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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



旧軍の遺構や資料館など・・・関東編

(10ページ目)



(首都圏を中心とした関東に
        点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。







旧 陸軍所沢飛行場(所沢航空記念公園
              所沢航空発祥記念館)


( ・所沢陸軍飛行学校 ・陸軍航空整備学校
 ・陸軍航空士官学校所沢分校 ・第三航空教育団 )


米国プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館(POF)所蔵
の現存し飛行可能な零式艦上戦闘機52型が特別展で
来日し展示中。




管理人である憂國烈士が住む都内の城西エリアからは車やバイクでも空いていれば
30分位(高速を使って)で行ける場所なので気軽に遊びに行ける場所です。以前から
サイト内でも紹介していましたが遺構として取り扱うのは今回が初めてです。
何と言っても日本の航空発祥の地であり日本で初めての飛行場が誕生したのが
この航空公園が現在ある場所です。丸ごとが陸軍所沢飛行場の遺構と謂ってよ
いでしょう。今は市民の憩いの場として多くの家族連れや老若男女がスポーツや
ピクニック、各種イベントの開催などを楽しんでいます。





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これまでに比べて展示物に変わりはありません。やはり目玉は昨年から
期間限定で里帰りし展示されている零戦五二型で来館者の多くがこれを
目当てで来ています。





























〜 所沢航空公園内の記念碑等 〜


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以下、公園内の記念碑などです。
戦後、自衛隊で使われたカーチスC-46A型輸送機の前に置かれた
航空発祥の地の記念碑です。



木村・徳田両中尉記念塔
大正2年3月28日、青山練兵場で行われた飛行演習の帰途、木村鈴四郎・徳田金一両中尉の
乗ったブレリオ機が下新井の山林に墜落し、日本で最初の航空機事故の犠牲者となりました。
この記念塔は木村・徳田両中尉の殉職を追悼したもので、当時の”やまと新聞”が全国に義捐
金を募り、大正3年3月28日、墜落地点(現在の所沢聖霊園)に記念碑を建て両中尉の勇姿
を銅像として残しました。その後に塔は昭和4年3月に西武所沢駅前へ移設…戦後、西武園や
航空自衛隊入間基地を転々と移設され…昭和55年3月に航空発祥の地であるこの所沢航空
記念公園内に安住の地を求めて現在に至ります。





荒鷲達憩いの庭園です。
記念碑等の中で最も目立たなく判りにくい場所にあるものです。
小池があったのか花壇だったのか不明ですがコンクリの枠だけ
が残っています。



少年航空整備兵の像(健児の塔)
この像は昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏が第二回大東亜戦争美術展に出品し
翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたもの
です。翼を抱き、空を見上げる航空整備兵3人の姿は戦技・通信・整備の三者協
力を象徴したもので、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。




大正天皇御駐輦之跡の碑
大正天皇駐輦碑は、大正元年、所沢飛行場に大正天皇が
来場されたのを記念して建てらたものです。碑文は井上 幾
太郎 陸軍大将によるものです。



フォール大佐の像
大正8年、フォール大佐は日本の航空技術指導の為、フランス航空教育団の団長として
来日しました。約19ヶ月にわたり陸軍の将校や技術者を対象に最新の操縦方法や発動
機の扱い方、整備方法などを教授しました。フォール大佐は日本の航空技術の向上のみ
ならず、日本の工業界の発展にも貢献した人物です。
この胸像は昭和3年に所沢飛行学校の校庭だったこの場所に建立されましたが、
戦後取りはずされたままになっていました。この度 少飛会有志の御協力により 
金沢市の水野 朗氏製作の原型を求め復元したものです。

    昭和57年10月 所沢市




〜 平成24年〜25年に来日中に展示された零戦52型 〜




































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陸上自衛隊 北富士駐屯地
         
            駐屯地史料館


(日本で最も標高の高い駐屯地であり
  山梨県唯一の駐屯地にある旧軍資料館)




数年前の関東の大雪(山梨や飯能など孤立地域)で救助に出動した駐屯地です。
静岡側から見る富士山です。やはりいつみても富士山は雄大ですね!旧軍遺構と
いう訳ではありませんが、資料館を見学しました。










以前は地元の有志から寄贈された品を雑然と展示されていたようですが
現在は基地司令が変わり…展示にも力を入れて系統だって判りやすく
パネル等を使い展示がなされています。特にご当地の山梨出身(また本
籍地を山梨県に置く方の)の将官や有名な軍神なられた方が紹介されて
目を引きます。
一兵卒から身を起こし…陸士52期では歩兵科を首席で卒業。香港
攻略戦で英雄となり勇名を馳せた後、ガダルカナル島の戦闘で戦死
され軍神となられた”後に続くを信じず”…の有名な言葉が印象的な
山梨県の生んだ英雄の一人・若林 東一 陸軍大尉の展示は一番の
メインとなっている感じです。
            ◆ 若林 東一 陸軍大尉 ◆

             山梨県南巨摩郡南部出身

     大正元年3月27日生〜昭和18年1月14日没

              < 略 歴 >

昭和8 年1月      甲種合格/第一師団歩兵第四十九聯隊入営
昭和9 年11月     仙台陸軍教導学校卒業
昭和9 年12月     任陸軍伍長/歩兵第四十九聯隊附
昭和10年4月     天津駐在歩兵隊
昭和1年12月     任陸軍軍曹
昭和11年4月     陸軍予科士官学校入学
昭和13年2月     陸軍士官学校本科入学
昭和14年9月7日   陸軍士官学校五十二期本科を首席卒業
昭和14年11月     任陸軍少尉/歩兵第三十四聯隊附
昭和15年3月     歩兵第二二八聯隊附
昭和15年12月     任陸軍中尉/歩兵第二二八聯隊
                          第三大隊第十中隊長
昭和16年12月     香港攻略作戦に参加
昭和17年11月     ガダルカナル島に上陸
昭和18年1月14日  ガダルカナル島見晴山で戦死、
                             陸軍大尉に進級
昭和18年2月     第十七軍司令官(百武晴吉中将)より
                              個人感状授与
昭和18年8月     第八方面軍司令官(今村均大将)より
                              個人感状授与

若林中尉がガ島に上陸した昭和17年11月は制海権も制空
権も奪われた状態での上陸戦で師団の輸送船は悉く撃沈さ
れ僅か二千名の兵員が着の身着のままで上陸し…重火器
もなく食料も弾薬も医薬品にも事欠く始末で…すぐにガ島は
餓島と呼ばれ将兵は飢えに苦しみマラリアや熱帯病に苦し
みます。そうした中で若林中隊長が戦死される直前の元旦
には次の句を詠んでいます。

 「ガ島」第一線に新春を迎ふ。

 将に必勝の元旦なり。

 謹みて聖寿の萬歳を寿ぎた奉る。

 我が中隊本朝一粒の食なきも、士気極めて旺盛なり

 水筒一杯の水は滾々として活力の泉となる。

 既に死生なく、任務は重し。

 若林第一線に在るからは、願くば御安心を乞ふ。

 元旦や糧なき春の勝戦

 昭和十八年一月元旦

 於 見晴台第十中隊長 若林 東一




また塹壕の壁に若林中尉が貼った3つの信念が以下です。

          信念

 私は神国日本の天壌無窮を信ず

 私は大東亜戦争の必勝を信ず

 私は後に続くものを信ず

昭和18年1月12日の夜に負傷した若林中隊長が戦況報告
に大隊本部を訪れた時、西山遼大隊長は再三に渡り治療
の為に後退するように説得しましたが、。「私は部下ととも
に最後まで戦い抜き、見晴山を死守します。武人としての
若林の一生は見晴山で終わります。しかし私も部下も、後
に続く者を信じております。死してなお必勝を信じます。」と
謂い、死ぬことはわかっていながら部下達が守っている陣
地へ戻りました。そして1月14日、いよいよ米軍が見晴台に
迫り激しい攻撃をしかけてきました。僅か30名余りになった
中隊の隊員に…「突っ込むぞ!」と叫び総員で敵陣を目指
し最後となる突撃攻撃を敢行し…壮烈なる最期を遂げまし
た。…緒戦の香港攻略戦で個人感状を授与





今では戦争体験者は次から次へと鬼籍に入り…戦友会も
次から次へと解散している時代です。展示品を見ていると
時に陸軍の階級章が海軍に混じていたり…海軍の通例軍
衣に夏季肩章が附いていたりと奇妙な点が見つかりますが
展示に携わる自衛隊員も深い知識を持つ人が少なくなって
いるのを痛切に感じます。
軍神・若林 大尉の他には山梨県出身でアッツ島
玉砕の山崎 保代 大佐(戦死後二階級特進して
陸軍中将)のコーナーがありました。山崎大佐は
山梨県南都留郡禾生村(現在の都留市)の出身
です。昭和18年2月に2650名の守備隊の指揮官
として着任し…同じ年の5月29日に激戦の末…残
存将兵300名余りの最先頭に立ち右手に抜刀した
軍刀を握り、左手に日の丸を持ち米軍陣地に突入
し玉砕しました。戦後の遺骨取集で最先頭で初め
に収集され判明したのが山崎閣下でした。まさに
指揮官陣頭の帝國陸軍軍人の見事な典型を見る
ような最期と謂えます。


そしてもう一人が奈良県に生まれましたが
本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(現在の南
アルプス市)にある塚原 二四三 海軍大将
のコーナーも設けられて展示されていまし
た。下には提督が昭和14年10月3日、第一
連合航空隊司令官として漢口で支那軍の奇
襲爆撃で左腕切断の重傷を負いました。下
の画像はその後、提督が使われた遺品の
義手です。


資料館の周りにはかつて使われた61式戦車や74式戦車、75式自走155ミリ榴弾砲
や58式155mm榴弾砲などが展示されています。









おまけ…@



山梨…甲斐の国と謂えば名物のほうとうに馬刺しです。
地元で人気のお店を食べログで探して食しましたが…
旨かったです。



おまけ…A



駐屯地近くに有る富士湧水の里水族館です。殆ど期待しない
で時間潰しに入りましたが…意外と立派で見応えがあったの
で驚きました。















旧 前橋陸軍予備士官學校の遺構
   
    相馬原駐屯地史料館
<友魂記念館>と<桜武記念館>


(現 陸自 相馬原駐屯地)






この駐屯地には珍しく二つの記念館が存在します。
下の空撮画像から背中合わせにあるのが見て取れ
ます。普通の屋根が連なるのが桜武記念館です。
こちらは相馬原駐屯地の史料館で自衛隊への理解
を深めてもらうために開設され、自衛隊の歴史とまた
敗戦前の当地出身で活躍した旧陸海軍の英雄達を
顕彰されています。また名称はこの地が昔から「桜」
の名所であり、旧軍以来の練武の地であることから
「桜武記念館」と名付けられています。
この八角形の建物が二つ接続した様な建物が友魂記念館です。
その下の普通の屋根の建物が繋がった様な建物は桜武記念館
です。友魂記念館は旧前橋陸軍予備士官学校の記念館で…この
前橋予備士官学校を昭和17年秋に卒業した大和ハウスのカリス
マ創業者の石橋 信夫 氏が建設した建物です。
石橋 信夫 氏は、大正10年に奈良県吉野郡川上村に生まれ、
昭和14年に奈良県立吉野林業学校卒業後し農林省の満州森
林開発要員として満州営林庁敦化営林署に赴任して勤務しま
す。昭和16年徴兵で甲種合格、翌17年に東京近衛歩兵連隊に
入営、前橋陸軍予備士官学校に入学。同年秋に卒業し北満州
へ転属となり昭和19年の演習中に下半身不随の事故に遭遇。
優秀な医師との出会いで奇跡的に回復、帰国出来るにも係わ
らず昭和20年8月に原隊復帰。同年15日に敗戦を迎えます。
この時、23歳の石橋少尉は千人の兵を率いシベリアで3年間
抑留されました。ソ連の軍事裁判ではクギの出た壁の拷問箱
(高1.8m・幅奥共0.6m)に入れられ、この時負ければ守るべき
部下を守れない、負けぬ為に全力を尽くす不屈の闘志が湧き
起こり、ロシア人を証人として裁判で無罪を勝ち取り銃殺を免れ
ます。その後、シベリア抑留を生き延びて昭和23年に復員され
ております。その後は有名なので割愛しますが、日本を代表す
る住宅・建設業界の最大手の大和ハウス工業を一代で創り上
げます。平成15年2月に療養先の能登で81歳で亡くなられてお
ります。従三位勲一等瑞宝章が追贈されております。




友魂記念館と桜武記念館の周囲にある記念碑や戦車
砲弾等が置かれています。








        友魂記念館

(旧 前橋陸軍予備士官学校記念館)



特徴ある八角形の建物です。右上は内部に入って写した
天井中央部です。そこも八角形になっていました。
岩手県盛岡市にあった陸軍予備士官学校が昭和16年8月、前橋に移設され
前橋陸軍予備士官学校が開校、以来…昭和20年の敗戦まで約八千名以上
の青年を教育訓練し戦地に送り出しました。その内の千四百余名の方が
戦死されました。卒業生の生存者、ご遺族、学校関係者で戦没者を慰霊する
とともに母校跡地にこのように記念館を建立しています。


















中には亡くなられた石橋氏のコーナーもあり、写真は
平成5年に勲二等瑞宝章受章した時のものです。
















   桜武記念館

(相馬原駐屯地史料館)



櫻武記念館は、この地出身の旧陸海軍の英雄達と
この地の自衛隊とを顕彰した記念館です。


入り口を入ってすぐにこの地で殉職された自衛官
を顕彰する場所が設けられています。

















以下は旧陸海軍の御当地出身の英雄達を顕彰されたものです。
敗戦で全ての価値観が大きく転換させられましたが、そうした事
が無ければ…今も堂々と英雄として敗戦前同様に地域もそうです
が国を挙げて顕彰し…教科書や物語としても使用され、多くの子供
達が知る筈である人達です。
八甲田山死の彷徨で有名な福島大尉です。昨年、亡くなられた
俳優の高倉健さんは映画”八甲田山”でこちらの福島大尉をモ
デルに徳島大尉として演じました。








真珠湾攻撃で有名な九軍神の岩佐中佐です。この方も
前橋の生んだ英雄であり、軍神でした。












町田 一郎大尉は儀列空挺隊の隊員ではなく彼等を運ぶ
12機の九七式重爆撃機の第四番機(機体番号:6540)
の副操縦士の機長でした。この第四番機だけが北飛行場
(読谷)への突入に成功しました。4機が帰投し7機が地上
または海上に墜落しました。この機の空挺隊員は10名で
隊長は幹候10期で中野学校二俣分校出身の原田 宣章

少尉です。町田大尉は機内で戦死した正操縦士の岡本
秀男曹長を機内に残し、航法士の瀬立 武夫少尉に通信
士の石川 高明伍長と共に隊員らに加わり地上戦闘に参
加して挺身攻撃を敢行し敵機26機を撃破し、航空燃料を
爆破炎上させ…暫し読谷飛行場を使用不能にしました。








オマケ画像…基地の外の不思議な物




駐屯地から道を隔ててすぐ目の前に…何やら不思議な
装甲車の様な小さな代物が、会社の駐車スペースの
様な所に展示されていました。車高は低く大きさも普通
車の小型車位でしょうか…正面の右側にアバルト ビ
アンキのエンブレムの様なサソリが描かれています。
ちょっとピンぼけしました。横から見た感じです。
六輪のバギーみたいな物をベースに上物を作っ
て出来上がったものでしょうか…不思議です。
一体、何に使うものなのでしょうか?







メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。


こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。