旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Ua












Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服








本土決戦 海軍震洋艇部隊(特攻艇)

稲葉 海軍中尉の貴重な資料




以下の資料は、肉薄特攻艇の震洋艇の海軍側の本土決戦用部隊であった
海軍第27震洋隊(油壷)の第三挺身隊長 稲葉茂海軍少尉(敗戦時 中尉)
の所持品となります。稲葉氏は、国学院大学国史科在学中に学徒出陣で海
軍予備学生として出征、敗戦間際の昭和20年に本土決戦の最後の要である
帝都への上陸作戦を水際、水上特攻で攻撃する実戦部隊の指揮官として着
任されました。以下に父母様へ向けた覚悟の遺書が残されております。結局
本土決戦は、行われずに敗戦を向かえ、復員されました。戦後は、出版社(
改造社)に御勤務され故三島由紀夫氏とも親交が深かったと聞き及んでおり
ます。同一人物の持ち物として揃いで出た資料としては、第一級品的な価値
があると思います。…因みに震洋艇部隊は、陸軍では、正式名称 四式肉
薄攻撃艇『震洋』と呼称されました。またマルレと呼ばれ当コーナーの陸軍軍
装品の中にも掲載しております。また同じ海軍の震洋艇搭乗員の海軍少尉
のセパレートタイプの搭乗服(飛行服)もこのページで紹介しております。









稲葉中尉の装備一式と資料の入った将校用
行李とトランクです。

学徒出陣の稲葉氏の写真


震洋艇の艇長の装備をマネキンに着せてみました。
イメージの為、手許にありました陸軍の曹長刀と海軍刀緒を付けてみましたが
軍刀と刀緒は装備品では、ありません。






震洋乗組員の一般兵・下士官の制服は制定されていましたが、士官は別でした。
この飛行服は状態良好・虫食い痛みは両袖口に少し有る位です。記名布は、あり
ません。袖口が切断され(加工されている)ています。操縦に支障が無い様に一般
的に航空隊の飛行服でも各自が着用し易い用に良く行われていたようです。有名
な日本の誇る撃墜王である岩本中尉の夏服も当時改造しているようです。また記
名布が無いのは特別攻撃隊の物は良くあります。遺品で家族に送ったのか秘匿の
意味ではがしたのか色々言われる方がおりますが…下の航空用のカポックに記名
布があるので秘匿の意味では、無い気がします。単に士官で着用品は、官給品で
なく、私物扱いとなるだけかと想像します。この為、以下のカポックのような服の上
に着装する装備品は、貸与品として記載されております。
この救命胴衣は状態は抜群・痛み汚れ等無し。背中の【第三艇隊長】
の片布は外されていました。
救命胴衣(カポック)は、艦艇用の物かと思いましたが、予想外にしっかりした海軍
航空隊用のカポックです。貸与品と記名布に印されております。この品が揃いであ
る事から飛行服に上海バンド(陸戦刀帯)を着用しカポックを装着し海軍刀を持って
震洋艇に搭乗するのが一般的なスタイルのようです。
海軍陸戦刀帯です。所謂、上海バンドですが、斜帯・剣吊・など完品です。震洋艇隊長のみ
が飛行服に救命胴衣を着け、更に軍刀を吊るして敵艦または、上陸用舟艇に突撃自爆したも
のと思われます。
二種軍衣です。




下士官兵用の ハーフ・コート様の正体不明のものです。海軍外套と同じ生地ですが、
ファスナーに「YKY」のマーク有ります。戦後に衣類不足で外套やマントを改造して物かと思
います。一緒に外套・マント用のフードが出てまいりましたので…改造品に間違いないようで
す。


日の丸寄せ書きに「大将」の名前が見えます。ゲートルには稲葉の名が有ります。


海軍予備学生として採用された旨の海軍省人事局の
書類と採用試験の受験票です。試験会場は、東京芝
の海軍経理学校品川分校となってります。これも珍し
い物です。




こちらの手紙は、稲葉中尉の物では、ありませんが彼が生前、所持していた物です。
恐らくは、友人の同期生が通常の切手で封筒に貼られておりますので、誰かに託し
て投函する予定の手紙だと思います。軍事郵便でない事と検閲印がありません。また
投函後の印がありませんので出さず仕舞いの手紙で、戦後に御遺族から譲り受けた
ものか…頼まれて投函しようとして出さず仕舞いのものになった物かは、判断できませ
ん。しかし内容は、特攻部隊の訓練所から特攻機地に赴任の下命が下った時、最後に
出した父母様へ当てた覚悟の手紙(遺書)です。…涙が出る内容です。
右は、稲葉氏の名刺です。左は、『震洋諸表綴』は性能装備・眼鏡による
突撃方位速度計算・搭載機関銃の撃ち方・
軍艦別の攻撃方法等・・・。これ
だけのものが残っているのは、稀な事で素晴らしい資料です。


『震洋諸表綴』の一部ですが…特攻艇なので詳細な勉強などをしていないと考えて
おりましたが予想に反して…様々な数式や性能表などが掲載されいます。恐らく文
科系の方には、かなり辛いものかと想像しますが…短期速成とは言え…元々、飛行
専修の海軍予備学生として採用されておりますので…航空機で特攻の場合も同じよ
うに最低限のパイロットとしての知識、理論などは、勉強させられたでしょうから…同
じ事かも知れません。因みに下にある艇隊員名簿を見ても隊員は、皆、全国様々の
出身の二等飛行兵曹ばかりの階級です。通常の水上勤務の軍人を要員に宛ててい
ないのも海軍の特徴と言えるでしょう。陸軍では、特にマルレに航空兵を充てていま
せん。船舶工兵からだったと記憶しております。
同期生でしょうか…御当人の名刺と共にありました
が、稲葉中尉は、第五期飛行予備学生ですので…
その同期の方と推察します。

機密電文です。…油壺の第二七震洋隊に赴任せよと命じています。


任官前の予備学生の身分で軍装品の配給表です。佐世保
海軍経理部となっております。兵学校を筆頭とする所謂、海
軍三学校(兵・機関・経理)が職業軍人たる正規士官を養成
しましたが、陸軍同様に士官の軍装品は、大方が私物扱い
ですので自費で購入が原則でした。戦局も押し迫った末期
の昭和19年採用の予備学生だったせいか、殆どが支給され
ております。略刀帯かた肩章、襟章に至るまで…。こうした
書類までしっかり残されているのは、珍しいものと思います。
かなり几帳面な方だったらしく支給された物品は、
鉛筆書きで事細かに記録を残されています。防暑
衣や襦袢まで予備士官には、支給または、貸与品
として出されています。


所持品にあった不明の紐
麻で編まれた紐です。長いのを一括りしていますが
面白い事に紅白の様になっています。また所々に
親指大のリング状の輪を何個か作ってあります。
火薬が無いので導火線では、ありません。どのよう
な目的で使うのか不明ですが…推測で自爆用の紐
だと考えておりましたが、BBSにて御教授していた
だき…弓道に使う物だそうです。弓の下にかけるの
が白い輪、上にかけるのが赤い輪のようです。弦の
中央付近に麻糸(おぐす)を8〜10センチくらいの範
囲でぐるぐる巻いてあったら弓の弦として準備したも
の。その麻糸(おぐす)がなければ、弓の弦を野営で
の洗濯物干しとか荷物をくくろとか生活品の用途で
持っていたものではないでしょうか。…との事でした。
これで疑問が一つ解決いたしました。












海軍三種軍装姿の方の後ろの背広の
方が稲葉氏です。長髪なので休暇で
母校に顔を見せた写真だと思います。
二人の妹さんと学友と写真に写る稲葉氏。惜しい事に
軍人姿の稲葉氏の写真がありません。


海軍に入る前の学生時代
国学院での軍事教練をかねた富士登山と思われます。


御親戚でしょうか…海軍兵学校生徒の方が中央に
写っております。






その他の所持品です。


戦後すぐに大学に復学された学生証


戦後のキャンパスでの写真と思われます。
復員して使われたのでしょうか…海軍少尉を消した名刺
です。裏に住所が記載されております。
大学を卒業され改造社(出版社)に就職された後の
名刺が右の物です。その他は、取引先や友人の物
でしょうか。


別の資料より稲葉中尉は、当初、第136震洋隊(静岡県清水市三保)に
配属されており昭和20年8月10日に第27震洋隊に転出した事が判明し
ました。尚、第136震洋隊の指揮官は、斉木進五大尉で隊の所属は、第
15突撃隊でした。第27震洋隊は、石井四郎部隊長が指揮していました
が昭和20年7月30日石井隊長以下、5名が相模湾で戦死8月4日に上
田恵之助中尉(尚、上田中尉の少尉時代の名刺が上の画像の中にあり
ます。同期の予備学生だったようです。)が部隊隊長代理として第56震
洋隊より着任しています。稲葉中尉も戦死した5名の穴埋めとして転出し
8月10日に着任したものと考えられます。また第27震洋隊の隊員の多く
が甲飛13期の予科練です(土浦海軍航空隊)。第136震洋隊は、甲飛
14期。第56震洋隊は、甲飛14期が中心で共に土浦海軍航空隊の出身
となります。
第五十六震洋隊(岩館部隊)の集合写真






cf.震洋艇 及び 震洋隊 に関しまして!!

大戦末期、米軍に対抗する海軍戦力を欠き(艦は、あっても油無く
港湾の砲台と化していた。)制空権も確保できない帝國海軍は、本
土決戦に備え海龍隊、蛟龍隊、震洋隊、伏龍隊、回天隊を主軸とし
、これに海防艦や波号潜水艦、駆潜艇、哨戒艇などを組み入れて
各鎮守府単位で特攻戦隊、また各地に突撃隊の配備を行う計画で
した。その中で横須賀鎮守府所属の第一特攻戦隊に第27震洋隊は
、37、42、47、51震洋隊と共に組み入れられました。この他に第一
特攻戦隊所属として駆逐艦『沢風』、海防艦『四阪』に回天隊があり
ました。稲葉中尉の所属した第27震洋隊もこの第一特攻戦隊の所
属でありました。…以下に震洋艇に関して補足を記載します。


陸軍の搭乗員ですが…後方の3名がマルレの水上作業衣であるのに対して
前の3人は、海軍と同じように飛行用のカポックに飛行帽と飛行眼鏡をして
います。珍しい画像です。


震洋艇の誕生は、昭和18年7月まで遡ります。連合艦隊参謀の黒島亀人大佐
が軍令部第二部長に着任すると劣勢の戦局を挽回すべく新兵器の考案を開始
しました。約一年後の昭和19年4月に出された黒島第二部長の答申の一つが
実現可能な高速自爆特攻艇でありました。この他に同時に採用された案の中に
人間魚雷”回天”などがあります。…こうして4番目に提案された特攻モーターボ
ートは、『マルヨン』のコードネームで実用化に向けて技術検討が開始されまし
た。その後、生まれたのがトヨタKB型トラックの汎用ガソリンエンジン(73馬力)
を流用した特攻艇ですが、船体は、ベニヤ張りの木製で日産自動車系列の日本
造船が製作しました。全長が約5m、排水量1.5t、搭載爆薬250kg、最高速力20
ノット。…同年5月に試作艇が作られ、8月末に制式採用が決定して水雷学校の
校長である大森仙太郎中将が”震洋”と命名しました。搭乗員は、飛行訓練中の
予科練・予備学生などから転用されました。当初、横須賀で搭乗訓練を行い、搬
出レールや隠蔽壕などの設営隊を加えて震洋艇を50隻を持って、第一震洋隊が
編成されたのが制式採用決定の翌日の事でした。この後、陸軍もこれを採用し『
四式連絡艇』(マルレ艇)または、『四式肉迫攻撃艇』と呼びました。基本的には、
陸海軍同じ艇を使用しておりました。大きな違いとして海軍の震洋が体当たり特
攻兵器で生還を期さない外道であったのに対して、陸軍の四式は、肉薄攻撃艇の
名前にある通り爆雷投射器(射程約10m)を付けて体当たりをせず生還を前提に
している点です。120kg爆雷を操縦席の左右に2個搭載し敵艦に肉迫して艇はU
ターンしながら爆雷を投下し離脱。爆雷は7秒後に爆発する仕掛けでした。この為
か編成も陸軍と海軍では、大きく違いが出ています。海軍が50隻の震洋艇を基幹
として支援の設営隊を附属しても200名程度の将兵で一個震洋隊を形成(隊長は
、大尉または、中尉で士官は、約10名程度)したのに対して、陸軍は、一個大隊規
模の船舶工兵を持って海上挺身戦隊を形成、100隻を擁して、付帯部隊として、作
業中隊3個、整備中隊1個を持ち総勢800名〜900名規模の大部隊となっておりま
した。当然、軽装備ながら歩兵部隊の装備を持っておりましたので艇を失っても陸
上戦力として陸軍の海上挺身戦隊は、勇戦しました。これには陸軍が挺身戦隊の
指揮官を陸士出の少佐・大尉が当たり、中隊長クラスも陸士での現役の少・中尉が
掌握していたとの事です。一方、海軍は、予備将校を指揮官に当てており海兵での
現役士官を出し惜しみしたのか全体の士気は、勿論の事ですが陸上戦になった場
合にも組織だった攻撃が出来なかった海軍の震洋隊との違いを浮き彫りにしていま
す。これは、特攻艇全体の戦果としても陸軍のマルレが大きく秀でる結果に表れて
おります。…昭和20年1月9日のフィリッピン・リンガエン湾における米軍の上陸戦に
対して陸軍の第12海上挺身戦隊は、約40隻のマルレ艇で夜間攻撃を敢行し米軍の
上陸用舟艇など約20隻を損傷・撃沈させる大戦果を上げました。この成功以降は、
米軍の魚雷艇群による”自殺ボート狩り”が組織的に機能し空の特攻と同様に大きな
戦果を挙げる事が出来なくなりました。海軍の震洋艇の方がその後の出撃となった
点も戦果の違いに表れますが…同年2月にコレヒドールで第12震洋隊が出撃した時
の戦果は、上陸支援艇1隻撃沈にとどまっています。その後の沖縄戦では、昭和20
年4月2日の上陸戦で第22震洋隊が出撃し上陸用舟艇を一隻撃沈しています。これ
に対して陸軍の方は、慶良間諸島に配された海上挺身戦隊が米輸送船団に出撃し
艦船3隻を撃沈・損害を与えています。尚、陸軍の海上挺身戦隊は、船舶特別幹部
候補生(乙種)・少年船舶兵が中心で群長と呼ばれる小隊長クラスを幹候上がりの
将校が指揮を取り非常に士気も闘志も溢れていたようです。特攻艇は、敗戦までに
海軍が約六千隻を建造しました。陸軍も約三千隻を建造し30挺身戦隊を配備してい
ました。部隊配置に関してですが陸軍が敵の上陸戦を想定に重要地域に重点配置
していたに対し、海軍の方は、様々な島嶼占領地に漫然と配備した感が強く…陸海
の連携は、無いに等しい配備状況になっているのが印象的です。



左は、昭和19年8月に横須賀の水雷学校で撮影された1型震洋艇。右は、
1型震洋艇の粗末な操縦席です。

震洋艇、回天、伏龍、海龍、蚊龍、土龍…翼なき予科練の
悲哀がこの粗末な操縦席に象徴されている気がします。











震洋艇の格納と進水の図式と以下は、三浦に残る第56震洋隊の格納壕




上記のように(見ずらいですが)5型は、1型より少し
大型になりエンジンを二機搭載し搭乗員も2名になり
ました。速力は、27ノットに上がりました。武装は、12
cm噴進砲2発は、そのままで13mm機銃を1挺が搭載
されました。爆装は、250kgのままでした。

5型震洋艇です。操縦者の左右にあるのが
ロサ弾(12cm噴進砲)の発射架台です。




海軍の震洋隊は、敗戦まで114個部隊(1型改1が68部隊、5型が46個
部隊)が編成されました。そして戦死された方の数は、2547名を数えて
おります。水上特攻隊々員の多くが16〜17歳の少年飛行兵でありまし
た。



別に入手した海軍の第九次震洋特別攻撃隊 中平隊
の『必中』の鉢巻です。綿製で古そうな感じですが、当
時のものか戦後の物かは、判りません。



以下をクリックすると第百二十五震洋隊の遺構を紹介
したページが開きます。





以下をクリックすると海軍第五特攻戦隊第三十三突撃
隊第五回天隊の遺構を紹介したページが開きます。




この近くにある知覧特攻基地の知覧特攻平和会館
で展示されている震洋五型で坊津町に配備された
第百二十三震洋隊の使用した艇ですが、敗戦後に
海没処分されたものを嵐山美術館が昭和54年に引
揚げして流用パーツを使用して復元したものです。
同じく坊津から引き揚げられた震洋艇の発動機など
も展示されていました。


第十震洋隊でで戦死された青木 昌平 海軍少尉の
一種軍衣(比島・コレヒドール)が当サイトのインター
トネッ博物館の方で掲載しております。御興味のある
方は覗いてみて下さい。


cf. 第十震洋艇隊

部隊長(兼 第一艇長) 石川 誠三 海軍大尉

搭乗員及び規模:一般兵科 震洋艇 50隻

編成及び期日:川棚三次 昭和19年9月25日
         (川棚臨時魚雷艇訓練所)

所属:三南遣司(第三南遣艦隊司令部)

配備:比島 コレヒドール

進出期日:昭和19年11月1日

搭乗員(昭和20年2月25日 戦死判定)
基地員(昭和20年1月17日 戦死判定)
戦死者:135名

部隊生存者 一名のみ(蛇沢 金次氏 一曹)




                ↑
また他にも上記のバーナーのページでは第134震洋隊
に所属した星野 禎一 海軍一等飛行兵曹(甲飛14期)
の一種軍衣等も展示して紹介しております。



               ↑
平成21年10月31日にNHKで放送されたシリーズ
証言記録の一つです。震洋艇の生き残り隊員の証
言をまとめて時系列に沿って判りやすく映像化され
ております。(番組名)[証言記録 兵士たちの戦争
“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜
上のバーナーをクリックするとウインドーが開いて動
画を見る事が出来ます。








海軍将官(真野 海軍少将)の正帽と正肩章









惜しい事に大礼帽と正肩章は、箱の中で綺麗な状態で保存されていたそうで
すが…大礼服は、保存状態が悪くボロボロだった為、上記画像のみの状態で
す。大礼帽の中に真野のネームが刺繍されております。海軍将官名簿から調
べると…真野厳次郎 海軍少将である事が判りました。…愛知県出身で海兵
12期、
明治36年11月30日 第五駆逐司令、八重山艦長、和泉艦長、
秋津州艦長、金剛艦長、
磐手艦長、香取艦長などを経て横須賀港務部長、
呉水雷団長、呉水雷戦隊司令官を最後に
大正2年五月 待命、12月1日に
少将で予備役編入されております。

cf. 佐官用の正肩章

この佐官用肩章は、痛みのある佐官用肩章の予備にオークション
で手に入れたものです。その上の将官用が桜花が3つに対して佐
官の物は、桜花が2個なのがお解かりいただけると思います。

cf.尉官用(少尉)の正肩章と正帽





バックに森甚五郎のネームがあり、海軍少尉の
正肩章の裏にも金字で森のネーム、正帽の中
にも森のネームがあります。







〜海軍兵学校・生徒に関する資料〜




最後の海兵卒業生の一種衣





襟章が外された海軍兵学校生徒の一種軍衣です。記名があり75期
為本博信とあります。名簿を見てみると確かに府立一中出身で昭和
20年10月卒業者の中におられます。敗戦から約2ヶ月も立たない
時に卒業…。しかし任官するべき海軍は、すぐに解体されました。こ
の持ち主の方は、戦後を如何に過したのでしょうか?大学に進学さ
れたのか…その後、創設された自衛隊に入ったのか…判りません。
下の画像は、海兵70期の卒業写真です。






最後の海兵入学生徒の一種衣





伝統ある海軍兵学校の最後の入学生は、第78期生です。
昭和20年3月入学です。上の一種衣は、川村芳推とあり
ます。御覧のように海兵生徒の襟章は、簡略化され予科
練の襟章のような粗末な布製となっています。以下の画
像は、上の襟章部分を拡大した物と、良い時代の海兵生
徒の襟章部分を比較で出してみました。
左が良い時代の生徒襟章、右が上の78期生の襟章です。







最後の海兵入学生徒の二種(夏衣・袴)




こちらは別な78期の村木とあります。この方も昭和20年4月
3日入学の4.048名のお一人です。(但し78期は、海兵生徒
予科として扱われ、正式な生徒としてしては、同年4月10日
入学の77期生が最期の4号生徒となります。まあ78期は…
ジャニーズJr.のようなものなのでしょうか。


cf.海兵の最後に関してですが、昭和20年8月15日の敗戦後、速やかに
 生徒の復員が開始されました(学生と言っても軍籍のある准士官と下
 士官の間の身分、軍人ですので復員となります。尚、蛇足ですが海兵
 を卒業すると少尉候補生となります。階級章的には、金線一本の兵曹
 長と同じですが、少尉候補生は、兵曹長の上にランクされます。当然、
 道ですれちがった場合、古参であっても兵曹長が敬礼し少尉候補生が
 答礼する事になります。)…8月24日には、全ての在校生の復員が完了
 しております。最後の卒業生である75期生には10月1日附で卒業証書
 が送られました。その他の在校生である76期、77期、78期生には、修
 業証書が送られました。この時の最後の海軍兵学校校長は、レイテ沖
 海戦で機動部隊を囮とし、第一遊撃部隊を指揮しレイテ湾突入をするも
 …謎の転進をし絶好の勝機を逃した栗田建男中将その人でした。彼は
 、在校生の卒業証書・修業証書に以下の文面をそえて送っています。

百戦効空しく,四年に亘る大東亜戦争すでに終結を告げ,停戦の約成り
て帝国は軍備を全廃するの止むなきに至り
,海軍兵学校も亦近く閉校さ
れ全校生徒は来る十月一日を以て差
免のことに決定せられたり。諾子
は時恰も大東亜戦争中志を立て身を挺して皇国護持の御楯たらんことを
期し選ばれて本校に入るや厳格なる校規の下
,加うるに日夜を分たざる
敵の空襲下に在りて
,克く将校生徒たるの本分を自覚し拮据精励,一日も
早く実戦場裡に特攻の華として活躍せんことを願いたり。又本年三月より
防空緊急諸作業開始せらるるや
,鉄槌を振るつて堅巌に挑み,或は物品
の疎開に建造物の解毀作業に
,或は又簡易教室の建造に,白活諸作業
に酷暑と闘い労を厭わず尽瘁之努めたり。然るに天運我に利非ず。今や
諸子は積年の宿望を捨て
,諸子が揺藍の地たりし海軍兵学校と永久に
離別せざるべからざるに至れり。惜別の情
,何ぞ云うに忍びん。又諸子が
人生の第一歩に於て
,目的変更を余儀なくせられたこと誠に気の毒に堪
えず。然りと雖も
,諸子は年歯尚若く頑建なる身体と優秀なる才能を兼備
,加うるに海軍兵学校に於て体得し得たる軍人精神を有するを以て,
ずや将来帝国の中堅として
,有為の臣民と為り得ることを信じて疑わざる
なり。生徒差免に際し
,海軍大臣は特に諸子のために訓示せらるるところ
あり
,又政府は諸子の為に門戸を開放して,進学の途を開き,就職に関して
も一般軍人と同様に其特典を与えらる。兵学校亦監事たる教官を各地に
派遣して
,洩れなく諸子に対し海軍の好意を伝達せしむる次第なり。
 惟うに諸子の先途には,幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし。諸子克
く考え克く図り
,将来の方針を誤ることなく,一旦決心せば目的の完遂に
勇征適進せよ。忍苦に堪えず中道にして挫折するが如きは男子の最も
恥辱とする処なり。大凡ものは成る時に成るにあらずして
,其因たるや遠く
且微なり。諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん。
終戦に際し下し賜える詔勅の御主旨を体し
,海軍大臣の訓示を守り,海軍
兵学校生徒たりし誇を忘れず
,忠良なる臣民として,有終の美を済さんこと
を希望して止まず。茲に相別るるに際し、言わんと欲すること多きも
,又言
うを得ず。唯々諸子の健康と奮闘とを祈る。


                  昭和20923

                     海軍兵学校長 栗田健男  』

こうして帝國海軍を支える屋台骨のエリート士官養成学校であった栄光の
海軍兵学校は、大日本帝國の終焉と共に創立以来77年の伝統に幕を下
ろしました。…実に開校以来、卒業生11.182名を送り出し護国の守りに
就きその中の4.012名が戦死され英霊となっております。



cf.最後の海兵卒業生 為本博信氏に関しまして!

  為本氏に関して情報が寄せられました。
  海軍経理学校第3期首席の為本博篤主計中将のご子息です。

          

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海軍兵学校 三種軍衣(褐青色夏服)と軍袴





海軍兵学校生徒上衣三種です。菱形返付は岡山衣料廠となっています。
肩章止めがあり、どうも二種を染めて三種にしたもののようです。

昭和19年8月に”海軍第三種軍装令”で、この褐青色の略装を第三種
軍装として、従来の第一種・二種軍装に替えて常時着用を命じました。
臨時特例で19年2月に発令され、昭和20年初夏を前に白色被服品の
全てを褐青色に変えました。多くは、白を染めて三種にしました。しかし
麻は、染料の吸収に問題があるのか新調した三種とは、色合いが大き
く違いが出たようです。
海兵第77期 オ203分隊(大原分校) 塙 省造生徒
(天王寺中出身)の三種短ジャケットです。この77期
生も敗戦で任官できませんでしたが、故郷に帰郷し
た時に、これを着装したそうです。 


上記の軍衣とは、全然別物の海兵生徒の軍袴です。






海軍経理学校生徒の三種軍衣




経理学校37期生の三種軍衣です。こちらは二種衣を
緑に染めた三種でなく、はじめから三種衣として製作
された物です。
非常に小柄の方だったようです。小さいマネキンにも
撮影で着せられなく知り合いの小柄な女性に撮影の
為、着ていただきました。
肩章は、後家合わせで海兵75期生の記名があります。
昭和17年改正の後期型の小型の肩章です。







海軍兵学校 七十七期生が所持していた棒倒し服






特に袴は無く、競技では事業服の袴を着用します。棒倒しは
攻撃精神と犠牲的精神が共に問われる兵学校独特の競技で
あり、殴る蹴る何でもありの猛烈果敢な競技であったようです
。敵味方の区分は服を裏返しにして着用するか即ち襟の黒い
縁取りが見えるか見えないかで見定めたようです。
55期生(大正13年〜昭和2年)の棒倒しの模様です。
一号生徒が棒を支え下級生が周りを囲み守ります。
殴る、蹴るなど何をしても許されます。この当時は、
上下共に事業服を着用したようです。想像ですが、事
業服の上が破れやすい為、このような特別に作ったも
のと想像します。これら明治以来の伝統である棒倒し
も本土空襲が激化した昭和20年春からは、行なわれ
なくなったという。







別な生徒の棒倒し服




上の棒倒し服より痛みがあります。内部に二名分の記名があります。






海兵の体操帽と冬用の運動衣(体操服)




体操帽は、この写真のように細い一線の5級から太い三本線の特級まであり、検定で
級が上げると帽子に加線していた。兵学校では、体育科目に武技(柔道・剣道)と体技
(陸上競技など武技以外)があり、体技では、この体操帽に体操靴、体技服を着用しま
した。尚、休日などに許可を貰い帆走する際にも体操帽は、被られたようです。
これは5級の体操帽です。



こちらは細線二本、4級の体操帽です。




フラッシュをたくと新品のように白く写りますが実際には、下の画像
の色です。それでも綺麗な品です。内部に78期生 花田智の記名
があります。






運動時に使用した海兵生徒の襦袢












海軍兵学校生徒の寝巻き(夏用)




海軍兵学校生徒の寝巻きです。

菱型記名布に七十八期、花田智の記名があります。







海軍兵学校生徒の事業衣袴




海軍兵学校生徒の事業服上下です。
兵用の事業服では無く、生徒用の官給の品は、
珍しいです。胸も腰も紐が完全で美品です。

上下別に記名があり、衣は後部外側に菱型記名布に姓名記入。衣の方
の日高修氏は、海兵七十三期で鹿児島一中の出身の方です。袴は後部
内側に菱型記名布に姓名が記入されています。この中村豊という方は、
潜水艦で戦死されております。以下、
中村少佐の海兵生徒
時代の顔写真です。

 中村 豊 海軍少佐 従6位勲5等功4級

 本籍:佐賀県
 大正8年1月15日生 武雄中学出身
   
<軍歴> 海兵68期
            軍艦香取乗組
            軍艦利根乗組
            第30潜水隊付
            伊号第54潜水艦乗組
昭和17年4月20日:伊号第54潜水艦航海長兼分隊長
      8月28日:第13潜水隊付
      9月15日:伊号第122潜水艦乗組
昭和18年8月25日:伊号第34潜水艦航海長兼分隊長
      11月13日:マラッカ海峡ペナン沖にて敵潜水艦と交戦、戦死
 







最期の海軍経理学校 卒業生、第35期生
         小野塚 士郎 主計少尉の軍帽




最期の海軍経理学校 卒業生は、海経35期生で昭和20年3月30日に
卒業しています。その約半年足らずで敗戦を迎えています。敗戦の時
は、主計少尉候補生から少尉に任官したばかりだったと思われます。
海軍経理学校時代の生徒軍帽をそのまま利用して軍帽として使ってい
たようです。
陸軍のコーナーで出してありますが、この軍帽と一緒に陸軍の
近衛騎兵大尉の正帽を入手しています。この方の父上か御兄
弟と推測しておりましたが、後に御子息の方から情報を戴き
小野塚 主計少尉のお父上である事が判りました。
              ↑
上のバナーをクリックするとお父上の正帽のある
ページが開きます。
小野塚主計少尉の父上の近衛騎兵大尉正帽です。







真珠湾〜ミッドウェイ沖海戦を空母”赤城”
 第一攻撃隊(淵田美津夫中佐)水平爆撃隊
   第二中隊長として活躍し南西方面で戦死した
    岩崎 五郎 海軍中佐(海兵61期)の入学許可書




下の岩崎中佐の若かりし頃の画像をクリック
すると岩崎中佐に関する資料を掲載したペー
ジに飛びます。(ページの半ばに掲載)

               







海軍兵学校、最期の四号生徒(最後の入学生)
      となった第77期生に手渡された修業証書




海軍兵学校は昭和20年3月に最後の少尉候補生
として少尉任官先のある第74期生を卒業させまし
た。そして同年4月最後の新入生となる77期生を
入学させました。同年10月に廃校を前にして最後
の一号生徒である第75期生を卒業扱いとしました
。卒業しても任官するべき海軍が無い卒業生です
。そして3号(76期)、4号生徒には、其々に2学年
、1学年生徒教程を修業した修業証書を手渡し、
海兵予科生徒とされる78期生(4048名)にも予科
生徒の何等かの修業証をだしたのかもしれません
が、定かでありません。しかし海兵の前身である
海軍操練所が海軍兵学寮と改称し、明治9年に
東京・築地に移転し海軍兵学校が開校されて以来
69年に及ぶ伝統の歴史に終止符が打たれました。
この修行証書は77期生の4号生徒でオ705分隊
坂井司郎(福井県出身)のいただいた証書です。
坂井生徒は、満州帝國新京第二中学を卒業し敗戦
4ヶ月前の20年4月10日に同期3771名と共に最後
の4号生徒として入学した第77期生の一人でした。
証書の右隅に鉛筆書きで3/705とあります。つま
り生徒番号705分の3と言う事です。
0







廃校前に卒業扱いとなった最期の
  一号生徒(第75期生)の官給巻脚絆




海兵75期生の巻脚絆です。菱型片布に期と名前が書か
れています。昭和20年10月の廃校に併せて卒業扱いと
なりました最上級生徒(一号生徒)です。
熱田中学出身の福井博生徒のものです。同期3378名と
共に昭和20年10月1日に海兵を卒業しました。任官するべ
き海軍が無く…その後、どう生きられたのでしょうか。









珍しい海兵のチェリーマーク
  (海軍兵学校優等賞 )





海軍兵学校在籍中、学業・技術の特別秀でた生徒に授与され
兵学校襟章の奥に付けた海軍兵学校優等章(通称:チェリー
マーク)です。
ける
時々、チェリーマークを白黒写真で付けた海兵生徒を
見る事がありますが、実物を手にしたのは初めてです。


桐箱の表に「賞章」と書かれています。






下は上と違う別に入手したチェリーマーク二対です。



後日、このチェリーマークの所持者だった
軍人が判明致しました。このチェリーを収
めた賞章のオリジナルの収納箱も手に入
れバラバラにされた品を回収しました。






平成21年1月31日に逝去された
 海兵66期 和田 孝雄 元海軍少佐
        の恩賜の海軍士官短剣に
         チェリーマーク他、縁の品々




上は海兵入学前の和田氏です。
兵庫三田中の出身でした。
海兵生徒の和田氏…チェリーマーク二個に
胸にメダル4個を付けています。彼は66期の
恩賜短剣拝受者6名の1人で220名の卒業生
のTOP6に入っていた秀才でした。ハンモック
ナンバーは 4/220 だったと思います。
66期は戦争備え240名まで100名以上も入学枠を増員させた
期でした。4年の年限も半年早く繰り上げて卒業しはじめた期
でした。67期では8ヶ月繰上げて69期では3年に短縮されまし
た。
海軍兵学校の卒業証書です。運命の日米戦の開戦の3年前です。
そして少尉候補生として練習艦隊で海外遠征をします。良い時代
の海軍士官だと謂えます。


上下の位記・任記は入手しませんでしたが
同時に出た和田氏のものです。
66期も航空隊で搭乗員をされていた方は敗戦時に
少佐に進級されている方もおりました。和田氏は通
常の水上艦艇の勤務でしたので大尉まではアルバ
ムでも確認をしておりますが、恐らく少佐に昇進せ
ず敗戦を迎えたと考えおりましたが、実際は敗戦後
の昭和20年9月に少佐に昇進と謂う…所謂、ポツダ
ム少佐で海軍のキャリアを終えております。売りに
出されていた位記・任記にも大尉までしかありませ
んでしたので後に判明し納得した次第です。下の写
真は、記念撮影で写る和田大尉です。
         ↑
この画像のバーナーをクリック
すると和田大尉の画像を少し
掲載しているコーナーにジャン
プします。


海軍大尉で海軍は無くなり…職業軍人としての道は断たれました。
その後、和田氏がどのような人生を送られたのかは知りません。公
職追放後に創設された自衛隊に身を寄せた人、大学に入りなおし
全く別の人生を生きる人。様々ですが…どのような人生を送られた
のでしょうか。確かこの期では海幕長を輩出していたようです。和田
氏は高齢になられてからは海兵66期会や他の海兵の期別会などで
活動を行い、政局談義なども行い執筆活動もされていたのでマスコ
ミ関係や学術関係の方に進まれた方なのかもと思いました。




和田元少佐が戦後に寄稿された文章とプロフィールがありましたので紹介します。








和田 孝雄 元海軍少佐が
     拝受された恩賜の短剣




大先輩の海軍研究家であるTF様から譲り受けた和田少佐の
恩賜の海軍士官短剣です。海軍でも陸軍でも恩賜軍刀・短
剣組は非常に名誉な事であり優秀な成績を残した者しか、そ
の栄誉は与えられず…これ等を拝受した者は将来の栄達が
半ば約束されたも同然でありました。






上質な桐箱の外装に六つ折りの高級和紙の目録と典型的な恩賜短剣です。



























銀ハバキの物と金ハバキの物とがあります。
この年度は金ハバキを使用されたようです。





戦前の至宝と謂われた名刀工の堀井俊秀の謹作ですから納得の
力作です。俊秀の作は数あれど…俊秀が納得の謹作は数が限ら
れるものと思います。俊秀は名誉ある恩賜軍刀や短剣はより丁寧
に入魂の作なのでしょう…俊秀謹作の銘が刻まれています。















海兵六十八期 米原三郎 大尉の海兵時代の教科書




米原大尉は、五十八期 航空参謀 米原中佐の弟です。昭和15年兵学校卒業、
17年にスマンダ列島フロ-レス島で戦死されました。大尉は、空挺部隊である
横1特陸の所属でした。












英語の教科書の中に鉛筆書きで書かれた英文等の
記載がある紙がありました。海兵の生徒時代に書い
たものと思われます。







戦闘306飛行隊 隊長 森井大尉の資料




以下は、零戦エースパイロットとして活躍し昭和19年9月12日
フィリッピンのセブ島にて戦死した森井宏海軍大尉(戦死後に
少佐)の残された資料です。通常、5機以上の撃墜でエースと
されますが、森井大尉の正確な撃墜記録数を知りませんが撃
墜8機以上の方を名簿にしているエース列伝に大尉の名前が
ございますので最低でも8機撃墜を記録されていると思われま
す。
戦死された森井少佐は、海兵69期で東京の出身で府立四中より海兵に
入学されております。少尉候補生で戦艦”比叡”に乗艦。開戦直前に少尉
に任官し霞ヶ浦海軍飛行学生に、昭和17年8月に大分海軍航空隊飛行学
生に、同年11月中尉に任官。昭和18年3月に岩国海軍航空隊で分隊長
。同年12月、松島海軍航空隊分隊長。昭和19年2月、上海海軍航空隊

(256空)分隊長。同年3月に大尉任官。同年5月に第201海軍航空隊
セブ島に赴任。あ号作戦の失敗後、森井少佐は、戦闘第306航空隊々長
兼分隊長に就任。昭和19年9月12日の米軍来襲で迎撃戦で森井隊長以
下25機が戦死されました・




左は、戦後の20年9月12日付の海軍省人事局長名で遺族に
出された戦功による官記の送付を告げる内容です。また右は
戦死の証明書です。
同期生でしょうか第一艦隊第一戦隊 榛名
神木英夫と差出人の名前があります。
海兵の同期生でしょうか森井大尉に送られた
葉書です。

これは、戦後に御母堂様が記載された森井少佐の軍歴です。
森井少佐は、戦闘306飛行隊長に就任する前は、第256海軍航空隊
の艦戦隊の飛行長をされておりました。第256航空隊は、昭和19年2
月1日に上海の竜華飛行場で開隊し支那方面艦隊に所属していまし
た。定数は、艦戦24機、艦攻8機で主に上海防空、付近海面の対潜
哨戒、船団護衛を任務としていました。この基地では、主に搭乗員の
練成を主眼としたようで、この基地から森井少佐のように南方の最前
線に多くのパイロットが赴任していたようです。同年5月1日、第201海
軍航空隊(セブ島)に赴任。201空は、6月にヤップ島・グアム島へ一部
進出しサイパン沖の敵艦船を攻撃、7月中旬に再びヤップ島へ進出し
来襲するB24迎撃を行う。あ号作戦の失敗後、森井少佐は、戦闘第
306航空隊々長兼分隊長に就任。爆装零戦による敵艦への反跳攻撃
訓練を行っていました。昭和19年9月12日朝、来襲した米軍機約100
機に対し201空隷下の零戦は、何とか41機が不利な体制から迎撃に
飛び上がり、敵23機を撃墜するも森井隊長以下25機が未帰還機とな
り戦死、14機が不時着、25機が地上で大破炎上、30機が中小破とい
う大損害を被っむりました。その後の201空は、士気が高かったが米軍
の物量の前に消耗戦を強いられ、同年10月より特攻による出撃に切り
変わります。昭和20年1月には、残存する搭乗員のみを台湾に後退さ
せ本隊は、クラーク西方の山中に篭城するまで全体特攻を敢行し200
名以上の散華者を出したと記録されています。
海兵在籍中の集合写真
にあった森井少佐の生徒
時代の写真です。







敗戦時、海軍省軍務局 第四課長であった
       高瀬 五郎 海軍大佐の軍装一式




以下の大型皮製トランクに高瀬五郎 海軍大佐の軍装一式が入っておりました。
高瀬五郎大佐に関しまして、当初は、詳細な軍歴軍歴が判明せず海兵50期で
生年月日が明治35年6月12日で敗戦時階級が大佐で43歳あった事しか判っ
ておりませんでした。その後の調べで敗戦時、海軍省の中枢にあって軍務局
第四課長の要職にあった軍人である事が判明しました。

軍衣等一式の中身からもからも判るとおり、軍衣が参謀衣ばかりなのですが、
将官名簿に名前が無い事より、そのまま海軍大佐ではいせんを迎えているの
が判ります。また軍帽ケースに中佐時代の名刺の切れ端があり、そこに
副長 高瀬五郎中佐とありました。従って中佐時代の参謀衣は、副長の銀の
飾緒を吊る為のものだった可能性があります。マントよりも戦闘用の雨衣がか
なり使い込まれている感じがします。大型トランクの中の品は、


 一種参謀軍衣袴(大佐)一点
 一種参謀軍衣袴(中佐)三点(うち一点夏用軍衣のみ)
 一種(戦闘用)雨衣一点
 マント二点 外套・マント用頭巾七点
 軍帽二点 正肩章一対 大礼帽一点

以上が入っておりました。順に御紹介します。
 

高瀬大佐の一種参謀軍衣袴です。参謀飾緒と略綬は、
イメージで手持ちの物の合わせです。



中佐時代の参謀一種。こちらも略綬と参謀飾緒は
、イメージで手持ちの合わせです。



こちらも別な中佐時代の一種参謀衣です。こちらも略綬
と参謀飾緒は、イメージで手持ちの合わせです。



こちらは、中佐時代の夏用の参謀一種衣のようです。こちらも
略綬と参謀飾緒は、イメージで手持ちの合わせです。


佐官を示す桜花襟章が付いたマント

こちらのマントは、襟の桜花章が外されています

これは、戦闘用の海軍第一種雨衣です。

これは、”海軍服制”の准士官以上の第一種雨衣です。折り襟・隠し
ボタン・後裾のセンターベンツのある紺色の雨衣です。軍艦の甲板
以上で海戦中は、至近弾が炸裂し海水が吹き上げ、ずぶ濡れになる
事を想定して、戦闘時には准下士官以上の着用が許可されたと言い
ます。映画の「戦艦大和」の戦闘場面ではこの雨衣を着用した兵士が
登場していると言われ、生存者の考証再現でありましょうか、戦闘用
に着用した。という事は正しいと言われています。この雨衣は戦闘時
に海水・風除けに、袖口に紐による絞りが付けられています。襟章の
取り外しの跡と襟元に色あせが有ります。



正装用の佐官正肩章と正帽です。


こちらの軍帽は、非常に状態の良いものです。


こちらの軍帽は、上のものより少し状態が落ちますが顎紐が切れています。


外套・マント用頭巾です。何故か頭巾のみ7枚も
有ります。よほど大事にしていたのか、この方は
艦上勤務の長かった人と想像します。

軍帽ケースの蓋に付いていた名刺の切れ端です。


その後の調べで高瀬大佐が中佐時代の昭和13年〜15年の
陣中誌より海軍省軍事普及部に在籍した事が判っております。
その後、先の大戦中の約3年と9ヶ月の間に艦上勤務の副長
または、基地勤務の副長を中佐で勤められているようです。こ
の部分がまだ不明です。大佐の一種衣が参謀服であった事よ
り大戦末期に大佐へ昇進する前後まで副長を務めていた可能
性もあると考えております。…また不思議な縁の巡り合わせで
以下に出します高瀬大佐の少佐時代の大礼服を入手する事と
なりました。東京の品に欠品だった大礼服が何故か京都より里
帰りいたしました。肩章と帽子が揃いであった上下を呼んだのか
も知れません。
この戦線文庫に高瀬中佐の名前を拾う事が
あります。



正衣と正袴、胴衣に手袋、蝶タイです。


トランクは、鍵真上に真鍮製「高瀬五郎」彫刻フルネームタグ、両側面に
神戸ホテルと上海ホテルのステッカーが貼られております。蓋裏に正剣
取り付け装置2つ(但し、上部はひもが欠損)。革製衣服固定バンド健全






貴重な情報と画像が寄せられました。以下の画像より高瀬氏は、中佐
時代に空母 隼鷹の副長をなされていたようです。画像は、空母 隼鷹
の艦内演劇会の写真で同艦乗組みの喜多三整曹が所持していたアル
バムによる画像です。(写真提供:近藤勇蔵 様)
アルバムの所持者だった喜多三整曹の画像です。
フクちゃんに扮しているのが喜多三整曹。回覧板の下に隼鷹
隣組の文字が見えます。易者に扮した方が高瀬中佐です。
副長に聞け。易断、高瀬とあります。隼鷹は、艦長以下
随分くだけた雰囲気だったらしいとの事です。トラックなど
でも相撲大会など行っていたようです。



敗戦時に高瀬大佐が海軍の中枢である海軍軍務局第四課の
課長を勤められていた事実が判明しました。直属の上司に当
るのは、軍務局次長の高田利種少将、更に軍務局長である
保科善四郎中将であります。ご存知のように海軍省は海軍大臣
をTOPにいただく海軍を代表した役所であります。この海軍大臣
(現役の中・大将)と次席である海軍次官(現役の中将)は、海軍
内部で唯一、文官としての身分を持つ軍人であります。この海軍
省の中で軍務局、人事局、教育局、軍需局、経理局、医務局、
法務局等が存在しますが、この中で特に重要視されるのが軍務局
であります。軍務局は、海軍としての政策立案を主管する事実上の
意思決定部署であります。この内部部局の中で特別な軍務局は、
軍備・国防・服務・条約・礼式など海軍にかかわるあらゆる制度を
掌握すしました。その中枢たる軍務局には、第一課より第四課まで
が存在しました。一課は、海軍省官制によれば、以下、

軍務局第一課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

1、海軍軍備其ノ他一般海軍軍政ニ関スル事項
2、艦船、部隊、官衙及学校ノ建制及勤務ニ関スル事項
3、艦船及部隊ノ編制及役務ニ関スル事項
4、軍紀風紀ニ関スル事項
5、演習ニ関スル事項
6、検閲ニ関スル事項
7、儀式、礼式、服制及旗章ニ関スル事項
8、艦船及兵器其ノ他ノ軍需品一般ニ関スル事項
9、戒厳及防衛ニ関スル事項

尚、二課及び三課も以下、

軍務局第二課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

1、国防政策ニ関スル事項
2、国際的規約及遣外員ニ関スル事項

軍務局第三課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル

1、国防思想ノ普及ニ関スル事項
2、軍事関係団体ノ指導ニ関スル事項

尚、高瀬大佐の第四課は、陸軍報道部と同じ役割と共に報道や
メディア等の監視・規制にも関与していたようです。元は軍事普及
部ようなものであったようです。







海軍精神注入棒

体育会系や武道系の部活をされた方ならお判りでしょうが、所謂、ケツバットです。
帝國海軍に於いて恒常的に行われていた体罰”バッタ”で使われた棒であり、軍人
精神注入棒が最も一般的ですが、この他にも”荒鷲魂注入棒”や”大東亜戦争完遂
棒”などと様々な記載や呼び方をしましたが、もっとも典型的な樫の棒です。これは
マジに痛いです。飛び上がります!!サイズは、長さ104cm、直径5cm。重さは、
1.2kgとずっしりです。時代が作った傷や汚れが往時を彷彿とさせます。良くも悪くも
帝國海軍の伝統を受け継いで来た軍人精神注入棒です。







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