旧軍関連収集品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
海軍 大将旗 |
約4mは、ある…特大サイズの大将旗です。 |
当時のものですが、このサイズで使用されたので あれば戦艦クラスの大型艦だと思われます。 |
各所に10cm大の破れが八箇所ほどあります。また色のにじみ や汚れが多数ありますが、この大きさの艦艇用の旗で、しかも 大将旗は相当に希少で珍しいものと思います。 |
まあよくも現存し今まで保存されてきたものと感心しました。 |
cf.将旗 指揮権を示す旗章で将官以上が掲げます。 八条旭日旗(軍艦旗は十六条)で、これを 大将旗といいます。上辺に縁取りを加えた 場合は、中将旗。上下に縁取りを加えると 少将旗となります。 |
海軍 中将旗 |
少し小振りの中将旗です。サイズは、130cm×90cm。経年によるシミ などが多数ありますが、概ねは未使用に近い美品です。 |
海軍 軍艦旗 収納箱 |
大きさから見て、大型艦のものと思われます。戦艦、航空母艦などの 大型艦の軍艦旗は、畳六畳程度の大きさがありました。箱の大きさ: 33cm×57.5cm×37cm。箱に艦船名や刻印などは残念ながらありま せん。 |
東郷 平八郎 元帥海軍大将
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元帥海軍大将 伯爵 東郷平八郎 御夫妻への観菊会 御召状 (招待状と招待状封筒)。昭和四年十一月一日 新宿御苑で 天皇皇后両陛下の主催で行なわれた観菊会のものです。 |
新宿御苑のカラーの豪華な案内図です。 (席順案内地図と乗用車間別札説明書) |
自動車のフロントガラスの見える所に出す 参列者の車を識別する赤白菊のマークの 間別札です。 |
東郷平八郎 元帥の直筆署名入り額縁大型写真 |
写真本体と台紙に”東京 小石川 白山下 齋藤寫眞舘" そして写真に”複製禁”の押印を入れた物です。元帥の 直筆の署名があります。 |
何かの折に関係者に配られた物のようです。 思ったより大きなもので写真自体は、A4より 少し大き目といった感じです。長い間、額縁と ガラスに守られていた為、写真の状態は、す ごぶる良好です。 |
山本 五十六 海軍元帥 揮毫の木製プロペラ |
元海軍将校宅からの蔵出し品で、実物の木製 プロペラを半分に切断したものに彫刻が施され た物です。 |
製作時期等の詳細は、不明です。 |
どうもプロペラは、下に画像を出しました 一O式艦上雷撃機(三菱)の物のようで す。 |
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所 小牧南工場・史料室に保存 されている物ですが、縦書き・横書きの違いはありますが語句は同じです。 |
この矢印に下のバーナーをクリックすると 名古屋航空宇宙システム製作所史料室の 公式案内のHPが開きます。 |
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一O式艦上雷撃機(三菱) 英国人・スミス技師の設計によるわが国では唯一の単座三葉機です。 また初の国産制式雷撃機で800kg 魚雷1本を腹に抱いて飛びました。 【性能】 発動機出力:450hp、最大速度:205km/h、,航続時間:3hr 生産機数:20機 |
海軍 舞鶴第一保安隊 NP(海軍憲兵)の装備品 |
これ等は、畑中 常三 海軍一等兵曹の持ち物となります。 海軍 舞鶴第一保安隊とは、大海令第五十三号・昭和二十 年二十二日、奉勅 軍令部総長 豊田副武 に依れば、大本 営の企画として連合軍の進駐を円滑に実施されるため、兵士の 武装解除と治安維持とを監視する為、所要最小限の兵力に武 装保持させ憲兵的任務を行なわせたと有ります。 |
海軍下士官用の軍帽は昭和二十年八月支給品 となってますが、保安隊員に成ってからの支給品と 思われます。 |
非常に状態の良い下士官軍帽です。 |
所属 ”一保 二中 三小”と名札に有ります。 第一保安隊 第二中隊第三小隊に所属して いた模様です。 |
腕章は、表面布地が陸軍憲兵腕章と同じモスリンで、 裏地は綿布です。表面に小虫食い有ります。裏面に” 三小 壱号”と書き込み有ります。畑中常三 一曹の 所有物ですが、大変珍しくて貴重な資料だと思います。 |
”H”の片布は、”保安隊”の頭文字の”H”で …肘・胸章として使われた物と想像します。 |
不明の七つ釦です。尚、惜しい事に軍衣袴は、 虫食いが多くて捨てられていたとの事です。 |
cf. 大海令第五十三号昭和二十年八月二十二日 奉勅 軍令部総長 豊田副武 小沢連合艦隊司令長官 宇垣大湊警備府司令長官 杉山佐世保鎮守府司令長官 山口鎮海警備府司令長官 戸塚横須賀鎮守府司令長官 寺岡第三航空艦隊司令長官 田結舞鶴鎮守府司令長官 醍醐第六艦隊司令長官 金澤呉鎮守府司令長官 前田第十航空艦隊司令長官 岡大阪警備府司令長官 大森第七艦隊司令長官 原第四艦隊司令長官 草鹿第五航空艦隊司令長官 ニ命令 一、 大本営ノ企図ハ為シ得ル限リ速ニ我軍ノ武装ヲ自発的ニ解除シ以テ進駐シ 来ル連合国軍ト無用ノ紛争ヲ避ケ我ガ信義ヲ中外ニ宣明スルニ在リ 二、 連合艦隊司令長官、佐世保、横須賀、舞鶴、呉各鎮守府司令長官、大阪、 大湊、鎮海各警備府司令長官、第三、第五、第十各航空艦隊司令長官、第 四、第六、第七各艦隊司令長官、第一護衛艦隊司令長官ハ既令ニ依ルノ外 速ニ指揮下全兵力ヲシテ還納其ノ他適宜ノ形式ニ依リ自発的ニ其ノ武装ヲ 解除セシムベシ 三、 前項各司令長官ハ武装解除後ノ治安維持並ニ兵器需品、其ノ他軍事施設 等ノ監視保管ニ任ゼシムル為所要最小限ノ兵力ニ憲兵的ノ任務ヲ付与シ所 要ノ武装ヲ保持セシメ之ヲ存置スルコトヲ得之ヲ海軍保安隊ト称セシム 四、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム |
この方の所持品でなく別の出所ですが 同じ保安隊の腕章を付けた三種軍服の 海軍の兵士達です。 |
南洋群島(南洋庁)在勤
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珍しい南洋庁の判任官の制服です。 |
惜しい事に第五釦が欠品です。その他は、 とても綺麗な美品です。 |
判任官袖章は、白線一本のみで、良くある 椰子葉桜花章は最初から付けられていない 様子です。また肩章留も最初から付けられて いた様子がありませんので、このまま使われた ようです。上衣に外物入れとして胸と腰に合計 三箇所付いています。 |
衣袴共にアオキの刺繍がされています。 |
南洋庁の海軍民政府の発行した葉書です。 |
日章旗に椰子と島が印象的です。 |
海軍 軍属 高等官三等の肩章 |
南西諸島方面(沖縄)へ特攻出撃にて
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こちらの資料は、東京都大田区田園調布出身の舟津一郎 海軍少尉 (戦死後、海軍大尉に2階級特進)の関連のものです。船津少尉は、 慶応義塾大学を昭和14年に卒業、予備学生十四期生として海軍に志 願、北浦海軍航空隊で練成を受けて指宿海軍航空隊(水上機基地)に 移動し特攻で若い命を散華致しました。…昭和20年2月、米軍が硫黄 島の攻略に転じると海軍は、戦況の逼迫と燃料の欠乏より練習航空隊 の飛行訓練を中止し、予想される沖縄戦に備え、3月に入ると各隊の保 有する練習機をもって特攻隊を編成し、特攻訓練を開始しました。指宿 の水上機は、北浦空・詫間空の零式水偵と九四式水偵の実用練習機を 特攻機に転用しました。船津少尉は、この詫間空の所属になります。隊 員の構成は、隊付の予備学生十三期生出身者の実用機の訓練を中止し て、予備学生十四期生・予備生徒・予科練出身者に、これらと出身が同 じ偵察員と、3月半ばに偵察の訓練教程を卒業した偵察員が来隊し、ペ アが組まれて特攻隊が編成されました。この為、予科練は、甲飛第十三 期生が中心になりました。指宿基地を中継基地として月光を頼りに夜間 に出撃して沖縄周辺海域に集結する米軍艦艇…特に輸送船を攻撃して 機動部隊の補給を断つ事、これを主眼としました。この為、零式水偵は 800kg爆弾1発を、九四式水偵は500kg爆弾1発、零式観測機は、250kg 爆弾1発を抱いて片道燃料で出撃を敢行しました。舟津少尉の所属は、 北浦海軍航空隊(千葉県)でここでギリギリまで特攻訓練など練成を行 い、4月1日、米軍の沖縄上陸が開始、詫間空は10航艦より3航艦に編 入されます。菊水作戦が発動され4月下旬、詫間空の水上機部隊は、 順次、指宿基地に移動し、北浦空もこれに合わせて移動を行い、5月4 日の特攻攻撃実施となりました。 |
戦死通知(海軍省)
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〜舟津大尉(2階級特進)の戦死公報関連書簡(書類五通)内訳〜
1・戦死通知:昭和二十年八月二十五日 海軍省人事局 大野竹二
2・戦死証明:昭和二十年十月十日 海軍省人事局 大野竹二
3・賜金等交付ノ件通知:昭和二十年九月六日 海軍人事局 大野竹二
4・戦没御通知:昭和二十年十月三日 東京都大森区長
5・戦死者進級ニ関スル通知:昭和二十一年二月十三日 第二復員省
以上の五通・封筒と郵便局スタンプ・軍関係スタンプ付の品です。
これだけ纏まって出るのも珍しいですが、その物自体、揃いで現存 して残るのも珍しいものと思います。 |
舟津少尉は、昭和20年5月4日、第一魁隊の一員として 九四式水偵9機で南西諸島(沖縄)方面へ出撃、戦死 致しました。昭和21年2月13日付にて二階級特進し海軍 大尉になられました。 |
戦死証明書(海軍省) |
賜金等交付ノ通知(海軍省) |
連絡書簡(書類)にしては、敗戦後の物資不足の時期で
有ったにしても余りにもお粗末な紙質で公文書にしては、 大量に発行した為と考えても公印の押し忘れ等…敗戦前 後の混乱の時期が良く伝わる気がします。これでは、戦争に 勝てる筈も無かった事でしょう。 |
戦没御通知(大田区) |
戦死者進級ニ関スル通知(海軍省) |
舟津一郎氏の実家は、現大田区田園調布に有って、戦時中
は疎開して茨城に居たらしく、敗戦直後、田園調布に帰ってい ます。封書に移転先の付箋がつていた跡が或るので分かります。 御父上は、大学の教授で有ったようです。 |
この品を手に入れる半年前にヤフオクに誤って 出品されバラバラになってしまったのが、画像の 舟津少尉の三種軍衣です。 |
舟津少尉の零式水偵は、操縦の舟津少尉の他、以下の2名が同乗し 散華されました。 操縦 舟津 一郎 海軍少尉(茨城県出身・慶応義塾大學・予学14期) 偵察 前原 喜雄 海軍少尉(千葉県出身・國學院大學・予学14期) 電信 山本 謹治 海軍少尉(兵庫県出身・早稲田大學・予学14期) |
20年4月、遂に水上機さえも特攻機となった。第一魁隊員の特攻出撃 で北浦空を飛び立つのを帽触れで見送る基地隊員…。霞ヶ浦より南九 州の指宿基地へ移動し・・・沖縄へ向けて出撃しました。 |
以下は指宿基地で敗戦を迎えた予学十三期の宇野 海軍少尉の アルバムからの紹介です。少尉は詫間空の琴平水心隊の特攻要 員の一人として三座水偵のパイロットでした。 |
有名な神風特攻隊の琴平水心隊です。この余りに旧式な九十四式水偵 で出撃する特攻隊は・・・数あるほかの特攻隊に比べても特段心に残り ます。しかも多くがエリートである学徒の予備学生達です。無駄死に飛ぶ のに三名も乗せる必要が到底あるとは思えず・・・下命し送り出した海軍 の上層部の神経が理解できません。せめて送るにしてもパイロット一名で 十分だったでしょう。 |
笑顔で出撃する三名のペアー・・・若い学生を無駄死にさせ30代以上の壮年の 職業軍人は誰ひとり出撃させず、昨日まで学生服を着ていた若者と予科練の 少年達・・・10代と20代前半の若者を次から次へと死地に送り込んだ罪は今も 消えてはいません。しっかりとした総括もなされず・・・この日本は今に至ってい る気がします。取るべき立場のものが責任を取らない無責任体質は、現在に 受け継がれ・・・福島第一原発対応の菅総理の無能の責任も問われず、年金 問題を起こした厚労省の役人も誰も責任を取りません。 |
特攻自体が酷いものであるが・・・水上機や白菊や赤トンボで特攻に行かせる 神経が許せ無い気がします。零式水偵は800kg爆弾を九四式水偵は500kg 爆弾を抱いて出撃させています。零式水偵の最高速度は367km/hで九四式 水偵が260km/hでしかありません。重い爆弾を腹にだけば零式水偵は出せて も200km/h以下でしょう。九四式水偵など150km/h以下でヨロヨロと飛んだ事 でしょう。米軍機のF6Fグラマンが600km/hを越す優速で飛ぶので…止まって いるような速さの標的しかなかった筈です。まさに死にに行くような出撃だと判 っていながら飛ばされる・・・行かせる方もどうかしているとしか思えないまさに 狂気の沙汰です。命令を出して送り出した側の職業軍人で敗戦後に責任を取 った人は本当に僅かしか知りません。 |
こちらの二機の三座水偵は尾翼のキタが読めるので北浦空の水偵だと判ります。 従って同じ指宿から前後して出撃した三座水偵と九四式水偵の混合で出撃した 第一・第二魁隊の出撃前の写真と思われます。其々、昭和20年5月4日(第一) と昭和20年5月11日(第二)の魁隊が出撃しましたが・・・零式水偵が二機出撃し たのは第一魁隊の出撃前の写真だと思います。どちらかがこのサイトの別ページ でも紹介している舟津 一郎 海軍少尉(予学14期)が操縦して出撃した機体だと 思います。 |
上の左右のどちらの機体かは判りませんが、この機体に搭乗されたのは 第一魁隊の操縦:舟津 一郎 少尉(予学14期)、偵察:前原 喜雄 少尉( 予学14期)、電信:山本 謹治 少尉(予学14期)のぺアか、操縦:飯塚 英次 上飛曹(甲飛8期)、偵察:野見山 俊輔 少尉(予学13期)、電信: 金子 清明 二飛曹(甲飛13期)のペアのどちらかと思われます。 |
〜指宿基地より出撃した北浦空の魁隊〜 昭和20年5月4日出撃 7機 神風特別攻撃隊 第一 魁隊 零式水偵(800kg爆弾)2機 一番機 0530出撃 偵察:野見山 俊輔 少尉(予学13期) 操縦:飯塚 英次 上飛曹(甲飛8期) 電信:金子 清明 二飛曹(甲飛13期) 二番機 0600出撃 操縦:舟津 一郎 少尉(予学14期) 偵察:前原 喜雄 少尉(予学14期) 電信:山本 謹治 少尉(予学14期) 九四水偵(500kg爆弾)6機 0600出撃 一番機 操縦:宮村 誠一 少尉(予学13期) 偵察:玉木 麻人 少尉(予学13期) 電信 二番機 操縦:渡部 庄次 少尉(予学14期) 偵察: 林 元一 少尉(予学14期) 電信 三番機 操縦:中村 正一 一飛曹(甲飛12期) 偵察:岩佐 忠男 一飛曹(甲飛12期) 電信 四番機 操縦:佐藤 憲次 少尉(予学14期) 偵察:碇山 達也 少尉(予学13期) 電信 五番機 操縦:武井 清 少尉(予学14期) 偵察:中島 之夫 少尉(予学14期) 電信 六番機 操縦:山口 龍夫 少尉(予学14期) 偵察:河野 宗明 少尉(予学14期) 電信 昭和20年5月11日出撃 2機 神風特別攻撃隊 第二 魁隊 零式水偵(800kg爆弾)1機 0400出撃 操縦:四方 厳夫 中尉(予学13期) 偵察:飯沼 孟 少尉(予学13期) 電信:大日向 景介 一飛曹(甲飛12期) 九四水偵(500kg爆弾)1機 0400出撃 操縦:阪本 明 少尉(予学14期) 偵察:山崎 誠一 少尉(予学14期) 電信 |
昭和20年4月29日、指宿基地を出撃線とする琴平水心隊の零式水偵 操縦:安田 友彦 少尉 (予学13期) 、偵察:井上 静夫 少尉(予学14期) 電信:小住 昭雄 二飛曹(甲飛12期)の3名のペアです。 |
同じく昭和20年5月28日に指宿基地を出撃した琴平水心隊の零式水偵 操縦:山口 平 少尉(予学14期)、偵察:細田 真仁 一飛曹(乙飛18期) の ペアです。 |
詫間空の零式水偵のパイロットだった宇野少尉です。同期や十四期の 予備学生達の出撃を見送りました。そして自分の出撃の出番を待った わけですが・・・彼の所属した琴平水心隊は、昭和20年4月29日に5名 を皮切りに、5月4日に27名が出撃、5月28日に7名が出撃。前後して 北浦空の第一魁隊が18名、鹿島空の第二魁隊が5名、福山空から琴 平水偵隊が3回に分けて6名と1名と2名が出撃。天草空からも十二航 戦水偵隊として3回に分けて3名、9名、2名がこの指宿基地より出撃し ました。いずれも下駄履きで零観(零式観測機)または三座水偵(零式 水偵)か九四式水偵でありました。 |
宇野少尉はこの三座水偵で出撃予定でした。零式水偵に しろ九四式水上偵察機にしろ・・・ただでさえ遅い下駄履き に爆装させて出撃させるなど無駄死にを命じるも同然でし た。既に陸上機の零戦であっても爆装し鈍速になった特攻 機が万全の構えで臨む米軍の哨戒網を抜けて米機動部隊 に特攻を成功させる確率は最早、初期の特攻のように高い 確率でもなく・・・まして下駄履きの水上機が800kg爆弾を 抱いて米軍機が赤子の手を捻るように撃墜できる鴨ネギの ような出撃をさせた軍上層部の命令は犯罪に近いものだと 言えるでしょう。 |
"零式水上偵察機(E13A) 性能” ・全長:11.49m、全幅:14.50m、全高:4.70m ・全備重量:3650kg、翼面積:36.20u ・乗員:3名 ・最高速力:367 km/h ・主要兵装:7.7mm機銃1丁(旋回1) ・生産数:約1423機 |
哀しき翼の九四式水上偵察機…。 |
川西航空機(現在の新明和工業)が世界のTOPに 立つ水上機メーカーとなる足掛りを作った機体と言 える九四式水偵です。 |
複葉・双フロートの水偵で日華事変の前期から大東亜戦争 の末期まで活躍しました。水上基地、戦艦・重巡洋艦・水上 機母艦のカタパルト発射用水偵として使用された”複葉3座 水偵”の傑作機です。水冷式エンジンの旧型を94式1号機 (E7K1)、空冷式星型エンジンを94式2号(E7K2)と区別して います。機体は、鋼管フレームの骨組み羽布張り、フロート は全金属製、約12時間の航続距離を持ち、安定性、操縦性 凌波性ともに単発の水偵としては、抜群の性能を持っていた 名機です。敵の艦船や潜水艦を攻撃するために、胴体の下 に60Kg爆弾を2個または、30Kg爆弾を4個取り付ける事もで きました。大戦の最後は、500kg爆弾を抱いて特攻に出撃し た悲しい翼です。 ”川西 九四式水上偵察機(E7K) 性能” ・全長1:14.41m、全幅:14.00m、全高:4.55m ・全備重量:3000kg、翼面積:43.6u ・乗員:3名 ・最高速力:259 km/h ・主要兵装:7.7mm機銃3丁(機首2、旋回1) ・生産数:約530機 |
九四式水偵の前で出撃命令を受ける水心特攻隊員。 舟津少尉の魁隊も同じ時に特攻出撃した北浦海軍航 空隊で同時に指宿基地を出撃ししています。 |
別杯。詫間空より特攻機地の指宿へ旅立にあたり司令と 最後の別れを交わす水心特攻隊員。 |
昭和20年5月4日の指宿基地における特攻出撃! |
5月4日の指宿から出撃した 九四式水偵による神風特別攻撃隊で戦死と 認められたのは、以下 1)水心隊(詫間空 水偵隊) ・碓本区隊(九四式水偵 4機 9名) 碓本守 少尉、田中啓治 少尉、高橋淳一 ニ飛曹 他、3機(6名) ・四方区隊(九四式水偵 4機 9名) 笹尾愛 上飛曹、四方正則 少尉、轟慧 一飛曹 他、3機(6名) ・中山区隊(九四式水偵 2機 4名) 矢野幾衛 少尉、新山秀夫 一飛曹 他、1機(2名) 2)魁隊(北浦空 水偵隊) ・松村区隊(九四式水偵 3機 7名) 武井 少尉、中島之夫 少尉 他、2機(5名) ・宮村区隊(零式水偵・九四式水偵 4機 9名) 宮浦誠一 少尉、玉木麻人 少尉、中村正一 一飛曹 舟津一郎 少尉、前原喜雄 少尉 他、2機(4名) この日、詫間空だけでも九四式水偵が13機が出発していま す。これに北浦空の九四式水偵が7機、零水が2機の計10 機が加わり総勢22機が出撃しました。 |
5月4日、0500頃、九四式水偵隊が離水を開始、最終の碓本区隊 が編隊離水、その後、零水隊2区隊が続き離水。出発が終ったの が0600頃。その後の九四式水偵隊は、0827より0900頃にかけて 水心隊碓本区隊、同 四方区隊、魁隊 宮村区隊、碇山編隊の各隊 長機より、相次いで”ヒ”連送(敵戦闘機の攻撃を受く)、”モミ”(目 標発見)、”セタ”(戦艦に体当たり)、”長符連送”(体当たり)を詫間 空、指宿空ともに電信室が受信。全員特攻戦死と認められました。 他方、九四式水偵 魁隊 滝野区隊長機は、故障の為、宝島海面に 不時着機体を沈没。同じ磯野区隊 4機と水心隊 中山区隊長機の 計5機は、同一編隊を組み進撃中、敵戦闘機の妨害により前進不能 と判断、また離水のやり直し等、不測の燃費によるガス欠の不安等 の判断より奄美大島古仁屋空海面に不時着。磯野機以外は、翌早 朝、指宿空経由詫間空に帰投しています。磯野機は、5月9日早朝、 単機特攻の為、離水直後、古仁屋の山腹に激突炎上し全員戦死。 この外に、中山区隊 松本機は、離水後、爆弾故障を僚機に指摘さ れ指宿空に帰投。結果、実際に戦場に到達した零式水偵と九四式 水偵隊は、17機と言われています。 |
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上のバナーをクリックすると詫間空の特攻隊員で戦後も 生存された予学十三期の宇野 浩一 海軍少尉の遺品を 紹介したページが開きます。 |
下のバナーをクリックすると琴平水心隊や第一魁隊が 特攻で飛び立った指宿基地の遺構を紹介したページが 開きます。 |
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指宿基地から出撃した第一魁隊が錬成した北浦空の遺構 を紹介したページです。 |
金田 海軍航空予備中尉の一種略帽に長靴 |
同一人物の海軍長靴と一種略帽です。入手しません でしたが二種略帽もあり、そちらには内部に金田の記 名がありました。一種士官用略帽には、記名は、ありま せん。下の画像にあるように長靴には、金田の記名が あります。(二種略帽に航空予備中尉 金田と記載あり ました。) |
裏地は外されております。通常の一種は、 綿布製が多いですがこちらは、黒絨製です。 |
裏面縁革(正面)の縁革裏にスタンプ 有りますが、難読です。 |
所謂、艦内長靴です。 |
海軍士官用 襦袢(冬用) |
明治六年制 八年太政官布告
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尉官相当の軍医(大軍医、中軍医、少軍医)、主計(大主計、 中主計、少主計)秘書(大秘書、中秘書、少秘書)、機関士( 大・中・少機関士)の剣帯前章と剣帯です。 |
金座に金の桜花が特徴になります。 |
一般の将校用の剣帯前章と短剣を吊ったイメージです。 (大正3年以降は、少尉から大将と機関科相当官を将校 としました。) |
珍しい海軍委託軍医学生の学生服(上衣) |
海軍委託軍医の制度は、海軍軍医を採用する目的に造られたもので、
国公立・私立大学の医学・薬学部の在学生中より採用する制度です。 在学中の学費・寮費・下宿代等は「手当」と云う名目で支給されていま す。現在も自衛隊でもこの制度は残っており、数少ない医学生がこの制 度を利用しています。 |
この学生服の所有者は、”柳田”と有ります。服の金属釦の
図柄から日本大学医学部の人で有った事が分かります。 |
この学生さんの服は、”SENDAI・OSAKAYA”の製造です。この当時は、
物資不足が深刻化して日本中がとても貧しかったので”着たきり雀”でかな り使い込んでおり痛みが有ります。また痛みを何度も補修して着ていたよう です。 |
珍しく学生(生徒)徽章は残っている学生服です。諸図録・写真集等にも 未載です。この様な状態で出るのは、非常に珍しいと思います。昭和19年 3月通達の海軍省医務局の通知の中に学生徽章の佩用の仕方が記載さ れています。この制度に採用された学生は、種々の契約事項に署名捺印を し保証人を立てました。当時、”契約学生”とも呼ばれておりました。委託学 生に採用されますと上記の別紙”採用通知書(コピー)”に書かれているよう に生徒徽章を校服(私物)の右襟に付着させます。この徽章は、当時、一 個八銭と記載されております。 |
池田 守 海軍大尉(海兵69期)の所持
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この軍艦旗は、海軍大尉 池田守氏の私物と一緒に軍艦色
(海軍色)のベークライト製トランク型の専用収納函に入って 出てきました。その他の物は既に処分されたようでした。残っ ていたのは、中尉・大尉の肩章と”予科練記念館竣工記念” のメダルだけでした。池田守氏は海軍兵学校69期で宮城 角田中卒です。 |
軍艦旗には使用した艦名は通常は書かれないと云われ、 戦艦”長門”の軍艦旗と云われる物も横須賀の”三笠”に 保存されていて現在は仕舞われておりますが、此れも「… と云われている旗だそうです」。この旗にも艦名は有りませ んが、書き込みとスタンプが有ります。収納箱は、軍艦色 のベークライト製トランク型: 幅 25cm・長さ 39cm・厚み 10cm。 |
軍艦旗:朱色・白絹布 手縫製(染め抜きに非ず) 寸法 幅 123cm 長さ 200cm。軍艦旗に有る書き込み"軍三”は、”軍艦旗 三号”の 意味と考えられます。軍艦旗の大きさを表すのに「四幅 (ふく・はば )・三幅」と表し、昔の長さで布の幅を言います。「一幅は2尺2寸」・” 軍三”は「 三x2尺2寸(666mm)=1.998mm〜約200cm 」とピッタリ 合います。軍艦旗の最大は「四幅・266cm」」との事ですので、戦艦や 大型空母クラスが四幅の”軍四”だと考えられます。そうなると”軍三” の三幅は、重巡クラスの軍艦旗と考えられます。 |
この旗はどの様な軍艦に使用されていたかは、不明です。しかし旗の 主管は、通常、艦の航海科でしたので、池田大尉は、航海士であつた かも知れません。想像ですが、池田氏の最後に乗っていた艦が使用し ていた軍艦旗に相違ないと思います。軍艦旗は、海の塩風に吹かれ痛 みが早いと云われます。後世にこの様な姿で残って居るのは非常に珍 しいと思います。陸軍の連隊旗と同じように扱われたのでしょう。ネット に、沈み行く艦の軍艦旗を体に巻きつけた士官と艦長が艦と共に沈ん で行った実話が載っていました。 |
cf.十六条旭日旗 (軍旗・軍艦旗)に関しまして! |
大きな日の丸 |
上の軍艦旗と同じ生地の日の丸の国旗です。材質はウールで 日の丸は切り抜いてミシン縫いをしています。状態は未使用で す。保管時のシミや汚れが若干あります。上部にハトメと風の 無い時でも国籍を明示する為なのか、上部にアームを付けて 使ったようです。ホックも同位置に付いています。大きさは、 150cm×119cm、日の丸の部分で73cmと大きなものです。 |
こうしたハトメでの使用は軍艦などでは弱すぎて使えない為、 使用は陸上に限定され・・・恐らく海軍で軍用で使われたもので 無いと思われます。軍用で陸上施設で使用した場合も上の軍 艦旗と同じ作り軽いハトメなどは使用しません。 |
更に大きな日の丸 |
こちらは、上よりも更に大きな国旗です。艦首旗以外に 使いようが無い大きさです。しかし掲揚部分の作りを見 ると明らかに違うことが判ります。 |
航空兵の不時着等、救難信号旗 |
海上などに不時着時にこれを海面に拡げて救助を 待ちます。本品は抜かれていますが、本来は、日 の丸の国旗の周囲にカポック剤が入り浮くようにで きています。 |
下の画像を見るとお判りのようにカポック剤が入る 縫い代があります。別に竿が欠品ですが、カポック 剤は健全の救難信号旗を所持しています。 |
敗戦後に自刃した
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倉橋康夫君とある日章旗の寄書きです。出征兵士に贈ったもの でしょう。森住中将は、この寄書きをされた昭和20年4月1日の 5ヵ月後にあたる、9月2日に大阪の自宅で自決しております。こ の寄書きをされた時は、その時が迫る事を予想もしてなかった事 と思います。享年54歳でした。 |
森住 松雄 海軍中将 神奈川県出身 海軍機関学校 第22期 功五級 昭19年5月1日 任海軍中将 艦本造船造兵監督長(海軍省出仕) 大阪監理長 大阪監査長 昭20年5月10日 艦本造船造兵監督長(海軍省出仕) 近畿監理長 近畿監査長 昭20年8月10日 近畿軍需監督部長 昭20年9月 2日 午後7時、大阪の自宅にて自刃 |
もう一人、海軍大佐 香春克己と署名があります。この方は、 開戦の年に機雷敷設艦”厳島”の艦長をされていた方です。 海兵44期で福岡出身です。厳島は、 昭和4年12月26日に 完成、昭和17年12月に第三艦隊所属で大東亜戦争に参加、 昭和18年3月10日に第ニ南遣艦隊へ編入、昭和19年8月24 日に米軍機の攻撃を受け損傷、10月17日にジャワ海で曳航 中にオランダ潜水艦”ツバールドフィシュ”の雷撃により撃沈さ れました。り |
機雷敷設艦”厳島”【性能データ】 基準排水量:1.970トン 速力:17ノット 航続距離:5.000海里(15ノット) 武装:14cm砲 三門 8cm高角砲 二門 機雷 500個 乗員:230名 |
内山 海軍主計大佐の正衣袴一式 |
正衣・正袴・剣帯・は特性桐箱(蓋付)。 正肩章・正帽は鉄箱(黒塗り)。 |
跡部 海軍機関大佐の所持した
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絹製の旗が上下二種類です。上は、 機体で下は、発動機です。 |
が |
これ等より跡部大佐は、海軍航空本部にて様々な 面から機種を選定する立場の職種にあったものと 想像します。 |
跡部大佐の機関中佐時代のベルリンでの 写真です。直筆のサインがあります。 |
一緒に出た写真です。上は、大東亜戦争緒戦の 快進撃中でフィリッピン等の米軍基地等を爆撃し ている写真のようです。 |
海軍側と三菱側の技術担当者の記念写真のようです。 |
この眼鏡の機関大佐が跡部大佐のようです。 |
跡部大佐の使用された肩章です。 |
入手しませんでしたが、ヤフオクに出ていた 特殊鋼と軽合金の二枚の旗です。 |
海軍 防寒外套に防寒帽 |
虫食い等も無く美品です。 |
昭和十四年十二月、呉軍需部の貸与品 |
敗戦末期の品ですが、比較的良い出来だと思います。 |
こちらも虫食いや毛抜けも多くなく美品だと思います。 |
昭和二十年第二衣糧廠の貸与品です。 |
陸戦隊で使用された地雷(対車輌用の棒地雷) |
海陸戦隊が使用したタイプです。内部は空です。両側蓋は ビスも付いていて、良好です。これは米軍が作った良くある トレーニング用ではなく、オリジナルの地雷です。 大きさ:全長約91cm・幅約8.5cm。 |
内部に六個のの黄色火薬が入るようです。 |
うっすら日本語が残っているのが判ります。 |
零戦の20o機銃の空薬莢 |
今も語り継がれる栄光の零戦。その20o機銃の薬莢2発です。 |
某N氏の零戦の2号銃と20o空薬莢です。 |
海軍九九式20o(航空機関砲弾)機銃弾 右の黄色白線三本は、焼夷通常弾薬包改三 (ガソリンタンク着火用)です。左の赤色白線 三本は、曳光通常弾薬包改三(弾着修正・破 壊用)です。この弾が光ながら飛んでいく様は アイスキャンディーと言われました。またもう一 種類、徹甲弾があり、この三つの機銃弾が連 続して交互に発射されました。 |
上が九九式20o弾と下は、九九式2号4型ベルト給弾式20o機銃です。 |
こちらも20oの薬莢です。凹みがあり ますが弾帯の一部が残っています。 |
海軍 九九式二十粍(20o)機銃弾(一号) |
刻印が“日−2?−12−「一」”で 皇暦2602年(1942年)?、12月、 大日本兵器製の一號銃用との事 です。 |
弾頭は陸軍の“ホ五”を代用した 弾とのことです。 |
入手先のオーナーだった研究者の方の説明では、 豊川・横須賀製二十粍は、一号・二号共に巷にあ ふれていますが、大日本の二十粍一號は、まず見 かけず、生産数を考えてもこの薬莢だけでもかなり 貴重との話です。また、ホ五の綺麗な代用弾の弾 頭も徹甲弾、榴弾、マ弾に比べ大変珍しいものとの 事です。 |
海軍 三式 十三粍(13o)機銃の弾頭
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五二型乙になり機首部の7.7o機銃の右側を 三式13o機銃に換装しました。また五二型丙 では、7.7mmを廃止して左右両翼内に13mm 機銃を追加装備しました。これにより零戦は、 20o×2、13o×3とより強力な武装に発展 しました。弾身の底部の十字を確認できないの で何ともいえませんが普通弾の可能性も高い です。 |
画像は、78年に琵琶湖より引揚げられた零戦六三型 のものです。左が三式13o機銃で右がベル給弾式の 九九式ニ号四型20o機銃です。 |
海軍 七粍七(7.7mm)航空機銃用
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零戦の機首カウル内に搭載された九七式7.7o 航空機銃で使用されたタイプのものです。 |
本品は、薬莢に98の刻印がありますので九六式艦戦 時代の物だそうです。弾頭は、後家合わせのようです。 |
画像は、国立博物館の改造複座零戦二一型 です。機首部の九七式機銃が二丁はっきりと 銃身を突き出しているのが判ります。 |
海軍 七粍七(7.7mm)航空機銃用
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303ブリテッシュが含まれています。 |
海軍 一三式水上練習機のプロペラの残骸等 |
海軍は、操縦員養成の為、大正時代に国・アブロ社よりのアブロ練習機を輸入し 使用していました。一三式水上練習機は、このアブロ練習機の後継機として横須 賀海軍工廠で開発されました。製造ラインで主脚またはフロートを選択する事で 陸上・水上両方の練習機として使用できました。しかし陸上型は、少数しか製造さ れず、三式陸上練習機が登場するまでは依然としてアブロ陸上練習機が海軍の 主力練習機として使われました。しかし水上機については、一三式水上練習機が 主力練習機として活躍したようです。 |
一三式水上練習機(K1Y2):データ 全長 8.68m 全高 3.47m 全幅 10.21m 最大重量 1.065kg 最高速度 130km/hr 航続時間 3.0hr プロペラ 固定ピッチ2翅 発動機 "ベ式"130HP発動機水冷直列6気筒 乗員数 2名 武装 無し |
プロペラと一緒に出てきたという不明の木製ラダー です。28号 左後と記載あります。こちらの使用さ れた機種等は、不明です。 |
ある海軍特務士官(整備科)の水雷服とアルバム等 |
需品廠の海軍特務士官だった佐藤新吉という方の 使われていた水雷服です。本人が所持していた特 務中尉の旧型肩章から桜花章を取り外した肩章を 付けて撮影してみました。 |
肩章は、特務士官や予備士官の区別を廃止した昭和17年10月の 改正で特務士官の肩章から桜花章を外して、新しい肩章に使用し たものと思われます。肩章の箱には、武蔵○長(判読できません) 佐藤新吉殿とあります。武蔵の最後の出撃となるレイテ沖海戦の 前に転属となり、無事に戦後を迎えたようです。非常に幸運にも 恵まれた方のようだと思っておりましたが、資料をお持ちの方から BBSに投稿があり、サイパン陥落の2カ月前の昭和19年5月にサ イパンの南東方面航空廠附でサイパンで玉砕されたようです。 最終階級は戦死後特進して海軍少佐と思われます。(サイパンへ の赴任前、昭和19年1月11日に任海軍大尉 でした。) |
昭和十四年度の海軍漢口軍需品配給所の記念写真 アルバムです。水雷服の佐藤新吉中尉が所持してい た品です。アルバムから昭和14年から16年までは、 この配給所で整備主任をしていたのが判ります。 |
昭和14〜15年は、兵曹長の階級です。 |
昭和16年の写真から桜花章が加星されていますので 特務少尉に昇進した事が判ります。その後、上の階級 章から判るように戦艦”武蔵”の乗組みになったようで す。かなりの閑職からいきなり連合艦隊旗艦である最 新鋭の主力戦艦へ転属です。武蔵の竣工・就役(横須 賀鎮守府籍に編入)が昭和17年8月5日ですので、そ れ以降で昭和19年10月22日にレイテ沖海戦参加し、 10月24日にシブヤン海において撃沈されるますので、 ブルネイ出撃の時には転属で艦を降りています。従っ て17年8月〜19年6月15日のマリアナ沖海戦の後位 の間で乗艦勤務となり、転属したと考えられます。BBS への投稿から、第二号戦艦艤装員(1941/1942)から 補武蔵乗組(1942)から昭和18年1月4日、海軍中尉に 昇進。翌日より霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官で移動 されています。次に館山海軍航空隊分隊長 で移動。 昭和19年1月11日に任海軍大尉。同年5月5日に南東 方面航空廠附となります。この一カ月後にサイパン戦 が始まります。そして7月7日に玉砕。サイパン島陥落し この方の大正13年(1924年)以来、約20年に及ぶ海軍 軍人としての軍歴と人生を終えております。年齢は40歳 です。 |
ブルネイへ向けて出撃する戦艦”武蔵” |
佐藤中尉の軍帽です。 |
蛇腹に隠れてますが、正面左前部にのみ整備科の側線が残っています。 側線廃止以後に自分ではずされて、ここだけ残ったのだと思われます。 |
佐藤中尉の二種士官軍衣袴です。 |
この佐藤中尉の使用された襟章ではありませんが 制服からの取り外し品の実物・整備科兵曹長の襟 章です。下の片側だけの物は、識別色の退色がか なり進んでいますが、まだかろうじて緑が判ります。 整備は、中々、珍しい物だと思います。 |
◇ 佐藤新吉 海軍少佐(戦死後特進) ◇ (略 歴) 生(16.04.1904) 横須賀海兵団入(01.06.1924) 任海軍整備兵曹長(01.11.1936) 横須賀鎮守府附ヲ命ス (01.11.1936) 横須賀海兵団長ノ命ヲ承ケ服務スヘシ(01.11.1936) 初任准士官講習員ニ指定ス(01.11.1936) 初任准士官講習員終了(19.01.1937) 霞ヶ浦海軍航空隊附ヲ命ス (1937) 伊號第七潜水艦乗組ヲ命ス (1938) 横須賀鎮守府附ヲ命ス (25.10.1939) 横須賀軍需部附ヲ命ス (15.11.1939) 支那方面艦隊司令部附ヲ命ス (01.07.1940) 谷田部航空隊附ヲ命ス (15.01.1941) 任海軍整備特務少尉(15.10.1941) 補谷田部航空隊附兼教官(15.10.1941) 第二号戦艦艤装員(1941/1942) 補武蔵乗組(1942) 任海軍中尉 (01.04.1943) 補霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官(01.05.1943) 補館山海軍航空隊分隊長 (1943/1944) 任海軍大尉 (01.11.1944) 補南東方面航空廠附(05.05.1944) 1944.7.7 サイパン島玉砕(戦死) |
海兵70期 中島宣二海軍少佐の
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襟章も元付け。菱形編布は、衣袴共同一名の揃いです。 |
状態の良いきれいな品です。 |
この軍衣袴の所持者だった中島宣二海軍大尉は、機上で殉職し 海軍少佐に昇進しています。少佐は、東京開成中の出身で海兵 70期(昭和16年11月15日卒)、昭和15年3月15日に開隊し た海軍第一四一航空隊の特設飛行隊である偵察第三飛行隊の 分隊士をしていました。この隊は、偵察を主任務とする陸上偵察 隊でありましたが、マリアナ沖海戦の頃は、まだまだ訓練中であ り、実戦に参加可能な兵力は、東号作戦に参加させる程度にとど まるのが実情でした(彗星1機、九九艦爆2機が参加)。 |
中島少佐の海兵時代の生徒用軍衣です。襟章は、礼装用 ですが明らかな複製品が縫い付けられています。 |
片袖に2cm程度の糸の解き跡があります。元は、袖章を取外した候補生 の礼服だった可能性も捨てきれません。状態は、羅紗生地(厚手毛織物) の美品です。礼装用金モールの襟章は後付けで、前の持主が自衛隊関係 の展示会に貸し出した時に付けられて戻されたそうです。 |
こうした一括りの同一人物の品がバラバラにされて 売りに出されているのは、見ていても心が痛みます。 気がつくと時には、出来るだけ入手してバラバラにな らないように気に掛けますが…哀しい事です。 |
こちらも中島少佐が使われた海兵生徒の 夏肩章と少尉肩章(箱付)です。 |
後日、縁があって入手できました中島少佐 の生徒時代の軍帽です。 |
海軍の格闘技、練習用の道着 |
未使用のようです。柔道着より薄く空手着より厚い、中間の感じです。 |
海軍精神注入棒 |
体育会系や武道系の部活をされた方ならお判りでしょうが、 所謂、ケツバットです。帝國海軍に於いて恒常的に行われ ていた体罰”バッタ”で使われた棒であり、軍人精神注入棒 が最も一般的ですが、この他にも”荒鷲魂注入棒”や”大東 亜戦争完遂棒”などと様々な記載や呼び方をしましたが、も っとも典型的な樫の棒です。これはマジに痛いです。飛び上 がります!! サイズは、長さ104cm、直径5cm。重さは、1.2kgとずっしりと 重いです。時代が作った傷や汚れが往時を彷彿とさせます。 良くも悪くも帝國海軍の伝統を受け継いで来た軍人精神注入 棒です。 |
昭和十年二月二十二日、海軍協会記念の文鎮 |
海軍練炭所の記念盃(大正10年、海軍燃料廠に改名 されました現在の山口県周南市となります。この地は、 戦艦 大和 の出撃に際して最後に燃料補給の地とし ても有名です。) |
昭和十五年 海軍検定褒賞の楯。箱付で服部時計店のシールがあります。 |