-


鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編W


旧軍の遺構や資料館など・・・南九州編

(1ページ目)

(九州南部に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。


この南九州は沖縄に向けての特攻基地が非常に
多く集中した地域で知られ全国の陸海軍の航空隊
より特攻機が陸海軍の各特攻基地より連日、沖縄
に向けて飛び立って行きました。…一部では知覧
や鹿屋、万世のみが特攻基地としてクローズアップ
される傾向がありますが…そうしたクローズアップさ
れない基地の遺構も含めて出来る限り紹介したいと
思います。私自身、25年以上の時経ての再訪の地
でありました。特に鹿屋の二式大艇は実に船の科学
館に展示されていた時以来、30年ぶりの再会となり
感激しました。…世代を超えて語り継がねばならな
い我ゝ、日本民族の自存自衛の歴史です。よしあし
を判断するのは個人の自由ですが…まずは起きた
事・・・そして当時の先人同胞達が何を考えどう行
動したかを知って再考して欲しいものと感じます。…
時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の
念を捧げます。
                   合掌

                皇紀2670年10月

                  管理人 憂国烈士








〜旧海軍赤江飛行場
     宮崎海軍航空隊の遺構〜
   (後の松島海軍航空隊)

      (現・宮崎空港)




赤江飛行場・宮崎空の九六式陸攻
赤江飛行場の上空で実弾射撃訓練中の九六式陸攻



九州で特攻基地と謂うと大体が知覧や万世を思
い浮かべどうしてもそちらに伺う方が多いのが実
情ですが…この宮崎基地も陸海併せて387名も
の若者が御国の為に沖縄や敵機動部隊を求めて
飛び立ち散華されております。南九州には鹿屋基
地を筆頭に非常に多くの特攻基地が存在しており
ますが…赤江飛行場は知名度の低く訪問者も少
ないのが実情です。…しかし特攻出撃した戦死者
数を比較すると。最も多い基地が海軍の鹿屋基地
で908名、次いで陸軍の知覧基地が436名、海軍
の国分基地が3番目に多く427名に及んでいます。
そして4番目に宮崎のこの赤江基地が387名を送り
出しています。また5番目に多いのが海軍の串良基
地です。因に6番目が陸軍の万世基地の201名で
7番目が海軍の出水基地の200名、8番目が海軍の
指宿基地82名、9番目が陸軍の都城基地でありま
す。
現在の宮崎空港の脇に残る旧赤江海軍航空隊
(宮崎海軍航空隊)の隊門の門柱の一部です。

宮崎の赤江飛行場は旧日本海軍の練習航空隊が置かれておりました。
しかし戦局が悪化し南九州における本土防衛の重要さが増して海軍の
みならず陸軍の特攻隊も当基地より出撃致しました。そして陸軍機には
海軍の予備学生出身者が航法士や機長として搭乗し、陸海軍共同の特
攻隊が編成されました。 こちらの宮崎特攻基地慰霊碑には、801人の
特攻隊員が祀られております。そのうち387人は宮崎特攻基地から発進
した特攻隊員で、414人が宮崎県出身者で宮崎特攻基地以外の基地か
ら発進した特攻隊員や訓練中の殉職者・戦傷病死者を含めた陸海軍の
航空機搭乗員です。

昭和55年に宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会が結成され、3年後、
宮崎空港の西端に「鎮魂の碑」が建立された。平成10年には墓碑名も完
成し、毎年4月の第1日曜日に慰霊祭が行われておるそうです。

私が慰霊に訪問した日にもきれいに手入れを怠らない地元の管理の方々
が熱心に清掃作業をされておりました。



何も書くことはありません。
只ご両親様及久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。
潔く散るのみです。目標は正規空母です。
十日位したら徳島海軍航空隊第十四分隊五班上野功君に便りして下さい。
真実は受け取ったと泣かずにほめて下さい。
幸多かれしと祈るなり。
親戚の皆様へ宜敷く。

 宮崎航空基地にて  六時三十分終了
 御両親様  孝養を頼むぞ久美子 安よ頑張れ

 神風特攻第六菊水隊  海軍一等飛行兵曹 伊藤 勲 享年二十才


















昭和18年12月に陸上攻撃機実用機教程練習航空隊として宮崎空は開隊します。
昭和19年8月に練習航空隊(中攻隊)が松島空へ移転しました。その後は航空作
戦基地へ転換します。宮崎特攻基地は、南九州最大の航空基地の一つとして陸海
軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦で特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となりま
した。この基地からは、陸上爆撃機”銀河”が特攻出撃した銀河隊は勿論、雷装し
雷撃機としても出撃しました。







現在は国際線も持つ宮崎県の空の玄関口である宮崎空港
です。当時の面影は殆どありませんが周囲の農家に零戦の
掩体壕が幾つか残存しています。




空港周囲には今も掩体壕が幾つか残存します。その殆どが近隣の民間
の土地となって農耕具入れや倉庫と化して現在も使用されています。



以下は、今回の慰霊で伺った時に管理する方より戴いた合祀者名簿になります。







以下は、ありし日の宮崎空の写真です。
左は宮崎空、格納庫前の九六式陸攻。右は八紘之基柱を
見学した宮崎空の士官の記念撮影のスナップです。
宮崎海軍航空隊の本部庁舎前で写真に写る西田 三郎 分隊長
飛行科学生のロッカー…二種士官略帽の上に人形の
マスコットがぶら下がっている。
右端の方が宮崎空司令の永田 英雄 海軍中佐(海兵53期)
隊内の写真
隊員が世話になった宮崎市内のモダンでハイカラな旅館。戦前…作家の志賀直哉や
武者小路実篤が投宿して宮崎市の代表的な旅館だった神田橋旅館です。今はありま
せん。
昭和19年8月18日、中攻隊は台湾に出撃。同年8月1日より
松島空へ移転。その後、宮崎基地は特攻基地として敗戦まで
活躍する事になりました。








〜 陸軍歩兵第二十三聯隊の遺構 〜
     (歩兵第六十四聯隊)

  (現・陸自 都城駐屯地・郷土館)




珍しい旧軍の歩兵第二十三聯隊の正門をそのまま自衛隊の
都城駐屯地(第四十三普通科連隊)が使用しています。当時
のままの正門が使われているのは恐らく全国でも此処だけと
思われます。
現在は陸自第43普通科連隊が駐留する都城駐屯地です。











現在は都城駐屯地の郷土館です。かつての歩兵第六十四・二十三聯隊の
聯隊本部だった由緒ある建物です。菊の紋章が今も尚、光を放つ建物は
今ではそうお目に掛かれるものでありません。この光景を見ただけでも遠く
から来た甲斐があったと思わせます。



旧歩兵第二十三聯隊本部跡です。明治38年に旧歩兵第六十四聯隊が軍旗を授与され此処に
ありましたが、宇垣軍縮で廃止。大正14年、熊本歩兵第二十三聯隊が都城へ転営し敗戦まで
聯隊本部として使用されました。現在は陸上自衛隊第43普通科連隊の駐屯地の郷土館として
資料館になっています。この郷土館(聯隊本部)は、明治41年に建設されたたものです。
旧軍だけでなく自衛隊で当地の都城の隊員がイラクや海外へ
派遣された活躍や…大淀川流域は水害が多く、自衛隊の災害
出動や宮崎の口蹄疫の大被害でも当部隊が出動し大活躍した
事も紹介されています。兎角、マスゴミは自衛隊に冷たく…その
活躍を褒める事も紹介する事も滅多にありません。しかし縁の下
の力持ちで警察や消防より我先に最も危険な地域に入り、警察
や消防が中に入れるように橋を掛け、道を復旧するのも自衛隊
と隊員達の弛まぬ努力のお陰である事を見る事が出来ます。


丁度、来訪時は西部方面隊創隊55周年のイベントが各地で行
われる直前の時期で…都城でもイベントに華を添える為、九十
四式三十七粍速射砲が他の駐屯地から借り受けて郷土館の
前に仮で置かれておりました。



郷土館の裏手には、今は懐かしい戦後初の国産戦車
となった三菱の61式戦車が置かれておりました。




資料館の内部です。歴史的にも貴重な品が保存されております。


上原 勇作 元帥 陸軍大将は都城出身で、歩兵第六十四聯隊や旧国鉄の
吉都線(元の日豊本線)の誘致は上原元帥の力で実現したと謂われてい
ます。
















陛下の御真影を収めた戸棚です。




地元出身の退官した隊員が詳しく説明して下さりました。


昭和10年の陸軍特別大演習の際、大本営が置かれた都城中学校で大元帥陛下
(昭和天皇)を中心に約二千人の将帥たちを俯瞰した有名な記念写真がこれです。
これは左右端が見かけ上、平行に写っていますが、外側が曲がったり尻すぼみ
に見えないよう事前に並び方を訓練したといいます。
陸軍大元帥の軍服姿の昭和天皇に海軍軍人姿の三笠宮殿下
そして多くの宮様将星をはじめ錚々たる顔ぶれが一同に写って
おりますが…これだけの約二千名以上の全員が陸海軍の将校
以上である事も凄いの一言に尽きます。








かつて聯隊長室近くで衛兵が歩哨していた附近のに置かれた消火器箱の裏に
「蚊に刺されて嫌だ」との落書きが、最近発見され…地元新聞にも新聞にも掲載
されました。その腹いせに刺した銃剣の跡も当時の小火器の箱の板に残ってい
ます。
聯隊の兵舎等で使用されていた屋根瓦です。
本土決戦に備えた人間魚雷・回天の錬成実施部隊である
第二特攻戦隊第三十三突撃隊のZ旗とありますが、これは
間違いと思われます。郷土館の方にもお伝えしましたが…
第五特攻戦隊の第33突撃隊が正確な隊名の筈です。


宮崎沖で座礁した初代の駆逐艦”時津風”の署名入りの軍艦旗です。


座礁50周年を記念して戦後生き延びた艦長以下10名の
生存者の当時の乗組員だった方達が署名しています。
初代の時津風は、磯風型駆逐艦の4番艦です。大正7年3月25日、
宮崎県の折生迫(おりうざこ)海岸で座礁し、船体を破壊する。これ
により時津風は使用不能となり兵装や備品を取り外して放棄されま
す。同年12月2日舞鶴海軍工廠で、座礁した時津風から取り外され
た兵装・備品を利用して代艦を起工し、大正8年3月31日に進水、大
正9年2月17日に完成しました。代艦が造られたため実際には新造
扱いですが、この時津風のケースは大修理として扱われたため代艦
も時津風として扱われました。昭和10年4月1日、除籍され、昭和15
年4月1日、海軍兵学校の練習船となりました。



この他にも海軍関係の資料や収蔵品も一部ですがあります。



都城も3つの飛行場を持ち大戦の末期では
陸海軍の若者が特攻隊として69機が出撃し
散華されている特攻基地でもありました。
都城西飛行場は陸軍の飛行場で東飛行場が海軍のものでありました。
疾風の振武特攻隊79人の展示を目的に見学する人も多いようです。
しかし知覧や万世・鹿屋が特攻基地として余りに有名ですが、先の
宮崎海軍航空隊(赤江飛行場)や出水、国分、指宿海軍航空隊と同
様に此処都城も陸海軍の特攻基地があった事で有名です。





北海道・東北出身の特攻将兵です…。


都城東飛行場の海軍航空隊の特攻将兵達の写真です…。




都城西飛行場などを説明した資料です。






郷土館の横に隣接する旧将校倶楽部(将校集会場)。
こちらも都城駐屯地の中で現存し現役で使われている建物で
旧陸軍の歩兵第六十四聯隊・第二十四聯隊の将校倶楽部(
将校集会場)として使用されていた明治時代の百年以上経過
する歴史的な建物です。



旧聯隊本部だった郷土館に隣接する旧将校会館です。明治時代の
木造洋風建築に瓦屋根がとてもモダンで親しみを感じます。
何処かノスタルジックな建物で…何時までも末長く
保存してもらいたいものだと痛切に感じます。











〜陸軍 都城西飛行場の跡地・遺構〜

   (現・陸自都城駐屯地訓練場)




昭和10年、大元帥陛下が御統監された陸軍特別大演習が
都城で行われました。この記念の碑が右の大きな石碑で
す。左の小さな石碑の方は、陸軍都城西飛行場(都城飛行
場)で行われた満洲より凱旋した二十三連隊の凱旋記念飛
行した記念の石碑となります。




大元帥陛下を中心に陸海軍の将校団による壮大な大記念撮影
です。全員が将校です。…昭和10年の都城で行われた陸軍特
別大演習の有名な写真です。



都城西飛行場は、昭和8年都城歩兵23連隊が満州事変から
凱旋したのを記念して、昭和9年末に一般市民及び諸団体の
勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており
対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和20年
4月頃までに1200メートルまで延長された。
昭和17年4月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信
省航空乗員養成所が設置され、九十五式一型乙中間練習機
(赤とんぼ)による訓練が行われていた。昭和20年3月には、
南九州の各基地には来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結して
おり、都城東・西飛行場には第100飛行団、四式戦(疾風)装
備の飛行第101、102戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
同年4月6日に第101,102両戦隊からの志願者10名(第一
特別振武隊)のうち8名が第一次航空総攻撃にあわせて、4月
12日に第一特別振武隊の残り2名が第二次航空総攻撃にあ
わせて飛び立ち、若い命を散らした。同年4月27、28日の西
飛行場連続の空襲では、多数の特攻機及び建物が直撃を受け
、死者18名を出した。また、時限式爆弾のため復旧作業も出来
ず、第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第61
振武隊は、急遽東飛行場へ転進し、飛び立っていった。以降、
出撃は都城東飛行場からとなり、同年8月15日終戦を迎えた。

…説明は石碑からの抜粋です。




大東亜決戦機と言われた疾風です。








〜陸軍 都城東飛行場の跡地・遺構〜

   (現・都北町緑地広場公園内)




都城東飛行場の跡地に建つ特別攻撃隊出撃の地碑です。
しかし非常に見つけづらい場所にあります。旭自治公民館
の横の公園になるので公民館を探すと判りやすいと思いま
す。



                   鎮魂(都城東飛行場)

太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として
都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日まで
の間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。都城東飛行場は、昭和十九年
前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急増したもので
表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約1500m
東西に500mの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。当初は海軍が零式戦
闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦
(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。同年三月
十八日に西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場場の特攻機は、たこの足のような誘
導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。また、部隊の宿舎も東南
側の五〇メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場
から特攻機が飛び立った。同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名
(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて
、四月十二日に第一次特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立
った。同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建
物が直撃を受け死者十八名を出した。また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第
五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東
飛行場に転進し飛び立って行った。

以後(昭和二十年)

五月 四日 第六次航空総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)

五月 十一日 第七次航空総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)
                     第六十一振武隊(三名)

五月二十五日 第八次航空総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
                     第五十八振武隊(十名)
                     第六十振武隊(一名)
                     第六十一振武隊(一名)

五月二十八日  第九次航空総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
                      第五十九振武隊(三名)

六月  八日  第十次航空総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日     航空総攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)
六月二十二日                第二十七振武隊(六名)
                      第百七十九振武隊(五名)

七月 一日                第百八十振武隊(二名)

次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。

同年八月十五日、終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和
を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたしま
す。

平成十三年六月吉日 都城徳穂説攻撃隊戦没者奉賛会  会長岩橋辰也

なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に
あります。










〜都城陸軍墓地(現・都島公園)
   
都城特攻振武隊はやて 慰霊碑〜




大東亜戦争末期…昭和20年4月、、遂に米軍が沖縄に上陸。この沖縄戦
で米軍を叩く為、南九州全域の陸海軍各航空基地から昼夜を問わず多くの
特攻機が飛び立ちました。この都城の地では西飛行場と東飛行場の二つか
ら第100飛行団、四式戦”疾風”を装備した飛行第101、102、103戦隊及び
特攻二隊が展開しました。
その特攻の第一陣となったのは昭和20年4月6日
の第一特別振武隊(隊長 林少尉)以下八名でありました。都城西飛行場から
沖縄の敵機動部隊を目指して飛び立ち二度と戻る事はありませんでした。

その後も特攻出撃は回を重ね、昭和20年7月1日の第180振武隊(隊長
木下武彦少尉)以下六名の四式戦”疾風”が都城東飛行場を飛び立ったのを
最後に沖縄への特攻出撃は終了しました。都城を発進した特攻機隊は全部で
10隊、全機四式戦”疾風”による部隊編成であった為、”都城疾風特攻振武
隊”と呼ばれました。出撃特攻隊員は、全員で79名…その殆どが平均年齢20
歳という若者達でした。この慰霊碑は…この都城疾風特攻振武隊の慰霊碑で
あります。















精強を誇る九州兵団の中で剛勇で鳴らした都城聯隊は今も
陸上自衛隊でも特に訓練も厳しく精強を誇っています。そして
この陸軍墓地に代表されるように小都市でありながら軍都さ
ながら官民挙げてお国に協力し尽くした地域と謂っても過言
では無いでしょう。そして戦後になり反旗を翻すような自治体
も多い中…戦没者や英霊達を今も顕彰し慰霊する姿は…特に
感銘を受けます。この南九州は宮崎だけでなく鹿児島も熊本も
多くの特攻隊を送り出しました。そして大切に慰霊碑を守り線
香を絶やさず清掃している地域は稀であるし…滞在中もそこで
普通に暮らす方と言葉をかわし何度も胸を熱くさせ瞼を熱くさせ
ました。
















都島公園から天ヶ峯、金御岳、住吉山方面を遥か望む風景です。








〜海軍第五特攻戦隊
     第三十三突撃隊
        第五回天隊の遺構〜




第五特攻戦隊第33突撃隊は油津(現在の宮崎県日南市)に進出。
33突には第三・五・九回天隊の3隊の回天隊が配備されました。
このうち第三回天隊(隊長 羽田 育三 海軍中尉)以下8名の隊員の
回天8基が油津にあって、第九回天隊(隊長 重岡 力 海軍少尉)以下
5名 回天5基が内海に配備され、第五回天隊(隊長 永見 博之 海軍
中尉)以下7名 回天7基が南郷町の栄松海岸に配備されました。日向
灘を目の前に望み大島が見えます。美しい風光明媚な景色が回天の
凄まじさと相容れない印象を受けます。
第5回天隊は、大津島の回天基地で錬成を行い、昭和20年6月17日に
大津島を出発し南郷町の栄松海岸に着任します。隊長の永見 海軍中尉
以下7名が敗戦による除隊までその任にあたりました。

 永見   博之 海軍中尉(予備3期)
 小原   隆二 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:土浦海軍航空隊)
 中村   憲光 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:土浦海軍航空隊)
 多賀谷 虎雄 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:奈良海軍航空隊)
 高館   孝司 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:奈良海軍航空隊)
 蔦村   照光 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:奈良海軍航空隊)
 緑川   武男 海軍一等飛行兵曹(甲飛13期:奈良海軍航空隊)

第三回天隊隊長の羽田 育三 海軍中尉(海兵73期)は、昭和20年
7月17日内海の第九回天隊の開隊支援に出向き空襲を受けて
戦死。代わりに海兵71期の帖佐 裕 海軍大尉が指揮官とし
て着任、33突の三個回天隊計26基の回天を束ねる先任指揮
官として敗戦解散まで指揮を取られました。




尚、この33突の油津には第54と第117と第124震洋隊がそして細島には
第48と第118震洋隊の5隊が展開し配備されておりました。
尚、油津に配備された三個震洋隊のうち第126震洋隊は南郷外浦に配備され
ましたので第五回天隊と近くに存在し連携し作戦行動していたと考えられます。


陸自都城駐屯地の郷土館で展示されている本土決戦に
備えた人間魚雷・回天と特攻艇・震洋艇の錬成実施部隊
である第二特攻戦隊第三十三突撃隊のZ旗とあります。
第五特攻戦隊の第33突撃隊が正確な隊名です。当然、
潜水する回天に…Z旗は不要ですので震洋艇で隊長艇が
使用したものと想像されます。恐らくは第54か117震洋隊
のものと思われます。



本土決戦に向けて第5特攻戦隊第33突撃隊が油津に進出し、
第54震洋隊と第3回天隊が油津の本隊として配備されました。
そして第9回天隊が内海に第5回天隊が栄松に配備されました。
その時6基の格納庫がありましたがが、現在は2基しか残ってい
ないそうです。今回は時間の関係上、2基残ったレールを確認す
る事は出来ませんでした。また内海と細島の震洋隊の格納庫跡
も訪問できませんでした。
美しい栄松海岸





cf.震洋艇 及び 震洋隊 に関しまして!!

大戦末期、米軍に対抗する海軍戦力を欠き(艦は、あっても油無く
港湾の砲台と化していた。)制空権も確保できない帝國海軍は、本
土決戦に備え海龍隊、蛟龍隊、震洋隊、伏龍隊、回天隊を主軸とし
、これに海防艦や波号潜水艦、駆潜艇、哨戒艇などを組み入れて
各鎮守府単位で特攻戦隊、また各地に突撃隊の配備を行う計画で
した。その中で横須賀鎮守府所属の第一特攻戦隊に第27震洋隊は
、37、42、47、51震洋隊と共に組み入れられました。この他に第一
特攻戦隊所属として駆逐艦『沢風』、海防艦『四阪』に回天隊があり
ました。稲葉中尉の所属した第27震洋隊もこの第一特攻戦隊の所
属でありました。…以下に震洋艇に関して補足を記載します。

陸軍の搭乗員ですが…後方の3名がマルレの水上作業衣であるのに対して
前の3人は、海軍と同じように飛行用のカポックに飛行帽と飛行眼鏡をして
います。珍しい画像です。

震洋艇の誕生は、昭和18年7月まで遡ります。連合艦隊参謀の黒島亀人大佐
が軍令部第二部長に着任すると劣勢の戦局を挽回すべく新兵器の考案を開始
しました。約一年後の昭和19年4月に出された黒島第二部長の答申の一つが
実現可能な高速自爆特攻艇でありました。この他に同時に採用された案の中に
人間魚雷”回天”などがあります。…こうして4番目に提案された特攻モーターボ
ートは、『マルヨン』のコードネームで実用化に向けて技術検討が開始されまし
た。その後、生まれたのがトヨタKB型トラックの汎用ガソリンエンジン(73馬力)
を流用した特攻艇ですが、船体は、ベニヤ張りの木製で日産自動車系列の日本
造船が製作しました。全長が約5m、排水量1.5t、搭載爆薬250kg、最高速力20
ノット。…同年5月に試作艇が作られ、8月末に制式採用が決定して水雷学校の
校長である大森仙太郎中将が”震洋”と命名しました。搭乗員は、飛行訓練中の
予科練・予備学生などから転用されました。当初、横須賀で搭乗訓練を行い、搬
出レールや隠蔽壕などの設営隊を加えて震洋艇を50隻を持って、第一震洋隊が
編成されたのが制式採用決定の翌日の事でした。この後、陸軍もこれを採用し『
四式連絡艇』(マルレ艇)または、『四式肉迫攻撃艇』と呼びました。基本的には、
陸海軍同じ艇を使用しておりました。大きな違いとして海軍の震洋が体当たり特
攻兵器で生還を期さない外道であったのに対して、陸軍の四式は、肉薄攻撃艇の
名前にある通り爆雷投射器(射程約10m)を付けて体当たりをせず生還を前提に
している点です。120kg爆雷を操縦席の左右に2個搭載し敵艦に肉迫して艇はU
ターンしながら爆雷を投下し離脱。爆雷は7秒後に爆発する仕掛けでした。この為
か編成も陸軍と海軍では、大きく違いが出ています。海軍が50隻の震洋艇を基幹
として支援の設営隊を附属しても200名程度の将兵で一個震洋隊を形成(隊長は
、大尉または、中尉で士官は、約10名程度)したのに対して、陸軍は、一個大隊規
模の船舶工兵を持って海上挺身戦隊を形成、100隻を擁して、付帯部隊として、作
業中隊3個、整備中隊1個を持ち総勢800名〜900名規模の大部隊となっておりま
した。当然、軽装備ながら歩兵部隊の装備を持っておりましたので艇を失っても陸
上戦力として陸軍の海上挺身戦隊は、勇戦しました。これには陸軍が挺身戦隊の
指揮官を陸士出の少佐・大尉が当たり、中隊長クラスも陸士での現役の少・中尉が
掌握していたとの事です。一方、海軍は、予備将校を指揮官に当てており海兵での
現役士官を出し惜しみしたのか全体の士気は、勿論の事ですが陸上戦になった場
合にも組織だった攻撃が出来なかった海軍の震洋隊との違いを浮き彫りにしていま
す。これは、特攻艇全体の戦果としても陸軍のマルレが大きく秀でる結果に表れて
おります。…昭和20年1月9日のフィリッピン・リンガエン湾における米軍の上陸戦に
対して陸軍の第12海上挺身戦隊は、約40隻のマルレ艇で夜間攻撃を敢行し米軍の
上陸用舟艇など約20隻を損傷・撃沈させる大戦果を上げました。この成功以降は、
米軍の魚雷艇群による”自殺ボート狩り”が組織的に機能し空の特攻と同様に大きな
戦果を挙げる事が出来なくなりました。海軍の震洋艇の方がその後の出撃となった
点も戦果の違いに表れますが…同年2月にコレヒドールで第12震洋隊が出撃した時
の戦果は、上陸支援艇1隻撃沈にとどまっています。その後の沖縄戦では、昭和20
年4月2日の上陸戦で第22震洋隊が出撃し上陸用舟艇を一隻撃沈しています。これ
に対して陸軍の方は、慶良間諸島に配された海上挺身戦隊が米輸送船団に出撃し
艦船3隻を撃沈・損害を与えています。尚、陸軍の海上挺身戦隊は、船舶特別幹部
候補生(乙種)・少年船舶兵が中心で群長と呼ばれる小隊長クラスを幹候上がりの
将校が指揮を取り非常に士気も闘志も溢れていたようです。特攻艇は、敗戦までに
海軍が約六千隻を建造しました。陸軍も約三千隻を建造し30挺身戦隊を配備してい
ました。部隊配置に関してですが陸軍が敵の上陸戦を想定に重要地域に重点配置
していたに対し、海軍の方は、様々な島嶼占領地に漫然と配備した感が強く…陸海
の連携は、無いに等しい配備状況になっているのが印象的です。


左は、昭和19年8月に横須賀の水雷学校で撮影された1型震洋艇。右は、
1型震洋艇の粗末な操縦席です。

震洋艇、回天、伏龍、海龍、蚊龍、土龍…翼なき予科練の
悲哀がこの粗末な操縦席に象徴されている気がします。






震洋艇の格納と進水の図式と以下は、三浦に残る第56震洋隊の格納壕


上記のように(見ずらいですが)5型は、1型より少し
大型になりエンジンを二機搭載し搭乗員も2名になり
ました。速力は、27ノットに上がりました。武装は、12
cm噴進砲2発は、そのままで13mm機銃を1挺が搭載
されました。爆装は、250kgのままでした。

5型震洋艇です。操縦者の左右にあるのが
ロサ弾(12cm噴進砲)の発射架台です。


海軍の震洋隊は、敗戦まで114個部隊(1型改1が68部隊、5型が46個
部隊)が編成されました。そして戦死された方の数は、2547名を数えて
おります。水上特攻隊々員の多くが16〜17歳の少年飛行兵でありまし
た。



別に入手した海軍の第九次震洋特別攻撃隊 中平隊
の『必中』の鉢巻です。綿製で古そうな感じですが、当
時のものか戦後の物かは、判りません。



尚、震洋艇部隊に関しましては当サイトのインターネット博物館の
中で海軍第27震洋隊(油壷)の第三挺身隊長 稲葉茂海軍少尉
(敗戦時 中尉)の所持品と共に詳しく展示し紹介しております。
御興味のある方は、以下のバーナーをクリックすると該当のページ
が開きますので見て下さい。


薩摩半島にある知覧特攻基地の知覧特攻平和会館
で展示されている震洋五型で坊津町に配備された
第百二十三震洋隊の使用した艇ですが、敗戦後に
海没処分されたものを嵐山美術館が昭和54年に引
揚げして流用パーツを使用して復元したものです。
同じく坊津から引き揚げられた震洋艇の発動機など
も展示されていました。


第十震洋隊でで戦死された青木 昌平 海軍少尉の
一種軍衣(比島・コレヒドール)が当サイトのインター
トネッ博物館の方で掲載しております。御興味のある
方は覗いてみて下さい。


cf.第十震洋艇隊

部隊長(兼 第一艇長) 石川 誠三 海軍大尉

搭乗員及び規模:一般兵科 震洋艇 50隻

編成及び期日:川棚三次 昭和19年9月25日
         (川棚臨時魚雷艇訓練所)

所属:三南遣司(第三南遣艦隊司令部)

配備:比島 コレヒドール

進出期日:昭和19年11月1日

搭乗員(昭和20年2月25日 戦死判定)
基地員(昭和20年1月17日 戦死判定)
戦死者:135名

部隊生存者 一名のみ(蛇沢 金次氏 一曹)



以下をクリックすると第百二十五震洋隊の遺構を紹介
したページが開きます。



                ↑
また他にも上記のバーナーのページでは第134震洋隊
に所属した星野 禎一 海軍一等飛行兵曹(甲飛14期)
の一種軍衣等も展示して紹介しております。



               ↑
平成21年10月31日にNHKで放送されたシリーズ
証言記録の一つです。震洋艇の生き残り隊員の証
言をまとめて時系列に沿って判りやすく映像化され
ております。(番組名)[証言記録 兵士たちの戦争
“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜
上のバーナーをクリックするとウインドーが開いて動
画を見る事が出来ます。








〜志布志湾・都井岬の
    海軍鉾部隊の監視哨・壕などの遺構〜





志布志湾を望む都井岬に監視哨が置かれていたと謂います。
下は都井岬の奥にある灯台になります


連合軍の志布志湾上陸を想定して監視哨として海軍鉾部隊の
壕や高射砲陣地が設置されました。殆どが草原に埋もれてしま
いましたが、一部に場違いな頑丈な古いコンクリートの構造物
給水塔や崩れた地下壕らしき物を見る事が出来るのみです。





何時崩れてもよさそうな地下壕に下は…野生に生きる岬馬です。


地蔵の群れの中に不明の古いコンクリの構造物随所に見られる。


野生に生きる岬馬の姿が美しい…都井岬です。





〜志布志湾の内之浦砲台跡〜

*おまけです。ここは今回の行程では回り切れず除外・割愛した
ポイントですが…古本屋の常連様から画像提供いただきましたの
で紹介致します。志布志湾の内之浦砲台(要塞)跡です。*
おまけ
志布志湾の内之浦砲台(要塞)跡

(画像提供:古本屋の常連様)
下は案内板の内容を雑誌から転写拡大したものです。








〜串良海軍航空隊の遺構〜

    (串良平和公園)




意外と知られていないが串良海軍航空隊の特攻基地より特攻出撃し戦死された
方は359名に上ります。南九州の各特攻基地から特攻出撃して戦死した者が最も
多い基地は海軍の鹿屋基地の908名、次いで陸軍の知覧基地が436名、海軍の
国分基地が3番目に多く427名に及んでいます。4番目が宮崎の赤江基地の387
名、5番目に多いのがこの串良基地です。因に6番目が陸軍の万世基地の201名
7番目が海軍の出水基地の200名、8番目が海軍の指宿基地82名、9番目が陸軍
の都城基地であります。
串良飛行場は…航空機の整備員養成を主目的として建設されました。以来、多くの若者
が整備員として巣立ちましたが、戦局の悪化に伴い作戦基地へと移り変わっていきました。
菊水作戦時では、大分・宇佐空が…兵庫の姫木空、等々各基地から部隊が進出してきて
は、沖縄に向けて飛び立って行きました。
串良平和公園は、かつての串良海軍航空隊の基地跡地の一部を
整備して作られました。




旧串良航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔


串良航空基地は、大戦末期に教育航空隊として開設され多くの
海軍飛行予科練習生(予科練)が訓練に明け暮れました。昭和
20年3月から特攻作戦の基地として使用され、沖縄へとこの地を
飛び立ち再び帰ることがなっかた三百余名もの若者の御霊を祀
るために昭和44年10月11日串良町有里の旧串良航空基地跡
に慰霊碑が建立されました。塔の上には南海の空に散った隊員
を偲ぶかのように翼を広げた平和のシンボル、白鳩がのっていま
す。塔の銘板には特別攻撃隊戦没者359名の階級氏名、出撃年
月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれています。串良町では
毎年10月に関係者や遺族の方々を招いて慰霊祭を行っています。


全国各地の多くの航空隊から飛来した若い隊員が…この
串良基地より南冥の海へ向かい旅立ちました。生き残っ
た者と遺族は、桜花のように儚く散った若い霊を慰霊すべ
く多くの碑がこのように寄せ合うように美しく置かれていき
ます。


この碑に刻まれた隊の戦没者の数と生存した戦友達
そして遺族たち…多くの人々の怒り悲しみ様々な想い
が散りばめられている事を後世に平和を享受し生きる
日本人の一人一人が想い至る必要があると感じてなり
ません。


この碑に刻まれた”散る桜も 残る桜も 散る桜”
深く考えさせられます。








この串良平和公園より車で五分の所に串良海軍航空基地地下壕電信司令室
があります。有名な皇白鷲隊や徳島の白菊隊などの機上の特攻隊員と通信し
出撃等の命令を発信し、また特攻隊の最後の電信の途絶を確認した地下電信
司令室壕です。



以下は串良海軍航空隊の写真です。
昭和19年5月、串良海軍航空隊の開隊時の幹部の集合写真(本部玄関前)
前例中央が司令の高岡 羊吾 海軍大佐、その右が副長の中井川 正勝 海軍
少佐です。
昭和19年11月、第22連合航空隊参謀を迎えて士官室でのスナップ
中央で微笑むむ方が高岡司令です。


訣別の挙手を受け出撃する特攻機の零戦(昭和20年4月28日)
串良基地第三士官宿舎横で写る特攻隊員のスナップ


串良町の下宿先の民家で寛ぎ屈託のない笑顔を見せる特攻隊員達…。
束の間の休養に兵舎前でバレーボールに昂じる串良空での隊員達
Z旗と歓声に見送られて串良飛行場を飛び立つ特攻機…。








珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン




無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。








実物のホルスターに納めて見ました。









メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。

こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。