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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V |
旧軍の遺構や資料館など・・・関東編(7ページ目) |
(首都圏を中心とした関東に
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先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから 64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳 しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての 諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣 や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。 各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが 意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国 の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も 崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが 進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で 再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる 範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと 思います。 |
〜日本海々戦の大勝利した
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(復元50周年を迎えた記念艦 三笠)
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10数年ぶりに訪れました。船の科学館なども同じですがデジカメの無いフィルムの カメラ(バカチョン・カメラえすが…)で撮影していたので…改めて撮影しに参りまし たが…秋の気配が濃くなった青空に軍艦旗に…Z旗、日章旗が映えて実に美しく 感じられました。 |
東郷元帥が見下ろす公園の近くが米海軍に今も支配されている事が何度 横須賀を訪れても心に影を落とし…決して晴れる事がありません。 |
艦首の日章旗に艦尾の軍艦旗…マストにZ旗が雲一つない青空に美しく
そして吹く秋風が心地よく…日本人に生まれて良かったと強く感じました。 |
右上と下の左右の写真にある艦尾のスタンウォークは司令長官専用の回廊です。 この中の部分は司令長官居室であり東郷元帥の私室でありました。 |
余りに有名な艦ですので…説明は出来るだけ割愛します。 |
12番15p砲室の副砲の40口径15.2センチ単装砲です。この砲に限らず艦内の備砲は全て戦後のレプリカです。 |
両舷側にある対水雷艇用の40口径7.6センチ単装砲です。こちらもオリジナルでなく戦後のレプリカです。 |
左上は、副砲の40口径15.2センチ単装砲です。こちらも他の砲と同様にレプリカです。また砲室内に ハンモックが吊られています。この砲室に配置された砲員はこの砲室で食事をし、このハンモックで 眠りそして訓練をしていました。場所は、上甲板左舷側の中部に4番15cm砲の砲室です。 |
艦首は戦前も戦後も常に帝都にある皇居を向いています。 |
この主砲の射程は約1万メートル。調度、対岸の房総半島位の距離まで飛びした。 またこの主砲塔は、厚さ35pの厚い鋼鉄で囲まれていました。 |
艦首側の一番主砲の40口径30.5センチ連装砲です。戦後に打ち捨てられた 状態より、再び三笠保存会が再結成されきれいにリメイクされ太時に同時に 作られたレプリカでオリジナルでありません。 |
中央展示室です。…お宝が満載です! |
東郷元帥の一種・二種軍装に正衣袴が展示されています。 |
艦首に飾られた菊花紋章です。 |
前部司令塔と内部です。厚さ35pの円形の鋼鉄製の構造物に守られて 艦長、航海長等が操艦及び戦闘を指揮する場所として造られたものです。 羅針儀、方位盤及び通信装置が備えてあります。 |
最上部の露天艦橋の真下にあるのが操舵室と海図室です。 ここは後部側の海図室です。 |
操舵室側から見た艦前方部分。 |
操舵室です。一見…豪華客船のものようで軍艦とは思えない作りですが時代が 明治時代と考えるとまだまだ英国の優美な流れが残ったものかと得心する次第 です。 |
艦首側の露天艦橋です。足元の金属板は実際にここで指揮を東郷 GF長官以下 幕僚(秋山 真之 参謀、加藤 友三郎 参謀長等)に伊地知 彦次郎 艦長)執りまし た。下の銅板はその有名な絵を示したものです。その上、沖合に猿島が見えます。 |
海図室と操舵室の上方の最上艦橋。この場所からは東京湾を出入する船舶や 対岸の房総半島を見ることが出来ます。 |
これが戦艦三笠に搭載された当時最新鋭のイギリスのバー&ストラウド製 基線長1.5mのF.A.2型(武式1米半測距儀)のレプリカです。オリジナルは、 艦内の中央展示室に展示されています。 |
目の前の桟橋から連絡船で僅か数分で猿島に到着します。 |
マストの高さは50m以上。 |
以前は無かった気がする人形がいます。この電信室でバルチック艦隊を警戒していた仮装巡洋艦 ”信濃丸”からの『敵艦見ユ』の報が…対馬にいた巡洋艦”厳島”を経由して受信されました。 |
↑ 上のバーナーをクリックすると三笠保存会及び記念艦”三笠”の公式HPが開きます。 |
第三海堡の遺構(大型蒲鉾兵舎)
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大型兵舎は、幅 19.5m、高さ 5m、重さ約 1200 トンと巨大なものです。二つの 居室部分と連絡通路からなるコンクリート製の建物です。第三海堡の撤去工事 の一環で、平成16年1月に海中から引き揚げられましたが…暫くは追浜展示施 設で公開されていましたが、この公園に移設されました。 |
東京湾要塞とはその名の通り、海路で帝都東京へ至る水道を守るもので海上兵力を阻止すべく 房総半島側と対岸の三浦半島側に挟み撃ちにするように各種砲台を築き、もっとも細い浦賀水 道には横須賀軍港周辺の各種砲台と浦賀水道に第一〜第三海堡を築き陸地だけでなく海上か らも砲撃を加えて海上兵力の侵攻を阻止する為に作られた軍事基地です。横須賀に東京湾要塞 司令部が置かれこれ等の砲台や海堡を管理しました。先の大戦では本土決戦に備え第12方面 軍隷下の東京湾兵団として敗戦を迎えています。 |
第三海堡が完成した2年後、関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され 第一海堡のみの運用される事になりました。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8mも沈下し全体の 三分の一が海没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまいました。近年、海上交通の安全に おいて、第三海堡は大きな支障があるとされて、平成12年12月から平成19年8月にかけて大規模な撤去作業 が行われました。この為、第一・第二海堡は現存していますが、第三海堡は完全に姿を失いました。現在、第二 海堡には海上保安庁によって灯台が設置されています。 |
東京湾要塞の中でも浦賀水道にあって海上から 帝都への行く手を阻む第一〜第三海堡の位置関 係は上の地図の通りであります。 |
第一海堡の空中写真です。要塞で砲台があった感じが見て取れます。 | 第二海堡の空中写真です。第一より規模が大きい感じです。 |
第三海堡の空中写真です。暗礁化しているのがよく判ります。 |
↑ 上のバーナーをクリックすると第三海堡を 撤去した東京湾口航路事務所の公式サイ トが開きます。 |
国交省の東京湾口航路事務所の
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上が第一海堡で下が第二海堡です(平成12年)。 |
下が第三海保です。 |
陸軍兵器行政本部
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(明治百年記念展望塔から見る第一・第二海堡と猿島) |
富津岬の先端にある明治百年記念展望塔 |
記念塔からは、目の前に第一海堡、奥の第二海堡。更に猿島に対岸の横須賀…観音崎が望めます。 干潮の時には御覧のように遠浅の砂浜なので第一海堡まで歩いて渡れると思われます。 |
浦賀水道のパノラマ写真です。対岸の神奈川県の三浦半島が見えます。 |
目前の第一海堡をズームアップした写真です。 |
猿島とその奥に横須賀の街が見えます。猿島の裏に隠れて見えませんがそこには 記念艦の三笠があります。狭い浦賀水道が見渡せます。それゆえに東京湾要塞は 三浦半島側と房総半島側と第一〜第三海堡・猿島要塞を効果的に使うと敵の海上 通過を阻止する事が出来ました。しかしそれも近代の航空戦が主流になっては時代 遅れの代物にかわっていきました。 |
幅僅か6.5qの水道を巨大なコンテナ船やタンカーなど多くの商船から漁船などが行き交います。 |
記念塔から反対の富津岬の付け根側を撮影した写真です。 |
陸軍富津射場観測壕 |
地元では”坊主”と呼ばれているそうです。確かに坊主頭ですが…。 |
かつては民間人が立ち入り禁止だった試験場も…今では海浜公園化され家族連れやマリーンスポーツを 楽しみ若者達が遊ぶ格好の行楽地になっています。 |
監視檣を背に左を見れば明治百年記念塔に第一海堡が…右を見れば木更津の港湾と工場が見えます。 |
館山海軍航空隊の遺構
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(現 海上自衛隊 館山航空基地 第21航空群) |
現在の海自・館山基地の正面ゲートです。旧 館空時代の正門から 少し海寄りに移動した形になります。陸自と違い隊員が警備せず… 警備会社のガードマンが担当していました。なんとも時代の流れを 痛感します。 |
開かずの間になっていますが…こちらが旧海軍時代の正門です。右上の当時の 写真と比べると門柱が手を加えられたか、別物に変えられたかしているのが判り ます。このゲートをくぐるとすぐに司令部庁舎の前の運動場になります。その段差 が数mあり…大型車輛の通行に支障がある為…今の滑走路に直接行ける正面 ゲートに位置をずらしたものと思われます。 |
上は基地の外から見た旧正門です。下の写真は基地の内部から見た旧正門です。 |
当時の正門と司令部庁舎の画像です。位置関係は全く 上と同じです。司令部庁舎は空襲でやられた部分を改修 したのが現在の姿ですので、この写真と見た目が違いま す。 |
正門脇の塀は昔のままで館空時代のものを使用しているのが判ります。ただ塀の上にフェンスを 置いて高さを高くしています。右下の写真は、旧正門から写した司令部庁舎と観戦台と三本のポ ールのある国旗掲揚台です。 |
新旧の館山基地を航空写真で比較すると判りやすく…下の写真のように 旧海軍時代は赤山周辺に掛けても海軍の敷地でした。また現在の館山 基地はヘリ部隊しか無い為、非常に短い滑走路を一本と大型のヘリポート のような用地を持つだけですが…館空時代は大きな滑走路を全面で使用 していたのが判ります。記録では1200mと1100mの大型滑走路の二本を メインで運用。中攻隊が実用訓練を行いました。そして更に誘導路が掩体 壕が複数存在したエリアと洲ノ崎海軍航空隊まで伸びているのが判ります 。まさに軍都・館山と謂われたのが納得できます。更にこの写真の外には 館山海軍砲術学校や第18突撃隊の洲崎特攻基地(震洋)など多数の海軍 施設がありました。 |
現在、造船所やマリーナなどになっているエリア(鷹ノ島東側の海岸)は 水上機用のスリットが作られた水上機基地でした。館空では開隊当時か ら水上班が置かれ水上機の搭乗員訓練が行われました。この館空は大 規模な水上機や飛行艇を運用し大戦中は二式大艇も配備されていまし た。 |
再び館山基地内部の紹介に戻ります。 |
現在の本部庁舎は…旧海軍時代の本部庁舎をそのまま使用しております。 しかしこの建物も平成26年には解体され新しい庁舎に生れ変る事が決定し ております。また一つ旧軍の遺構が消えていく事になります。 |
昭和5年に此処に造成した館山飛行場が完成したことを機に、実戦部隊を新設するとともに 横空の作戦部隊を移転させスタートしたのが館空です。その後、館空は実戦部隊として活 躍しましたが、昭和11年に長距離作戦が可能な木更津海軍航空隊が設置されると外戦作 戦任務を木更津空に移し、館空は内戦作戦部隊に転換しました。日米戦の開戦後は主に 東京湾口周辺の対潜哨戒を中心に全国の対潜哨戒と対潜掃討作戦を行いました。これ等 の任務と共に館山航空隊が行なった主な任務は訓練基地としての機能でした。昭和17年 9月には元山空の戦闘機隊を母体とし、第十一航空艦隊第二二航空艦隊に所属の第ニ五 ニ海軍航空隊が館山基地で開隊しました。二五二空は…ラバウル、内南洋、硫黄島、フィ リピンと転戦しました。昭和17年11月にはラバウルに進出しソロモン・東部ニューギニア方 面の消耗戦に従事、翌昭和18年2月には、内南洋方面に移動、ウェーク島など広範囲に分 散したが、既に劣勢を挽回する航空戦力はありませんでした。この年の11月に米軍がマキ ン・タラワ両島に上陸、マキン・タラワが玉砕しました。また12月には米軍の進出が予測され たマロエラップに分散していた勢力を集結しましたが、既にニ五ニ空の稼働機は僅かに30機 にすぎませんでした。昭和19年1月30日、米機動部隊によるクェゼリン環礁上陸事前空襲で マロエラップに延べ90機の米軍機が襲来、大空襲にて機体払底し飛行場・基地施設の損害 が著しく、マロエラップのニ五ニ空は壊滅状態となりルオット島に後退。米軍のルオット上陸 に備えて陸戦準備をしている時に館山への後退命令が出て、2月5日の夜間に迎えに来た 陸攻8機により、副長 舟木 中佐以下の搭乗員が、ウォッゼ、タロア、ブラウンに孤立した他 の航空隊の搭乗員と共に脱出してトラック島に退避し内地帰還を果たした。一方、司令であ った柳村義種大佐や地上要員などは残留、その後に柳村 司令以下は玉砕して果てました 。昭和19年2月20日、新司令となった舟木 忠夫 海軍中佐を中心に館山で再建されニ五ニ 空は、第十二航空艦隊第二七航空戦隊に編入され定数48機となりました。4月には錬成の 場を館山から三沢基地に移し去りました。館空の戦闘機部隊以外は…昭和19年12月15日 をもって、日本各地での対潜哨戒を担当していた各航空隊は、東日本の九〇三空と西日本 の九五一空に集約される事にました。これに伴い館空と共に編入されたのが、九〇三空・九 五一空と九〇一空の三個航空隊でした。これ等の部隊は、大量の哨戒機で広大な哨戒区 域をカバーしました。館山の九〇三空は、昭和20年以降、北方航路の護衛の為に北海道へ 移動。5月5日に大湊警備府附に移り、大湊に司令部を置き…山田湾・厚岸・稚内・美幌飛 行場に展開し、敗戦まで細々と対潜警戒任務に従事しました。昭和20年3月15日に館空( 二代目)開隊されました(司令:鬼塚 武二 海軍大佐)。この館空(二代目)が最後に開隊さ れた海軍の内戦航空隊となりました。陸攻の完熟訓練と水偵による東京湾口対潜哨戒を主 任務としていましたが、すでに燃料不足や昭和20年2月16日以降の館山飛行場空襲によっ て、任務遂行は既に不可能な状況にありました。館山には他にも実施部隊や特攻訓練部隊 が常駐していた為、活動は大きく停滞して敗戦を迎えました。 |
館空は房総半島の南にあり東京湾の入口と太平洋沿岸を 防備するには絶好の場所に置かれました。 |
御覧になれば判るように昭和12年の時には白亜の立派な観戦台は存在していましたが 三本のポールを持つ国旗掲揚台はありませんでした。以降、敗戦までの八年間に増設 した可能性も否定できませんが、もしかすると国旗掲揚台のみ戦後に追加したものかも しれません。 |
この館空は木更津空が出来るまでは中攻隊の主軸を成す錬成地でありました。 昭和11年9月には、この年に採用されたばかりの九六式陸攻は…この館空より サイパンまでの約2200qの無着陸飛行に成功し広く内外にその類稀な性能を 知らしめました。 |
平成26年に96年の歴史に終止符を打ち取り壊される予定の司令部庁舎です。 |
この壇上に新旧の日本の海軍の軍人が立ち…約90年間に様々な事が行われました。 この物言わぬ広場と庁舎は、それをじっと見てきたのでしょう。 |
運動場の脇の段差には防空壕が数か所作られており入り口が今も確認できます。 防空壕は崩落の危険を防ぐ為か、入り口を塞がれています。左下の写真では、現在 は基地の外の民間の敷地になる第二海軍航空廠館山補給工場の巨大な建物が写 っています。 |
〜 絵葉書で見る旧 館山海軍航空隊 〜 |
海自の護衛艦の艦尾にいつも燦然と輝く軍艦旗は、帝國海軍以来の伝統の継承 を常に感じさせます。その現代の日本海軍・館山基地のパンフレットから内容から の紹介です。 |
基地の内部は大きな格納庫や施設が並びますが多くは戦後に建設されたものです。 中には司令部庁舎や資料館の建物ように昭和5年の館空の開隊当初から存在する 建物も現存しまだ現役で使用されています。これ等は、後6年程経過すると百周年を 迎える筈です。残念ながら司令部庁舎は百年を迎える前の96年目で解体される予定 です。 |
管制塔と格納庫群の前にある短い滑走路と大型のヘリポート。この部分も旧館空時代のメインの大滑走路二本の うちの一本と重なります。現在、海自では旧海軍のように戦闘機や様々な種類の航空機を保持していません。ヘリ コプターを中心に双発哨戒機のP3C、四発救難機(飛行艇)のUS-2、四発救難機(飛行艇)のUS-1A、双発輸送 機のYS-11-M、などが知られています。ここの館山基地では、ヘリしか運用していませんので大きな昔の様な大き な滑走路は設けていません。 |
ヘリ運用がメインの為…随分と規模が小さい滑走路に変わっていますが…同じ場所に滑走路があり ここを大きな双発の九六式陸攻が離着陸していたのかと想像すると感無量でした…。どの位小さいの かと疑問を思われる方がおられるので数字で比較すると…旧軍時代は1200mと1100mの滑走路が 2本に小さい滑走路の3本が運用されていましたが、現在の滑走路は300m×45mが1本です。これで 使用の目的が違う新旧の基地の滑走路の違いがお判りいただけると思います。 |
世界初の渡洋爆撃を果たし有名になった九六式陸上攻撃機の勇姿です。 この他に以下の九七式艦攻や九六式艦戦や零戦などが活躍しました。 |
昭和14年の記録では館空の航空機は九七式艦攻を中心に124機でした。日米戦の 開戦までの館空は中国戦線への航空部隊の後方基地としての役割を担っており、 日米戦の開戦以降は帝都防空〜東京湾及び太平洋沿岸の防空と対潜哨戒攻撃に 主軸を移し末期には本土決戦に備えた基地となり館空周辺には40基以上の掩体壕 が設けられ敗戦時でも激しい空襲を逃れて零戦や紫電など41機の戦闘機が温存さ れておりました。 |
そして時は移ろい…レシプロの戦闘機や攻撃機は消えて…高性能な対潜哨戒・攻撃ヘリコプター SH-60Kが約10機にSH-60Jが約10機、救難ヘリのUH-60Jが約3機が運用され活躍しています。 |
海自の誇る対潜哨戒・攻撃ヘリコプター SH-60K です。機首下の左のボールはFLIRシステム (赤外線探知装置)で右下面のはレーダーです。また左右の上にはESMアンテナが見えていま す。右の側面ドアは二分割され多くの装備を搭載できるようになっています。エンジンの出力も SH-60Jに比べて20%以上も出力がUPしています。そして特徴的なメインローター先端の形状 変化により約1トンもホバーリング重量を稼ぐ事が可能とならしめました。その代り最高速度が約 30q/hも減じたそうです(SH-60J :333q/h ⇒ SH-60K :300q/h)。 |
操縦席に座らせていただきましたが…当然なのでしょうが全ての計器が液晶画面 になっていて…我々が一般に想像するコクピットのアナログな航空計器が一切無 いのが印象的でした。 |
SH-60Jでは、Mk46魚雷しか携行できなかった武装ですが、SH-60Kでは…更に国産の97式短魚雷 対潜爆弾、AGM-114M ヘルファイアII空対艦ミサイル、警戒監視用に7.62mm機関銃を携行できる用 になりました。SH-60Jが重量制限によって携行できなかった97式魚雷の搭載により高速・深深度潜 航を行う最新鋭の潜水艦を攻撃する事ができるようになりました。また対潜爆弾によって魚雷が機能 を発揮できない浅い海域での攻撃を行う事ができる他、海上警備行動での威嚇や警告として有効な 手段となります。AGM-114M ヘルファイアIIは、敵の警備艇やミサイル艇といった小型水上艦艇等へ の対水上戦において使用し機銃はこれらとの接近戦で使用すされます。SH-60Jでは極めて限定した 運用しかできなかったものが、SH-60Kへの進化で大きく幅を拡げて防衛力を増強させました。 左上の写真の右側面後方に黒く見えているのもESMアンテナです。右上の写真の特徴的なバブルキ ャノピーの下の左パイロンも大型化され対艦ミサイル等が搭載されます。 |
左上の写真の四角い箱のような物はAN/ALE-45J(チャフ・フレアディスペンサー) です。レーダー誘導ミサイルに追尾された際の欺瞞にチャフを散布する機械です。 旧海軍では、パイロットが手で撒いたものですが…時代は変わりました。またその 右側にある丸い物はフライトレコーダーです。右上は、テールローターの下と水平 尾翼です。水平尾翼全体が可動します。 |
テイルブーム右のパイロンに装着されたMADバード(磁気探知機)。 これで潜水艦を見つける事が出来ます。 |
救難ヘリのUH-60Jです。大きな増槽が特徴的ですが…この増槽は密着型(コンフォートタイプ)のように 見えずドロップタイプ(落下式)と思っていましたが…落下させず固定で使用しているようです。まあ救難用 なので敵に追いかけられたり戦闘を想定にしていなければタンクを捨てる必要も無い訳ですが…。 |
この日も離着陸の訓練を繰り返し繰り返し行って習熟訓練を繰り返しておりました。 |
館山基地の管制塔です。エレベーターなど無く…煩悩の数と同じ百八段の階段を 上りました。煩悩が多いのか足と膝が辛かったです…(- -; |
特別に管制塔の中から管制塔内部が写らないように外を撮影させていただき ました。目の前の館山湾には3隻の護衛艦がたまたま停泊していて…市内に は坊主頭に凛々しい水兵さん姿の海自の隊員が上陸し観光していました。こ うしてみると実に壮観で海軍らしい構図の写真になりました。 |
大きなヘリポートの向こうは美しい館山湾が広がっています。 |
真夏の猛暑の炎天下に耐火防護服を着て訓練される隊員の皆様には頭の下がる想いが いたしました。民主党政権で防衛予算が削減され…人件費も削られ…自衛隊の隊員がボ ーナスがカットで給与も減額だと聞き腰を抜かしました。民団や朝鮮総連に応援された民 主党の帰化議員が朝鮮半島の同胞や御主人様の支那の為に日本の防衛力を殺ぎたいと いう単純な理由で防衛予算の大幅削減と人員の削減を打ち出して実行している。支那が 信じられない程に軍事予算を注ぎ込み人民解放軍を近代化し尖閣を我が物にしようとして …一方、竹島が韓国によって不法武力占拠され実効支配が進み緊張している中で我国だ けが有事の際の防衛力を一方的に減らしている理不尽さに頭を抱えます。それよりも何よ りも災害救助でも活躍する自衛隊や消防に海保などは…人件費を削って絶対にいけませ ん。削るなら労組に入っている公務員を中心に特に…反日である日教組の人件費をメイン で大幅に削ってもらわなければならないと痛感しました。 |
旧海軍の車輛前章のように消防車の前に描かれた錨の海軍マークが嬉しいですね! |
貴重な放水銃の噴射を体験させていただきました。 |
此方の資料館は旧軍時代と戦後の自衛隊時代の歴史を納めています。この建物も司令部庁舎と 同じで昭和5年に完成したもので館空時代は兵舎として使われていたようです。 |
東北の大震災は勿論…PKOなど海外派遣を含めて様々な貢献をしてきた海自館山基地 の資料が展示されています。 |
旧軍のコーナーです。右上にあるのが零戦のセルモーターです。 |
右上は、空挺用の二式(テラ)小銃です。 |
海軍中攻隊之碑です。 |
建立は、昭和45年6月。海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ九六式陸上攻撃機は 当初九試中攻と称され、昭和 10年館山航空隊に配備され、心血を注いだ研究開 発と部隊訓練が昼夜を分たず行われたが、それは当時世界の最高水準をいくもの であった。往年の指揮所跡たる基地にその顕彰碑があったが、館山海友会と海上 自衛隊を中心とする後輩有志が再び建立したものである。 |
海上航空再興之地 記念碑です。正面に揮毫した航空集団司令の 大野 義高 海将は、海兵59期の元帝國海軍軍人でありました。 |
海軍落下傘部隊発祥之地 記念碑です。 |
建立は、平成5年11月。第二次大戦の海軍落下傘部隊は、館山航空部隊で 落下傘降下訓練を行い、昭和16年11月に戦闘に参加した。第一特別陸戦隊 は南国セレベス島のメナード、第三特別陸戦隊はチモール島のクーパンへ実 戦降下し、多くの戦死者が出た。後世の人々にこれを残し、再び戦争を繰り返 すことのないよう平和を願い、戦死された隊員遺族の有志が記念碑等を建立 した。 |
海軍航空写真分隊記念之碑です。 |
建立は、昭和60年8月。 海軍における航空写真術科は、およそ四半世紀に亘る歴史をもち 霞ヶ浦、横須賀両航空隊においてその教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎 海軍航空隊へと移行された。折しも大量教育の時期にあり、多くの若き練習生や予備学生 たちは、不抜の士気向上に燃え、日夜練成に励んだ。やがて教程を終え内外各地の任務に 就いたが、この地で学んだ人達にとっては忘れ得ない心の拠り所であった。 |
海自館山基地で殉職された自衛官の顕彰慰霊碑です。 |
第二海軍航空廠館山補給工場 |
現在は造船会社の所有の倉庫になっています。倉庫下部は英国積みの煉瓦です。 |
天井は空襲で三か所穴があるそうです。 |
倉庫の目の前はスリットがあり海である。またすぐ東側にも横須賀軍需部館山支庫 揮発油格納庫が残存し、今も地元の燃料会社が車庫として使用しています。 |
館空 水上機滑走台跡(水上機基地スロープ) |
かつては威風堂々と水上機が並んだ一大水上機基地でした。今は滑走台(スロープ)が 残るだけでヨットクラブや造船所などが…これを利用しています。 |
昭和20年9月3日の朝に米第8軍第11軍団の3500名が上陸用舟艇で初上陸した地点であります。 |
静かな湾内で波も少なく…水上機の発着には絶好の場所です。 |
滑走台は今も堅牢にしてまだまだ後50年使えそうです。 |
滑走台の中にある…この建物も定かではありませんが、当時の代物のような感じです。 |
左上は、鷹ノ島東側の海岸の現在は造船所やマリーナなどになっているエリア です。ここが水上機基地でスリットが今も確認できます。ここは以下の写真でも 有名な戦後米軍が初上陸した地点でもあります(昭和20年9月3日の朝)。 |
館空水上班の使用した水上基地のスリットを戦後は造船会社のこのように 利用し使っています。中小規模の漁船や船舶を扱っているようです。 |
横須賀海軍々需部館山軍需支庫揮発油格納庫 |
横須賀軍需部館山支庫の揮発油格納庫です。現在は民間の石油会社が使っています。 |
今尚、色濃く当時の建物や施設が残る軍都・館山には驚きました。 |
鷹ノ島の対側にある沖ノ島です。 |
館山基地の海側です。沖ノ島側より鷹ノ島側を撮影した写真です。 現在はこの辺りは釣り客の楽園になっているようです。下は此処か ら撮影した館山湾に停泊する海自の護衛艦です。 |
館山海軍航空隊の淹体壕 |
館空も敵の空襲に何度も晒されました。このような掩体壕が40基以上も作られましたが 現在、現存するのは…この一つだけです。因みにこの掩体壕は戦闘機用で零戦や紫電 が敗戦時、41機が本土決戦に備えて温存されていましたので何れかが格納されていた ものです。 |
館山海軍航空隊 赤山地下壕 司令部壕跡 |
この封鎖された出口は舌の別な出口です。 |
館山海軍航空隊 赤山地下壕跡の別の入口 |
館空のすぐ南側にの赤山(標高 60m)と呼ばれる小高い山があります。この山は 凝灰岩質砂岩などからできた岩山ですが…此処を殆どを素掘りで総延長約2km 近くになる巨大な地下壕要塞を形成していました。中には巨大な燃料タンク基地 跡などが残っています。丁度、上下の写真は、市が一般公開ている入り口の右手 奥にあたる出入り口で普段は御覧のように封鎖されて出入りできないようになっ ています。一般公開されている部分もほんの僅かな一部分になります。 |
現在、市が管理している地下壕入り口のメイン通路の右奥の出入り口になります。 |
洲崎海軍航空隊跡地の石碑 |
昭和18年6月に射撃兵器整備員教育を行う海軍航空隊が此処に誕生しました。 |
海軍の整備科教育は追浜空と洲崎空に分散されました。そして追浜空が機体整備で 洲崎空は兵器整備に特化しました。この洲崎空では兵器整備予備学生が育てられま した。今は海上技術学校の学生が船員を目指して頑張っています。 |
館山海軍砲術学校の遺構 |
何の変哲もない田舎のT字路ですが…此処が舘砲(館山海軍砲術学校)の正門前に 続くメインストリートであり小さな河川の橋が戦車橋です。そして赤信号の横の民家が かつては戦闘指揮所が置かれてその向こうが広い練兵場でありました。 |
戦車橋の袂に建てられた記念の柱が僅かにその痕跡を知らせてくれるのみです。 |
中学校に農家に農協の倉庫みたいな施設に畑が広がる農村風景です。ここだけを 見ていると…約70年前に此処が舘砲だったとは想像が出来ません。 |
施設跡で唯一、現存するのが烹炊場に隣接したボイラー室の跡です。 |
平和祈念の塔です。…以前は畑の中に単独で存在していましたが…いつの間にやら民家が 周りに数軒建っており…小さなモニュメントスペースが浮いて少し肩身が少し狭そうです。 |
芭 蕉 |
夏
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防水目的でカプセルにしたのでしょうが…材質に問題があったのでしょうか。建設から 僅か九年で劣化し細かいヒビで内部がよく見えない状態です。硫黄島の砂や石や銃剣 などの発掘品が収められています。…館山市で材質を替えて経年の変化にも耐えうる 形で展示して後世まで長く顕彰し慰霊の為に残したいもので考えて欲しいものです。 |
南方の戦地から取り寄せた物でしょうか…四一式山砲の朽ち果てた姿です。 |
20p噴進(砲)弾と右上は(簡易)木製ランチャーとの組み合わせです。 |
生存者も遺族も既に高齢で長い将来の管理の事まで考えてなかったのか真ん中の 噴水だったのか…池だったのか藻が浮いてボウフラがわいている状態でした。また 紙を使った掲示板や案内板の説明書は御覧のように浸水により悲惨な状態です。 こちらも市の方で管理を考えてもらいたいものですね。 |
海軍第一特攻戦隊 第十八突撃隊 第59震洋隊
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波左間漁港には敗戦末期に作られた特攻艇”震洋艇”の出撃基地の遺構が 残っています。その海に出す滑り台が左上の写真の↓の部分に当たります。 潮が満ちると右上の写真ように滑り台の部分は海中に没するが、潮が引くと 下の写真のようにかなりコンクリが朽ちてきているが…その全貌を表します。 |
敗戦が間近い昭和20年6月に第一特攻戦隊第十八突撃隊では、館山の洲崎と波左間に本土決戦に 備えて特攻艇”震洋”58艇を基軸とする第五十九震洋隊の配備を下命しました。同年7月、隊長 真鍋 康夫 海軍中尉 以下176名の若い隊員達が志願によりこの地に集結しました。既にこの波左間では 基地建設(震洋艇格納壕及び兵舎・燃料庫・弾薬庫など)が3月から開始され完成を見ました。真鍋 中尉以下の隊員は7月14日に波左間基地に到着。しかしまだこの時点で肝心の震洋艇が配備されて おりませんでした。そして敗戦2日前の8月13日、やっと6隻の震洋艇が基地に到着。すぐに爆薬を搭 載しいつでも出撃できる準備を整えましたが…終に出撃する事無く8月15日の敗戦の日を迎えました。 |
時間の関係で周辺にある震洋艇を格納し出し入れした七つの壕を見る事が 出来ませんでした。下の写真は海に突き出た滑り台に通じる道で震洋艇が 出し易いように約200mに渡りコンクリートで固められていました。右上の写 真にある山側よ格納壕より出しトロッコ等に乗せて運ばれ滑り台で海に出し て出撃させます。 |
尚、この第59震洋隊は、甲飛13期(土浦)と甲飛14期(滋賀)の若き予科練で編成 (川棚13次)され(20年6月25日)ました。いずれにして敗戦により無駄に若い命が 散らなくて済みました。 |
横浜海軍航空隊の遺構
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(日本航空株式会社 南洋航路の遺構)
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横浜市金沢区の海辺にある富岡総合公園に日本飛行機や神奈川県警第一機 動隊のある一帯は、敗戦まで横浜海軍航空隊の基地施設でありました。この 遺構を紹介します。(今回もbrassww2006様の御好意で現地取材と画像を提供 いただきました。) |
横浜海軍航空隊は、昭和12年3月竣工式が行なわれて発足しました。 日本で初めての飛行艇による航空隊であり、鉄筋コンクリート三階建て の兵舎と巨大な格納庫は、当時としては目を見張るものが有りました。 またこの隊は、最初の飛行艇訓練基地として久邇宮 朝融王 殿下が副 司令を勤めた事もありました。昭和16年の夏、風雲急を告げる南太平洋 に一大機動演習の為、出動した本隊は…その儘、戦闘配備につき12月 の運命の開戦と同時に戦争に突入しました。北はアリューシャン列島か ら南は、ガダルカナル諸島まで太平洋全域に活動の場を得て大活躍を 見せてくれました。やがて、ガダルカナル諸島のツラギ海峡のガブツ島 に本拠を置いて作戦中、昭和17年8月7日、米海軍機動部隊の襲撃を受 けて全滅の悲運に見舞われます。またこの地は、戦時中の日本映画の 「南海の花束」で有名になった日本航空株式会社の南洋航路の基地で もありました。ここは、横浜海軍航空隊の開設と同時に開業しています。 海軍の配属されていた九七式飛行艇と同型式の川口式飛行艇が使用さ れていて、殆ど見分けはつかなかったそうです。またその後、海軍では 新型の二式大艇が配備されこちらが主流になりましたました。戦後は、 敗戦と同時にこの基地は米軍の通信基地となりました。また、朝鮮動乱 の時やベトナム戦争では近くの日本飛行機株式会社と連携して補給基 地ともなりました。返還後は航空隊跡は三分割されて国家公務員住宅 や神奈川県の機動隊の訓練所ができ山を含んだ大部分は総合公園と なりました。アーチェリーの射場や運動広場の隣にはテニスコートもあっ て寳龍寺鼻の見晴し台は眼下に埋立地を見渡し東京湾を隔てて房総 半島の山々を望めます周辺住民の憩いの場となっています。 |
地図で見ると位置関係が良く判ります。 |
横浜基地での”晴空”です。二式大艇をベースに川西で作られた輸送艇です。 広大な敷地に後方の大型倉庫など当時の施設の片鱗が伺われます。 |
上は横鎮の”秋津”。下も横鎮所属の輸送艇”晴空”です。 |
富岡総合公園内にある鳥舟神社(浜空神社)です。元々は横浜海軍航空隊 の守護神として横浜伊勢山皇太神宮を勧請した御宮で当初は、鳥舟神社と 称されていました。大東亜戦争が激しくなって犠牲者が出るに及んで其の霊 を鎮める為、合祀されました。敗戦後、旧隊員を始めとした関係者の主催で 毎年四月の花見の頃と8月7日の本隊玉砕の日に慰霊祭が行なわれます。 |
神奈川県警第一機動隊の訓練場です。一際大きな倉庫があります。 これが二式大艇をも収納した第三飛行艇格納庫です。その大きさは 全長170m超、全幅60m超の巨大なものです。衛星写真からもその 巨大さがよく判ります、 |
第三飛行艇格納庫です。現在は全く新しく建て替えられており、当時をしのぶのは 同じ大きさのこの建物だけです。機動隊の正門を写しましたら、守衛に正門の名前 はうつすなと言われ画像を削除されましたとの事で…衛星写真から紹介します。 |
↑ 上の画像をクリックすると日飛(NIPP)の公式サイトが開きます。 日飛(NIPPI・日本飛行機)横浜製作所と航空宇宙事業部です。 日本飛行機といえば、海軍時代の航空機生産に端を発する由緒 ある航空メーカーです。日本初の有人ロケット局地戦闘機”秋水” を生産予定した事でも知られています。戦後は、自衛隊機や民間 機の生産・整備などを行い…今ではJICAの宇宙への技術を支え ています。川崎重工業の100%子会社で航空機全体の生産はせ ず主に部分品生産を行っています。敗戦までにここから九三式中 間練習機(赤トンボ)が約2,700機も生産されました。この他に… 九四式水上偵察機、特殊輸送機(兵員輸送用大型グライダー)、 を生産し、九六式陸上攻撃機、零式小型水上偵察機の尾翼や燃 料タンク、九九式艦上爆撃機、桜花の主翼など部分品を生産しま した。 |
この海岸より大日本航空株式会社の南洋航路が運用されました。 |
採用に至りませんでしたが…日飛十二試水上初歩練習機です。 |
赤トンボから有人ロケット戦闘機の秋水まで手掛けました。また この事は現在の宇宙産業の進出に繋がったのかもしれませんね。 |
実に優雅で美しい九七式大艇です。この横浜港からサイパン島やコロールと いった日本の委任統治下にあった南洋群島への長距離路線が新規に運航さ れました。 |
昭和16年12月の開戦とともに大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ 友好国のタイのバンコク線に合わせて、さらに香港やマニラ、ダバオや昭南など新 たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な 輸送手段となっていた。戦時下においては、大日本航空の機材や乗員の多くは、 開戦直前に陸軍航空部隊が編成した”特設第13輸送飛行隊”に編入され南方地域 への運航を担い、さらには”南方航空輸送部”に組織改編されました。 |
現在はスッチーも死語となりCA(キャビンアテンダント) と謂うようになりましたが…当時はエアーガールと呼ば れたようです。 |
大日本航空(株)〜南洋航路〜 |
半組立模型の九七式大艇(横浜海軍航空隊) |
野戦重砲兵第二聯隊の遺構
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(静岡県三島市)
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今回もお馴染みのbrassww2006様の画像提供で紹介させていただく遺構です。 |
三島市立北中学校の正門です。ここは旧野戦重砲兵第二聯隊の営門(東門)をそのまま 転用して使用しています。営門のわきには歩哨所も残されており…当時の様子が脳裏に 想像出来るようです。この裏の西側に三島市立北小学校がありそこには旧野戦重砲兵第 三聯隊の営門跡と歩哨所が残されております。 |
旧重砲兵第二聯隊も第三聯隊も共に大正8年に横須賀より移駐してきた 部隊です。この部隊は敗戦を松田で迎えています。最後の聯隊長は、 石田 政吉 陸軍大佐です。このお隣で日本大学三島キャンパスには同 聯隊の将校集会所や昭和天皇の御巡幸された際に観閲し記念に建てら れた御野立之碑があるようです。 |
当時の営門風景を写した古い絵葉書です。現在の歩哨所が今のコンクリ製と違い 明治・大正時代に特徴的な木製です。 |
歩哨所に謎の人物が…服装から旧日本兵の霊魂か…?? |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |