塩沢 幸一 海軍大将 功二級 従二位

明治16年 3月5日生 長野県出身

海兵32期・海大13期

山本五十六元帥と海兵同期。海大卒業後は、
主に軍令部勤務畑を歩む、在英国大使館附
武官など英国勤務が二回あります。艦長職は、
殆ど無く巡洋艦”古鷹”のみ。第一艦隊参謀長、
連合艦隊参謀長、第一遣外艦隊司令官、鎮海
要港部司令官、海軍航空本部長、舞鶴要港部
司令官、第五艦隊司令長官、佐世保鎮守府司
令長官、海軍艦政本部長、横須賀鎮守府司令
長官などの要職を歴任。
昭18年11月17日 歿(享年60歳)。

塩沢 幸一海軍大将は、長野県出身で長野 海兵32期、
海大13期 です。山本五十六元帥や嶋田繁太郎大将など
と同期の方です。色紙の書の記載年月が昭和13年9月に
なっていますので、中将の頃、第五艦隊司長官だった時だ
と思われます。

昭和3年12月 海軍少将(在英大使館付武官)、軍令部
〜連合艦隊参謀長や鎮海警備府司令官を経て、昭和4年
11月 海軍中将、その後は、航空本部長や舞鶴要塞司令
官、佐世保鎮守府司令長官、第五艦隊司令長官を経て、
昭和14年11月 海軍大将。横須賀鎮守府司令長官などを
歴任し、昭和18年11月17日 歿(享年60歳)
下も塩沢大将の色紙への為書の書です。開戦時の軍事参議官
で山本五十六連合艦隊司令長官の国葬の司祭長を勤められた
方でも有名であります。



陸海軍大将題字 肉筆の巻物です。何か本の題字
に書いてもらったものを、表装して巻物とした印象が
あります。 
左の護国は、奈良武次 陸軍大将 砲兵栃木出身 
昭和3支那駐屯軍司令官天皇陛下の信任厚く昭和
天皇武官長を勤められた方です。右は、本庄繁 陸軍
大将です。歩兵科、兵庫出身。張作霖顧問 第10師
団長 侍従武官長 満州事変時の関東軍司令官とし
て有名な方です。
左の横文字は、川島義之 陸軍大将。歩兵科、愛媛出身。
陸大20期恩賜、昭和5年:第三師団師団長、昭和10年:
陸軍大臣を勤められています。右の孝生=こうせい=光政
と判読するそうです。米内光政 海軍大将は、岩手出身
海大12期、功一級、大正13年:戦艦”陸奥”艦長、昭和11
年:連合艦隊司令長官、昭和19年:海軍大臣。




伊藤博文公の肉筆書の掛軸です。
白梅図は、川村雨谷が書いています。
川村雨谷
司法官・南画家。名は応心、字は広卿、別号に休翁・無生居士等。
明治初年から司法省に奉じ、大審院判事に至る。南画・俳画を能く
した。明治39年(1906)歿、69才。
伊藤博文
政治家。山口県生。本姓は林、幼名は利助、
のち俊輔、博文は諱、号に春畝・滄浪閣主
人。初め松下村塾に学び、木戸孝允に従い
尊王攘夷運動に参加。最初の内閣総理大臣
・枢密院議長・韓国統監等を歴任。詩文及び
書を能くした。明治42年(1909)ハルビンで
客死、69才。





愛新覚羅 毓峨の肉筆書の軸。
愛新覚羅氏は、満州に存在し
た海西女真族(旧満洲民族)
の一部族名で、清朝を打ち立
てた家系です。
愛新覚羅 毓峨は、支那の画家。愛新覚羅溥カンの
四子。清朝九代咸豊帝の皇弟・惇親王奕の曾孫。
北京市に生まれ、幼い時より父の溥?や叔父の画家
・溥カンに師事し山水画を修める。南開大学卒業後
、北京市文史資料館の館員を務めながら画業に勤
しむ。現在、中国老年書画研究会会員。花鳥画に
優れた作品が多く、牡丹を題材にしたものを得意と
している。柔らかい画風であり国外の人気も高い。
愛新覚羅 溥儀は、ラストエンペラーと言った方が判り
やすいかも知れません。清朝の第12代皇帝 宣統帝
であり”最後の皇帝”として知られる。清朝崩壊後に
皇軍の支援を受け満州国の執政・満州国が帝政に移
行すると皇帝として即位、康徳帝(敗戦まで約11年)
を名乗られました。また字は、浩然と名乗られました。
日本の敗戦近くにソ連の進攻で溥儀たちは、首都の
新京を放棄して、朝鮮にほど近い通化省臨江県の
大栗子に避難していましたが敗戦の2日後、8月17日
に国務院が満州帝国の解体を決定、8月18日には
大栗子で満州帝国解体を自ら宣言するとともに満州
帝国皇帝を退位しました。退位後、ソ連軍に捕まること
を避けて日本へ逃亡する途中、奉天の飛行場でソ連
軍に捕らえられました。その後ソビエト連邦領内に移送
され、ソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所
に収監されました。ソ連の強制収容所に収監された翌
年の昭和21年に開廷した東京裁判でソ連側の証人と
して出廷させられ、ソ連に有利な証言を強要されました
。その後、1950年に前年建国された中華人民共和国へ
身柄を移され、戦犯として撫順とハルビンの政治犯収容
所に弟の溥傑とともに収監されました。一市民として
1959年12月14日に、当時の劉少奇国家主席の出した
戦争犯罪人に対する特赦令を受け、模範囚として特赦
された。釈放の数年は、リハビリを兼ねて北京文史資料
研究委員会に勤務しました。その後、自らも上流階層出
身であるがゆえに溥儀に親近感を持ち、溥儀が政治犯
収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を
図っていた周恩来首相の後援を受け、1964年には政治
協商会議全国委員に選出されました。しかしその後、中
国共産党内部の権力闘争に端を発する文化大革命の
波が中国全土を吹き荒れる中、癌の治療を”元皇帝であ
る”との理由で受けられず1967年に死去しました。また
文化大革命により粛正されたという説も存在しているよう
です。溥儀の墓は、北京郊外の八宝山墓地に埋葬されま
したたが、後年、溥儀は生前”皇帝であったことを誇りに
思っていた”との李淑賢夫人の証言が明らかになると、
改革開放の時代の空気と相俟って、1995年皇帝として
改葬することになりました。現在の墓所は北京郊外の易
県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある清西陵の近くの
”華龍皇園”に新たに”献陵”という陵墓が作られてあるそ
うです。そして2004年には、”愍皇帝”の謚号と”恭宗”の
廟号が贈られました。しかしこれらは、公式に認められたも
のではなく愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認され
ているものでもありません。改葬に関しても愛新覚羅家の
遺族からの反対も受けているそうです。




仁田原陸軍大将と松川陸軍大将の書、絹本です。
仁田 原重行 陸軍大将 福岡出身。陸大四期、功三級。大正5年:近衛師団長
大正6年:東京衛戍総督。”大正4年7月4日官舎にて”と記載があります。
松川 敏胤 陸軍大将 宮城県出身。 陸大恩賜功二級、
大正5年:東京衛戍総督大正7年:朝鮮軍司令官。
”大正4年6月16日官舎にて”と記載あります。




左から八代六郎海軍大将、岡市之助陸軍中将
、二宮第十六師団法官部長の絹本三枚です。
二宮法官部長は、経歴等は、不明です。
八代 六郎 海軍大将、男爵 功三級
愛知県犬山市出身。兄は衆議院議
員の松山義根。 大正3年:舞鶴鎮台
長官から海軍大臣。その時に書かれ
た物のようです。
同じく男爵 八代 六郎 海軍大将の肉筆短冊です。


岡市之助 陸軍中将、京都出身、陸大4期。功3級 男爵
大正3年:第三師団師団長から陸軍大臣に就任。朝鮮に
2個師団設置を決定した方です。




福田雅太郎 陸軍大将の書
福田雅太郎 陸軍大将。長崎出身 陸大9期 功3級 
明治42年:歩兵砲第38聯隊連隊長、明治43年:歩兵
砲第53聯隊連隊長、大正6年:第五師団師団長、大正
10年:台湾軍司令官。印に陸軍大将が押されています。




シルクの布に書かれた小松宮彰仁親王の書です。小松宮様は、
陸軍元帥、大将、大勲位功二級、日赤、大日本武徳会総裁を勤
められました。

征討大将軍・参謀総長を務められた
元帥陸軍大将 小松宮彰仁親王
(晩翠) 筆による 書幅。 


純仁親王は小松宮 彰仁 親王(仁和寺宮 嘉彰 親王)殿下の肉筆書です。
        純仁

雲のなみ四方にをさ

まるそこの海を

うれしとたつの

なき渡かも
雲の波四方に
   治まるそこの海を
     嬉しと鶴(たづ)の
          鳴き渡るかも

                純仁



          ◆ 小松宮 彰仁 親王殿下 ◆

               〜 略 歴 〜 

弘化 3年:降誕
安政 5年:親王宣下・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す
慶応 3年:王政復古・復飾を命じられる
明治元年:軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事
     会津征討越後口総督
明治 2年:兵部卿、辞職
明治 3年:宮号を東伏見宮に改める。イギリス留学、議定
明治 6年:帰国、陸軍少尉
明治 7年:佐賀の乱。佐賀征討総督
明治 9年:陸軍戸山学校長、兼議定官
明治10年:東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官
明治11年:東部検閲使
明治13年:陸軍中将・近衛都督
明治15年:小松宮と改める。大勲位菊花大綬章
明治19年:欧州差遣
明治20年:帰国・近衛都督
明治23年:陸軍大将
明治24年:近衛師団長
明治26年:兼議定官
明治28年:参謀総長、日清戦争征清大総督、大勲位菊花章頸飾
明治31年:元帥・日清戦争征清大総督辞職
明治35年:英国国王戴冠式差遣
明治36年:薨去 (国葬)




東郷平八郎 海軍元帥

元帥・海軍大将
従一位 大勲位功一級 侯爵

余りに有名な東郷元帥です。略歴は、割愛します。

この下も東郷平八郎元帥直筆の
肉筆画帖です。
東郷元帥と親交
のあった日本画家栗田真秀旧蔵
の画帖です。画帖の最初に東郷
平八郎元帥の揮毫、帖末に西田
徳之助という実業家の方の揮毫
があるだけで、それ以外は空白
でした。

こちらも東郷平八郎元帥の直筆の掛け軸です。
軸は本象牙です。名和又八郎海軍大将の鑑定印が押してあります。




敗戦時に第11方面軍(仙台)司令官だった藤江恵輔 陸軍大将
の中将時代の色紙に記された書です。藤江閣下は、開戦時は、
陸軍中将で西部軍司令官でした。

陸士18期、陸大26期 (砲兵科出身)

昭和 9年 8月  少将 野砲校幹事
昭和12年 8月  憲兵司令官
昭和12年11月  中将
昭和13年 7月  第16師団長
昭和16年 4月  西部軍司令官
昭和18年 2月  大将
昭和19年 3月  東部軍司令官
昭和20年 3月  予備役
昭和20年 6月  召集 第11方面軍司令官





白川義則 陸軍大将の送った葉書です。送り先は、長谷部陸軍大佐
との事です。白川大将は、田中内閣の陸軍大臣を勤められた方です
が、上海派遣軍司令官として昭和7年4月29日、上海・虹口公園で
の天長節祝賀会に出席した時に非道なる朝鮮人の爆弾テロに遭い
重傷を負いました。5月26日、上海兵站病院で爆弾テロで受けた傷で
死去されています。

  白川 義則 陸軍大将(明治元年12月12日〜昭和7年5月26日)
   
       愛媛県松山出身、男爵、陸士1期、陸大学12期
白川大将の書かれた色紙です。




一戸 兵衛 陸軍大将の書です。

陸軍大将 一戸 兵衛

青森県出身、従二位勲一等功二級
西南の役・日清戦争に従軍。日露戦争では乃木希典元帥
の下で旅順攻略に参加。退役後は学習院院長・明治神宮
宮司・帝国在郷軍人会会長などを歴任。
昭和6年(1931)歿、享年77才。





開戦時の軍令部総長を務めた永野 修身 元帥海軍大将
の書です。コレクターの方がしたのか当時集められた方
が切り取ったのか、何かの和紙に書いて頂いたものを
そこだけ切り取ったもののようです。

      元帥海軍大将 永野修身

高知県出身、海軍兵学校28期。
正三位・勲一等・功五級。(明治13年6月15日〜
昭和22年1月15日)
      
昭和22年1月5日、A級戦犯として東京裁判中に
獄中死。昭和53年に靖国神社に合祀される。




下は、別のものですが
永野元帥の書です。 

敗戦後は、A級戦犯とされ巣鴨プリズン内で
肺炎で獄死されますが敗戦前までは、元帥
に列せられ帝国海軍史上、一人で海軍三顕
職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部
総長)を全て経験した唯一の提督として評価
と人気は低いものの、絶頂を極めた稀有な
軍人と言える一人の方と思います。





明治44年2月13日消印封筒入り毛筆23行
岡田 啓介 海軍大将。軍人・政治家。福井県生。海軍大将
・軍事参議官となり、のち海相・首相となる。二・二六事件の
時、首相であったが難を逃れた。内閣総辞職後重臣となり、
首相の銓衡にあたった。昭和27年歿、84才。

岡田啓介の肉筆書簡6通です。すべて和紙に毛筆墨書。
3通は封筒入り、残り3通には封筒がありません。日付の
確認できる最も古いものが装甲巡洋艦『春日」艦長時代
の明治44年。新しいものは、終戦直後の昭和21年で、
この封筒には進駐軍の検閲印があります。




GHGの検閲印が残っています。


今も郷里の福井県福井市には
銅像が故郷を見守っています。




影佐 禎昭 陸軍中将と渡 左近 陸軍中将
の連名直筆色紙
墨書。昭和14年2月25日、於赤坂錦水亭。市販の
色紙ではなく、色紙様の料紙を切り取って書かれ
ています。

             ◆影佐 禎昭 陸軍中将(略歴)◆

明治26年生まれ。砲兵科、士候26期、陸大35期恩賜。広島県出身。
陸大の後、東京帝国大学政治科に学んだ異色の陸軍軍人。陸軍きっ
ての中国通として一際目立つ存在で大佐昇進と共に陸軍参謀本部
支那課長、、第8課(謀略課)初代課長、軍務課長を歴任し日中戦争
初期の戦争指導に当たった。民間人里見甫を指導し中国の地下組織
・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買
を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れ
たという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても
知られ、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を
挙げた。昭和14年、日中戦争の戦局打開のため、蒋介石と対立した
国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とする
通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。同年、少将に昇進。
支那派遣軍総司令部付となり、翌15年4月、汪政府樹立後は汪政府の
軍事最高顧問に就任。しかし東条英機首相から「影佐は中国に対して
寛大すぎる」と判断され、昭和17年北満国境の第7砲兵司令官へ転任。
同年中将、翌18年にラバウルの第38師団長へ転任。米軍がラバウルを
越えて日本本土へ向かったことから、孤立状態の当地で終戦を迎えた。
昭和20年12月に中国政府から戦犯指名を受け身柄を要求されたが
肺結核のため裁判に至らず、昭和21年5月復員し入院。病状の悪化によ
り、昭和23年9月10日 55歳で獄死。娘は陸軍少佐時乗武雄、谷垣専一
元文相に嫁ぐ。谷垣禎一前財務相は孫。名前の一字は、影佐の名からと
ったもの。       (↓下は、少将時代の影左閣下です。)
伝記に浅田百合子『日中の架け橋―影佐禎昭の生涯』
(新風社、平成15年)、世話人会『人間影佐禎昭』(非売
品、昭和55年)がある。


★私の収蔵品でありませんが、貴重な歴史資料
 なので少しだけ掲載します。影佐閣下は陸軍内
 部にあっても所謂、不拡大派といわれる日中戦
 争の早期終了を目指す軍人の一人でした。昭和
 13年頃から不拡大派による和平工作は様々な
 チャンネルで色々と行われておりました。その一
 つには、西 義顕 満鉄南京事務所々長が工作し
 た国民政府外交部の高 宗武 亜州司長と菫 道
 寧 日本科科長との和平工作がありました。昭和
 13年2月に密かに来日した高 宗武と菫 道寧は
 当時、参謀本部支那課長だった影佐大佐に会い
 和平交渉を行ったりしたが不発に終わっています
 。昭和14年に梅機関(影佐機関)による工作で
 国民党内部で蒋介石と対立する親日派の汪兆銘
 と協力し汪政権の樹立に奔走しました。その後、
 桐工作など色々とありましたが昭和15年4月に汪
 政権が出来て影佐少将は軍事最高顧問に就任し
 ました。以下の画像の品は、汪兆銘政権誕生直後
 の中華民国29年(昭和15年)6月30日に汪兆銘の
 中華民国国民政府が最高軍事顧問であった影佐
 禎昭少将宛に出した招聘書と直筆の書状12通で
 す(以下、参考品です)。

こうした陸軍内部でも中枢にあった影佐閣下でしたが
昭和17年には時の首相・東條英機大将に『影佐は、
支那に甘すぎる』と切られ、閉職の第七砲兵司令官(
ソ満国境)へ飛ばされ、中将に昇進後はラバウルの第
三十八師団長として南方に飛ばされました。





        ◆渡 左近 陸軍中将(略歴)◆

東京出身、歩兵科、士候27期、陸大38期。元老院議員
渡正元の子。参謀本部支那課長兼大本営支那課長、
第13軍高級参謀、第1歩兵団長、独立混成第23旅団長
、ビルマ方面軍司令部附、独立混成第29旅団長などを
歴任。敗戦時は第15師団長。昭和26年4月1日 歿。


国民政府最高軍事顧問 
影佐 禎昭 陸軍中将の
直筆色紙
墨書。色紙の大きさは270mm x 240mm。




有坂 ショウ蔵 海軍造兵中将(工学博士)
の書です。弥生式土器を発見した事でも
有名な東京帝大の工学部教授でもありま
した。帝國酸素(日本エアー・リキ-ド)の
社長にもなられておりました。



牛丸閣下のペン書き便箋一枚を屏風にした
ものをはがしたもです。
      
            牛丸 福作 海軍中将


                <略歴>

              岐阜県出身・海軍機関学校11期

大正7年6月1日     駐英造船造兵監督官
大正9年11月1日
    海軍大佐 艦政本部員
大正10年12月1日
   横須賀工廠造機部員兼機関学校教官
大正14年12月1日   海軍少将 横須賀工廠造機部長
昭和3年12月10日   艦政本部第四部長
昭和5年12月1日    海軍中将
昭和7年6月1日     軍需局長
昭和9年5月10日    出仕
昭和10年12月27日   待命
昭和10年12月28日  予備役編入
 
海軍きっての造機の大御所と謂われた方です。
軍需局長、海軍中将。敗戦時は、造機工業会
副会長。戦後は、生産技術協会の設立に貢献さ
れ、機関誌「生産技術」の編集を通じて、海軍造
機技術の継承に貢献された事でも知られていま
す。



小林 宗助 海軍中将(勲一等)の
書です。小林中将は長野出身で
海兵35期、海大16期。開戦時は

舞鶴鎮守府司令長官でした。昭和
17年12月に予備役編入です。昭
和50年3月17日に逝去(享年89
歳)。




岸本 綾夫 陸軍大将(第19代東京市長)の書です。
砲兵、陸士11期。陸大には進まず、院外学生として
東京帝大造兵科に進んだ。妻の遠縁に手塚治虫が
いる。3年間ドイツに留学し帰国後、砲工学校教官
を皮切りに、陸軍省副官、軍事調査委員、軍務局
課員となり、大正9年2月、陸軍省砲兵課長に就任
した。その後、野重砲第四連隊長、科学研究所部
長を経て、陸軍省兵器局長、造兵廠長官、技術本
部長を歴任。大将に進級と同時に待命となった。
昭和17年8月、東京市長となるが、請われて満洲
製鉄の理事長となり渡満。敗戦を撫順で迎える。
昭和20年11月28日、中共軍に連行され消息不明
となった。昭和21年11月28日に死去とされている
。残された夫人はピストルで自決をされています。




名和 又八郎 海軍大将の肉筆短冊です。

1864年1月30日(文久3年12月22日)〜昭和3年1月12日。
海軍軍人、海軍大将。小浜藩士、武久久三の子として東京
で生まれ、同藩の名和荘山の養子となる。
1883年海軍兵学校(10期生)を卒業し、1886年に少尉任官
。「筑波」分隊長、防護巡洋艦「浪速」分隊長、「海門」分隊
長を歴任、日清戦争時は「松島」分隊長であった。さらに
海軍兵学校教官、「金剛(初代)」副長などを経て、1899年
海軍省副官兼海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。
1900年「初瀬」副長に任命され、イギリスに出張し同艦を回
航。その後、舞鶴鎮守府参謀、人事局第2課長、「出雲」艦長
、「厳島」艦長、「生駒」艦長、軍令部参謀(第4班長)などを歴
任し、1908年海軍少将に進級。さらに、呉鎮守府参謀長、
第3艦隊司令官、将官会議議員、教育本部長、第2艦隊長官、
舞鶴鎮守府長官、横須賀鎮守府長官を歴任し、1918年に海軍
大将、1920年に軍事参議官となり、1923年に予備役に編入さ
れた。長男 名和武は海軍技術中将でした。




真崎甚三郎 陸軍大将の直筆揮毫画帖メクリ

◆真崎甚三郎 陸軍大将

明治9年(1876年)〜昭和31年(1956年)。軍人。陸軍大将。
皇道派の中心人物。佐賀県出身。陸士卒。日露戦争に従軍
。陸大卒。陸士校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、
安藤輝三、磯部浅一らを輩出。台湾軍司令官など経て参謀
次長に就任、荒木陸相とともに皇道派を形成。勢力伸張を図
る。ついで教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴
運動を積極的に推進。林陸相による反皇道派人事により罷免
され、これが相沢事件、二・二六事件の誘因となる。二・二六
事件では、安藤、磯部らに共感を示しつつ、収拾に努める。
事件後、「反乱幇助」の容疑で軍法会議にかけられるも無罪。
戦後、戦犯として逮捕されるが不起訴。



稲垣孝照 陸軍中将の直筆色紙(第3師団留守司令官)

◆稲垣孝照 陸軍中将

士候12期。愛媛県出身。
歩兵第10旅団長、陸軍士官学校長、
第3師団留守司令官などを歴任。







小林 研蔵 海軍中将の直筆のまくり




小林 研蔵 海軍中将の直筆のまくりです。
聖徳太子制定と伝える日本最初の成文法
「十七条憲法」の第一条「以和為貴無忤為宗」
(和を何よりも大切なものとし、いさかいをおこ
さぬことを根本としなさい。)
との書がしたためられた作品(めくり)です。

      ◆ 小林 研蔵 海軍中将 ◆

 海兵十九期、鳥取出身、功四級

           (略 歴)

大正2年12月1日  海軍大佐
   3年8月13日  新高艦長
     12月1日  臨時青島要港部参謀長
   4年7月17日  大湊要港部参謀長
   7年9月27日  舞鶴鎮守府参謀長
   7年11月10日 第三水雷戦隊司令官心得
   8年6月1日   海軍少将 3Sd司令官
   8年12月1日  佐世保鎮守府参謀長
   11年5月1日  第一遣外艦隊司令官
   12年11月1日  海軍中将
   13年2月1日   待命
   13年2月25日  予備役
昭和9年3月11日   後備役
  14年3月11日    退役
  17年10月26日   歿  享年70歳








田尻 唯二 海軍中将 自筆 額装用めくり






    ◆ 田尻 唯二 海軍中将 ◆


 佐賀県出身 海兵23期 海大6期
 功五級

          (略 歴)

明31年1月14日  任海軍少尉
明31年9月 1 日  八重山乗組
明32年9月29日  任海軍中尉
            摩耶乗組
明39年9月28日  任海軍少佐
明40年4月 5日  海大甲種学生
明44年12月1日  任海軍中佐
            元帥大将 井上 良馨 副官
            海軍省出仕
明45年1月22日  海軍省軍務局局員
大 3年12月 1日  淀艦長
大 4年12月13日  任海軍大佐
            音羽艦長
大 5年 1 月28日  筑摩艦長
大 8年11月20日  金剛艦長
大 9年11月12日  横須賀空司令
大 9年12月 1日  任海軍少将
大11年11月 1日  霞ケ浦空司令
大12年11月 6日  馬要司令官
大13年12月 1日  任海軍中将
大13年12月20日  軍令部出仕
大14年 3 月 2 日   待命
大14年 3 月20日  予備役
昭11年11月23日  後備役
昭16年 4 月 1日  予備役
昭16年11月23日   退役









宇川 済 海軍中将 自筆 一行書




竹密不防流水過としたためられた額装用めくり

     ◆ 宇川 済 海軍中将 ◆


 長野県出身 海兵28期 海大10期
 功五級

          (略 歴)

明35年 1月18日  任海軍少尉
明36年 5月14日  白雲乗組
明36年 9月26日  任海軍中尉
明41年 4月20日  海大乙種学生
明43年12月 1日  任海軍少佐
            海大甲種学生
明45年 5月22日  三笠分隊長
大元年12月 1日  生駒砲術長
大 3年 3 月23日  砲術校教官
大 3年 8 月18日  砲術校副官
大 4年 12月 13日 任海軍中佐
             第六戦隊参謀
大 5年12月 1 日  呉鎮参謀
             望楼監督官
大 8年12月 1 日  任海軍大佐
             横鎮附
大 9年 2 月17日  海大教官
             軍令部参謀
大11年12月 1 日  八雲艦長
大13年 4 月15日  榛名艦長
大13年 9 月 1 日  呉人事部長
             呉鎮人事長
大13年12月 1 日  任海軍少将
大14年 2 月 2 日  横鎮参謀長
昭 2年 12月 1 日  第一遣外艦隊司令官
昭 3年 12月 10日  任海軍中将
             第五戦隊司令官
昭 4年 11月 30日  軍令部出仕
昭 5年 6 月 10日    待命
昭 5年 6 月 20日   予備役
昭10年 1 月 22日  久迩宮別当
昭52年 12月16日    逝去(享年97歳)








元歩兵第十五師団長 渡辺 右文 陸軍中将
                の肉筆紙本・秋景山水図






       ◆ 渡辺 右文 陸軍中将 ◆

 勲一等陸軍中将
 熊本県出身、砲兵科
 士候21期、 陸大29期(恩賜)

            < 略 歴 >

明治40年         陸軍士官学校入校
明治42年 5 月27日   陸軍士官学校卒業
明治42年12月25日   任陸軍少尉
大正 3 年12月12日   陸軍大学校入校
大正 6 年11月27日   陸軍大学校卒業
昭和 7 年12月 7 日   任陸軍砲兵大佐
昭和 8 年 8 月 1 日   参謀本部運輸課長
昭和10年 8 月 1 日   高射砲兵第一聯隊長
昭和12年 8 月 2 日   任陸軍少将、参謀本部附
昭和12年10月30日   参謀本部第三部長
昭和14年10月 2 日   任陸軍中将
昭和15年 3 月 9 日   第十五師団長
昭和15年 4 月29日   勲一等旭日大綬章
昭和15年 5 月28日   東部軍司令部附
昭和15年12月 3 日      予備役
昭和18年 7 月28日        歿









陸軍軍医総監 中館 長三郎 氏の自筆一行書




中館 長三郎 軍医総監の書です。

   ◆ 中館 長三郎 軍医総監 ◆

岩手県出身
文久1年10月 生

          (略 歴)

明治41年 6月6日 第4師団軍医部長
大正 3 年 8月8日 陸軍軍医総監・予備役
昭和18 年 1月3日  歿








満州国参議府 副議長 筑紫 熊七 陸軍中将の自筆一行書




筑紫 熊七 陸軍中将は日露戦争で大本営参謀をつとめ
重砲兵監・技術本部長などを歴任し陸軍中将で退役。昭
和9年に満州国参議府副議長に。昭和14年の平沼内閣
のとき国民精神総動員中央連盟理事長となります。この
方の娘婿が嶋田 繁太郎 海軍大将と光延 東洋 海軍少
将です。

       ◆ 筑紫 熊七 陸軍中将 ◆

 熊本県出身
 文久3年1月25日 - 昭和19年1月21日

              (略 歴)

明治17年 9 月  陸軍士官学校入学
明治21年 7 月  陸軍士官学校卒業(旧9期)
            野戦砲兵第6連隊付
明治27年 11月  要塞砲兵第2連隊付
            参謀本部員
明治32年 10月  任陸軍砲兵少佐
明治33年 10月  清国派遣〜
            東京湾要塞砲兵連隊大隊長
            参謀本部出仕、要塞砲兵監部員
明治38年 1月   大本営参謀
            陸軍要塞砲兵射撃学校教官
            同校々長
明治40年 11月  任陸軍砲兵大佐
明治41年 1 月  重砲兵射撃学校々長
大正 2 年 7 月  任陸軍少将、陸軍省兵器局長
大正 6 年 8 月  任陸軍中将、重砲兵監
           兵器局長(再任)、陸軍技術本部長
大正 11年 8 月   待命
大正 12年 3 月   予備役
昭和 7 年 8 月  満州国参議
昭和 9 年 8 月  満州国参議府副議長
昭和14年 3 月  国民精神総動員中央連盟理事長
昭和19年1月21日  逝去








辻村 楠造 陸軍主計総監 自筆の一行書






      ◆ 辻村 楠造 陸軍主計総監 ◆

 主計科
 高知県出身
 文久2年1月6日生

            (略 歴)

陸軍歩兵中尉の時に経理部に転科

明治36年5月1日   陸軍経理学校長(一等監督)
              (〜明治36年11月30日)
             第10師団経理部長
             遼東守備軍経理部長
明治40年11月12日 関東都督府陸軍参謀長
明治40年11月12日 近衛師団経理部長
明治42年 8 月 1日  陸軍省経理局長
              (〜大正3年5月11日)
大正 2 年 3 月 4日  陸軍主計総監
大正 3 年 8 月 8日    予備役
昭和 27年12月28日     歿








岩越 恒一 陸軍中将工兵監の自筆 七言対句 めくり







          ◆ 岩越 恒一 陸軍中将 ◆


 陸軍中将勲一等功四級
 明治11年12月18日生、大阪府出身
 士候12期、陸大24期、工兵科


                (略 歴)


明治31年9月      士官候補生
明治33年11月21日  陸軍士官学校卒業
明治34年6月25日   任陸軍工兵少尉、工兵第3大隊附
明治36年12月     任陸軍工兵中尉
明治38年6月      任陸軍工兵大尉
明治39年8月      陸軍士官学校教官
明治42年12月25日  陸軍大学校入校
大正1年11月25日   陸軍大学校卒業
大正2年6月       陸軍省軍務局附勤務
大正2年10月      陸軍省軍務局課員
大正4年6月      任陸軍工兵少佐、電信隊附
大正5年5月       交通兵団司令部員
大正5年11月      陸軍大学校教官
大正7年7月       任陸軍工兵中佐
大正10年12月27日  臨時鉄道聯隊長
大正11年8月15日   任陸軍工兵大佐、参謀本部通信課長
大正12年9月      関東戒厳司令部附
大正13年7月      欧米出張
大正15年3月2日    電信第2聯隊長
昭和2年7月26日    任陸軍少将、佐世保要塞司令官
昭和3年8月10日    陸軍通信学校長
昭和4年8月1日     陸軍工兵学校長
昭和6年8月1日     陸軍砲工学校長
昭和7年4月11日    任陸軍中将
昭和8年8月1日     工兵監
昭和10年3月15日   第3師団長
昭和11年3月23日   参謀本部附
昭和11年4月2日    東京警備司令官兼東部防衛司令官
              兼戒厳司令官
昭和11年7月10日   勲一等旭日大綬章
昭和12年8月2日     待 命
昭和12年9月1日      予備役

昭和20年10月30日    逝 去








河西 惟一 陸軍中将の書






      ◆河西 惟一 陸軍中将◆
         
 長野県出身、歩兵科
 士候7、陸大16、功四級

           (略 歴)

明治 8 年 2 月16日      生
明治29年 5 月27日  陸軍士官学校卒業
明治30年 1 月25日  任陸軍歩兵少尉
明治32年12月13日   陸軍大学校入校
明治35年11月28日   陸軍大学校卒業
大正 5 年 8 月18日  任陸軍歩兵大佐
               陸軍省人事局補任課長
大正 7 年 7 月24日  歩兵第33聯隊長
大正 9 年 8 月10日  任陸軍少将
               歩兵第8旅団長
大正12年 3 月17日   陸軍士官学校予科長
大正13年 8 月20日   教育総監部附
大正13年12月15日   任陸軍中将・待命
大正13年12月20日     予備役
昭和13年11月 7 日      歿








高橋 於菟丸 陸軍中将 自筆の一行書






        ◆ 高橋 於菟丸 陸軍中将 ◆


 明治4年3月23日生、滋賀県出身
 歩兵科、士候5期、陸大16期


               (略 歴)

 明治24年12月     士官候補生
 明治25年11月     陸軍士官学校入校
 明治27年7月27日   陸軍士官学校卒業
 明治27年9月18日   任陸軍歩兵少尉
 明治32年12月13日  陸軍大学校入校
 明治35年11月28日  陸軍大学校卒業
 明治44年8月      任陸軍中佐、歩兵第二十五聯隊附
 大正2年10月5日    歩兵第二十三聯隊長
 大正6年5月2日     第三師団参謀長
 大正7年7月24日    任陸軍少将、歩兵第二旅団長
 大正9年8月10日    第二十五師団司令部附
 大正10年3月17日   第十五師団留守司令官
 大正11年8月15日   第十五師団司令部附
 大正12年8月6日    任陸軍中将、待 命
 大正12年9月1日      予 備 役








井出 治 陸軍主計総監 自筆 めくり






     ◆ 井出 治 陸軍主計総監 ◆ 


 岡山県出身、功四級


           (略 歴)

 陸軍工兵中尉より転科
 ドイツ駐在

 明治39年10月10日 第9師団経理部長
 明治41年 6 月 6日 陸軍省経理局建築課長
 明治43年11月30日 陸軍主計監
              第18師団経理部長
 大正 2 年 5月 8 日 近衛師団経理部長
 大正 3 年 5月 11日 朝鮮駐箚軍経理部長
 大正 5 年 8月 18日   待 命
 大正 6 年 1月 17日 陸軍主計総監
               予 備 役








両角 三郎 陸軍中将 自筆の書




両角 三郎 閣下は、父親が会津藩士で禄百石を食み、祐筆を勤めた両角衛門。
陸軍教導団を経て陸軍士官学校を卒業(一期)。日清戦争、日露戦争に従軍し、
歩兵第六十連隊長、近衛歩兵第四連隊長を経て、大正5年8月に少将へ昇進し、
台湾第二守備隊司令官、歩兵第十八旅団長を歴任しました。大正10年6月に陸
軍中将へ昇進と同時に待命となり、同年10月予備役に編入されています。
親族には、義兄の下平 英太郎(海軍少将・稚松会副会長)
そして女婿に飯倉 貞造(海軍少将・海兵37期)、また女婿
に小原 直良(陸軍将校)がおります。
    ◆ 両角 三郎 陸軍中将 ◆


 慶応2年11月生、青森県出身

 歩兵科、士候1

         ≪略 歴≫

明治23年 7月26日 陸軍士官学校卒業

明治24年 3月26日 任陸軍歩兵少尉

大正元年 2月14日 歩兵第六十聯隊長

大正4 年 4月10日 近衛歩兵第4聯隊長

大正5 年 8月18日 任陸軍少将
       
             台湾第二守備隊司令官

大正7 年10月18日 歩兵第十八旅団長

大正10年 6月28日 任陸軍中将
        
             待 命

大正10年10月1日  予 備 役

             没年不詳

予備役後は、日本徴兵保険顧問を勤めたほか
在郷軍人会審議委員を勤めている。尚、両角は
旧会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会
の最後の会長でした。








木下 宇三郎 陸軍中将 自筆の書






    ◆ 木下 宇三郎 陸軍中将 ◆


 慶応1年9月27日生、熊本県出身
 砲兵科、士官生徒9、陸大11期


           ≪略 歴≫


明治17年9月      陸軍士官学校入校
明治20年7月21日   任陸軍砲兵少尉
明治25年12月      陸軍大学校入校
明治27年7月24日    陸軍大学校中退
明治29年2月29日    陸軍大学校復校
明治30年12月13日   陸軍大学校卒業
明治43年10月1日    野砲兵第二十四聯隊長
明治45年1月28日    第十二師団参謀長
大正2年7月3日     任陸軍少将
              台湾総督府陸軍参謀長
大正5年1月21日    野戦砲兵第二旅団長
大正5年8月18日    陸軍砲工学校長
大正6年8月6日     任陸軍中将
               野砲兵監
大正8年4月15日     教育総監部附
大正8年8月26日     第十二師団長
大正10年7月20日    予 備 役

昭和21年1月27日      歿








帝國在郷軍人会副会長
   和田 亀治 陸軍中将の肉筆の色紙




和田 亀治 陸軍中将は大分県出身。明治3年11月19日生
職人から一般徴兵を経て陸軍教導団卒業。陸士(六期)に
進み少尉に任官。歩兵第十二聯隊附。陸大(十五期)。
日露戦争では第一師団参謀で出征。その後、陸大教官や
陸軍省軍務局などキャリアを重ねて参謀本部第三部長、大
正12年8月に任陸軍中将。陸大校長をつとめました。その後
第一師団長に親補。昭和3年8月に予備役。帝國在郷軍人
会副会長をつとめました。昭和20年12月2日に逝去。







内閣総理大臣 小磯 國昭 陸軍大将の書




小磯 国昭 陸軍大将の書です。
書末尾に「熊平仁兄清嘱」との書き入れがあり
小磯国昭の共箱作品はほとんど見かける事の
無い大変稀少なものとの事です。
        ◆小磯 國昭 陸軍大将◆

             (略歴)

第41代内閣総理大臣、陸軍大将
従二位・勲一等・功二級
明治13年3月22日〜昭和25年11月3日
栃木県宇都宮市出身、陸士12期、陸大22期
陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・
朝鮮総督などを歴任。昭和13年7月29日に予備役
。東條内閣の後を受けて昭和19年7月22日に内閣
総理大臣就任するが、僅か8ヵ月半で総辞職。敗戦
後、A級戦犯として指名され東京裁判で終身禁固刑
昭和25年11月3日、巣鴨プリズン内で食道癌により
死去。享年71歳でありました。








敗戦時の総理大臣鈴木 貫太郎 海軍大将の
     横一行書 紙本 マクリと一行書のマクリです。 




横一行書です。「天雲海闊」とあります。
サイズ:約33× 130 cm。経年のため、多少シミ・折れがあります
がマクリとしては、保存状態も良い物です。紙本、裏打あり。


一行書で「修徳 立義」とあります。
サイズ:約44 × 170 cm。経年のため、多少シミ・折れがあり
ますがマクリとしては、保存状態も良いです。紙本、裏打あり。



            〜鈴木貫太郎 海軍大将〜

                  (略歴)

   従一位 勲一等 功三級、男爵


   大阪出身、慶応3年12月24日生

海軍軍人として最高位の大将にまで登りつめ連合艦隊司令長官
と軍令部総長の要職を全て経験した余りにも有名な人物です。
日露戦争では、駆逐隊司令としてバルチック艦隊の残存戦艦3隻
を沈めた実戦派としてもその手腕を高く買われた軍人でした。また
陛下の信任厚く乞われて侍従長となる為、海軍大将で予備役とな
ました。2.26事件では安東大尉の部下の将兵の銃弾を左脚付
根、左胸、左頭部に三発浴びながらも気丈に会話を続け運び込ま
れた日本医大病院では出血多量で一時、心停止するも蘇生した
化け物のような体力と強運の持ち主でありました。小磯内閣総辞職
により枢密院議長から第42代内閣総理大臣となり昭和20年4月7日
より同年8月17日まで敗戦を決定した内閣を維持した。東久邇宮稔
彦王内閣の時に再び枢密院議長の職に就くが公職追放により辞職
。昭和23年4月17日、82歳で逝去されました。江戸時代生まれの最
後の総理大臣でありました。








聖将・乃木 希典 陸軍大将
     の直筆軍事郵便を軸装したもの




聖将と言われた乃木 希典 陸軍大将が旅順にて
したためた直筆の軍事郵便を軸装したものです。
乃木 大将が釜山在住の郡司大佐に宛てた軍事郵便です。
「第三軍第五野戦局」の消印が押されており、「陸軍恤兵
部」の封筒が使用されております。
         ◆乃木 希典 陸軍大将◆

             (略歴)

従二位勲一等功一級伯爵
1849年12月25日 − 1912年9月13日
長州藩士。山口県出身。

吉田松陰に心服し、叔父・玉木文之進の門に入る。
戊辰戦争で活躍。日清戦争で第一旅団長として出征。
第三代台湾総督に就任するが、職務失敗を理由に辞
職してしまう。日露戦争では第三軍司令官として旅順
攻略を指揮。戦を指揮する軍人としてよりも、その高潔
なる人格に国内外から高い評価を得て聖将と呼ばれま
した。明治帝の崩御に後、大葬の夕に、妻とともに自刃
して殉死した事でも有名になりました。

≪辞世≫
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり








〜 乃木 静子 直筆の”母の訓”の下書き 〜




あの有名な乃木 将軍の奥様の乃木 静子 様が直筆で書かれた有名な”母の訓”
です。経理簿の帳面のような紙に…正直、ミミズの這ったような決してキレイとは謂
えない字で記載されています。宛先は陸軍の旭川第七師団の陸軍官舎の大森蝶子
様宛です。封筒が広島東税務署の大本大佐宛ての物の裏を使っているので明らか
に下書きと思われます。尚、宛名の横に必親展が記載されていますので、宛名本人
のみしか開封することが出来ない郵便にしたかったようです。明治45年3月29日の
年月日が記載されて東京赤坂 乃木 静子 と記載されています。

下書きとは謂え…御本人の直筆の”母の訓”は貴重なものと思われます。


                     母の訓 抄



  常の心得

一、女性は性順にして礼儀正しく恥あるを淑徳と致候。
   淑徳なければ公家御大名の姫君にても下素に異なれることなく、
   下賤の卑女にても淑徳備わり候へば公家御大名の簾中の奥方
   とも仰がれ可申候。

   下世話に、女は氏なくして玉輿に乗ると申候も、賤女より天然の
   淑徳備はれる女現れて後、御台所となり候事もありての事に候、
   御輿入後は順を以て御心と被遊、何事に就きても、殿御に口を返
   し又は荒々しき挙動を、或は猥がましき行為など夢被遊間敷候。

一、色を以て男に事ふるは妾のことにして、心を以て殿御に事ふるは
   正妻の御務に候故に御輿入先の殿如何に多くの妾在しまし候
   とも、色を以て之を争ふなど端たなき御振舞被遊間敷候。

一、奥方は気高きを良しと致候。去りながら気品高ければ情薄くなり、
   情濃かなれば品格を失ひ、中庸を得る事、時に六ヶ敷候。
   故に礼儀正しくすれば品格乱れず、心を順にすれば情薄からず、
   情濃かにして品位高き奥方たらん、順と礼とによるを第一と致候。

一、殿御の御運勢は奥方の好悪によるものに候。故に奥方の常に優美
   にして花の如くなれば、殿御の御運勢は春の日の如くに日に日に萌
   して御立身被遊べく候。之に反し、奥方若し憂ひ怒り悲しみ怨みなど
   其の心にありて御顔に現れ、又は言葉の端行のうちにあらはる々時
   は、殿御の御心その度毎に乱れて果ては御運勢縮まり、御家傾き
   遂に御身をも滅し給ふに至るべし、夫れ故古より、大望ある武士は
   妾を持つとも妻を持たずとまで申候。慎みて殿御御一代の御守菩薩
   と相成られるべく候。



  閨の御慎の事

一、御色気薄きは情なければ御夫妻の御中睦まじからず、終には御家
   の滅亡とも相成申べく候ま々御色気に充分なるを可ち致候。然れど
   も色は乱れ易きものにして愛想をつかさる々は最も多く候故に閨中
   に於ては特に御淑徳を尊び、順を以て助け、礼を以て乱を防ぎ、
   恥を以て色を補ふ事に候。殿より如何迫り給うとも自ら進で商ふ
   歌妓に等しき猥の御振舞必ず被遊間敷候。

  女子の良人に対し始めに愛され、後に愛想をつかさる々は、皆閨中
  にて淑徳を失ひての事に候。況や金殿奥方として妾に等しき行いあ
  りて其身の品格を失ふは第一の恥に候。

一、用事終われば寝所を異にし給ふべし。寝所一つなれば屹度愛想をつ
   かされ申すべく候。

一、閨中に入る時は必ず幾年の末までも初めての如く恥ずかしき面色を
  忘れ給ふべからず。狎れ恥ずかしき面色なければ、妾の如くなりて
  其品格を失い、用事済みて必ず殿御の心に嫌気起こり、度重なるに従
  ひ、必ず愛想をつかされ申すべく候。

一、殿御は何誰様にても寵愛の増すに従ひて種々なされ、枕辺に笑絵を
   開き之を眺め、または抉りなどし給ふことあり。斯様の時、心がけなき
   女性は興に乗じあられもなき大口を開き、或は自ら心を萌やして息あ
   らく鳴らし、恥もなき挙動をなさるる御方様もありとか申事に候。従ひ
   て殿御の用事にかかり給ふ時は種々にして曲を尽くし、十分に仕たく
   思ひ給ふが常なれども、用事終われば見るも嫌になる由申事申候。

   色は柔らかくして恥ずかしき内に味あるものにて、恥ずかしき面色ある
   ほど、情深くなり申候故に、殿御閨入り給ふ時は、必ず恥を含みて静か
   に入り、殿御より興に乗じて種々嬲り給ふことありとも荒々しく之を拒む
   は情を失ふを以て、只々殿御の胸に顔を差し入れて恥ずかしく思い給
   ふべし。

   又殿御用事にかかり給ひなば、殿御の胸に顔を確かと差当て余り動か
   し給ふべからず。また如何に心地好く耐りかね候とも、たわいなき事を
   云ひ、又は自分より口を吸ひ、或は取りはづしたる声など出し給ふべか
   らず。又佳境に入り給ふには殿御より先に、又は同時に入り給ふべし。

   殿御佳境に入り給へば、如何に溢るる共耐えて殿御の措き給ふときに
   止め給ふべし。閨の中にて如く優美に在せし奥方品位日々高くなり高く
   なる程麗しく、麗しき程殿御の胸には御元様の事のみ思ひ続けて生涯
   御寵愛衰へ申さず候。

   賢き婦人は偏に此の慎しみにて殿御の内助となり、守り神となりて
   御運勢を保護し給ふこそ賢き婦人と申すなれ。下様の賤女にても閨中の
   淑徳を守れるものは、縉紳高貴の正妻として良人を助け、遖れ功名を顕
   わすさしむるものと云ひ申候。

一、閨の用事終われば始末し給ふに、紙の音など殿御の耳に入らぬ様心懸
   けらるるべく候。用事終われば殿御の御心色に飽き給ふ時なるを以て、
   意を用いて静かに始末し給へば、品よく時に麗しきものにて候。

   斯様のときには、海棠の雨に打たれし如くなるを可と致候。

一、殿御の御寵愛勝れて昼も房に入れ給ふ事あれども、無碍に拒み給ふは
   情に背き給ふなり、されば房事にても彌増して一倍深く慎み給ひ、如何に
   御心地宜しとも襠を解き給ふべからず。殿御佳境に入り給へば静かにして
   厠に至り、始末して其帰るさに腰元に仰せず、自ら御手拭いを水に濡らし
   て持ち帰り、跪きて顔を背けて殿御に差上げ給ふべし。

   此外種々の御心懸けあれども心して行い給ふべし、唯々礼と順とを忘れず
   して情濃かに心懸け給ふべく候。



 朝夕の心得

一、朝は必ず殿後に寝姿を見られ給ふべからず。疾く起きて化粧を施した顔に
   て殿に会い給ふべし。殿御は毎朝麗しき完爾たる奥方の顔を見給ひなば、
   其日一日の苦難を忘れ給ふなり。


一、晩に特に麗しくして殿御と御会食し給ふべし。斯く遊ばさば妾を思ひ給ふ
   暇なく御身健やかに御運は妨げなかるべく候。


一、毎日殿御の御出仕又は御帰りの節は、最も完爾として玄関脇御廊下まで
   送り迎え被遊るべく候。殿御は之を何より嬉しく思ふものに候。


一、平素の憂い給ふ事あるも、殿御に向ひては必ず憂しき事を云ひ、また
   は憂しき顔を現し給ふべからず。

   殿御は奥方を以て一代の守り神とし給ふべければ、奥方の仕向けは皆
   殿御の御運勢に掛かり申すべく候。

   賢婦人の殿御を助け給うといへるは別になし給ふことにあらず。唯閨中の
   慎みと平素の仕向けのみにて殿御大事と思召し能く心懸け完爾と過させ
   給ふべし。

   殿御の務め仕立ての運不足は唯奥方の平常にあることにこそ、忘れ給ふ
   ことなき様神かけて念じ上申候。


一、殿御を怨み給ふは御身の身分を呪い給ふなり。如何なることあるも仮にも
   殿御に怨言など言ひ給ふべからず。

   また腰元など慰め申す事ありとも、其口に乗りて殿御の噂など悪しく言ひ
   給ふは下賤の行いにて、御運勢をも傷つけ御身も共に不吉を招き給ふに
   て候。


一、御家来人または御交際の間柄にて殿御の御気に召さぬ御方様ありとも、
   必ず悪しく言い給ふべからず。其人に逢ひ給はば、殿御気に召さぬ御方
   様と叮寧に遊ばさるべく候。

   然すれば殿御の御身に妨げせんとする人も、奥方の徳によりて自然と
   殿御に従ふ様になり申べく候。斯様の事は内助の第一にて候。


一、殿御御心配の節または御災難ありしときは、日頃より尚優しく御保護遊ば
   さるべく候。斯様のときこそ最も奥方の内助を要する事に候。


一、御家大事ともならむ時は能く其心を鎮めて殿御に従い奉、武門の習ひに
   て討死ともあらん時は女々しき御挙動なく、潔よく殿御と共に御自害遊ばさ
   れ、末代の誉れを残し給ふべし。


大正元年9月13日、明治大帝の大喪儀の後、乃木夫妻は殉死
されます。…写真は自決の日の乃木夫妻です。
乃木 静子 様の辞世です。

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき







山本五十六 連合艦隊司令長官
   直筆の原稿用紙一枚半(昭和17年10月)



原稿用紙にペン書されたものです。差出人は、
山本大将で受取人は、目黒真澄氏となってい
ます。17年10月初と記載されています。ガダル
カナルの攻防戦を行っていた厳しい時期です。
下は内容の解説となっています。
  ◆山本 五十六 元帥海軍大将◆

         (略歴)

元帥海軍大将、正三位・大勲位・功一級
明治17年4月4日〜昭和18年4月18日
新潟県長岡市出身

昭和18年4月18日、ブーゲンビル島上空
にて視察の為一式陸攻に座乗中、暗号解
読で待ち構えていた敵P-38ライトニングの
攻撃を受けて戦死する。歴代の聯合艦隊
司令長官で唯一の戦死者となりました。








聨合艦隊司令長官 山本 五十六 海軍大将が
 三枝 恵作 海軍軍醫中佐に聨合艦隊司令部
    (戦艦 大和)より送った肉筆の郵便筒包み
     そして嶋田 繁太郎 海軍大将が三枝 中佐
       の御子息に贈られた”敬神崇祖”の肉筆書




連合艦隊司令長官 山本 五十六 大将(元帥)の郵便小包(筒)
に書かれた自筆の書(肉筆・宛名と署名)です。
署名は"連合艦隊司令部 山本 五十六"と書かれてあります。
昭和17年4月に、連合艦隊旗艦 戦艦"大和"の連合艦隊司令
部から静岡市の三枝 恵作 海軍軍医中佐に送ったものです。
(三枝 恵作 軍医中佐は「追悼山本五十六」(新人物往来社編
新人物文庫)に思い出を語る記事が掲載されています。その中
にこの郵便小包のことが記載されています。)。三枝 軍医中佐
は、日本海海戦で左手指を負傷した高野候補生(山本五十六)
の指の治療、切断手術の介助をした外科助手でした。執刀医グ
ループの中の軍医として以後、山本 元帥と親交した人です。
なお、この筒の中には嶋田繁太郎海軍大将の書(肉筆)が入っ
ておったようです。その書には”敬神崇祖”、皇紀二千六百四年
初秋 為三枝弘之君と書かれていますので昭和十九年九月頃の
嶋田大将が海軍軍令部総長を辞めて軍事参議官の頃と想われ
ます。この時点で山本五十六元帥はすでに戦死していますので、
実際にはこの郵便筒には嶋田大将の書は入っていなかったので
すが、三枝家の人が入れて保管したと考えられます。もともとこの
郵便筒の中には山本元帥の書が入っていたと推察されますが、
その行き先は不明です。因みに山本元帥と嶋田大将は兵学校同
期(32期)です。奇しくも同期生の書いた書の包みに別のコレス
の同期生の書が戦後長らく入れられていた事になります。またコ
レスですがご存じのように山本元帥は今も非常に人気が高い提
督ですが…嶋田大将は対照的に非常に人気がありません。
この山本 元帥の郵便筒は結構大きくて、長さが61.7cm
直径が7.5cmあります。









嶋田 大将の書は、長さ133cm、幅33.6cmです。






確かに文中の中に内包みも外包みも直筆で送って下さりとあります(赤線)。
中には其々、三枝 中佐の御家族に宛てた墨書きの書があった記載があり
ます。そして最後に亡くなられた提督に贈ろうと育てた蘭の一鉢ですが、提
督の戦死で贈る事が適わず…同期生であった嶋田海相(既にこの時は辞め
ておりますが)を煩わして贈った事も記載されております(黄色線)。そして
山本長官からの書は後世まで家宝として子孫に伝える旨の記載もあり(青線
)…恐らく今も三枝家で家宝として大切に保管されているものと想われます。
またこの誼で嶋田 大将からの御子息への為書が山本長官の書が入れられ
ていた事も納得がいきました。










戦時中、戦死後に国葬で送られ今も国民に人気の高い
 山本 五十六 元帥海軍大将(正三位・大勲位・功一級)
       の直筆の書込み入りの名刺・封筒の額装した品




山本 海軍大将の名刺と送り封筒を色紙サイズに表装した物で
山本長官の書き込み(直筆)があります。
宛先の”橋本 清吉 氏”は、三重県出身の政治家で福島県知事を務めた後
近衛内閣の警保局長になられております。この手書きは…その頃に受け取
った物と思われます。

差出し人の住所は、当時の聯合艦隊旗艦の軍艦 ”長門”と書かれており…まさに開戦直後
の連戦連勝の破竹の勢いで南方へ進出する矢先の手紙である事が判ります。
消印は16.12.24となっており、真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)の
約二週間後になります。手紙は恐らく礼状のようなものと思われます。

宛名の橋本 清 氏は、戦後も衆院議員を1期(改進党)つとめております。
昭和30年7月2日に57歳のの若さで逝去。多磨霊園に眠られています。


タイムリーと謂うべきか…少し前の平成23年年末の超大作として
東宝映画の『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年
目の真実-』が上映され、公開2週間で動員80万人・興行収入10
億円超えの大ヒットとなったとか…。今も国民に人気の高い事が
伺えます。

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元帥海軍大将 山本 五十六
 聯合艦隊司令長官が昭和十四年
  の就任時に次男 山本 忠夫 氏に
   残した”常在戦場”と刀身に彫りの
    ある形見の短刀(茎の表に五十六
        花押、茎の裏には、為 忠夫)




鑑定書等と一緒にある白鞘の短刀です。山本 五十六 海軍大将が
昭和14年に第26代の聯合艦隊司令長官に就任した際にまだ幼い
次男に妻・礼子さんを通して贈った形見の短刀です。
旧越後長岡藩の士族らしく”常在戦場”は藩祖以来の藩風・藩訓
です。その誇りを刻みまだ幼い6歳の次男に授けております。



















戦後に昭和の激動期の警察展で展示された時の展示品の
説明が残っています。展示品番号十九



茎の表に五十六 花押が彫られています。


















左の写真は、この形見の短刀をいただいた次男の山本忠夫さん
の昭和十九年の疎開先の和歌山県の塩谷国民学校の六年生の
時のものです。山本長官には御家族として奥様の礼子(旧会津藩
士の三女)さんとの間に長男の義正氏、次男の忠夫氏、長女の澄
子さん、次女の正子さんの四名のお子さんが居られました。奥様は
昭和16年12月3日に山本長官が青山南町の自宅を出られたのをが
最後の別れとなりました。昭和18年4月18日に戦死され…暫く後に
国葬が盛大に行われました。昭和19年2月に既に成人されている
長男の義正氏と長女の澄子さんを除き、3名の遺族が和歌山県の
御坊に疎開されました。東京の自宅は昭和20年5月25日に空襲で
焼失されました。戦後は奥様が保険の外交員をされ一家の生計を
支えました。次男の忠夫氏は成人し、NHKで働き既に定年退職され
ております。








中沢佑 海軍少将時代・家族へ
          の軍事郵便など13通








中沢祐海軍中将の大佐・少将時代の手紙類です。御存知のとおり中沢
少将(中将)は、海軍の中枢にあり要職を歩んだエリート提督です。

中沢大佐宛て・封書八通の内中身有り三通・葉書(軍事郵便・仏印)一通。
軍令部一部少将宛て(海軍中将男爵伊集院の合同葬儀)一通。家族(妻)
宛て・軍事郵便封書(中身有り)二通・普通葉など大佐時代から少将の軍
令部勤務時代の書簡です。
書一通。

<略歴>
長野県出身・海軍兵学校43期、海軍大学26期

昭和9年3月10日   軍令部作戦班長
昭和11年12月1日
  海軍大佐 連合艦隊首席参謀
昭和12年12月1日  軍令部第二課長
昭和14年11月5日  軍令部作戦課長
昭和15年10月15日 巡洋艦”足柄”艦長
昭和16年7月25日  第五艦隊参謀長
昭和17年11月1日  海軍少将
昭和17年11月5日  出仕
昭和17年12月10日 人事局長

昭和18年6月15日  軍令部第一部長
昭和19年12月20日 第21航空戦隊司令官
昭和20年2月5日   台湾空司令官
昭和20年5月10日  兼高雄警備府参謀長 兼第一航空艦隊参謀長
昭和20年6月24日  免兼
昭和20年11月日   海軍中将
昭和21年4月30日  予備役
26期







佐藤 鉄太郎 海軍中将 直筆書 掛軸







        ◆ 佐藤 鉄太郎 海軍中将 ◆

山形県生。海軍兵学校卒。軍令部次長・海軍大学校長
舞鶴要港部司令官。予備役等を歴任。貴族院議員。

著書に『帝国国防史論』。昭和17年(1942)歿、77才。







高橋 三吉 海軍大将の南画山水図 掛軸







      ◆ 高橋 三吉 海軍大将 ◆


 明治15年8月24日生、岡山県出身

 海兵29期、海大10期

           (略 歴)

大正14年12月 1日   任海軍少将
               軍令部参謀(第二班長)
大正15年11月 1日    聯合艦隊参謀長
               兼第一艦隊参謀長
昭和 2 年 8月24日   美保ケ関事件
昭和 2 年12月 1日   軍令部出仕
昭和 4 年11月30日   任海軍中将 
               海軍大学校々長
昭和 7 年 2月 8 日   軍令部次長
昭和 8 年11月15日   第二艦隊長官
昭和 9 年11月15日   連合艦隊司令長官
                兼第一艦隊司令長官
昭和11年 4 月 1 日   任海軍大将
昭和11年 12月 1 日   軍事参議官
昭和14年 4 月 1 日    待 命
昭和14年 4 月 5 日    予備役


昭和41年 6 月15日    逝去 (享年83歳) 









野間口 兼雄 海軍大将 の自筆”能忍自安”額用めくり










     ◆ 野間口 兼雄 海軍大将 ◆


 慶応2年2月14日生、鹿児島出身

 海兵13期、海大甲5期


           (略 歴)


明治42年12月 1 日  任海軍少将
                第一艦隊参謀長
大正 2 年 1 月10日   海軍軍務局長
大正 3 年 4 月17日   呉海軍工廠長
大正 3 年 5 月29日   任海軍中将
大正 4 年 12月13日   第六戦隊司令官
大正 5 年 12月 1 日   海軍兵学校々長
大正 7 年 12月 1 日   舞鶴海軍鎮守府長官
大正 8 年 12月 1 日   第三艦隊司令長官
大正 9 年 8月 16 日   任海軍大将
大正 9 年 12月 1 日   海軍教育本部長
大正 12 年 4月 1 日   軍事参議官
大正 12 年 5月 15日   横須賀鎮守府長官
大正 13 年 3月 10日    待 命
大正 13 年 3月 20日    予備役
昭和 6 年 2 月 14 日    後備役
昭和 11年 2 月 14日    退 役

昭和 18年12 月 14日    逝 去(享年77歳)









水谷 千万吉 海軍中将の肉筆一行書








     ◆ 水谷 千万吉 海軍中将 ◆


 慶応3年11月 3日生、愛知県出身

 海兵19期


           (略 歴)


大正6年 6 月 1 日  任海軍機関少将
              (朝鮮総督府平壌鉱業所長)
大正11年 4月 1 日  燃料廠平壌鉱業部長
大正11年11月10日  海軍軍令部出仕
大正11年12月 1 日  任海軍機関中将
                 待 命
大正12年 3 月31日     予備役
大正13年 12月20日  任海軍中将
昭和 4 年11月 3 日     後備役
昭和 9 年 11月 3日     退 役

昭和17年 8 月 22日     逝 去 (享年74歳)









湯地 秀生 海軍中将 自筆 一行書






       ◆ 湯地 秀生 海軍中将 ◆


 明治16年 5月 2日生、熊本県出身
 海兵30期、海大14期、功五級

            ≪略 歴≫

明治35年12月14日  任海軍少尉候補生 (海兵卒)
明治36年12月28日  任海軍少尉
大正 3 年12月 1日  海大甲種学生
大正10年12 月 1日  任海軍大佐 ・海大教官
大正15年12 月 1日  任海軍少将
              第一潜水戦隊司令官
昭和 4 年11月30日  第三戦隊司令官
昭和 5 年12 月 1日  馬公要港部司令官
昭和 6 年12 月 1日  任海軍中将
昭和 7 年 1 月11日  軍令部出仕
昭和 7 年 3 月22日   待 命
昭和 7 年 3 月31日   予 備 役
昭和15 年 4月25日   歿 (享年56歳)









大正・昭和二代の天皇に仕え
  昭和天皇の側近で侍従武官長を務めた
    男爵 奈良 武次 陸軍大将の肉筆書(掛軸)




奈良 陸軍大将の迫力のある墨蹟
漢詩双幅と一行書軸の二点です。
 表具   縦  199.5cm    幅  51.6cm
 紙本   縦  134.0cm    幅  33.0cm


         ◆ 奈良 武次 陸軍大将 ◆

 陸軍大将勲一等功三級男爵
 慶応4年4月6日生
 栃木県鹿沼市出身
 陸士旧11期 陸大13期 砲兵科
 砲工校2期 優等 ドイツ駐在

               (略 歴)

明治22年 7 月 26日  任陸軍砲兵少尉
明治26年11月 25日  陸軍砲工学校高等科卒業(2期優等)
明治29年12月      陸軍大学校入校
明治32年12月 21日  陸軍大学校卒業
明治41年12月 21日  陸軍省軍務局砲兵課長
明治43年 7 月 12日  任陸軍砲兵大佐
大正 1年 9 月 28日  陸軍省高級副官兼軍務局砲兵課長
大正 2年 2 月 24日     免兼
大正 3年 8 月 8 日  任陸軍少将・支那駐屯軍司令官
大正 4年 7 月 5 日  青島守備軍参謀長
大正 5年 3 月 31日  陸軍省軍務局長
大正 7年 7 月 24日  任陸軍中将
大正 7年12 月 17日  参謀本部附(講和会議委員)
大正 9年 7 月 16 日  東宮武官長
大正11年11月 24 日  侍従武官長兼東宮武官長
大正13年 8 月 20 日  任陸軍大将
大正15年12月 25 日  免兼
昭和 8 年 4 月 6 日  予備役
昭和 8 年 4 月 25日   男爵
昭和 9 年 4 月 29日  勲一等旭日桐花大綬章
昭和12年 5 月 14 日  枢密顧問官
昭和12年 9 月      大日本武徳会長
                    (〜昭和17年3月31日)
昭和 21年 4 月 17日     辞職
昭和 37年12 月 21日   歿( 享年94歳)


昭和の初期から開戦前と思われる当時の写真です。天皇旗の横で昭和天皇が
陸軍大元帥の軍服を着用し敬礼をして閲兵しています。近くに陸軍の侍従武官
長が控えており陸大徽章・侍従武官長徽章・供奉員徽章の三種類を佩している
のが判ります。奥の海軍の侍従武官は徽章が良く判りません。侍従武官長は
恐らく東宮武官・侍従武官・東宮武官長を歴任し侍従武官長を務められた奈良
武次 陸軍大将(当時、中将)と思われます。従って昭和元年から昭和八年四月
五日までの間の写真であると思われます。







日本スキーの父
 堀内 文治郎 陸軍中将の直筆書(掛軸)







明治44年、オーストリア・ハンガリーのレルヒ陸軍少佐
からスキーを学び、日本スキー界の草分け的な存在と
なります。

        ◆ 堀内 文治郎 陸軍中将 ◆


 文久3年9月17日生
 長野県松代出身、士族
 攻玉社、士候7期

               (略 歴)

明治18年 6月18日 任陸軍少尉
             陸軍士官学校教官
             台湾総督府副官
             陸軍省軍務局出仕
明治33年 4月     任陸軍歩兵少佐・参謀本部高級副官
明治37年 2月     兼大本営陸軍部副官
明治37年 8月     任陸軍歩兵中佐
明治39年 7月11日 歩兵第58聯隊長
明治40年11月13日 任陸軍歩兵大佐
明治44年 9 月 6日 任陸軍少将・歩兵第23旅団長
大正 5年 5 月 2 日 任陸軍中将・待命
大正 5年 8 月10日 予備役
大正 9年        信州山ノ内スキー倶楽部総裁
大正14年        国学振興会会長
              平安中学校長
              満蒙学校長
              全日本アマチュア拳闘聯盟会長
昭和17年3月14日       歿(享年79歳)








敗戦時の陸軍大臣として帝國陸軍を
 自らと共に葬むり見事な割腹自決を
  された阿南 惟幾 陸軍大将の陸軍省
   兵務局長(少将)時代の一枚の挨拶状




右上の御祝栄轉は閣下の直筆と思われます。


      ◆ 阿南 惟幾 陸軍大将 ◆

            (略歴)

明治20年2月21日生、東京市出身
陸士18期、陸大30期

敗戦時の陸軍大臣。陸相・陸軍大将に上り詰めた
逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく
平均的な軍務官僚で、陸相就任以前は目立った
エピソードも少ない。しかし誠実な人柄で人望が厚
く、様々に解釈される後述の敗戦時の言動も相まっ
て評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い
軍人である。


明治33年 9月 - 広島陸軍幼年学校卒業
明治38年11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)
明治39年 6月 - 任陸軍少尉、歩兵第1連隊附
明治41年12月 - 任陸軍中尉
明治43年11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監
大正 5年11月 - 任陸軍大尉
大正 7年11月 - 陸軍大学校卒業(30期)
大正 8年 4月 - 参謀本部附勤務
      12月 - 参謀本部員
大正11年 2月 - 任陸軍少佐
大正12年 8月 - サガレン州派遣軍参謀
大正14年 8月 - 任陸軍中佐
大正15年 4月 - 軍令部参謀
昭和 2年 8月 - フランス出張
      12月 - 歩兵第45連隊附
昭和 3年 8月 - 歩兵第45連隊留守隊長
昭和 4年 8月 - 侍従武官
昭和 5年 8月 - 任陸軍大佐
昭和 8年 8月 - 近衛歩兵第2連隊。
昭和 9年 8月 - 東京陸軍幼年学校長
昭和10年 3月 - 任陸軍少将
昭和11年 8月 - 陸軍省兵務局長
昭和12年 3月 - 陸軍省人事局長
昭和13年 3月 - 任陸軍中将
      11月 - 第109師団長
昭和14年 9月 - 参謀本部附
      10月 - 陸軍次官
昭和16年 4月 - 第11軍司令官
昭和17年 7月 - 第2方面軍司令官
昭和18年 5月 - 任陸軍大将
昭和19年12月 - 航空総監兼軍事参議官
昭和20年 4月 7日 - 陸軍大臣
昭和20年 8月15日 - 割腹自決(享年58歳)


          <遺書>

   一死以て大罪を謝し奉る

 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾

   神州不滅を確信しつつ

 

          <辞世>

大君の 深き恵に 浴みし身は

           言ひ遺こすべき 片言もなし








マレーの虎の異名を持つ国民的な英雄で
  マニラで悲運の刑死を遂げた悲運の名将
          山下 奉文 陸軍大将の直筆の書
                と肉筆紙本を額装した扁額




和紙に書かれたものを切りとり裏打ちして額装しています。
真贋は定かではありませんが、落款あります。


今も尚、 その大きな存在感で海軍の山本 五十六 GF長官
と並び陸軍の一番人気の山下大将です。…指揮官としての
直接の実績で謂っても陸軍の山下大将の方が上のように思
います。山本長官の死に方も最高司令官としては余りにも無
防備で戦い半ばで死ぬ事は無責任だと感じます。

          <山下 奉文 陸軍大将>

                (略 歴)

  従三位勲一等功三級

  高知県出身、明治18年11月8日生
 
  海南中学校から広島陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校
  に進む。

明治38年11月25日 - 陸軍士官学校卒業(18期)
明治39年 6月26日 - 任陸軍少尉(歩兵第十一連隊附)
明治41年12月 - 任陸軍中尉
大正 5年 5月 - 任陸軍大尉
大正 5年11月25日 - 陸軍大学校卒業(28期優等)
大正 6年 8月 - 参謀本部附勤務
大正 7年 2月 - 参謀本部部員(ドイツ班)
大正 8年 4月 - 駐スイス大使館付武官補佐官
大正10年 7月 - ドイツ駐在
大正11年 2月 - 任陸軍少佐
大正11年 7月22日 - 陸軍技術本部附兼軍務局課員
                      (編制班長)
大正14年 8月 - 任陸軍中佐
大正15年 3月16日 - 陸軍大学校教官(兼任)
昭和 2年 2月22日 - オーストリア大使館
                    兼ハンガリー公使館附武官
昭和 4年 8月 1日 - 任陸軍大佐,陸軍兵器本廠附
             (軍事調査部軍政査会幹事)
昭和 5年 8月 1日 - 歩兵第三連隊長
昭和 7年 4月11日 - 陸軍省軍事課長
昭和 9年 8月 1日 - 任陸軍少将
昭和10年 3月15日 - 陸軍省軍事調査部長
昭和11年 3月10日 - 歩兵第四十旅団長
昭和12年 8月26日 - 支那駐屯混成旅団長
昭和12年11月 1日 - 任陸軍中将
昭和13年 7月15日 - 北支那方面軍参謀長
昭和14年 9月23日 - 第四師団長
昭和15年 7月22日 - 航空総監兼航空本部長
昭和15年12月10日 - ドイツ派遣航空視察団長
昭和16年 6月 9日 - 軍事参議官
昭和16年 7月17日 - 関東防衛軍司令官
昭和16年11月 6日 - 第二十五軍司令官
昭和17年 7月 1日 - 第一方面軍司令官
昭和18年 2月10日 - 任陸軍大将に昇進
昭和19年 9月26日 - 第十四方面軍司令官
昭和20年12月   - マニラ軍事裁判で死刑判決
昭和21年 2月23日 - 刑死(絞首刑)享年六十二歳


               <辞世>


 待てしばし 勲のこして ゆきし友
                  あとなしたいて 我もゆきなむ


    (妻に宛てた辞世)

 満ちて欠け 晴れと曇りに かわれども
                    とわに冴え澄む大空の月




山下大将の揮毫の扁額です。幅が165cmある
立派なものです。


紙本の大きさは、33cm x 128cm












    サイパン島で玉砕して果てた
      中部太平洋方面艦隊司令長官
           南雲 忠一 海軍大将の手紙

〜真珠湾奇襲からミッドウェイ海戦
   まで第一航空艦隊を指揮して戦っ
    た提督。…当時、世界初で世界最強を
     誇った空母機動部隊を指揮した指揮官です。〜




有名な南雲中将の手紙です。差出相手は日本燐寸会社専務取締役
の本多一太郎氏です。時候の挨拶と共に”上海戦線”や”味方陸軍”
などの内容が踊ります。年は不明ですが11月12日とあり、佐世保の
軍艦 由良とあることから…昭和12年12月以降の南雲少将(当時)が
第八戦隊司令官時代のものと思われます。昭和12年8月に上海上陸
作戦に出動し、陸軍の上海派遣軍司令官である松井石根大将が乗艦
し8月22日に上海に到着し…11月まで揚子江の作戦に従事しました。
この時の昭和12年11月12日に記載した手紙と思われます。この後、
すぐに水雷学校の校長として異動しました。


          ◆ 南雲 忠一 海軍大将 ◆


  従三位・勲一等・功一級

  山形県米沢市出身、士族

  明治20年3月25日生、海兵36期、海大18期


                <略歴>

明治41年11月21日 海軍兵学校卒業
明治43年1月 任海軍少尉
明治43年5月 装甲巡洋艦「浅間」乗組
明治44年4月 砲術学校普通科学生
明治44年4月年8月 水雷学校普通科学生
明治44年4月年12月 任海軍中尉、戦艦「安芸」乗組
大正 2年5月 駆逐艦「初霜」乗組
大正 2年12月 海軍大学校乙種学生
大正 3年5月 水雷学校高等科学生
大正 3年12月 任海軍大尉、戦艦「霧島」分隊長
大正 4年12月 駆逐艦「杉」乗組
大正 5年12月 第四戦隊参謀
大正 6年4月 第三特務艦隊参謀
大正 6年12月 駆逐艦「如月」艦長
大正 7年12月1日 海軍大学校甲種学生
大正 9年11月26日 海軍大学校卒業
大正 9年12月 任海軍少佐、駆逐艦「樅」艦長
大正10年11月 第一水雷戦隊参謀
大正10年12月 軍令部第一班第一課参謀
大正13年12月 任海軍中佐
大正14年6月
大正15年2月
欧米出張
大正15年3月 砲艦「嵯峨」艦長
大正15年10月 砲艦「宇治」艦長
昭和 2年11月 海軍大学校教官
昭和 4年11月30日 任海軍大佐、軽巡「那珂」艦長
昭和 5年12月 第十一駆逐隊司令
昭和 7年10月 軍令部第一班第二課長
昭和 8年11月15日 重巡「高雄」艦長
昭和 9年11月15日 戦艦「山城」艦長
昭和10年11月15日 任海軍少将、第一水雷戦隊司令官
昭和11年12月1日 第八戦隊司令官
昭和12年11月 水雷学校長
昭和13年11月15日 第三戦隊司令官
昭和14年11月15日 海軍中将
昭和15年11月1日 海軍大学校長
昭和16年4月10日 第一航空艦隊司令長官
昭和16年12月 ハワイ作戦で機動部隊を指揮
昭和17年1月20日
〜22日
ラバウル・カビエン攻略支援
昭和17年2月19日 ボートダーウィン攻撃
昭和17年3月 ジャワ海掃討戦
昭和17年4月 インド洋作戦
昭和17年6月 ミッドウェー作戦開始
昭和17年6月5日
〜7日
ミッドウェー海戦
昭和17年7月14日 第三艦隊司令長官
昭和17年8月24日
〜25日
第二次ソロモン海戦
昭和17年10月26日
〜27日
南太平洋海戦
昭和17年11月11日 佐世保鎮守府司令長官
昭和18年6月21日 呉鎮守府司令長官
昭和19年10月20日 第一艦隊司令長官
昭和19年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼
第十四航空艦隊司令長官
昭和19年6月〜7月 サイパン島防衛戦を指揮
昭和19年7月6日 サイパン島守備軍…最後の総攻撃前
に司令部壕にて自決…(享年57歳)
昭和19年9月2日 任海軍大将



当時、手紙を書いたのがこの第一艦隊第八戦隊旗艦の
軽巡洋艦”由良”であります。長良型軽巡洋艦の四番艦
であります。

             〜サイパンでの最期の訓示〜

『サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、
 在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に
 皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時
 を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふ
 に資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生
 報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有
 すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死
 進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮す
 るを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋
 の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて
 虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを
 悦びとすべし 』

サイパンに於ける最期の自決の様子は諸説あるものの…定説では司令部
壕の中で昭和19年7月6日に中部太平洋方面艦隊参謀長の矢野 英雄 海
軍少将らと自決されました。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午
後10時ごろ、司令部にて第四十三師団長の斎藤 義次 陸軍中将が中央に
南雲中将が右、第四十三歩兵師団参謀長 井桁 敬治 陸軍少将が左に正
座。日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃ち
介錯しました。南雲中将の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」とい
う問いに対して「どうぞ」だったと伝えられております。









敗戦の日に惨殺された
 近衛第一師団長 森 赳 陸軍中将
                 の肉筆書






        森 赳 陸軍中将

高知県出身、騎兵科、陸士28期、陸大39期


義弟の白石 通教 陸軍中佐(第二総軍参謀
兼 畑 俊六 元帥 陸軍大将の副官)共に狂
信的に継戦を熱望した陸軍省の将校等に惨
殺された宮城事件は…まさに悲劇のような
話です。まともな軍人が斬り殺されて…首謀
者である井田(岩田)陸軍中佐や
窪田少佐
が戦後ものうのうと生き延びた事は理不尽
この上ない話です。

主に騎兵畑を中心にキャリアを重ねて日米戦の開戦前に陸軍少将に昇進。大戦中は
第六軍参謀長、憲兵司令部本部長、第十九軍参謀長などを歴任、昭和20年3月に陸軍
中将に昇進。参謀本部付を経て近衛第一師団長に就任し、宮城警備に従事。同年8月
15日の敗戦の日に所謂、宮城事件で部下らに惨殺されます。これは近衛師団司令部の
師団長室において義弟の白石 通教 陸軍中佐(第二総軍参謀兼 畑 俊六 元帥 陸軍
大将の副官)と談話中に門鑑を持たずに不法に近衛師団司令部に侵入した井田 正孝
陸軍中佐(陸軍省軍務局軍務課課員)、椎崎 二郎 陸軍中佐(陸軍省軍務局軍務課
課員)、畑中 健二 陸軍少佐(陸軍省軍務局軍務課課員)が面会を強要しクーデター
への参加を森師団長に求め拒否されます。この時別件で師団司令部を訪れていた窪田
兼三 陸軍少佐陸(軍通信学校教官)と上原 重太郎 陸軍大尉(航空士官学校生徒隊
区隊長)が加わり…クーデターへの決起を拒否された畑中 少佐が森師団長に拳銃を
発砲、続いて上原 大尉が軍刀で斬殺しました。また同席中だった白石 中佐もまた
窪田 少佐に斬殺されました。その後、この宮城事件の首謀者たちは…あがき続ける
も明らかな決起の失敗で…それぞれが万策尽きて自決を余儀なくされています。
椎崎 中佐と畑中 少佐は皇居の二重橋と坂下門の間の芝生上で自決。上原 大尉は…
その後も同志を求め徹底抗戦の意志を捨てなかったが、憲兵隊より出頭を求められ
19日未明に航空士官学校裏手の航空神社にて自決。しかし首謀者の中でも最たる中心
人物が戦後も生存しました。それが井田 正孝 陸軍中佐(陸軍省軍務局軍務課課員)
です。何故か彼は自決もせず、事件後に重謹慎30日を受けて予備役に編入され戦後も
生き延びました。この方は戦後、GHQの米軍司令部戦史課に勤務した後、在日企業で
反日で有名な電通に入社し…電通の関連企業の電通映画社の常務を務めました。
昭和30年に離婚で養子先の井田姓より旧姓に復し岩田 正孝となって身も心も入れ替
わったようなその人生は、平成16年2月6日に91歳で終える事となりました。同様に
窪田 少佐の存在も戦後も生き延びた井田 中佐の手により隠蔽されました。窪田 少佐
はその後、川口放送所占拠事件を起こし失敗するが…罪に問われる事も無く…井田
中佐と同様に当然のことながら自決などする筈もなく戦後をノウノウと生きました。
…しかし泉下で待つ同志だった椎崎 中佐と畑中 少佐は当時のまま若い姿で2人を待ち
再開したでしょう。そして惨殺した後に師団司令部のゴミ捨て場に死体を遺棄された
森 近衛師団長はプライベートな時間に寛いだ浴衣姿で無残に殺されました。…何の
準備も無いまま未明の来客があるわけも無い時間帯に強引になだれ込まれ…凶弾を撃
ち込まれた後、軍刀で斬り殺されました。その義兄を守るような形で庇おうとし軍刀
を抜きかけた義弟の白石 中佐までも惨殺しましたが…この二人もまた老いさらばえた
井田(岩田)と窪田の両名を…如何に迎えた事でしょうか?…また戦後の不確認な話
として上原 大尉は、窪田 少佐の罪をかぶって自決した事も謂われており…井田(岩
田)が戦後に色んな形で話したストーリーが半藤一利の”日本のいちばん長い日”で
あります。この本はすぐに映画化され”日本のいちばん長い日”として上映されまし
た。…そして昭和天皇御一家もこの映画を鑑賞されました。しかし…この映画の原作
も共にクーデターを起こした青年将校らをかなり美化して描かれていますが…当然の
事で生き残った井田(岩田)らが語るストーリーをそのまま史実として捉えています。
そして再び…映画がリニューアルされて今年の夏・8月8日に…上映されます。
http://nihon-ichi.jp/index.html

また井田(岩田)の電通での同僚には、敗戦時の東京憲兵隊特高課長・塚本 誠 陸軍
大佐がおりました。この人は8.15宮城事件で井田(岩田)や椎崎、畑中、上原らを取
調べ取り締まる立場だった人です。













                  ↑
旧近衛第一師団司令部は…現在、国立近代美術館工芸館
として存在しています。上の画像をクリックすると此の場所を
紹介している遺構サイトのページが開きます。


左上の写真の2階の突き出た建物の窓のあるスペースが調度、師団長室になります。
敗戦の日の・・・昭和20年8月15日に起こった森 赳 師団長惨殺事件は、まさにここの
師団長室で起こりました。







海軍乙事件で戦死された
  元帥海軍大将 古賀 峯一
   第二十八代聯合艦隊司令長官
     の軍令部次長(海軍中将)時代
       の直筆記載の封筒と中の名刺




昭和12年12月18日の消印のある封筒と中にあった名刺
です。共に後の連合艦隊司令長官として戦死された古賀
大将の直筆の記載があります。宛先は軍艦天龍司令部
藤森 清一郎となっています。軽巡”天龍”が第四艦隊第
十四戦隊司令部となっていた時の戦隊司令官が宛名の
藤森 清一郎 海軍少将(海兵37期、海大19期)です。














蒙古連盟自治政府主席 徳王 直筆書幅 額装







              ◆徳王(通称)◆

                〜略歴〜

 本名 : デムチュクドンロブ(Дэмчигдонров
                 
              徳穆楚古棟魯布  Demchigdonrov)

      (1902年2月8日 - 1966年5月23日)

内蒙古察哈爾(Chahar:チャハル)部西スニト旗の王公の出身。
内蒙古(モンゴル)における蒙古(モンゴル)独立運動の指導者。
中国語における字は希賢。1930年代から日本軍と協力して蒙古
(モンゴル)人の独立政権である蒙古聯合自治政府の主席を務
めましたた。汎蒙古(モンゴル)主義を推進した蒙古(モンゴル)
民族自決主義者であります。日本の敗戦後、蒙古自治邦政府は
解散します。一時、北平に寓居するものの昭和24年に人民解放
軍が北平を占領すると脱出して国民政府に再度内蒙古の自治を
要求。同年4月13日には、蒙古自治準備委員会を結成し副委員
長に就任します。そして8月10日には、蒙古自治政府が成立し
主席となります。しかし人民解放軍の攻勢を前に日本軍の後ろ盾
も無ければチベット同様に蟷螂の斧のようなもので同じ結末を見
ました。昭和25年にコ王主席と李守信将軍は、蒙古(モンゴル)
人民共和国に逃亡します。しかし逮捕され中華人民共和国引き
渡され戦犯として同年9月、張家口収容所へ収監され禁固刑を受
けます。昭和38年に釈放された後、博物館で働きながら昭和40
年から回顧録を執筆していましたが、翌41年に中国の内蒙古
自治区フフホト市で逝去、享年64歳でした。













元A級戦犯…特命全権大使 本多 熊太郎 氏の書四点




三行書と二行書です。



           ◆ 本多 熊太郎 ◆
   
              (略 歴)

明治7年12月8日〜 昭和23年12月18日

明治・大正・昭和の外交官。
大東亜戦争中の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。
戦後はA級戦犯として逮捕。東京法学院(中央大学)法科
在学中の明治27年5月 外務省留学生試験合格、翌年の
明治28年8月 外務省書記生試験に合格し、外務省入省。

明治34年 小村寿太郎外相の秘書官となり、日露戦争の
       ポーツマス講和会議に随行。後藤新平の満鉄
       総裁当時,北京公使館の二等書記官となった。
大正7年  スイス公使。
大正13年 ドイツ大使を務めて退任。
昭和15年 松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の
       南京に中国大使として赴任。
昭和19年 東條内閣の外交顧問に就任。
昭和20年 連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯とし
       て逮捕され巣鴨刑務所に収監。
       その後,病気により釈放。


額装用のめくり二点です。











石井 豊七郎 長崎控訴院長の自筆 めくり二点




控訴院は明治32年、裁判所構成法の下で、主として民事・刑事の
控訴を管轄した地方裁判所の判決に対する上級(控訴)の裁判所
にあたります。大審院の下級、地方裁判所の上級に置かれた裁判
所であります。裁判所官制(明治19年勅令第40号、実効性喪失)
及び裁判所構成法(明治23年法律第6号、昭和22年廃止)に基づ
き、明治19年から昭和22年まで、日本各地にあった。裁判所法(
昭和22年法律第59号)の高等裁判所に相当します。昭和22年の
改組時には、東京・大阪・仙台・広島・名古屋・札幌・福岡の7ヶ所
に置かれていました。
控訴院は、内地において地方裁判所の判決に対する控訴の裁判を行いました。
東京控訴院では、民間人と皇族との間に起きた民事訴訟の第一審も扱っており
長崎控訴院では、治外法権区域(租界)の領事裁判所の控訴審も扱っています
。現在の高等裁判所の所長に相当し、当然、勅任官となりますから陸海軍で謂
えば将官相当ですので閣下と謂われる身分です。
明治8年に東京・大阪・長崎・福島に上等裁判所が設置されます。3か月足らずで
福島上等裁判所が宮城(仙台)に移転し、宮城上等裁判所となります。明治14年
控訴裁判所に改称。また、函館にも設置されました。明治15年、広島・名古屋に
も設置され、明治19年に控訴院に改称されます。大正10年に函館控訴院が札幌
に移転。昭和20年、高松に設置(半年で廃止)。また、長崎控訴院が福岡に移転
します。昭和22年に裁判所法の施行により、高等裁判所に改組。改組時には、
控訴院は東京・大阪・仙台・広島・名古屋・札幌・福岡の7ヶ所に置かれていまし
た。尚、高等裁判所は、この7ヶ所と高松に置かれました(東京高等裁判所、大阪
高等裁判所、仙台高等裁判所、広島高等裁判所、名古屋高等裁判所、札幌高等
裁判所、福岡高等裁判所、高松高等裁判所)。

長崎控訴院







元首相 近衛 文麿 公爵の肉筆の短冊





余りにも有名な近衞 文麿 元首相です。勲一等公爵で明治24年10月12日に
東京で生まれました。京都帝国大学法学部卒業、貴族院議員、貴族院副議長
(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣
(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43
代)、国務大臣を歴任した名家・五摂家の近衞家の第30代目当主です。後陽成
天皇の12世孫にあたり…その華麗なる親族には、前田慶寧(祖父)、井伊直安
(義祖父)、近衞篤麿(父)、毛利高範(岳父)、徳川家達(義叔父)、近衞秀麿
(異母弟)、大山柏(義弟)、徳川家正(従弟)、細川護煕(孫)、近衞忠W(孫)と
名門中の名門である政界のプリンセスでありました。なにしろかつての五摂家の
筆頭だけあり、天皇陛下の前で唯一足を組む事を許されていた謂います。敗戦
後に容疑をかけられ服毒自殺をされてまだ54歳ので亡くなられております。


       
           出典・引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』

よく謂われるように孫にあたる細川 護熙 元首相と容貌も政治も非常に
よく似ていると思われます。国民の人気の高さも政権を投げ出した事も
ここまで似るのかと…感心する位です。







cf. おまけとなります。
(私の収蔵品ではありませんが、以前、オークション
 に出ていた品です。歴史的な価値のある珍しい品
 ですので参考品として掲載しました。)


愛新覚羅溥儀 宣統帝・満洲国皇帝の直筆色紙です。



宣統帝・満洲国皇帝 溥儀 の直筆署名入りの肖像写真です。
ありし日のラストエンペラーです。左が満州帝國皇帝
時代、右が清朝最後の皇帝としての写真となります。







【戦前・戦後資料】 A級戦犯 大川 周明 氏の自筆書簡




東京裁判で東条英機大将の頭を叩き…精神障害の診断で
精神病院へ送られ後に釈放された事で有名な国家主義者
の大川 周明 氏の手紙です。
消印は昭和30年11月3日。昭和32年12月24日に71歳で死去されておりますので
亡くなる2年前の69歳の時に書かれ投函された手紙であると判ります。大川氏は
昭和22年4月9日に正式に東京裁判から除外され米軍病院に入院します。その後
東大病院〜松沢病院と転院しました。東京裁判が終了後に退院し、この封筒の住
所である神奈川県愛甲郡中津村に住みここで生涯を終えました。

東京裁判では唯一、民間人のA級戦犯容疑で起訴され拘留されました。

           〜 大川 周明 〜

            < 略 歴 >

 明治19年12月6日生
 山形県酒田市出身

荘内中学より旧制熊本五高(第五高等学校)から
東京帝大に進む。大正9年に拓殖大学教授を兼任。
大正14年、満鉄経済調査局理事長。昭和13年に
法政大学教授に。大陸部部長として植民史、植民
政策などを担当する。大正・昭和期に、北一輝、
満川亀太郎らと親交があり、猶存社を結成。行地社
を創立し、国家改造をめざし、軍部将校との結びつき
も深め、三月事件、十月事件に関与、五・一五事件
首謀者に拳銃と資金を提供したため逮捕。 戦後は
都立松沢病院入院中にコーランの邦訳を完成させた
事で有名。戦前の日本を代表する国家主義者・右翼
思想家であり、大東亜戦争を理論的な指導者として
有名です。

 









流麗な愛新覚羅溥傑氏の書(印刷)




清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)の弟として有名な方です。
清朝における地位は醇親王継嗣。満州国軍人としての階級は
陸軍中校(中佐)です。満州国軍から陸士47期で本科に昭和8年
入校。昭和10年6月に卒業です。見習士官として歩兵第59連隊へ
入隊。陸大59期(昭和19年12月卒業)です。敗戦時、奉天の飛行
場でソ連軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され
、ソ連極東部のチタとハバロフスクの収容所に収監され、中国側に
引き渡され戦犯として撫順とハルピンの戦犯収容所で徹底的な思
想教育を施される。中華人民共和国では全人代常務委員会委員。
立命館大学名誉法学博士。書家でもあり、流水の如き独特の書体
は流麗で人気が高かった為、このように印刷ものも多く出回ってい
ます。

思い入れがあったのか額の裏に溥傑氏が亡くなった
ときの新聞記事がありました。








清朝皇族で男装の麗人と謳われた川島芳子の兄
 粛親王の第七王子 金壁東こと愛新覚羅憲杢の直筆の色紙




金壁東こと愛新覚羅憲杢と交遊を持った元陸軍将校旧蔵品
の色紙です。金壁東は清朝皇族の粛親王善耆の第七子で
男装の麗人で有名な川島芳子の兄にあたります。
粛親王善耆の父親である粛親王 愛新覚羅善耆は八大親王と
呼ばれる親王の中でも筆頭格の由緒ある家柄。清朝初代皇帝
ヌルハチから数えて十代目。二代皇帝ホンタイジの長男の子孫
で代々粛親王を継承してきた親王家です。その第七王子である
愛新覚羅憲奎(金壁東)は、新京特別市長・黒龍江省長・満州
映画協会理事長などを歴任し、晩年は大連に居を構えました。


    ◆金壁東(愛新覚羅憲杢)◆

明治29年(1896年)〜昭和15年(1940年)

大正5年の第二次満蒙独立運動に父の名代
として参加。 昭和6年の満洲事変勃発では
皇族出身の吉林軍閥煕洽と関東軍の連絡役
をつとめ、東北交通委員会副委員長、吉林鉄
路守備隊司令になる。満洲国建国後は新京
特別市長、黒龍江省長、満州映画協会理事
長などを歴任。昭和15年に死去。
金壁東の妹で肅親王の十七名いる王女の
第十四王女が上にある男装の麗人・川島
芳子です。日本のマスコミを騒がした川島
芳子は共に日本を介して清朝、清王朝の
復権を目指しておりました。
画像は金壁東の大連星ヶ浦に構えた屋敷です。後に星海賓館の
レストランとして使用され、ホテル側の説明には誤って恭親王府と
記されていたが、現在はホテルとレストランは営業を停止。(尚、
近所に恭親王溥偉の屋敷もありましたが現在は取り壊されて存在
しません)。今は観光コースになっている金壁東の別荘(別宅)で
すが住所は、大連市沙河口区西村街61号。この旧屋敷は支那の
改革解放後に周恩来などの要人を接待するホテルとして使われた
といいます。
金壁東の父、粛親王 愛新覚羅善耆は、清朝末期に御前大臣、民政大臣
理藩大臣などを歴任し北京には約3万uの土地を所有していました。清朝
滅亡後は、清朝復興、立憲君主制を主張するようになるも北京を追われ、
日本の援助を求めて、委任統治していた旅順へ一族で移住しました。大正
11年に旅順で没し、北京の粛親王家墓所へ埋葬されております。しかしこ
の方も凄い方で正室1名、側室4名との間に王子21名、王女17名の38名の
子をもうけております。








戦前資料 玄洋社総帥 頭山 満の直筆揮毫幅二点、他





明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の
愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また教え子の内田良平の
奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・
黒幕的存在と見られた。しかし、その交友範囲には中江兆民や吉野作造な
ど民権運動家や、伊藤野枝などアナキストまでも含まれるなど、右翼・左翼
の枠でとらえることは難しい。 また犬養毅・大隈重信・広田弘毅らを始めとし
て政界に広い人脈を持つ反面、 また実業家(鉱山経営者)でもあり、篤志
家としての側面ももっていた。条約改正交渉に関しては一貫して強硬姿勢
の主張をおこない、また早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会
に加わって日露戦争開戦論を主張した。その反面、日本に亡命したアジア
各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行っている。その恩恵
に接したのは、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・
ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどである。
  
            出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




こちらも頭山満の掛軸です。








昭和天皇侍従長 入江相政 の直筆色紙







            ◆ 入江 相政 ◆

随筆家・宮内庁侍従長。東京生。東京帝大卒。公家華族の
冷泉家の分家、入江家の三男。昭和9年(1934)学習院大
教授から侍従となる。以来51年間昭和天皇に仕える。
両陛下の訪欧、訪米の随員を務めた。随筆家としても知ら
れ、『侍従とパイプ』『天皇さまの還暦』等数多くの著書を通
じて”人間天皇”の素顔を国民に紹介しました。また冷泉家
伝来の古文書や公家屋敷の調査・公開等で大きな役割を
果たした。昭和50年勲一等瑞宝章受章。
昭和60年 歿、享年80才。








戦前資料:西園寺家と原 敬 の肉筆署名封筒 巻子装




西園寺家と原敬の肉筆署名封筒が象牙軸先の巻子に表装されて桐箱に
収められています。書状はありません。巻子の寸法は29cm x 95cm。




原敬の手紙の方は、内相(内務大臣)時代
で大正政変で西園寺公の後を受けて第三
代立憲政友会総裁に就任する約2ヶ月前の
ものです。相手は弁護士で衆院議員でもあ
った岩崎勲です。この方は大正15年に政友
会幹事長の時に収賄で起訴され昭和2年1
月に判決を前に病死されています。
西園寺家の封筒は神奈川湯河原の消印
が昭和5年1月24日、京都の聖護院の
消印が翌日の1月25日です。この年の11
月24日に静岡の別荘である坐漁荘で最
後の元老と言われた西園寺公望公が92
歳で死去されています。


             ◆ 西園寺 公望 ◆

従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。

嘉永2年10月23日〜昭和15年11月24日
日本の公家華族、政治家。立憲政友会第2代総裁。
第12・14代内閣総理大臣。
本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。

大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、
「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。

そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称した
サロンを主催した。

西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家
の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある
意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反す
る二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を
持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に
見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であった
といえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。
西園寺は絶対天皇制の持つやがては皇室の存続をも危う
くさせる危険性を早くから見抜いていた。西園寺のような
感性をもった政治家を他に見出すことは難しい。

生涯権力や金銭に対する執着は乏しく、この淡白な性質
は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったと
いえよう。この点で彼は終生の政敵山縣有朋とは対照的
であった。

昭和12年の第一次近衛内閣成立以降は次第に政治の
表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立
の2ヶ月後の昭和15年(1940年)11月24日に死去した。
享年92歳。贈従一位。

最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」
であったと伝えられる。期待していた近衛文麿に離反され
、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。

昭和16年(1941年)には近衛内閣のブレーンを務める孫の
西園寺公一が、ゾルゲ事件に関与したとして逮捕されている。

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原敬の封筒は大正3年4月25日、盛岡の消印でと
東京中央で翌日の4月26日です。下にも4月27日
東京日本橋の印があります。



                 ◆ 原 敬 ◆

通称名”はら けい”
岩手県盛岡市出身。安政3年2月9日 〜大正10年11月4日。
正二位大勲位。

幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣。
郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移っ
て陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には
外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時
から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年に内閣総理大臣
に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われ
ている。大正10年11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、
右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。享年65歳。


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明治天皇の侍従長 徳大寺 実則 公爵の肉筆短冊






                 ◆ 徳大寺 実則 公爵 ◆

天保10年12月6日 - 大正8年6月4日。幕末から明治期〜大正まで活躍した
公卿・華族であり官僚です。長く明治天皇の侍従長でした。徳大寺公純の長男
で西園寺公望の兄。国事御用掛,議奏にすすみますが尊攘派として活動し,文久
3年に罷免されます。維新後,宮内省に出仕し,明治天皇の侍従長をながくつとめ
ました。明治24年に内大臣。貴族院議員・公爵。大正8年6月4日に81歳で死去。


             ↑
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徳大寺公爵の勲記を紹介したページが開き
ます。







戦前・戦後資料:東京裁判でA級戦犯で終身禁固刑
            になった昭和天皇の側近・木戸内府の
              巣鴨プリズンから投函した自筆書簡です。




最期の内大臣として知られる昭和天皇の側近・木戸 幸一 侯爵が
敗戦後に東京裁判でA級戦犯として起訴され巣鴨プリズンに収監さ
れましたが…この巣鴨プリズンから知人女性に出した手紙です。



             ◆ 木戸 幸一 侯爵 ◆

明治22年7月18日 - 昭和52年4月6日

東京市赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として生まれる。学習
院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し、河上肇に私淑。
同校卒業後は農商務省へ入省。農商務省が農林省と商工省に分
割の際は、商工省に属することとなる。その後、工務局工務課長、
同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。昭和5年、友人であ
った近衛文麿の引きにより、臨時産業合理局第一部長兼第二部長
を最後に商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。昭和12年、
第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、昭和14年の平沼内閣
で内務大臣、翌15年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関す
る覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。
昭和15年から20年までに内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や
元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与
し宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や
原田熊雄らと共に政界をリードした。
西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催し、後
継総理の推薦には幸一の意向・判断が最重要となる。大戦中は東條
内閣を支えたが、一方では早い段階での和平を考えていた。戦争末
期には、外務大臣・重光葵と2人だけで天皇の「鶴の一声」による終
戦工作を行い、鈴木貫太郎内閣の面々に和平の方針を説いて回る
など、いわゆる「聖断」工作を進めた。これらの政策を推し進めてい
たことから、本土決戦派の間では幸一を暗殺する計画が持ち上がり
、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として、横浜高
等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、
平沼や鈴木と同様に、自宅を焼き討ちされるという憂き目に遭った
(宮城事件)。戦後のインタビューのなかで、次のように証言してい
る。「陛下や私があの原子爆弾に依つて得た感じは、待ちに待つた
終戦断行の好機を此処に与へられたと言ふのであつた。それらの
心理的衝撃を利用して此の際断行すれば、終戦はどうやら出来るの
ではないかと考へたのだ。……私ども和平派はあれに拠つて終戦
運動を援助して貰つた格好である」。こうして、原爆は和平派にとっ
て、戦争終結という大目的のために政治的に利用すべき「口実」とし
て「非常に好都合なもの」(鈴木貫太郎首相)であった[1]。つまり
日本の和平派が軍部の強硬派から襲撃を受けず、終戦の機会を得
た事を意味している。東京裁判で木戸は、終身禁固刑の判決を受け
服役する。昭和30年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退
する。後に青山のマンションに転居。80歳の傘寿では昭和天皇から
賜杖を下賜されている。昭和52年4月6日、宮内庁病院で胆汁性肝
硬変(PBC)のため87歳で死去。遺骨は東京都府中市多磨町の
多磨霊園に埋葬された。

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戦前資料:護憲派の重鎮で五・一五事件で
       凶弾に倒れた犬養 毅 元首相の直筆の手紙




手紙は郵送されたものでなく手渡されたもののようです。日付けが無く何時頃の
ものか判断に苦しみますが…封筒の裏に印があり手掛かりになります。犬養 毅
は、大正13年…晩年の70歳のとき、余生を過ごす”白林荘”を信州諏訪郡富士見
村に建てました。そして翌年の5月28日から政界を引退し富士見高原に建てた
”白林荘”に隠棲します。封筒には…その”白林荘”の印があります。この事より
この場所(白林荘)で大正14年6月以降に書かれたものである事が推察できます。



               ◆ 犬養 毅 ◆

                  (略 歴)

安政2年4月20日〜昭和7年5月15日

岡山県生まれ。政党政治家。勲一等旭日桐花大綬章。号・木堂。
父は岡山藩士。慶応義塾に学ぶ。郵便報知新聞の記者として西南
戦争に従軍。東海経済新報記者をへて、立憲改進党創立に参画。
大同団結運動で活躍。

明治23年、第1回総選挙で衆議院議員に当選、以後第18回総選挙
まで連続当選。第1次大隈内閣文相、第2次山本内閣逓相をつとめ
る。

大正11年、革新倶楽部を組織し、13年に加藤高明らと護憲三派内閣
を結成、逓相に就任。昭和4年、立憲政友会総裁。6年、首相となるが
翌7年に五・一五事件で暗殺される(享年76歳)。








初代南満州鉄道総裁で東京市長も
   つとめられた後藤 新平 子爵の書簡額、他




額サイズ:約30 × 170 cm、書簡サイズ:約17.5 × 134 cm。
後藤新平(1857‐1929)
明治・大正期の政治家。陸奥水沢藩士の子。
須賀川医学校卒。愛知県病院院長兼愛知県医学校校長となる。板垣
退助を治療して内務省衛生局に迎えられ、局長となるが失脚。明治31
年(1898)台湾総督児玉源太郎に異例の起用を受け、総督府民政局長
、のち民政長官となる。新渡戸稲造を抜擢して糖業を振興させた。36年
貴族院議員。39年満鉄の初代総裁。第2次・3次桂内閣の逓信相、
寺内内閣の内相、外相を歴任。この間鉄道院総裁を兼任。対外積極政
策を唱え、中国の経済的分割、東亜経済同盟を構想し、シベリア出兵を
強行した。大正9年(1920)東京市長、12年第2次山本内閣内相となり、
帝都復興院総裁を兼ねて関東大震災後の東京の復興に努力。ヨッフェ
を招いてソ連との国交実現の予備交渉を行い、昭和2年訪ソしてスター
リンと会見している。
後藤新平の書簡額。宛て先は丸山某ですが不明。また、切手が剥落
している為、執筆年代は不明。約 44行の比較的長めの書簡です。



後藤新平子爵は、初代南満州鉄道総裁・鉄道院総裁等の要職を歴任後、
東京市市長を勤めています。金子彦三郎氏はかつて鉄道院総裁時代の
腹心であり、その彼に宛てて出した自筆の書簡になります。また後藤氏は
医師であり、臺灣総督府民生長官、拓殖大学学長、など歴任した方であり
政治家としても逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任したスーパーマンで
す。関東大震災では内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興
計画を立案された事でも有名な方ですが、ボーイスカウト日本連盟の初代
総長としてもとしても有名な方です。

金子彦三郎氏は、東京駅舎建設の現場責任者としても
更に各種の工事を完成させた有名な鉄道院師です。下
は、宮内大臣より「鉄道院饗饌」の招待状が二枚です。
後藤新平氏は、シチズン時計の名付け親でもあります(彼と親交のあっ
た社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」と
CITIZENの名を贈った)。また 虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞
めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)
だった後藤氏は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。
その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界して
いた。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である水沢町(当時)
に後藤氏から借りた金の倍近い金を寄付しました。この資金を使って、
昭和16年に日本初の公民館が建設されました。 また地下鉄の父・早川
徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、いち早く支
援者に名を連ねた一人でもありました。これ等伝えられる様々なエピソ
ードからも後藤氏が非常に魅力的で器の大きい人物である事が良く判
ります。 明治期の日本人には特にこのようなスケールの大きな人が多
い気がします。因みに後藤氏が倒れる日に最後に残した言葉は「よく聞
け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して
死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったと謂います。非常に含蓄の深
い言葉です。







満州銀行頭取や南満鉱業、
  大連取引所信託の取締役
    など大連実業界の中心人物として
       活躍した村井啓太郎氏の自筆書簡





               ◆ 村井 啓太郎 氏 ◆

                    (略歴)

福岡県出身の実業家。明治28年熊本五高1部法科卒。中国大陸に渡り
満州銀行頭取、南満鉱業、大連取引所信託取締役など大連実業界の
中心人物として活躍する。明治33年の義和団事件(庚子事変)の際に義
勇兵として戦い、朝日新聞に『北京籠上日記』を連載した村井啓太郎記
者と同一人物か否かは未詳。












戦前・戦時資料:三矢 宮松 帝室林野局長官
           (元朝鮮総督府警務局長)の自筆書簡3通




日本の内務官僚だった三矢 宮松 氏の帝室林野局長官時代の自筆書簡が三通です。
三矢氏は朝鮮総督府の警務局長も務めました。




              ◆ 三矢 宮松 帝室林野局長官 ◆

明治13年10月23日〜昭和34年1月10日。出羽国庄内県鶴岡町出身の日本の
内務官僚。明治13年10月23日、出羽国庄内県鶴岡町(現・鶴岡市)に生まれる。
東京府立四中卒業。旧制一高卒業。明治40年7月、東京帝国大学法科大学法律
学科独法科卒業。11月、高等文官試験行政科合格、内務省入省。入省後は主に
文部、警察、土木畑を歩んだ。大正14年6月、奉天軍閥警務処処長干珍との間に
『三矢協定』が結ばれる。昭和7年9月、一転涜職罪で起訴される。昭和9年11月
無罪判決が下される。昭和12年7月、内務監察官兼内務省参事官。昭和13年9月
朝鮮総督府警務局長。昭和15年9月から12月まで帝室林野局長官に就任。以後
横浜正金銀行、帝国ホテル各監査役などを務めた。
昭和21年10月、公職追放となる。敗戦後は根津美術館長に就任。昭和34年1月
10日、死去する(享年79歳)。墓所は鶴岡市の本鏡寺。
戒名『雙松院殿日光東嶺大居士』









宮城事件で監禁されも玉音盤を守り抜いた
     下村 宏 国務大臣兼内閣情報局総裁の直筆色紙
        (海南)




内閣情報局総裁の地位に就く前が日本放送教会
(現在のNHK)の会長であった人です。また大阪
朝日新聞の副社長まで勤めたジャーナリストでも
あります。玉音放送の勅語放送の前に下村総裁
が陛下自らの朗読である事を述べました。これが
正午の事でした。その12時間前の8月15日午前
零時過ぎ、玉音放送の録音を終えて宮城を退出し
ようとした下村総裁とNHK職員等は坂下門付近で
近衛歩兵第二連隊第三大隊長の佐藤好弘大尉に
より拘束され、付近の守衛室に監禁されました。午
前7時から8時までの間に田中東部軍管区司令官
が兵の撤収を命じ宮内省や宮城内の反乱の鎮圧
をはかり下村総裁等も無事に解放され無事に玉音
放送が正午過ぎに流れ8月15日の暑く長い敗戦の
日が終わりました。
                                        
                   ◆ 下村 宏 ◆

明治8年5月11日〜昭和32年12月9日。和歌山生まれ、官僚、ジャーナリスト。
東京帝国大学卒業後、逓信省に入り、為替貯金局長等を務める。大正4年、
明石元二郎台湾総督に招かれ、台湾総督府民政長官(後に総務長官)となり
植民地行政に携わる。大正8年法学博士。10年に大阪朝日新聞社入社、
昭和5年副社長となる。11年に退職し、12年貴族院議員となる。18年日本放送
協会会長。20年4月鈴木貫太郎内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣した。
同年戦犯容疑者として拘留。21年から26年にかけて公職追放。
著作に『新聞に入りて』や『終戦秘史』があり、エッセイや歌集も多い。
 
玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したこと
でも知られている。拓殖大学第6代学長。和歌山県出身。下村宏は歌人としても
知られ、下村海南の名前で多くの作品を残している。

                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     日本大百科全書(小学館)







初代鉄道大臣を勤めた元田 肇(国東) の肉筆短冊






                  ◆ 元田 肇 ◆

政治家。大分県生。元田直の養子。本姓は猪俣、国東と号する。
東京帝大卒。第一次山本権兵衛内閣の逓相、初代鉄道相に就任。
また衆議院議長・枢密顧問官を務める。昭和13年(1938)歿、80才。

                    出典:思文閣『美術人名辞典』








台湾総督 田 健治郎(譲山) 男爵の肉筆短冊






               ◆ 田健 治郎 男爵 ◆

官僚・政治家・男爵。田英夫の祖父。幼名梅之助、諱は季秋、号は譲山。
丹波生。渡辺弗措・小島省斎門人。後藤象二郎に認められ、逓信次官・
勅選貴族院議員・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。関西鉄道会社・
九州炭鉱等の社長、南洋協会々長等も務める。昭和5年歿、76才。
 
                      出典:思文閣『美術人名辞典』







藤沼 庄平 元東京府知事・警視総監の自筆二行書




昭和15年の秋に藤沼 庄平 警視総監が
自筆でしたためた漢詩の作品です。
この方は大正〜昭和時代の戦前戦後に活躍
された内務官僚から政治家に転じた方です。

 ◆ 藤沼 庄平 元東京府知事・警視総監 ◆


明治16年2月17日生、栃木県出身
東京帝大卒


          (略 歴)

明治42年 内務省入省
大正12年 茨城県知事
大正13年 内務省警保局長
昭和3年  衆議院議員
昭和7年  東京府知事(第28代)
        兼警視総監
昭和8年  貴族院議員
昭和11年 内閣書記官長
       大日本武徳会理事長
昭和21年 東京都長官(第4代)
       兼警視総監、枢密顧問官
昭和22年 GHQにより公職追放
昭和26年 ニッポン放送顧問
   
昭和37年1月2日 逝去(享年78歳)








古い戦前の軍人の名刺が8点です。記載から2.26事件で
暗殺された渡邊 錠太郎 陸軍大将の大佐から少将時代
に渡されたものと推測されます。
渡邊閣下の大佐時代は大正9年から11年で
オランダ公使館附陸軍武官をされています。
少将昇進後は歩兵第二十九旅団長に参謀
本部第四部長をされておられます。







横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所
  水光荘の主人が放出した七名の提督達
            の肉筆書による扁額等々




題名の通り・・・横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所
水光荘に飾られていた七点の扁額です。七名の高名な
提督達の肉筆の書を扁額にしたもので由来を水光荘の
主人が記しています。





















































武井 大助 海軍(主計)中将が水光荘の為に書いた
そのまんまの”水光荘”の扁額です。
武井 大助 海軍主計中将は
海軍省経理局長などを軍中央
で活躍し予備役後、安田銀行
の社長や文化放送の社長など
を歴任されました。



岡田 啓介 海軍大将。軍人・政治家。福井県生。海軍大将
・軍事参議官となり、のち海相・首相となる。二・二六事件の
時、首相であったが難を逃れた。内閣総辞職後重臣となり、
首相の銓衡にあたった。昭和27年歿、84才。



米内大将が水光荘の為に書いたそのままです。
米内 光政 海軍大将(従二位勲一等功一級)の肉筆の扁額。
米内大将は岩手県出身。海兵29期、海大12期。連合艦隊
司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任しま
した。






高橋 三吉 海軍大将。明治15年8月24日生
岡山県出身、海兵29期、海大10期、連合艦
隊司令長官などを歴任し、日米戦の開戦の2
年前の昭和14年に予備役に編入。






海軍大将 山本 英輔 (功一級、伯爵、総理大臣)の肉筆の書です。
山本大将は、鹿児島出身、海兵24期、連合艦隊司令長官をされた
方です。山本權兵衞の甥としても有名です。



豊田 貞次郎 海軍大将(従二位勲一等旭日桐花大綬章)
予備役後に実業家、政治家として活躍。軍需大臣兼運輸
通信大臣など閣僚も歴任されました。和歌山県出身。



嶋田 繁太郎 海軍大将の扁額です。東京出身、山本五十六
大将と同期の海兵32期。海大13期。海軍大臣、軍令部総長を
務めます。敗戦後は、A級戦犯として終身刑となるも昭和30年
に仮釈放後赦免され、昭和51年に死去。







戦時資料









水雷艇鴻進水記念絵葉書、新舞鶴のスタンプが入り実際に
投函されたものです。


こちらは、明治期に松本市長に送られた
招待状です。
明治38年4月の軍人遺族記念日大会の招待状です。
榎本武揚は、元幕臣で幕府艦隊を率いて五稜郭で戦
い、官軍に降伏し明治政府下では駐ロシア公使として
樺太千島交換条約を締結、北海道開発に尽くすなど、
諸大臣を歴任し政治家として活躍した人です。


昭和5年3月の手紙です。挨拶状ですね。



明治期の物でしょうか。大阪の第四師団の副官よりの手紙です。
…達筆です(笑)。



平時は、各連隊区の職業軍人の名簿が関係者に配布
されておりました。



こちらも、当時の松本市長と
市役所の幹部に送られ軍事
郵便です。送り主は、工兵
大尉さんです。



これは、良き時代の兵士の小遣帳です。微笑ましいの
は映画やお菓子代などが給料などの記載の中に見受
けられ事です。戦時下でない頃の召集現役兵の姿が
目に浮かびそうです。





長野県出身の海軍将兵の方の海恤によ
るつまり、海上に於ける戦死・戦傷によ
る一時金とが支払われます。昭和17年1
月の扱いで海軍省より三十円が恤兵金
として支払われております。現地の長野
連隊区司令部の恤兵金出納官吏の陸軍
少佐の名前と代筆でしょうか陸軍主計少
尉のゴム印と認め印が押されています。
この方は、戦死らしく受取人名は、女性
となっております。奥様か、母親、姉妹か
と推察します。
逓信省(今の郵政省)の保険通帳です。定期的に保険料を
納めております。契約人が海恤の方で受取人を左上画像の
女性になっております。右上段の一番右にあるのは、領収
書で支給された三十円を海恤の為に寄付したています。
受け取っているのは、当地の中野警察署になっております。
海軍で戦死された方の娘さんでしょうか…
昭和19年の青年学校一年生の皆勤賞の
賞状です。



こちらの手紙も興味深いものです。
広島の第五師団の師団長に何等
かの陳情に行った方に、持参され
た献上品を返却する旨の内容を、
師団長の副官が昭和8年12月に
送った手紙です。



この書類は、功績名簿です。初めに赤印で第二次 第一
次歩十留とあります。歩兵第10連隊第11中隊の上等兵
にに関する勲功を中隊長が上申している書類です。昭
和7年より9年までの兵役に対して三項目で申請してい
ます。一つは、功労。次は、勲労で137名中第18位、次
に勲功で182名中第8位とされてます。夫々、留守部隊
業務、外地(朝鮮)での警備業務に分けて申請してます。


左は、開戦の約5ヶ月前に中隊長名で運転免許証を証明してる。
上記の2枚の画像は、面白い事に部隊本部(大隊か連隊)で預
かった運転免許証は、貸し出す事が許可できないので必要であ
れば中隊で証明書を作るのは、構わないと言われて左上の証明
を中隊長名で作成したと言う内容です。



昭和15年3月の手紙です。日米開戦の前年の手紙ですが
南支那派遣軍の一部隊長がガリ版刷の手紙を部下将兵の
父兄親族に近況を知らせている文面です。日米戦のような
被害も無く、毎日の戦闘も一人の戦死者もなく連戦連勝の
ようで余裕を感じさせます。良い時代の頃の手紙です。追
伸には、『当地は、比較的物資豊富なれば慰問等も無理に
御送付なさぜらるよう御願い致します。但し、手紙は、唯一
の慰問なれば少なくとも10日に一度位差し出されるよう希
望致しております。…』学校の先生のようで微笑ましいもの
がありますが…中隊長なのでしょうか…まさに中隊は、一家
中隊長は、父親、班長は、兄…そんな時代の帝國陸軍を彷
彿させる手紙です。


こちらも興味深い資料です。歩兵第50連隊
の副官より長野県松本市の市長に宛てた手紙
です。連隊幹部の名簿と渡満先発兵の名簿が
入っておりますので…松本市出身者でしょうか
!?歩兵50連隊と言えば、宇都宮を師団本部
とする第14師団に所属し、松本を基点としまし
た。第14師団管区の松本連隊区となります。
また同師団内の第15連隊(高崎)と共に歩兵第
28旅団(高崎)に所属しておりました。記録によれ
ば第14師団は、南方総軍直轄部隊としてパラオ
で敗戦を迎えております。第50連隊は、昭和19
年にテニアン島へ移動し玉砕しています。尚、松
本市長の小里頼永氏の在任期間は、明治40年
7月〜昭和12年8月です。渡満という事を考える
と…昭和12年8月に中国河北省の塘沽平定に
派兵されておりますが位置的には、満州とず
れますので、昭和2年の山東出兵の時か、大
正2年の3月に中国遼寧省の省都である瀋陽
市から北へ75kmの処にある鉄嶺に出兵して
いますので、この鉄嶺が可能性が高いと思わ
れます。




南支派遣軍の一部隊の歩兵中尉より、福岡の病院の医師で
しょうか…宛てられた手紙ですが、達筆過ぎて私には、解読
できません…英文より難解です(苦笑)。4月11日の日付け
は、ありませんが…年が記載されておりません。軍事郵便な
ので消印もありません。検閲印があるので昭和期の日中戦
争〜敗戦までの間と考えられます。



敗戦の12日前に亡くなった戦友の親族に送られた手紙です。
時節柄、本文にも本土決戦の文字が出てきます。また
検閲済みの印も見られます。亡くなられた戦友の方とは
中国戦線で騎兵として共に戦われていたようです。


軍医の履歴


この履歴証明は、南方総軍の陸軍第四病院の院長(軍医大佐)が敗
戦後の昭和21年5月に上記の履歴の陸軍軍医大尉の方の履歴を証
明したものですが恐らく、復員後にどちらかの病院の勤務医をするの
に必要だったのだと思います。上記の履歴では、大阪帝大医学部を
卒業し第一外科に入局した翌年に召集され軍医候補生となり2ヶ月で
軍医中尉となって南方に行かれております。現在と違い、当時は、研
修医制度が無くその代わり医師免許を取得する前にインターン制度で
現在の研修医代わりとしておりましたので医師免許取得時の段階では
、今で言うと研修医の2年間を修了した者と同じと考えます。医師となり
帝大の第一外科教室に1年在籍した後に召集されておりますので軍医
中尉任官時は、今の3年目のドクターと同じようなものだったと考えられ
ます。予備士官同様、任官、即、予備役編入、再召集で軍服を脱ぐ間
もなく戦地に赴任しています。



左は、未使用の善行証書(昭和)の物。右は、
大正時代の使用されている物です。

左は、明治期の一年志願兵の終末試験の合格した証書。
右は、戦死した陸軍憲兵曹長の遺族である父親宛に昭
和19年に弔慰金でしょうか…その証書みたいです。

こちらは、日露戦争の折の騎兵一等卒の
兵士に出された感謝状です。









戦時資料 弁当箱(川崎栄養食配給所)






かつて全国にあった栄養食配給所でこのような弁当箱で配給されていました。

      埼玉県川越市に残る旧栄養食配給所です。

この建物は、川越織物市場株式会社の事務所として使用され、
昭和9年に川越市内の中小織物工業者が自分の工場への食
事配給場所として昭和9年から敗戦まで使用されたとの事です。
建物は、1910年(明治43年)に建てられたと考えられ、その後
増築されているそうです。戦時体制の建物という事情がありなが
ら、採光面積や換気設備等は最新と思われる国の基準に沿って
いたとの事です。かつて全国にあった栄養食配給所も、現在これ
だけの形で残っているのは希少であり、平成17年3月、川越市の
文化財に指定されたそうです。













第四艦隊 砲艦”西京丸”・操舵員・褒賞








 賞状は、海軍一等兵曹村田義三氏に贈られたものです。
砲艦”西京丸”は、日之出汽船籍で海軍に徴用され”特設
砲艦・司令艦”となりました。1942,6,28 トラック島出港
後、パラオ島沖を航行中で明天丸を護衛中、ヤップ島北西
で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。村田一曹は、その
時の操舵員の方です。またこの方が昭和16年海軍検定
褒賞としていただいたのが上記画像の白磁製東郷平八郎
・服部謹製・大きさ21cm共箱付きです。尚、賞状に記載
された第四艦隊司令長官 井上成美中将は、海軍大将に
登りつめた方です。昭和12年の海軍大臣 米内光政、
海軍次官 山本五十六の名コンビの時の海軍軍務局長だ
った方で、リベラル派として有名な方です。本職の前は、
海軍航空本部長、開戦後は、珊瑚海海戦後まで第四艦隊
司令長官を勤め、海軍兵学校校長・海軍次官・軍事参議官
を歴任し、敗戦により予備役。86歳(昭和50年)に病没する
まで静かに自宅のある横須賀で隠棲生活を送られておりま
した。かっての名コンビの3人は、海軍三羽烏と呼ばれ日米
戦に至る事を反対した事を知らぬ人も少ないでしょう。
中将時代の井上大将







陸軍士官学校用製図器






陸軍士官学校生の製図教程で使用した器具。ケースに
痛みと中身の器具欠品が有ります。…これで様々なエリ
ート士官候補学生が作戦図などを作っていたのでしょう
か。持ち主だった方の名前が貼ってあります。



陸軍予科士官学校用製図器






東京 丸善の社名が見られます。


こちらも別の製図器です。箱も傷みがありません。
シリアルNo.0067に京の刻印があります。



陸軍士官学校の食堂で使われたアルミの皿















陸軍戦傷奉公杖 二点












高島屋製。元は108センチ位あったように思われます。
使用しやすい用に切るようです。この杖は、長さは86
センチと杖としては普通ぐらいの長さで切断して使われて
いたようです。元箱の傷みが目立ちますが杖自体は、キ
レイな状態です。特に握り手の部分は、変色も無い美品
です。画像のように”陸軍大臣”の文字と、天頂に
”一三三三”の刻印があります。高島屋になっていますの
で後期の品である事が判ります。この公杖になると”実三
”の刻印がありません。



戦傷奉公杖(箱も證書も全て揃い)




戦闘で負傷した証として、国から授与され、この杖を
持って入れば公共交通機関は全て無料でした。箱の
中には、杖、杖先のキャップ2種類、證書全てそろっ
ています。杖の天頂には、”四二〇”の番号が入って
います。木部に大峰山登山などの焼印が3個入って
います。木部と金具の接合に、少しガタツキが見られ
ます。初期の銀座タカゲン謹製の公杖です。”実三”
の刻印があるタイプです。
授与された證書は、昭和14年11月1日の日付が入って
います。また傷痍軍人として守る5か条、負傷時の銃弾の
破片が揃っています。銃弾は30口径位の銅に鉛の入っ
たもので、骨か何かに当たって砕けた印象があります。
箱の大きさは、93センチ×18センチ、×6センチの大き
さです。







珍しい幻の海軍戦傷奉公杖 二点




陸軍の戦傷公杖はたくさんありますが
こちらは幻と言われる海軍の戦傷公杖
です。
所謂、十五年戦争と言われる期間では陸海軍の出兵が相次ぎ
名誉の負傷者が急増しました。これに伴い…負傷兵の方々に杖
を送る事が決まり、杖で定評がある老舗の銀座タカゲンに作製
依頼されました。当初は傷兵保護院、次いで軍事保護院、後に
陸軍省が戦傷公杖の担当をする事になりました。保護院時代の
杖は数も少なく、単にストレートの棒で四角形に作製し、傷病兵
には茶褐色、失明者には白色の棒に房紐を取り付けた杖が使
用されました。陸軍省が担当になってからは、もう少し立派なも
のにとの声が掛かり高名な彫刻家である日名子実三氏に杖の
握り部分のデザインが依頼され良く見る陸軍の戦傷公杖のデザ
インが決定されました。それが鷲の姿で羽根が後ろに曲げられ
た握り易い荒鷲の形です。材質はアルミ合金。正面には陸軍大
臣と彫られ陸軍の星章がありました。当初はシリアル番号及び
実三の銘が刻まれていました。棒は、まざくら材を使用しました。
当時は、木材も不足気味でしたが、特別な軍需品用としてさくら
材の特別配給を受けることができました。しかし戦争が更に激し
くなり、杖の数もかなり増えてきた為、陸軍省は入札制に切り替
えました。この事に日名子実三氏が立腹され、他店が入札に応
じた為、これ以後の製品の杖の握り部分には実三の銘が入って
いません。昭和19年頃になると海軍でも同様の杖を戦傷者に贈
ることが決まり、海軍省から海軍用戦傷奉公杖作製の依頼が銀
座タカゲンにあり、再び日名子実三氏に握りのデザインを依頼し
海軍用奉公杖が作製されました。海軍の握りは錨を半分に割っ
た形の非常にスマートなデザインとなりました。正面には海軍大
臣と彫られ側面には桜花が一個ずつ付き裏面に実三の銘が刻ま
れました。海軍省の奉公杖は作製中から日本本土への空襲が激
化し、二回目位の納入の後は倉庫が空襲を受け焼失。その後、
敗戦となり、実際に海軍の負傷兵の方々に配られたかは不明で
出回った数も非常に少なく幻の奉公杖となりました。製作した銀
座タカゲンも昭和20年5月の東京大空襲で焼失し僅かに残った
海軍の戦傷公杖は2〜3本あるのみとの事です。

              ”銀座タカゲンのコラムより引用抜粋”





海軍大臣が読めます。
ステッキの握りの裏(丁度、片側の錨の部分に)に
”実三”と
日名子実三氏の名前が刻まれています。




こちらは、上のとは違う別の海軍戦傷杖です。
全長約88cmの海軍戦傷奉公杖
日名子実三のデザインで、実三の銘と海軍大臣
の刻印があります。握り部分はアルミ製ですが経
年の経過で黒っぽくなっています。木製部分に小
キズ、杖先の鼈甲部分には虫食いがあります。







軍属の所持品




珍しい軍属胸章と認識票、ネームタグ
、不明のバッチ1点







東京九段偕行社調製の被服補修箱











祝応召幟




出征が決まると御近所から祝福されながら
このような幟と以下のような襷を掛けて見送
られて軍に行きました。実際は、右の幟は、
小さいタイプで全長132cm、幅48cmです。左
のものは、大きいです。長いので画像も3分
割したのを加工しました。
出征兵士が見送られる時に身に付けた赤襷です。下は、当時の
模様の画像です。
平時においては、成人になった男子が通る儀式であり
大変名誉な事とされる国民の義務の一つでしたが…
戦時では、家族にとって顔で笑って心で泣くのが…
一般的であった事でしょう。…まさに奉公そのものとい
う感じしょうか。




海軍出征兵士幟




こちらは、海軍ですが…大きな幟です。滑川警察署と
なっておりますので富山県警の警察官だった方でしょ
う。…新兵として入隊すると警官は、かなり辛い目に
合わされたと聞き及びます。また富山から呉まで遠い
旅路になったものと思います。







千人針・武運長久





かっては、兵役により出征が決まると家人の女性が無事の
帰還を祈り千人針の腹巻を用意します。そして街角などに
立ち町行く女性に一針ずつ縫ってもらいます。こうして出来
た千人針は、敵の弾に当たらないと謂れお守り代わりに身
に付ける兵士が多かったようです。この千人針は、
腹巻の
内側に【武運長久】に五銭と十銭が縫い込まれております。
四銭(死線)越えて十銭(実戦)に武運長久の祈りが込めら
れております。大きさ幅15x長さ140cm・長さ55cmの紐
4本付いてます(正絹製)。







その他




割烹着に襷掛けのいでたちでお馴染み
の各種婦人会のものです。







京都二条女学校学生の防空頭巾




戦時中に作られ使用された防空頭巾です。黒い布に、裏地は赤。
いかにも当時の女学生が作ったものという印象です。
左側の防空頭巾に”京二条女 1年6組 住所氏名
 B型”とあります。こちらは程度が良好です。右側
は、記名がありませんが、同じ布なので、同一人の
ものと思われます。記名は無く、破れ、若干の虫食
いもあり戦後の歳月の流れを感じさせます。



左は、軍旗用と基本的に変わらない、旗を支える
腰の皮具。在郷軍人の隊旗の箱から出てきたそ
うです。これは予備だったようで、殆ど使用された
形跡がありません。右の方は、正剣帯のような
タイプで直接、腰に差すタイプです。左の用具は、
肩から吊るし剣帯を通す二重式です。