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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



旧軍の遺構や資料館など・・・関東編

(8ページ目)



(首都圏を中心とした関東に
        点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。







国立科学博物館の零式艦上戦闘機二一型
   (現地改造の偵察用に作られた複座零戦)




上野恩賜公園の目の前にある存在感のあるレトロなこの建物が
科博(国立科学博物館)です。前身は、明治10年に教育博物館
(旧館)に遡ります。ここは昭和5年に教育博物館から移行した
東京科学博物館(新館)です。更にこの建物の裏に近代的な建
物があります。





科博の入口の外に展示されている懐かしいD51(デゴイチ)です。子供の頃を
思い出します。私の小学校の裏手の線路を毎日、力強く走っていたのがこの
D51です。今のように線路に入るのにフェンスも何も無い時代です。線路によ
く硬貨や小石を置いて遊んだものです。…流石に中学生になる頃には電車に
変わっていきましたが…。奇しくもこの車両は小樽築港から追分で現役を終え
た車両です。…函館本線を走っていたので私が子供の時に見ていたそのD51
である可能性が高いわけで感慨深く拝見しました。
この231号機は昭和14年に国鉄長野工場で製造。新潟局に配属されました。
戦前戦後は主に東海道本線や山陽本線などで使用された後、昭和29年に
岩手県盛岡に移動。その後、昭和43年に北海道へ小樽築港で函館本線で
活躍後、同じ函館本線の追分に移動。昭和51年に追分で廃車になり37年
の短い機関車生命を終えました。江差追分の一節の…”忍路高島及びもな
いが せめて歌棄磯谷まで”…と謂うのを思い出します。…これは、女人禁制
の神威岬の先にある忍路や高島の漁場には行けないにしても、せめて積丹
半島手前の歌棄や磯谷のあたりまでは行きたいものだと、地名が歌いこま
たものです。昭和30年以降にニシン水揚量が激減し、それに連れてニシン
漁で栄えた小樽を中心にした積丹半島は過疎化が進みました。忍路や高島
と謂うエリアは…現在、小樽市街や小樽市東部の住宅街とは一線を画す形
の、のどかな漁村風景を見せてくれます。その海岸線は、ニセコ積丹小樽海
岸国定公園に指定されて美しい景勝地が連なっています。そしてフルーツ街
道沿いは、ブドウ・リンゴにサクランボなどが栽培されており余市町・仁木町と
合わせて…北海道の主要な産地となっています。…懐かしき我故郷・北海道
の景色を思い起こさせてくれるD51でした。
この下の写真は私の職場の私室の壁に掛かっている函館本線を走るD51(943号)
のありし日の勇姿です。雪煙を巻き上げながら煙を吐きながら疾走する様は雪国で
この光景を見ながら育った者には堪らない郷愁を誘うワンショットです。その下は…
You Tubeで見つけた貴重な函館本線の我・故郷である札幌のD51の音を録音した
貴重なものです。目を瞑り聞いていいると遠い遠い子供の頃にタイムスリップするよ
うです。そして汽笛と揺れる車内の音…流れる景色が目に浮かぶようです。札幌か
ら小樽の間は…右手が美しい海辺の景色が続きます。電車では味わえない汽車な
らではの圧倒的な音が素晴らしいです。尚、この下のパネルの943号車は昭和19
年に製造され昭和50年に引退。現在は、富士市 児童図書館SL公園(JR身延線
入山瀬駅)に保存展示されています。

函館本線 D51旅客列車(小樽−札幌−白石)走行音 1971年8月26日録音



D51 498 磐越西線試運転





科博のパンフレットです。基本的に日本館と謂うのが戦前
の建物を使った入口側の顔となる建物です。そして地球館
と謂うのが最新の今時のビルで新館と謂う形になります。




旧館(日本館)と謂うべき最上階の吹き抜けを撮影して見ました。非常に味わい
のあるノスタルジックな建物です。ステンドグラスがとてもキレイでした。



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ラバウル基地の現地で偵察用に改造された零戦二一型(複座)

破損した二機の二一型をニコイチにして複座にラバウル基地の現地改造した偵察用の
零戦です。第253空の機体番号が 53-12 は,パイロットが吉沢徳重(徳三と謂う説も)
上飛曹で昭和20年に搭乗し墜落した事が判明しています。
どう考えても科博のメイン展示品であるのに両サイドが良く見えるように
展示されていません。右翼側は観察できますが…左翼の方は回り込めず
良く見えない作りになっています。更に左主翼に建て買えてあるものも邪
魔です。これなら零戦をワイヤーで釣り上げるのでなく下ろして、他の小
物を上に釣り上げた方がマシだと思います。
カウルが外されて展示されているので栄エンジンが良く見えます。折角なので
外したカウルも仕舞わないで展示して欲しいものです。
昭和47年にラバウルの北西約110kmのニューブリテン島沖の海底で発見された零戦です。
サルベージされて日本に里帰り…昭和50年に組み立てられ科博でw展示されました。










着艦フックが艦載機である事を主張しています。
しかし毎度思う事ですが…海底から引き揚げた機体をよくここまでレストアできる
もだと真剣に感心します。またよくここまで治るものだと驚かされます。



この下の右主翼のピトー管の周囲に置かれたら邪魔だと謂うのがこの科博の
学芸員には判らないらしい。一番のメインを隠すような展示の仕方は実に拙い
ので早急に改善をしてもらいたいものです。




国産初の量産型ジェットエンジンJ3です。敗戦間際に国産初のジェット戦闘機
となる”橘花”のネ―20を開発以来、敗戦後…長らく禁止されていた航空開発
が昭和27年に再開され、昭和35年に国際開発のジェット練習機(T1-B)に搭
載されたエンジンです。




昭和45年2月11日、鹿児島県の東京大学宇宙空間観測所から、世界最小の人工衛星を積んだ
ラムダ4S型ロケット5号機がここに展示されているラムダ用ランチャにより、「無誘導打ち上げ方
式(重力ターン方式)」で打ち上げられた。打ち上げ場所となった大隅半島にちなみ「おおすみ」と
名付けられたこの人工衛星は、33年間飛び続けたのち、平成15年8月2日、北アフリカ上空で大
気圏に再突入し消滅した。昭和41年の1号機から4度の失敗を乗り越え、人工衛星投入に成功。
日本は昭和30年4月のペンシル・ロケット発射実験から、わすか15年でソ連(当時)、米国、仏国に
つぎ、世界で4番目に人工衛星の打ち上げに成功した国となった。このランチャは、昭和49年まで
一連のラムダ・ロケットの実験に使用された後、当館に移管・展示されたものである。







旧 軍人会館(現 九段会館)




九段会館は、東京都千代田区にある財団法人日本遺族会が運営する施設。
敗戦までは軍人会館として軍の予備役・後備役の訓練、宿泊を目的に建設
されました。二・二六事件では戒厳司令部が置かれた事でも有名です。
ホールやレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式、各種公演、会議、試写会
などに使用されていましたが、平成23年3月11日の東日本大震災での天井
の崩落事故で2名の死亡者と26名の負傷者を出した事故を受けて、平成23年
4月12日付で日本遺族会は会館の営業を終了し、建物を国に返還することを
決定したました。取り壊しを行うか否かは、まだ発表されていません。
廃業閉鎖後、早1年半が経過しました。取り壊しになる可能性も否定できない
状況ですので形のあるうちに改めて撮影しておきました。













旧 近衛師団司令部庁舎
 (現 国立近代美術館工芸館)




旧近衛師団司令部庁舎です。明治43年に完成。陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り
二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となってい
ます。 関東大震災や大東亜戦争をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。昭和52年に
一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。


皇居の乾門から道路を渡るとすぐに東京国立近代美術館 工芸館があります。






近衛師団は、一般師団とは異なり最精鋭かつ最古参の部隊組織として天皇と皇居を警衛する
禁闕守護の責を果たし、また儀仗部隊として鳳輦供奉の任にあたりました。帝国陸軍における
軍隊符号はGD。大東亜戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1G
D)・近衛第2師団(2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成されました。

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左上の写真の2階の突き出た建物の窓のあるスペースが調度、師団長室になります。
敗戦の日の・・・昭和20年8月15日に起こった森 赳 師団長惨殺事件は、まさにここの
師団長室で起こりました。宮城事件の首謀者の畑中 健二 少佐と椎崎 二郎 中佐は
同日午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自決。古賀 秀正 少佐は正午に
近衛師団長室に戻り自決しています。
赤煉瓦と白の花崗岩の組み合わせた美しいゴシック様式の見事な建物ですが
実に敗戦の折には血生臭い凄惨な事件の現場となった場所でもあります。













司令部庁舎時代は待合室として使われていたスペースです。






目の前には首都高都心環状線が走り守るべき主の住む皇居との間を
隔てております。この為、人はその上の歩道橋を使い皇居側に渡りま
す。








北の丸公園の部分は昭和30年代までは色濃く近衛師団関係の
建築物や施設がたくさん残っておりました。これを全て取り壊し
緑化したのが現在の北の丸公園です。当時の面影を残す建物
はこの師団司令部庁舎だけで公園化されてから日本武道館や
千鳥ケ淵戦没者墓苑などもこうして建設されました。左下の空撮
写真は戦前のものです。










皇居 北の丸公園の
 北白川宮能久親王殿下の銅像




北白川宮能久親王殿下の銅像です。殿下は親王家の庶子として生まれ
幼くして都を遠く離れて江戸の地で僧侶として過ごしたり、一時は朝敵の
盟主となって奥州の地を転々とするなど波乱万丈の人生を送られた方で
す。明治維新後は陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で
不運の死を遂げた皇族として日本武尊にたとえられました。
弘化4年2月16日に京都で伏見宮邦家親王の第9王子としてお生れになられました。
明治26年11月10日に第4師団長となる。明治28年、日清戦争によって日本に割譲さ
れた台湾征討近衛師団長として出征(乙未戦争)。ところが現地でマラリアに罹患され
10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去せられます。しかしそれが秘匿された
まま御遺体は日本に運ばれ、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示されて
国葬に付されました。皇族としては初めての外地における殉職者となった為、豊島岡
墓地に葬られました。また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神社
(台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建されました。また後に台湾各地に創建さ
れた神社のほとんどで主祭神とされました。敗戦後にこれら能久親王を祀った六十の
神社は全て破却された為、現在は靖国神社にて祀られています(戦後の昭和32年
10月4日に、筑波藤麿宮司の指揮により合祀されております)。

               出典・引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』










千鳥が淵に残る高射砲陣地跡




千鳥が淵と皇居に挟まれた僅かなスペースの遊歩道に今も六基程
の高射砲陣地の台座部分が残されています。
この陣地のある遊歩道となっている土手の下は車道と歩道がその先の白い塀のある
皇居(奥は吹上御所)を隔てています。歩道にはジョキングをする人々が走っています。


一見すると公園の丸いベンチのような感じです。
ポツポツと六基程の高射砲の台座が残されていて上に石で作られた
蓋がされています。記録によると八八式七糎野戦高射砲(別名:八八
式七糎半野戦高射砲)が設置されており・・・皇居の防空を担当してい
ました。

ここに設置されていた八八式七糎野戦高射砲・・・所謂、八八式七糎半
野戦高射砲です。帝都を襲ったB-29相手には、この砲で撃った砲弾は
届きませんでした。










東京のド真ん中の皇居にある・・・雑草に埋没したような砲座跡です。






皇居 北の丸公園の不明の石碑




北の丸公園の首都高脇の近くにひっそりと置かれたこの謎の石碑。
一度割れた様子で修復して接着した跡が残っています。石碑の前に
は貨幣が何故か置かれています。本来は花立てと一体の石の線香
受けと思われます。不思議なので暫く時間を掛けて調べてみました。
暫くしてこれが古い馬頭観音である事が判明しました。
この北の丸公園のある辺りは…近衛師団や近衛聯隊の建物や施設
が隙間なく置かれた一帯でしたが…明治維新前は徳川家の御三卿
の田安徳川家と清水徳川家が上屋敷を構えていました。それが18世
紀から続き…この敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などがあり
ました。20世紀になり明治維新が起こり…江戸城は皇居になり、この
場所も、明治政府によって近衛師団の兵営地に置きかえられました。
恐らくこの馬頭観音は、江戸時代の馬場で亡くなった馬の供養に建て
られたもので明治の建築ラッシュの時か…敗戦後の昭和38年に建設
省が森林公園として整備を開始した際のいずれかの時に誤って壊して
しまったものを修繕し置きなおしたものと推察します。
戦前戦後の上下のどちらの風景も明治維新前の徳川家御三卿
の田安家、清水家の上屋敷のあった景色とは様変わりし…馬場
のあった頃を想像出来ませんが…傷の入った馬頭観音が江戸
城〜皇居・近衛師団兵営地〜北の丸公園へと18〜21世紀の変
遷の歴史を想い起こさせてくれました。






皇居 北の丸公園の近衛聯隊の遺構




〜 近衛第一聯隊記念碑 〜




徳川三百年の世が終わり…江戸幕府が倒され明治新政府が樹立された当初は、
明治政府には独自の軍隊がありませんでした。そこで軍事的に薩摩藩、長州藩、
土佐藩に依存する脆弱な体制でした。そのため明治4年に明治政府は”天皇の
警護”を名目に薩摩、長州、土佐の三藩から約一万名の献兵を受け、政府直属の
軍隊である”御親兵”を創設しました。またこの軍事力を背景に廃藩置県を断行し
ました。 そしてこの年の1月に江戸城の田安門内(現、北の丸公園)に兵舎を構
えました。同年7月の佐賀の乱鎮圧出動が初陣で、明治10年には西南の役に参
戦、熊本城攻防、田原坂戦に参加しました。近衛都督は、初代が山縣有朋、二代
が西郷隆盛でありました。以来、栄光ある帝國陸軍にあって皇室を守護する皇軍
の頂点にある近衛聯隊の伝統と歴史を敗戦まで積み上げてまいりました。昭和20
年8月10日未明にポツダム宣言受諾後、近衛聯隊でも軍旗奉焼、そして復員が行
われました。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移つりましたが、禁衛府解体に
伴い9月15日、聯隊は解散しました。こうして明治以来の栄光の伝統に輝いた近衛
歩兵第一聯隊の歴史に幕が下ろされました。


                  近衛歩兵第一聯隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年1月23日
明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年 大東亜戦争終末に至るまで71年
余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、大正天皇 今上天皇も皇太子で
あらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹
て大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。近衛兵には、毎年の徴兵検査で
全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。

                                    昭和42年1月23日

                                          全国近歩一会



皇居を目前とした北の丸公園にひっそりと佇む石碑です。西郷隆盛が率いた
御親兵が母体となった近衛歩兵第二聯隊とならび帝國陸軍最古の歩兵聯隊
です。皇居の傍の石碑は…まるで今も皇室を守護されているかのようです。







〜 近衛第一聯隊 怡和園跡の碑 〜




怡和園は近衛歩兵第一聯隊の敷地内にあり、明治中頃までは
土を盛り上げただけの土堤であったものを、明治41年に手を
入れて、広場や四阿を設け、花卉を植えて小庭園を造り、時の
聯隊長 由比 光衛 陸軍大佐はこれに”怡和園”と命名し石碑
を建てましたた。 爾来、将兵の散策や憩いの庭として、また
体操や訓練の場として長く親しまれました。戦後、北の丸公園
造成の際、この庭園はその様相を変え、石碑は地中に埋められ
ていましたが、その後わずかに出ていた石碑の頭部を発見し、
これを発掘して再建しました。”怡和”とは、喜び和らぐの意味が
あります。








〜 近衛第二聯隊記念碑 〜



一際立派なのが近衛歩兵第二聯隊の記念碑です。
陸軍の帽章である五芒星の星章を桜葉で
囲んだ近衛帽章です。一般将兵とははっき
り区別されたものですが、近衛兵は栄光と
誇りを持って最精鋭で禁闕守護の任にあた
りました。
かつて守護の任にあたった皇居を目の前にする北の丸公園でひっそりと
静かに訪れる人も殆ど無く眠るように佇む記念碑は…かつて亜細亜最強
を誇った帝國陸軍を象徴するように感じられました。
皇居清水門の近く旧清水家の邸宅跡地に記念碑はあります。



近衛歩兵第ニ連隊は、明治七年一月二十三日、明治天皇から軍旗を親授
せられこの地駐屯して以来 日夜皇居の守護に任じ また佐賀西南の役 
日清日露戦役台湾征討 日支事変大東亜戦争に従って武功をたてた
昭和二十年大東亜戦争の終結により七十余年の歴史をとじたが その
遺勲を顕彰するため 有志相はかって記念碑を建て永く後世に伝える

 昭和四十三年一月二十三日

 元近衛歩兵第二連隊 
          将兵有志一同




近衛歩兵第二聯隊は明治七年一月二十三日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され
明治天皇より軍機を親授せられ以来 昭和二十年大東亜戦争の終結に至る百余年の間
この地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治十年西南の役、ついで日清 日露
の各戦役に出戦し更に昭和には、日支事変にて南支、佛印へ出征し、輝かしい動功を残
した。
 近衛兵は毎年全国から選抜された優秀な装丁を以って編成されていた。
 
    平成十年一月二十三日 
                近歩二会







〜 近衛第二聯隊 岳麓山百合移植の碑 〜





        岳麓山百合移植之碑

          命令

            昭和十四年八月一日
                  富士瀧ノ原康舎

聯隊ハ岳麓山百合ヲ以ッテ兵営の美化セントス
各本部及び各中銃砲隊ハ本廟営間機会ヲ求メテ
之ヲ採取ニ務メ八月八日其個数ヲ報告スベシ

   近衛歩兵第二聯隊長 深堀 渉亀

     連隊副官注意
        各人少ナクモ一個ヲ採取スベシ







〜 おまけ 吉田 茂の像 〜












千鳥ケ淵戦没者墓苑




千鳥ケ淵の北の丸公園の反対側・・・旧閑院宮邸跡に千鳥が淵
戦没者墓苑はあります。・・・戦前から特別な意味がある靖国神
社と違い・・・この霊園は旧軍遺構でも無く戦後に特別な政治的
な軋轢から誕生した経緯があるので長い間・・・掲載を躊躇って
おりましたが・・・多くの無名戦士が慰霊される場でありますので
改めて掲載する事としました。
























































東京都戦没者霊苑





中央大学と文京区役所の間にある東京都戦没者霊苑です。
戦没者霊苑は、さきの大戦における16万余にのぼる東京都関係戦没者の慰霊と
都民の平和への願いをこめて、昭和35年6月に建立されました。敷地は、小石川
台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部でした。その後、陸軍砲兵工廠・諸工伝
習所敷地となり、戦後は、財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設
として管理し、昭和28年に戦没者慰霊施設用地として、東京都に寄付されたもの
です。昭和37年6月に休憩所が完成し、多くの御遺族が来苑され親しまれてきま
した。昭和56年には、御遺族が待望された遺品展示室が、財団法人日本宝くじ協
会から寄贈されました。しかしながら、建設後26年を経て、慰霊碑、休憩所が老朽
化するとともに、勾配の強い参列広場も、高齢化した御遺族にとって危険になって
きたため、昭和62年度に、ほぼ全面改修することが決まりました。改修に当たって
は、広く有識者の御意見をお伺いするために、戦没者慰霊碑建設委員会を設置し
ました。同委員会からは、 『さきの大戦において、尊い犠牲となった東京都関係戦
没者に対し、尽きぬ慰霊の誠をささげるとともに、平和を願う都民の強い決意を表す
るものとする。』 『戦没者を追悼し、戦争の惨禍を末長く後世に伝えるとともに、明る
く、親しみやすい都民全体の広場とする。』との、基本的な考えを示され、これを基に
設計を建築家相田武文氏に依頼しました。工事は、昭和62年9月に着工し昭和63年
3月に竣工の運びとなり、昭和63年度に外溝整備・植栽を行って全体工事が完了し
現在に至ります。













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遺品展示室は大きくないが、先の大戦で戦没された方々が
遺された手紙、千人針、鉄兜などの遺品等を御遺族からお
預かりして展示しています。観覧は無料です。









旧 陸軍前橋飛行場(別名:堤ヶ岡飛行場)の跡地




日本全国のどこの田舎にもありそうな風景です。田んぼや農地に空き地が目立つ広大なエリアに
巨大なイオンのショッピングモールだけがドーンとあります。この道路を挟むこの周辺は旧陸軍の
前橋飛行場(堤ケ丘飛行場)でありました。今や緑の雑草や農地に変貌して飛行場時代の名残を
残すものはありません。

畑以外は何もない所でしたがイオン(旧サティ)がドーンと出来てから、周囲は御覧のように宅地化され
ドンドンと家が出来て道が出来て農地が市街地に生れ変っています。ここが昔のある時期に短い間です
が軍の飛行場があり特攻機がここから出撃された事も…人の記憶から世代を重ね消えていく事でしょう。
今も農地を掘り返せば滑走路の基礎土や格納庫などの周辺施設の基礎となったコンクリが
出てくるそうです。この飛行場が存在したのは昭和18年5月19日の強制買収通知で始まり
同年8月1日から工事が開始され周辺町村住民の勤労動員にて滑走路の完成が昭和19年
8月ですが、それに先立って同年2月15日に飛行場試験飛行で数機の戦闘機が着陸してい
ます。完成後に宇都宮飛行学校前橋教育隊が開設されます。10月9日、教育隊が閉鎖され
代わって熊谷飛行学校前橋分教場が開設。11月1日には飛行場警備の為、13323部隊堤
ヶ岡隊が創設されます。昭和20年2月9日に前橋分教場が閉鎖され、15日に中島飛行機製
作所分工場が開設し四式戦”疾風”の生産が開始されます。3月より特攻隊訓練が開始され
ます。ここより出撃した陸軍特攻誠第36飛行隊(九八式直協10機:住田 乾太郎 中尉)、誠
第37飛行隊(九八式直協9機:柏木 誠一 中尉)、誠第38飛行隊(九八式直協7機:喜浦 義
雄 少尉)の26機が4月6日に沖縄方面の敵米機動部隊に特攻攻撃を行っています。7月10
日に米軍艦載機による本格的な空襲を受けて敗戦に至ります。







高崎 歩兵第十五聯隊跡 石碑
     ( 照7757部隊 )




歩兵第15聯隊は、明治17年に西南戦争後の軍備拡張によって群馬県
高崎市に創設…明治18年7月27日に軍旗拝受し東京鎮台第1旅団隷下
となりました。以降敗戦に至るまで日清・日露戦争から上海・満洲両事変
…大東亜戦争とほぼ全ての戦役に参加しました。昭和19年4月にパラオ
に移動、第三大隊(千明 武久 大尉)をペリリュー島に分遣し、11月には
第二大隊(飯田 義栄 少佐)が激戦中のペリリュー島に逆上陸戦を行い
ますが善戦空しく全滅します。そして15聯隊の本体は敗戦をパラオで迎
え…8月31日に軍旗奉焼しました。
この記念の石碑は高崎城跡に置かれています。15聯隊の創設前に廃藩置県で
この地域が陸軍省の所管となって以来、高崎は約70年余りの大半が歩兵第15
連隊が駐屯し…まさに高崎は”十五連隊の街”といわれました。
私も慰霊に何度か上陸したペリリュー島でこの15聯隊では二個大隊
を失っております。この15聯隊のペリリュー戦での戦没者は、

第二大隊が739名戦死

第三大隊が817名戦死

第二・三大隊に配属された各隊の戦死者が146名

合計 1702名 となっております。この他にパラオ本島などで敗戦ま
でに多くの聯隊本体主力で戦没者を出しております。以下のバナー
をクリックすると慰霊に訪問したペリリュー島の戦場の遺構を紹介し
たページが開きます。
                   









ありし日の歩兵第十五聯隊の正門の写真です。
下は将校集会所の会議室正面に掲げられていた閑院宮載仁親王殿下の書







東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所の遺構
      (岩鼻陸軍火薬製造所)




岩鼻陸軍火薬製造所の遺構です。群馬県高崎市岩鼻町にあり
明治16年に東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所として操業開始し
ました。多くの建物が解体されましたが、一部だけ遺構が残っ
てます。しかし敗戦後、広大な敷地が日本化薬、群馬の森公園
と日本原子力研究所に三分割され、多くが公園外の施設の一部
となっている為、立ち入りが出来ません。
創業時は東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所と呼ばれていましたが、大正12年4月に
陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所となり、昭和15年4月には東京第二陸軍造兵
廠岩鼻製造所に名称を変えています。敗戦によりその歴史に幕を閉じましたが此
処の歴史は古く…明治38年に日本で初めてダイナマイト製造を開始し、従来の黒
色火薬と併せて軍用火薬・民間用の産業火薬の生産と供給を行っておりました。


敗戦時で敷地面積が32万5千坪。従業員数は3,956人を数えたと謂います。
昭和49年に此処に県立公園が開設する前までは製造所の建物がまだ111
棟に水槽サイロなど57基が残存していたようです。今では密林状態で…当
時の軍用施設の面影を想像する事がまるで出来ません。



一見すると自然の高低差に見えますが…よく見ると爆風避けの土塁
や壁が作られている事が判ります。これ等は爆発事故の爆風避けの
為に作られたものです。

今では爆風避けの土塁も森の自然に同化して…このように人工的に
手を加えた跡を見なければ判らないようになっています。







これ等の高低差は公園の遊歩道やサイクリングロードとして
活用されています。

このように土塁と土塁の合間を遊歩道が通っている形ですが…結構な
高低差があります。しかし謂われないと自然の地形と思い遊びに訪れて
居る方も多いのかも知れません。
そしてよく見るとかつての施設のコンクリの基礎が公園の中に
見つける事が出来ます。鬱蒼とした森林に覆われ「群馬の森」
と謂われる県立公園に姿を変えていますが…よく見るとありし
日の面影が僅かにだが残っていました。

”ダイナマイト発祥の地”の石碑です。…塀の向こうは日本化薬(株)です。







おまけ 高崎城址…周辺




高崎城址です。…殆ど城の名残は残っておりません。右上は三の丸の模擬石垣です。

右上は乾櫓と東門です。


東門の内と外です。
左上が東門の内側と右上が乾櫓










岩戸明けしその神代より出づる日の
 おなじ光に春や立つらん  万女












法事で群馬(高崎)に出掛けました…やはり折角、こちら
まで足をのばしたなら懐かしい駅弁を食べたいと思い至
りました。この辺であれば…やはり頭に浮かぶのは二つ
の人気の高い駅弁です。一つは高崎の”だるま弁当”で
す。もう一つは全国区で人気が高い横川の”峠の釜めし”
です。二つとも車を走らせて買い求めて食べました。
彼此30年以上前に夜行の急行列車で北陸や秋田や新潟に行ったり
スキーで列車で行った時に食べた…峠の釜めしです。今では電
車などは長い事使いませんが、車で移動して長野や群馬に行く
機会があると思い出しては買い求めて食べています。

駅弁とお茶があれば…幸せな気分に浸れますね。やはり
食すと…日本人に生まれて良かったと感じます…。この益
子焼のお釜が昔と変わらずで懐かしい。
おおっ懐かしい…これです。栗が甘く…やはり旨し…!
そして完食です〜♪



こちらも懐かしい味です。敢てプラスチックの廉価版のだるま
弁当で無く…復古版の昔ながらの陶器製のだるま弁当に…
こだわりました。たかが駅弁とバカにするなかれ…日本の汽
車の旅に根差した食文化と謂える奥深さを持った駅弁は最早
されど駅弁の世界に入っているのです。
勿論、群馬名物のコンニャクも入っています。
この多種多様ぶりが堪りません。私は敢て温めず
冷たい駅弁を食べる派です。…実に旨し…!
そしてまたこちらも完食です〜♪







おまけ2 東京豊島区立目白小学校
       の陶器製の二宮金次郎の像




目白通りを挟んで学習院大学の前にある目白小学校です。現在、ここは建て替え工事中
です。いつも此処をバイクや車を運転して通るのですが…校庭の塀から頭を覘かせている
二宮金次郎像が長年気になっておりました。最近は特に新しくなった気がして…バイクを
止めて意を決して見て来ました。

この二ノ宮金次郎像は…珍しい陶器製です。道も新しい感じがすると思ったら
長年い間…陶器製の本が欠損していたのを図工の先生が新しく作り直したそ
うです。戦前は、一般に銅像の二宮金次郎像がほとんどでしたが、戦時中の
金属供出でその多くが無くなりました。代わりにこうした陶器製の像が造られ
た訳です。


ピンボケしてまいしたが…昔の正門です。昭和4年9月2日に
”高田町高田第五尋常小学校”として開校。今年で開校83年
を迎えています。下の画像のバナーをクリックすると目白小学
校の公式サイトが開きます。






メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。


こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。