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旧軍関連収集品
(軍装品...etc)PartTa














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍の軍服




陸軍砲兵大尉 
    改四五式軍衣  
   陸軍歩兵少尉 
        九八式軍衣

陸軍歩兵大尉
    昭五式軍衣    
    陸軍少尉
     九八式軍衣
    (輜重兵科山型胸章)

陸軍大尉 三式軍衣
  尉官隊長章・船舶工兵胸章
  陸軍少佐 軍医
      九八式軍衣
    (衛生科山型胸章)

陸軍歩兵少佐大礼服(正衣)
右は、陸軍大佐 九八式
上は、海軍大佐二種軍衣 
左は、海軍少尉三種軍衣
 陸軍中尉 三式軍衣

陸軍中尉 マント

陸軍一等兵 防寒外套

陸軍兵・下士官用四五式 シングル外套          陸軍兵・下士官用 ダブル外套

昭和20年最末期の兵・下士官用コート
物資不足を窺わせる粗雑な作りです。

熱地被服(七分丈防暑襦袢)  
所謂、南方服に陸軍軍曹の
略階級章
 陸軍少尉 三式軍衣
     (冬)

陸軍軍曹 熱地被服       陸軍曹長 熱地被服

陸軍 防暑跨(兵下士官用)
昭和18年、大支検定、中号

陸軍上等兵 九八式軍衣(冬)

陸軍上等兵 九八式軍衣(夏)

陸軍曹長 九八式軍衣(冬)

陸軍伍長 防暑略衣

陸軍一等兵    九八式軍衣(冬)

陸軍伍長

通称 マルレ
陸軍特攻艇隊”震洋艇”
海上作業衣

陸軍上等兵
セパレート作業衣?
  不明の軍衣
(もしかしたら戦後の
改造品との事。)

九八式軍衣の伍長勤務上等兵の騎兵装備…騎兵用弾帯に
雑嚢と水筒、四四式騎兵銃(レプリカ)に騎兵用グルメットに
つながれた騎兵用三二式サーベル軍刀。(左腕に伍長勤務
上等兵の肘章、襟の階級章は、上等兵の三つ星、尚、伍長
勤務上等兵は、後の改正で兵長となる。)

九八式軍衣の上等兵の一般兵用の弾薬盒・銃剣の装備。
三十年式銃剣を剣差しに入れ軍衣の剣留で吊っている。
小銃は、三八式歩兵小銃(無可動実銃)、右腕に善行章が
一本付いている。この装備に雑嚢と水筒を付ければ軽装備
の出来上がりである。更に背嚢を背負い鉄帽を被ると完全
軍装になる。
雑嚢と水筒に背嚢を装備した画像。


陸軍軍属制服(軍属秦任・
  判任官袖章、軍属胸章)



陸軍大尉  開襟軍衣



陸軍少尉 三式軍衣(冬)
(飛行将校襟章、士官用航空胸章)





 
明治期の将校用外套です。…俗に灰色かかった生地といわれる
生地を使用しております。立襟軍衣時代の外套ですが…明治期
の物と思われます。時代なりの表面に虫なめが多く見受けられま
す。大阪のテーラーのタグと、所有者の記名が内側に残っていま
す。肩章止めは初付けで残っており、釦は通常の物と違い、盛り
上がった饅頭型釦を使用しています。画像撮影に中尉肩章を付け
てみました。



陸軍参謀中佐 九八式開襟参謀衣 







陸軍中尉 防暑開襟軍衣




九八式の開襟野戦服に三式袖線を入れた中尉の軍衣です。
開襟シャツの襟を装着できるように下の画像のように首の周りに
当たる内側に釦が残っています。三式袖線は入れていますが敢
えてなのか袖章は、縫い付けされていません。







陸軍中佐 防暑開襟半袖軍衣半袴






同一人の軍人が使用していた開襟半袖の上下組
です。軍衣には九八式中佐襟章が当時のままの
姿で残っています。殆ど未使用に近い美品です。
少し前まで陸上自衛隊○○○駐屯地で展示され
ていた品のようです。







陸軍大佐 防暑開襟半袖軍衣半袴と装備




非常に程度の良い一式です。画像では
判りませんが佐官隊長章の糸掛りがあ
ります。
やはり連隊長クラスともなれば他の尉・佐官の
防暑衣袴と比べても相当に上質な作りです。







砲兵科将校 夏軍衣




肩章留と鍬型は健全です。
手持ちの中尉肩章をイメージで合わせてみました。







昭五式将校用外套






内側が外側より痛みが目立ちます。恐らく昭五式
と思われる将校用の外套です。山下のネームが
刺繍されています。イメージで中尉の肩章を肩章
留めに通して撮影してみました。






将校用外套の毛皮付防寒襟













将校胴締(昭五式期の)




全長105p位、尾錠部、鳩目共に真鍮。
地質は将校軍服絨製。
上記画像のように鳩目の一個の
裏部品が欠損あります。







尉官用の将校用マント
   (陸軍将校冬マント 尉官識別線章付)






尉官識別線章付の極美品のマントです!



別な方のフード(佐官識別線章付)












その他の各種フード

















九八式 将校用外套




袖線一線(尉官)が入っています。







昭五式(立襟時代)の防寒外套(兵下士官用)




陸軍の官給品の防寒外套(裏が総毛皮のもの)です。
裏羊毛皮の程度は、良好。しかし襟後部の兎毛皮に痛み
があります。また大釦は二つが交換されています。


肩章止め、帯革止め、大手套ひ紐通し健全です。


昭和8年、本廠検定、中号です。ウサギ毛は
大十購入羊毛は大十二年購入です。
スタンプ、未記名です。
九八式時代の裾だけに毛皮のついた防寒外套は、
よく出てきて見かけますが、昭五式時代の総毛皮の
完全品は、珍しいです。







憲兵マントと外套




立襟時代の憲兵マントです。    フードを装着した画像
記名布には、11年京都憲兵隊とあります。
持ち主の方は、昭和14年に上海憲兵隊に
居られたそうです。

     陸軍憲兵兵長 マント

上のマントが立襟時代のものに対して、
こちらは、九八式以降のマントです。
昭和17年 大支検定です。


昭和16年本廠検定の憲兵マントです。
イメージで軍曹の階級章を合わせてみ
ました。


状態の良い憲兵マントですが、釦が取り
替えられているのが残念です。昭和十七
年製、大支検定。フードの取付の釦は、当
時のままですが、一つに多少のカケがあ
ります。






こちらも未使用の憲兵マントです。
昭和十八年、本廠検定の美品。






☆珍しい兵・下士官四五式の憲兵用外套です。☆

フードが取り外し式になっておりますが、これは
よくある改造品ではなく憲兵用の為です。内側の
検定印には金沢憲兵隊の印があります。憲兵マ
ントは、時々出ますが、憲兵用外套はあまり見か
けません。







貴重な資料:伊村憲兵軍曹の所持品




憲兵軍曹の所持品です。同一人物の所持品として憲兵物がこれだけ
揃いで残っているのは。非常に稀な事と思います。特に憲兵は、戦後
、憲兵であった過去を隠しひっそりと生きてきた方が多いと聞きます。
左翼や一部の人にとって旧軍事代の代表みたいな目で見られた部分
もありますので…他の兵科と違い早くから人目につかず処分される傾
向が強い為と思われます。特に外地憲兵は、戦後、魔女狩りの裁判と
処刑を恐れて敗戦後、身分を捨て潜伏し帰国の途についた方も多かっ
たと聞きます。その中で無事に復員船に潜り込めず現地人に殺され
る者も多数あったと聞き及びます。…この方は、国内の憲兵で松江地
区憲兵隊に所属した憲兵軍曹でした。




2枚の憲兵腕章です。上の一枚は、通常使っていた
もののようです。裏に伊村満の判が捺されています。
下の画像は、M.P.が入っています。これは、敗戦時、
進駐軍を迎え入れるのに進駐軍に危害を加えるのを
防ぐ為、憲兵隊が警備した時のものです。因みに軍
部は、進駐軍に対して何らかの危害を国内の諸部隊
が起こす事を相当に警戒していたらしく…国内の一般
部隊の兵士を動員し補助憲兵として警戒した事があり
ました。
士官ではありませんから官給品の拳銃と下士官刀を
支給されています。外地憲兵なら敗戦のドサクサにな
ら紛れて何でもありのようでしたが…国内の憲兵です
から敗戦後、復員の際に特に銃火器・刀剣類は、軍に
返納するしかない事でしょう。せいぜいが長年使った
腕章・徽章類や記念のホルスターに身の周りの品しか
持ちだせなかったのかもしれません。




伊村憲兵軍曹の使用した奉公袋
に憲兵徽章です。




名刺に常に使用していた憲兵関係の
マニュアル本等です。かなり中身は、
書き込みや張り紙があります。




教本にテープがあるのは戦後も憲兵教範で
調べ物をしたようです。


こちらも張り紙等があり、かなり勉強されていたようです。
軍法会議の裁判の事や様々な事が載っています。




伊村憲兵軍曹の軍隊手帖です。この方は、大正9年11月1日の
生まれです。今も存命であれば84歳となります。敗戦時は、25
歳でした。広島県安芸郡の出身です。所管は、第五師団管区で
す。所属は、呉憲兵隊となっています。兵科は、憲兵、階級は、
憲兵軍曹です。当初は、騎兵だったようです。最初の所属は、騎
兵第五連隊となっております。軍歴は、昭和15年4月10日に現
役志願兵として騎兵第五連隊補充中隊に入隊したことより始まっ
ています。同日、騎兵二等兵。同年9月勅令第581号に陸軍二等
兵、11月29日陸軍一等兵。12月に編成改正により捜索第五連
隊補充隊第一中隊に編入。昭和16年6月26日、右上膊部筋炎に
て広島陸軍病院に入院。同年12月1日昭和17年度第一次憲兵
教習兵として陸軍憲兵学校に分遣となる。昭和17年4月10日、
陸軍上等兵。同年4月20日、分遣中の陸軍憲兵学校の教育終了
につき帰隊。同年4月21日、陸軍憲兵兵長に昇進。同日、呉憲兵
隊付となり下士官勤務を命ぜられる。5月28日、軍令陸甲第38号
により呉憲兵隊臨時編成。30日、編成完結、同日、呉憲兵隊付。
昭和18年6月21日、呉憲兵隊広憲兵分遣隊付。昭和19年7月
15日、戦時警備下令。8月1日、給三等級 憲兵伍長。同年12月
31日、給二等級 憲兵軍曹に昇進。昭和20年3月15日、軍令陸
甲第46号により中国憲兵隊呉地区憲兵臨時編成。同日、呉地区
憲兵隊広憲兵分隊付。4月1日、編成完結。同年4月5日、松江地
区憲兵隊付。同年8月7日、広島戦災(原爆投下)により応援の為、
部下7名とと共に派遣を命ぜられる。昭和20年8月15日、終戦の
詔勅。同年10月6日、復員除隊(体調不良の為)。…以上がこの方
の軍歴の全てです。約6年間の軍歴の中で幸いにも本国より一度も
出る事無く敗戦を迎えています。体調不良の為、復員除隊となってお
りますが…8月6日に原爆が広島に投下され、その翌日に広島入りを
しています。残留放射能を浴びた可能性がありますので…この為によ
る体調不良かもと想像してしまいます。







憲兵腕章(久留米憲兵隊)




白地に朱書。表面素材はモスリン、裏が綿製。ハトメ金具は
真鍮に黒艶消の塗装。”久留米憲兵隊 備付”、”昭和20年
3月”。ハトメ部分をタコ糸で結んである。虫食い等ありますが
…全体的には程度は、良好です。







野戦電話機(有線通信機)




昭和7年制定の九二式電話機です。これが敗戦まで
日本軍の有線通信の主流となりました。敗戦までに
約8万個が生産されています。非常に軽量コンパクト
に作られています。
この九二式電話機は、主に最前線と
中隊本部を繋いだ通信機です。延線
手は、一巻500mの巻框を持って電
話線を敷設したり撤収します。
野戦電話を使う兵







通常、一巻が約500mあります。これを巻框
に入れて延線手が敷設して、主に最前線と
中隊本部とを有線通信で結びました。









こちらの皮ケースは、九二式野戦電話機の予備
の送受話器の収納したものです。
昭和14年に沖電気のマーク、丸と京の
刻印が見られます。







陸軍 九四式六号無線機




昭和9年制定の九四式無線機です。九四式は、以
下のように大型の二号、中型の三号、小型の五・
六号がありました。

・九四式二号乙無線機
・九四式三号甲無線機(大型)
・九四式三号丙無線機(中型)
・九四式五号無線機(小型)
・九四式六号無線機(小型)

に分類されます。野戦用には、五号が最も小型の
為多用され生産数も多かったようです。この九四
式は、送受信機による音声通信と電鍵によるモー
ルス信号通信の兼用を行いました。
昭和18年の東洋通信機製。"一号J型送受話器"
(上部の蓋内に差込)と”3V低圧コード”(側面に
差込)が付いています。

上の物とは、別の九四式六号無線機です。
九四式六号無線機 32号H型通信機 
ナンバー101348 昭和15年5月製 
東京第一造兵廠のプレートが付いてい
ます。また”軍事秘密”プレートがあり
ます。


受話器部分と送信部分が欠品です。また
戦後に改造して通信機として使用したのか
、サイドを切り取りスイッチを後付していま
す。内部の配線図や、ダイヤル類はオリジ
ナルのようですが、メーターは後付のようで
内部パーツは、電波を出せるように改造さ
れているようです。
この六号無線機は、送・受話一体型の無線機
です。サイズは五号無線機の約半分で、幅180
o、奥行80o、高130o、重量2kgであり、
1930年代では、軽量コンパクトで安定した性能
の優秀な無線機でした。しかし1940年代では、
パワー不足が目立ち時代遅れとされました。この
六号無線機は、一人の兵が携帯し音声通信と電
信兼用でした。25〜45メガサイクルを3つのバ
ンドに分けたセミVHFの近距離通信用の無線機
でした。






九四式六号無線機・二一号・手回発電機








昭和19年9月製・富士電機製造(株)。九二式より
軽量化(2/3程度)され携帯肩掛け式になっています
発電のハンドル回しも九二式よりかなり軽くなってい
ます。
完品で状態も良好ですが、”軍事秘密”のプレ
ートは外されています。発電機能は、現在も有り使用
できます。





こちらも無線機の革覆ですが革紐が替え
られて布になっています。






九四式三号甲無線機 五三号C型受信機
              (馬上副受信機)




陸軍九四式三号甲無線機は、通信距離が約80km。
師団通信隊の主要機材であり軍通信隊の短距離用
通信機材としても使用されました。
所謂、馬上副受信機です。
この馬上副受信機は、馬上待ち受け受信用で
あり実用性が低いものでした。
上の右表のグラフのように400KHzから5750KHz
まで、捲線で5段階に成っています。
ヘテロダイン
調整を採用しています、コンパクトに小さく収めら
れ、当時の製作技術の高さに驚かせられます。






九四式五号無線機の収納箱(二号箱)




本来、この中に九四式五号無線機の他に四号型低周波増幅器
、一号型雲母蓄電器、一号D型雲母蓄電器2個、紙蓄電器、固定
抵抗器3個、送話内器、発電機接続紐、発電装置説明書、三二
号F型送信機、一九号F型手回発電機、二号B型携帯電圧計、手
回電燈、電燈用豆電電球2個、オコナイト線30m、ゴム綿帯1巻、
綿帯1巻、等々が入れられていたようです。






九四式三号丙無線機五号型手入具






九四式三号丙無線機五号型手入用具と嚢。カーキの
キャンバス布の収納袋に、中身の工具が入っていま
す。ドライバー、スパナ、ねじ回しなど8点付いていま
す。全ての場所にあるべき工具の名称が書かれてお
り、4点欠品していますが、使用頻度の少ない物は、
支給時に入って居なかった可能性もあるとのことです。



九八式無線機試験器 甲




昭和17年製






九八式無線機試験器 乙













陸軍 地二号ニ型無線機の送信機の収納箱




旧陸軍航空隊の芦屋基地近くの
民家より出た地ニ号ニ型無線機
の受信機・整流器と一緒に出た
品です。御存知の通り芦屋基地
は、昭和17年に完成し一式戦”
隼”が配備されました。敗戦前
は、五式戦が配備されておりま
した。戦後、米軍が使用した後
自衛隊が今も使用しております
アルミ作りでサイズが25cm x 20.5cm x 21cm
蓋の内部等に通し番号の刻印が見られます。
御存知のように陸軍の航空基地では、飛行機との
通信用の地上局用通信機として短波帯を利用する
各種の無線機が開発されましたが、その一つが地
二号無線機です。通信距離が500km以上の中距離
用の無線機で電信180W、電話40W。因みに下にあ
る空挺用の地三号無線機は、短距離用で100kmが
通信範囲でした。
下が仕事で落札が出来なかった一緒に出た
無線機の受信機の方です。







陸軍 九四式対空二号無線機(二型)操縦機




陸軍の爆撃機などに搭載された九四式飛ニ号無線機
などに対して地上の陸軍航空基地で主力として敗戦ま
で活躍した無線機の操縦機です。
銘板には、東京電気株式会社 昭和15年12月製
と陸軍の刻印があります。蓋を開けると電信の為の
電鍵が取り付けられています。本体裏は、電話機等
端子がついています。













とある通信隊の元将校(佐々木 正之 中尉)の遺品




電鍵です。裏に薄れていますが、菊池部隊通信隊
とあります。所持していた方が最近亡くなるまで大
事に保存していたものです。左端の番号は、難読
で不明です。
この方の最終階級は、判りませんが所持品の中に
中尉の通例肩章があったようです。また軍刀も残っ
ていたそうで、この事より元将校だったと考えられ
ます。
最近の新しい情報で佐々木正之中尉(最終階級は、
不明)は、埼玉県所沢の陸軍航空整備学校教育隊
で区隊長(おそらく教官)をされていたようです。途中
で戦地(中支派遣軍)に出られており、派遣先が航空
隊なのか良くわかりませんが、他に脇差の短寸軍刀
あったようです。 鞘の革巻きには墨書きで、”陸軍航
空整備学校教育隊”となっていたようです。”菊池部隊
通信隊”が最後の所属だと思われ陸軍航空隊の整備
勤務と推察されます。


その後に現れた佐々木中尉の
手紙類です。
これらより昭和15年3月現在で中支派遣の
木下部隊隷下の桑名部隊の今西部隊に居ら
れた事が判ります。






この手紙から佐々木中尉は、愛知県の
作手農林学校という学校の卒業生であ
る事が判りました。









戦前と戦後の送信機 電鍵




画像の木製の方は、戦前の物で九二式電話機
と一緒に出て来たものだそうです。陸軍で使わ
れた電鍵のようです。黒いベークライド製の方は
、明らかに戦後の日本製のものです。







陸軍 空挺無線 の実物可動品




陸軍地3号無線機 受信機

通信距離は、約100Km(対空)とのことです。
短距離通信用で小規模な航空基地や離島で
使用された汎用機材。送信機ばガソリン発電
機若しくは、交流電源を使用、受
信機は6V蓄
電池。




電源部のバッテリーが入る部分が100V電源とアンプが
入れられ改造されています。これで家庭用100Vで実際
に当時の音が聞こえるようになっています。その他は、
真空管を含め当時のままです。
す。







陸軍 空挺部隊関連




真贋は、良く判りませんが多分、レプリカでしょう!
…裏に縫付の針跡が残っています。下の画像は、
全日本空挺同士会編の”空挺部隊写真集”にある
実物の画像です。両方の翼の跳ね上がりを見ると
上の物は、跳ね上がりが見られません。また翼の
部分に上は、黒い分け目のような糸がありますが、
下には、見られません。



左が降下作業衣、右が降下靴



空挺の降下外被です。落下傘降下のと時、全ての装備品をつけて
降下外被を着装し、落下傘の紐が絡まない様にします。股のスナッ
プボタン、腋のスナップボタンを外せば、容易に脱ぐことが出来ます。
記名欄が未記入と、背中にサイズの「中」とチョークで書かれた跡が
まだわかる…と言う事で未使用品と前のオーナーの方が判断されて
おりましたが、下の画像でもお判りのようにファスナー式のポケットの
蓋となる布地をめくると市松の名前が記載されています。これが使用
者なのか…どうなのかは、判りません。また下の画像に有るように股
下の各所に792の番号が打たれています。多分、製作の際の合せ番
号と思われます。前面左下に水濡れの痕跡と、左一番上のボタンが
破損していたのか、ニッケルメッキの新しい物に変わっています。背
中部分にねずみに齧られたような跡があり、その穴を布を貼り付けて
補修した跡があります。前のオーナーの方が15年間、入手したまま触
らないで保存しておったとの事でしたので私も触らないように保管す
べく、マネキンに着せずハンガーでの撮影を行いました。
昭和19年 中号 本廠検定の検定印があります。





陸軍 一式落下傘(ニ型)収容嚢です。三菱電機
郡山工場と昭和19年2月10日の記載があります。
郡山の三菱電機は、戦時中に落下傘の製造・補
修をしていたそうです。





こちらは、海軍空挺部隊用の一式落下傘
(特型)です。






空挺部隊の物量降下用の梱包材









陸軍 降下ベルト(未使用)





当初、この胴巻きは、空挺とは、違う物と思われました。金具の
形状から見ても砲兵が射撃時内臓を衝撃から守る物との指摘
がなされていました(また、空挺の物は降下つなぎの一部です
から記名は無いとの指摘もあり)。落下傘兵は、ともかく航空兵
が腹巻状に巻き袋状の中に貴重品をいれるものだそうです。満
が一、敵前に墜落降下した時にも貴重品だけでも身につけてお
くと言う事だそうです。ベルトの金具は丸環に塗装とクローム鍍
金の他に、飛行服のベルト金具付など色々有るそうです。名称
は「飛行兵の腹巻・飛行兵の腹帯」と呼ばれていたそうです。…
後の調べで日本軍装写真集にある降下ベルトであると判明しま
した。

大きさ 物入れ部 幅13cm 
     ベルト部  幅5cm 厚さ約5mm 全長200cm

こちらの品は、金具が違います。こちらは
昭和18年本廠検定です。










陸軍 四式落下傘と四式縛帯
















落下傘・縛帯共に申し分の無い状態です。良くあるマニア
放出品で縫い目に逆らって持つと綻ぶような品があります
が、本品は、当時のまま丈夫に保管されていた品です。






陸軍 空挺部隊用 物量投下筒




落下傘の物量投下筒です。グリーンのオリジナルペイントが
しっかり残っています。蓋の裏に、まるで囲んだ星が刻まれ
ています。筒は、柳行李の柳を編んで作ってあり、軽量で強
く、安い製造原価となものとなっています。筒の先は空挺鉄
帽と似た形状のキャンバス布を繋いだもので、中にクッション
材が入っています。筒の中央に引っ掛ける金具が付き、後部
の紐は、物量傘を装着する部品です。中には銃器、弾薬、食
料、医薬品を入れて落下傘で投下したり、補給用に投下に使
用したりと思われます。

    直径20cm、長さ73cm 結構、大きい物です。






cf. 空挺部隊画像ギャラリー



左の画像は、初代空挺練習部長の河島中佐。
右は、初期の九二式同乗者用落下傘の装備例。




双発高等練習機からの降下訓練
九七式輸送機から一式落下傘を使った降下。
左は、双発練習機。右は、九七式輸送機
の機内の様子。
左は、百式輸送機への搭乗風景、一機に
13名が搭乗した。
二式テラと一式落下傘(主傘と予備傘)。空挺隊創設期は、
九二式同乗者用落下傘を使用したが、昭和16年秋頃から
は、この一式落下傘が主体となる。19年暮れには、四式
落下傘に変っていった。
二式テラは、分解し両足に付けて降下した。その他の軽機関銃などを
使う降下兵は、上記画像のように物量箱から兵器を取り出すまで拳銃
で武装した。左上の画像は、九九式軽機関銃を取り出して駆けてい
る降下兵である。
物料箱には、数種類の規格があったらしく一号箱
というのが最も一般的であり、この中に一個分隊
の兵器が収められていた。
九九式軽機関銃を構える降下兵




休憩中の画像であろうか、木にもたれ
掛る二式テラ銃の銃嚢が判る。これを
両足に付けて降下した。


銃嚢を付けている。
四式落下傘世界に先駆けて我国が採用した吊索優先
の開傘方式でこれによりノロシとなり不開傘が絶無とい
われた。戦後、米軍がこれを真似てT-10を開発したと
言われています。
装備だけで50kg…機内に這い上がるのも大変
だったといわれています。
義烈空挺隊の整列と討ち入り装束。




百式短機関銃を担いでいるのが判る。




奥山、諏訪両隊長には、第六航空軍司令官
の菅原中将から脇差が贈られた。
奥山隊長
出撃時、見送りに応える両隊長
見送る整備兵…第3独立飛行隊の整備は、飛行第60戦隊
が担当した。右の画像は、出撃した空挺部隊。
読谷飛行場に強行着陸に成功した一機
…米軍の撮影した画像。

尚、義烈空挺隊の135名の隊員の装備は、

100式短機関銃  37挺 各弾倉10個 弾薬300発
九九式短小銃   43挺
九九式軽機関銃 12挺
 各弾倉6個  弾薬540発
八九式擲弾筒   1門  弾薬20発
九四式自動拳銃 73挺 各弾倉3個
三十年式銃剣  135振 
手榴弾      2015発

となっております。(防衛研究所図書室所蔵による
”義烈空挺隊計画書”による)


空の神兵の動画です。動画を再生される場合はページ
TOPのMIDI音源のプレイヤーを停めてからお楽しみ下
さい。




高野山の空挺部隊将兵之墓です。挺身第三聯隊附の中村軍医を
中心とする生き残りの空挺隊員が総力を挙げて建立したものです。
今も毎年9月に全日本空挺同志会主催にて慰霊祭が執り行われま
す。元々は大阪に本部を置く空挺戦友会が毎年慰霊祭を開催して
いましたが、主だった方が亡くなられ実施が困難となり昭和40年か
ら碑の管理と慰霊祭を全日本空挺同志会が行うようになりました。
昭和31年9月23日に開眼式が行われ分霊が宮崎の川南護国神社
から遷座されています。
鞍馬石の主碑”空”を中心に副碑の石は仙台、背後の石は四国の
徳島、その両側の石は和歌山の海南市の海岸から採取されたもの
で敷き詰められた白砂は京都・白河のものだそうです。主碑・副碑
ともに静かな墓という気持ちを表す為に敢えて土台を置かずに地面
にそのまま稙立されています。
「花負いて 空撃ち征かん雲染めて、屍悔いなく 我等散るなり」
… ”空”の一字墓です。この主碑の刻字の”空”は弘法大師空海
の直筆とされる灌頂記の字であり、空海の”空”、そして空挺部隊
の”空”、そして己を空しくして国に殉じた空挺部隊将兵の愛した
字でもあり使われたと謂います。
副碑には『祖国日本の弥栄を願い後に続く者を信じ空挺落下傘部隊
将兵の霊は此処に静かに眠る』と記されています。


搭乗前の僅かな時間に隊員おのおのの故郷に向かい別れを告げています。
これが義烈空挺隊の勇士達の最後の姿となります。
豊岡の陸軍航空士官学校に集結した義烈空挺隊の隊員達です。
奥山・諏訪部両隊長が笑顔で握手する姿です。



沖縄戦に挺身特攻を果たした義烈空挺隊 及び航空隊の戦死者名簿です。


寄書に見る隊員達の心境です。
右は 棟方 哲三 少尉、左の二
名は第三独立飛行隊の 小林 真
吾 少尉と 新妻 幸男 少尉のもの
です。







レプリカの陸軍船舶工兵救命胴衣




中田製のレプリカです。







実物の陸軍船舶工兵 救命胴衣






汚れや解れは、ありますが陸軍の救命胴衣です。







軍服(軍衣)の下の姿!






九八式軍袴に開襟シャツに軍用サスペンダーの姿



こちらは、将校用襦袢バージョンです。当時の未使用品
で将校が軍衣の下に着用していた品です。皆行社の既
製品で夏用の襦袢です。薄手の綿製になっておりま
す。







九八式軍衣袴の参謀服姿




陸軍参謀少将の九八式軍衣袴と将校長靴姿
テーラータグには「牛島屋 金沢 中森洋服店」
とあり、「増田」のネーム刺繍があります。増田
少将該当者は増田政吉、栃木県出身で東大土
木科卒業、昭和8年には技術研究本部員として
フランスの駐在官、昭和13年大佐昇進、昭和
16年少将に昇進、昭和20年支那派遣軍兵器
部長が最終職の方になっております。







陸軍 工兵科 特務曹長(准尉)
        大礼服(正衣・正帽・前立)




歩兵科と思いましたが見比べていくと
工兵科のようです。









陸軍 航空科大尉 大礼服(正衣・正袴)






尉官飾帯と正肩章を合わせたスタイル

正袴は、正衣とオリジナルの一対の物では、
ありません。別の物で後家併せです。







陸軍 輜重兵科大尉 大礼服(正衣)




珍しい輜重兵科の将校正衣です。
敗戦時に将校の私物兵器の武装解除に使用された
と思われる”拳銃買上證明書”から、この正衣所持
者が福岡市の方で大神正義 陸軍少佐である事が
判ります。
兵科色の藍色羅紗地の首周り袖周りに虫食い
があり、襟部に金モールの脱落を認めますが
その他は、総じて綺麗です。


所持者のネーム刺繍は、ありません。
テーラータグのみです。


珍しい書類で”拳銃買上證明書”
です。
敗戦時にGHQに対して旧軍将校の私物武器
(拳銃・軍刀等)の武装解除がこの書類によっ
て証明されたものと思われます。混迷した敗戦
時の興味深い品です。
昭和20年9月12日にモーゼル小型拳銃
一丁と弾丸11発を陸軍輜重兵学校が
大神少佐より100円で買い取った事を
証明しています。







一等軍医(一等薬剤官)大礼服(正衣・正袴)一式






明治十九年に制定された一等軍医、若しくは一等薬剤官
の大礼服一式です。いわゆる大尉相当官です。この品は
明治期(十九年〜四五年)の品で、そのため肩章の星章
の1つが衛生部を現す杖と蛇になっています。またその中
でも初期になる品なので後期の品に比べ背丈が低く作ら
れています。一式の内容は正衣、正袴、正肩章(箱付き)
、飾帯(濃緑の衛生部用、金具覆欠)、前立て。なお正衣
の背面裾部の飾釦が取れています(釦そのものはありま
す)。また、正帽のみ欠でしたので、十九年制兵科大尉大
礼帽(背面上部が前に傾斜した古いタイプ、程度佳)を付
けてお譲りしてもらいました。



以下のは、上と違う大尉相当官の
軍医官の正肩章です。




別な肩章です。二等軍医または、
二等薬剤官でしょうか。






二等軍医 大礼服(正衣・正袴)




末期の軍医のようです。
二等軍医(中尉相当官)です。


正帽は、中のネームとトランクなどのネームと
違いますので合わせのようです。







近衛騎兵少尉 正帽















小野塚 近衛騎兵大尉 正帽




型崩れも無い美品です。
この小野塚 近衛騎兵大尉の正帽と一緒に同じ
小野塚のネームのある海軍士官軍帽を入手し
ています。こちらは、海軍経理学校35期生(最
期の卒業生)の軍帽を士官軍帽にした物です
が、この正帽の方の御子息が御兄弟と思われ
ます。海経35期生は、昭和20年3月30日卒業
ですので敗戦時は、主計少尉候補生だったもの
と思われます。
天頂に虫食いが見られます。
後にお孫さんにあたる方からの情報で小野塚 士郎 海軍主計少尉の
お父上の品と判明いたしました。






こちらが小野塚 士郎 主計少尉の軍帽です。

下のバナーをクリックすると御子息の軍帽を
収載したページが開きます。
             ↓








近衛大佐の正帽と肩章




珍しい近衛大佐の正帽に肩章です。
近衛だけでも珍しいですが…大佐ともなると
中々、出でこない品だと思います。
正帽は、サイドに虫食い穴があり内部に虫舐や
汚れあるものの総じて形崩れも無い美品です。


佐官の正剣帯







近衛騎兵及び騎兵 特務曹長(准尉)の正衣袴一式




近衛騎兵と一般騎兵は、昭和16年の
騎兵科廃止まで儀礼衣が正衣でした。
こちらの正衣袴は、正帽が近衛で無く、
一般の黒ですので一般騎兵科の特務
曹長のものです。









憲兵将校(大礼服用) 正袴











憲兵准尉 正帽




後頭部に若干の型崩れありますが、
全体に美品の正帽です。



憲兵特務曹長(准尉)正衣・袴 等々




上の正帽とは、持主が違います。正剣帯以外と手袋
以外は、揃っています。正衣・袴は、虫食いもない美
品です。釦も油紙で包まれて保護されていた為、非
常にきれいです。


憲兵科の准士官まで登りつめた方が着用され
て居たわけですが大柄な方だったようです。


テーラータグは、鯖江の木村となっています。
福井県の鯖江の方だったのでしょう。この一
式を出した業者は、同じ北陸・富山の業者さん
でした。
特務曹長という階級呼称は、明治27年から昭和7年まで
使用されました。昭和7年以降は、准尉と改められいます。
大正6年から大正9年までの間、准尉制度というものが設
けられていましたが、これは特務曹長から選抜された者が
陸軍士官学校に進み将校教育を受けたもので、大正9年か
ら少尉候補生制度と改正されました。
正剣用の刀緒も正肩章もほぼ新品のような感じ
です。立襟時代の品とは、思えない保存状態です
使いこまれた特務曹長肩章が二組です。


立派な軍扇です。箱には、當流但阻扇
と記載されてあります。







憲兵大尉 正帽




帽体本体に痛みありませんが、庇に
時代なりの痛みがあります。









永井八津次 陸軍少将の参謀飾緒




この飾緒は、ミズリー号上の降伏調印で有名な
永井陸軍少将の参謀飾緒です。将官飾緒では、
ありません。


上の画像で有名な昭和20年9月2日、東京湾碇泊の米戦艦
”ミズリー”号艦上に於いて行われた降伏文書の調印式に
参加した永井少将です。この時の参加者は、 

                    全権

     外務大臣                    重光 葵
     参謀総長、陸軍大将             梅津 美治郎
     大本営陸軍部第一部長 陸軍中将     宮崎 周一
    終戦連絡中央事務局長官          岡崎 勝男
    大本営海軍部第一部長 海軍少将     富岡 定俊
    内閣情報部第三部長             加瀬 俊一
    大本営陸軍参謀 陸軍少将         永井 八津次
    軍令部出仕兼海軍省出仕 海軍少将    横山 一郎
    終戦連絡中央事務局第三部長        太田 三郎
    大本営海軍参謀  海軍大佐         柴  勝男
    大本営陸軍参謀  陸軍大佐         杉田 一次

    以上となっています。因みに連合軍側は、以下、

   連合国最高司令官                  ダグラス・マッカーサー
      合衆国代表者                      シー・ダブリュー・ニミッツ
      中華民国代表者                    徐永昌
      連合王国代表者                    ブルース・フレーザー
      ソビエト社会主義共和国連邦代表者   クズマ・エヌ・デレヴイャンコ
      オーストラリア連邦代表者         ティー・エー・プレーミー
      カナダ国代表者                 エル・ムーア・コスグレープ
      フランス国代表者                ル・クレール
      オランダ国代表者                シェルフ・ヘルフリッヒ
      ニュージーランド国代表者          エス・エム・イシット



昭和20年9月2日にミズーリー艦上で調印された
降伏文書のコピーです。

この時の歴史的瞬間の参謀飾緒かどうかは、判り
ませんが…もしそうであれば、この飾緒は日本の
悲劇の幕退きの全てを見てきたのでしょう。
永井少将のこの参謀飾緒は、胸吊の縛り方に
特徴があり、飾緒の胸元の結びは他で見たこ
との無い独特の結びをしています。また通常、
吊るす紐にある金具が無くループを作っていま
すので軍衣の側に直接、ループを掛ける金具
を付けていたものと思われます。



cf.前のオーナーが所蔵する永井少将の三式軍衣です。


こちらの軍衣と飾緒のうち飾緒だけを御譲りいただきました。



前列左から重光葵外務大臣に梅津美治郎参謀総長、関東軍総司令官。
2列目左から、永井八津次陸軍少将、岡崎勝男終戦連絡中央事務局
長官(外務省)、富岡定俊海軍少将、加瀬俊一内閣情報部第三部長(外
務省)、そして、宮崎周一陸軍中将。3列目左から横山一郎海軍少将、
太田三郎外務省、柴勝男海軍大佐に杉田一次陸軍大佐です。こうして
見ると海軍は、実にずるいですね。責任ある立場の軍令部総長や次長
など出していません。






平成20年2月に入手した永井閣下の三式軍衣




上の画像の軍衣とは、同じかどうかは定かでは
ありませんが、こちらのものは三式少将の襟章
が取られています。襟には、取外し後が残って
います。
軍衣は、元々が九八式参謀軍衣だったもの
を三式に改造した模様です。
右肩内部に参謀飾緒を取り付ける釦ホールが
オリジナルである参謀衣である事が判ります。


略綬取付用や将官隊長徽章等の糸掛があります。
このパターンを示す将官軍装を良く見ますが、将官に昇進し
三線目を加算した時に矢の方向を違えて入れており、袖線
自体の色を違えております。これは、上の別な方が所持して
いた永井閣下の三式軍衣でも同じである事が画像から判る
通りです。


左右ともに襟章の剥がし跡が判ります。右襟は、階級章の赤部分が
残っています。テーラータグは、東京の松屋です。




 ◆永井八津次 陸軍少将(略歴)◆

     歩兵科、茨城県出身
     士候33期、 陸大43期

大正10年 7月27日 陸軍士官学校卒業
大正10年10月16日 陸軍少尉
昭和 3年12月24日 陸軍大学校入校
昭和 6年11月28日 陸軍大学校卒業
昭和14年 2月 3日 陸軍省軍務局軍務課支那班長
昭和1 4年10月   陸軍省軍務局軍務課高級課員
昭和16年 3月 1日 陸軍大佐
昭和16年 6月19日 支那派遣軍第4課長
昭和18年 7月12日 参謀本部謀略課長
兼大本営謀略課長
昭和18年10月15日 大本営第4班長
昭和20年 2月20日 陸軍省軍務局軍務課長
昭和20年 3月 1日 陸軍少将
昭和20年 4月23日 兼大本営第12課長
昭和20年 8月12日 東部軍管区司令部附
昭和45年 8月15日 歿








歴史的資料…将官の軍服・外套







陸軍中将 河辺 虎四郎




河辺中将の三式防暑参謀軍衣です。
cf.河辺中将に関しまして!

有名な将軍ですのであえて説明の必要もありませんが
簡単に。…富山県出身陸士24期、陸大33期恩賜、昭和
13年少将、昭和16年8月25日中将。駐ソ駐独武官など
を経て関東軍参謀、参謀本部作戦課長などの要職を歴
任、昭和15年以降は、航空畑に転じる。第七飛行団長、
防衛総参謀長、航本総務部長、第二航空軍司令官、
航空総監部次長昭和20年4月7日参謀次長を最期に
敗戦。10月15日より昭和21年4月30日まで東海復員監
。以降、予備役。昭和35年6月25日永眠。…
日中戦争など不拡大路線を首尾一貫して唱えたリベラル
派であり、兄が河辺正三陸軍大将
です。
有名な緑十字機の一式陸攻です。この緑十字2機が河辺中将を
代表とする軍使一行を乗せて本土から伊江島に飛び、そこで米軍
が用意したC54輸送機に乗換えて一路マニラまで飛びました。ここ
で河辺全権一行は、”日本軍の武装解除に関する事項”及び”占領
軍の日本進駐開始を8月26日とする事”などの指示を受けて翌8月
20日に以下内容の降伏文書を受領しました。

      ★ポツダム宣言の条項受諾の確認★
 
1.日本帝国全軍の無条件降伏

2.日本国及び日本国民の連合軍に対する一切の敵対行為
  の中止及び軍用非軍用財産の毀損防止

3.陸海軍及び行政官吏の一切の離職制限

4.天皇・帝国政府及び其の後継者のポツダム宣言条項履行の確約

5.連合国俘虜及び被抑留者の解放と保護

6.天皇及び帝国政府の国家統治の権限がポツダム宣言の条項実施の
 為、適当と認むる措置を執るべき連合国最高司令官の制限の下に置
 かれるべきこと
昭和20年8月19日 参謀次長 河辺虎四郎 陸軍中将
の軍使一行が搭乗した一式陸上攻撃機。
  ★日本側降伏使節団員 (代表 河辺虎四郎 陸軍中将)★


    天野 正一 陸軍少将  陸軍参謀本部作戦課長
    横山 一郎 海軍少将  海軍軍令部出仕
   
    山本 新   陸軍大佐  陸軍参謀本部員(第六課長)
    大前 敏一 海軍大佐  海軍軍令部作戦課長(第一課長)
    吉田 英三 海軍大佐  海軍省軍務局第三課長
    杉田 主馬         海軍省書記官
    溝田 主一        海軍嘱託
    岡崎 勝男        外務省調査局長
    湯川 盛夫        外務省員
    寺井 義守 海軍中佐  海軍軍令部員(第一課員)
    松田 正雄 陸軍中佐  陸軍参謀本部第一課
    南清 志   陸軍中佐  陸軍軍務局軍事課資材班長
    高倉 盛雄 陸軍中佐  陸軍省(田中註;軍務局軍務課員)
    大竹 貞雄 陸軍少尉  陸軍・参謀本部第二部の通訳)
    竹内 春海 陸軍少尉  陸軍・参謀本部第二部の通訳)






陸軍少将 森本 軍蔵








森本少将の三式参謀軍衣袴です。
略綬と参謀飾緒は、イメージの合わせです。

cf.森本軍蔵少将に関しまして!

森本少将は、航空畑を歩まれた方で陸士30期、陸大38期。
昭和11年3月7日 航本英国駐在監督官。昭和13年航本庶
務課長、昭和16年防衛参謀、17年第三飛行師団参謀長、18
年第八飛行団長、19年航審部総務部長、20年3月第三航空
軍参謀長、7月南方軍参謀副長。昭和18年3月1日に少将。






陸軍法務中将 岡村 o児






岡村中将の九八式式軍衣です。陸大卒業徽章と
略綬は、イメージで合わせです。岡村中将は、
法務官なので文官の出ですの陸大を卒業してま
せん。


岡村中将の南方軍法務部長・少将の時の
開襟防暑軍衣袴。略綬は、イメージで合わ
せです。










岡村中将の法務中佐時代の改四五式軍衣袴です。
略綬は、イメージで合わせです。
cf.岡村法務少将(没後中将に昇進)に関して!

高知出身、昭和17年4月1日少将。同日、
南方軍法務部長。昭和18年6月4日歿任中将。
法務中佐時代の岡村少将






陸軍少将 椎橋侃二







九八式将官用外套です。三式袖線が入り長く使われた
品のようです。画像の通り右腕上部に階級章を止める
ための糸かがりあり、襟の毛皮の下にも跡があります。
また
肩章止めの跡がありますので、立襟時代からの使用品
のようです。野戦用らしく、襟及び内側が毛皮になっています。
虫なめ、擦り切れなどはありませんが全体的に使い込んでい
ます。程度は、良い外套です。
椎橋少将は、近衛輜重連隊
長を務められた事もある方です。

椎橋侃二 少将です。輜重科出身、昭和十七年
少将任官。経歴は、昭和15年輜重26連隊

連隊長、昭和15年近衛輜重連隊連隊長、昭和
17年第7野戦
輸送司令官。画像は、第7野戦
輸送司令官時代のものです。






陸軍少将 原田棟




陸軍少将原田棟の外套です。


襟の階級章が取り外された跡があります。
手許の少将階級章を合わせてみましたが、
三式少将と取外跡は、大きさがあいません。
九八式少将階級章を合わせると御覧のよう
にピッタリ一致しました。どうやら三式袖線
を入れて階級章は、九八式の物を使用して
いたようです。
どうも三式袖線は、佐官時代に今より低い位置で
二本線を入れていたようです。三線目を加線し前
より高い位置に前の二線も外して三線としたように
見えます。テーラータグは、東京牛込の明治屋です。
原田少将は広島出身、シベリア出兵よりの軍人で。
昭和15年、高崎編成の歩兵第215聯隊連隊長と
なります。この外套は、その連隊長時代のものらし
く、二本の線が加線されているようです。215聯隊
は第33師団傘下で、インパール作戦に出動します。
原田少将は、18年6月に仙台教導学校校長、18
年8月に仙台予備士官学校校長、20年2月、本土決
戦の警備第三旅団旅団長で敗戦を迎えています。
外套は高級なウール生地、頭巾に2―3虫穴があ
る以外は、虫喰も無い状態。後部裾、10円くらい
の当時の補修跡あります。






不明の将官外套






テーラータグは、外されています。ネームは、”お芳”
または”芳お”となっています。この名前は、存在しま
せん。最も可能性の高い該当する人物は、芳仲和太
郎 陸軍中将でしょうか。…それ以外は、思い当たり
ませんでした。
明らかに三式袖線を三本、外した跡が残っています。
縫取りの部分にまだ三式袖線が残っています。
陸軍中将 芳仲 和太郎
  (愛媛県出身、砲兵科、陸大37期、功四級)

昭和9年3月5日   トルコ駐在武官
  11年7月2日   参謀本部第二部第四班長
  12年8月2日   参謀本部欧米課長
  13年3月1日    陸軍大佐
  13年7月15日   第十四師団参謀長
  15年2月6日    参謀本部附
  15年3月29日   駐洪武官
  15年4月16日   兼ユーゴスラビア武官
  16年3月1日    陸軍少将
  17年12月22日  西部軍参謀長
  19年6月27日   陸軍中将
  20年2月1日    第十六方面軍参謀長
  20年5月3日    第八十六師団長
  







将官の指揮刀等




静岡出身の篠田陸軍中将の所持した将官指揮刀です。
篠田中将の略歴を記します。
篠田 次助 陸軍中将(歩兵 静岡県浜岡町出身)

陸大20期
大正8年7月25日  陸軍大佐 
              近衛第一連隊長

大正10年7月20日   第三師団参謀長

大正12年8月6日  陸軍少将 
              第六師団司令部附

昭和1年3月2日    近衛歩兵第二旅団長

昭和4年8月1日   陸軍中将  
               台湾守備隊司令官

昭和5年8月1日   待命

昭和5年8月29日  予備役








全長約100cm、刃渡り約83cm
大きな錆は無し、惜しい事に柄部のモール切れがあります。


以下は、同中将が所持していた佐官サーベル型軍刀です。
恐らくは、佐官時代に使用していたものと思われます。








刀身2尺一寸、銘 則光、目釘穴3ケ、反り8分

柄部に少し黒ずみあり、モールの切れは無し。鞘に
少々メッキハゲと、刀に少し打ち傷のような物があり
ます。







将官(某中将)の九四式軍刀
     (昭和9年制定陸軍制式軍刀)














刃長 66.2cm、反り 1.8cm 目釘穴1個 
表銘 濃州関住人吉近鍛之 拵えの全長は
、約100cm程あります。鞘、柄ともに親ザメ
を使用してあり、すかし鍔も厚型のもので、
切羽は8枚(全オリジナル)、刃はウブ研ぎ
のままのようです。帽子部に小薄錆2箇所あ
りますが、深くなく、保存状態が悪かったため
と思われます。柄頭も通常のものより大型で
厚手、猿手も手彫りタイプ。身幅の大きい(約
32mm)大型の刀です。柄部に少汚れがあ
り、柄頭などのメッキははげていますが、鞘は
以前皮が被せてあったそうで(現在は無い状
態)全く傷みはなく、鮫皮の状態も極美といえ
ます。全体的にすばらしく出来のよい軍刀で、
後合わせのものは1点もないようです。柄頭に
銀製の下がり藤の家紋が入っています。



絹製平織。金糸三条山形の将官刀緒です。
この軍刀に付いていた刀緒では、ありませ
ん。







今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した
収集品の一部を画像に収めてUPしてみました。
まだまだ仕事が忙しくて収集品の整理が出来ており
ません。今後、少しずつ更に奥に仕舞われたままの
収集品も、新しく収集した品も含めて、画像アップし
ていきたいと考えております。




九六式軽機で攻撃する皇軍兵士