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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTd















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








古賀 徹治 陸軍少将の軍帽二点と写真




古賀少将の佐賀にあるの実家が人手に渡るという事で買取に
行かれたようですが、これ等の品と略帽以外は、軍服もどうし
ようも無いほどボロボロだったそうです。実に残念な話です。
四五式の軍帽とチェコ式の九八式軍帽の二点です。
軍帽の箱は、東京市谷の田屋帽子店とあります。




古賀少将の佐官時代(少佐でしょうか)の
写真と右が少将の大礼服の正装姿です。
   古賀徹治 陸軍少将

大正13年2月14日 陸軍大佐・新発田連隊区司令官
   14年8月 7日 第二師団司令部付(新潟医大)
昭和 2年7月26日 歩兵第四八連隊長
    4年 8月 1日 陸軍少将・熊本教導校長
    6年10月1日 歩兵第三七旅団長
    8年3月18日  待命
      3月31日  予備役
昭和8年10月12日撮影と記載され表紙に
T・スヤマ 佐賀のローマ字が読めます。同
年の3月31日に予備役となっておりますの
で郷里の佐賀で記念に撮影された物と思わ
れます。







東京防衛軍 第三警備旅団長
     原田 棟 陸軍少将の軍衣袴等




原田棟 陸軍少将の九八式の冬軍衣袴です。
右胸に歩兵科将校用山型胸章を取外した跡があります。
両襟に襟階級章を取外した糸が残っています。また
左胸には、略綬板取付用の糸掛りがあります。


冬用の軍衣と短袴は、共に美品です。
閣下は、かなり大柄な方だったようです。


手持ちの九八式少将の襟章と略綬をイメージで
合わせてみました。実際には、三式軍衣が使用
された昭和18年頃ですが、原田閣下の少将へ
の昇進は、19年3月1日です。九八式軍衣は、昭
和13年頃より使用されていますが、14年3月9日
に大佐に昇進しておりますので中佐から大佐時
代に使用されたものと想像します。






こちらも軍衣は、夏用で肩に通例肩章ループが
付いる美品です。短袴の方は、こちらも冬用で
きれいな保存状態の良い品です。




九八式夏用軍衣ですが、こちらのみ原田のネームが
あります。こちらも手持ちの九八式少将の襟章と略綬
をイメージで合わせてみました。


警備第三旅団は、第12方面軍隷下の東京防衛軍の
管轄下にありました。東京渋谷を本拠地として新造の
歩兵6個大隊に2個独立工兵大隊これに旅団通信隊
よりなる本土決戦の帝都防衛部隊でした。


同時に出た原田閣下の縁の品です。これら
が無くネームタグも無ければ持主が判らない
品となってしまいます。
シベリア出兵の際の記念品と写真です。








26歳、中々男前の青年将校です!!
歩兵第22連隊の連隊ナンバーが襟から
読めます。二十二連隊は、松山が編成
地の連隊ですが、写真館も松山の記載が
共にあります。



原田棟 陸軍少将
  (廣島出身、陸士27期、歩兵科)

昭和14年 8月 1日  陸士教官
              任陸軍大佐
   15年 5月 8日  兼憲兵学校教官
   15年12月 2日  歩兵第215連隊長
   18年 6月10日  仙台予備士官学校長
   19年 3月 1日  任陸軍少将
   20年 2月12日  警備第三旅団長

以下は、以前入手した原田少将の外套です。
原田閣下の三式外套です。


襟の階級章が取り外された跡があります。
手許の少将階級章を合わせてみましたが、
三式少将と取外跡は、大きさがあいません。
九八式少将階級章を合わせると御覧のよう
にピッタリ一致しました。どうやら三式袖線
を入れて階級章は、九八式の物を使用して
いたようです。
どうも三式袖線は、佐官時代に今より低い位置で
二本線を入れていたようです。三線目を加線し前
より高い位置に前の二線も外して三線としたように
見えます。テーラータグは、東京牛込の明治屋です。
原田少将は広島出身、シベリア出兵よりの軍人で。
昭和15年、高崎編成の歩兵第215聯隊連隊長と
なります。この外套は、その連隊長時代のものらし
く、二本の線が加線されているようです。215聯隊
は第33師団傘下で、インパール作戦に出動します。
原田少将は、18年6月に仙台教導学校校長、18
年8月に仙台予備士官学校校長、20年2月、本土決
戦の警備第三旅団旅団長で敗戦を迎えています。
外套は高級なウール生地、頭巾に2―3虫穴があ
る以外は、虫喰も無い状態。後部裾、10円くらい
の当時の補修跡あります。


こちらは、入手いたしませんでしたが同時に出品
されていた三式少将軍衣です。ネームタグは、あ
りませんでした。一連の一括りだった品が霧散す
るのは、心が痛みます。







稀少資料 侍従長 兼 内大臣
    従一位 大勲位 徳大寺 實則 公(侯)爵 の
        大日本帝國外國勲章佩用免許証 勲記




あの名門の徳大寺家(精華家)の徳大寺實則侯爵(後に公爵)
勲記です。公爵は、陛下の侍従長兼内大臣をされた方です。そ
の奥方は、土佐高知藩十二代藩主 山内豊資の姫君の嘉年姫
です。天保10年(1839年)〜大正8年(1919年)明治天皇の側
近として明治天皇の崩御まで仕えました。弟が西園寺 公望で
あります。
こうした物が出てくるとは、夢にも思いませんでした。


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            ↑
上のバーナーをクリックすると別ページに
収載した明治天皇の侍従長 徳大寺公爵
の肉筆短冊等があるページが開きます。







満州帝國 陸軍の軍人手簿(未使用品二点)




新品の未使用品です。余りキレイなので精巧な複製品かもしれません。
しかし実物を見た事が無いので、紙質など現代の物と微妙に違う質感を
感じ取れません。









戦時歴史資料 康徳元年三月一日 満州国
            
 詔書(奉天承運 皇帝詔日) 















戦死された 本村千代太 陸軍中将
          の功ニ級金鵄勲章 仮記




昭和19年6月11日に河南省で戦死されました歩兵第五九旅団長の
本村千代太少将(戦死後、中将に特進)の叙勲の仮記です。まさに
仮記ではありますが、功ニ級金鵄勲章のものは、まず目にする機会
は無いと思っておりました。また厳しい時局の折、勲章と勲記が御遺
族に渡されていない可能性の方も大きく、この仮記のみに終わって
いるかも知れません。右上部に桐紋の透かしがあります。
本村千代太 陸軍中将(功二級)

   (歩兵科・佐賀県出身・士候二十五期))

昭和12年8月12日 関東軍兵事部員
昭和13年7月15日 任陸軍大佐(功四級)
昭和14年3月9日  支那駐留 歩兵第一連隊長
昭和15年8月1日  北支方面軍高級副官
昭和17年8月1日  任陸軍少将
             歩兵第五九旅団長
昭和19年6月11日 河南省にて戦死
             任陸軍中将








丸山 政男 陸軍中将の功三級金鵄勲章の仮記







丸山政男 陸軍中将(功三級)

   (歩兵科・長野県出身・陸大三十一期))

昭和 6年 8月 1日 参謀本部欧米課英国班長
昭和 9年 5月 7日 駐英武官
昭和10年 8月 1日  任陸軍大佐
昭和11年 8月 1日  参謀本部欧米課長
昭和12年 8月 2日  近衛第四連隊長
昭和13年 7月15日  任陸軍少将
               歩兵第六旅団長
昭和14年 3月 9日  近衛師団司令部附
昭和15年 5月 7日  第三独立守備隊長
昭和16年 3月 1日  任陸軍中将
昭和16年 4月10日  歩兵第二師団長
昭和18年 6月10日  参謀本部附
昭和19年 3月 2日  予備

昭和32年11月11日  歿
下は、入手しませんでしたがヤフオクで
出ていた勲記の方です。







珍品 猫皮の陸軍飛行服陸軍飛行服(冬用)






非常に状態の良い飛行服ですが…猫皮と考えるだけで
複雑な心境になります。これを着た搭乗員も同じ気持ち
だったかのどうか…気になりました。







戦時資料 中島飛行機社員の所持品




中島飛行機社員の略帽です。






古澤氏が所持していた飛行兵に宛てた日章旗の寄書
です(日の丸は縫付け)。緑縁の飛行眼鏡は、その飛
行兵の物だったのでしょうか。




社員証等です。


























一緒の品の中にあった米軍の12,7mm機銃の薬莢と
不明の潰れた薬莢です。中島飛行機が敵の艦載機の
機銃掃射を受けた時の物と思われます。







陸軍 八八式七糎高射砲弾用薬莢




75mm薬莢(八八式高射砲用)です。莢底に"製造年月(昭十八 6)と
大阪砲兵工廠マーク(大砲交差図)と材質コード(F)"の刻印が有りま
す。
この薬莢を使用する大砲は、”八八式七糎野戦高射砲”と従来の
俯角射撃に加え平射を可能にする改修が行われた昭和9年に制式制
定された”八八式七糎野戦高射砲マル特”が有ります。その専用弾薬
であるこの薬莢は全長496mmと長く、
当時、陸軍が使用した7cm級
の薬莢で最も長い物となっています。長身ストレート型のこの薬莢に
尖鋭弾を装着すると、バランスも良く非常に精悍さを感じます。







”ホ五”二十粍(航空)機関砲の
  二式曳光榴弾の代用弾と思われる
     弾を載せた九八式高射機関砲の薬莢






全く別物の後家あわせですが、弾は確証が
ありませんが”ホ五”の二式曳光榴弾の代用
弾だと思われます。
シの打刻印が見られます。これは、試作の意味では無く
東京陸軍造兵廠第一製造所を意味する打刻です。







陸軍の喇叭















陸軍雇人(軍用保護馬・
   普通鍜錬関係者)の未使用作業衣袴




綿製の未使用の上下の作業衣です。釦は、陶器製で
釦ホールは、通した形跡の無い未使用品。肘の縫付と
襟の徽章から陸軍の軍馬関係である事が判ります。
恐らく陸軍の厩舎などの雇人などの作業服と想像します。








作業衣の上衣の外ポケットは、左胸に一つ
内ポケットが右側に一つです。全体の縫製
や陶器の釦から大戦末期の物資不足の頃
の品と思われます。


軍用保護馬・普通鍜錬関係者用
の胸章の包紙です。
軍用保護馬・普通鍜錬関係者用
の帽章(未使用)です。







戦時資料:京都の警防団の記章類




コレクターの方の放出品で殆どが京都の警防団
のもので前部で27点あります。







陸軍 患者二人用蚊帳




昭和17年、大支検定…患者二人用と記載された蚊帳です。
患者用なので陸軍病院や野戦病院で使われたものと思わ
れます。







陸軍の鉄道連隊で使用されたE18機関車




私の自宅の近所で数キロ以内の犬の散歩コースにある朽ち果てた
機関車です。大正10年にドイツから輸入されたE型機関車のうちの
18台目のE18です。陸軍は、このE型機関車を昭和元年までに31
台を輸入しています。その後、国産化に切替になったようです。
このE18は、戦時中まで鉄道第一・二連隊の演習線で使用されて
いました。敗戦後、西武鉄道に引取られた後、ユネスコ村など転々
としてここの模型雑誌(?)の会社の入口前に長く置かれています。



陸軍の皮製の糸巻きです。下士官兵に支給されました。
袋部に針を入れて、外側に糸を巻きました。片側に記名
ありますが、使用された痕跡がないので未使用なままだ
ったようです。



斉斉哈爾(チチハル)飛行隊編成記念の盾
昭和10年12月、旧満州の斉斉哈爾(チチハル)で
飛行第十連隊が編成された時の記念盾です。
浜松飛行第七連隊から二個中隊をチチハルに派兵
、偵察飛行第十大隊とあわせて飛行第十連隊を編
成しました。軽爆撃機の飛行部隊でした。ノモハン戦
でも活躍しました。日米戦開戦後は、ニューギニアの
ウェアクで戦いミンダナオ島のダバオへ移動し戦い、
その戦力が消耗し昭和19年、本国で戦力の回復を
行った後、台湾(台北)に移動し南西諸島の作戦、そ
の後は、敗戦まで沖縄特攻などに従事した歴戦の部
隊です。









九六式軽機で攻撃する皇軍兵士