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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTe















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








松井 栄雄 陸軍少将の正衣袴(大礼服)
      九八式軍衣袴、戦闘帽、位記等々




松井少将の正装です。
首の金モールに少し虫食いと汚れが見られますが
その他は、概ね良い状態で美品です。




松井閣下は、和歌山の出身で陸大23期、歩兵科。
 

上と下は、まだ若かりし尉佐官の頃のものです。

 松井 栄雄 陸軍少将 (歩兵 和歌山出身)

  陸大23期

大正12年 8月 6日  陸軍大佐
             歩兵第一二連隊長

大正15年 3月 2日  第五師団参謀長
昭和 3年 8月20日  陸軍少将
             歩兵第二七旅団長
昭和 5年 8月 1日   待命
       9月29日   予備

 
松井閣下の戦闘帽です。何故か顎紐と帽章が
取り外されています。しかし良い生地の略帽で
す。
こちらの将校用胴締も良い品です。




将官になられた閣下でも千人針などを
所持しているものなのですね。この他に
ハンカチ、風呂敷、襟布など記名があり
ます。








夏季用の九八式軍衣袴です。
松井閣下の予備役編入が昭和5年ですので、まだ九八式軍
衣袴が世に出る前の立襟時代です。従いましてこの軍衣袴
に袖を通して軍務には、一度も出ていなかったと思われます。




イメージで手持ちの九八式少将の階級章を
合わせて見ました。


軍衣のネームタグは、剥がされていますが、同じテーラータグの
軍袴の方には、Y.Mの松井閣下のイニシャルの刺繍が残ってお
ります。
善通寺の歩兵第十一師団第四三連隊の中隊長の頃の写真です。
旭川の第七師団時代に参謀をされていた時の写真です。
歩兵第二七旅団長時代の写真です。この写真を撮影
された茨城県の那珂湊は、平成6年11月に旧那珂湊
市が旧勝田市と合併し、現在はひたちなか市と名を変
えております。尚、松井閣下が丁度、第11代目の旅団
長となります。この歩兵第二七旅団は、昭和15年7月
30日に 第十四歩兵団に改編され、従来から隷下にあ
った第二連隊と第五九連隊に歩兵第一五連隊を加え
て三個連隊となります。いずれも第一四師団(照兵団)
まるごとで先の大戦では、パラオ方面に移動していま
す。第二連隊(照7746部隊)は、後にぺリリュー島で
玉砕!第五九連隊(照7768部隊)は、連隊主力は、
パラオで敗戦を迎えますが、第一大隊は、アンガウル
島で玉砕しています。また改編で加わったこの歩兵第
一五連隊の第二・三大隊は、ぺリリュー島で玉砕して
います。







廣田 充雄 憲兵中佐(陸士25期)が
 着用された軍装品(九八式軍衣袴、軍帽)




廣田憲兵中佐の軍帽に九八式軍衣(夏)と昭五式軍袴です。
十三年制憲兵科将校胸章と中佐襟章初付でついています。
テーラーによる高級仕立てと思われ、出来がかなり良いです。
襟は、珍しい一段ホック。カラー止めは、元より3ヶ所の型。
光沢面取り真鍮釦全揃です。各内物入れは、それぞれに
独立した縫製・刀裂(ダミー部も同じ)の当て布は、冬軍服
絨を仕様。吊り紐は、真鍮製鎖。襟の窮屈さを嫌う老練憲兵
佐官の雰囲気が十分伝わる一品です。夏衣のため、小虫食
いが数カ所ありますが、使用頻度は、少ながったように見受
けらます。襟章は、退色していますが、銀線に金鍍金された
高級品です。
昭五式の軍長袴です。褐緑色将校冬軍服絨に英文字の入った
濃茶色角釦全揃です。金具は真鍮製。刀帯ループは、元より付
いていません。僅かな虫なめと前裾部に小墨汚れ、左後部腿に
僅かな傷がありますが、使用頻度は、非常に少ないように見受
けられます。作りが高級で状態は、大変良い長袴です。


昭和五年制の頃と思われる上質な陸軍将校用の軍帽です。
当時の青年将校に人気のあった襠の高いものと違い、将官
クラスや老練の将校に好まれたおとなしい型の軍帽です。如
何にも高級憲兵将校らしい軍帽です。
使用頻度は、少なかったようです。しかし経年による褐緑絨部の
小さな虫食いが少なからずあり、縁革の一ヶ所裂けなどがありま
す。但し、緋絨部は、喰出部はほぼ無傷・鉢巻部は浅い部分的な
虫なめと顎紐で見えない部位に小虫食いがあります。全体的には
、型崩れ退色もなく非常に綺麗な軍帽です。





以下は、入手しませんでしたが同時に出されていた
廣田中佐の大礼服一式と昭五式軍衣です。非常に
珍しいものです。
憲兵科の高級将校の品は、非常に珍しいです。







陸軍 空挺短剣(降下兵の短剣)




これは、とても珍しい空挺部隊の降下兵が足に装備した
空挺短剣です。二式銃剣(短剣)に似ていますが刃先と
鞘の形状が全く違います。銃剣タイプですが13cm程度し
かなく銃剣としては短すぎます。足に装備し傘体や紐が
捲き付いたりした場合、切断する為のものです。
小型シンプルで機能を最重視した印象です。
全長(鞘を含め):約26cm、柄長:約10.5cm
刃長:13.7cm、鞘長:約15cmです。
元々、空挺の品なので稀少なものでしたが
殆どが米国に持ち出され日本で出回るのは
里帰り品という形でしか中々見る事がありま
せん。前回、出回った時も15万円程度で売
買されていたそうです。


柄を止める皮もまだしなやかで生きています。
留めの釦ホックも完全で銃剣装着部も機能し
ています。当時のままの状態の美品です。
刻印から名古屋工廠の豊田自動織機製作所(株)
で生産された短剣である事が判ります。柄の天頂
部に名古屋の名に生産ロットナンバーが刻まれて
おります。







戦時資料: 満州協和服(各種)と満州國協和會儀禮章




中々、お目に掛かれない満州協和服ですが、これよりも
協和服の紐は、もっと見掛けません。


満州國協和會儀禮章は、房も五色になっているのが特徴です。
とてもキレイな痛みの無い品です。
実際に佩用している当時の画像です!


下の画像は、有名な甘粕大尉の協和服姿です。






別の極美品の満州協和服です。将校布同様のサージ布で
出来ており高級会員のものと思われます。貼り付けポケット
釦は隠しとなっています。背バンドで、袖は折り返し縫い付
けがあり、メモが入れられます。


上の二着の協和服と違う協和服です。




この釦は協和会の印の王が入っています。王は、”王道楽土”
の王を示しています。この協和服の持ち主だった方が協和会
に所属していた事を意味します。




                 ◆満州國協和會◆


満州國協和會とは満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治
に基づく新国家建設の理念を説いた「自治指導部」が協和会の起源であ
る。満州国建国に至り、自治指導部は発展的解消したが、官民の一体化
を図る何らかの組織が必要ということで、新たに「満州国協和会」が結成
されました。協和会は、満州国政府と表裏一体となって建国理想(王道楽
土の建設)の実現を図るべく、国民に対する教化を進めていきました。
協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立されました。そして、
各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括しました。
また開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会
が実質的に民意を汲み取る機関として期待され、石原莞爾将軍に至って
は協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」として設定し、協和会による
一党独裁制を志向していました。
                 

                   <綱領>

満州帝国協和会は唯一永久、挙国一致の実践団体として政府と表裏
一体となり

建国精神を顕揚し 民族協和を実現し 宣徳達情を徹底し 国民生活を
向上し国民動員を完成し 以って建国理想の実現、道義世界の創建を
期す。





上も下も釦だけですが協和会員の協和服用釦です。


             ↑
こちらをクリックすると別なページで収載した
極美品の元箱附きの満州國協和會儀禮章
が見られます。


画像一部引用の出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







陸軍 人用の偽装網








大人一人を頭から足まで覆っても余りある
十分な大きさです。これなら立派に偽装が
可能だったものと思われます。未使用の
デットストックだったようです。







陸軍 鉄帽覆




ベルトの無い初期型のタイプの鉄帽覆です。
検定は、かなり薄れてきていますが昭和16年
本廠検定の大号が読み取れます。側面に所持
者だった兵の名前でしょうか八木啓三と縫われ
ています。









ホ三○一 四十粍機関砲弾 と
        ホニ○四 三十七粍機関砲弾




キ-44 二式単座戦闘機”鍾馗”に使われた
40mmのロケット機関砲弾です。横の小さい
方の弾頭は、キ45改 二式複座戦闘機”屠龍
”に使われたホ二○三 37mmです。この弾頭
は、別にホニ○四の37mm機関砲にも使われ
ていました。
御覧の様に弾種は、榴弾です。
40mmホ301は、非常にユニークです。薬莢内の炸薬
で弾頭を飛ばす通常の機関砲と違い弾丸自体の中に
推進室を組み込んだロケット式弾の為、このホ301は
薬莢の排出機構が不用でした。まさしく連発式の空対
空擲弾筒といえる代物でした。また重量も約30kgと軽
量でしたが、初速が230m/秒と遅い為、小便玉になり
相当に接近しないと当てる事が難しかったと言われて
います。18年のビルマ戦線でデビューし、その後は、
本土防空戦で装備されましたが、大きな成果を上げる
事は、出来ませんでした。
40mmロケット弾の断面図と弾底図。断面内部の
左のほうが炸薬室で右の方が推進薬室です。
ホ301 40mm機関砲を装備した二式戦二型丙(飛行四七戦隊)


キ45改 二式複座戦闘機”屠龍”に使われたホ二○三 37mmです。
上の40mmロケット機関砲弾と一緒の37mm砲弾の
弾頭と違う物ですが、こちらの方が錆も多く保存状態
が悪いです。頭部の信管が付く部分は、回すと取れる
のですが硬く錆びついて外れません。


屠龍は、制空戦闘機としては、不適格な戦闘機です。
迎撃、対地・対艦攻撃、船団護衛、軽爆代わりまで勤
めるマルチな機でしたが、特にその性能をいかんなく
発揮したのは、対爆撃機用のインターセプターとしてで
した。当初、量産型の甲型は、機首に12.7mm機関砲
2門・胴体下面に20mm機関砲1門・後部座席に旋回式
7.92 mm機関銃1丁という武装でした。しかしこの武装
では、重厚な防御を誇るB17クラスの爆撃機には、太
刀打ち出来ず、胴体下面の20mmは、武装を37mm
戦車砲に換装した乙型を作りましたが、30秒に一発し
か撃てない為、限られた迎撃チャンスで撃墜を期する
事は、困難でありました。そこで丙型が誕生します。
胴体下面の武装を20 mm機関砲1門に戻し、機首の
武装を連射可能なの37mm機関砲(ホニ○三)に換装
したものです。しかし高度1万m以上の高々度より侵入
してくるB29には、機体性能が既に追いつかず、また随
伴の護衛戦闘機に食われて被害が多い機でもありまし
た。







セブ島で戦死された憲兵曹長の所持品




昭和20年6月にセブ島で戦死した清澄治一 憲兵
曹長の写真と名刺です。写真は、チチハル憲兵隊
に勤務していた憲兵伍長の時のもの。名刺は、憲
兵軍曹の時のものです。
下の死亡告知書が入れられていた封筒です。
母親宛となっています。
戦死されて曹長に一階級特進したものと思われます。
一緒に保管されていた憲兵徽章と軍曹の階級章
亡くなられた憲兵軍曹が所持していた
軍用外套で明治の三九式外套です。


チチハル憲兵隊で伍長の時に御両親に宛てた
封書の手紙です。この中に憲兵伍長の写真が
入れて送っています。手紙ごと保存されていた
ようです。手紙の内容は、主に他愛のない私的
ものとなっています。




下は、憲兵軍曹の時の写真です。


これは、非常に珍しい憲兵手帳の皮ケースです。中々
出て来ない品です。以前、高額で有名な某軍装店では
約27万円位で売却されていたそうです。


手帳の中の写真入れに入れられていた
写真です。


こちらも手帳の中にあった名刺です。
フイリッピンのピサヤ諸島の中心地が
セブです。このピサヤ憲兵隊本部が
清住軍曹の最後の職となったようで
す。
下は、御母堂様が切り抜いたのでしょう…戦死された
セブ島の戦闘に関する新聞の記事です。



陸軍 憲兵マント(未使用品)




特に上の清住憲兵曹長とは、無関係の
昭和18年本廠検定のデットストック品
の美品です。









陸軍将校 防弾胴衣(安藤式)




東亜工業研究所謹製の安藤式護身用鋼鉄胴着です。
程度は、未使用〜準未使用品クラスというところでし
ょうか。一ヶ所小破があり、リングが一つ紙縒に交換(
当時の)されていますが総じて極美品と言えると思いま
す。濃緑木綿地に鉄板を包み込んである所謂、防弾チョ
ッキです。一般に防弾チョッキには、戦闘用と護身用が
ありますがこの品は、護身用のものです。
タグの部分は袋状になっており、当時のお守りが
入っています。







驚きの長井 陸軍中尉の洒落た(!?)九八式軍衣




一見、何でも無い将校軍衣です。外も中も
普通です。夏服ですが物入れ内部の生地
が青の花柄です。
山口県のテーラー河村のちょっと凝った夏服。
虫食いなし長井中尉の名前入りですが、この
長井家は、幕末からの流れをくむ長州の名家
の御曹司だったそうです。その長井中尉にして
も…この程度の事しか出来なかったのがこの
軍衣のようです。外見は、普通ですが物入れの
内側の生地が非常に面白く袖の内側にカラーの
ホックを付けるまでこった良い造りになっていま
すがまるで海軍の末期の服地の裏のような面白
い生地を使用しています。長州人の気質かこの
テーラーでは、高官にいたっても裏地に春画を使
った物を扱った事があるそうです。
両方の腰ポケットを開けると驚きです。艶やかな
花模様の裏地です。まあ旧軍に限らず、自衛隊
でも洒落者で反骨心のあるものは、見えない所
でお洒落をする事は、ままありますが…驚きです。
この柄が私には、カッコイイと思えませんので理解
苦しみます。余程、大昔の長井中尉の方が今を生
きる私よりも最先端をいくセンスの持主だったと思
われます。







非常に状態の良い近衛将校の戦闘帽















陸軍 兵・下士官用 防暑略軍衣袴(未使用)




未使用の美品の略衣袴です。上下の色が違うように
揃いでなく合わせのデットストックのようです。




軍衣の方が昭和19年の大支検定で
軍袴の方が18年の大支検定です。
共に中号になります。







旧型の襟星を付けた将校(尉官)マント




比較的に程度の良い将校用のスリーシーズン
マントです。昭和五年制のマント用星章を一対
を付けている尉官用です。







珍しい薬剤中尉の九八式(昭和十三年制)軍衣




九八式軍衣の衛生部薬剤中尉です。
軍医は、以外と多いですが薬剤は少
ないです。
衛生部の将校用山型胸章を付けています。
変った九八式階級章です。この襟章の星は、肩章用
の星を後付けした改造品でなく、この状態がオリジナ
ルです。厳密にいえば軍装違反でしょうが、希にこの
ようなイレギュラー品が存在するようです。まあ士官
に対して襟章の星章がどうのとイチャモンを付けるよう
なケツの穴の小さい将校も余り居なかった事でしょう。
私は、見た事は初めてですが、前の所持者だった研究
者の方は、軍装の造詣の深い方なので何度か将官の
階級章でも見掛けたそうです。当時の特定軍服店又は
徽章店が作成したものだろうと推測されます。それ故に
数多い襟章の中でも珍しく稀少品の部類に入るものと
思われます。
上の画像の通り通礼肩章は、ベロの上で縛るようになっており、
悪質業者の手に掛かれば即、参謀服に改造されてしまいそうな
構造です。
この軍衣の所持者だった新井薬剤中尉の
名刺入れと中の所持品です。


大阪陸軍病院天王寺臨時分院付や豊中市民病院の薬局長の
経歴を持つ薬剤中尉です。一緒に当時の市電の路線表や回数
券、写真機を買った領収証などが入っています。














新谷薬剤中尉の軍事郵便2通です。年代は不明ですが
満州の部隊に居たようです。満州第四九三四部隊と満州
第九八三二部隊の二つの所属部隊が読めます。


この上下の拳銃嚢や帯皮、弾薬嚢、背嚢、図嚢は、
新谷中尉の所持品で入手しませんでしたが、一緒に
売りに出されていたものです。







四五式 陸軍見習士官外套 (稀少な極美品)




四五式 見習士官専用外套です。
大正六年製、本廠検定の四号。
完全未使用の極美品です。
明治45年2月24日勅令第10号で制定されました
この見習士官専用外套ですが…一般には意外に
知られていないもののようです。根本的によくある
下士官兵用の外套を將校・准士官用に直した改造
品とは全く違います。

官報 明治45年2月24日 勅令第10号 

  見習士官外套  將校ニ同シ但シ裏地ヲ附セス

九八式や三式の兵隊外套などのように何処でも幾ら
でも手に入る物と違い、希少性が比較にならず、入手
困難度は極めて高い一品です。また
稀に見習士官外
套が出ても、袖章が省かれていたり、兵用釦が付いた
昭和期の物が多く、このように袖章残存し四五式印が
入り裏足無可動釦が付いた大正初期の見習士官外套
は殆ど見る事がありません。この時代の見習士官(騎兵
科を除く)は、軍衣の上から常に二鐶の刀を尉官刀帯で
佩き、外套の刀裂から長短の釣革を垂らしていたようで
す。明治四十五年制以前の見習士官外套は、下士卒と
同じに規定されており、逆に外套の上から刀を帯びてい
たとの事です。

内側(胸部)の物入れ口は、縦スリットです。
検定印の記名布は、袋状になっています。
肩章着用部の裏に麻当て布がついています。
頭巾用(フード)の釦は、襟裏に附いています。
手持ちの特務曹長(准尉)の肩章を合わせてみました。
大正11年改正以前のまま緋絨喰出の袖章が残存する希少品
です(緋色の蛇腹組毛糸線でなく将校用となります)。緋色の
袖章が目の醒める様に美しく、とても90年前の品とは、思えま
せん。







四二式 下士官・兵用 外套(過渡期の試作品)




こちらも非常に面白く珍しい陸軍の兵下士官用の外套です。
…明治38年、カーキ色の三八式服制が制定されますが、試作
制定を2〜3回行って、明治45年、四五式服制が制定されまし
た。この外套は、”四二式二号 明治四十三年九月製 廣支検
定”となっています。四五式が制定されるまでの間、少量生産し
ては、着用して動作の不備など調べて修正した試作品となりま
す。三八式外套から四五式外套までの過渡期の珍しい外套です。
ベルト受けなど完全で、虫食いも少ないです。
四五式より更に古い品ですが、しっかりしてい
ます。また四五式のような袖の蛇腹組緋毛糸
はありません。
肩章は、直接縫い付ける時代ですので
肩章留を附けた形跡がありません。


頭巾用の釦は、初めからありません。
俗に饅頭ボタンと言われますが2列
10個ある筈の釦が残念ながら5個
欠品になっています。
サイズは、肩幅47cm、袖丈52cm、着丈120cm。







敗戦時、陸軍大尉だった航技将校の縁の品




陸軍から川崎へ出向していた航空技術
将校で敗戦時は、陸軍大尉だったと聞い
ております。その方の所持していた航空
螺歩計と九八式中尉階級章一組と航空
技術科将校襟章一組です。


航空螺歩計は、螺子のピッチを測定するための機器です。
箱の中に2個入っています。1つがインチネジを測定するた
めのもので、もう1つがセンチネジを測定するための物です。
皮肉な事にアメリカ製でU.S.Aの刻印と英文字が刻まれてい
ます。











九八式・九四式三十七粍戦車砲の薬莢二発!




上の九四式37mm速射砲弾に比べると明らかに
短いのが九四式37mm戦車砲弾です。同じもの
と思われがちですが、戦車砲は砲身長が40cmも
短く装薬も2割少なく初速も3割減だった為、速射
砲の三分の二の威力しかありませんでした。ノモ
ハンでその威力を発揮した九四式37mm速射砲
でしたが、戦車砲は…全く敵戦車に対抗できず同
じ名前の速射砲まで悪い印象を与えられたと言わ
れています。
ヘッドスタンプの刻印は、二発とも大阪陸軍工廠
で監督課のマークがあります。




九四式三十七粍戦車砲
この砲を搭載した九五式軽戦車











一式 48口径 47mm戦車砲の砲弾(発火済)




一式中戦車や九七式中戦車改の搭載された戦車砲弾と思われます。
さすがに一式四十七粍戦車砲になると薬莢
が非常に長くなります。貫徹力が上の三十七
粍や下の五十七粍戦車砲と違うのが良く判り
ます。



















陸軍 十糎榴薬莢二発




どちらも雷管部はなく、鉛の様な物が詰めてあります。
一つは、昭十五 12 小倉造兵廠の刻印。もう一つは、
昭七 6 大阪陸軍工廠がヘッドスタンプで刻まれてい
ます。


九一式十糎榴弾砲(昭和六年制定)







陸軍 造兵廠小倉工廠移転開庁式記念の品




昭和八年十一月八日とあります。
上層部分は、平射歩兵砲弾丸で中層部分は、
曳火手榴弾弾体になっており、台座は、十二糎
砲弾底螺で出来ています。







各種 分隊用の小銃手入属品(クリニーング・キット)




状態の良い九九式用の属品です。
四本の補足柵状、洗頭、薬室手入棒、木製の保心筒です。
嚢は、帆布製で縫い目が左側一重縫いで、昭十九 の捺印
が確認できます。

こちらの嚢は、帆布製で縫い目が裏の正面
の一重縫いです。保心筒は、大型で金属製
です。小銃用のもので無いと思われます。







日露戦争での感状(写し三点)




感状の写し三点です。明治37年というと1904年です。
今から百年以上昔の紙物です。時代を感じます。
大山 巌 元帥陸軍大将の感状
聖将・乃木稀典 大将からの感状







歴史的な新聞の号外二点




第二次世界大戦の幕開けです。
東條内閣の正立!







南方用のズック製の南部十四年式拳銃嚢の斜皮




未使用のデットストックだったようです。







平成18年〜19年に日本中の熱い注目を
 浴びた硫黄島!…その硫黄島からの出土品
  (九九式小銃弾と硫黄島東海岸の鶉石)




平成18年の前半は、戦艦 大和 が熱くブームを呼びました。
後半になり映画『硫黄島からの手紙』がブームとなり硫黄島
が熱く注目され話題になりました。その東京都の小笠原諸島
の中に位置する小さな島…しかし日米戦の中で最大の激戦地
となった島からの出土品二点です。
硫黄島といえば栗林 忠道 陸軍大将です。
硫黄島に行かれた軍事史学会の会員の方が
採取の米国のコーストガードより頂いた九九
式小銃弾です。胴に穴を開けて火薬を出し、
プライマーも叩いてあります。北飛行場の滑走
路拡張工事の際に出たそうです。口径7.7mm
、鉄薬莢の九九式小銃に使用するものです。
ちなみに陶器製手榴弾も地下壕の中で見つけ
たことがあると言っていたそうです。


米軍上陸地点より採取した硫黄島のうずら石
です。硫黄島東海岸の米軍上陸地点のやや
北の、二つ岩という所で産出する「うずら石」と
いうものだそうです。硫黄島でしか産出しない
貴重なものだそうです。このうずら石は、軍事
史学会で栗林中将の御親族と島に会員達が
行った時に硫黄島駐屯の米コーストガードの
方から頂いたものだそうです。広い砂浜の中
で、1個〜2個と落ちているもので、これだけ
拾うにはずいぶん手間がかかったようです。米
軍の上陸地点でも拾えますので上陸した米軍
の海兵隊員も日本軍の砲撃を受け思わずこの
石を握りしめたかもしれません。全部で100gあ
ります。


ありし日の栗林閣下!


栗林中将の近衛第二師団長時代の画像です。


別に入手した…こちらも硫黄島の”うずら石”です。


陸軍のページですが片手落ちになるといけませんので硫黄島の海軍側
最高司令官の市丸利之助少将(戦死後、海軍中将)について少しだけ
ふれておきます。画像は第一三航空隊の司令(大佐)をされていた時の
ものと推察されます。市丸提督は、硫黄島で最高司令官の栗林中将の
隷下に入り約6千名の海軍将兵を率いて地下深くの洞窟陣地構築に加
わりました。一貫して海軍でも航空畑一筋で来た市丸少将が父島空司
令として着任した時の硫黄島の航空機は僅か10数機に過ぎませんで
した。この僅かな航空戦力は圧倒的な物量を誇る米軍に制圧されまし
た。そして困難に満ちた洞窟に籠る死闘が始まりました。市丸少将と謂
えば映画”硫黄島からの手紙”でも有名なルーズベルトに宛てた手紙が
有名です。この手紙を英文に翻訳したのはハワイ生まれの日系二世の
三上弘文兵曹でした。その手紙は、昭和20年3月17日に海軍将兵への
訓辞に際して読まれ、3月26日に通信参謀の村上治重大尉が、日文と
英文各一通を腹に巻いて最期の出撃をしました。この日の早朝、硫黄
島での陸海軍残存兵力400名は第二飛行場西にテントを張っていた
米軍後方部隊を奇襲し敵に132名の死傷者出させました。米側の海兵
隊が来援し戦闘終結すると日本兵196名の戦死者が取り残されており
ました。 その遺体の一つから、冒頭の文で始まる「ルーズベルトに与う
る書」の英文訳と日本文の両文が発見されましたた。米従軍記者エメッ
ト・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日に米本国に向け
て打電し、その内容は米国海軍当局の検閲の後に”ニューヨーク・ヘラ
ルド・トリビューン”など各紙に掲載されました。その見出しは「死に臨ん
だ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」とありました。そしてこの手紙
は、戦後ベストセラーになったジョン・トーランド の「昇る太陽−日本帝
国滅亡史」に全文掲載され日本でも更に有名になりました。市丸少将の
手紙は4月4日に米国に打電されていましたが、ルーズベルト大統領は
その僅か8日後に亡くなっています。大統領が手紙を読んだかどうかは
、今となっては定かではありません。しかし「得意の絶頂に於いて失脚」
したウィルソン大統領の「轍を踏むなかれ」との警告が的中したかのよう
な死に方だったのは皮肉な事です。またルーズベルトの19世紀的な恐
ろしい程の人種差別観の所持者に対して、市丸少将の気高い理想は21
世紀の今日にも十二分に通用する内容でありました。

当時の駐米英国公使、ロナルド・キャンベルは英国外務省に宛てた手紙
の中で、(優秀な)白人種とアジア人との「交配によって新しいアジア系民
族を産み出し、立派な文明と社会をアジアに建設するのがルーズベルト
大統領の考えだった」と伝えています。ただ「大統領は(白人より二千年
も遅れた頭がい骨を もつ)日本人はこの対象から除外し、もとの四つの
島に隔離して次第に衰えさせようと考えていた」と告げています。

市丸提督の手紙は現在、アナポリス米国海軍兵学校記念館に保管され
ています。以下に日・米の両方の手紙を掲載します。
 


ルーズベルトに与うる書


日本海軍市丸海軍少将、書を「フランクリン ルーズベルト」君に送る。
我今、我が戦ひを終るに当り、一言貴下に告げたい。日本が「ペルリー」提督の下田
入港を機とし広く世界と国交を結ぶに至りしより約百年、此の間、日本は国歩艱難を
極め自ら欲せざるに拘わらず、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変
を経て不幸にも貴国と干戈を交ふるに至れり。之を以て日本を目するに、或は好戦
国民を以てし、或は黄禍を以て讒誣し、或は以て軍閥の専断となす。思はざるの甚き
ものと言はざるべからず。

貴下は真珠湾の不意打を以て、対日戦争唯一宣伝資料となすと雖も、日本をして其
の自滅より免るるため、此の挙に出づる外なき窮境に迄追ひ詰めたる諸種の情勢は、
貴下の最もよく熟知しある所と思考す。

畏くも日本天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明なる如く、養正、重暉、積慶を三綱とす
る、八紘一宇の文字により表現せらるる皇謨に基き、地球上のあらゆる人類は其の分
に従ひ、其の郷土に於て、その生を享有せしめ、以て恒久的世界平和の確立を唯一
念願とせらるるに外ならず、之、曾ては「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風
の立ちさわぐらむ」なる明治天皇の御製は、貴下の叔父「テオドル・ルーズベルト」閣
下の感嘆を惹きたる所にして、貴下も亦熟知の事実なるべし。

 我等日本人は各階級あり。各種の職業に従事すと雖も、畢竟其の職業を通じ、この
皇謨、即ち天業を翼賛せんとするに外ならず。我等軍人亦、干戈武器を以て天業恢
弘を奉承するに外ならず。

 我等今、物量を恃める貴下空軍の爆撃及艦砲射撃の下、外形的には退嬰の已む
なきに至れるも、精神的には弥豊富にして、心地益明朗を覚え、歓喜を禁ずる能は
ざるものあり。

之天業翼賛の信念に燃ゆる日本臣民の共通の心理なるも、貴下及「チャーチル」
君等の理解に苦む所ならん。今茲に卿等の精神的貧弱を憐み、以下一言以て少く
誨ゆる所あらんとす。

卿等のなす所を以て見れば、白人殊に「アングロ・サクソン」を以て世界の利益を
壟断せんとし、有色人種を以て、其の野望の前に奴隷化せんとするに外ならず。之
が為、奸策を以て有色人種を瞞着し、所謂悪意の善政を以て、彼等を衷心無力化せ
しめんとす。近世に至り、日本が卿等の野望に抗し、有色人種、殊に東洋民族をし
て、卿等の束縛より解放せんと試みるや、卿等は毫「も日本の真意を理解せんと努む
ることなく、只管卿等の為の有害なる存在となし、曾ての友邦を目するに仇敵野蛮人
を以てし、公々然として日本人種の絶滅を呼号するに至る。之、豈神意に叶ふものな
らんや。

 大東亜戦争に依り、所謂大東亜共栄圏の成るや、所在各民族は我が善政を謳歌
し、卿等が今之を破壊することなくんば、全世界に亘る恒久的平和の招来、決して
遠きにあらず。

 卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく、数百年来の卿等の搾取より免れん
とする是等憐むべき人類の希望の芽を何が故に嫩葉に於て摘み取らんとするや。只
東洋の物を東洋に帰すに過ぎざるに非ずや。卿等何すれど斯くの如き貪欲にして且
つ狭量なる。

 大東亜共栄圏の存在は、毫も卿等の存在を脅威せず、却って世界平和の一翼とし
て、世界人類の安寧幸福を保障するものにして、日本天皇の真意全く此の外に出づ
るなきを理解するの雅量あらんことを希望して止まざるものなり。

 翻って欧州の事情を観察するも、又相互無理解に基く人類闘争の如何に悲惨なる
かを痛嘆せざるを得ず。今「ヒットラー」総統の行動の是非を云為するを慎むも、彼の
第二次欧州大戦開戦の原因が第一次大戦集結に際し、その開戦の責任の一切を
敗戦国独逸に帰し、その正当なる存在を極度に圧迫せんとしたる卿等先輩の処置に
対する反発に他ならざりしを観過せざるを要す。

 卿等の善戦により克く「ヒットラー」総統を仆すを得るとするも如何にして「スターリン」
を首領とする「ソビエットロシア」と協調せんとするや。凡そ世界を以て強者の独専とな
さんとせば、永久に闘争を繰り返し遂に世界人類に安寧幸福の日なからん。

 卿等今、世界制覇の野望一応将に成らんとす。卿等の得意思ふべし。然れども、
君が先輩「ウィルソン」大統領は、其の得意の絶頂に於て失脚せり。願わくば本職言
外の意を汲んで其の轍を踏む勿れ。

 
市丸海軍少将 





A Note to Roosevelt


 Rear Admiral R. Ichimaru of the Japanese Navy sends this note to Roosevelt.
I have one word to give you upon the termination of this battle.
 Approximately a century has elapsed since Nippon, after Commodore Perry's
entry to Shimoda, became widely affiliated with the countries of the world.
During this period of intercourse Nippon has met with many national crises as
well as the undesired Sino-Japanese War, Russo-Japanese War, the World
War, the Manchurian Incident, and the China Incident.
Nippon is now, unfortunately, in a state of open conflict with your country.
Judging Nippon from just this side of the screen you may slander our nation
as a yellow peril, or a blood thirsty nation or maybe a protoplasm of military
clique.
 Though you may use the surprise attack on Pearl Harbour as your primary
material for propaganda, I believe you, of all persons, know best that you left
Nippon no other method in order to save herself from self-destruction.
 His Imperial Highness, as clearly shown in the "Rescript of the Founder of
the Empire" "Yosei"(Justice), "Choki"(Sagacity) and "Sekkei"(Benevolence)
, contained in the above three fold doctrine, rules in the realization of
"Hakko-ichiu"(the universe under His Sacred Rule) in His Gracious mind.
 The realization of which means the habitation of their respective
fatherlands under their own customs and traditions, thus insuring the
everlasting peace of the world.
 Emperor Meiji's "The four seas of the world that are united in brotherhood
will know no high waves nor wind"(composed during the Russo-Japanese
War) won the appraisal of your uncle, Theodore Roosevelt as you yourself
know.
 We, the Nippon-jin, though may follow all lines of trade, it is through our
each walk of life that we support the Imperial doctrine. We, the soldiers of
the Imperial Fighting Force take up arms to further the above stated
"doctrine".
 Though we, at the time,are externally taken by your air raids and shelling
backed by your material superiority, spiritually we are burning with delight
and enjoying the peace of mind.
 This peacefulness of mind, the common universal stigma of the
Nippon-jin, burning with fervour in the upholding of the Imperial Doctrine
may be impossible for you and Churchill to understand. I hereupon pitying
your spiritual feebleness pen a word or two.
 Judging from your actions, white races especially you Anglo-Saxons at
the sacrifice of the coloured races are monopolizing the fruits of the
world.
 In order to attain this end, countless machinations were used to cajole
the yellow races, and to finally deprive them of any strength. Nippon in
retaliation to your imperialism tried to free the oriental nations from your
punitive bonds, only to be faced by your dogged opposition.
You now consider your once friendly Nippon an harmful existence to
your luscious plan, a bunch of barbarians that must be exterminated.
The completion of this Greater East Asia War will bring about the birth
of the East Asia Co-Prosperity Area, this in turn will in the near future
result in theeverlasting peace of the world, if, of course, is not
hampered upon by your unending imperialism.
 Why is it that you, an already flourishing nation, nip in bud the
movement for the freedom of the suppressed nations of the East. It is
no other than to return to the East that which belongs to the East.
 It is beyond our contemplation when we try to understand your stinted
narrowness.
The existence of the East Asia Co-Prosperity sphere does not in
anyway encroach upon your safety as a nation, on the contrary, will sit
as a pillar of world peace ensuring the happiness of the world.
His Imperial Majesty's true aim is no other than the attainment of this
everlasting peace.
 Studying the condition of the never ending racial struggle resulting
from mutual misunderstanding of the European countries, it is not
difficult to feel the need of the everlasting universal peace.
 Present Hitler's crusade of "His Fatherland" is brought about by no
other than the stupidity of holding only Germany, the loser of the
World War, solely responsible for the 1914-1918 calamity and the
deprivation of Germany's re-establishment.
 It is beyond my imagination of how you can slander Hitler's program
and at the same time cooperate with Stalin's "Soviet Russia" which
has as its principle aim the "socialization" of the World at large.
 If only the brute force decides the ruler of the world, fighting will
everlastingly be repeated, and never will the world know peace nor
happiness.
 Upon the attainment of your barbaric world monopoly never forget
to retain in your mind the failure of your predecessor President
Wilson at his heights.




           ↑
凄まじい玉砕戦の直前…米軍への備え
をする日本側の貴重な実写フィルムが
日本ニュース 第247号としてNHKの
サイトで見る事ができます。バナーをク
リックするとHPが開きます。







陸軍衛生部依託学生の身分証明書




昭和18年1月21日の日付けのある身分証明書
です。No.1640です。東京慈恵会医大の当時、
医学生だった方です。この方は、軍医として出
征されたのでしょうか…。
この方は、依託生徒でなく依託学生なので慈恵医大の
医専の出でなく医大の出身である事が判ります。海軍
と同じようなもので陸軍の依託学生・生徒は、医科大・
帝大医学部・医専の在学中に採用試験を受けてなり
ます(17歳以上28歳未満)。合格すると依託学生で毎月
20円、依託生徒で毎月15円が支給されたそうです。後
に双方とも毎月30円が支給に変ったようです。学生の一
・二年の教養課程の夏期休暇時は、指定される歩兵連
隊で士官候補生と同等の訓練を受けて、三年生以降は、
馬術訓練も開始されたようです。卒業と同時に見習士官
(医官)となり曹長の階級で二ヶ月間の連隊付勤務を行
いました。そして二ヶ月後に士官に任官しますが、依託学
生である医大卒以上の医師は、軍医中尉に。依託生徒
の医専卒の医師は、軍医少尉に任官しました。こちらの
阿部純医師は、医大卒の依託学生となるので陸軍 軍医
中尉に任官したものと思われます。


明治期の別な医学生のものです。







陸軍 船舶工兵の夏用軍衣袴




陸軍船舶工兵の夏用の上下です。
珍しい事に腰紐がもとより無い物です.
花田准尉と記名あります。この方は、
少尉まで進級された方のようです。







衛生兵が背負った衛生背嚢




医薬品等を戦地で携行するのに使用した背嚢です。
薄くなっていますが赤十字のマークがプリントされて
います。下部の左右のポケット内側には、常備薬が
決められており薬品名がプリントされています。







陸軍 九六式防寒靴です。
検定印は、難読です。内部の兎の毛でしょうか
こちらは、まだ保たれています。サイズは、11.0。









九六式軽機で攻撃する皇軍兵士