嗚呼、鎮魂のぺリリュー島 慰霊の旅

(天皇の島)




(マラカル湾の日本沈船とアラカベサン島の沈航空機)











ぺリリュー島(天皇の島)



こちらのページでは、ぺリリュー島の慰霊の旅の画像を
紹介しております。その旅の際にパラオの首都コロール
で予定に無かった日本沈船と撃沈された零式水偵など
へのダイビングでの画像、一般に知られていない無人島
での日米の戦場の画像などを紹介します。現在、パラオ
は、南の楽園の島としてダイビングのメッカで知られてい
ます。多くのダイバーや若者には、大東亜戦争の激戦の
地であるイメージは余り無いようです。



大小300の島よりなるパラオ共和国は、日本から南に約3000kmの
大海原に位置します。現在の人口は、約2万人。その殆どが首都の
あるコロール州に集中しています。硫黄島と並ぶ先の大東亜戦争、
最大の激戦地であるぺリリュー島は、僅かに人口600人に過ぎませ
ん。上の地図に有るように現在、世界中からスキューバダイビング
でダイバーがパラオを訪れます。数多くのダイビングポイントが存在
し美しい海がこの地を訪れるダイバーを魅了しています。
パラオ共和国が独立国として誕生したのは、1994年の事です。日本からは、季節により
日航の直行便が飛びますが、多くはコンチネンタル航空でグアムでトランジットして約2
時間で首都コロールに着きます。パラオは、美しい珊瑚礁に囲まれた、大小の島々から
成りますが、それらを全て集めても、淡路島くらいの大きさで小さな国です。アメリカの
信託統治領から独立したパラオ共和国ですが、敗戦までは、我国の国連委任統治領で
ありました。戦前は、南洋庁が統治しておりました。前のクニオ・ナカムラ大統領は、名前
からお判りのように日系人です。非常に親日の国であり、ぺリリューでは、今も日本名を
持つ現地の方がたくさん居られます。


ぺリリュー島の戦闘で戦死した日本軍将兵は、1万22名、米側は
約8900人が戦死した。日本軍守備隊は、兵力14倍、航空機200
倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の敵米兵に対し良く戦い、全
く補給なしに73日間の持久戦を行い、この島を守りました。当初、
2日乃至3日と鼻歌混じりに話していた米軍は、その闘い振りと精
強さから米軍は、ぺリリュー島を”天皇の島”と呼びました。

後にニミッツ提督は、その著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー
島の戦闘に相当のページを割いて、次のように結んでいます。

”ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史におけ
る他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約
四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空
権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出
して、この島を占領したことは、今もって疑問である”


コロール島の早朝の画像
高速ボートでコロールを出発!…約一時間
でいざ念願のぺリリュー島へ!

ぺリリュー南端の沖合いから見た平和公園
左の画像は、サウスドックの入り口とオレンジビーチ、
右はサウスドックの手前で米軍が上陸し荷揚げに使
った朽ち果てた鉄の桟橋の後です。
サウス・ドックです。下の朽ち果てかけた鉄の塊は、
米軍が上陸時に桟橋として荷揚げ用に作ったもの
です。


ぺリリュー南端から見えるアンガウル島
島の北端にあるノース・ドックです。サウス・ドック
から車で僅かに15〜20分程度の近さです。右下
は、島唯一のレストラン”イエロー・ウォール”です。




ぺリリューの日没は早い
ぺリリュー島のノースドックの夕焼け…外灯の
無い島に落ちる陽の美しさは、格別です。







嗚呼、鎮魂のぺリリュー島



〜ぺリリュー島の慰霊〜







◆34人の洞窟◆




敗戦後も2年半にも渡り34名の将兵が隠れて戦闘を
継続していた洞窟です。昼間は洞窟に身を隠し、夜
間になるとゲリラ戦を展開しておりました。一名が投
降し敗戦が判明し日本の家族等に手紙などを書いて
もらい、やっと敗戦を信じた全員が投降しぺリリュー
島の戦いの全てが終焉しました。




山口永少尉以下、陸海軍の生き残り兵三十四名






◆旧海軍の野戦病院(現、戦争博物館)◆




旧海軍の病院で今は、戦争博物館
になっています。
建物には無数の弾痕が残ります。相当にしっかりした
建物で今でも十分に機能しています。



広島から送られた被爆敷石の観音像が彫られおり、
建物横に安置されています。
以下は、博物館内部の展示品

錆びて朽ちかけ始めた重機関銃や対空機関砲
などが多数展示されています。

右の爆弾は、海軍の九九式六番通常爆弾もしくは、
九八式二十五番陸用爆弾と思われます。

院内の壁にあった電話機です。屋内にあったので
保存状態がとても良いのがわかります。昭和18年
6月に日本電気(株)の製造で海軍の刻印がありま
す。











◆オレンジ・ビーチ◆




当時、日本軍は、北から『イシマツ』、『イワマツ』、『クロマツ』、
『アヤメ』、『レンゲ』の五大陣地を構築し水際での撃滅戦に備
えました。昭和19年9月15日にニミッツ米北太平洋艦隊司令長
官隷下の機動部隊と上陸軍は、この西海岸といわれる場所に
水陸両用戦車を先頭にして上陸を開始しました。ここを守備し
た日本兵は、約1400名と言われています。
西海岸といわれた、この上陸地点では、米兵約1000名が
死傷し米戦史上稀に見る激戦となりました。このビーチは、
両軍兵士の血でオレンジ色に染まった事から通称”オレン
ジビーチ”と呼ばれるようになりました。
この碑は、増援に来た米第81師団の建てたものです。
11月24日をもってペリリュー島は、玉砕したものとされて
おりますが中川守備隊司令官の最期や命令を知る術もな
かった西海岸守備隊は、その後も頑強に抵抗を続けまし
た。米軍から武器弾薬から食糧や衣類までを略奪し神出
鬼没のゲリラ戦を継続していました。これが最初に紹介し
ました山口永 少尉以下、陸海軍の生き残りの将兵34名
でした。彼等は、敗戦後の昭和22年4月22日まで、米軍
上陸以来2年半に渡り戦闘を継続したのであります。この
生残り兵の大半が、最初の米軍が西海岸に上陸した際、
最も果敢に戦った猛者達でありました。米軍は、占領後に
激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました
。今もこの海岸は、オレンジ・ビーチの名前で呼ばれてお
り、その沖合いのダイビング・ポイントもオレンジビーチと
呼ばれています。






◆九五式軽戦車◆




砲塔は、吹飛ばされてありません。正面の
車載機銃の銃眼があります。

両側のキャタビラは、しっかり残っています。恐らく
砲塔を打ち抜かれ内部で爆破したのでしょう。底も
抜けています。
戦車の後部に搭載されていた予備のキャタビラ
が妙に新しいのが印象的です。
車載機銃の搭載部分を内部より撮影した物です。
正面にあるライトです。内部に電球は、割れていますが
金属とフィラメント部分が残存しています。
ぶれてしまい掲載しませんでしたが、車載機銃
の右側部分の内部に35o戦車砲弾を搭載した
砲弾ラックがありました。

米軍が上陸を開始して9時間後、ゆっくりと地歩を固めつつある中、
中川大佐は反撃を命令。日本軍には、虎の子の戦車が17輌、配備
されていた。この虎の子の戦車部隊は、中崎に待機していて、反撃
命令が出るや海軍飛行場を横切り、天山の麓に終結し、午後4時30
分に海側の米軍に向かって出撃を開始する。戦車の上部にロープが
張り巡らし、歩兵は、これに掴まり跨って進撃した。何と1輌に2個分
隊が取り付き斬込隊として米軍陣地に突入しました。しかし、米軍は
各種砲などの重火器とてM4シャーマン戦車を浜辺に陸揚げした後で
した。この中に17輌の戦車部隊と斬込隊が突入しました。対戦車砲
やM4シャーマン戦車の火砲によって火達磨となりながらなだれ込む
様に米陣地に突入し米軍を大混乱に陥れたものの、戦車は悉く撃破
され斬込隊の反撃も成功しませんでした。

九五式軽戦車の側面と正面図
三菱重工製の九五式軽戦車は、当初、30o以上の重装甲を
求める戦車部隊側と速度と機動性を重視する騎兵部隊側で
意見が真っ向から対立し、結局は、機械化部隊の機動戦車と
言う事で開発された為、装甲は、12oの薄いままで制式採用
され大東亜戦争に突入、敵のM3軽戦車の装甲も撃ち抜けず
、M3の37o砲は、九五式軽戦車の12oの装甲を簡単に撃ち
抜きました。…昭和11年から18年までに約2378輌が生産さ
れました。
マレー作戦時の戦車第一連隊の九五式軽戦車
全長:4.30m、全幅:2.07m、全高:2.28m、全備重量:7.70t
乗員:3名、最大速度:40km/h、航続距離:250km
武装:九四式37o戦車砲または九八式戦車砲×1、九七式
7.7o車載機銃×2、携帯砲弾数:120発、機関銃弾:3000発
左の画像は、ありし日の九五式軽戦車。右は、ぺリリュー戦で
各坐させられた九五式軽戦車。手前に日本兵の死体が二体、
横たわっています。






◆旧日本海軍司令部跡◆




正面のイメージからは判りませんが、かなり
立派な建物です。この入り口の右手には、
防空壕があります。

一階と二階部分に一トン爆弾で大きな
穴が空いているのが判ります。

今は、駆け上がるものもいない…司令部
の広い階段。
炊事場や風呂場など水回りの生活空間
も残っています。


分厚いコンクリと厚い鉄の扉で囲まれていた部分は、
破壊を免れていたので明かりが差さず昼尚、暗いス
ペースとなっています。恐らく砲弾や弾薬などを保管し
たスペースと思われます。
司令部の裏手には、今も幾つもの戦車用の掩体壕が
巧妙にジャングルの中で偽装されて存在しています。
このような戦車用の掩体壕は、
島の各所で見受けられます。
ここでも線香と日本酒を手向け手を合わせました。右手の
車輪は、自転車で無く、リヤカー用のようです。
司令部の壁にあったヒューズボックスの一部と思われます。






◆旧海軍 発電所跡◆




野戦病院もそうですが、この発電所も1日5万8千発
の艦砲射撃と反復される艦載機の空襲から破壊を
免れている事は、奇跡としか思えません。

分厚いコンクリートに鉄の扉と窓の跡が、その
防護力を伺わせます。ここも壁面に残る無数の
弾痕と爆撃の小穴が痛ましさを感じます。






◆旧海軍飛行場(現在も小型機専用で
     使用中のぺリリュー飛行場)とガドブス島◆




当時は、2つの滑走路があり、丁度、数字の4の字
に見えるように存在していました。今は、一本だけ
がセスナ用に残って使われています。
ガブドス島には、小型機用の滑走路が一本存在しました。
ぺリリュー島の海軍飛行場は、1200m×100mの主滑走
路が2本あり、主に一式陸攻と零戦が駐機していました。
特にサイパン陥落後は、東洋一の飛行場と言われもしまし
たが、米軍の来襲時には、僅か8機の作戦機しか存在しま
せんでした。8月下旬、初めにニューギニア方面の各基地か
ら米軍は、爆撃機をよこしました。9月3日からは、2群の空
母群からの艦載機の猛攻が開始されパラオ地区も含めた
日本軍地上施設に猛烈な重爆撃が加えられました。12
日からは、空襲に加え米艦隊による艦砲射撃がなされるよ
うになりました。9月19日に米軍の戦闘機が1機ついにぺリ
リュー飛行場に着陸。9月24日以降、夜間戦闘機が逐次使
用されるようになりました。
当時のぺリリュー島の航空写真です。手前に4の
字に見えるのが海軍航空隊の飛行場でした。
また飛行場は、ぺリリュー島北部のノースドック
(北桟橋)から橋を架けて渡れたガドブス島にも
ありました。現在は、無くなりました。また橋も爆
撃により破壊されて現在は、橋のコンクリの基礎
の部分が残るのみです。
対岸がガブトス島。9月17日の早朝、アンガウル島に
米軍が上陸を開始。日本軍の守備隊は、一個大隊千
二百名。対する米軍上陸部隊は、二万一千名が攻め
寄せました。約20倍もの敵を相手に守備隊は、1ヶ月
に渡り激戦を継続し遂に玉砕。この島の日本兵の生
存者は、僅かに50名程でしかありませんでした。
米軍の爆撃で破壊される前は、日本軍が建設したコンクリート
の橋がガブトス島まで掛かる筈でした。この橋が完成したらガ
ブトス島の飛行場から到着した人間は、車で北の桟橋まで来
れたのですが、今も完成を見ない橋の橋脚だけが残っています。
右の画像は、ノース・ドック前に島内唯一存在
するレストランとホテルである。
ノース・ドック周辺にも多くの
洞窟壕が存在しています。
北の船着場(ノース・ドック)の対岸に
見えるのがガブトス島である。






◆ぺリリュー島の防空壕◆




N.O様がこの画像を提供して下さいました。






◆零式艦上戦闘機◆




旧海軍飛行場の近くのジャングルに撃墜した零戦。

コクピット内部。左は、操縦桿があった辺り。

右翼の翼内タンクの燃料注入口と思われます。
右は、主脚を動かすモーターでしょうか!?
左は、機首部のエンジンの脱落した痕。
主脚が主翼から出たままです。恐らく迎激戦で離陸してすぐに
撃墜されたものか駐機中に地上撃破されたものと思われます。


戦艦榛名様の提供画像です。米軍が占領直後に撮影された
零戦の写真です。機首のエンジンは脱落していますが、全体
の原型はまだ保たれています。私が現地で撮影した零戦とは
違う感じはしますが海軍飛行場で使用されていた零戦です。
翼端から32型と思いましたが拡大してみると翼端が単に吹き
飛んでいるだけのようですので22型と思われます。垂直尾翼
の31-130の番号がはっきり読めます。第331航空隊と判りま
す。この331空は佐伯で昭和18年7月に佐伯で開隊した当初
は零戦と天山の混成部隊でしたが…後に零戦だけの戦闘機
隊に移行します。この部隊が活躍したのは主に蘭印でスマト
ラ島サバン飛行場を中心に戦いました。昭和19年2月末にペリ
リュー島に移動して進出した零戦が38機。3月に本隊が改編
され253空の戦闘第603飛行隊となりメレヨン島へ派遣され、
残った部隊は岩国にて331空の戦闘第309飛行隊として再編
され岩国から再びスマトラ島サバンへ昭和19年3月に再進出
します。一方、ペリリュー島は昭和19年9月に米軍の攻撃が開
始されます。当地には西カロリン航空隊ペリリュー本隊(司令:
大谷 龍蔵 海軍大佐)がありましたが、航空機が無い名前だけ
の航空隊で陸戦隊として米軍と地上戦で戦いました。この331
空の130番機は昭和19年2月末に移動してきた331空の零戦
38機のうちの1機で不調機で現地に残された零戦と思われま
す。






◆海軍 12口径 短20cm砲◆




標高約80mの高地帯を水戸歩兵第二連隊に因んで”水夫山”
と名付け、ここに最後の拠点を築きました。砲の前のスロープ
には、戦前のボーキサイト採掘に利用された日本のトロッコの
レールがあります。この洞窟の奥は、更に掘られて長く広がり
っています。この砲は、大東亜戦争の末期に海軍が20cm砲に
しては、非常に砲身の短い砲を作り、商船などの護衛用、また
は敵上陸用舟艇等への攻撃用に作られたものです。砲身が薄
いので装薬を少なくして発射した為、砲弾が遠くにへ飛ばず威
力自体は、強い火砲では無いものの上陸部隊迎撃用としては
十分な威力を発揮しました。日本軍は、こうした高地の斜面に
無数の洞窟陣地を無数に設営し米軍の来襲を待ちました。これ
ら陣地の入り口は、四角い鉄扉が取り付けられており、敵が迫
ると鉄扉が開き中から砲身が現われるや否や火砲が火を吹き
打ち終わると鉄扉が閉まり、中々、米軍の火砲での制圧が難し
い砲陣地であったと言われています。
米軍がぺリリュー島に叩き込んだ艦砲射撃の砲弾は、1日
に約5万8千発と言われますが戦後60年を経てもこの洞窟
の砲陣地は、健在なままです。










砲の周囲には、壕が深く掘られ要塞と言う
言葉が脳裏に浮かびます。


こちらの2枚は、N.O様が画像を提供して下さいました。






◆建立碑近くの地中火砲の壕とM4シャーマン戦車◆




一番右端の画像は、N.O様が提供して下さいました。






この壕のように砲が仕込まれて下のように先の地中
から砲身だけが短く突き出て草木で巧妙にカモフラー
ジュされ、敵の戦車や装甲車輌が来ると底面の装甲
の弱い部分を撃ち抜き撃破したようです。
砲のある部分の壕は、爆破されたのか土で
埋まっていますが右のように砲口は、地中よ
り突き出ています。こうした砲撃は相当に米
軍に対して効果を上げたようです。


このM4シャーマン戦車は、8月18日その下の画像
の撃墜されたF6Fヘルキャット搭乗員を助ける為、
近ずいたそうですが、上記のような地中から突き出
した日本軍の砲により撃破され転倒したそうです。
米軍の戦車兵は、全員戦死したそうです(一部の
記載では、日本軍の地雷を踏んで各坐した事にな
っていますが、現実には砲でやられています。




今まで日本軍の悲惨な姿しか見てこなかった
私には、こうした米軍機や上記のような米戦車
が撃破されている姿を見ると、とても不謹慎な
事ですが急に嬉しくなりました。
米海軍艦載機のグラマンF6Fヘルキャット
の撃墜された残骸です。








◆撃破された米軍水陸両用戦車(LVTA1)◆




日本軍の戦車の約5倍の威力を持つと
言われた水陸両用戦車(LVTA1)。
昭和19年9月15日AM5:30、米海兵第一師団は、
猛烈な砲爆撃の掩護を中、約300輌の水陸両用
戦車に分乗し西浜に迫った。日本側がサンゴ礁と
海岸線の中間に敷設した機雷の為、米軍は一旦
進撃を停止しましたが、残存のLVTを集合し再統
制して煙幕を張り、それにに乗じて再び上陸を決
行しました。
西浜北部(西地区)には、富田大隊の635名が陣取り、南部(南地区)には、
千明大隊の750名が布陣していました。いずれも関東軍最強と言われた現役
兵で、20〜23歳の戦意も士気も高い甲種兵でありました。そこに米軍上陸部
隊の二個師団約4万2千名が襲来しました。日本軍側の各陣地は、一個小隊
の守備兵が配置されていただけで、各陣地の正面に米軍は、一個大隊約千
名を最小単位として攻撃を開始しました。水際の日本側守備隊は、米上陸部
隊を充分に引きつけた上で、天山々上や中腹の砲兵陣地からの砲撃と共に
米軍を次々に撃破し、無敵関東軍の精強現役部隊の意地を大いに示しました
同、千明大隊の正面に来襲した米軍の損害は、上陸用舟艇60数隻、LVT
A1が30両、人員約千名でありました。西地区、富田大隊の正面に上陸した海
兵隊も損害は、約1750名に達しました。
しかし段々に物量に勝る米軍は、後
続で上陸した米軍部隊との戦闘で日本軍は、消耗し個別撃破され分散する憂
き目と相成りました。米軍は、9月15日のうちに飛行場南端まで進軍しました。


この撃破されたLVTA1の前には、米軍による捕虜収容所の
フェンス跡が残っていました。


上の2枚の画像は、N.O様が提供して下さいました。






◆中川大佐 終焉の洞窟(最後の司令部壕)◆




最後の拠点となった司令部洞窟です。11月24日に軍旗を
や機密書類を焼却した中川大佐は、パラオ・コロール宛に
最後の電文を打電(有名な『サクラサクラ』である)。この後
この洞窟の周辺で中川大佐、村井少将、飯田中佐が自決
しました。残る司令部要員55名の将兵は、決死隊を編制し
米軍と最後の交戦を行い玉砕しました。
24日の全軍玉砕の時に中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた
村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自
決。三人の見事な最期に続けと、最後の決死隊が組織され、根本甲子郎
陸軍大尉以下満身創痍の55名は、夜叉の如く米軍に向けて突撃しました。
米海兵隊公刊戦史には、”日本の斬込隊は、米軍の包囲圏を突破できず、
24日の夜から27日7時頃まで米軍と激しく交戦し全員玉砕した”と記録され
ております。
軍旗も機密書類も焼却した事を意味する最後の電文”サクラ・サクラ”が
パラオの司令本部に届いたのは、24日の16時の事でした。この六文字
の電文は、ペリリュー守備隊約1万名が桜花の如く散ったことを意味する
のものでした。
11月22日に中川大佐はがパラオ地区集団参謀長 多田督知大佐 宛
に打った訣別の電報は以下の通りでした。

 昭和十九年、十一月二十二日、午前七時四十分、ぺリリュー島から
 パラオ島へ打電。

 「通信途絶ノ顧慮大トナルヲ以ッテ最後ノ電報ハ左の如ク致シ度
  承知相成度。

一、軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ。

二、機密書類ハ異状ナク処理セリ。

三、地区隊ハ本二十四日以降、統一アル戦闘ヲ打切リ、残ル健在者
   約五十名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ
   邁進セシム。重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム。

四、将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱、皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル。集団ノ益
   々ノ発展ヲ祈ル。

 右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度(原文のまま)」

    十一月二十四日、午後四時打電。

                    「サクラ サクラ」

水戸第二歩兵連隊を率いて死闘を指揮した中川州男 陸軍大佐。
僅か1万名の守備隊にて4万の米軍を釘付けにして日本軍を上ま
る犠牲を出させた。天皇陛下の御嘉賞は実に9回に及んだ玉砕後
二階級特進して陸軍中将に列せられた闘将です。
関東軍最強兵団といわれた第十四師団を指揮した
師団長 井上貞衛 中将の佐官時代。右は、参謀長
の多田督智 大佐。第十四師団は、パラオ本島、ぺ
リリュー島、アンガウル島、ヤップ島の防衛にあたり
ました。
司令部の洞窟を守るように周辺には、無数の
洞窟壕が掘られてあります。
ぺリリュー守備隊の最高司令官である中川大佐は、
戦死後に二階級特進して陸軍中将となりました。墓
は、郷里の熊本県にあります。


上の画像は米軍側の当時使っていた資料との
事です。画像提供は戦艦榛名様です。






◆ぺリリュー神社◆




昭和57年5月に旧ぺリリュー神社の跡の先に青年神職南洋群島
慰霊巡拝団(清流社 会長・滑川 裕二氏主催)二十名がペリリュ
ー神社を創建しました。日本から運搬した材料を使い島民の多大
なる協力を得て、僅か十日間の日程で完成したそうです。御祭神
は、天照大神と戦死者一万有余名の”護国の英霊”となります。
神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長に
よって創建の趣旨が記載されており、。右の掲示板には、戦闘の
経過が要約され、米国公刊戦史に載っているニミッツ提督の有名
な一文で結ばれています。

『諸国を訪れる旅人達よ。この島を守る為に日本軍人達がいか
 に勇敢な愛国心を持って戦い、玉砕したかを伝えられよ 
               
        米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ 海軍大将 』









Tourists from every country who visit this island should be
told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers
who all died defending this island.






◆ブラッディー・ノーズ・リッジ・モニュメント◆




米国によって日米双方の戦死英霊の為に建てられたもの。
島内で最も高台にあり、ぺリリュー島の360度大パノラマを
見る事が出来ます。碑はオレンジ・ビーチのものと同じで隆
起サンゴの死骸です。








◆平和記念公園◆




戦後、日本政府の援助で作られたぺリリュー島
の最南端にある公園です。目の前に広がる海は
、ダイブポイントで世界的にも有名な”ぺリリュー・
コーナー”です。








沖合いに見えているのがアンガウル島です。



南溟の侍 〜ペリリュー島武闘伝〜

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◆アンガウル島◆



ここも激戦の島でした。今は、人口僅かに
160名の小さな島です。
1910年代にドイツは、この島のリン鉱石の採掘を開始
しました。第一次大戦が始まると日本軍は、このリン鉱
石を求めてパラオを占領。日本がリン鉱石を採掘し続け
ました。上の画像の右は、リン鉱石の乾燥炉の跡です。
上は圧倒的な物量で物資を揚陸させる米軍
下は、日本軍守備隊の陣地を攻撃している
米兵です。
このアンガウル島での戦いは、実に一方的なものと
なりました。この島の日本軍の指揮官は、アンガウル
地区隊長の後藤丑雄 陸軍少佐(第一四師団歩兵第
五九連隊第一大隊長)で総兵力は、約1200名でした
が、この他に島民183名が自発的に日本軍に協力・
支援して参加しました。後に後藤少佐がこの島民達に
米軍に投降し保護を求めるように説得し、彼等は、無
事に助かりました。米軍は、この僅か1200名の小部隊
しか居ない南北約4km足らずの狭いアンガウル島に、
第81歩兵師団、約21000名に火砲50門、戦車50輌を
揚陸させ襲いかかりました。これが昭和19年9月17日
の事です。最初の攻撃は、約2000人規模の米軍の上
陸部隊でした。水際作戦で上陸を阻む事が出来ません
でしたが、その日の夜に夜襲を掛けて海岸付近まで米
軍上陸部隊を後退させました。しかし圧倒的な物量と
戦力差の中、33日間を守備隊は、戦い抜き…10月19
日に最後の玉砕突撃を敢行し指揮官をはじめ殆どの将
兵が戦死し、日本軍の組織的な戦いは、終わりました。
守備隊の被害は、戦死約1150名、戦傷(生還者を含)
が約50名とまさに全滅です。対する米軍側は、戦死が
260名、戦傷1354名、精神に異常をきたしたもの244
名を数えるにとどまりました。






平成27年(2015年)4月8日〜9日とかねてより
パラオへの慰霊訪問に強い希望をお持ちしておら
れました天皇皇后両陛下がパラオを訪問されまし
た。行き帰りは羽田から飛行機でパラオ入りされ
宿泊は警備の点も大変なので現地に先回りして
パラオ入りした海上保安庁の大型巡視船”あきつ
しま”(下の画像)に宿泊されました。”あきつしま
”は両陛下をお迎えする為に特別に改造を施し御
召艦のような形で陛下をサポートしました。そして
ペリリュー島へ移動する時は搭載のヘリで短時間
で移動し、御高齢の両陛下の御身体に障りが無い
よう配慮されておりました。

               パラオご訪問ご出発に当たって


平成27年4月8日(水)
  パラオご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)

 本年は戦後70年に当たります。先の戦争では,太平洋の各地においても
激しい戦闘が行われ,数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地
に赴き,帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます。

 私どもはこの節目の年に当たり,戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつ
つ,パラオ共和国を訪問いたします。

 パラオ共和国は,ミクロネシア連邦,マーシャル諸島共和国と共に,第一
次世界大戦まではドイツの植民地でしたが,戦後,ヴェルサイユ条約及び
国際連盟の決定により,我が国の委任統治の下に置かれました。そして
パラオには南洋庁が置かれ,我が国から多くの人々が移住し,昭和10年
頃には,島民の数より多い5万人を超える人々が,これらの島々に住むよ
うになりました。

 終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で
日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで,この戦い
において日本軍は約1万人,米軍は約1,700人の戦死者を出しています。
太平洋に浮かぶ美しい島々で,このような悲しい歴史があったことを,私
どもは決して忘れてはならないと思います。

 この度のパラオ共和国訪問が,両国間にこれまで築かれてきた友好協力
関係の,更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは,この機会
に,この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに,パラオ国の人々
が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に,慰霊碑や墓地の清掃
遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し,大統領閣下始めパラオ国民
に,心から謝意を表したいと思っております。

 この訪問に際し,ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御
夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり,パラオ国大統領
御夫妻と共に,ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。

 終わりに,この訪問の実現に向け,関係者の尽力を得たことに対し,深く
感謝の意を表します。



                     パラオ

平成27年4月8日(水)
  パラオ国主催晩餐会における天皇陛下のご答辞(ガラマヨン文化センター)


 戦後70年に当たる本年,皇后と共に,パラオ共和国を訪問できましたことは
誠に感慨深く,ここにレメンゲサウ大統領閣下のこの度の御招待に対し,深く
感謝の意を表します。今夕は,私どものために晩餐会を催してくださり,大統領
閣下から丁重な歓迎の言葉を頂き,ありがとうございました。また,この訪問に
合わせ,モリ ミクロネシア連邦大統領御夫妻,ロヤック マーシャル諸島共和
国大統領御夫妻がここパラオ国を御訪問になり,今日,明日と続き,私どもと行
動を共にしてくださることも誠にうれしく,心より感謝いたします。

 なお,この度の訪問を前にして,ミクロネシア連邦を襲った台風の被害を耳に
いたしました。ここに犠牲になられた方々を悼み,御遺族へのお悔やみをお伝
えするとともに,被害を受けた大勢の方々に心よりお見舞い申し上げます。地域
の復興の一日も早いことを念願しております。

 ミクロネシア地域は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領
になりました。パラオには,南洋庁が設置され,多くの日本人が移住してきました
。移住した日本人はパラオの人々と交流を深め,協力して地域の発展に力を尽く
したと聞いております。クニオ・ナカムラ元大統領始め,今日貴国で活躍しておら
れる方々に日本語の名を持つ方が多いことも,長く深い交流の歴史を思い起こさ
せるものであり,私どもに親しみを感じさせます。

 しかしながら,先の戦争においては,貴国を含むこの地域において日米の熾烈
な戦闘が行われ,多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に,安全な場所
への疎開を勧める等,貴国民の安全に配慮したと言われておりますが,空襲や
食糧難,疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地に
おいて,私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し,その遺族の歩ん
できた苦難の道をしのびたいと思います。

 また,私どもは,この機会に,この地域の人々が,厳しい戦禍を体験したにもか
かわらず,戦後に慰霊碑や墓地の管理,清掃,遺骨の収集などに尽力されたこと
に対して心から謝意を表します。

 ミクロネシア三国と日本との外交関係が樹立されてから20年以上がたちました。
今日,日本とこの地域との間では漁業や観光の分野を中心として関係が深まって
きていることは誠に喜ばしいことです。今後それぞれの国との間で一層交流が盛
んになることを願ってやみません。

 ここに杯を挙げて,パラオ共和国大統領閣下,令夫人,ミクロネシア連邦大統領
閣下,令夫人,及び,マーシャル諸島共和国大統領閣下,令夫人の御健勝とそれ
ぞれの国の国民の幸せを祈ります。




私がダイビングでパラオへ毎年のように出かけて何度かペリリュー島
へも足を延ばしたのは…もうかれこれ10〜15年前の事になります。
当時は…宿は一件だけでダイビングサービスも島の中には殆どなく
日本人客の訪問者は数名程度でダイビング目的と釣り目的、または
両方の目的で来る方がパラパラの状態でした。不便極まりない場所も
40代までの若さがあれば全く苦にならず、逆に楽しいものでしたが…
御高齢の方には不便で辛い場所だったと思います。昔と違い…今は
島の中にもダイビングショップや宿泊施設が整えられているようですが
…陛下のパラオ訪問は特に問題に思いませんでしたが…ペリリュー島
はどうだろう?…と危惧いたしておりました。桟橋を上がるにしてもボー
トによっては段差がかなりある事や舗装路が少なく電燈は全くないの
で…慰霊目的で来られる遺族の方も高齢の方は一苦労されて宿泊は
せず、一巡してコロールへ船で戻るケースをよく目にしました。今回、特
別に御召艦仕様に改造された巡視船”あきつしま”を海上ホテルにして
搭載の大型ヘリでの移動は…よく考えられた素晴らしいものだと感心し
ました。…あの場所であの海へ深々と頭を垂れられる両陛下のお姿を
見ていると…自然と涙がでました。…しかし日本に日本人として生まれ
て本当に良かったと実感し…改めて御高齢の両陛下の平成の御代が
昭和時代のように…末永く続く事を願うばかりです。


                     皇紀二六七五年六月

                                  憂國烈士