旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
呉海兵団の教育参考館に掲載されていた木看板 |
非常に珍しい大きな物です。重さもかなりあります。 裏にかなり薄れていますが 昭和九年 海軍記念日を祝い彫刻をする。 その他の不明な記載と署名のほかに、意外とはっき りと読めるものに 外務大臣 松岡洋祐 の名前と署名があります。 |
奈良海軍航空隊(三重航空隊奈良分遣隊)
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昭和18年12月1日に前身となる三重航空隊奈良分遣隊 が奈良県山辺郡丹波希町の天理教宿舎を間借りして甲 飛13期後期生〜16期までの大量に採用された予科練生 の予科練教程の教育が開始されました。昭和20年3月1 日に奈良海軍航空隊として開隊され敗戦までの僅かな期 間を予科練教程練習航空隊として存在しました。。 |
三重空奈良分遣隊として存在していた時点で 既に大空への夢は絶たれ、水中及び水上特攻 要員として多くが川棚魚雷艇訓練所や第1特別 基地隊へ移動、操縦専修者の一部が三重空滋 賀分遣隊に転隊や滋賀空宝塚分遣隊へ転隊し ていきました。残留した者が初級グライダーの訓 練に励んでいたものの奈良海軍航空隊が開隊し た時点では、既に予科練教程は整理統合されて しまい殆どの練習生が各航空基地の整備作業要 員や特攻要員や特別陸戦隊員となって派遣され ていきました。昭和20年6月30日には、大阪警備 府の所属になりすぐに敗戦を迎えました。 |
この校章は、間借りして敗戦までの僅かな 期間を使用した天理教の施設の当時の関 係者の方などが取外し保存所持していたの では無いかと想像しています。60猶予年の 歳月を刻んだ紋章には、消えかかった桜花 の金色と予科練の文字が激動の時代を偲ば せます。 |
小澤 治三郎 海軍中将が贈った短刀の外装 |
贈 義烈 小澤治三郎 とあります。 |
海軍航空兵に司令官より下賜される短剣の外装のみですが 有名な最後の連合艦隊司令長官となった小沢治三郎 中将 海軍総隊(連合艦隊)司令長官の直筆楷書で資料製の高い ものと思われます。ハバキは木製となっています。 |
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/gunto_052.htm |
上のURLに 旧日本帝國陸海軍 軍刀 のサイトに紹介の 航空兵に贈られた自決用短剣が掲載されています。 |
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_082.htm |
こちらのサイト内にある小沢中将の所持した鞘書のある 短刀があります。筆跡が同じである事が判ります。 |
小沢海軍中将 |
今も海自鹿屋基地の資料館に残る特攻隊員 に贈られた短刀。様式などの違いは、各々あ りますが、飛行兵達は、これらの短刀を縛帯 の胸にしのばせて出撃しました。 |
横須賀海軍工廠徴用工の官給衣嚢(内筒のみ) |
横須賀海軍工廠で、徴用工の衣嚢です。衣嚢の 底に”昭和19年5月 徴用工3814 横須賀軍需部”の記名布が貼られています。 大きさは、22cm×27cm×80cm。 |
こちらも内筒だけとなります。こちら は、徴用工でなく機関科の補機兵 でしょうか。 |
海軍徳山燃料廠医務部長 兼共済病院長
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高取軍医中佐は、呉海軍病院の外科部長などを 歴任し敗戦直後は、地元である徳山市(現在は、 周南市)にあった徳山燃料廠医務部長、兼、共済 病院長に徳山大空襲の二日後に赴任しました。 戦後は、徳山中央病院の院長を勤め、開業医と なられております。地元ロータリー倶楽部の会長 や徳山医師会顧問、山口県医師会顧問などを歴 任された方でした。 |
高取軍医中佐は、敗戦後、復員し郷里で開業医 (高取整形外科)をされていたそうです。奥様は 今も健在で病院も後継者の方が継承しておるよ うです。 |
在りし日の徳山海軍燃料廠です。 |
↑ 上のバナーをクリックで後年に追加入手した 高取軍医中佐の品を掲載したページが開き ます。 |
海兵73期 関谷 卓三 海軍中尉の所持品 |
関谷中尉の二種軍衣袴です。 |
関谷中尉は、戦後も無事に復員されたようです。 |
関谷中尉の海兵時代の一種制服です。 |
通常の生徒襟章と礼装用襟章がありました。 |
以下の通り卒業後は、袖章を入れて少尉候補生の軍衣袴として使用されています。 |
海兵73期生は、昭和19年3月卒業となります。 |
昭和17年12月7日にルンガ沖にて
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少尉候補生の一種。大型襟章が付いています。 |
サージの生地ではなくラシャ地のものです。 |
このサスペンダーも辻冨雄海軍少佐
所持品です。
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辻 冨雄 海軍少佐(海兵69期) 本籍:大阪府岬町淡輪 大正9年7月30日生、大阪岸和田中学校卒 【軍歴】 海兵卒後 昭和16年12月1日:千代田乗組 昭和17年2月27日:日進乗組 昭和17年5月23日:千代田乗組 昭和17年12月7日:ルンガ沖にて 戦死(二階級特進) |
後日、別に入手した辻少佐の兵学校時代 の一種軍衣です。襟章もオリジナルのまま 残っています。 |
海軍機関学校案内(昭和15年5月) |
昭和15年5月、巻頭写真12貢案内17貢、附図3枚。 海軍機関学校受験志願者に向けた小冊子、目次の 貢が2枚重複した状態で誤って製本されており面白 いです。 |
海軍 第二十四特別根拠地隊 司令
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これは中々、珍しい代物です。陸戦隊の制服で 動きが制約されない肩章となっています。 |
日本軍装写真集にも初期陸戦士官服で出ております。 |
中佐、大佐の肩章の全てが白水大佐のものです。 |
白水 洋 海軍大佐(海兵48期)福岡出身 |
白水大佐は、第二十四特別根拠地隊の司令としてアンボン島 の警備の任務にありました。敗戦後に同島における濠軍捕虜 が多数死亡した責任を問われて宮崎副長とともに昭和21年2 月にBC級戦犯で死刑宣告を受ける。昭和22年9月25日、ラバ ウルにて銃殺刑に処せられました。以下が当時の蘭領印度 支那の海軍陸戦隊の配置です。 |
昭17年 4月10日 聯合艦隊 南西方面艦隊 第二南遣艦隊 第二十一特別根拠地隊 スラバヤ 第二十二特別根拠地隊 バリックパパン 第二十三特別根拠地隊 マカッサル 第二十四特別根拠地隊 アンボン |
cf.同タイプの肩章の佩用例の画像 |
海軍陸戦用脚絆と不明な品 |
海軍の陸専用のスパッツとゲートルです。以下の品 は、一緒に出てきました。未使用の品のようですが、 1215海軍の品と思われますが、用途等は不明です。 |
海軍 主砲の砲手のベルト |
陸軍の砲兵のように内臓を衝撃から守る為のベルトです。 これには、ありませんが同じ物を持っている方の物では、 砲の刻印まであります。 |
海軍 上級士官の公室にあった卓上電燈 |
現在も立派に点灯する電燈です。海軍の桜が デザインされています。 |
米国からの里帰りした
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1945年9月2日、米戦艦”ミズーリー”の艦上にて 連合国に対して降伏文書に調印しました。この時、 戦艦ミズーリの護衛任務及び日本海軍艦船の武装 解除任務の為、東京湾に寄港した米駆逐艦 アルヴァート M.ムーアの乗組員であったアラン ガード氏によって記念の戦利品として持ち出された 品との事です。 |
ありし日の戦艦長門 |
携帯電気信号器 安全電機工業株式会社 昭和7年12月製造とプレートに記載されて います。 |
米駆逐艦 アルヴァート M.ムーア |
こちらもムーア氏の放出品で当時、長門の備品 であった手旗です。紅旗のみ2点です。 |
海軍 携帯電話機三型 |
海軍備品整理番号”○砲・電話・3/601”、銘板には、 富士通信機製造株式会社・川崎とあり、携帯電話・ 三式・重量□□瓩、外箱地棒ヲ含ム・昭和□□年□月 □日・製造番号□□□と数字は、打ってありません。 |
「地棒(アース棒)」等の説明文・図面に有ることから、艦内用で 無く、陸上使用と考えられます。陸戦隊若しくは、地上基地等の 使用が考えられます。この携帯電話機の電源が発電機・蓄電池 ・乾電池の三種を内蔵し用途に応じて使い分ける機能を持つ電 話機です。陸軍では、このような電話機は、見たことが有りませ ん。最後の乾電池が装置されて”平角四号・乾電池・松下電池株 式会社・昭和20年2月”と記載されています。函に貼られた取扱 い説明書は、一部汚れていますが、ほぼ解読出来、残りは、前後 の意味から推測出来ます。受話器の受鉄板に小さな破損が有 ります。付属の発電機手動ハンドルは、欠品。大きさ幅120o・ 長さ270o・高さ200o。 |
別の海軍 携帯電話機三型 |
海軍の携帯電話三型です。正面に”赤崎隊(七)”の書き 込みがあります。アメリカ兵が戦地から持ち帰った物の里 帰り品です。ゴム引きの負い紐に切断・ひび割れ。受話器 のヒビ・部分的なに破損、ダイナモ手回しの取っ手部分の 一部欠など難点があります。銘板に携帯電話機三型、 昭和19年製、富士通信工業株式会社が読み取れます。 |
二五二空 通信科で使用された
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沖電気製の海軍仕様の携帯電話機ニ型です。銘板には、 昭和16年3月、○にト、錨マークが見られます。受話器に イ-179の文字が書かれています。もしかしたら二五二空 の前は、使いまわしの修理品で伊179潜水艦の備品だっ たのかもしれません。 |
飛行場のパイロット待機場や防空指揮所・ピスト 等々、整備中の戦闘機などの傍まで回線を引い て使用したものと思われます。 |
ニ型ですので海軍陸戦隊で良く使われた電話機です。 |
皮カバーがかなり硬く閉めこんでいる為、銘板を読むのに 一苦労しました。力を入れると壊しかねない為、少し拡げて 小さな手鏡を使い撮影しました。 |
cf. 海軍第二五二航空隊に関しまして!! ”二五二空”。海軍での200番代は、艦上戦闘機部隊です。銘板が 昭和16年なので広く考えると二五二空は、旧元山海軍航空隊を意 味します。御存知のように元山航空隊は、昭和15年11月15日に陸 攻・艦戦の混成部隊として朝鮮東岸の元山で開隊しました。当時の 定数は、陸攻の常用が27機、補用が7機、艦戦(九六式)が常用18 機、補用が6機で第二連合航空隊に所属していました。昭和16年1 月に十一航艦二二航戦に転じましたが、同年4月に支那方面艦隊に 編入され、月末に美幌空と共に漢口基地に進出。陸攻隊は、四川の 戦略爆撃に従事しました。その後、9月に原隊復帰し(この時、艦戦 部隊は任を解かれ陸攻隊のみとなりました)元山で訓練を重ねて、 10月末に高雄へ進出。12月には、サイゴンへ進出します。日米戦の 開戦後は、マレー沖海戦、シンガポール爆撃、蘭印航空戦と転戦し、 17年2月末にバンコックに移動、3〜4月に掛けてインド洋哨戒、アギ ャブ作戦に参加後、台湾を経てラバウルに進出しました(同年4月に 元山空は、再び艦戦隊(定数36機)が付され、台南空や三空などの 南方作戦からの帰還者を中心に搭乗員を編入し、5月に木更津基地 で練成を開始しました。)またラバウルに進出し珊瑚海海戦に参加し た陸攻隊は、7月1日に本土に転進し三沢基地で訓練に入りました。 また一方の元山空戦闘機部隊は、9月20日に館山基地で独立して 二五二空と改称し、同時に二二航戦に編入されました。司令は、柳村 義種海軍大佐で定数も60機となる大部隊になりました。10月30日、 二五二空は、空母”大鷹”にて木更津よりラバウルに向けて移送を開 始し、11月9日にラバウルに進出しています。翌18年2〜3月に内南洋 に転進するまで約5ヶ月に渡り熾烈な航空撃滅戦を南東方面で戦い抜 きました。この間の二五二空の活躍は、ラバウル、バラレ、ラエ、ムンダ の各基地を転戦しつつ、ソロモン・ニューギニア各地の進攻や防空戦に 健闘しました。部隊の撃墜数は、145機(不確実36機)です。この間に 戦死したる搭乗員16名。18年2月1日二五二空は、二〇一空と交代し、 内南洋防空へ転じます。3月に渡り逐次移動を開始し本部がルオット、 2個分隊をウェーク、1個分隊をタロアとナウル島に分遣しました。その 後、平和のうちに練成と哨戒に務めましたが、10月に入り米軍が中部 太平洋に進攻を開始、11月21日からの4日間の戦闘でタラワ・マキン 守備隊玉砕、この時、二五二空も該当地域で米軍と激しい戦闘を繰り 広げ消耗していきます。12月下旬から19年1月にかけて残存全機の約 30機をタロアに集結し、B24の迎撃戦を展開し約50機を撃墜したが、 二五二空は消耗を重ね、特に飛行場・基地施設の損害が著しく19年1 月30日の迎撃戦を最後に敵上陸に備え陸戦活動に終始していたが、 2月5日の夜間に飛行艇と陸攻8機が収容に来てウォッゼ、タロア、ブラ ウンに孤立した搭乗員120名を収容しトラックに避難させました。これで 二五二空の生存搭乗員は、本土に帰還しました。 このように一度壊滅した二五二空ですが、19年2月20日より館山基地 で練成を開始し同時に二七航戦(十二航艦)に編入されました(司令は 、前飛行長の舟木忠夫中佐。定数は、48機で4月1日以降は、空地分 離により戦闘三〇二飛行隊(隊長 粟信夫大尉)が付属しました。3月 末に二五二空は、訓練基地を館山から三沢基地に移し5月初頭の実働 機数は、零戦55機でありました。6月の『あ』号作戦が発動、15日に横 空を中心に八幡部隊が編成され二五二空もこれに編入され、21日に 零戦23機が、25日に零戦16機が硫黄島に其々進出。24日の硫黄島、 米軍来襲で二五二空は、全力を挙げて迎撃し敵19機を撃墜するも、 粟隊長以下10機が機を早くも失いました。続く7月3・4日の来襲での迎 撃戦では、敵13機を撃墜し我方も14機を失い硫黄島の航空戦は、日本 側の大きな敗北で終止符を打ちます。二五二空は、その後主力を館山 に後退し、一部が11月まで交代で硫黄島に残留しB24の迎撃にあたり ました。11月27日、戦闘317飛行隊(大村謙次中尉)の爆装零戦11機( 第一次御楯特別攻撃隊)が硫黄島よりサイパンへ攻撃が行なわれまし たが全機未帰還となりました。7月10日の改編により二五二空は、戦闘 302・315・316・317飛行隊の4飛行隊編制となりました(定数48機)。同 時に三航艦直属となっています。その後は捷号作戦で比島作戦に参戦。 その後もレイテ作戦で消耗し11月中にほぼ壊滅状態になっています。残 存兵も他隊に転出するか、再建の為、本土に帰還しました。昭和20年2月 頃、二五二空は、茂原に本部を置き戦闘304・308・311・313・316飛行隊 が茂原と館山基地に分散し練成を重ねて再建していました。2月16日の 米艦載機による初空襲で戦闘308・311の両飛行隊が房総半島上空で 迎撃戦を行い延べ45機でF6F30機と交戦、敵24機撃墜(不確実10機)の 戦果をあげるも我方も9機を失い、続く17日・25日の来襲でも二五二空は 、相当の被害を出して5個飛行隊(各定数48機)が保有機数39機(実働23 機)にまで低下しました。3月末に入ると米軍の沖縄進攻が切迫し二五二 空は、戦闘304・313・316飛行隊と3個攻撃(彗星艦爆隊)を合わせて零 戦144機、彗星48機の約半数を南九州の国分基地に派遣して六〇一空 の指揮下に入れました。4月3日、本田実大尉の指揮する神風特攻隊第 三次御楯隊第252部隊(戦闘304・313を含む)の爆装零戦の特攻機第一 陣2機が突入したのを皮切りに23日までに39人が散華されています。4月 16日の菊水3号作戦では、新たに進出した柳沢少佐が制空隊として、 二五二空の零戦12機を率いて南西諸島列島線上で掃空中、奄美大島沖 でF6Fの大編隊と遭遇、敵13機を撃墜するも我方も5機を失い、17日の 戦闘でも六〇一空と協同で10機が制空隊として出動しましたが、柳沢少佐 以下3機が未帰還機となっています。こうして4月1日〜17日までの間に 二五二空は、零戦15機、彗星5機を失って関東方面に引揚げました。その 後の二五二空は戦闘304飛行隊を郡山に、戦闘316飛行隊を茂原に配置し てB29やP51迎撃戦に当たりましたが、防空戦も消極的で本土決戦の為に 温存に務めたまま敗戦を迎えました。 |
昭和19年5月、三沢基地での二五二空の零戦 (左列が五二型、右列が二一型)。 |
出撃する二五二空の零戦五二型丙 |
軍艦(戦艦) 香取
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戦艦 香取は、イギリスのヴィッカース/バロー・イン・フアーネス 造船所で鹿島型の二番艦として建造され、1906年(明治39年) 5月20日竣工しています。英国に軍艦 香取の建造を発注した 時に、特注した士官用の銀食器の一連の物と思われます。流石 に世界一の海軍国・英国の軍艦用規格のティー・ポットです。分 厚い銀を使用した良いデザインです。東洋の新興帝國である 日本海軍の威信を掛けた明治期の贅沢な銀食器という感じです 。ポットの底には煤煙の煤が付着している所を見ると直火で使用 したものと思われます。 |
艦内用の英国製ティー・ポットですが、”旧海軍マークの
錨と桜”と”かとり”の刻印の他に ”三角旗・W&H・53444AI”、”PATENT・HANDLE”、 ”WALKEN&HALE・SHEFFIELD・ENGLAND”、
”WARRANTED・WARD&SILVER・SOLDERED・43・2” 以上の刻印有ります。
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下の画像の一番手前の戦艦が香取です。 |
戦艦 香取 の武装ですが、30cm砲連装2基:4門 25cm砲:4門、15cm砲:12門8cm砲(40口径砲) :14門、8cm砲(28口径砲):2門、45cm魚雷発射 管 5門であり、当時の英国のキング・エドワード型 米のニュー・ゼルシィなどと同等、若しくは、上を行 く最新鋭艦でした。 最大排水量:16,663t、全長:139.0m、全幅:23.8m 速力:18.5ノット |
伊号121潜水艦の測的員
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箱付の昭和15年海軍検定褒章に賞状等です。 |
日米戦開戦の一年一カ月前の賞状です。片山武雄一等兵曹、 イ号121潜水艦(旧21潜)の測的員です。この潜水艦は、戦後ま で生き残りましたので移動が無ければ片山兵曹も生き残り、兵曹 長から特務士官になったものと思います。この潜水艦は、機雷潜 型 一等潜水艦と言われ、第一次大戦で手に入れたドイツの機雷 敷設潜水艦をベースに開発された潜水艦です。この伊21級機雷 敷設潜水艦は、同型艦が四艦あります(伊21・22・23・24潜)。 (基本性能データ) 基準排水量: 1142t(水上:1383t、水中:1768t) 全長:85.2m 全幅:7.5m 喫水:4.42m 機関:2軸ディーゼル/電動機(水上 2400bhp、水中 1100shp) 速力:水上・14.5ノット(水中・7ノット) 兵装:53cm魚雷発射管 4門、14cm/40口径砲 1門、機雷42発 乗員:51〜 70名 昭和13年6月に艦名を百番加えた伊121潜は、開戦時に僚艦の 伊122潜と共に第13潜水隊として海南島三亜を出撃しシンガポ ール方面で機雷42個を敷設。比島作戦後は、ダバオに進出し昭 和17年1月には、ポートダーウィン沖で機雷39個を敷設し、輸送 船を一隻撃沈しています。8月からは、ソロモン方面で偵察や輸 送任務に従事する。昭和18年8月に呉鎮部隊に編入され、以降 は、練習潜水艦として使用され敗戦を迎えました。3隻の僚艦は 伊124潜は、開戦後まもなくオーストラリア北岸のダーウィンに 機雷敷設に赴いて返り討ちに遭い撃沈。伊123潜は、ガダルカ ナル島の輸送任務中に撃沈されました。敗戦直前になって 伊122潜が日本海で米潜の攻撃で撃沈され、残った艦は、この 伊121潜だけでした。昭和20年11月30日に除籍され、若狭湾で 昭和21年4月30日に海没処理されました。 |
一緒に箱にあった物ですが、御両親の戒名のようです。 |
上の左の画像は、潜水母艦に横付けして補給作業中の 伊121潜。右は、昭和3年3月9日に横須賀港沖で魚雷発 射訓練中の駆逐艦汐風と速力試験中の伊121潜が接触 事故を起こし艦首を損傷した画像です。下は、昭和2年3 月の竣工後の引渡し直後の画像です。艦尾甲板上に機 雷取り入れのハッチが見えます。 |
昭和21年4月30日に若狭湾で海没処理された伊121 であるが、画像は、昭和20年10月13日に舞鶴港にて 写された画像。一番奥の左側が121潜で手前は、 伊201潜です。 |
昭和2年7月24日、厳島の消印のある旧 伊号21潜水艦から出された葉書です。 |
戦艦『霧島』乗組の 西山 海軍中尉 所蔵資料 |
1枚、カーボン複写の軍艦"霧島"の陸戦隊編成表 が入っています。内容から上海陸戦隊編成メンバ ーと思われます。 |
主要なものは、昭和7―8年の砲術学校などの試験 問題が中心です。例えば、「扶桑、鳥海、吹雪の昼間 の最大射程を述べよ」等々。海大受験に備えた勉強 も兼ねていたようです。 |
ありし日の戦艦”霧島”の勇姿!…上が昭和 七年頃の画像下が開戦の頃の霧島です。 |
酒井田 海軍兵曹長の軍帽と賞状等 |
砲術科の叩上げの兵曹長の軍帽です。 |
大東亜戦争の開戦2ヶ月前に兵曹長に昇進しています。 敗戦を生き延びておられれば間違いなく特務士官に昇 進した事でありましょう。戦艦”日向”の14cm砲弾火薬庫 長をしていた時の賞状があります。昭和12年で第一艦隊 司令長官 永野修身の名前があります。日米戦開戦時の 軍令部総長の永野修身海軍大将です。下に遺影を掲載致 しますが、兵曹長のまま戦死されております。 |
上が昭和十三年の戦艦”日向”で、下が開戦時の日向です。 |
功六の金鵄勲章に支那事変従軍記章の勲記です。 |
酒井田 兵曹長の遺影 |
酒井田兵曹長宛のハガキ |
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三種陸戦軍衣袴が似合っています。 |
ありし日の酒井田兵曹長 |
中攻隊で戦死した
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上の酒井田兵曹長と加藤兵曹は、同じ町の 出身で親族の関係にあったようです。 |
加藤一飛曹の履歴簿です。 |
加藤一飛曹の同期の大田二飛曹が遺族 に宛てた手紙です。涙がこぼれます。 |
御本人または、御遺族が集めたスクラップ2冊です。 |
加藤一飛曹の入営の時の幟です。 |
盛大に故郷から送り出されています。 |
中々、二枚目の水兵姿です。大分海軍航空隊とあります。 |
戦死して骨壷の哀しみの帰還です。 |
加藤兵曹の遺影です。 |
元 空母 ”瑞鶴”乗組だった
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被服物品交付表です。昭和17年の大竹海兵団の入団 から敗戦までの異動の記録から交付された官給品の 被服等が計時列で一目で判ります。 |
海兵団を出て水兵時代は、空母 瑞鶴 乗組み。その後 は岩国航空隊、下士官に昇進して第一河和航空隊で 敗戦を迎えています。 |
昭和19年4月に岩国海軍航空隊付で襦袢を2枚、支給され ています。空母 瑞鶴は、昭和19年5月20日にマリアナ沖 海戦で小破し、10月25日に小沢中将隷下の囮部隊の旗艦 としてエンガノ岬沖海戦(レイテ沖海戦)で撃沈しています。 森島上整曹は、マリアナとレイテには、参加せず艦を降りて 内地勤務になったようです。17年8月に軍艦 瑞鶴 で一種 略帽を支給されていますので、17年5月のセイロン島沖海戦 、5月の珊瑚海海戦にも参加していません。森島氏が水兵時 代では、10月26日の南太平洋海戦が初陣だったと思われま す。この時、瑞鶴は、他の空母と共同で米空母 ホーネットを 撃沈しています。その後は、昭和18年2月にガ島撤退支援作 戦し、この年の後半は、トラックに停泊している事が殆どでし た。9月と10月に米機動部隊を求めて出撃していますが、会 敵かなわず帰島しています。 |
昭和19年1月に森島氏は、第一河和海軍航空隊に移動 しいています。この隊は昭和18年6月に整備員養成の為 、追浜海軍航空隊知多分遣隊が開隊。同年12月に河和 海軍航空隊と名称を変え同時に小松島海軍航空隊知多 分遣隊が開隊され水上機搭乗員の養成が開始されまし た。小松島海軍航空隊知多分遣隊は、後に第二河和 海軍航空隊。河和航空隊は、第一河和海軍航空隊になり ました。ここで森島兵曹は、敗戦を迎えています。 |
森島兵曹の手作りのアルバムです。表紙 には、敗戦の年の5月から7月まで出張で 過ごした山形が印象的だったのか鳥海山 が描かれています。 |
結構、達筆で右の絵は、昭和20年7月25日、 河和海軍航空隊にて、と記載されています。 |
海軍へ入隊前の写真です。右の2枚は、御兄弟 でしょうか。立襟の上等兵の方の襟には、独立 守備隊の襟章が付いています。二人で並んだ画 像の右の陸軍曹長さんが同一の方かは、はっき りしません。被服物品交付表から森島上整曹は、 志願でなく一般徴兵から下士官になった事がわ かります。 |
入隊間もない大竹海兵団の頃と思われます。 |
大竹海兵団での画像 |
アルバムから四等整備兵よりスタートしたことが わかります。画像真中が三等整備兵右端が二等 整備兵の臂章をつけているのがわかります。 |
17年10月の改変で臂章が変わっています。 真中が上等整備兵、右端は、整備兵長です。 |
右端の画像では、普通科特技章に 一線善行章をつけています。 |
左は、岩国海軍航空隊時代で二等整備兵曹 に昇進しています。右の兵曹長は、岩空伍長 室の松本整曹長です。 |
こちらの画像は、昭和20年、河和航空隊での画像で 階級も上等整備兵曹に昇進しています。右端の二人 は、20年5月〜7月まで山形に出張で一緒だった右か ら大平上整曹と和田一整曹と記載されています。 |
上下とも第一河和空時代の画像のようです。 |
右の画像は、複葉の水上機を後に撮影されて いますが、河和空が水上機操縦教育や整備 教育をしていた事を納得させられます。また因 みに零式水上観測機や水上偵察機,水上戦 闘機”強風”など約90機が配備され19年末よ り特攻訓練が開始され、20年5月には、第一 期生が神風特別攻撃隊として出撃しています。 |
河和(岡崎)海軍航空隊の搭乗員の写真額等 |
写真に古池上飛曹とあります。予科練出の方と 推察します。戦友会で作成した物か個人で当時 を偲び作成したものと思われます。 |
河和航空隊は、この写真の零観90機を擁して 19年5月より特攻訓練を開始しています。下の 写真を見ると19年初飛行とあり、赤トンボの 水練が水上を滑走しています。この時、まさしく 水上機搭乗員としてパイロットデビューを果たし たものと思われます。 |
下の画像は、まさしく当時の古池氏の若かり し海軍時代と思われます。上の写真は、明ら かに戦後、かなりの歳を召してから、装備類 を集めて(多分、複製品)写真撮影したものと 思われます。業者で戦友会関係でこうした撮 影をする者は、結構いますので…そうしたもの と思います。白黒にしても装備類がメチャメチ ャ新しいのが判る事と、下の若い頃の写真に 比して老けすぎています(苦笑)。 |
古池氏の生前の近い写真と思われます。写真に新潟県 十日町の因通寺の紙がありましたので、今は、そちらの 寺に眠られているものと推察します。こうしした品は、か なり思い入れで大切にされていたものと思いますので、 御本人が亡くなられないと出回らない物と思います。下 にあるように新聞等の切抜きがはさまれており、旧河和 航空隊関係の記事を集めています。少なくとも2000年 8月の時点では、御健在だったと思われます。昭和19 年の初飛行で予科練を考えますと…谷田部海軍航空隊 での訓練は、無く単に同じ海軍航空隊の甲飛の同時期 の揺籃の地を訪問したのか定かでは、ありません。この 時期、土浦空前期よりの甲飛12期が入隊して飛練39期 教程・操縦に入っています。また同じ甲飛12期143名 (三重空・西宮より)が入隊し飛練39期教程・操縦に入 っています。このほかにも美保空より甲飛13期110名が 入隊し飛練40期教程・操縦に入っていますので 敗戦で甲飛12期の方が概ね上飛曹でしたので古池氏は 、似た時期の河和海軍航空隊(第2)の一期生では無い かとと考えます。 |
戦死した森川 隆 機関兵曹長(一等機曹)の軍帽他 |
昭和17年改正前の旧型下士官軍帽です。 |
痛みの無い保存状態の良い軍帽です。 |
昭和17年1月に一等機関兵曹に昇進しています。 四月に上の新しい軍帽が支給されています。同年 5月26日の呉鎮守府合同海軍葬儀戦没者名簿に 森川一機曹の名前が載っていますので、4月〜5 月のごく短い間に戦死されたものと思われます。 |
遺族に渡された靖国神社臨時大祭記念の写真楯です。 |
陸軍省 海軍省となっています。箱に入れられ たまま63年間、未使用で保管されていたよう です。とても奇麗で最近の物のようです。 |
昭和17年5月26日の呉鎮守府合同海軍 葬儀戦没者名簿です。表紙に赤で36が 刻印されています。 |
森川一機曹の名前・階級・住所などが 記載されています。戦死して一階級 特進して兵曹長になったようです。 |
軍艦の艦長室の煙草入れ! |
珍品だと思います。こうした品は、余り残って いないものと思います。 |
艦長に上り詰め、一国一城の主となり煙草 入れからタバコを燻らすのは、格別だった事 でしょう。その地位にあった者しか経験の出 来ない事だった思います。そんな歴史の重 みを少し感じるようなタバコ入れです。 |
海軍(艦長用)の双眼鏡 |
皮ケースに艦長 島田○と記載してあり、 それを消した痕跡が残っています。 |
東京光学機械(株)の双眼鏡、海軍の ○砲マークのある典型的な双眼鏡。 |
海軍 軍楽兵が使用したハンガー!? |
古ぼけたマネキンタイプのハンガーです。 |
襟回りにある徽章のようなものがあります。 |
明らかに軍楽隊の徽章と同じものです。上の 白黒画像は、軍楽隊の楽器を下げる負皮とそ の下は、軍楽隊員の鞄です。マークが同じ事 から軍楽隊員が使用したハンガーのような気 がします。 |
昭和12年5月、ベルリンのウンター・デン・ リンデン通りを演奏行進する海軍軍楽隊 の勇姿!! |
海軍精神注入棒 |
体育会系や武道系の部活をされた方ならお判りでしょうが、 所謂、ケツバットです。帝國海軍に於いて恒常的に行われ ていた体罰”バッタ”で使われた棒であり、軍人精神注入棒 が最も一般的ですが、この他にも”荒鷲魂注入棒”や”大東 亜戦争完遂棒”などと様々な記載や呼び方をしましたが、も っとも典型的な樫の棒です。これはマジに痛いです。飛び上 がります!!サイズは、長さ104cm、直径5cm。重さは、1.2 kgとずっしりです。時代が作った傷や汚れが往時を彷彿とさ せます。良くも悪くも帝國海軍の伝統を受け継いで来た軍人 精神注入棒です。 |
昭和十年二月二十二日、海軍協会記念の文鎮 |
海軍練炭所の記念盃(大正10年、海軍燃料廠に 改名されました現在の山口県周南市となります。 この地は、戦艦 大和 の出撃に際して最後に燃 料補給の地としても有名です。) |
昭和十五年 海軍検定褒賞の楯。箱付で 服部時計店のシールがあります。 |