旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
野村 吉三郎 海軍大将の二種軍衣袴と関連の品々 |
野村大将は、和歌山出身で海兵26期。阿部内閣で外務大臣を 勤めました。開戦時の駐米大使として有名です。敗戦後は、吉田 茂首相の顧問として海自の創設に関与。昭和29年に参議院議員 。同年5月8日に逝去。勲一等旭日桐花大綬章。日本ビクター社長。 |
野村大将の着用された二種軍衣袴です。 将官飾緒の取付けが付いています。 |
御覧のように将官飾緒を取り付ける釦ホールが あります。惜しい事にクリーニングに出した時に 外したのか釦がありません。 |
大将の愛用されたウォルサムの懐中時計です。 |
閣下の愛用の腕時計です。 |
文字盤には、SWISSとしかなく製造番号は、 ”3014”と刻まれています。 |
下賜袋、我々の一般の世界で言う香典袋です。 |
右の提督は、中将時代の野村吉三郎大将 。左の方は、大将ですが誰か判りません。 |
横鎮長官に就任時、中将時代の野村閣下です。 |
野村吉三郎 海軍大将の御長男
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海軍大尉一種衣です。階級章は、手元の物を撮影の為、合わせてます。 |
有名な野村大将の御子息の一種軍衣です。 |
こちらも同じ大尉の二種です。惜しい事にクリーニングの後、仕舞いぱなしで 釦が見つからなかったようです。 |
後日、入手した御当人の主計大尉肩章と軍帽覆です。 |
戦後の所持品。この方は東京帝大法学部卒で 昭和16年海軍に入隊。敗戦時は、主計大尉で ありました。戦後は、日銀で活躍されたそうです。 |
明治期の海軍大軍医(大尉相当官)の常服 |
通常礼装と間違がわれがちですが通例服でなく明治 6年から16年まで使用された常服(軍衣)となります。 通例服との違いは、丈が短く肩章留め金具が当初より ついていない事です。艦隊(乗艦)勤務の時に使われ る常服に対する略服も存在します。 |
明治6年当時の軍医官の階級は、最高位が 大佐相当の大医監、次いで中佐相当の中医 監、以下、少佐相当の小医監、この常服の階 級と同じ、大尉相当官の大軍医。以下、中尉 相当官の中軍医、少尉相当官の小軍医となり ます。明治9年には、最高位が少将相当官の 軍医総監が定められました。 |
非常に軽い上質の生地で縫製されています。通例衣(礼服) や正衣(大礼服)を思うと非常に軽量です。やはり日常使う 常服である為と思われます。 |
袖章は、相当官のため結び蛇の目ではなく直線のみの金線です。 赤の軍医科識別線は、後の時代のように絹の定色ではなくラシャ が独特の縫込みで丁寧に織り込まれております。 |
秘・海軍公報
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海軍公報は、海軍大臣官房が丸秘文書として、原則毎日(欠刊日有り)発行された 公報です。敗戦が決定的になった時点で重要文章の消却命令が出ました。この公 報は、昭和20年1月2日の第4893号から敗戦の三週間前の7月23日の第5077号 までの間の184号が綴られた公報です。誰かの手で密に持ち出されました帝國海軍 の最後が記録された貴重な資料と言えます。 |
軍事=艦隊編成変・戦果報告・造船・造兵・兵器・徴兵・訓練・・・ 人事=進級・昇給・叙勲・給与・懲罰・戦死公報・・・ 雑 =食事・被服・・・ 以上 海軍の細部の事柄に就いて通達・命令・・等。公報の保存状態は 冊子の側面に虫食いが有りますが枠付文章部分に食い込んでいるのは 数ページで文字が2.3個食われていますが判読可能です。 公報綴全ページの上部には、赤線が引かれています。取り扱い注意の 標示です。 |
昭和20年4月27日、第4996号・軍艦長門・天城・伊勢・日向・青葉・榛名・・等 本土決戦に備え編成変。右は、航空被服・味方識別標識付着規定・昭和20年 4月30日。 |
左から昭和20年度第1号。昭和20年7月23日、最後の公報。敗戦迄余すところ23日。 この時点で敗戦が分かったのでしょうか?…この海軍公報の配布先を知る手掛かりに なるか。このページに押された閲覧の印に司令の閲覧済印は相浦と有り、海兵卒業名 簿に1名有りますが年齢的に該当せず。後任の司令に”神岡”と有り、”神岡重雄”第45 期に大佐と有り、この方か?…と思われます。 |
公報配布先の受領印に上部に「博武在地」又は「武在博」等、 時により変わっています。何を意味するのか?…不明です。 |
海軍機の航法計器 |
的針方位測定器一型です。 |
機体の中、特に操縦席の近くに設置し 的針方位を測定します。支那事変から 敗戦まで長く使用されました。 |
上は、九七式艦攻の偵察席の的針方位測定器。 下の左は、零式水偵の偵察席的針測定器(左側 )。前にいるのは、パイロット。右の主翼上の線が 的針測定の基準に利用された物です。 |
機上自差測定器二型です。 |
操縦席の内部色のインテリアグリーンがわかります。 |
開戦劈頭のハワイ作戦で
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昭和十七年一月 ハワイ作戦で戦死された方の海軍短剣 と伊73潜水艦から妻に送られたの手紙、その他紙資料。 |
刀身は、模造刀に替えられていますが、下士官で戦死し 二階級特進で兵曹長となり鎮守府辺りから、短剣を頂い たようです。 |
伊73から妻に宛てた手紙です。 |
奥様が所持されていたようで、お手紙からお子様が2名いらっしゃった ようです。戦後,慰霊碑も建立されているようで、その関係の書類も入っ ています。ご親族と思われる方の書類も入っております |
伊73潜水艦(一等潜水艦 海大VIa 型) 排水量 基準 1400t, 水上 1785t, 水中 2440t 長さ 垂線間長 98.4m, 水線長 102.6m, 全長 104.7m 全幅 8.2m 喫水 4.58m 機関 2軸ディーゼル/電動機,(水上 9000bhp,水中 1800shp) 速力 水上 23ノット,水中 8.2ノット 兵装 53cm魚雷発射管 6門, 10cm/50口径砲 1門(伊71-73 12cm/45口径砲 1門), 25mm機銃 1門 乗員 60 - 84 |
下の画像は、同型艦の伊68潜水艦です。 |
伊73潜水艦は、第六艦隊(司令長官・清水光美中将)・ 第三潜水部隊(司令官・三輪茂義少将)に所属してハワイ 作戦に参加しました。昭和16年12月23日にジョンストン島 を砲撃し29日にクェゼリンに帰投しています。明けて昭和 17年1月12日、クェゼリンを出撃しハワイ方面の監視・哨戒 任務に就き、15日に敵情報告を行った後に消息不明となり ました。25日頃、オアフ島南方付近に達し敵と遭遇し撃沈さ れたものと推定され27日に同方面で沈没したと認定されま した。 |
海軍に短現で志願した埼玉県熊谷市の
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敗戦の直前である昭和20年の軍事郵便です。短現すなわち 短期現役士官(二年現役海軍士官)制度により海軍に入られ たようです。 |
石原国民学校は、今も石原小学校として存在し、手紙は、 同僚の教師や校長先生、児童達に宛てて頻繁に送られて います。時節柄、悲惨な事も多く記載されています。主に 徳橋善四郎氏からの手紙がメインです。一部、他の教職員 で陸軍にとられた方の手紙も含まれております。学校での 宛名は、全て黒田義平殿となっています。この方が戦後も ずっと保管していたのかも知れません。 |
振り出しとなる手紙は、昭和20年1月12日で横須賀海兵団第三分隊 第五十九班(短現班)の所属で徳橋善四郎 海軍二等兵曹の階級が 記載されております。入隊して間もないようですが、すぐに下士官です。 |
同年1月24日の手紙からは、土浦海軍航空隊第四分隊短現班 (教員講習班)の所属となっています。2月28日に手紙には、受 講第一期過程が修了し、第二十六分隊転属になり実務指導に 入ったと記載されています。また3月5日の手紙は、愛媛県の 松山海軍航空隊第二十一分隊教員室の所属になり転属したと 記載されています。松山への移動の途中、帝都を初め名古屋、 大阪、神戸の悲惨な廃墟となった様子や途中の町でも焦土と 化している事を伝えています。また3日に一回の外出が認められ 外泊は、二週に一度あるが下宿は、借りていない事や、分隊長 はじめ分隊士・教員達は、皆一様に優しく接してくれているなどを 記載してあります。 |
6月4日の手紙は、松山海軍航空隊の同じ分隊の17名より7名が 特攻に選抜され、自身も選ばれたと記載されています。この時の 手紙は、かなり内心のショックが激しかったのか…また内心期す ところがあった為でしょうか…12ページに及び色々な事を記載し ていますが、沖縄戦での特攻やら松山空の米艦載機との戦いの 話は、艦載機の空襲出の被害やらの話も記載されています。 |
7月10日の手紙は、宇和島海軍航空隊503-四の所属で手紙が 出されており、これが最期の手紙となっています。恐らく練成も ろくに行われていないので敗戦の一ヶ月前でもありますし、この 方は、空襲等で戦死していない限り、特攻で出撃して亡くなるよ うな事は無く、無事に復員したものと想像します。 |
特攻要員に選抜された事を知らせた6月4日の手紙に 同封されていたガリ版刷りの通達です。昭和20年6月 1日付、第二十一連合航空隊司令官 三木森彦 の名 で訓示第三号として”予科練習生教育の一時中止に当 たり隷下、予科練習生への訓示”と記載されています。 |
当時の石原国民学校と同じ校舎を戦後撮影した物。 現在も石原小学校として存在しています。以下、HP です。 http://kumagaya-ishiwara-e.ed.jp/ |
海軍 九九式(手持)航空写真機(六桜社製) |
米国からの里帰り品の九九式手持航空写真機です。収納箱に一部傷みが ありますが、本体は非常に良い状態です。 |
九九式航空写真機 15糎 第1225号の記載が読めます。 |
オリジナルの収納箱にあるシリアルナンバーとカメラの ナンバーは、一致します。昭和19年11月製造です。惜 しい事に本体及び鏡玉、塗光器3枚、安全紐は、ありま すが、説明書とリールが欠品です。 |
九九式は、15cmの小型高速機専用航空写真機として 昭和14年より六桜社(小西六:現在のコニカ)で開発・ 生産され敗戦まで海軍航空隊で広く使われました。 重量も4.3kgと軽量でコンパクトです。 |
シリアルNo.のプレートに海軍マークが2個刻印されています。 |
背面カバーを外した画像です。画判寸法は、7.5×10cm |
付属品の淡黄色・黄色・橙色のフィルターと安全紐です。 安全紐は、落下傘の紐と同じものです。首か吊るせるよう になっています。 |
六桜社フィルムケース3個です。アルミケースの蓋に御馴染 みの六と桜のマークがあります。3個のうち1個には、フィル ムが入っています。 |
空母 ”赤城” 乗組み飛行兵の戦後の遺品 |
真珠湾攻撃から悲劇のミッドウェイを戦った第一航空艦隊一航戦の 赤城に乗組んだ飛行兵の方の品です。戦後も生き残られて昭和63 年と裏に記載のある写真がありますのでつい最近まで存命だった方 と思われます。霞ヶ浦航空隊のペンネントを付けた写真、中国戦線 と思われますが、4発の爆撃機と戦闘機を竹で作った中国軍の偽装 飛行機の写真、赤城のペンネントを付けた昭和15年の写真が数枚 あります。写真帳には、昭和15−16年の赤城艦上の写真もあった らしいですが、キャプションだけが残っています。おそらくは戦友会な どで、戦友会誌を作るのに提供してしまったのではないでしょうか。 残念なことに殆ど剥がされています。 |
”赤城”と思われる飛行甲板上の写真。遠く後ろに 機動部隊が縦列に追随しているのが写っています。 |
こちらの写真つきの盾は、赤城会の平成4年の記念品です。 ミッドウェイ海戦50周年とあります。おそらく、最後くらいの 戦友会だったと思われます。 |
写真は、取り剥がされ残ったキャプションを幾つか拾ってみました。 昭和13年に横須賀海兵団に入団、霞ヶ浦海軍航空隊を経て空母 赤城に乗組みになった事が判ります。 |
空母”赤城”の第一次攻撃隊
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岩崎五郎少佐は、南西方面で戦死されて中佐に昇進。海兵61期 栃木県出身の方です。開戦となった真珠湾攻撃では、淵田美津 雄中佐隷下の第一次攻撃隊の水平爆撃隊の第二中隊を率いて、 共に旗艦”赤城”より出撃した英雄です。その後、セイロン沖海戦 やミッドウェイ海戦を生残りましたが、南西方面で攻撃253飛行隊 の隊長として戦死されております。 |
左は、中尉時代の正装の写真。右は、三種軍衣袴に少佐の階級章 が見て取れます。ピストの前と思われる看板があります。この写真が 最も戦死された時期に一番近いと思われます。 |
任官証に位記です。 |
日米戦の開戦前に授与された支那事変記念章等です。 章記は、支那事変の1枚のみです。 |
真珠湾奇襲に参加した記念にいただいた機動部隊(第一航空艦隊) 宛に山本GF長官よりだされた感状の写しです。サイズは、31.3cm× 23cmとほぼ任官証と同じ位の大きさです。紙質も任官証と同じ様な やや厚手の上質紙です。本来の感状は、これよりもかなり大きなもの でありますし、これは印刷になっておりますので、その写しとなります。 しかしながら、前のオーナーが記載しておりましたが『大東亜戦争を通し て、最も有名な戦闘による感状でありながら本物は1、一枚だけですし (それが現存しているのか判りませんが)、写しとはいえ当時の物であ り、その枚数もごく限られた人間にしか配られていないとおもいます。 感状は部隊等に出されたものや、個人に出されたもの等、明治以来、 敗戦までに数多くが出されておりますが、今日、その一部が現存してお り、それらを書籍等で見たり、またその現物も見たこともありますが、私 は、真珠湾攻撃における機動部隊に対しての、これだけ有名な感状で はありますが、初めて目にした様な気がします。 また、興味深かったことは、その日付けが約4ヵ月後の、昭和17年4月 15日になっていることです。真珠湾攻撃後も空母艦隊は南方作戦での 多忙の日が続き、やっと一息ついた時期ではあった事と、4月8日には 戦意高揚の為、真珠湾において戦死した九軍神の合同海軍葬が行われ ましたので、その様な理由もあったのかもしれません。』…まさに頷く感じ です。 この感状の写しが入っていた封筒には、大井海軍航空隊 海軍大尉 岩崎五郎殿と宛名が記載されております。ミッドウェイの敗戦後に岩崎 大尉は、大井海軍航空隊に転じていたのかは、資料が無いので定かで は、ありません。 |
軍人援護会より昭和20年2月に遺族に送られた弔辞です。 印刷の物で戦争も末期になり戦死者が如何に多かったか を想像させられます。仮にも海兵を出た兵科士官で真珠湾 の英雄です。少佐となれば佐官ですので高級将校です。 |
岩崎少佐が佩用した肩章や襟章です。 |
遺品が時々、呼び合うように集まる事を不思議に 経験する事があります。この海兵入学許可書も上 の品々と時期と場所を別にして手に入れた品です。 |
以下は後年になり全国に四散して売却された岩崎中佐の 遺品の内で回収し再び一つにできた勲記三枚です。 |
バラバラになって全国に四散させられた遺品がまた 引き合うように一部ですが、揃い始めました。功五の 金鵄勲章の勲記です。 |
旭六の勲記です。 |
瑞五の勲記です。 |
海軍航空隊 艦攻の同乗者用飛行服 |
釦等は、完全。残念な事にベルトが欠品です。 |
操縦者用の飛行服は、良くありますが、同乗者用は、珍しいと 思います。 |
海軍 航空機整備員用冬用作業服(同乗者用飛行服) |
俗に整備員といっても大型機は整備員も同乗して飛びます ので同乗者用でもあります。上の艦攻の同乗者用飛行服と 作りは、全く同じものです。 |
ベルトもオリジナルで欠品無く、ボタンの欠落もありません。 また足元を締める紐も、痛みも欠落もありません。 |
記名布は、無く…小さな”テ”の字の刻印が、画像の 襟元の内側下にあります。中綿は、和紙に包まれた ままキルティングされている事が、触った感じと僅か な音でわかります。 |
飛行服によく似たツナギ服ですが、胸のポケットの形状が違ったり 、ベルト位置左右にポケットがある等の違いがあります。操縦者用 の飛行服と違い、同乗者用または、整備員用作業服として使用さ れました。海軍要覧によりますと、「今次の支那事変勃発により直ち に制定されたもので、航空隊の地上勤務員に着用するものである」 と説明があります。 |
こちらも上とは、別の冬季用整備作業被服です。 |
記名布は、昭和十五年八月製作 の横須賀軍需部・貸興品。ベルト が欠品です。 |
海軍水兵の折メスと折メスの吊り紐 |
これは、非常に希少な物です。海軍水兵の使用した折メス(ナイフ) の現存も少なく珍しいですが、それに使用した吊り紐はさらに珍しい ものです。 |
大正期の水兵服と一緒に3本出てきたそうです。 |
この折メスは、錨の刻印と波の刻印が 刻まれています。 |
その他、各種折メス。 |
官給品の折メス(ナイフ)は、水兵が非常時に艦上でロープ 等を切断する時などに使用されました。この為、高所で作業 中にナイフを落としても安全なように刃先は、平らになって います。 |
折メスを首から吊るし胸ポケットに 入れている水兵の写真です。 |
海軍の名札と予科練の胸章 |
名札二種類です。右は、”77・廣森”の記名のある セルロイド製の名札です。左は、”澤・二整曹・六− 一八・O型”とある布に塗料の名札です。 |
昭和15年頃、甲種飛行予科練習生の体操服の左胸に付けた |
cf.別の方の青の胸章 |
大きさ:巾 7cm、高さ 8.5cm |
海軍 軍属(高等官)の軍帽と肩章 |
昭和17年制、高等官・判任官一等の帽章のある軍帽です。 基本的にこの帽章は、昭和6年制の文官従軍服の帽章と変 っていませんので、以下の肩章から三〜五等の高等官だっ た方であると思われます。 |
軍帽ケースには、日覆が5枚入っていました。 |
昭和6年1月制の三・四・五等高等官の肩章です。 |
海軍 軍属 判任官の肩章 |
上の高等官の桜花章が金に対して判任官は、銀色です。 また縁線も銀です。ここで兵下士官待遇と士官待遇以上 との違いが出ています。 |
(海中型)呂六二号潜水艦に
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敗戦まで頑張りぬいた呂号六二号に積載されていた 九式爆薬火二型格納箱です。底の部分の金属部分 は6箇所マイナスネジで止められていたようですがネ ジはありません。上部と側面にロ62とかかれておりま す。 |
高速走行中の珍しい呂62の雄姿!艦首の26のNO.は、 当時所属していた第二六潜水隊を指しています。この画 像は、大正末期から昭和元年辺りに撮影されたもののよ うです。敗戦まで生き残り、昭和20年11月20に除籍され 昭和21年5月、伊予灘で海没処分とされました。 |
L4型(呂60型)のシルエットと基本スペック 排水量 988t(水上)、1.301t(水中) 全 長 76.20m 最大幅 7.38m 吃 水 3.96m 速 力 15.7ノット(水上)、8.6ノット(水中) 航続距離 5500海里(水上10ノット) 80海里(水中4ノット) 兵 装 40口径8cm単装砲×1 6.5mm単装機銃×1 53cm魚雷発射管(6基):艦首 搭載魚雷:12本 安全潜水深度 60m 乗 員 48名 尚、呂62は、大正12年度計画で三菱神戸造船所で大正 13年7月24日に竣工。当初は、二等潜水艦 第73潜水艦 と命名。同年11月1日に呂号第62と改名されました。この 呂60型は、合計9隻が建造されました。敗戦まで生き残っ たのは、呂62を含めて4隻でした。 |
昭和2年の同型艦の呂68 |
引渡し当初の呂60 |
海軍 軍医大尉の婚姻願! |
非常に面白いものです。呉海軍病院に勤務する 軍医大尉が提出した婚姻願に対して差々な部署 の判がつかれ、最後に認許の印が押されて送り 返されている書類です。 |
現在、警察でも私の知る限り許認可で結婚しないと昇進が 望めないと思っていますが、今はどうなのか判りませんが、 基本的には、戦前と変らないのは面白いです。 |
所属する軍医長から副官、人事局・人事部長、鎮守府長官に至るまで これでもかと判子をついて回っています。昔も今もお役所仕事の事務 は、変らないようです。溜息が漏れます。 |
軍艦(戦艦) 摂津の進水記念の魚雷の模型 |
日本で最初の弩級戦艦である摂津級の一番艦の戦艦 摂津の 進水記念の魚雷の模型です。英国のドレッドノートを模したの 戦艦である所謂、弩級です。この弩級戦艦の走りだった攝津は ワシントン条約が締結され建造僅か10年で武装を撤去した標的 艦とされました。以降、敗戦直後の7月24日に呉で大空襲にあ い撃沈されるまで20年以上、標的艦の任を努めました。 |
戦艦 摂津 排水量 21,443t 全 長 160.6m 全 幅 25.7m 喫 水 8.5m 機 関 2軸タービン16缶 燃 料 石炭 2300t/重油 400t 速 力 20ノット 兵 装 30.5cm/50口径砲連装2基4門 30.5cm/45口径砲連装4基8門 15.2cm/45口径砲10門 12cm/40口径砲8門 8cm/40口径砲12門 8cm/28口径砲4門 45cm魚雷発射管5門 乗 員 約1,000名 |
戦艦時代の摂津 |
この画像は、標的艦時代の摂津 |
ハンモック |
真珠湾攻撃で第一次攻撃隊の急降下爆撃隊 (空母”翔鶴”)の指揮官だった高橋赫一少佐 (海兵56期)の所持されていたハンモックとい う事で入手しました。真珠湾では、少佐が指揮 した第一次攻撃隊の第二集団(九九艦爆)の 51機は、獅子奮迅の働きをしました。 |
高橋少佐(戦死後二階級特進で大佐)は、昭和17年 5月8日の珊瑚海々戦で米空母”レキシントン”に命中 弾を与えた後に米戦闘機に撃墜され戦死されておりま す。 |
海軍大臣旗 |
戦前の物ですが、他の物と同様で全体に赤色が 滲んでしまっています。サイズは、縦:約72cm、 横:約92cm。紐を取り付けている上下の角が破 れたようで端を紐で括っています。 |
佐世保鎮守府が海軍三等機関兵に発行した 自動車操縦技量検定合格証です。 |
GIが土産として持ち帰った物でアメリカからの里帰り品です。 鉛筆でJap I.D. Cardと書き込みがあります。 |
海軍礼装用の三等水兵用臂章です。 |
昭和15年閣議決定に基づき、帝国航空協会など他の航空団体を 統合して大日本飛行協会が設立されました。その大日本飛行協会 賛助会員章で玄関などに張り出します。ブリキ製の未使用品、 会員章はよく見かけるのですが、会員章を送付の際に入れている 袋は当然捨ててしまうので現存は大変稀だと思われます。 |