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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



旧軍の遺構や資料館など・・・関東編

(9ページ目)



(首都圏を中心とした関東に
        点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。







茂原海軍航空基地の遺構

 (第ニ五ニ海軍航空隊)




此処が茂原空の旧滑走路になります。現在は1000m道路と呼ばれ三井化学
茂原工場に隣接している道です。確かに謂われてみれば滑走路のように真っ
直ぐな直線道路である事が判ります。

戦後に米軍が撮影した茂原基地の航空写真です。
中央に滑走路(1000m道路)、左手の誘導路付近
に見える建物に兵舎などがあり更に司令部などが
あります。更に上の方に誘導路が幾つかあります。
この周辺に多数の掩体壕が点在します。
こちらが当時、海軍道路と呼ばれいた道です。
現在の萩原小学校には基地の司令部が茂原中学校には兵舎がありました。


茂原空は今でもかなりの掩体壕が残存していますが…時間の関係で残念ながら
数基しか見て回る事が出来ませんでした。次回、リベンジしたいと思っています。
マーシャル諸島で壊滅した252空は昭和19年2月に館山で再建を図ります。そして三沢に
移転して特設飛行隊制で戦闘302飛行隊に改編。同隊は6月に硫黄島に進出した部隊は
米機動部隊と死闘を重ねて消耗し252空の搭乗員を館山に引き揚げました。次の改編で
戦闘302、315、316、317の四個飛行隊(定数48機)になり、7月には再び317飛行隊から
10数機(指揮官 中間 栄博 大尉)を硫黄島に進出させています。10月21日の迎撃戦で
隊長の中間 大尉が敵機に体当たりを敢行し壮烈な戦死を遂げ2回級特進の栄を受けるま
で戦闘317飛行隊の分遣隊は、19回の迎撃戦を硫黄島で行っています。この間に戦闘
316飛行隊は茂原基地へ、315と317飛行隊は館山基地で錬成に励みました。10月の捷
号作戦の発動で252空主力は沖縄〜台湾を経由して比島のクラーク基地へ進出し米機動
部隊の死闘や特攻攻撃でも消耗し本土に戻ります。昭和19年11月27日に252空の戦闘
317飛行隊は、大村 賢次 中尉を指揮官とする零戦12機を硫黄島基地よりサイパン特別
銃撃隊を発進させます。この部隊は後に第一御楯特別攻撃隊と名を変えて呼ばれ神風特
別攻撃隊とみなされました。その後、敗戦が近い昭和20年2月…252空は本部をこの茂原
基地に置きました。前後して硫黄島の上陸戦が始まります。ここでの252空は戦闘304、
308、311、313、316飛行隊が隷下にあり各部隊が茂原と館山基地で錬成に励みました。
並行して来襲する米機動部隊艦載機の空襲に迎撃を行いますが、被害を続出させ消耗が
大きいので段々と本決戦に備えて温存を図り出撃を減らしていきます。3月末の沖縄侵攻が
明らかになると戦闘304、313、316飛行隊の零戦144機に攻撃第3飛行隊の彗星を南九州
の国分基地へ進出させ沖縄作戦と特攻に従事…4月中旬、多くの被害を出して関東へ戻り
ます。以降、252空は敗戦までどちらかと謂えば温存に徹し交代で戦闘304飛行隊と316飛
行隊を茂原基地と郡山基地に避難させ温存しました。最後の空戦は敗戦の日の8月15日に
郡山の戦闘304飛行隊が英機動部隊の艦載機と房総半島上空で空戦を交えたものです。



〜 第 一 御 楯 特 別 攻 撃 隊 〜

昭和19年11月27日に252空の戦闘317飛行隊は、大村 賢次 中尉を指
揮官とする零戦12機を硫黄島基地よりサイパン特別銃撃隊(後に第一
御盾特別攻撃隊と命名)としてサイパンへ突入させます(途中、1機が機
関不良でパガン島へ不時着した為、実際に突入したのは11機)。そして
この隊を誘導し戦果確認を行う為に木更津基地より752空の偵察第12
飛行隊の彩雲2機が出撃しました。この攻撃は特攻と同じようなもので…
サイパン島のアスリート飛行場に駐機するB-29を低空で反復射撃を繰り
返し撃破するという作戦(当初の計画では、サイパンを銃撃した後、まだ
確保していたマリアナ北部のパガン島へ着陸する事を考えていたが…前
日の作戦会議でパガン島までの燃料を考えるとサイパン上空での攻撃時
間が非常に短くなる為、サイパン上空で反復攻撃を繰り返し、最後はその
まま地上に突っ込む。という意見が隊員の方から自発的に出た為、計画
が変更されました。)で…数百機の敵戦闘機ひしめく敵飛行場に僅か10機
足らずの零戦が単独で殴り込みを掛ける訳ですから=特攻です。米側の
資料からも低空で侵入した零戦10数機は三回反復して駐機中のB-29に
対して激しい銃撃を加えて隊長機の大村 中尉は、零戦の機銃弾を全て撃
ち尽くした後、サイパンのアスリート飛行場に強行着陸して…拳銃を手に単
身で米軍陣地へ突撃して米兵との撃ち合いの果てに全身に銃弾を受けて
壮烈な戦死をされました。米軍は、この大村 中尉の勇猛果敢な行為に敬
意を表し遺体を手厚く葬ったと謂われています。 この攻撃で4機のB-29を
撃破し、6機を大破、22機を小破しました。この日の未明に陸軍第二独立
飛行隊(浜松陸軍飛行学校)
の9機の九七式重爆撃機が海軍と同様にサ
イパン島アスリート飛行場を低空で空襲を強行しました帰還できたのは僅
か3機のみでした。こちらの戦果を合わせると陸海軍でB-29を32機撃破
及び大破した計算になります。しかし陸海軍ともに大きな代償を払いまし
た。海軍は以降、零戦によるマリアナ方面への攻撃は一切行いませんで
した。陸軍は大きな戦果でもすぐにリカバーされる米軍の物量の前に以降
は優秀な搭乗員を失うばかりの空襲では敵の企図を阻止することは不可
能と判断、空挺攻撃による敵基地降下で壊滅させるという発想から義烈
空挺隊を創設し、後に沖縄戦で奥山 大尉以下の義烈空挺隊による作戦
が実行されます。…いずれにしろこの日の攻撃は、米軍に与えた衝撃は小
さく無くアスリート飛行場のB-29をグアムに分散移動させた上で硫黄島へ
の徹底攻撃を強化しました。以降も茂原基地には雑多な部隊が駐留し錬
成を重ねます。小規模な機数の神風特別攻撃隊は以降も茂原より出撃が
継続されました。
サイパンのアスリート飛行場です。現在のサイパン国際空港になります。
日本軍がら奪取した飛行場を拡大し、この凄まじい数のB-29を配備して
東京を廃墟にせしめました。
高度1万mで帝都空襲を行い出撃する超空の要塞 B-29です。
下は日本軍の攻撃で破壊され燃えるB-29です。







上の写真は茂原基地で写る戦闘316飛行隊の隊員達です。


こちらも郡山に移転する前に茂原基地で撮影した戦闘304飛行隊の記念写真です。
下は昭和18年12月に茂原基地で撮影された502空の九九式艦爆と最新鋭の艦爆”
彗星”です。

出典・画像引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』







陸軍 豊成飛行場(東金飛行場)の遺構
    
      (陸軍飛行第二八戦隊)




この飛行場は使用期間も極めて短い事もあり…小さな公演に作られた
記念碑のみしか残されていません。滑走路なども全て農地や住宅にな
ってしまい遺構らしきものも皆無で当時を偲ぶものはまるで存在しませ
ん。
まだ未完成だった豊成飛行場に進出した陸軍飛行第二八戦隊(新京)は
昭和19年11月に移駐しました。以来、敗戦までの約10カ月をこの地にあ
りました。部隊の通称は天翔第九一六〇。一〇〇式司偵に20ミリ機関砲
2門を装備して来襲するB‐29に対する高々度迎撃を行った事で知られま
す。
この片田舎の小さな公園しかない場所からは…約70年前に帝都防空の
任を帯びた若者達が此処から高度1万メートルを飛び来襲するB-29の
大編隊に死闘を挑ンだ事など想像もつきません…。
記念碑の碑文には以下のように刻まれています。


              本 土 防 衛 の 跡 を 偲 び 

                   平 和 を 祈 る 

                   ふ る さ と の 碑


 豊成飛行場は史上、東金飛行場といわれて、昭和十九年三月大東亜戦争末期
本土決戦の戦略によって急造された。青麦を刈り捨て、住家を移転し、墓地を
掘り返し昼夜兼行、近隣住民を総動員して工を急いだが、未完成のまま十九年
末には飛行第二十八戦隊が駐留してきた。総面積百七十ヘクタール、その八十
四%は肥沃な農地であった。以来戦況は日に増し悪化し、空襲は連日連夜に亘
り、村役場の移転、小学校は取り毀して寺院神社に分散授業。戦火は鳥浜小学
校や民家を焼き、遂に住民や兵員の犠牲者を出すに至った。かくて一回の戦果
朗報を聞くことなく、齢一歳にも満たずして二十年八月十五日終戦解体するこ
とになった。

 今わが豊成飛行場の歴史も半世紀の歳月の底に沈んで語る人もなくなった
が、この跡地に残された本土防衛の志想と平和を希求する愛郷の真情は魂魄
となって強く生き続けていると思う。

 われら思いをここに致して、地域一体となって後世のために”平和を呼ぶ
ふるさとの碑”を建設して遺すことに相成った。

 永遠に平和と繁盛の花咲き栄え給えと祈ってやまない。

平成六年三月吉日

      鈴 木 勝 題字 選文

      豊成飛行場記念碑建設委員会


上は東金飛行場で愛機の百式司偵V型乙防空戦闘機の尾翼部分を背に写真に写る
第二十八戦隊第二飛行隊 北川 鍼夫 軍曹(少飛10期)。彼は高々度迎撃戦にてB-29
を2機撃墜し、4機を撃破しています。
上の写真は百式司偵にホ5(20o機関砲)を搭載して立川の陸軍航空工廠で
高々度防空戦闘機化を改修している機体の弾道試験のものです。その後にV
型乙が生まれました。下の写真は独立飛行第二十八中隊の隊長 成田 富三
中尉の搭乗機である百式司偵V型乙防空戦闘機です。機首部に突きだした
ホ5(20o機関砲)二門が特徴的です。

こちらは珍しい東金飛行場での写真です。昭和20年の春の
飛行第二十八戦隊の搭乗員です。右の方は百式司偵V型乙
で既に2機のB-29wo撃墜している樋口 昇 伍長です。彼は
4月に川崎キ-102甲(高々度戦闘機)が配備され搭乗します。
排気タービン付で高度1万メートルでも余裕の機動飛行を行え
る複座戦闘機でしたが…既にB-29には護衛のP-51が追随し
その真価を十二分に発揮する事は適いませんでしたが…配備
された5〜6機を持って高々度防空戦闘をこの地から行いまし
たが、すぐにキ-102甲を持って戦隊長の上田 秀夫 少佐と共
に飛行第五十三戦隊に転じました。
上の画像は排気タービン過給機が付かないキ-102乙の所謂
(四式)襲撃機と謂われたタイプのものです。
キ-102乙襲撃機の完成品模型の画像です。


出典・画像引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』







陸軍 横芝飛行場の遺構

(水戸陸軍飛行学校横芝分校
     仙台飛行学校横芝教育隊)




この横芝飛行場も殆ど遺構らしきものは残っておりません。唯一、この栗山平和公園
に記念碑があるだけです。
昭和13年に将校学生・下士官学生・幹部候補生生徒・少年飛行兵生徒を対象に機上通信・
機上射手などの教育を目的として水戸陸軍飛行学校が新設されました。この横芝飛行場は
水戸陸軍飛行学校横芝分校としてスタートします。昭和15年8月には、通信教育を陸軍航空
通信学校へ移管します。そして昭和18年10月1日、 仙台陸軍飛行学校(陸軍航空総監部隷
下)に改編され宮城県に移転ました。そして横芝分校もこれに伴い仙台飛行学校横芝教育隊
に名称を変更します。まあいずれにしろ教育飛行隊であり実戦部隊の飛行隊が常駐する飛行
場ではありませんでした。
 記念碑の碑文

                       
                     横 芝 飛 行 場 之 跡


 横芝飛行場は、昭和13年に当時の陸軍航空本部により、旧横芝町から旧上堺村にまたがる
この周辺の土地、約170ヘクタール(約170町歩)を買収して建設されたものである。

 初めは、水戸陸軍飛行学校横芝分校であったが、後には、仙台飛行学校横芝教育隊となり
練習機を交え80機以上の航空機が置かれ、操縦学生や通信学生たちの教育に当たっていた。

 しかし、先の太平洋戦争末期には、この飛行場も標的となり、連日のように爆撃を受けるなど
激しい攻撃にさらされ、これに伴い、周辺地域を中心に本町住民も戦争の災禍を被り、暗い一時
期を過ごすこととなった。

 以来、戦局は険しさの一途をたどり、ついに終戦を迎えるに至ったが、この飛行場は、ここで育
まれた航空兵たちにとっては、終生忘れ得ぬ揺籃の地となり、町民としても、戦争と平和を語ると
き、欠くことの出来ないところとなった。

 ついては、ここに未来永劫の平和を願い、横芝飛行場記念碑を建立し、歴史のあかしとして
後世に伝えようとするものである。

   平成5年3月吉日    横芝町長 實川 堅司郎






随分前に入手した絵画ですが我師匠に指摘されるまで作者を考えもしません
でしたが、 平成16年6月22日に故人となられました高名な航空機画家の海法
秀一氏の作品であり…彼の実体験で想い出深い九七式戦闘機と二式高練を
描いた千葉の横芝飛行場…第三十九教育飛行隊で当時陸軍伍長で助教をし
て少飛14〜15期の教育指導に当たる傍ら、迎撃戦でこの7.7o機銃を一丁し
か積んでいない二式高練(しかも九七式戦闘機の750馬力を450馬力に落とし
たエンジンを使用)でグラマンF6FやF4Uコルせアに果敢にも挑み戦った時代
を描写したものと思われる絵画でした。

海法秀一氏は、少飛十三期生。昭和16年10月1日、日米開戦の2か月前に立
川の東京陸軍航空学校(八期生)に入学。昭和17年夏に大刀洗陸軍飛行学
校。続いて陸軍熊谷飛行学校新田分教場。そして北朝鮮の連浦にある朝鮮
一〇〇部隊第十一教育飛行隊。その後、配属されたのが千葉・横芝飛行場の
第三十九教育飛行隊です。初の実戦参加は昭和20年2月16日の迎撃戦です
。九七式戦闘機を複座にした練習機である二式高練で米機動部隊の艦載機
であるF6Fに挑むのだから恐れ入ります。最高速度も僅かに340 km/hしか出
ず対してグラマンは、610 km/hを優に超す最高速度を誇ります。武装と謂い
性能と謂い大人と子供の違いがありますした。この初陣で海法氏は、敵機と交
戦中に被弾しエンジンが止まりかろうじて横芝飛行場から少し離れた海保神
社に不時着します。顔に軽傷を負いますが…凄いのは飛行場から約50km離
れた海保神社で自転車を借りて、後に義父となる海保さんを後ろに乗せて基
地まで帰投し、そこで第三波の敵艦載機の襲撃を負傷した同僚の愛機である
九七式戦闘機に乗り再びグラマンを求めて飛び上り銚子沖の屏風岩の上空で
敵と交戦する前に再びエンジンが止まり…今度は滑空しながら、次に紹介する
海軍の香取基地に着陸します。その後、米軍の襲来は艦載機だけでなく硫黄
島からのP51も加わり…以降は激しい迎撃戦を繰り返します。昭和20年5月に
なると千葉の横芝基地から埼玉の狭山飛行場へ部隊ごと移動。既に訓練生は
全員が特攻や防空戦闘の実戦部隊に巣立ち残った教官・助教で独立三十九
中隊のような存在で以降、敗戦まで首都圏の防空戦闘と迎撃戦闘に明け暮れ
ています。…そして敗戦後も海法軍曹等は、9月上旬過ぎまで九九高練を白
塗りにし日の丸の国籍マークを緑十字に染めて連絡業務で東北方面や北海道
の函館までを連絡飛行で最後の御奉公を勤めたと謂います。

海法氏は一式戦”隼”T,U,V型をはじめ、三式戦”飛燕”等の操縦桿を握っ
た戦闘機パイロットでした。空戦20回。撃墜は、グラマン1機、共同撃墜6機を
記録されています。また敗戦までに実に7回撃墜されその都度、落下傘降下で
命をとりとめて戦線復帰を果たしたツワモノでもありました。

また海法氏といえば有名なエピソードがあります。昭和20年1月未、千葉と茨
城県境の上空で機体を損傷したB29爆撃機から脱出した米兵が、パラシュート
降下しました。ここに急接近する日本軍機がありました。当然、落下傘で降下
中の米兵は、戦闘機による機銃掃射を覚悟しましたが、日本機の搭乗員は、
機中から敬礼をして旋回して帰投しました。「武士道に命を救われた」と感じた
米兵は、戦後もこの敬礼した日本機の元搭乗員を捜し求め、平成12年10月
23日に55年ぶりの再会を地上で果たしました。これが海法氏でした。当時、
存命だった海法氏の千葉県船橋市内の自宅を訊問した元米兵に、再び丁重
に″返礼″したとの事です。当時、美談として新聞やマスコミで取り上げられ
ましたのでご記憶の方も多いと存じます。尚、この米兵だった方は、当時、B29
爆撃機の航法士で米カリフォルニア州在住の陸運会社元社長R・H・ハローラ
ンさん(78)でした。彼のB29は…この日、サイパン島を出撃しましたが日本の
戦闘機に迎撃され、高度約七千mで脱出を余儀なくされました。この海法氏の
敬礼の事は、彼の著作である「ハップス(私の)戦争」のなかでも詳しく紹介さ
れており、死を覚悟していたハローラン氏は、「これが日本の武士道なのか…
」と強く感激したようです。この時、千葉の第39教育飛行隊の迎撃中隊の陸軍
伍長(敗戦時、軍曹)でありました。

また我師匠が私に送ってくれた海法氏の著書”されどわが愛機恥ずることなか
れ 泣き笑いオンボロ戦闘機奮戦記/本土防空戦秘話(月刊 丸)”の中で記載
されていました。また先に記載した首都防衛部隊の塗装の二式高練でグラマン
に撃墜され不時着した海保神社ので介抱してくれた家の娘さんと戦後結婚した
話も嘘のような本当の話です。それにしても敗戦間際の空を日米戦の開戦前の
主力戦闘機でノモンハンで活躍した旧式の九七式戦闘機やこれを練習機にした
二式高等練習機を迎撃に現役で使用した事には正直、驚きました。またその事
より若き海法氏の水上戦闘機より劣るドン亀の練習機で7.7o機銃でも闘争心
を持って迎撃に勇んで上がる気合と根性に感銘を受けます。今の日本人が失っ
た強さを見る想いがします。手記の最後に次の文章で締めくくられています。

…”わが青春に悔いなし”という言葉通り、私は空に青春をぶつけてきた。だが
おりにふれて同期の生き残った者たちと語り合う時、必ず脳裏をかすめるのが、
今は亡き戦友の顔、顔、顔である。私は命の続く限り、今はなき戦友たちの慰
霊を第一義にと心がけている次第である。

昭和49年の丸 10月号に掲載された手記です。


海法画伯の油絵です。画像ではよく判りませんが九七式戦闘機と九七式司
令部偵察機が描かれています。九七式司令部偵察機の後方に曵的機のよ
うで吹流しを曳航し射撃訓練を終えた九七式戦闘機を描いた絵のようです。
開放型のキャノピーでない為、二式高練甲型を描いた絵では無いようです。





上は複座の二式高等練習機の乙型です。下は単座の二式高練の甲型です。(プラモの箱絵から)
このような第一線から退いた旧式戦闘機の九七式戦闘機をデチューン
してスピードを落とした練習機でよくP51ムスタングやF4Uコルセアや
グラマンF6Fヘルキャットに立ち向かわせたものだと感心します。一式
戦”隼”V型や零戦52型甲でも既に力不足であった時だけに…これで
飛び上る将兵達の敢闘精神には頭が下がる想いで一杯になります。
上下の地図のA地点が横芝飛行場です。B地点は撃墜され不時着した海保神社です。
かなりの距離です。人を一人後ろに乗せて自転車で約50kmを走破して、その日のうち
に再び迎撃に出撃しています。
下のC地点は2回目に出撃して再びプロペラが止まり滑空で緊急着陸をした
海軍の香取基地です。こちらは横芝基地と非常に近いのがわかります。

ありし日の海法氏です(伍長時代)。戦後は、競輪選手
で活躍した後、再び操縦桿を握ります。そして有名な航
空機絵画の画家として活躍されました。

まるで二式高練が落ちたとは信じられない海保神社です。








香取海軍航空基地の遺構




旧滑走路の脇に作られた香取航空基地慰霊碑のある旭緑地公園です。


この地は昭和十八年太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地の
跡なり慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に
還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり彼等に
限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は
御霊よ永遠に安かれ と祈り又 将来の平和の礎たれ と念じ互いに
力を合わせこの碑を建立し 謹みて碑内に霊璽簿を納む

  昭和五十一年十一月二十三日  慰霊碑建設期成会

                    慰霊題字    源田 實


不思議なのだが…テキサンが置かれて展示されている。勿論、香取空とも
何の接点の無い機体です。戦後の海自が使用した米軍貸与の練習機です。






現在は日清紡績のブレーキテストコースとなっている旧滑走路は外部から
からはフェンスと樹木に閉ざされて見る事が出来ません。

香取基地の滑走路から離陸せんとする艦上偵察機”彩雲”です。

上空から見ると今でも十字の滑走路跡がよく判る左上から右下にくっきりと
残っている方が日清紡績グループの日清紡ブレーキのブレーキテストコース
です。二本のクロスした広大な滑走路の一本を丸々使っていますので豪快
です。これだけ滑走路の痕跡を色濃く残す現役でもない旧軍基地も珍しいと
思います。
香取航空基地は日中戦争真っ直中の昭和13年に建設が始まり、昭和18年9月に完成しました。
完成が大戦中期以降と遅かった為、使用目的も本土防空よりも本土決戦準備や特攻に傾いて
敗戦を迎えています。この地から神風特攻隊第二御楯隊(村川 弘 大尉)として昭和20年2月21
日に零戦12機、彗星艦爆12機、天山艦攻8機の計32機が出撃し八丈島基地を経由して燃料を
補給後に故障の1機を除く31機が同日夕刻に硫黄島を攻撃中の敵大機動部隊に特攻攻撃を掛
けました。突入前に、木更津から出撃した第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が硫黄島上空に
進出し、欺瞞工作のチャフを撒いて敵のレーダーを攪乱しました。第二御楯隊は、この敵艦隊の
混乱に乗じて護衛空母”ビスマーク・シー”を撃沈、正規空母”サラトガ”を大破炎させ、護衛空母
”ルンガ・ポイント”と輸送船”ケーカック”に損害を与えるなど大戦果を挙げました。またこの光景
は硫黄島で敵の猛攻に耐えていた陸海軍の守備隊も当然ながら見ており、海軍の市丸少将と
陸軍の栗林中将が其々に感謝の打電を送っています。
香取基地を出撃する第二御盾隊の隊員達。この出撃前日に第三航空艦隊司令長官の
寺岡 謹平 中将が命名式と激励に香取基地へ来ました。名前を呼ばれるた隊員がその
度に長官に対して敬礼をしんました。飛行帽・飛行靴・飛行手袋から下着にいたるまで
全てが新品の装束を身に纏い全員が万歳を奉唱したあと、恩賜の日本酒とスルメで壮
行会が行われ…その後、香取神宮に参拝して神前にむかずき成功を祈願し出撃したと
謂います。
この余りにも若い命が桜花のように美しく散りました。
左上は第二御盾隊の攻撃で大破炎上する空母”サラトガ”。右上は炎上し撃沈せんとする
護衛空母”ビスマーク・シー”です。

〜 第 二 御 楯 特 別 攻 撃 隊 〜






〜 第 三 御 楯 特 別 攻 撃 隊 〜

第三御楯隊の各隊は、この茂原基地より九州南部の特攻基地に進出し沖縄方面に特攻出撃しました。


掩体壕です。左上と右下が正面で同一のものです。また右上と左下が同一で裏から
撮影しています。この掩体壕は上に穴が開いて崩落しているのが判ります。


こちらは左上と右下が正面写真で同一の掩体壕です。右上と左下が裏側で
す。こちらは入口がシャッターのように閉じられて農家に使用されているよう
です。


上の掩体壕を二基の位置関係を遠くから撮影した写真です。



こちらも農家に民生利用された掩体壕です。基地の南東にあたる部分に残された1基です。



            旧香取海軍航空基地「掩体壕」

昭和十三年、このあたり共和村(現在旭市)鎌数を中心とした地に海軍
航空基地の建設が始まり、昭和十六年、太平洋戦争勃発と共にアメリカ
航空機の来襲によって被害も多くなった。
海軍では航空機を空襲から護るために、基地周辺に強固なコンクリート
製掩体壕が約二十五基築造し、空襲と同時に航空機を避難させていた。

戦後、その多くは取り壌され、現在旭市に残るのはこの一基のみである。

多くの人命、財産が失われた悲惨な戦争を風化させず、平和の尊さを永

く語り伝えていくために、戦争の遺物の一つとして、所有者の協カを得

て表示した。

      平成十一年三月
 
                   旭市教育委員会

全国各地に残された掩体壕がここと同じように畑に囲まれ農機具の収納や車庫代わり
など農家等に戦後、有効に活用されている姿を見ると日本人の逞しさを強さを感じます。

上の写真は、昭和20年4月 千葉・香取基地から出撃する直前の
752空 攻撃第5飛行隊の艦攻”流星改”の珍しい写真です。
全て香取基地での画像です。

出典・画像引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』







下志津陸軍飛行学校銚子分教場の遺構




昭和2年4月にこの地(千葉県銚子)に開設されたのが下志津陸軍飛行学校銚子分教場です。
地元では春日台飛行場とも銚子飛行場とも呼ばれておりました。下志津陸軍飛行学校は、
現在の千葉市若葉区若松町に大正7年3月、仏航空団フォール大佐等を招聘し航空機に関する
技術全般の伝習教育の為に下津飛行場に来たことからスタートし、大正8年に陸軍航空学校
の偵察班が置かれました。大正10年に陸軍航空学校下志津分校となり、大正13年に下志津
陸軍飛行学校へ昇格します。この銚子に続き現在の成田空港の近くの八街にも分教場を開設
して教育にあたりました。以後、終戦まで主として航空偵察の教育を行っていたが、昭和19
年6月には、下志津教導飛行師団を編成して戦力化され、戦局が急を告げるに従い特攻作戦の
一部を分担することになった。その後、下志津陸軍飛行学校の本校も分校も特攻基地となっ
たが下志津飛行場も幾度かそして八街飛行場も空襲を受けました。
小さな空き地のような公園です。周辺は住宅街とキャベツ畑しかない高台です。
とても軍の飛行場があった場所を想起させえない場所でした。そしてこの公園と
記念碑以外は遺構らしい遺構もありませんでした。
滑走路は600m×800m位の規模で小さな飛行場だったと謂い
ます。ここで出撃した特攻隊の実話を元に当時映画が作られま
した。それが松竹映画の ”乙女のいる基地”です。

製作年 昭和20年

製作・配給 松竹

時間 52分

監督 佐々木康

脚本 津路嘉郎

撮影 寺尾清

出演
    水戸光子 佐野周二 原保美  東野英治郎 志村喬
    安部徹  奈良真養  葛城文子  川村トミ  笠智衆


この公園はかつての飛行場の跡地の一部です。特攻隊の事を後世に伝えようと
特攻隊員の一人と顔見知りだった銚子市の堺敬生さん(81)が中心となって平成
五年にこの石碑を建立したようです。


この長閑な地にあった小さな飛行場から神風特別攻撃隊が出撃しました。
神風特別攻撃隊 八紘第六隊 石腸隊の記念写真です。

    フィリピンのバコロドを飛び立つ石腸隊
出撃する石腸隊…特攻隊の殆どが航空士官学校卒のバリバリの
エリート陸軍士官である事は非常に珍しいです。特攻には多くを予
備学生出の士官や予科練出の下士官をあてた海軍では考えられ
ない事でしょう…。指揮官も航空士官学校出身の現役将校で隊員
も航空士官学校出身の現役将校…。
昭和20年1月5日、リンガエン湾で石腸隊または進襲隊 所属の
九九式襲撃機の特攻突入を受け爆発炎上する米重巡”ルイビル”
下は同じ八紘第六隊 靖国隊々長 出丸 一男 陸軍中尉(航士56期)
の出撃の写真です。石腸隊と同じ九九式襲撃機を使用しています。


                  碑  文

かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。同分教場は
この春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが
太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ
人となった。この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄
が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度
とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈
りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑
を建立した。 


    平成五年十一月八日   
       
                翔天の碑建立委員会


昭和19年11月、下志津教導飛行師団から神風特別攻撃隊が組織され最後の錬成を銚子飛行場
で行われました。第六八紘(石腸)隊 隊長 高石 邦雄 陸軍大尉(航士54期)以下18名が九九式
軍偵を受領し比島に向けて出撃します。(全機数が揃わず受領できた11機が先に、続いて残る7
機と二隊に別れて銚子飛行場を飛び立ち全機が無事に比島に到着しました。)尚、高石 大尉以
下の18名中の14名が航空士官学校を卒業し下志津陸軍飛行学校で訓練を終えたばかりで少尉
に任官したての20歳そこそこの航士57期生の若鷲でした。隊員はみな志願した下志津飛行学校
の軍偵班の乙種学生過程を終了したばかりの全員14名に彼等を教育した教官(高石大尉)や助
教の下士官を加えた師弟で編成されており…不思議な学生教育の延長のような雰囲気で和気藹
々の中で全員使命に燃えて嬉々として第一線に馳せ参じたと謂います。比島では現地の焼失機
の補充、整備の遅延などにより全員同時突入とはいかず、第一次 7機、第二次 1機、第三次 2機
と…ネグロス島駐在の第二飛行師団の命に従い出撃しました。そして戦局の変化により第四次 1
機、第五次 3機、第六次 1機、第七次 3機…計8機がルソン島クラーク基地の第三十戦闘飛行集
団の命により昭和20年1月までに分散出撃し敵艦船に体当たりしました。また石腸隊のポーラック
残留部隊も全員突入、昭和20年1月9日にリンガエン湾に上陸した敵に突入し散華しました。尚、
昭和19年12月12日に第三次攻撃隊で出撃した吉武 登志夫 少尉は、エンジン不調のため遅れて
出撃したがセブ島上空にて敵グラマンF6F戦闘機4機につかまり攻撃を受けてエンジン停止…セブ
島沖のマクタン島に不時着したが頭部に銃創を受けて重傷を負い海軍機でセブ島からネグロス島
北端ファブリカに脱出してシライの第二飛行師団司令部に帰着します。しかし昭和20年1月9日に
ルソン島に転進の命がくだり、九七式重爆にてルソン島ポーラックに帰還するも石腸隊の仲間は
全員が散華した後でした。その後、ルソンには乗るべき飛行機もなく、ルソン島北部を転々と移動
したが、2月14日に航空兵の操縦者だけがツゲガオから重爆で台湾に脱出しますが、以後台湾で
敗戦を迎えます。
國神社発行『英霊の言乃葉』に残っていた歌です。

石腸隊 陸軍少尉 井樋 太郎

  数ならぬ 身にはあれども 日の本の

           歴史書くてふ その一しづく


                       八紘第六隊 石腸隊 名簿

隊長 陸軍大尉  高石 邦雄 陸士(航)54期  福岡出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

     陸軍少尉 大井 隆夫  陸士(航)57期  長野出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同   市原 哲夫  陸士(航)57期  千葉出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同   片岡 正光  陸士(航)57期  熊本出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同   下柳 田弘  陸士(航)57期 鹿児島出身 スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同    山浦 豊   陸士(航)57期  千葉出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同    増田 憲一  少 候 24期   長野出身  スリガオ海峡    昭和19年12月5日戦死

       同    伊藤 誓昌  陸士(航)57期 愛媛出身  オルモック湾    昭和19年12月8日戦死

       同    井樋 太郎  陸士(航)57期 佐賀出身  バイバイ沖     昭和19年12月12日戦死

       同    安達 貢   陸士(航)57期  広島出身  サンホセ付近    昭和19年12月22日戦死

   陸軍中尉   細田 吉夫  陸士(航)56期  宮城出身  ルソン島西海面    昭20年1月5日戦死

   陸軍少尉   杉町 研介  陸士(航)57期  東京出身  ルソン島西海面    昭20年1月5日戦死

       同   林甲 子郎  陸士(航)57期 和歌山出身 ルソン島西海面     昭20年1月5日戦死

       同   岡上 直喜  陸士(航)57期  東京出身  サンフェルナンド沖   昭20年1月6日戦死 

       同   上野 哲弥  陸士(航)57期  山形出身  ルソン島西海面     昭20年1月8日戦死

       同   鈴木 敏次  陸士(航)57期  愛知出身  ルソン島西海面     昭20年1月8日戦死

   陸軍曹長  時田 芳造             東京出身  ルソン島西海面     昭20年1月8日戦死

九九式軍偵の完成品模型の画像です。

出典・画像引用  フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』







     日 比 友 愛 の 碑

( 地球の丸く見える丘展望館 )




標高73.6mの高神愛宕山の山頂は下総国の最高峰となります。ここに
”日比友好の碑”があり”地球の丸く見える丘展望館”があります。
友好の碑の後方にある建物が”地球の丸く見える丘展望館”です。
フィリッピンのルソン島南部にそびえる標高 2.463mのマヨン山。
この地の日系人はルソン富士と呼び富士山よりも美しいと地元で
は呼んでいたそうです。レガスピ市と千葉県銚子市は姉妹都市で
あり、銚子市の犬吠埼近くに立つ「日比友愛の碑」はマヨン山の
方向を向いて建っています。


尾崎士郎と同様に陸軍報道班員だった寺下 辰夫 氏が献詩が
左右に日本語と英語で刻まれています。


             雲へだつ 

             ふたつの国の同胞が
 
             互の慨き のり越えつ

             緊く結びし 心とこころ

             友愛の浄火 仄々と 

             永劫不滅に 

             あゝ 燃えにぞ燃えよ


                    寺下 辰夫 


          碑 文

    MONUMENT OF 
    FILIPINO―JAPANESE
           FRIENDSHIP

(カルロス・P・ガルシア大統領のサイン)



      日比友愛の碑
   
       内閣総理大臣 岸 信介 書
 


                  碑 文  

撰文 尾ア士郎

此処に、われ等が恩讐を絶する日比両国の戦友百数十万の霊を
慰むるための記念塔を立てる。
悲しき歴史の運命について、われ等は今日言うべき言葉もない。
この儚き民族の夢の影もなく消えていったあとに、祖国の難に殉
じて倒れた魂の、声なき声を、われ等は心の底に聴く。
希うところは、唯、この微かなる響きを透して、あたらしき民族の
生命の芽生えんことのみである。愛情の最後の一滴を捧げつくし
て、侘しく滅びていった同胞の御霊よ。
此処に永恒をつらぬく悲しき思いを、世界平和を築く荘厳なる理想
と抱負に託して、こころしずかに眠れよかし。

   昭和三十三年五月中浣


 
 日比友愛の碑建立委員会

 会   長    東久邇稔彦
 副 会 長
 千葉県知事   柴田  等
 委 員 長    和知 鷹二 
 副委員長   
 銚子市市長   島田  隆
 副委員長
 千葉県副知事  友納 武人
 賢 徳 寺    上野 順教
  
 題   字    岸  信介
    同     カルロス P ガルシア
 撰   文    尾ア 士郎
 献   詩    寺下 辰夫

 設   計 
 工学博士    佐藤  鑑
 施   工    岡田知之助


ここは、標高73.6mの愛宕山山頂です。つまり下総台地の
最高地点であるとともに下総の国の最高峰となります。右上
は一等三角点高神村です。
愛宕神社です。天保14年の記載があります。










有名な屏風ヶ浦がよく見えます。上に風力発電の沢山の風車が回っており印象的です。


10qにわたる約50mの断崖の屏風ヶ浦は東洋のドーバーと評されるようですが
…その地層はまさにジオを感じる地質遺産であることを見るとわかります。


確かに360°の大パノラマで四方を見渡せて地球を
丸く感じる事が出来ます。







元 横須賀海軍鎮守府
   海軍高等官保養所 水光荘
   (現在は一般民間人の住宅)




この上下に物は、ありし日に水光荘に飾られていた七名の高名な
提督達の肉筆の書を扁額にしたもの七点を入手した時に手放した
当時の水光荘の主人が制作した由来書等です。



























こちらが横須賀海軍鎮守府 海軍高等官保養所 水光荘に
飾られていた七点の扁額です。七名の高名な提督達の
肉筆の書を扁額にしたもので由来を水光荘の主人が記し
ています。






下のバナーをクリックすると扁額七点を紹介したページが開きます。
                    ↓







〜 脱 線 〜


初日の出で有名な銚子の犬吠崎灯台
    と旧伏見宮家別邸 瑞鶴荘 跡か見た日の出




有名な銚子の犬吠埼灯台です。


























旧伏見宮家別邸”瑞鶴荘”の跡地に建つ旅館から初日の出を見ました。
元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣 伏見宮貞愛親王 殿下の別荘跡地
なだけに眼下に犬吠埼灯台から日の出を望める太平洋を一望できる素
晴らしいロケーションである事が庭園跡に建つ離れの宿から見ると理解
出来ます。日本本土で最も早く初日の出の見られる地の初日の出を拝
む事が目的です。

美しい朝日が少しずつ暗い太平洋の彼方からゆっくりと上がってきました。素晴らしい日の出です。
遠い昔…この地の主だった殿下も見た筈の日の出を見る事が出来て満足しました。





犬吠埼灯台側から見た旧・瑞鶴荘の跡地部分です。現在は地元の温泉宿がスパ施設を
併設して手広く商売されています。下は拡大した写真です。周辺は温泉宿や別荘に保養
施設がたくさんあります。









メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。


こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。