-
Imperial Japanese Army
|
陸軍関連 |
開戦劈頭の南方攻略戦で
|
下の合同葬儀の画像の仏様が残した膨大な資料の |
隼第二三七九部隊、小野部隊町田隊(飛行第七五戦隊の 戦隊長が小野門之助大佐、第一中隊長が町田久雄大尉) というのが、所属した部隊です。この部隊は、飛行第七十 五戦隊を意味しており、軽爆(操縦○迫曹長(戦死後、 准尉)他、乗員3名)にてクアランプールへ前進する為、昭 和17年2月6日に英領マレーのスンゲイパタ二を僚機(石 橋機)と共に1930離陸、途中悪天候に遭遇し回避しながら 飛行を継続し夜間となり僚機の石橋機は、セランゴール州 ラサ南方6kmのウルヤマラヤに墜落し搭乗員全員死亡。 ○迫機は、2200頃、クアランプール上空に至るも暗夜と悪 天候にて飛行場を標定出来なく2回旋回せしも、クラン上空 を通過したまま行方不明となる。2月9日まで町田隊長以下 が捜索を行うが発見できず、捕虜に質問するが手掛かりも 無く3ヶ月近く経過しても発見の報無く敵の捕虜になりたる 情報も皆無の為、マレー半島セランゴール州クラン西方の 海中に乗機ごと墜落し戦死したと認む。と報告書に記載さ れています。中国より飛行第七十五戦隊は、九九式双軽 爆撃機(キ48)を使用していましたので戦死された兵長(上 等兵で戦死後、兵長に昇進)の乗機の軽爆もこの九九双軽 であったと思われます。 |
キ−48、川崎の九九式双軽爆撃機は、日華事変から 敗戦まで陸軍主力爆撃機として活躍した傑作機の一 つです。運動性と速度を求めて要求された本機は、爆 弾搭載量や航続距離を犠牲にして作られました。これ は、当時陸軍が爆撃機を戦略的に用いず地上部隊の 支援目的を最優先にした為です。性能は、最大速度が 480km/h、航続距離は2.400km、爆弾搭載量は、100 kg爆弾なら4発以上、50kg爆弾なら8発以上。武装は、 7.7o機銃3丁であった。 |
九九式U型双軽爆撃機 |
飛行第三四戦隊のU型双軽(上も下も) |
天皇皇后両陛下からキラ星の各界の代表者 から香典や弔辞、手紙が送られています。 |
昭和17年2月6日に戦死されています。 |
とても全部は、掲載できない位の 弔辞が集まっています。 |
参列者の名刺です。 |
大将が四名も参列しています。 首相兼陸軍大臣の東条英機 大将に参謀総長の杉山元元帥 教育総監の山田乙三大将、東京 衛戊司令官の中村孝太郎大将。 |
中島飛行機の上司や関係者の名刺です。 |
所属部隊長が家族に宛てた宛てた 戦死に至る経過説明の手紙。 |
靖国神社より遺族に宛てた手紙 |
軍人恩給からの振込みと除籍の戸籍謄本など |
行方不明捜索より戦死確認に切り替わった 時の経緯経過を改めて所属部隊長が説明 してある文章です。 |
所属部隊の戦友、上司などからの弔慰金のリスト |
以前の上司などからの手紙 |
恩給関係と相続の書類 |
遺産相続関係の書類 |
母校の教職員からの御母堂様 への励ましの手紙 |
戦友、学友、上官からの便りと御両親の手紙 |
息子の戦友に宛てた手紙、戦死の為、戻されています。 |
御両親が切り抜き保存していた 新聞の戦況の記事 |
兵長の軍隊手帳 |
第一飛行集団、第五航空教育隊の所属が記載されています。 兵科は、飛行兵で特業は、電気工手となっています。軍歴は、 昭和15年3月1日に現役兵として第五航空教育隊第二中隊に 入営する時から始まります。4月1日、電気工手修習を開始、8 月9日、電気工手を命ざれる。8月15日、飛行第75戦隊要員を 命ぜられる。同月26日、門司港出発。30日、南京上陸し、南京 原口部隊に入隊、9月5日同部隊第一中隊に配属される。9月 15日、一等兵に昇進。昭和15年8月15日より昭和16年4月30 日まで飛行第75戦隊の所属で支那事変への勤務に従事。昭 和16年9月1日、陸軍上等兵に昇進。同年10月31日、南方派遣 の為、武昌出発。同年11月22日、仏印西貢上陸。30日、泰国 シンゴレア上陸。昭和17年1月3日、泰国英領馬来国境通過。 ここで記載が終了し、昭和17年2月6日にて戦死と記載。 |
遺族が戦死を周囲に知らせた通知と 遺骨帰還を知らせる通知の葉書です。 |
以下は、戦死した兵長が軍に志願する 前に勤務していた中島飛行機の関連資 料です。 |
上は、中島飛行機に就職する際に 記載した履歴書です。 |
中島飛行機に採用され、一級検査手補と なり、一級検査手になった辞令が2枚です。 |
給与明細と実家への送金を示す案内 |
甲種幹部候補生を目指していたようで 陸軍航空兵科技術候補生を希望して いたようです。 |
几帳面な方のようで志願、神聖、受験などの 日程を予定として記載してあります。 |
便箋に札幌農学校のクラーク博士の有名な ”少年よ大志を抱け”の原文が英語で鉛筆 書きで記載されています。下は、裏紙に走り 書きで幹候への意気込みでしょうか。記載 があります。 |
最終的には、一般兵として入営しています ので幹候の試験に不合格だったようです。 |
中島飛行機での航空機エンジンの設計図の一部と 思われます。良く判りませんが、見ているとクランク ケースとかカムシャフトやギア部分に当たる部分の ような気もします。 |
cf.戦死した兵長の飛行第七五戦隊と戦死までの部隊の戦い!
|
マレー方面の進攻作戦の為、仏印に展開した第三飛行集団のうち 九九式双軽を装備していたのは、飛行七五戦隊と飛行九〇戦隊の 二隊でした。両隊とも開戦をコンポントラッシュで迎えました。兵力は 、三中隊(定数37機)。展開中のトラブルなどで12月7日夜の時点で 戦死した兵長のいた七五戦隊は、28機が稼働機数であった。開戦 の8日にまず九〇戦隊の28機が発進し、七五戦隊の28機がこれに 続いた。飛行第五九戦隊の一式戦”隼”11機が護衛にあたりコタバ ル地区に進攻し、両隊は、七五戦隊がクワベスト飛行場を九〇戦隊 がタナメラ飛行場を其々、攻撃する。この第一撃の戦果は、戦闘機 隊のも併せて撃墜6機(未確認うち4機)、撃破2機、爆撃炎上3機と いうものであった。その日の午後に両戦隊併せた48機と一式戦5機 がタナメラへの第二撃に出撃。途中天候悪化で九〇戦隊は、引き返 し、七五戦隊のみで攻撃、1機炎上、3機撃破の戦果を上げコンポト ラッシュへ帰等している。これが開戦の戦いでありました、その後は 、コタバル地区への攻撃を継続、ペナン島では、敵輸送船1隻を撃沈 、1隻を炎上せしめ4隻を大破させる大戦果をあげております。 その後両戦隊は、第三飛行集団の他戦隊と共にイボー、クルアンな どのマレー各地の飛行場やスマトラのメダン飛行場、マラッカ海峡の 敵艦船への攻撃、地上部隊の支援攻撃などを行った。12月29日は 、シンガポール夜間爆撃も開始、この間に第三飛行集団は、飛行場 をナコンからスンゲイパタニへ進めています。開戦以来、12月末間で に上げた戦果は、七五戦隊だけで飛行機炎上:2機、撃破:5機、 駆逐艦撃破:1隻、商船炎上:4隻、同破壊:5隻、飛行場設備炎上:5 箇所、同破壊等:1箇所、列車破壊:9、列車停車場破壊:7箇所、自動 貨車炎上:1両、同破壊等:127両、倉庫破壊等:16棟とされています。 逆に被害は、飛行機焼失:1機、同自爆:4機、同大破:3機、同中破: 7機、同小破:6機、戦死者は、17名であった。明けて昭和17年は、1 月3日より戦いが始まります。シンガポール攻略戦とバレンバン空挺作 戦です。 すでに開始されている両戦隊の双軽爆撃機によるシンガポール空爆 は、2月にはいると2日未明の3機によるセレター油槽群攻撃を皮切り に、セレター・クラワジー油槽群攻撃(3機)、同日昼間のクラワジー油 槽群攻撃(七五戦隊4機、九〇戦隊7機)、4日にジョホール橋西側燃 料庫攻撃(七五戦隊6機)と輸送船攻撃(九〇戦隊5機)、5日のシン ガポール南方海域の艦船攻撃、7日のウビン島攻撃、8日の敵陣地 攻撃と連日に渡りシンガポール方面の攻撃に出動していました。 そのような中、クアランプールへ前進する為、昭和17年2月6日に 英領マレーのスンゲイパタ二を僚機(石橋機)と共に1930離陸、途中 悪天候に遭遇し回避しながら飛行を継続し夜間となり僚機の石橋機 は、セランゴール州ラサ南方6kmのウルヤマラヤに墜落し搭乗員全員 死亡。…となりました。 その後の両戦隊は、15日のシンガポール陥落まで攻撃を継続しました 。一方、バレンバン空挺作戦に先立ち2月6日に事前航空撃滅戦に併 せて33機が出撃したが悪天候に阻まれてバンカ島のムントム飛行場 を爆撃しています。翌日以降、バレンバンに連日、両戦隊は、出撃し敵 の飛行場を空爆しています。14日の第一次挺身部隊の降下の際には 、対空砲火制圧の為、敵の兵営を爆撃、翌15日の第二次挺身部隊の 降下にも援護に回っています。その後の飛行第七五戦隊は、蘭印とニ ューギニアの間に広がるパンダ海の哨戒任務に就き、部隊の一部(一 個中隊:9機)をチモール島クーパンに派遣し同島南方海域の哨戒とジ ャワ・チモール間の船団護衛にあたらせました。 その後は、東部蘭印と豪州北部方面の航空作戦を行う為に第七飛行 師団を編成し、飛行第七五戦隊もその編成に組み込まれる。陸海協同 でオーストラリアのダーウィン攻撃や豪州北部の攻撃、船団攻撃、対潜 水艦攻撃を行いました。19年1月には、東部ニューギニアへ七五戦隊は 、進出し豪北への航空撃滅戦に参加し次第に戦力を擂り減らし、同年4 月には、戦隊稼働機は、2〜3機の状態になり比島方面に転出し戦力の 回復を図り再びムミに進出しホタンジアに上陸した敵への攻撃を開始した 。その後の飛行第七五戦隊は、比島決戦に投入され…旭光隊と若櫻隊 の特攻隊が七五戦隊より編成され、旭光隊は、12月15、16、21、29日 に突入、若櫻隊は、12月20日と1月7日に突入しました。この時の戦隊 長は、土井勤中佐(砲兵出身、鉾田飛行学校、航空士官学校を経て戦 隊長)でモロタイ島・レイテの戦いを常に陣頭指揮で戦いました。昭和20 年4月に土井中佐が転出し、仲川範治少佐が戦隊長に就任、最後の戦 隊長となりました。 |
陸軍 飛行第五二戦隊 四式戦”疾風”
|
空中勤務者章、航空胸章、飛行第52戦隊の部隊章と 思われる機体の一部であろうアルミ材。また手造りの 敵味方識別章や記録板、九八式少尉階級章、三式袖 章、三式中尉階級章、入院時の赤十字臂章等、全て 木庭中尉の所持品となります。 |
見習士官時代の木庭中尉 |
太刀洗飛行学校出身、飛行52戦隊所属。本土防空迎撃戦にて負傷し、 宇都宮陸軍病院(外科病棟)にて治療されています。敗戦時の階級は 陸軍中尉です。上の画像は、太刀洗飛行学校に在学中の身分証明書 です。昭和18年10月1日になっています。当時の階級は、見習士官と なっています。 |
cf.飛行第52戦隊(帥18425)は、昭和20年7月、調布基地に配され 高野明少佐を戦隊長に四式戦”疾風”30機を戦力としました。尚、こ の戦隊は、航空総軍の直轄部隊でありました。 |
逓信省航空局 米子航空機乗員養成所の教官
|
上の品々は、福井 太久美陸軍航空少尉の所持品です。トランクの両 側に名刺があり、そこに一等飛行士・一等航空士とあります。所属は、 航空局米子乗員養成所となっています。 逓信省航空局は、昭和13年6月11日に民間航空要員養成の機関として 仙台と米子に地方航空機乗員養成所が開設されました。その後、熊本、 新潟、印旛の各地方航空機乗員養成所開設。また松戸高等航空機乗務 員養成所が開設されました。通常、本科生徒は、操縦と機関に分かれ各 期の生徒数は、60名でした。敗戦までに各地の乗員養成所で巣立ちし 若鷲は、千名余りと言われております。またこれらの生徒を教育した職員 も500余名に上ります。福井少尉もその中の教官の一名でした。少なくな い数の卒業生と教官達が戦場の空に散華しました。現在、陸上自衛隊 米子駐屯地には、米子乗員養成所の記念碑があります。 |
上の福井少尉の物では、ありませんが逓信省 航空機乗員養成所の略帽用の帽章です。 |
民間航空の振興を図る為に、昭和13年に中央(千葉)と地方に逓信省 航空局航空機乗員養成所を創設しました。中央は、修業年限一ケ年で 職業飛行士を養成して、地方では、小学校卒業生を五ケ年間訓練して 二等飛行士を養成しました。卒業者は、陸海軍の予備役下士官に任命 されました。戦時中では、この卒業者の殆どが即日召集されています。 |
陸軍航空隊
|
イメージで兵長の階級章を当ててみました。 |
飛行帽の後頭部に森野と記載されています。 |
昭和18年の広支検定、中号。内部の毛皮も外の皮も非常に柔らかく 程度の良いものです。 |
昭和19年、本廠検定、小号。こちらもベルトも完全で虫食いの無い美品です。 |
陸軍 航空兵の防寒下着 |
飛行服の下に着た防寒下着です。襟の裏等に検定印があり 上は、昭和18年製 中号。下は、昭和18年製本廠検定 大号 です。 |
陸軍 第二種航空手袋 |
夏用の飛行手袋です。昭和19年製の小号、帝軍納です。 |
陸軍 九七式操縦者用縛帯と縛帯収容嚢 |
陸軍九七式操縦者用縛帯 昭和十六年の完全品 |
検定布には、操縦者用落下傘九七式 製造番号13687 製造 昭和16年3月20日 会社名 満州藤倉工業株式会社 と読めます。離脱器も完全でベルトの装着・離脱もスムーズ に作動します。バンド・背布も完全。尻に掛かる部分のフエルト も完全ではありませんが残っています。 |
完全な形で残存する物は、少ない品です。 |
右の九七式操縦者用縛帯が左の嚢に収められます。 |
方布が残念ながら剥がされています。陸軍航空隊の星章が印されています。 |
陸軍 九七式操縦者用落下傘 |
陸軍九七式操縦者用落下傘体です。戦闘機パイロットが主として 使用した落下傘です。落下傘傘嚢、座などは完全。この九七式は 、良く知られているように縛帯装着時には臀部にきて、操縦席の 座席の下に置くようになっています。これは落下傘が邪魔になら ないよう配慮された事と、落下傘を機内に持ち込む事を忘れない 様にする為です。製造布には”操縦者落下傘九七式 昭和19年 6月22日 藤22310 ”と陸軍の☆印が入っています。座の下 には部品類と、落下傘を開く赤い紐が入っており、頭部の球部も 付いています。書類を入れるポケットに、本来は傘を畳んだ日付 を入れる紙が入っていますが、殆ど破損しています。傘体は、一 度開くと、訓練を受けてない者では元に戻せませんので、未開 封のままです。傘嚢には、経年のホコリ汚れとや若干の水シミな どがあります。座にも多少ホコリ汚れありますが、本体、パーツは 大体揃っているようです。傘嚢の外を引っ張る4本のゴム紐は収 納されているようですが、ゴムは硬化が見られます。。引っ張り 出すと破損の恐れがあり触っていません。相対的には、程度は 良好と思われます。良く東南アジアで一万円位で落下傘が売ら れておりますが…そうした品にありがちな欠品が多い物とは、 違うようです。 |
陸軍 航空電熱衣袴(後期型)
|
陸軍の航空兵が高々度迎撃に使用した後期型の (薄い飛行服の下に着る)電熱服です。保存状態 が良い未使用の美品です。 |
陸軍航空隊 電熱足袋・手袋 (一組:未使用) |
電熱足袋は、電熱服とセットでたまに出てきますが、電熱手袋は初めてす。 |
昭和17年本廠検定の中號です。 |
稀少な電熱手袋です。 |
陸軍航空隊 電熱足袋(未使用デットストック) |
こちらも昭和17年本廠検定の電熱足袋の中号です。 |
陸軍航空隊 電熱足袋 昭和18年 中號
|
こちらも未使用のデットストックです。 |
昭和18年大支検定の中號です。 |
陸軍 航空電熱衣袴(後期型)
|
こちらは、上のと同じく未使用の航空電熱服です。 19年製、大支検定の大号です。上のと違い収納箱 が無く、またプラグコードが切断されています。 |
陸軍傷痍軍人の義指 |
支那事変の戦闘で左の中指を失った一等兵の義指 とその他の種類関係です。 |
余り使用しなかったのかキレイな義指です。 |
陸軍★作業衣袴(一種) |
陸軍の一種作業衣袴です。炊事や衛生作業に着ます。 作業衣は、五号、昭和十七年製、大支検定。襟に汗取 りの白布を付けています。作業袴は、三号、昭和十八 年製、大支検定。内側にサスペンダー用のボタンを付け ています。イメージで一等兵の階級章を合わせてみまし た。 |
別の袴のみ未使用、昭和18年 三号 本廠検定 |
立襟時代の一種作業衣 |
昭和十一年製、本廠検定、小号。昭五式軍衣時代の立襟作業衣です。 |
陸軍★作業衣袴(第二種) |
第二種作業衣袴 |
イメージで手許の一等兵階級章を合わせてみました。 |
陸軍二種作業衣は、戦車兵が夏衣として着用しましたので戦車兵夏衣と 呼ばれる事があります。勿論、他にも航空機、自動車、兵器の整備兵な どでも使用しています。本品は、綿地で腰紐も残っています。昭和18年 中号 本廠検定の検定印があります。 |
陸軍★防寒作業衣袴 |
上下共に昭和18年、大支検定、小号 |
この防寒作業衣袴は、戦車兵冬衣とも呼ばれます。 |
イメージで手持ちの兵長階級章を合わせて見ました。 |
陸軍憲兵中尉の九八式軍衣袴 |
残念な事にボロボロです。軍衣は、夏用です。軍袴は、比較的 程度が良いです。 |
かなり小柄の方のようです。 女性用のマネキンを使っても 釦が止まりません。 |
昭五式 野戦用軍衣 (歩兵科将校) |
中尉肩章と略綬は、手持ちの合わせです。 |
演習や野戦用として厚手の綿生地で仕立てられた珍しい服です。歩兵科兵科章 初付け。また、右胸物入れ蓋部分と右腕上部に当時の部隊章が付いています。 |
関東軍 白田 准尉の現地誂軍衣袴 |
【関東軍酒保指定工場・株式会社不二公司】所有者【白田】のネーム有り。 准尉の襟章は金具止め型【実用新案登録願・第九六二号】と刻印有り。軍 衣に痛み虫食い無し。軍袴小カギ裂き直しと一箇所有ります。表裏地共に 高級将校用の造りで状態の良い物です。略綬は、イメージで有り合せのも のを付けて見ました。 |
陸軍将校用 南方防暑衣 |
陸軍将校用 南方防暑衣です。長六角形片布に中号のスタンプ有ります。 軍・偕行社製の吊るしの既製品です。釦 4箇所・半袖型は、珍しいです。 |
陸軍 軍属雇人の制服と略帽 |
昭和18年初期に改正された臂章を左臂に付けています。胸章と臂章 から雇人というのが判ります。昭和17年改正の肩章は、付けて無い ようです。外した形跡もありません。昭和18年10月には、肩章も改正 されます。それまでの過渡期の物かもしれません。釦が金属釦であり ません。 |
陸軍 軍属(夏衣袴) 未使用 |
衣袴共にサイズは、四号。未使用品で衣の前合わせボタンと 物入れの釦は取り付けられておりません。とても状態の良い 品です。 |
陸軍 船舶工兵の鎧戸式示号布板 |
陸軍 臣第二九六一五部隊
|
裏側は、戦後に使われたのでしょう”大阪鉄道倶楽部”とあります。 |
はっきりしませんが、多分、この通称号は、大阪陸軍造兵廠の物と 思います。通常、”臣”は、陸軍大臣に直接隷属する部隊の兵団符 です。小倉陸軍造兵廠なら”臣第二九六一六部隊”という通称号が 与えられています。 |
大阪市の旧大阪陸軍造兵廠 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |