旧軍関連・戦前資料収載品 
   (軍装品...etc) Part Ub








Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








ある海軍航空隊員(空技廠)の所持品




以下の品は、予科練出身の航空隊員の水兵衣嚢に収められていた
品々です。以下の品の他にも縛帯などもございましたが手に入れる
事が出来ませんでした。航空隊員の名は、和田清氏であります。所
持品より空技廠所属のパイロットだったようです。昭和18年12月支
給の予科練一種の軍衣と写真がありますので甲飛のようです。中学
生の頃と思われる写真が数点あります。敗戦時の階級は、定かであ
りません。入手先の方の記載では、少尉となっておりましたが、写真
には、飛行服に軍刀姿などのものがありましたが、いずれも下士官
軍帽を被っております。甲飛は、中学4年卒業程度の学力ですので
乙飛に比べると昇進が早かったのですが…僅か1年程で少尉にまで
昇進するとは、早い気がします。実際には、飛曹長まで行かない気が
します。上飛曹程度のように思います。


この中に和田氏は、敗戦時に記念にした品を入れて
郷里に復員したものと思います(衣嚢の外筒のみ)。
上のとは、違う外嚢!
兵下士官は移動に際してこの衣嚢の中に一種(冬)
と二種(夏)の軍服、作業衣、下着、脚絆、軍靴、帽
子缶を入れ、転勤の際には毛布と紐でまとめて肩に
これを担いで新しい任地に移動します。
衣嚢の内嚢(和田氏のものでありません。
記名布が剥ぎ取られています。)
こちらも別の衣嚢の内嚢です。
こちらの衣嚢の内嚢も記名布が
はがされています。
下は、また別の衣嚢の外嚢です。昭和20年5月
の横須賀軍需部です。敗戦前の末期の物です。


和田氏の予科練一種衣

予科練入隊前の中学生時代の写真と思われます。和田氏は、左端。


まだ少年の幼さを残す顔の和田氏。同期生との写真と
思われます。


こちらは、空技廠時代の同僚達でしょうか。

空技廠の備品の双眼鏡です。No:1166が読み取れます。

cf.空技廠に関しまして!

正式な名称は、海軍 航空技術工廠、後に何度か再編され第一技術廠
となり最終的には、横空(横須賀海軍航空隊)審査部となりました。元々
、横空に隣接して開設された空技廠は昭和7年4月に航空機基礎技術(
材料等)を研究開発するものとしてスタートしました。後には戦争の継続
と戦況の悪化に伴い航空機の改造、改装に割く時間が大きくなりました
が研究は、継続されていたようです。敗戦までに航空機の設計・試作・
改造・審査・整備と新型兵器及び特攻機の研究開発など数多くの事案を
抱えて四苦八苦した模様です。

帝国海軍の九六式海軍艦上爆撃機用のゴムボートです。収納袋の中に
巾180cmの大きさのものが折り畳まれています。”応急用浮汪装置浮嚢
 九六式艦上爆撃機 右3920 錨 15・5・26 藤倉工業株式会社”の
スタンプがあります。尚、オールとふいご、マストと上に被せる網などは、
欠品です。入手先の記載では、、別梱包になっているとのお話でしたが
下記の図でもお判りのように救命筏は、開くと付属品が中央に来るように
仕掛けられておりました。これらは、単座機用では、無く…3〜6人用の
多座機のものです。

大戦末期の昭和20年4月から零戦に装備された
二型救命具です。軍艦旗をイメージして日本機で
ある事を示しています。このタイプは、炭酸ガス瓶
を装備しすぐに膨らませる事が出来たようです。重
量は、10kgもありますが浮力が大きく、発光器水
密袋、不時着時用糧食格納用収容嚢が付いていま
す。特攻が真っ盛りの時期に搭乗員保護のこうした
ものが装備される事の皮肉さを感じます。

九六式艦爆(D1A2)は、九四式艦爆の後継機として昭和11年に制式採用
された複葉機です。乗員2名で最高速度 約310km/h
航続距離 約930km 装備は、7.7mm機銃3丁、250kg爆弾×1(もしくは、
30kg爆弾×2)で約430機が生産されました。中国戦線では、急降下爆撃
機として活躍しました。日米戦が開始されても一部は、実戦部隊に配備され
たまま大戦初期まで活躍しました。

cf.単座機用の救命筏に関しまして!

以下の図の派手派手なゴムボートは、ニ型救命具(救命筏)と言われた
品です。零戦への装備は、昭和20年4月と敗戦間近の頃でした。全長は
、2.1mで重量は10kgと重いのですが浮力は、相当大きかったと言われて
います。発光器や水密袋、不時着用糧食格納用収納付きでした。
この二型は、膨張装置として鞴と炭酸ガスの両方を装備していました。
(三菱電機製)
上の図は、零戦52型丙の最末期の座席です。
背部に張り出すように救命筏が装備されてい
るのが判ります。
上記の操縦席の画像にあるとおり座席ベルトです。
試作戦闘機”陣風”のコクピットです。
操縦席にシートベルトがわかります。

あまり見かけないカポックですが
海軍の大型機用のものです。


cf.所謂、浮袋に関しまして!

ゴムボートの他にも救命用の浮袋が装備されていました。
普通に思い浮かぶ丸い浮袋でなく首に巻くようなU字タイプ
の浮袋を採用していました。

海軍のU字型浮袋です。真ん中にあるのは、嚢です。


以下は、別に入手しました海軍浮袋です。
出所は、大井海軍航空隊の品のようです。

未使用のきれいな完全品です。


浮輪の製造印は、藤倉航空工業(株)です。
嚢にも浮袋にも豊川海軍工廠の印と海軍
マークがあります。

エアーの注入口
浮輪の裏面


これは、補修用のゴム布(内袋修理用)です。



新品の機種不明の風防です。アクリル製の未使用品で同じ
ものが2枚です。”0883070.16 右”のプリントがありま
す。大きさは26.5cm×19cmです。海軍機である事は、
間違い無いでしょうが不明です。

以下は、有名な海軍空技廠で敗戦間際に試作され
飛行実験中のロケット戦闘機”秋水”です。



cf.もう一つの特異な特殊攻撃機 橘花

補助推進のロケットを噴射してテスト飛行に望む橘花








貴重な資料:ロケット戦闘機 秋水
             の保管燃料呂号大瓶





以前の所持者の伯父上が戦前、碍子に勤務しており記念に所持していた
物のようです。「秋水」を製造していたのは、静岡の三菱発動機でしたが
燃料の保存用の容器は、陶器製で日本硝子が作成に当たりました。こち
らにお勤めなされていたようです。秋水は、良く知られるように同盟国
ドイ
ツより伊号潜水艦によって入手されたメッサーシュミットMe163bコメートの
僅かな資料を元に、三菱重工名古屋工場で開発されました、我国初の
ロケット戦闘機『秋水』の燃料保存用の容器です。呂号大型瓶と呼ばれ、
甲液(80%濃度の過酸化水素水)、乙液(水化ヒドラジン)の2種が実践時
混合使用される事から、対激性・腐食性を考慮して日本碍子により常滑焼
中心にした陶器で作製されました。現在『秋水』は下の画像の通り三菱重
工によって復元され脇には呂号大型瓶(甲液用)が説明文と共に展示され
ております。残念ながら『秋水』は第1回テスト飛行に失敗し一機の実戦投
入もなく、この新鋭機開発は、敗戦を向え終了ました。甲液・乙液用セット
呂号大瓶は極めて貴重な物であり、現存するものが殆ど無いのでは、無い
かとおもいます。 

                   サイズ(2個とも) 高さ47cm×胴径26cm 

秋水に搭載された空技廠製の特呂2号ロケットエンジンです。


十九試局地戦闘機 秋水 :J8M(海軍)・キ-200(陸軍)


秋水の計画は、海軍がB29完成の情報を基に高高度から飛来し与圧室
や排気タービン過給器を持たない我国の防空戦闘機隊や高射砲が無効
となる事を予期しドイツのMe163bコメートやMe262と言ったロケット推進
、ジェット推進の戦闘機に目を向けた事から始まります。昭和18年 伊29
潜水艦は、巌谷真一海軍技術中佐を乗せドイツ(フランス)より、7月14日
にシンガポールへ寄港する。巌谷中佐は、シンガポールより空路で帰国
する。主にMe262の資料を中心に持ち、Me163bの資料の大半は、伊29
にあったそうです。伊29は、帰国の為、シンガポールを出港するが同年7
月26日、バシー海峡にて米潜水艦ソードフィッシュの雷撃に遭い撃沈され
ます。結局、Me163bの僅かな資料しかもたらす事が出来ませんでしたが
空技廠長 和田操中将の決定で秋水の計画は、発動となりました。陸海
軍が共同開発となり、機体は、海軍主体で三菱重工名古屋航空機製作所
が担当、エンジンは、陸軍が主体となり三菱重工名古屋発動機研究室が
担当しました。機体よりエンジンの開発に手間取り、陸軍に任せておけず
海軍がエンジンも手掛けて僅かな青図からほぼ不可能と言われた完成を
見ました。従って国産と言って間違いの無いロケット戦闘機と言えます。
昭和20年7月7日試験飛行で搭乗する312空(第一飛行隊分隊長)
犬塚豊彦大尉(海兵70期)。この後、発進し順調に高度を伸ばすと
思われたが高度500m前後でエンジンがストップし、何度か再始動
を行うが点火せず、諦めて燃料を捨てた大尉は、安全の為、もしも
の時は、海に着水しろと勧めてられていたが周回し飛行場への着
陸を行う。無事に着陸するかに見えたが基地内の木造の小屋の対
空哨戒櫓に翼を引っ掛けて着陸する。衝撃で大尉は、入院後に死
亡する。その後、計画は、凍結されました。…これが我国初の有人
ロケットによる初飛行となりました。エンジンストップの原因は、燃料
を半分に減らした為、急角度で上昇した秋水が鋭角になった時に
燃料が遮断された為と言われています。
当初、横空内の空技廠で初の実戦部隊として昭和19年に大村空
元山分遣隊で訓練中だった予備少尉16名が選ばれ横須賀航空隊
の分隊長 小野二郎少佐(海兵64期)元に集結し訓練が開始され
ました。昭和20年2月5日に横須賀海軍航空隊 312空として開隊さ
れます(司令 柴田武雄大佐)。この16名の第一飛行隊の分隊長
がテスト飛行で殉職する犬塚豊彦大尉(海兵70期)でありました。
我国が敗戦の間際に唯一、飛ばせた有人ロケットです。…秋水は、
B29邀撃の切り札とされましたが既に特攻機として準備計画され、
この為の要因として予科練生を集めて秋田に送り、土浦空秋田分遣
隊として800名、更に三重空特一部として1200名が訓練を重ねてい
ました。
      =秋水・データ=

全長: 5.95 m
全幅: 9.50 m
翼面積: 17.73 m2
上昇限度: 12,000 m
上昇能力: 10,000 m (所要時間3分)
航続時間: 約 4 分
武装: 30mm機関砲×2
乗員: 1 名

戦後、米国でテストされる秋水


                  ↑
上の矢印の画像をクリックすると秋水の実験飛行場であった
陸軍柏飛行場の遺構を紹介するページにジャンプします。







海兵64期卒業の藤本義幸氏の外套




藤本氏の軍歴など詳細は、不明です。戦死は、
されていないようです。64期ですので敗戦時は
、少佐か中佐だと思われます。調度、開戦時に
中尉または、大尉位かと思われます。


海兵生徒の肩章と少尉候補生時代の肩章です。








旧型 海軍予備少尉候補生 一種軍衣





大正8年6月の改正より昭和18年6月まで使用されたのが、この形の
予備士官一種軍衣です。袖章は、山形を成すのが正規将校との違い
です。この軍衣の頃は、襟章も肩章も桜花章でなくコンパス章となり
ます。袖線が画像の品のように細いのが予備少尉候補生・予備学生
となります。予備少尉に任官しますと線が太目の山形となります。また
この予備少尉候補生・予備学生の階級の下には、予備兵曹長があり
ます。この場合は、昭和5年までが少尉山形袖線の下に兵曹長の金
釦を三個配しました。昭和5年以降は、銀色のコンパス章を三個配し、
通常の兵曹長の桜花章三個と区別しました。これらの区別も昭和18年
の改正で呼称も変わり、正規の将校・准士官と変わらなくなりました。
同時に特務士官の階級の区分けや呼称も無くなりました。

cf.予備士官の旧型襟章
予備少尉になります。







海軍少尉候補生 軍衣





短ジャケットの候補生の軍衣です。襟章は、
合わせです。菱形編布が剥がされております。







日高 予備飛行兵曹長の所持品





海軍のマークのある帽子缶に入った日高予備飛行兵曹長の
所持品です。帽子缶の横に日高の文字が微かに読めます。


旧型予備士官の・准士官用のコンパス帽章をつけた軍帽と
夏用の軍帽覆が一点、ボロ切れとなったウェスは、絹です。
恐らく飛行マフラーの切れ端をウェス代わりに使ったものと
思われます。それにハンカチが一枚あります。
大型と小型の飛行科識別線のある兵曹長肩章
が一対ずつ。それに三連略綬です。
三種軍衣からの取り外しと思われる兵曹長襟階級章と、恐らく
南方で防暑帽からの取り外しと思われる帽章が一点です。予
備士官の品は、時々、お目にかかりますが予備准士官の品は
珍しいと思います。この方は、推測ですが多分、民間パイロット
をされていたと思います。

参考までに以下の画像は、日高兵曹長の所持品では、
ありませんが、飛行兵曹長の襟階級章です。



海軍 予備水兵・下士官のベルト




バックルがコンパスです!!







尾松 飛行兵曹長の軍帽






こちらは、予備准士官でなく、叩き上げの
現役准士官の尾松飛行兵曹長の軍帽です。








山崎 兵曹長の所持品





山崎兵曹長が使っていた判子入れとペンケース
です。印鑑は無く、事務用に買ったと思われる判
が2個あるだけです。







帝國海軍の上陸札




上陸札(末期の品)

敗戦近い、末期の特攻基地設営隊の方の上陸札と思
われます。

上陸札は、海軍独特のシステムで、その伝統は、今も
海自に引き継がれているそうです。
上陸札は、幅4cm、長さ10cmほどの小さな木の札です。

 表は、 ○舷 階級 名前 ○部などと記載されます。
     (分隊・班・等級・氏名)
     副長と先任伍長の印が押してあります。
 裏は、艦名や部隊名(焼印)、末期の物は、墨書き。

上陸の際は、この小さな木の札を当直将校に渡し上陸し
ます。帰艦の際は、舷門の机の上に並べてある上陸札を
各自が受取るので未帰艦者や門限破りが一発で判る仕
組みになっています。また上陸には、乗組員の半数が上
陸できる半舷上陸と、夕食から翌朝まで上陸する入湯上
陸とがあります。

上記画像の上陸札の場合、上等機関兵曹 花岡政治で
所属は、車庫ですので設営隊の設営車両などの担当だっ
たのでしょう。
末期のものでない上陸札の裏は
焼印となります。

楯部隊は、恐らく大分県臼杵市で「臼杵秘匿飛行基地」
と呼ばれた海軍の航空基地の建設が昭和20年の6月頃
より始まりました。この設営隊が楯部隊となります。近隣
の旧制中学の生徒や女学生などの動員学徒、それに勤
労奉仕で動員された市民が加わりました。その数500人
とされています。結局、秘匿特攻基地は、完成間近で敗
戦を迎え完成を見る事は、ありませんでした。


一線善行章と二線善行章、二等兵曹の臂章と
一緒に出た上陸札です。札の階級が上曹に書
き直されています。また善一に上から書き足し
て善二となっておりますので、最終の階級が
上等兵曹だったものと思われます。
軍艦では、夕食は午後5時30分からと決められています。
夕食後は、艦が軍港などに停泊している場合は、余程の
事が無い限り上陸が許されます。上陸には、入湯上陸、
半舷上陸、臨時上陸、ネズミ上陸などがあります。外泊が
出来る入湯上陸は、下士官・兵の場合は、階級と善行章
により上陸回数が異なります。一等兵曹で善行章四線な
ら3日に2回。それ以外の下士官で善行章二線以上の者
なら2日に1回、入湯上陸できます。善行章の無い下士官
や一等・二等兵の場合は、4日に1回。三等兵の場合は、
6日に1回しか外泊が認められません。従って、この上陸札
の木屋一曹は、二線善行章持ちなので2日に1回の入湯
上陸が認められていたと言う事になります。
半舷上陸は、土日・祝祭日に許可される上陸を言います。
土曜日は、昼食後から、日・祝・祭日は、儀式等が終った
後に上陸が許され、午後7時まで帰艦する事になっていま
した。艦の中で左舷の者が上陸した場合、右舷の者は、艦
に居残るシステムになっており、艦の半分ずつが上陸する
ので半舷上陸といわれました。因みに臨時上陸とは、艦が
長期の航海に出発する前や一ヶ月以上の海上勤務の後に
24時間以内の条件で許される上陸を言います。またネズミ
上陸は、俗称で正式名称でありませんが、艦内でネズミを
捕まえると、その褒美に貰える上陸を指します。


上海海軍陸戦隊の印のある上陸札です。




特殊潜航艇(蛟竜)の部隊である
第101嵐部隊の上陸札です。


軍艦 薩摩 の上陸札と入湯札です。
戦艦 薩摩は、国産初の戦艦であり日露海戦の
少し前に起工された古い軍艦です。これだけで
上のその他の札よりも古いものであるのが判り
ます。裏の軍艦薩摩の焼印に歴史の重みを感
じます。







珍しい海軍監獄(海軍刑務所) 看守の軍帽




珍しい海軍刑務所の看守の軍帽です。海軍監獄は、懲役禁固
または、拘留の執行を受ける海軍々人・軍属・海軍々籍にある
学生生徒、死刑の宣告を受けた者、刑事被告人を拘禁する場
所となっています。海軍監獄は、大正12年に海軍刑務所と名
称を変えました。占領地にも特設刑務所がありました。昭和20
年の改正までは、監獄官吏は、奏任官の海軍監獄長、判任官
の監獄書記と看守長、判任官待遇の看守で構成されておりま
したが、昭和20年の改正後は、海軍法務科の軍人となり武官
の階級名となりました。恐らくこの帽章は、大正3年制の帽章
と大きく違いますので、昭和20年の改正後から敗戦までのごく
短い間に使用された軍帽と想像します。
この軍帽は、海軍監獄長または、看守長など
高等官(奏任官以上)・判任官一等以上の方
のものとなります。



別の海軍監獄看守の帽章や襟章等




こちらもかなりレアな海軍監獄看守の前帽章
です。上の監獄看守の前章が判任官一等以
上・高等官(奏任官以上)の准士官・士官待
遇の軍帽であるの対してこの前帽章は、班任
官二等以下即ち下士官待遇の方の帽章とな
ります。以下にある海軍文官の帽章及び襟章
は、昭和17年1月の改正以降使用された軍属
前帽章と判任官二等(曹長待遇)の襟章とな
ります。

この所持者だった監獄看守の方は、元々は陸軍曹長
だった方でした。軍縮により陸軍を辞めざるおう得ず、
次に就職したのが海軍監獄の看守の仕事だったとよ
うです。丁度、准士官待遇手前の判任官二等です。


こちらも監獄看守の前帽章です。こちらも
高等官や判任官一等以上のものです。
こちらも上のとは、違う監獄看守の
前帽章です。 高等官や判任官一
等以上のものです。







海軍水兵の襟飾り






非常に程度の良い水兵服の襟飾りです。







航空参謀 森 海軍中佐の所持品




森中佐の一種参謀軍衣、及び、参謀飾緒です。
森中佐の参謀飾緒と略式参謀飾緒
士官用の白手袋

航空隊のパイロット出身だったのでしょう。下は、
海軍マークのある縛帯の離脱器の金具二枚です
。上の手袋は、珍しい事に海軍の空挺部隊用の
手袋です。今も昔も偉い人は、それなりに流用して
いたものと想像します。貴重な実物です。

森中佐の通例用の胴衣と一種軍袴です。
森中佐が所持していたハンモック用の蚊帳です。
横須賀軍需部、貸興品、19年11月、吊床とありま
す。タグにはスプールボビンネット蚊帳、
山甚産業株式會社、大阪工塲納とあり、未使用だ
ったのかとても状態が良い品です。
こちらも所持品の巻脚袢(ゲートル)です。

森中佐に関しましては、苗字と階級しか判りません。
所持品の蚊帳から判断すると昭和19年までは、少
なくとも存命であった事が判ります。昭和20年8月の
敗戦までの間になくなられている可能性もありますが
、該当する海兵卒業生を拾ってみました。

・森 実 大佐   千葉中出身   
        サイパン島(南東方面艦隊参謀)戦死  海兵51期

・森 虎雄     都城中出身  
        広島原爆(佐鎮)戦死            海兵52期

・森 干代次 少佐 岐阜中出身
        中国成都(13空分隊長) 戦死        海兵 56期

・森 卓次     佐賀小城中出身            海兵56期

・森 冨士雄    府立四中出身              海兵56期

・森 幸吉     仙台一中出身              海兵57期

・森 新一     今治中出身               海兵59期

・森 栄       佐賀中出身               海兵63期

生存者・戦死者で8名の森姓の海軍兵学校卒業生を
候補としました。63期、59期に中佐以上の階級の森
姓は、ございません。57期の森幸吉中佐が該当しま
すが、森幸吉中佐は、駆逐艦”菊月”艦長を勤めてお
り水雷畑ですので消えます。また56期の森卓次氏も
、駆逐艦”秋風”の艦長をされており除外されます。
尚、52期の森虎雄氏は、第三艦隊(三川軍一中将)
の参謀を勤められていた方で原爆で亡くなれており
ます。航空畑で無いので除外いたしました。そうする
と戦死された南東方面艦隊の森 実大佐が残ります
。南東方面艦隊は、第八艦隊と第11航空艦隊を隷
下に持ち、昭和19年6月19日にマリアナ沖海戦を行
います。森大佐(戦死後昇進)は、この海戦に参加さ
れて戦死されたか、7月6日のサイパン玉砕の総攻撃
で中部太平洋方面艦隊司令長官の南雲中将と最期
を共にされたかのどちらかと思われます。詳細な記録
がありませんので他に何とも言えませんが、サイパン
で戦死とだけありましたので、マリアナ沖海戦に航空
参謀が搭乗員として参加するとは、思えないのでサ
イパン基地に居る時に空襲を受けて戦死されたか、
玉砕されたと考えるのが妥当かと思います。







珍品 小島 海軍少将の駐独武官時代の一種軍衣






参謀軍衣となっています。袖線はうまく出来ていますが
蛇腹線は縦線が目立つ変わった作りになっています。
この軍衣は、小島少将が、昭11(1936). 2. 1〜昭13(1938). 6. 1
の間、
駐独大使館附武官(艦本造船造兵監督官 兼 航本造兵監
督官 兼 駐蘭公使館附武官)として赴任中、
昭12(1937).12. 1に
中佐より海軍大佐に昇進した時にベルリンのテーラーに誂て貰っ
た一種軍衣です。テーラータグにベルリンの店の名があります。非
常に珍しいものと思います。小島少将は、帰朝後、主に軍令部畑
を歩みますが、途中、
練習巡洋艦”香椎”艦長などを務め再び、
18(1943). 9. 1から駐独大使館附武官(
駐フィンランド公使館附
武官 兼 艦本造船造兵監督長)となります。更に
昭19(1944). 6.
7より駐仏大使館附武官も兼任し敗戦を迎えます。昭和20年
12.6
に予備役・充員召集で第二復員省出仕となり、昭和21年3.25充
員召集解除となっております。兵庫県出身で海兵44期、海大28期
昭和57年3月22日に享年85歳で永眠されております。尚、小島少
将は、開戦時は、馬来部隊(南遣艦隊司令長官・小澤治三郎中将
)の隷下で第2護衛隊(指揮官・香椎艦長、小島秀雄大佐) 軽巡「
香椎」、海防艦「占守」でマレー沖海戦に参戦していました。







海軍士官用カップ&ソーサー





金を実際に使用した大正期〜昭和初期
の物で状態は、極美。深川製磁製です。







海軍士官用のナイフとスプーン、フォーク




海軍士官用の三点セットです。
明治屋の刻印があります。


こちらも海軍の士官用のナイフとスプーン
です。明治屋の銘があります。







海軍士官用 西洋皿




士官用に使用されたメインディッシュ用の
西洋皿の使用品。東洋陶器社製。



海軍士官用 茶碗












海軍 兵・下士官用ホーロー食器




ホーロー製食器大きな方から、
飯碗、汁碗、茶碗、皿です。







海軍 遺品納入箱





私もてっきり弁当箱と勘違いしておりましたが
大東亜戦争以前に使用されていた海軍の
英霊の為の遺品納入箱で、このアルミニウム
製の箱に遺品(私物)をつめて遺族に渡しま
す。遺族は、大体が遺骨と共に埋葬するらし
く、この為、余り多く存在しないそうです。某
複製品の商店の本に弁当箱と記載された為
、広くそう思われたそうです。…面白い話で
すね。







海軍の弁当箱




一般に海軍で使われた弁当箱です。大きさ
が判るようにボールペンを置きました。これで
も深さがあるので、かなりのドカ弁です。しか
し上の海軍省と入った遺品納入箱は、この弁
当の2倍以上あります。どう考えても弁当箱と
するなら数人前用ですね!しかし弁当箱に普
通は、どう考えても陸軍省や海軍省と入れる
筈も有り得ません。冷静に考えるとわかるもの
ですが、今でもヤフオクなどでは弁当箱として
遺品納入箱を出品しているのを良く見かけま
す。









海軍工廠の各種弁当箱




横須賀海軍工廠の弁当箱




呉海軍工廠の弁当箱




こちらも呉海軍工廠の弁当箱


呉購買酒保の弁当箱



舞鶴購買所の弁当箱です。








海軍燃料廠の弁当箱二つ




第二海軍燃料廠のアルミ弁当箱です。



上とは、別の第二海軍燃料廠のアルミ弁当箱







海軍薬缶(アルミニーウム製)




海軍の桜と錨マーク、”五四調”の書込みが有ります。
     (大きさ:径18.7cm ・ 全高さ28.5cm)







敗戦時に舞鶴鎮守府参謀副長
 兼第1護衛艦隊参謀副長を勤められた
     後藤 光太郎 海軍少将の所持品等




後藤少将の所持品です。黒革脚絆、アルバムが三冊
士官短剣、紙筒入りの勲記(旭三等、瑞四等、瑞五等
)と章記(昭和6〜9年事変)、それに以下の9連略綬
や階級章などです。アルバムは、個人的なアルバム
で中学生より海兵、候補生時代、若い士官時代、奥様
とお子様を中心に家族の写真や戦後の写真など非常
に興味深いものとなっております。
後藤少将の大佐時代の写真です。
九連略綬板には、三段三連で旭、瑞、昭和大礼、シベリア、
満州事変、支那事変、2600年、満州建国、日赤が付いて
います。隣が少将小型襟章(大佐を改修して作製)していま
す。少将大型肩章と少将小型肩章が一対ずつあります。
上下の大型、小型肩章共に小型襟章も装でしたが大佐
階級章を改修して作製しており、金線2本で太い将官金
線にしています。閣下は、もしかして相当の倹約家だっ
たのかもしれません(苦笑)。

黒革脚絆の内側にある後藤の名の書込み。
後藤少将の使用されていた短剣です。


三笠砲鋼製 剣身に”皇国興廃在此一戦”の文字入り。
外装は鮫鞘)。切断前の画像です。前のオーナーより
譲り受ける際、切断されて送られてきています。











         ◆ 後藤 光太郎 海軍少将 ◆


 愛知県出身 
 海兵46期(ハンモックナンバー27) 
 海大28期

             ≪ 略 歴 ≫

S15.5.1   第5戦隊先任参謀
S15.11.1  任海軍大佐
S16.8.28  軍艦天龍艦長
S17.6.15  呉鎮守府先任参謀
S18.2.15  南西方面艦隊先任参謀
S18.9.20  南西方面艦隊先任参謀兼第13航空艦隊参謀
S18.11.15 海上護衛艦隊先任参謀
S20.4.1   第1護衛艦隊参謀長
S20.4.1   第1護衛艦隊参謀長兼第7艦隊参謀長
S20.5.1   任海軍少将
S20.7.10  舞鶴鎮守府参謀副長兼第1護衛艦隊参謀副長
 敗戦
S20.8.25  舞鶴鎮守府参謀副長
S20.9.25  横須賀海兵団長
S20.11.30 予備役 充員召集
S20.12.1   横須賀地方復員局総務部長
S21.3.10  横須賀地方復員局総務部長兼人事部長
S21.5.1   横須賀地方復員局人事部長
S21.6.14  充員召集解除
S21.6.15  復員事務官兼横須賀地方復員局人事部長
S22.3.31  依願免職

S51.7.24  歿 (享年79歳)



後藤閣下は、写真の趣味がおありのようでたくさんの写真を
残されています。一部、抜粋して紹介致します。下の文字は
直筆になります。

海兵入る前の中学生時代の写真
海軍兵学校の生徒時代
少尉候補生時代の遠洋航海での写真







閣下の大尉時代です。


新婚の頃でしょう。奥様にマントと軍帽を被らせて写真を撮ら
れております。御家族の写真が一杯あります。きっと子煩悩で
愛妻家であったと想像致します。



一人目のお子様が誕生されています。
御家族の人数が増えております。

戦後の閣下です。一緒に居られるのは
お孫さんでしょう。


後藤少将の戦後の恩給関係等の資料



戦後も勤務を続け依願免職した横須賀地方復員局
からの封筒です。閣下の後任の人事部長からでしょ
うか。…物資不足の世相を反映するかのように印刷
物を裏返しにして封筒に仕立てています。

鎌倉、東京、横浜と移転されております。最後は、上の写真に
ありますように公団住宅にお住まいになられたようです。


捺印されていますが中身の
記載の無い履歴書です。








閣下の奥様がお孫様の為にされていた郵便貯金のようです。


内閣総理大臣官房監査課長より後藤少将に宛てられた
内閣総理大臣名の戦犯指定解除の通知です。







青木 小三郎 海軍造兵大佐の一種軍衣袴など




珍しい造兵大佐の一種軍衣袴です。略綬はイメージ
で手持ちのものを合わせてみただけです。
青木小三郎氏は、海軍技術大佐で退官されるましたが、
最終職は、海軍光学実験部長でした。青木大佐は、戦艦
”大和”の十五m測距儀の設計・製造監督をされた事でも
有名な方です。戦後は、海軍造兵少将だった山田幸五郎
氏と共に八洲光学工業株式会社という戦後すぐに倒産し
た顕微鏡会社に勤務されていたようです。
因みに海軍光学実験部とは、主に光学兵器やその材料の実験、
光学の応用や偽装の実験を行い、横須賀海軍工廠の扱いの中
に存在しました。敗戦時は、逗子の地下工場に疎開して存在して
いたようです。そこでの正式名称は、海軍工廠光学実験部地下
工場といったそうです。









松山 寛滋 海軍技術少将の大佐時代の肩章




造船少監のスタンプのある箱入りで造兵大佐
の大型肩章です。持ち主の記名があります。

 ◆ 松山 寛滋 海軍技術少将 ◆

        (略 歴)

  福岡県出身

昭和13年:航空技術廠兵器部員

昭和16年:同支廠爆弾部員

昭和18年4月:同製鋼部長

昭和19年:少将、技術院参技官









珍品・某海軍中将の官給品一種軍衣??





実際には、某中将が中将へ昇進時に
第二衣糧廠でお祝いの品として作成し
贈った品と聞いております。







海軍 ハンモック(未使用)




潜水学校の隠匿物資の中から出た品で未使用の美品です。
海軍ハンモックの縛着紐







海軍 軍用毛布








海軍 各種チェストケース覆(カバー)







以下は、上のとは違い
別の2枚が一枚に繋が
った覆です。



こちらも別のチェストケース覆

上下別々の舞鶴軍需部のチェストケース覆
共に記名布無しです。


呉軍需部のチェストケースカバーです。







海軍 下士官用脚絆







上と同じ下士官兵麻製脚絆ですが白だった
物を草色に染め直したものです。
こはぜが4個欠落していますが状態は、並です。







珍しい海軍兵用の雨外被





陸軍の外被と同じ地質を使って造られています。
釦は隠し釦になっており、外被には大きな片布が
付いてます。頭巾には菱形の片布が付いてます。
昭和20年製ですので、本土決戦用に作られたの
かもしれません。







山澄忠三郎 海軍大佐の海軍兵学校の卒業証書




山澄大佐は、敗戦の時…マッカーサーの厚木到着前の先遣隊で
C.B.ジョーンズ海軍大佐、チャールズ・P.テンチ大佐が8月28日
に厚木へ降り立ちました。彼等を出迎えたのが、第三航空艦隊
参謀長だった山澄大佐達でした。この山澄忠三郎大佐が委員長
となって厚木基地の進駐受け入れ準備を始めました。厚木基地は
、戸塚横須賀鎮守府司令長官が第一連合特別陸戦隊で討伐する
というのを、寺岡第三航空艦隊司令長官が親しく頼んで延期しても
らい、みずから赴いて小園司令の説得にあたり二十日から三日間
厚木基地に泊まり込んで「今後命令にそむこうと思うならばまず私
の首を刎ねてから行動せよ」と訓示したが、小園司令は、20日の一
晩中、軍刀を抜いて暴れ回りました。8月21日、小園司令を野比海
軍病院に入院させたが、その晩も隊内で機銃、小銃、拳銃を乱射す
るものあり、ピアノを弾くもの送別会をやるものがあり、隊内は騒然と
していたとようです。寺岡長官は、「滅び行く最後の軍隊の無秩序を
遺憾無く暴露し悲しさ限りなし」と日記に記しています。


            ◆ 山澄 忠三郎 海軍大佐 ◆


                   (略 歴)

 東京出身、海兵48期

 北東方面艦隊参謀

 軽巡”鹿島”艦長:昭和18年12月9日〜昭和19年5月15日

 重巡”青葉”艦長:昭和19年6月4日〜昭和19年12月24日

 第三航空艦隊参謀長:昭和19年12月25日〜昭和20年10月15日解隊




山澄忠三郎 海軍大佐 佩用の略綬等、その他の資料




外国勲章の略綬が3つもついています。一見して将官の物と思い
ましたが、山澄大佐の品でした。大佐は、開戦の年の昭和十六年
十月十五日に海軍大佐に昇進しています。昭和20年の敗戦で海
軍の解体が無ければ間違いなく少将に昇進し提督の道を歩まれ
たものと想像します。

山澄大佐の尉官時代等の紙物の資料です。
以下は、御皇室関係主催の会などの招待状です。
古き良き時代の名残の品といえます。
昭和五年、軍艦”赤城”、特別大演習観艦式後の招待状

昭和五年、日本海海戦25周年記念、海と空の博覧會後
伏見宮博恭王殿下主催の午餐への招待状

昭和三年、軍艦”長門”への招待状

昭和七年、久邇宮朝融王殿下主催の晩餐会への招待状

昭和八年、軍艦”加賀”、特別大演習観艦式後の招待状

昭和九年、伏見宮博恭王同妃両殿下主催の園遊会への案内状

昭和十一年、軍艦”鳥海”、特別大演習観艦式後の招待状



山澄大佐の一種参謀軍衣とマント




縁があって入手しました。一連の山澄大佐の所持
されていた一種参謀軍衣とマントです。
合着サージ製ですが虫食いなどが多数あり、またかなり
着込んでおり、当時のあて布やミシン補修があります。
惜しい事に保存状態がかなり悪く痛みが出ています。
略綬・勲章ループが胸に残っています。

御覧のように参謀衣になっています。”山澄”ネーム
に東京・山城屋のテーラータグがあります。

士官マントの方は、上質ラシャ製です。所謂、短マントですが
佐官襟章跡(穴2つ)が確認できます。ネームは、無く。前釦
は、二個欠で襟ホックも残存していますが壊れています。また
虫食い穴が数カ所ありますが、一種参謀衣に比較すると全体
に状態は良好な方と言えます。







ありし日の帝國海軍集合写真





軍令部総長の元師海軍大将大勲位功四級伏見宮博恭王殿下
を中心に撮影された集合写真です。伏見宮博恭王殿下の御宿
舎であった智恩院内得浄明院で撮影されたと思われます。
列席の中に後の連合艦隊司令長官となる古賀元帥や
豊田大将の少将の頃、真珠湾で第一航空艦隊を指揮
した南雲中将の大佐時代が写っています。三人とも参
謀飾緒を付けて軍令部勤務のようです。



伏見宮博恭殿下より御下賜された煙草入れ




海軍軍令部総長であった伏見宮博恭殿下は、海軍
協会総裁も兼務、同協会に出向していた方が昭和
17年に拝受した黒漆塗りの煙草入れです。御紋は
ありませんが、”賜”と金字で蓋に書いてあります。
タバコ入れの大きさは、縦約10cm、横約13cm、
高さ4.3cm、重さ約100g。共箱は、紙製で玉屋
(福岡)のラベルが蓋裏側に貼ってあります。

大事に保管されていた為、今も新品のようです。







海軍精神注入棒

体育会系や武道系の部活をされた方ならお判りでしょうが、
所謂、ケツバットです。帝國海軍に於いて恒常的に行われ
ていた体罰”バッタ”で使われた棒であり、軍人精神注入棒
が最も一般的ですが、この他にも”荒鷲魂注入棒”や”大東
亜戦争完遂棒”などと様々な記載や呼び方をしましたが、も
っとも典型的な樫の棒です。これはマジに痛いです。飛び
上がります!!サイズは、長さ104cm、直径5cm。重さは、
1.2kgとずっしりです。時代が作った傷や汚れが往時を彷彿
とさせます。良くも悪くも帝國海軍の伝統を受け継いで来た
軍人精神注入棒です。