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旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
松永貞市 海軍中将の二種(将官)軍衣袴と勲記 |
松永中将の着用された二種軍衣袴です。 |
松永貞市 海軍中将 佐賀県出身、海兵41期 第22航空戦隊司令官としてマレー沖海戦を指揮した 司令官。海軍航空部隊による英国の新東洋艦隊を撃 滅した事は、余りにも有名である。 昭和15年11月15日 海軍少将・第2連合航空隊司令官 16年 1月15日 第22航空戦隊司令官 12月 マレー作戦に参加 17年 5月15日 第12連合航空隊司令官 18年 6月 軍令部出仕 9月1日 横須賀鎮守府参謀長 11月 海軍中将 19年 3月1日 第27航空戦隊司令官 8月15日 練習連合航空総隊司令官 兼第11連合航空隊司令官 9月 免兼第11連合航空隊司令官 20年 3月 軍令部出仕 6月 第2海軍技術廠長 9月30日 予備役編入 昭和40年12月2日 逝去 |
閣下の大尉、少佐時代の従軍記章や大礼記念章の証 |
勲四等瑞宝章の勲記 |
海防艦の士官室で使用された海軍防寒帽 |
帽章が取り外され一部、留紐が切れていますが 全体に使用感が少ない美品です。 |
マスク代わりの鼻口当てに白線が二線入れられており、防寒外套、 防寒帽姿で艦上にある時に士官である事を遠目からでも判るように なっています。 |
内部も汚れないように黒い布が充てられて縫われています。 その下の記名布には、第二衣糧廠の貸与品、昭和18年9月 、サイズ一、記名は、無く”海防二”の判が押され士官室と記 載されています。 |
参考に防寒装備の画像です。この画像は、下の 曳船兼救難船の波島です!…600トン級の雑役 船です。丁度、揚子江で撮影された画像が下で す。波島級曳船兼救難船の二番船である二神は 、パラオの方で沈んでいます。 |
この写真の持主だった方が右下の一種軍衣に軍帽 姿の方です。昭和20年2月撮影と記載されています。 機関科の兵曹長さんです。 |
海軍 防寒外套(代用毛皮使用の美品) |
海軍防寒外套です。 |
ラッコ毛皮が襟・袖口に代用品として 使用されています。 |
記名布には、”横須賀軍需部・二号 貸与品”の標記が付いてます。ベル ト留め(陸軍剣留様)が腰にありま す。またベルトに付いている黒い細 紐は、ベルトがずり落ちるのを防止 する紐のようです。 |
腰に表生地と同質のベルト(巾5.5cm) が付いています。 |
表生地は通常の海軍外套と同じです。外套裏地は 黒毛皮代用が状態良く残ってます。左右にポケット 、其の脇に「手差し」(手を外套の下に入れる口)が 有ります。背面にはバックベンツ(後裂)が有ります 。前釦は5個2列の無紋黒釦が付いてます。状態で すが全体に使い込まれている割りに美品と言えます 。両袖に繕い有りますが、本体には痛み無く、裏面 の代用人工毛皮は、経年を感じさせない程良く残っ てます。 |
海軍 陸式軍衣袴(冬)未使用の極美品 |
海軍陸式の軍衣は、珍しくありませんが 陸式の軍袴の方は、中々出るものであり ません。上下揃いの品であるのは、非情 に珍しいです。陸式の軍衣は、このサイト でも何点か紹介しておりましたが、軍袴は 持っておりませんでした。 |
昭和十八年三号の横須賀軍需部 貸与品です。 |
未使用の極美品です。軍衣の寸法:首回り38cm 肩幅40cm 袖丈57cm 着丈64.5cm、軍袴の 寸法 W81cm 股下67cmです。 |
陸式軍衣のみ二点 |
ついでに入手したデットストックの陸式軍衣 上のみ二点です。軍袴は、無しの二点です。 |
プチ将官物
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左近司中将は、海軍次官、第三艦隊司令長官、 佐世保鎮守府司令長官などを歴任し昭和9年3月 31日予備役編入。退役後は、商工大臣。貴族院 議員として活躍、敗戦前後は、国務大臣。昭和44 年8月30日に90歳にて永眠されました。 |
左近司中将が所持したと 思われる士官用手袋です。 |
左近司閣下の佩用した勲章 |
左近司中将の海軍大学校卒業証書(甲・乙) |
海大10期、このクラスの10名は非常に優秀であり、
クラスヘッドでイギリス駐在時有名なジェットランド 海戦に観戦武官として参加、英艦フッド撃沈時艦と 運命を共にした下村中佐をはじめ多士済々で同中佐 を除き、全ての方が将官(大将2名、中将,5名、少将 2名)となられております。甲2期、甲4期、甲6期が将 官輩出率100%でした。この甲10期も下村忠助中佐 の殉職が無ければ100%達成が確実でした。 |
左近司中将が所持していた地図です。 |
昭和18年 第八十二議会陸軍戦況報告用 太平洋素図(陸軍省印刷)とあります。 |
こちらも左近司中将が所持していた海軍航空図です。 |
第102号 東京海湾至北海道 とあります。 昭和11年9月14日海軍水路部の発行です。 |
左近司中将の練習艦隊司令官時代に
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左近司閣下は、練習艦隊司令官として昭和6年3月〜8月に至るまで 遠洋航海にでました。以下は、主にその時の絵葉書です。主な寄港 地は、以下となります 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜アデン〜ポートサイ ド〜ナポリ〜ツーロン〜マルセイユ〜マルタ〜アレキサンドリア〜 ジブチ〜コロンボ〜バタヴィア〜マニラ〜パラオ〜佐世保 こうして見ると古き良き時代の帝國海軍の全盛時代が偲ばれます。 また御家族、特にお孫さんに宛てたものと思われる葉書が多く、閣下 の御家族想いの一面とや御人柄が偲ばれます。 |
昭和5年10月23日に海軍兵学校(江田島)行幸記念 の絵葉書に当時の記念スタンプも二個あります。文面 に『思い出深き江田島にて無上の光栄に浴しました…』 と感激した内容が記載されています。 |
昭和5年12月7日、朝鮮(仁川)からの絵葉書です。印刷で板跳 SEESAW KOREAN GIRLS’ OUTDOOR SPORT とあります。 |
昭和5年12月12日、満州(大連)からの絵葉書です。 絵は、大連のヤマトホテルと市役所です。 |
昭和5年12月14日、練習艦隊 八雲 出雲 大連寄港記念の絵葉書で大連の遼東ホテル の写真です。 |
昭和5年12月15日、同じく満州(大連)からの絵葉書です。 印刷に満蒙資源館とあります。 |
昭和5年、軍艦八雲の絵葉書です。 |
昭和6年?月16日、消印は、枚岡市か静岡市でしょうか? 初めが消えて読めません。絵は、軍艦 出雲です。 |
昭和6年、基隆からの絵葉書です。 |
昭和6年3月30日、新嘉坡@ Singaporeからの絵葉書です。 |
昭和6年?月?日、Ceylon島のコロンボからの絵葉書 ですがモダンなお嬢さんと紹介しています。但し色は、 黒くて裸足ですとあります。 |
昭和6年?月?日、亜丁 アデン(Aden)からの絵葉書です。アデンは、 イエメンの港湾都市(旧南イエメンの首都)ですが、当時は、英国の 植民地で発達した町で紅海の入り口の都市です。 |
昭和6年4月26日、エジプト(カイロ)のポートサイドよりとあります。 軍艦郵便として門司の消印が5月17日捺されています。一ヶ月も たたない内に日本に届いています。 |
日付けは、不明ですが同じくエジプトからの絵葉書です。 裏の絵は、Egyptの甕売りを描いたものです。 |
昭和6年5月12日、ローマの消印があります。 |
昭和6年5月16日、フランス Toulonからの絵葉書です。 文面から翌17日にマルセイユに回航し22日まで滞在す ると予定が判ります。 |
昭和6年5月24日、ニース(Nice)からの絵葉書です。 マルセイユから汽車で6時間掛けてニースに来て一 泊し翌朝、モナコ王国”モンテカルロ”をドライブして楽し むとあります。 |
昭和6年6月7日、カイロからの絵葉書です。軍艦郵便 で門司の6月28日の消印が読めます。約三週間ほどで つくようです。帰りの往路で再びカイロに寄った時のも ののようです。 |
昭和8年から9年に掛けて左近司閣下宛に届いた手紙三通です。 |
昭和8年 北村又吉海軍大佐からの毛筆書簡です。 |
昭和8年 森山慶三郎海軍中将からの毛筆書簡です。 この方は大日本国粋会会長でもありました。 |
昭和9年 海軍主計中将、茂木知二の毛筆書簡です |
◆ 京都の高名なコレクターで研究者の某G様の
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左近司 中将が司令官となられた昭和5・6年度練習艦隊で訪欧時でイタリアのローマで の吉田 茂 駐伊大使(後の総理大臣)とタウンジレベル 元帥との集合写真です(前列右 から二人目が左近司 中将でその隣が吉田 総理の大使時代)。タウンジレベル元帥(吉 田 大使の横)は、サン・モーリス・エ・ラザーロ勲社総裁でもあります。左近司 中将の胸 に受章したサン・モーリス・エ・ラザーロ勲章二等が耀きます。 |
パリのホテル マジェスティックで行われた左近司 司令官主催晩餐会の記念写真です。 胸には、受章したレジョン・ド・ヌール勲章二等が耀きます。 |
サン・モーリス・エ・ラザーロ勲章二等 | レジョン・ド・ヌール勲章二等 |
其々の勲章の勲記と下はこの二点の外国勲章の佩用を許可した免許です。 |
飯田 延太郎 海軍中将の
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金鵄勲章年金の証書です。飯田海軍中将の所持品です。 海軍大学校を卒業後、各種勤務を経て軍艦”長門”艦長、 水雷戦隊司令官、水雷学校校長、第二艦隊司令長官、佐 世保鎮守府司令長官などを歴任しています。末期の頃の 小さい証書と違い、縦34.5cm、横27cmの大きいものです。 |
飯田 提督は、徳島出身、海兵24期・海大 5期で功四級 昭和 6年 3月31日 予備役 昭和12年2月13日 後備役 昭和13年11月3日 逝去(享年64歳) |
昭和20年1月17日、フィリピン・コレヒドールで
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第十震洋隊の幹部は士官が2名、兵曹長が3名 でしたが、その中の1名です。この部隊の生存者 は、僅かに1名でした。 |
海軍兵曹長の一種軍衣、小型の襟章付きです。胸には、略綬 板の糸掛りもあります。横須賀海仁会被服部、寸法は2号大と あります。襟の後部に2箇所虫穴がありますが、保存状態は、 良好です。 |
cf.第十震洋艇隊 部隊長(兼 第一艇長) 石川 誠三 海軍大尉 搭乗員及び規模:一般兵科 震洋艇 50隻 編成及び期日:川棚三次 昭和19年9月25日 (川棚臨時魚雷艇訓練所) 所属:三南遣司(第三南遣艦隊司令部) 配備:比島 コレヒドール 進出期日:昭和19年11月1日 搭乗員(昭和20年2月25日 戦死判定) 基地員(昭和20年1月17日 戦死判定) 戦死者:135名 部隊生存者 一名のみ(蛇沢 金次氏 一曹) |
唯一の生存者である蛇沢 金次氏 元一曹の話によると、コレヒド ールに進出した各震洋艇隊は、19年1月10日からはじまった米 軍の大規模な空爆によりトンネル内に隠した震洋艇や砲弾・装薬 ・弾丸なども爆発炎上し大きな損害を受けてたようです。一月末の 時点で残存した震洋艇は、約100隻で、米軍の空襲による震洋艇 の損失は、約200隻に達しました。第十震洋艇隊は、これらの空襲 を避ける為、コレヒドールより更に南の島へ移動を命じられ移動を 開始しましたが、上手くいかず基地への帰島。その後マリンタトンネ ルに移動しましたが、トンネル内の爆発や事故で次々と艇を失い、 50隻の艇は5隻へと激減しました。昭和20年2月15日午前8時45分 頃に「敵上陸用舟艇、大型8隻、小型約40隻、北水道に進入した つあり」と急電が入る。続いて、「敵はマリベレス西方付近に上陸しっ つあるもののごとし」とマニラ湾口部隊に電報が入った。2月15日 午後9時、特攻部隊指揮官(第十二震洋艇隊)の小山田 少佐から 「震洋隊(第十二)松枝部隊は、スピック湾内にいる敵船団部隊を撃 滅すべし」の命令が下りました。この中に第十を含む残存震洋艇が参 加して夜半になり発進しました。搭乗する艇を持たない者は、島中央 部の丘に登り、明けて16日の午前3時頃、マリべレス湾方面に爆発と 火炎が上がるのを確認。それに続い更に大きな火炎が紅蓮のように 夜空は夕焼けのように明るく変えたといいます。その後断続的に爆音 がが鳴りわたり、炎の中に燃えさかる敵艦が黒点のように点々と見え たそうです。基地隊員達は手を取り合って喜びました。連日の空襲や 砲撃の中を耐えに耐えての結果でした。この成功を喜んだ多くの基地 隊員達も出撃塔乗員の後を追うようにその後の戦闘で大半が戦死し たとの事でした。 |
cf.震洋艇 及び 震洋隊 に関しまして!! |
大戦末期、米軍に対抗する海軍戦力を欠き(艦は、あっても油無く 港湾の砲台と化していた。)制空権も確保できない帝國海軍は、本 土決戦に備え海龍隊、蛟龍隊、震洋隊、伏龍隊、回天隊を主軸とし 、これに海防艦や波号潜水艦、駆潜艇、哨戒艇などを組み入れて 各鎮守府単位で特攻戦隊、また各地に突撃隊の配備を行う計画で した。その中で横須賀鎮守府所属の第一特攻戦隊に第27震洋隊は 、37、42、47、51震洋隊と共に組み入れられました。この他に第一 特攻戦隊所属として駆逐艦『沢風』、海防艦『四阪』に回天隊があり ました。稲葉中尉の所属した第27震洋隊もこの第一特攻戦隊の所 属でありました。…以下に震洋艇に関して補足を記載します。 |
陸軍の搭乗員ですが…後方の3名がマルレの水上作業衣であるのに対して 前の3人は、海軍と同じように飛行用のカポックに飛行帽と飛行眼鏡をして います。珍しい画像です。 |
震洋艇の誕生は、昭和18年7月まで遡ります。連合艦隊参謀の黒島亀人大佐 が軍令部第二部長に着任すると劣勢の戦局を挽回すべく新兵器の考案を開始 しました。約一年後の昭和19年4月に出された黒島第二部長の答申の一つが 実現可能な高速自爆特攻艇でありました。この他に同時に採用された案の中に 人間魚雷”回天”などがあります。…こうして4番目に提案された特攻モーターボ ートは、『マルヨン』のコードネームで実用化に向けて技術検討が開始されまし た。その後、生まれたのがトヨタKB型トラックの汎用ガソリンエンジン(73馬力) を流用した特攻艇ですが、船体は、ベニヤ張りの木製で日産自動車系列の日本 造船が製作しました。全長が約5m、排水量1.5t、搭載爆薬250kg、最高速力20 ノット。…同年5月に試作艇が作られ、8月末に制式採用が決定して水雷学校の 校長である大森仙太郎中将が”震洋”と命名しました。搭乗員は、飛行訓練中の 予科練・予備学生などから転用されました。当初、横須賀で搭乗訓練を行い、搬 出レールや隠蔽壕などの設営隊を加えて震洋艇を50隻を持って、第一震洋隊が 編成されたのが制式採用決定の翌日の事でした。この後、陸軍もこれを採用し『 四式連絡艇』(マルレ艇)または、『四式肉迫攻撃艇』と呼びました。基本的には、 陸海軍同じ艇を使用しておりました。大きな違いとして海軍の震洋が体当たり特 攻兵器で生還を期さない外道であったのに対して、陸軍の四式は、肉薄攻撃艇の 名前にある通り爆雷投射器(射程約10m)を付けて体当たりをせず生還を前提に している点です。120kg爆雷を操縦席の左右に2個搭載し敵艦に肉迫して艇はU ターンしながら爆雷を投下し離脱。爆雷は7秒後に爆発する仕掛けでした。この為 か編成も陸軍と海軍では、大きく違いが出ています。海軍が50隻の震洋艇を基幹 として支援の設営隊を附属しても200名程度の将兵で一個震洋隊を形成(隊長は 、大尉または、中尉で士官は、約10名程度)したのに対して、陸軍は、一個大隊規 模の船舶工兵を持って海上挺身戦隊を形成、100隻を擁して、付帯部隊として、作 業中隊3個、整備中隊1個を持ち総勢800名〜900名規模の大部隊となっておりま した。当然、軽装備ながら歩兵部隊の装備を持っておりましたので艇を失っても陸 上戦力として陸軍の海上挺身戦隊は、勇戦しました。これには陸軍が挺身戦隊の 指揮官を陸士出の少佐・大尉が当たり、中隊長クラスも陸士での現役の少・中尉が 掌握していたとの事です。一方、海軍は、予備将校を指揮官に当てており海兵での 現役士官を出し惜しみしたのか全体の士気は、勿論の事ですが陸上戦になった場 合にも組織だった攻撃が出来なかった海軍の震洋隊との違いを浮き彫りにしていま す。これは、特攻艇全体の戦果としても陸軍のマルレが大きく秀でる結果に表れて おります。…昭和20年1月9日のフィリッピン・リンガエン湾における米軍の上陸戦に 対して陸軍の第12海上挺身戦隊は、約40隻のマルレ艇で夜間攻撃を敢行し米軍の 上陸用舟艇など約20隻を損傷・撃沈させる大戦果を上げました。この成功以降は、 米軍の魚雷艇群による”自殺ボート狩り”が組織的に機能し空の特攻と同様に大きな 戦果を挙げる事が出来なくなりました。海軍の震洋艇の方がその後の出撃となった 点も戦果の違いに表れますが…同年2月にコレヒドールで第12震洋隊が出撃した時 の戦果は、上陸支援艇1隻撃沈にとどまっています。その後の沖縄戦では、昭和20 年4月2日の上陸戦で第22震洋隊が出撃し上陸用舟艇を一隻撃沈しています。これ に対して陸軍の方は、慶良間諸島に配された海上挺身戦隊が米輸送船団に出撃し 艦船3隻を撃沈・損害を与えています。尚、陸軍の海上挺身戦隊は、船舶特別幹部 候補生(乙種)・少年船舶兵が中心で群長と呼ばれる小隊長クラスを幹候上がりの 将校が指揮を取り非常に士気も闘志も溢れていたようです。特攻艇は、敗戦までに 海軍が約六千隻を建造しました。陸軍も約三千隻を建造し30挺身戦隊を配備してい ました。部隊配置に関してですが陸軍が敵の上陸戦を想定に重要地域に重点配置 していたに対し、海軍の方は、様々な島嶼占領地に漫然と配備した感が強く…陸海 の連携は、無いに等しい配備状況になっているのが印象的です。 |
左は、昭和19年8月に横須賀の水雷学校で撮影された1型震洋艇。右は、 1型震洋艇の粗末な操縦席です。 |
震洋艇、回天、伏龍、海龍、蚊龍、土龍…翼なき予科練の 悲哀がこの粗末な操縦席に象徴されている気がします。 |
震洋艇の格納と進水の図式と以下は、三浦に残る第56震洋隊の格納壕 |
上記のように(見ずらいですが)5型は、1型より少し 大型になりエンジンを二機搭載し搭乗員も2名になり ました。速力は、27ノットに上がりました。武装は、12 cm噴進砲2発は、そのままで13mm機銃を1挺が搭載 されました。爆装は、250kgのままでした。 |
5型震洋艇です。操縦者の左右にあるのが ロサ弾(12cm噴進砲)の発射架台です。 |
海軍の震洋隊は、敗戦まで114個部隊(1型改1が68部隊、 5型が46個部隊)が編成されました。そして戦死された方の 数は、2547名を数えております。水上特攻隊々員の多くが 16〜17歳の少年飛行兵でありました。 |
以下をクリックすると第百二十五震洋隊の遺構を紹介 したページが開きます。 |
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以下をクリックすると海軍第五特攻戦隊第三十三突撃 隊第五回天隊の遺構を紹介したページが開きます。 |
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尚、震洋艇部隊に関しましては当サイトのインターネット博物館の 中で海軍第27震洋隊(油壷)の第三挺身隊長 稲葉茂海軍少尉 (敗戦時 中尉)の所持品と共に詳しく展示し紹介しております。 御興味のある方は、以下のバーナーをクリックすると該当のページ が開きますので見て下さい。 |
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知覧特攻基地の知覧特攻平和会館で展示されてい る震洋五型で坊津町に配備された第百二十三震洋 隊の使用した艇ですが、敗戦後に海没処分されたも のを嵐山美術館が昭和54年に引揚げして流用パー ツを使用して復元したものです。同じく坊津から引き 揚げられた震洋艇の発動機なども展示されていまし た。 |
別に入手した海軍の第九次震洋特別攻撃隊 中平隊 の『必中』の鉢巻です。綿製で古そうな感じですが、当 時のものか戦後の物かは、判りません。 |
↑ また他にも上記のバーナーのページでは第134震洋隊 に所属した星野 禎一 海軍一等飛行兵曹(甲飛14期) の一種軍衣等も展示して紹介しております。 |
↑ 平成21年10月31日にNHKで放送されたシリーズ 証言記録の一つです。震洋艇の生き残り隊員の証 言をまとめて時系列に沿って判りやすく映像化され ております。(番組名)[証言記録 兵士たちの戦争 ]“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜 上のバーナーをクリックするとウインドーが開いて動 画を見る事が出来ます。 |
海軍予備少尉候補生の一種軍衣 |
御存知のように海軍予備学生制度は、軍備の拡大にあわせ 下級将校の急速補充に備えるべく昭和16年10月発足しまし た。従いまして二年現役士官等とは異なり、総て官給品とし て支給されております。これらの一種衣も裏地は、海軍生徒 同様、黒の木綿地にフルネームが記載された菱形編布が縫い 付けられただけのもの。勿論のこと水交社特約店等のテーラ ータグ等は、ついておりません。また襟章は当初ついていなか ったとの事で前のオーナーの方がセロファンに包まれた未使 用の実物品を縫い付けております。多くの学徒兵がこれと同じ 軍衣に袖を通し激動の時代を駆け抜けていきました。ある意味 で兵学校出のエリート士官よりも多くの特攻要員を生んだ予備 学生出身の予備士官達の方が我々、庶民に最も近い存在であ ります。その意味でも一般兵科士官の一種軍衣よりも身近な 軍服である気がします。 |
後の昭和18年6月の改正でこの予備の附く階級は、 削除されました。以降、敗戦まで一般兵科士官と同じ 階級と呼称を用いました。 |
海軍(特務)中尉の通例軍衣 |
昭和17年9月の改正で特務士官の特務が消えました。 それに伴い特務士官の袖章にあった特徴的な桜花章 三個を取り外しました。この通礼服も桜花章を外して 特務中尉を中尉になおしています。 |
勿体無いので手持ちの特務士官用の桜花 章を再取付して特務中尉の通礼服に復活 させました。 |
個人的には、兵から叩き上げを示す特務士官 の袖章の軍服の方がカッコ良いと思います。 |
小田中 海軍機関大佐の縁の品々 |
この階級章とマントの襟部分の所持者 だった小田中大佐は、日露戦役から昭 和初期頃まで海軍で活躍された方です。 |
何故このような無残な残骸になったかは、不明です。 |
襟の形状等よりコートでなくマントの襟部分である事がわかります。 |
上下共にマント用の桜花章が二個開いていたのが判ります。この |
こうした無残な状態を見ると改めて敗戦国の 軍の物という事を思い知らされるようです。 |
小田中大佐は、大佐で退役したと聞き及び ますので後に海機17期(明治38年卒)出身 の長野県の方のようです。 |
その後に入手しました小田中機関大佐 の軍帽等です。 |
大正九年、従軍記章の証 |
大正十年、勲四等瑞寶章の勲記 |
昭和四年、勲三等瑞寶章の勲記 |
機関中佐時代の小田中大佐です! |
以下、別の入手経路からの小田中大佐 縁の紙物です。 |
同じ方より入手した昭和17年の東京医専(新宿に ある現在の東京医大)の卒業証書です。恐らくは、 小田中大佐の御子息と思われます。 |
昭和17年の医専卒ですと軍医で引っ張られた可能性が 大いに高いと思われます。 |
こちらは、敗戦後に在郷海軍士官に対して出された 海軍省人事局から現況を至急知らせよとの文面の ガリ版刷りの手紙です。 |
戦時資料 : 16歳で鈴鹿海軍工廠
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軍属・雇員の略帽の帽章等。 |
この方の配属された部署は、機銃部です。 |
一緒に所持されていたガラス板のネガです。 |
昭和18年2月の工員採用通知です。 |
粗末な紙の給料明細等です。 |
昭和21年の国鉄の定期券です。敗戦の 翌年ですが、まだまだ19歳です。 |
国民徴用により呉海軍工廠の潜水艦部
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尋常小学校卒業後、米穀雑貨店で店員をしていた方です。昭和17年11月に 国民徴用令により徴用され呉海軍工廠 潜水艦部雑工員として採用。昭和18 年2月まで見習い工。3月に軍搬員に職名変更。昭和20年5月に一等工に昇 格します。20年8月28日、敗戦により解用となります。 |
青年学校の手帳です。 |
准士官(兵曹長)待遇の軍属となった船員の所持品 |
旧神戸商船(現在の神戸大学海事科学部)を 卒業された秋田出身の方です。軍属船員証の 兵籍の欄には、海軍兵曹長の記載があります。 |
船員手帳から旧神戸商船を卒業後、すぐに川崎汽船 (株)の春潮丸に航海練習生として昭和19年9月21日 から雇用されています。10月11日に練習満期を迎え ています。その後の船員手帳の記載は、無く昭和20年 2月14日の発効で軍属船員証がありますので、そのま ま徴用されたようです。船名は、第五昌栄丸となってい ます。乗船履歴2ヶ月の記載もあります。 |
戦後に改めて申請し取り直した免許です。 軍属船員証では、昭和19年12月20日に 甲種二等航海士取得となっています。 |
こちらの船員手帖は、苗字が同じですが 名前と生年月日が違う、戦後の発効の 手帖です。恐らくは、息子さんか弟さんと 思われます。 |
海軍予備三等機関兵曹の
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下の略帽章は、判任官の物と思われますが 御当人が予備役で除隊後、軍属となられた ものと想像します。予備三機曹として勤務す る場合、当然、全て官給品で賄われますが 帽章は、コンパスが入るものと想像します。 従って軍属として勤務したのでないかと想像 しています。 |
毘式 7.7粍銃弾 |
通常弾頭(鉛入り)。ヘッドスタンプ無し |
九三式13粍弾 |
ヘッドスタンプの刻印は、ありません。 弾頭は、徹甲弾頭です。 |
比較で置いたのは、毘式7.7粍弾です。 |
カッタウェイは、13粍弾の焼夷弾2型です。 |
焼夷弾2型の弾頭です。中身は、無く粘土を詰めてあります。 |
海軍 三式十三粍機銃弾 |
1942.5〜8月、横須賀海軍工廠製の普通弾です。 |
ヘッドスタンプは、E 2-11 13 です。 |
豊川海軍工廠にて製造された
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撃莖強度計が三点です。これは、小銃の引き金を 引く強度(撃莖の強度)を計る測定器具です。これ により一定の強度基準に調整する事が出来ます。 引金の発条(バネ)の強度は弾薬の信管を撃つ撃 莖の強度で4〜5kgとされていたとの事です。使用 方法は器具に付けられている麻紐の片方を引き金 に掛け、もう一方の麻紐を引き、引き金が作用する 時の秤の目盛りを計測する仕掛けです。現在では、 こうしたバネ秤でなく自動的に数値が表示される測 定器が使われているそうです。 |
鎖が切れてありませんが、三十年式 小銃用の薬室検査鏡(銃身内検査 鏡)です。銃身の内部の状態を調べ る器具で機関部の遊底を後進させ、 その開口部に器具のケース内筒を 挿入すると薬室に先端部が入ります。 銃口に光を当てると鏡に銃身の内部 が写り様子が判る仕組みになってい ます。 |
旧式47粍砲の薬莢二種 |
明治・大正の頃の軍艦に搭載された47mm砲の薬莢と 思われます。短い方が空砲用で、長い方が実弾用だと 思います。 |
ヘッドスタンプの刻印は、長い実弾用の方には無く、 空砲用に”8/9 11/11 空 空 空”とあり、空砲 用の方は、雷管部が欠損しています。全長は、長 い実弾用の方が37.5cm、空砲用が約25cmです。 空砲用は、当時のメッキ状の表面仕上げが残って います。 |
栄光の五十口径三年式12.7糎(連装)砲の火薬缶、三点
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陽炎級を初めとする帝國海軍を代表する駆逐艦に主砲として 搭載された五十口径三年式12.7cm連装砲の火薬缶です。 |
外部も中も殆ど当時のままオリジナル塗装が100%残った 極美品の火薬缶です。缶を吊るすワイヤーも銅製で、静電 気に配慮した構造が伺えます。銘板には、”日本製鋼廣島 製作所 昭和十八年六月 84200”と”50口径三年式12.7 糎火薬缶”の二枚がついています。 サイズ:直径:17cm、長さ:77cm。 |
12.7cm連装砲! |
上とは、別の火薬缶です。 |
甲型駆逐艦の陽炎級で唯一生き残った幸運艦である 雪風の主砲である五十口径三年式12.7糎連装砲 |
cf.駆逐艦の主砲。 不勉強な私は、大体の駆逐艦は12.7cm連装高角砲を連装砲で搭載 していると勘違いしておりました。大先輩からお教えをいただき間違い に気がつきました。駆逐艦で高角砲を主砲としたのは「秋月型」と 「松型」です。「雪風」等の砲は、あまり仰角がかけられないので対空 戦には向かない砲でした。従って上の「雪風」の12.7cmの連装主砲 ですが高角砲ではありません。「朝潮型」、「陽炎型」は元々、連装砲 3基装備していたのですが、昭和18年から主砲を一基外して、三連装25 mm機銃を載せております。「夕雲型」の主砲は、かなり仰角を掛ける事が 出来ますが(75度程度)、しかしこれも分類上は、高角砲ではありません、 両用砲と呼ばれていたとの事です。この砲にしても大東亜戦争時には、対 空戦闘には向かなくなっていたようです(発射速度が遅すぎて)。しかし、 海軍はこの砲には、未練が有ったようで「夕雲型」の連装砲は、昭和20年 になってもそのままで使用されていたようです。「松型」の主砲は、戦艦や 巡洋艦の高角砲と同じ物ですが、「秋月型」の砲は、長10cm高角砲で 仰角90度になり、発射速度も速いものであったそうです。 |
陽炎級の主砲とメインブリッジを正面から見た画像 |
こちらも別の昭和18年7月・日本製鋼所広島製作所製 火薬収納缶です。こちらも総じて美品といえる部類です |
海軍の航空機用と思われるダイナモ
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軽量小型コンパクトなダイナモです。銘板は プリント式です。読みずらいですが錨マークに ○にト、桜マークにシリアルNo.0860148に○ アの刻印が読み取れます。 |
どの機種に使われた物かは、判りませんが戦闘機 など単座の小型機のような気がします。 |
豊橋海軍工廠 空廠式十二 発動機 点火装置 |
所謂、イグ二ッションコイルと思われる電装品です。航空機のエンジンの点火 系統に必要な電装品でエンジン後部のギアーボックスに取り付けられている 機器です。この機器に内臓されている、コイル(四極永久磁石)から発生する 電気をエンジン気筒の頭頂部の点火プラグに点火させます。航空機のエンジ ンを動かす為に不可欠な電装部品と言えます。上の画像は、側面(銘板側) 立面・大きさ 全長 210mm、全高 160mm。銘板が付いてます。右側上に突 き出て有るのは”ブレーカーハウジング(断続器ユニット)”下に小さく突き出て いるのは、抵抗器です。右側の黒色塗料が剥離している粗面は、剥ぎ取った 跡のようです。下は、銘板の拡大画像です。 |
銘板に”○ト”、”○フ”、”○”、”桜大”、”海軍錨印”、”製作番号の 121764・・・等の刻印が有ります。この銘板からこの機器は、豊川 海軍工廠製”空廠式ー12CF2L”という名称である事が分かります。 銘板に刻印されたのを見ると数社の製品で出来ているのが分かりま す。”空廠式ー12(九六式艦上攻撃機)”は、昭和十二年に製作され た”艦上攻撃機”で航空魚雷・爆弾を搭載した復葉三座の優れた日本 の名機です。先の大戦の時には、既に旧式となり使用されませんでし た。その銘を冠した、この電装品は、各種の軍用飛行機に使用されて いたものと思われます。 |
側面(銘板の裏側)。左画像のの白い粗面は剥ぎ取った跡の面で 其の面に小さい丸い物は回転軸の潤滑油を注ぐ口に続っていた跡 です。その潤滑油が通る管状(油道)には、フェルト紐が入って浸透 しながら回転軸に塗付されるようになってます。これは、反対側にも 有ります。画像の一番、左端…この面が上部になると推測できます。 その横の画像、この面が下面と考えられます。最大巾 110mm。 |
上部に見えるは、コイルに歯車が付いてます。この回転体は、”4極 永久磁石”です。その下の穴は、コイルの歯車とかみ合う歯車の軸受 けです。軸受けのなかの左右に潤滑油が浸透しながら落ちてくる油道 のフェルトの紐が見えます。”抵抗器”には、”PP”の刻印が有ります。 軸受の下に見えるのは、”デストロビュータ・配電器”です。 コイルの周囲には、巻線(被覆された銅線)が巻かれた純鉄製の鉄芯 が存在します。このアルミの本体に”○A”の刻印有ります。 |
右側面(銘板側) 立面図 オレンジ色に塗られた部分は内臓されてる ”回転体(ドラム)”直径約60mm、長さ約90mm、四箇所の溝で分かれた 4極永久磁石になっています。回転体に歯車が付いてその軸の末端は、 ”ブレーカーハウジング”の中に入ってます。回転体の歯車は、青色に塗 られた歯車とかみ合っていたと考えられます。 |
海軍 寿発動機の発電機 |
寿発動機は、海軍の九六式艦上戦闘機や 九五式水上偵察機、十一試水上中間練習 機に使用されました。陸軍では、九一式戦 闘機二型(中島)でも使われています。この ダイナモは、海軍マークがありますので九 六式艦戦に使用された可能性が生産機数 で考えると最も可能性が高い気がします。 |
ずっしりと重みのあるダイナモですが 零戦の前の主力艦戦の九六式の時代 の物です。日米戦が開戦前の頃です。 物作りの日本を彷彿とさせられます。今 に連綿と続く物作りのDNAを想像してし まいます。 |
各種の刻印が見られます。 |
名機と歌われた三菱の九六式艦上戦闘機 |
九五式水上偵察機(実は、九○式水偵です) 九五式水偵は、九○式水偵の改造型ですの で非常に良く似ております。機体の塗装、尾 翼の形、エンジン後ろの出っ張りなどから九 ○式水偵であると大先輩がお教え下さりまし た。 |
後部のポイントカバーやデスビカバーを外した状態。 |
上の画像の真ん中は、寿エンジンです。 |
上部の蓋を外した写真に、発電機各部にある刻印と九六式 艦戦のエンジンを後方から見た画像です。 説明書きに磁 石発電機と書かれているのがこのダイナモです。 刻印に は、海軍の検印”桜”、”錨”、”○にト”の刻印があり、海軍 機のダイナモであると判ります。また、ポイントカバーには、 罫書きで”右”と書かれており、右側の発電機と想像されま す。発電機そのものは、まだ生きているようで、前のオーナ ーが分解中に発電機を手に持って軸を回転させたところ 感電したようです。 |
海軍 短艇羅針儀 改ニ |
携帯用の立派な頑丈な箱に収まっており、持ち運びば出来る様 になってます。箱の前面は、硝子の蓋が付いており、開け閉めで 出来、その硝子には、縦線が刻まれています。背面(後ろ面)に も小さな窓が有り、その硝子にも縦線が刻まれています。背面の 小窓から覗き、前面の縦線と合った所で、羅針儀の方位を読みと るのだと思われます。また夜間でも使用できるように箱の外側に ローソクを燈す装置が付いてます。 |
”短艇羅針儀・改二・製造番号386・重量4,3瓩・舞鶴海軍 工廠造兵部昭和十九年一月製造”の銘板が読み取り出来ま す。 大きさ:箱 幅18cm×20cm・高さ29cm。状態は、良好 でキズや壊れた部分は、ありません。ビス等の欠落も無い品 ですが、羅針儀文字盤に経年の汚れが有ります。 |
こちらは、未使用のデットストックとして出て来た 銘板のみです。小さい方は、まだ取り付けの螺子 孔も開けてありません。特攻用などで潜水艇や様 々な小型艇の生産と配備を本土決戦に向けて準 備していました。これらもそうした艇に使われる予 定のものだったのかもしれません。 |
零式空四號無線帰投測定器の
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海軍の一式陸攻や九六式陸攻などにも装備された 零式四号無線帰投方位測定器の回転器です。 |
機能は、きちんと生きています。ハンドルも 少し固いですがきちんと回転します。 |
機内でこの回転器を回すと機体の上に出ている 枠型空中線(ループアンテナ)が回ります。これ によって送信源に向かせて帰投への正しい航路 を得る事が出来ます。 |
銘板は、かなり汚れと腐食がありますが海軍の錨と ○トの刻印があります。昭和19年6月の日本無線 製造の品です。 |
ループケーブルに向うワイヤーが接続 される部位になります。 |
大型機用にドイツから輸入されたT式です。これを ライセンス生産した国産品がこの零式四号無線帰 投方位測定器です。 |
上の画像のように構造は、枠型空中線(ループアンテナ) に受信機が繋がりその下に管制器・テレフンケン式航路 計・航路計転換器・枠回転器で構成されています。 |
左の一式陸攻も右の九六式陸攻の操縦席後方の上部に 枠型空中線(ループアンテナ)が見えます。 |
練習用の無線帰投演習機 |
cf.その他の無線帰投方位測定機 |
米国のクルシー社製 のク式測定機の管制 器です。 |
一式空三号無線帰投 方位測定器の管制器 です。 |
一式空三号帰投方位測定器の受信機で す。一式空三号は、昭和14年位より米国 がク式の輸出を渋ったので16年にク式を 国産化した小型機用で操縦席の右側の搭 載しました。 |
海軍機に使われた定針儀一型 |
昭和10年7月に須式(スペリー式)から この定針儀一型の名前に変りました。基 本構造は、東京計器がライセンス生産し た須式と同じです。このタイプは、表示目 盛がラフなタイプなので九七式艦攻や 流星に装備されたものです。 |
同じタイプの定針儀一型でも表示目盛が細か いタイプは、月光、彗星、天山、九九式艦爆、 彩雲、零式水偵、一式陸攻、二式大艇、深山 や連山などの大型機に広く装備されました。 東京航空計器だけでなく田中航空計器でも 製造されていたようです。 |
九七式艦攻3号と下は、流星です。 |
海軍兵学校で使用された計算尺 |
ケースに海軍兵学校、貸与とあります。 |
ヘンミの計算尺です。 |
海軍大学校の蔵書だった洋書 |
海軍大学校図書 77812 昭和10年4月2日 蔵書印捺印 |
アメリカ合衆国海軍小史 |
海軍大学校図書印が大型印で捺印がありますが やや不鮮明です。 |
激闘、ソロモン消耗戦で撃沈した
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昭和18年3月5日にソロモン海のヴィラ・スタンモーア夜戦 で撃沈された駆逐艦”峯雲”の通信兵だった大高幸太郎 二等兵曹(戦死後、一曹に特進)の合同葬儀で御遺族が いただいた品々となります。 |
昭和18年3月5日にヴィラ・スタンモーア夜戦(コロンバンガラ島 のヴィラ・スタンモ-ア飛行場のヴィラ守備隊への補給活動中の 戦闘)でメリル少将隷下の米艦隊(巡洋艦三隻、駆逐艦二隻) と補給任務に当たっていた駆逐艦”村雨”と”峯雲”の二隻が遭 遇し戦闘となる。しかし暗闇の中で日本側は、敵の艦隊に気が つかないままに米側は、距離9000mでレーダー射撃を開始し すぐに村雨が一発も応射する間も無く猛烈な弾幕と魚雷を受け て轟沈。続いてターゲットとなった峯雲は、僅かに数発を応射し たものの三分後に村雨の後を追うように轟沈されました。艦長 日向嘉秀少佐以下主だった乗組員が戦死しました。合同葬儀は 昭和18年6月26日に執り行なわれ駆逐艦”村雨”、”峯雲”併せ て約300名の御霊を鎮めました。 |
昭和12年藤永田造船所で進水式の峯雲!朝潮型の峯雲は、第二艦隊 第四水雷戦隊第九駆逐隊に所属し開戦からミッドウェイ海戦まで僚艦の 夏雲と同じ行動をしていましたが、昭和17年8月20日にトラックを出撃し た時、冬島で座礁し、応急修理の為駆逐隊を離脱、その後は、ガダルカ ナル東方海域で空母”千歳”の直衛行動を行いました。9月末にショート ランドに進出しガ島間の輸送任務(所謂、東京急行)従事、10月5日に 輸送任務中、敵機の攻撃を受けて大破しショートランドへ帰還。応急修 理でトラックにより横須賀に帰港する。18年1月末まで修理を行い、再び ショートランドへ戦線復帰。3月5日、コロンバンガラ基地への補給物資を 揚陸した後、クラ湾北上中に敵水雷部隊の電探射撃と雷撃を受けて撃沈 しました。 |
同型艦の朝潮型駆逐艦 |
同型艦の朝雲 |
上の略歴の記載内容の通り、大高一曹は、昭和14 年1月10日に横須賀海兵団に入団。同年3月卒業し 4月に久里浜通信学校に電信術練習生として入校。 翌15年3月第51期電信術普通科生として卒業。4月 に駆逐艦”峯雲”に乗組となり支那事変に参加。以 、峯雲と共に太平洋を駆け巡り昭和18年3月5日に ソロモン諸島方面で戦死となります。多くの海軍の艦 が同じように大海原の蒼い海の海底に没しています。 同じような葬儀が繰り返され国家と民族の為に尊い 命を犠牲にされた英雄達が同じように顕彰されてきま した。 |
日本の駆逐艦は、開戦時111隻を有して戦時下 に63隻を就役させ合計174隻を保有しました。 最盛期には、三十一隊を数えた駆逐隊も敗戦時 は、僅かに二隊だけ数隻しか可動する駆逐艦は 残らないまで消耗しきりました。そしてガダルカナ ル攻防を巡る僅か一年半のソロモン消耗戦で延 べ170隻の駆逐艦を帝國海軍は繰り出して実に 45隻を撃沈され23隻を損傷させました。昭和18年 の年末までの駆逐艦の損失が55隻ですので、損 失の実に八割が東京急行、ソロモン方面の作戦で 沈められた事となります。開戦からバリ沖海戦まで は、日本水雷戦隊・駆逐隊の栄光の黄金期と言え るかもしれません。この間は、海戦でも1隻の駆逐 艦の損失もありませんでした。バリ沖海戦では、駆 逐艦わずか2隻で敵の巡洋艦3隻、駆逐艦7隻を相 手に戦い敵の駆逐艦1隻を撃沈させ、巡洋艦2隻と 駆逐艦1隻を大破させる損害を与えています。実に 帝國海軍の精強さが駆逐隊の精強さに現われてい ると言って過言でないレベルの高さを有していまし た。その後、レーダー全盛時代を迎えて技術的に 出遅れた事と物量消耗戦の前に戦力をすり減らし 遂には、全滅に近い結果で敗戦を迎えました。…現 在、世界でもTOPレベルの海自の護衛艦群にかつ て精強を誇った帝國海軍の駆逐艦・駆逐隊の面影 を見る事ができます。海自の精強護衛艦群は、日本 駆逐隊が壊滅した後を追う事無く、永遠に健在ぶり を示していて欲しいと思います。 |
海軍 食缶(飯函) |
分隊員(16名分)の麦飯を入れた食缶(配食器)です。 他よりたくさん入れられるように底部の角をほぼ垂直に 叩いて容量を拡げています。 |
1日交代で各班より四名の当番を出し食卓番と しました。うち三名が烹炊所で配食器棚から自 分の班の番号の食缶を受け取って持ち帰ります |
下の絵は、食卓番の水兵が食缶と副食を入れた アルミ皿を運んでいるものです。 |
こちらは、上と違う飯函です。保存状態が すこぶる良好できれいな品です。 |
色々な分隊で使い回されたようで 色んな隊のナンバーが記載されて おります。 |
零戦の主輪 |
ゼロ戦と聞くと条件反射でまた買ってしまいました。 もう何本目になるのか忘れましたが…零戦の主輪 です。ホイールもオリジナルの完全品です。戦後に 主輪に鉄パイプを刺して溶接しリヤーカーに使用し ていたようです。画像の下は、鉄パイプから抜き取っ た部品です。錆びた部分は、中空でタイヤのスプロ ケット部にパイプを溶接されていました。ベアリングも 生きています。 |
600×175、4.5kg/CM2、BSマークが読み取れます。 |
海軍 横須賀工廠 創立50周年祝典記念の品です。 裏に大正4年6月27日と刻まれています。銅製です。 |
海軍で軍医されていた方が戦後も 所持されていた合成マラリア甲・乙 剤の二種類です。 |
甲剤の大瓶の方のラベルは、薄れて海軍マーク等 が読み取れませんが、乙剤の方は、17.12.8と横須 賀海軍病院薬剤部としっかり読めます。 |
海軍特別陸戦隊員のスクラップ |
スクラップの表紙に上海海軍特別陸戦隊 浦東部隊 と スタンプが押してあり小林の名前が記載されています。 終始、大東亜戦争が始まる前の日中戦争が主体です。 …御自分の部隊の活躍や記録が新聞で取り上げられ る度にこうして切り抜きし詳細にスクラップしたものと思 います。 |
戦後に琵琶湖から引き上げられた零戦は、六三型として京都の嵐山博物館に その後、若山のゼロパークに展示されました。現在は、呉のヤマトミュージアム に零戦六二型として展示されています。この機体は正確には、五二型丙で昭和 20年8月6日に不時着した海軍二一○空の吾妻常雄 中尉の搭乗機と言うこと が判明しているとのことです。このキーホルダーは、嵐山博物館に展示の為、 補修張替えの際に、はずした実物の外板翼材を小さく切ってキーホルダーにして 販売した物です。水没していた為、腐食がありますが、希少な実物外板です。 ゼロパークの未使用のパンフフレットと割引券(すでに閉館しています)と一緒に 入手しました。 |