-


鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



旧軍の遺構や資料館など・・・関東編

(1ページ目)


(首都圏を中心とした関東に
        点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。







〜筑波海軍航空隊の遺構〜




航空隊の司令部庁舎です。現在は精神科病院である
県立友部病院が使用しております。この貴重な建物も
また現在、老朽化を理由に取り壊しの準備が進み平成
23年には新しい建物に建て替えられます。旧海軍時
代の希少な建築物がこれだけしっかりと残っているの
は珍しく・・・是非、重要文化財に指定して後世まで残
してもらいたいものです。
ふざけた事にこの病院は、旧海軍の筑波航空隊の跡にこれだけの
建物等を使用しながら、その歴史を封印し病院のHPからも一切沿
革の中でも触れていません。県立病院だから茨城県の方針なのか
病院独自の采配に任せているのかは知りませんが、愚かで許せな
い行為に思います。病院の内外は勿論の一切、碑もなければ説明
の木札や掲示板すらありません。多分、運営している病院自体が
愚かな馬鹿サヨなのか茨城県の体質がサヨなのかもしれませんが
本当に困ったものだと痛感します。

上は旧海軍時代の司令部庁舎です。
下は現在の精神病院の建物です。
エントランスの上の丸く突き出したバルコニーの
部屋が筑波海軍航空隊の司令室でした。現在
は、ここの精神病院の院長室となっています。
内部に入りエントランスの奥には2階に登る
階段が配され如何にも旧軍時代の建物を連
想させる重厚な造りになっています。大理石
を惜しげもなく使った階段や床は病棟内でも
同じで贅を凝らしています。
今は白いフェンスで囲まれて工事を待つ状態ですが…これだけ
土地も施設も旧軍の物を使い恩恵を受けながらも、一切、そのこ
とに言及しない現在の病院運営をしている人達には、大いに疑問
を感じます。


旧海軍の運動場を望む号礼台です。今では白い工事用
フェンスで囲まれ運動場であったグランドが見れません。
丁度、司令部庁舎のまん前にあります。立派な号礼台で
かなり朽ち果ててきていますが、両側の階段には手すり
のあった跡もあります。後部には戦後のドアが填められて
いますが、物置代わりにも使われていたようです。


さすがに海軍で堅牢な石造りで高さも約2mあります。


               ↑
上のバーナーをクリックすると筑波海軍航空隊より
転じて福知山航空基地(石原飛行場)に進出し局
地戦闘機”紫電11型”を駆って本土防空戦を戦っ
た戦闘402飛行隊の中隊長・川本 力 海軍大尉(
海兵71期、40期飛)の日記(自啓録)とアルバムを
紹介したページに飛びます。



               筑波海軍航空隊の沿革・歴史

昭和9年8月15日に茨城県西茨城郡宍戸町の国立種羊場跡地に開かれた
霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊として始まります。当地では、すでに昭和3
年頃より陸軍が所沢陸軍飛行学校の離着陸演習場として使用しており、
海軍も昭和6年より使用を開始していました。昭和7年より、霞ヶ浦航空隊の
陸上練習機練習場とする為の準備に入り、昭和9年に完工しました。

昭和 9年 8月15日  霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊発足。

昭和 9年 9月 1 日  第26期操縦練習生が入隊。

昭和11年       予科練卒業生の初歩訓練開始。

昭和13年12月15日  独立し、筑波海軍航空隊発足。第十一連合航空隊
              に編入。 以後、予科練・操縦訓練生の初歩練習・
              中間練習に従事。

昭和19年 3月15日  練習機課程より実用機訓練課程に変更 。実用機
              課程は解散した大分海軍航空隊より機体・人員を
              継承。練習機課程は築城飛行場に転出し、二代
              築城海軍航空隊を新設。

昭和19年 4 月22日 大分より機体・人員が到着。実用機訓練に着手。

昭和19年11 月 5日 教官・教員からなる邀撃戦闘機隊を編成。

昭和20年 1 月 9日 東京にB-29 8機襲来。紫電5機で迎撃、戦果なし。

昭和20年 2 月15日  零戦補充。零戦24・紫電8体制確立。

昭和20年 2 月16日  関東に4波にわたり敵機動部隊艦載機襲来。零戦
              全力紫電半数で迎撃。9機撃墜・13機喪失。

昭和20年 2 月17日  前日に引き続き5波にわたり敵機動部隊艦載機
              襲来。

              零戦14機で迎撃。第2波以降は会敵せず、第1波
              で2機撃墜・1機喪失。

昭和20年 2 月20日  特別航空隊編成下令、鹿島海軍航空隊にて訓練
              開始。
昭和20年 2 月25日  関東に敵機動部隊艦載機襲来。零戦14機で迎撃。
              5機撃墜・8機喪失。稼働機は9機に減少。

昭和20年 3 月 1 日  第十航空艦隊新編。十一連空は隷下に入る。

昭和20年 3 月28日  神風特別攻撃隊「筑波隊」8隊編成。

昭和20年 3 月下旬  最後の訓練生(第42期飛行学生)の教育訓練完了。

昭和20年 3 月30日  「天一号作戦」に参加。制空隊12機、出水飛行場
              に進出。

昭和20年 4 月 5 日  5個筑波隊、鹿屋飛行場に進出。

昭和20年 4 月 6 日  「菊水一号作戦」発動、第一筑波隊突入。

昭和20年 4 月12日  「菊水二号作戦」発動、制空隊出撃、沖縄上空で
               空中戦。

昭和20年 4 月14日  第二筑波隊突入。

昭和20年 4 月16日  「菊水三号作戦」発動、制空隊出撃・第三筑波隊
              突入。

昭和20年 4 月20日  十一連空解散、第五航空艦隊に転籍。 2個筑波
              隊進出 (最後の第八筑波隊は26日進出)

昭和20年 4 月29日 「菊水四号作戦」発動、第四筑波隊突入。

昭和20年 5 月 5 日 菊水作戦従事部隊の紫電隊を筑波空に一元化。
              定数96に増強。

昭和20年 5 月11日 「菊水六号作戦」発動、第五筑波隊突入。

昭和20年 5 月14日 「菊水七号作戦」発動、制空隊出撃、第六筑波隊
              突入。

昭和20年 5 月29日 関東にB-29襲来、残存邀撃隊で迎撃、2機撃墜。

昭和20年 6 月10日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。

昭和20年 6 月22日 「菊水十号作戦」発動、第一神雷隊に第七・第八
              筑波隊参加。

昭和20年 6 月28日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。

昭和20年 7 月 8 日 関東にムスタング襲来、邀撃隊で迎撃。

     敗戦後      解隊

筑波隊は64名のうち55名が突入して壊滅した。本土決戦を前に、九州
方面にあった制空隊は峰山・美保・姫路などに分散配置され、一方の
筑波残留隊は香取にも展開して本土決戦に備えているうちに敗戦を迎
えた。友部飛行場の跡地は茨城県内の各飛行場に比べると比較的多
く残されており、県立友部病院の管理棟は司令部をそのまま転用して
いる。隊門やグラウンドもそのまま友部病院が活用しています。
                    『引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



正門(隊門)です。この正門も海軍時代のままを精神病院が使用しています。
隊門にそぐわない精神病院の石版・・・
やはり筑波海軍航空隊の看板が似合う
気がします。
友部飛行場は当初は赤トンボ(九三式中練)を
中心とした操縦訓練を行う霞ケ浦海軍航空隊の
分遣隊でしたが昭和13年に筑波空として独立し
昭和19年3月よりは実戦部隊として零戦が配備
され極めて短期間のうちに錬成訓練がなされま
した。昭和20年2月からは特攻要員としての即
席訓練が開始され、随時、南方・沖縄方面に投
入されました。その多くが海軍兵学校出のエリー
ト士官では無く…学徒出陣のスペアーと呼ばれ
た予備士官達や予科練出身の下士官達でした。
敗戦までにこの隊門を通った若物が筑波海軍航空隊員として一千名以上が
戦死をされています。そのうち13名が比島沖海戦で特攻で、また沖縄戦でも
60名が特攻により散華致しております。
病棟も当時のまま使われていますが、手入れが行き
届いていないのかひどい雑草だらけでした。


裏門です。こちらもまた旧軍時代の物と聞いております。



フェンスで囲まれた中には航空無線通信所があります。このフェンスの
内外の全てが広い筑波空の基地でした。









上のフェンスで囲まれた部分は友部航空無線通信所
を中心とした広大なエリアです。航空写真から見ると
その位置関係が良く見えます。県立病院の上や左の
県道は全て筑波空の滑走路だったものです。そして
画面上に掲載した石碑(筑波海軍航空隊ここにありき
)は平成十年に遺族や旧筑波空の関係者が建立した
ものです。以下に碑文の内容を転記しておきます。


      
筑波海軍航空隊ここにありき


 一九三四年六月 開隊
            練習機による操縦教育開始
    四四年三月 零戦による戦闘機搭乗員養成に
            任務変更
    四五年五月 紫電戦闘機の実戦部隊となる
        八月  終戦

       君は信じられるだろうか

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘し
その殆どが南溟の空に散ったことを

また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に
数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げた
ことを

この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけ
でも五十五柱を超える

ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは
恒久の平和を念じてこの碑をたてる

        一九九九年六月

             筑波海軍航空隊関係者有志
                用地は橋本二朗氏提供









良く知られる筑波空の柿色の零式練戦でなく普通塗装に近い零式練戦です。



ありし日の筑波空の零戦達






筑波山を背景に模擬空戦中の零戦






筑波空にて零式輸送機が擬装されている前で寛ぐ予13のスペアー
の中尉達です。娑婆っ気が強いのが写真からもありありと判ります。
まだ学生気質が抜けていない若者が戦陣に立たねばならぬほど日本
は追い詰められ…この若者達が後世の日本人の為に笑顔で飛び立ち
我々を結果的に守ってくれました。
上下共に筑波空の紫電改11甲型
敗色も濃厚となった昭和20年2月の特攻訓練は、僅か2カ月で修了
する猛訓練ぶりだった。訓練項目は、離着陸8回、編隊7回、計器飛
行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、
そして最後に総合訓練が行われました。このうち特攻攻撃法と総合
訓練に零戦が使用され、他は練習機が使われました。計器飛行、
零戦操座は2月22日から1週間、北浦・鹿島で訓練が行われました。
3月から4月にかけて、筑波航空隊で特攻攻撃法や夜間訓練、総合
訓練が行われました。訓練を修了した若い飛行士は、特攻要員として
九州や沖縄に配置されていいきました。筑波航空隊でも3月28日、
神風特別攻撃隊筑波隊が8名編隊で8隊、計64名で組織されました。
特攻隊員は各隊長が中尉で、小隊長、隊員は全員が少尉で、隊員の
ほとんどが20代の前半で学徒出陣兵でした。練習航空隊の筑波航空
隊でも零戦か紫電が配備され、実戦さながらの訓練が行われ、特攻隊
も組織されました。4月20日には練習航空隊の指定を解かれ作戦部隊
に昇格し特攻隊を編制する完全な航空隊になりました・・・。



更に拡大した航空写真が上下です。病院の管理棟と
なっている部分が筑波空の司令部庁舎です。その正
面のグランド部分の前に石造りの号礼台があります。
現在、このグランドは白いフェンスで囲まれて工事を
待っています。平成23年にリニューアルし工事が終了
する予定ですので後、2年で姿形が一変するものと思
われます。
この街には友部町立歴史民俗資料館があり
此処には筑波海軍航空隊展示室があり多く
はありませんが関係資料が展示されていま
す。

                     ↑
上のバーナーをクリックすると筑波空友の会の公式HPにジャンプします。








〜土浦海軍航空隊・予科練の遺構〜

    (現・陸自土浦武器学校)




雄翔園にある予科練の碑です。予科練出身者が全予科練戦没者の
遺徳を顕彰する為、昭和41年5月27日に建立。この中に予科練出身
全戦没者 一万八千5百柱の霊璽簿が奉安されています。
現在、茨城県阿見町にある陸上自衛隊土浦駐屯地・武器学校は
敗戦前までは帝國海軍の土浦海軍航空隊がありました。元々は
大正10年にこの地で海軍の水上機の発着場を開設し”海軍臨時
航空術講習部水上班”名付けられました。翌11年に霞ヶ浦海軍
航空隊水上班となり、昭和14年3月に霞ヶ浦海軍航空隊 予科練
習部が横須賀より移設され、翌15年11月15日に土浦海軍航空
隊として独立・改名して敗戦まで予科練(海軍飛行予科練習生)
の教育訓練のメッカとしてその名を全国に轟かせました。



雄翔館は、予科練出身者の遺徳偲び後世にその活躍を広める為に
昭和43年11月24日に建設されました。予科練生の生活から軍人と
しての活躍、英霊の遺書・遺品等を展示しています。館内は撮影が
禁止されています。
平成16年1月に復元され新たに雄翔館の前に
建立された山本五十六元帥像です。



雄翔館で来館記念に捺したスタンプです。



              若鷲の歌

        作曲:古関裕而 作詞:西条八十

 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
  今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でっかい希望の雲が湧く
 
 燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉
  さっと巣立てば荒海越えて 行くぞ敵陣なぐり込み

 仰ぐ先輩予科練の 手柄聴くたび血潮が疼く
  ぐんと練れ練れ攻撃精神  大和魂にゃ敵は無い

 命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼
  見事轟沈した敵艦を  母へ写真で送りたい



(動画を再生する時は、ページトップのMIDIのコントロールで
 音楽を停めてから再生下さい。)



海軍飛行予科練習生…その卒業生の八割が大東亜戦争で
日本の勝利を信じて桜のようにその若い命を散らしました。

 
              予科練之碑 碑文

 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。
俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの
制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内
であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の
練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、
西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、
宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助
するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って
以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争
に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は
航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮
したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員と
なって一機一艦必殺の体当たりを決行し、名をも命をも惜しまず何の
ためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に
卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国
の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれ
てここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも
抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を
祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の
万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。


          昭和四十一年五月二十七日

                海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
                撰文         海軍教授  倉町 秋次





予科練雄飛会として会誌を発行し今も元気に
活躍される旧海軍予科練OBの投稿が載る会
誌の”雄飛”の最新号の表紙です。


手元にある土浦海軍航空隊の予科練の
写真を何枚か掲載します。
土浦海軍航空隊の正門を敬礼しながら街に繰り出す水兵服姿の団体です。

下駄履きの赤とんぼの構造を聞く予科練生と右は整備し磨く予科練生
敬礼し飛行の様子申告しているか。注意点を聞いているような練習生。
霞ヶ浦の沖には赤とんぼが一機水面を走っています。
飛行教官でしょう。飛行服姿にカポックで双眼鏡で見ています。後方の
士官達は飛行服の下に上は夏季の二種軍服に軍帽の者、略帽の者で
す。下を着替えても外出がすぐできるし、上を着替えるとすぐに飛び立て
てどちらにも都合のよい格好と言う事でしょうか。
霞ヶ浦を飛び立つ水練と訓練を…その高台で見守り見ていたのでしょう。

































現在、陸自土浦駐屯地武器学校となっています。メインゲートから
続くメインストリートです。真正面に霞ヶ浦の水面が見えます。通り
の両側には桜並木が植えられており春には、美しい桜並木となり
一般開放の日には多くの花見客が訪れ桜を愛でます。左奥の白い
建物は、旧土浦海軍航空隊司令部庁舎です。現在は陸自武器学
校の本部庁舎となっています。





自由見学コースの案内用紙です。この他にも広報担当者
が案内してくれる見学ツアーがあります。



(車輌館)旧海軍時代の医務科棟として使用されていた木造平屋建の兵舎です。




予科練時代当時の建物のままの木造平屋建です。
当時は医務科棟として使用されていました。(車輌館)
内部もまだしっかりしていて現役で使われています。
左上は、十四式水上偵察機のプロペラです。



               
陸自の土浦駐屯地・武器学校の公式HPです。




おまけで戦後に陸自が使用した戦闘車両の中
から国産の戦車だけ紹介します。
戦後初の国産戦車となった61式戦車(三菱重工)です。
第一世代と呼ばれた61式の後継として開発された三菱重工
の74式戦車です。所謂、第二世代主力戦車です。
74式の後継となる第三世代の主力戦車の90式戦車
(現行)です。本年(2009)度までに61式の全てがリタ
イアしました。現在、第四世代と言われるTK-Xが開発
中です。



火砲館です。この建物も予科練時代に医務室として使用されていました。
三八式野砲


改造三八式野砲




四一式山砲(連隊砲)



九一式十糎榴弾砲





四年式十五糎榴弾砲




九四式三十七粍速射砲



一式四十七粍機動砲(速射砲)





外部の三式中戦車の脇に置かれていた
九四式三十七粍速射砲です。



本土決戦に備えた三式中戦車です。流石に今まで見た九七式
や一式中戦車の砲塔より一回り大きな堂々たる砲塔です。
車体のベースは九七式〜一式中戦車と同じ発展バージョンです。
主砲は九〇式七十五粍野砲を改造した三式七十五粍戦車砲を搭
載しています。この戦車の登場で唯一、M4シャーマンを真正面に
してその前面装甲を撃ち抜く戦車を得ましたが…本土決戦に備え
て九州を中心に配備された為、最後まで実戦に投入される機会を
得ませんでした。





     三式中戦車 チヌ

      ≪性能諸元≫

 全長 5.73 m    全幅 2.33 m

 全高 2.61 m    重量 18.8 t

 速度 38.8 km/h  行動距離 210 km

 主砲 三式75mm戦車砲38口径×1
     (弾薬搭載量 70発)

 副武装 九七式7.7mm車載重機関銃×1
     (弾薬搭載量 3,670発)


 装甲 (砲塔)
    前面50mm 側面20mm 後面25mm
 装甲 (車体)
    前面50mm 側面25mm 
    後面20mm 上面16mm

 エンジン: 統制型一〇〇式
        空冷4ストロークV型12気筒
        ディーゼルエンジン240馬力

 乗員 :5名

 生産数: 111輌







以前は三式中戦車の横に鎮座していた八九式中戦車ですが
2007年に機動が復活され稼働状態になり自走が出来るよう
になり別の場所に移動し保管されています。
2007年10月14日の土浦駐屯地祭でお披露目された自走する
八九式中戦車のレストア後の勇姿を動画サイトのYoutubeに
投稿されたものを下に掲載しました。(エンジン音等のオリジナ
ル音声を聞きたい方は、ページトップのMIDIのコントロールで
音楽を停めてから再生下さい。)



   八九式中戦車(性能諸元)
甲型(ガソリンエンジン搭載型):チイ


 全長 5.75 m  全幅 2.18 m
 全高 2.56 m  重量 11.8t

 懸架方式 リーフスプリング方式

 速度 25 km/h  行動距離 140 km

 主砲 九〇式57mm戦車砲×1
     (砲弾100発)

 副武装 九一式6.5mm車載軽機×2
     (銃弾2750発)

 装甲 最大17 mm

 エンジン ダイムラー
     直列6気筒水冷ガソリン
     118 hp/1,800 rpm

 乗員 4 名


乙型(ディーゼルエンジン搭載型):チロ


 全長 5.75 m  全幅 2.18 m
 全高 2.56 m  重量 12.1 t

 懸架方式 リーフスプリング方式

 速度 25 km/h  行動距離 170km

 主砲 九〇式57mm戦車砲×1
    (砲弾100発)

 副武装 九一式6.5mm車載軽機×2
    (銃弾2750発)

 装甲 最大17mm

 エンジン 三菱
      直列6気筒空冷ディーゼル
      120 hp/1,800 rpm

 乗員 4 名



89式中戦車、復元さる その1




89式中戦車、復元さる その2




89式中戦車、復元さる その3




感動の八九式中戦車(乙)との再会です!稼働するように
なり倉庫の中で一般の目には大きなイベントの時しかお目
に掛かる事が無くなりました。
車内から見るスリットと銃眼が各所に開いています。











以下は管理人がUPしたYoutubeの動画です。


2010年6月30日撮影したホヤホヤのものです。古いデジカメの
動画撮影なので画像粗く残念です。非常に良く整備され保存状
態も素晴らしいです。何しろ民主党政権の事業仕分けの嫌がらせ
の中で...技術の伝承や日本人の情熱を予算の無い中を遣り繰りし
動くまでに再生させています。そして私達、後世を平和に生きる…
一般市民達が見て触れて感じる機会を与えてくれています。こうし
た見えない部分でも自衛隊員の皆様の職務超えた情熱や愛国の
精神に頭が下がる想いをいだきました。




小火器資料館です。以前は普通に見学できましたが、不届き者が
実銃を盗む事件などがあり現在では、月に1回だけしか見学でき
ません。何処でも迷惑なバカが居ると…真面目な見学者がその機
会を失う結果となるようです。















































九六式軽機関銃






















土浦の陸自の武器学校の九八式射爆照準器一型です。
基地内の古い倉庫から見つかった一品だそうです。現存し
機能も生きている珍しい数少ない希少な射爆照準器です。
日光の具合により二色の照準像を選択できます。
電源をやられた時は左上にあるアナログの照準器を手
で建てれば像の真ん中に浮かびように出来ています。
昭和19年4月 東京光学製。この東京光学製は
他に国内で1個あるのが確認されているだけだ
そうです。
この武器学校の照準器も…私の所持している千代田製
の照準器同様に後期の零戦や紫電改に搭載した九八式
でなく前期(一一型〜二二型、五二型甲まで)の零戦に
搭載されたものと思われます。




旧土浦海軍航空隊本部庁舎です。平成21年秋から工事に入り
取り壊され以下のように新しい庁舎が建設中です。

旧本部庁舎と前の雄飛の松(二代目)です。昭和20年
6月10日の阿見空襲にも持ちこたえた雄飛の松ですが
平成5年の秋頃から衰えを見せ、翌6年4月22日に伐採
されました。昭和18年頃本部前に構築された防空壕を偽
装する目的で植えられたと謂われています。この時の樹
木の中の1本で戦後他所へ植林されたものを譲り受け、
現在の地に移植された二代目になります。

取り壊し前の本部庁舎です。何処の航空隊の本部庁舎
とも基本は同じ作りになります。航空母艦の艦橋を模した
と言われています。戦後65年を生き伸び昭和15年の建
設以来…70年でその役目を終えました。




現在も現役で使用されている号令台です。昭和15年の制作です。



左上は号令台から見た運動場です。ここに昭和天皇も昭和17年
7月13日の行幸の時にお立ちになられました。




常在戦場碑



行幸記念碑(昭和17年7月13日に霞ヶ浦・土浦両航空隊
を行幸した記念に建てられたものです。裏側には昭和十七
年七月十三日、”奉仲聖駕”、海軍中将 戸塚道太郎 謹書
と彫られております。)



霞ヶ浦海軍航空隊水上班・旧士官宿舎
今は外来者宿泊所として使われていますが…今も幽霊
は出るようで金縛りに遭う宿泊者が絶えないとか…。



1階の内部です。
かつては受付だった1階玄関部分です。




霞ヶ浦の水上機スロープ跡です。


この水上機スロープが土浦海軍航空隊の遺構そのものと
謂えます。建て替えられた倉庫です。ここに水上機格納庫
がありましたが取り壊され建て替えられました。








〜霞ケ浦海軍航空隊の遺構〜

  (現・陸自霞ヶ浦駐屯地
     航空学校霞ヶ浦校
         関東補給処
     空自霞ヶ浦分屯基地)



一般ビジターの見学者として訪問した場合、土浦海軍航空隊跡(現武器学校
)と違い非常に限定した範囲しか見る事が適いません。
上が現在の正面ゲート…下が旧海軍時代の隊門の風景です。




昭和17年の陛下の御行幸の際は本部前に天皇旗
が上の写真のように掲揚されました。


見学を許されるのは、広大な基地の中でもこの
広報館とその周囲だけです。




”飛行船ツェッペリン伯号飛来跡”の碑があり、
それと並んで石製の基壇の上にブロンズのツ
伯号と格納庫が飾られている。
ツ伯号を係留する時に使われた繋留石













旧海軍時代の霞ケ浦海軍航空隊から現在の陸上自衛隊に至るまでの
歴史が年表と共に記されております。


当時の霞ケ浦海軍航空隊を中心に土浦海軍航空隊など
阿見町が軍都であった時代のミニチュアの大パノラマ模
型が展示されています。
すぐ隣接して霞ケ浦があり土浦海軍航空隊があるのが
判ります。下はかすが裏上空を飛ぶ土浦空の下駄ばき
の赤とんぼです。




軍都・阿見(霞ケ浦)では…このように限定されたこれだけの
地域で水上機も陸上機の両用の搭乗員の訓練を行う事が可
能でした。同じ空軍としても特に海軍航空隊としては空母の
艦載機としても潜水艦や通常の水上艦艇に搭載される水上
機を、また陸上を渡洋爆撃や雷撃する長距離攻撃機(陸攻)
など大型機を運用する上でも全ての搭乗員の訓練を賄える
為、素晴らしい基地群であった事が判ります。
霞ケ浦を離水し飛立たんと滑水する下駄ばきの赤とんぼ


このように掩体壕が各所に作られ航空機が敵の爆撃から隠されました。
上のパノラマにある飛行船の巨大な格納庫は下の写真が実際の
ものです。同じように滑走路に並ぶ赤とんぼの遥か向こうに巨大
な格納庫が同じように確認できます。





















米国本土を歴史上唯一爆撃した藤田 信雄 海軍少尉(当時
兵曹長)を紹介したコーナーです。超大国と謂われた史上最
強の米国本土を爆撃した国は日本だけ…そして米国領土を
奪い占領した事のあるのも日本だけです。












史上ただひとり米国本土を爆撃した男伝説

某民放TVで制作放映されたものをYouTubeで上げた
動画です。藤田 信雄 海軍少尉の活躍をダイジェスト
で描いております。




硫黄島の遺品の展示







当時世界最大の飛行船だったグラーフ・ツェッペリン
(ツェッペリン伯爵号)は北半球周遊をした際に昭和
四年八月一九日に霞ヶ浦航空隊に寄港しました。
全長235・5メートル、最大直径30・5メートル、乗員35人、旅客40人








この写真は、空母”鳳翔”の貴重なネガと共に入手したネガで
第一次世界大戦でドイツから戦利品としてもらった飛行船格納
庫(霞ヶ浦で移築中)やイギリスのセンピル飛行団が海軍に航
空機の運用を教えに来た時に、関係者が撮影したネガです。
2008年1月号の航空ファンで掲載されたので見た事のある方も
多く居られるかもしれません。旧軍をはじめとする高名な航空物
コレクターの方より譲り受けた品です。

大正13年、同飛行場に大飛行船の格納庫が完成した。この格納庫は第1次世界
大戦で日本が勝ち、ドイツから戦利品として押収したもので長さ240メートル、高
さ35メートル、間口73メートルもあり、その当時の上野駅がすっぽり入る大きさで
した。扉が2枚あり、2個のモーターで開閉しましたた。この扉は鉄製で1枚990
平方メートル(約300坪)、重量は40トンもありました。
日本ではこの格納庫の完
成を記念して、世界一周飛行を行うツ伯号を同飛行場に迎えることになりました。
昭和4年8月19日、これを一目見ようと飛行場は県内外から集まった30万もの人
で埋め尽くされたといいます。ツ伯号はドイツからシベリアを横断し、約1万1000
キロ、101時間50分をかけ同飛行場に着船し、歓迎会が催されました。23日、ツ
伯号はアメリカに向けて飛び立ち、世界一周の記録を打ち打ち立てました。

この巨大な飛行船格納庫の建造中の貴重な写真です。地元に
残る話では、ツ伯号が飛来してから3年後の6月の夕方に突如
雹を伴った大風が竜巻となって格納庫を襲い、大扉の1枚が外
れて前に倒れ500メートルほど離れた所にあった家が風圧で
倒れてしまったという逸話があります。






写真は以下も霞ヶ浦飛行場にて撮影されています。
国産初の艦上戦闘機となった一○式艦上戦闘機(三菱)の一号型
です。ラジエターが機種にあるのタイプとなります。
水陸両用のバーキング飛行艇と興味深げに見学する海軍の将兵達です。


国産初の艦上戦闘機となった一○式艦上戦闘機(三菱)二号型
初の艦上雷撃機となった一○式艦上雷撃機(三菱)























霞ヶ浦海軍航空隊、その後の土浦海軍航空隊のまだ水上機用の
スリットが作られる以前の黎明期の霞ヶ浦の写真です。



臨時で作られたのか格納庫がテント状である事が判ります。
上は珍しく日本人パイロット達です。



市民達が集まって未来来る風景は今の自衛隊の基地の
お祭りや観艦式と大きな違いはありません。
いかにも手作りの歓迎会であるのが判ります。平屋建ての兵舎が
現在も土浦基地跡に残る医務科の兵舎と同じです。


英国センピル飛行団を歓迎しての海軍の主催のディナーでしょうか。



正衣袴で写真に映る佐官達(中佐に少佐)です。副長と飛行長クラスと思われます。
後ろに写る平屋建ての兵舎が現在も土浦基地跡に残る医務科の兵舎と同じです。



下は海軍の日本人パイロット達です。この当時だと全員が士官搭乗員だと思われます。






行きなのか帰りなのか判りませんが英国への旅のどちらかをシベリア経由
で日本船のシベリア丸を使い北回りを使ったのかも知れません。最も一般
的な欧亜ルートでロンドンまで帰国すると関釜連絡船で下関〜釜山間を
船旅し釜山よりは朝鮮総督府鉄道と南満洲鉄道で新京・ハルピン・満洲里
そしてロシア側のチタを経由してシベリア鉄道に乗り継ぐもの。この他にも
神戸などから大連へ船旅し大連から新京へ満鉄でそして満洲里からチタで
シベリア鉄道か、敦賀港からウラジオストック航路に乗り直接、シベリア鉄
道に乗る3つのルートがありました。


これ等は霞ケ浦海軍航空隊の基礎となした頃の希少なネガと写真です。
非常に希少な黎明期の日本の航空史だけでなく日本の空母や当時の英
国の空母の歴史を紐解く上でも希少なネガです。ここから日本の空母史
はスタートしたと謂えます。詳細は以下のバーナーをクリックで掲載して
います。

                     



















学徒の予備士官達です。





広報館の後方の敷地に所狭しと展示される自衛隊のヘリや
戦車や装甲車などの戦闘車両の数々です。そう謂えば北朝
鮮の核ミサイルに対抗してPAC3をこの霞ケ浦基地には配備
されております。



広報センターの方よりいただいたツェ伯号の土浦来訪80周年を記念して作られた
コミック誌で『ツェッぺリンが舞い降りた日〜巨大飛行船に乗った少年〜』です。
何ともロマンある時代の大空の豪華客船のお話です。今も惹き付けられる魅力があります。




≪更新・TOPICS≫

★海軍第一空廠(航空廠)の格納庫と
  政府専用ヘリ・スーパーピューマ332L

     
(昭和天皇お召し機)と朝霞の輸送学校
    から関東補給処でレストア作業行程中の
     陸軍鉄道連隊の百式(一式)鉄道牽引車★




今も霞ケ浦海軍航空隊の跡地である陸自の関東補給処に堂々と残る
旧海軍第一航空廠の格納庫です。奥の方の格納庫は陸自の物でなく
戦後に民間に払い下げられて茨城倉庫が使用しています。
ここで零戦や一式陸攻なども整備されたのかと思うと非常に感慨深い
ものがありました。格納庫のバカでかさにも驚かされます。
当然ですが、右の格納庫の方が戦前のオリジナルに近く手前側は
窓を入れるなど近代的外装になっています。基本の骨格である鉄
組はオリジナルのままとの事です。
格納庫前の記念撮影…シャイです!


内部の天井部分です。両サイドに明かり取りが設けられ自然光が
入るようになっています。…とにかく広くてでかい!!
九六式陸攻や一式陸攻などの双発の中攻など余裕で整備できる巨大さです。


一転、目線を格納庫の地面に目を移すと敗戦前から変わらぬコンクリがあります。しかし
経年の劣化に航空機の自重の重さが随分と変わり痛みが随所に激しくなっているのが
見た目に判ります。この歴史ある格納庫を後世に残りして欲しいものですが…木更津同
様にいつか解体される日も近いような気もします。何とか別に移築してでも残して欲しい
ものです。







使用期限を終えて廃棄処分となる陸自の偵察ヘリのOH-6Dが無造作に置かれています。
既にパーツの供給も無い為、使えるパーツを部品取りして廃棄処分とするようです。この
OH-6Dは航空偵察、指揮・連絡、射撃の弾着観測用ヘリとして万能に使われた小型ヘリ
です。









三菱のMU-2をベースにしたLR-1です。主に基地間の連絡輸送と偵察を行う任務
をこなす連絡偵察機ですが…この機もリタイアで部品取りになっているようです。






攻撃ヘリ AH-1S コブラです。こちらも部品取りされて廃棄処分を待っています。













昭和天皇の「お召し機」スーパーピューマ 332L




三機の政府専用ヘリコプターです。三機とも天皇陛下(昭和天皇)が乗られた『お召し機』
です。手前の”はと号”が一番機となり内部を拝見させていただきました。この三機も廃棄
処分待ちなのだそうです。



陛下がお座りになり伊豆・大島など災害地をお見舞いに行かれる時、座られた貴賓席
の四席です。総皮張りの豪華なシートで座らせていただきましたが…流石にファースト
クラス以上の座り心地の良さでした。奥はコクピットになっています。


左右にドリンクホルダーにあるテーブルになるキャビンに専用電話が設置されており
内装もカーテンも素晴らしいものでした。貴賓席(VIP席)が4席で敷居とカーテンの向
こう、後部に随員席8席と更に後方にクルー用のスペースがあります。
このヘリを日本政府が政府専用機としてフランスから購入したのは昭和61年のことです。
何故か機体は、総理府の所属ですがパイロットや整備士は、陸自から総理府に出向して
自衛隊機ではなくて民間機として飛行することにしていました。実にバカげた話です…。
更に奥にお付きの方などのシートが8席分。その奥はクルー用のスペースとの事でした。


コクピットです。座らせていただき操縦桿を握ると
思わず童心に帰ります…。
コクピットに座った時、背中の薄壁一枚で1m〜2mの距離で陛下をお乗せしたパイロットは
その栄誉もそうですが緊張したでしょうね。陛下のお命を預かるのですから…そう考えると
手に汗をかきました。










朝霞の陸自輸送学校から関東給処でレストアの為
   運搬されレストア作業行程中の百式鉄道牽引車




長らく朝霞の陸自輸送学校の前に展示されていた
100式鉄道牽引車です。平成21年11月レストアの
為、朝霞より霞ケ浦へ移動しました。
朝霞にまだ九七式貨車も残されて飾られていた頃の写真です。




戦後も自衛隊で使用されてきた為、老朽化が激しくレストアが
必要となりました。



霞ケ浦駐屯地の関東補給処での作業工程表です。平成21年末に移動し
約一年三カ月で完成し来春には、再び展示される予定になっています。



残念な事に前々から調子の悪かった愛用のデジカメが遂にオートフォーカスが
壊れ…撮れたり撮れなかったりで…この撮影でオシャカになりました。かなり
ピンボケで残念な画像が多くなりますが代用が無かった為、仕方なく掲載しま
す。お見苦しい点が多いですがピンボケ写真で勘弁下さい。バカチョンカメラな
のでマニュアルフォーカスがありません。オートフォーカスが壊れ始めると殆ど
ピンボケばかりになります。
移動前に朝霞での調査風景
移動開始(吊り上げて大型トレーラーに載せる)



分解されたパーツが並べられています。
新しく新調された荷台部分とその下の台座は木製です。ボンネットの
一部をヤスリで磨いています。
精巧に再現され新調された荷台です。穴の部分は砂を落とす所です。
荷台は金属ですが…薄くて小銃弾も貫通する程度なので装甲性はZEROに等しく
期待できなかったと想像されます。


フレームの上に荷台を乗せる為の台座です。意外にも木製なので驚きました。
上がオリジナルのステアリングで下が新しく作成したステアリングです。
右上は砂を入れる容器。下はヘッドライトカバーです。

砂を詰める容器です。

こちらも意外ですがキャビン部分は金属で無く樫の木で出来ています。
これも同じ樫の木で新品を精巧に作りだしています。
タイヤとホイール、シャーシなどはオリジナルのままです。










簡単に手動で操作できるジャッキが四隅に付いています。






                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           





                                            



 




ありし日の百式鉄道牽引車の勇姿です!
こちらは珍しい満鉄の置物で有名な九八式鉄道牽引車です。百式の前身となったもの
です。場所はマレーシアのイボー(昭和17年1月7日)で九七式貨車を4輛を牽引し、その
百m後方に有蓋貨車を牽引した百式が見える。この九八式…空冷でオーバーヒート気味
らしくボンネットを開いている…猛暑なので荷台にもキャンパスを掛けている。


戦後の鉄道牽引車たち
昭和28年に安比奈で撮影された西武鉄道で再利用されていた九七式鉄道牽引車
です。川越の安比奈線は今は廃線となっていますが…安比奈採砂場で使われた姿
です。砂利積載用に荷台を改造されている以外は殆ど原形をとどめています。
西武鉄道は鉄道連隊の資材を丸ごと持ちこんだ事で知られますが鉄牽も複数
手に入れて使用していたと聞きます。


旧国鉄の田端機械軌道区に所属した百式です。既にエンジンもボンネットも
取り外され廃棄処分を待つ姿です。運転席のしたにあった筈のマフラーも既
にありません。その他は…原形をとどめています。


この画像のように旧国鉄で第二の人生を歩んだ百式の多くは
最後まで原形をとどめてリタイアするものが多かった。
リアビューですがほぼ陸軍時代のまま原形を
留めています。
ほぼ原形通りの百式の右前の部分と下は、エンジン下部です。

戦後に大阪駅で撮影された百式鉄道牽引車。こちらも原形が保たれています。





百式の前身の九八式の前身となった九一式牽引車(鉄道第六連隊)の珍しい写真。


有名な戦争映画で『戦場にかける橋』の”クワイ河マーチ”が余りにも有名ですが
今もタイのクワイ河鉄橋のリバークワイ駅構内に保存されている一式鉄道牽引車
と九七式貨車の写真です。下は、クワイ河鉄橋です。



映画「戦場にかける橋」 BridgeOnTheRiverKwai
のクワイ河マーチのYoutubeの動画です。最上段
のMIDIの音源をオフにしてからお楽しみ下さい。




旧陸軍 100式 鉄道牽引車 旧陸軍色 (鉄道模型)
で真鍮製のHOゲージ、16番ゲージ、1/80。
16番100式牽引車の完成品
大戦中に陸軍が用意した鉄道保守や警備に使われた車両で
タイヤで道路を、鉄輪で線路が走行できるトラックです。戦後
は、保線用や入換機として使用された車両も存在しました。








                                     




〜予科練平和記念館〜




平成22年2月2日にオープンした…予科練平和記念館
です。予科練のあった現在の陸自武器学校の敷地の
すぐ隣にあり霞ヶ浦の水辺を目の前に見る事が出来る
良い場所に建設されました。

史料館というよりは…欧米のお墓というよりメモリアル
ホールのような不思議なでも優しい空間でした。喪に
服した感じで映像を見て巡る事ができました。施設とし
ては非常に小さく展示されている内容も目新しいものも
目玉と言える展示物も何もありませんが…霞ヶ浦海軍
航空隊のその地にある事…それだけで十分の様な空
間でした。実に今風で感心しました。若い方が訪れて興
味を持って見れるのでないでしょうか。…映像の演出に
力が入っていて新しいタイプの記念館のあり方を感じさ
せてくれました。



内部は写真撮影が禁止です。


           ↑
上をクリックすると予科練平和記念館
の公式HPにジャンプします。













〜鹿島海軍航空隊の遺構〜



(現・国有地の廃墟)




鹿島海軍航空隊の旧燃料庫の脇に建立された記念碑です。
当初は安中航空隊と言われて存在しましたが,昭和13年5月11日に霞ケ浦航空隊
安中水上隊となり、同年12月15日に開隊されました。暫くは練習航空隊として水上
機操縦訓練を主として行い多くの飛行学生・飛行練習生を擁しておりました。
この水上基地は、どんな風向きに対しても飛び立てるという立地条件があり練習基
地には、最適であったと伝えられています。昭和20年5月5日に練習航空隊の指定
が解除され実戦部隊の鹿島北浦派遣隊となり鹿島航空隊と呼ばれるようになりまし
た。鹿島空の任務は、本土防衛・鹿島灘対潜哨戒任務に搭乗員教育でした。
碑文の内容を以下に転記します。

           
 記念碑 元鹿島海軍航空隊の跡

この地は、元日本帝国海軍所属の水上機搭乗員養成基地”鹿島海軍航空隊”が
あったその一角であり、当時義務教育を終え又は旧制中学途中で志願してきた
飛行練習生、大学在学中に志望してきた飛行専修予備学生、海軍兵学校出身の
飛行学生等、隊内各兵科の支えを受けながら優秀な”パイロット”を育成していた
ところである。

昭和13年5月11日開隊後、昭和20年8月15日の終戦まで、特に大東亜戦争に突
入後は逐次日本本土防衛の体制に移行し、外部からの襲撃を未然に防御するた
め、哨戒飛行、索敵飛行、迎撃発進等敢に防戦に傾注したものの我に利あらず、
遂には未帰還機あり、空中戦での戦死者あり、果ては特攻隊編成による沖縄周
辺に群がる敵艦船に突入戦死、又は地上においても作業中の隊員が機銃掃射を
浴び戦死する等、この鹿島空在隊者だでも数十人に及ぶ尊い犠牲を出したので
ある。

遅ればせながら我々生存者一同浄財を集め、救国の精神に燃え散華していった
英霊に黙祷を捧げ、ご冥福を祈ると共に、この事実を後世に伝承すべく、ここに
記念碑を建立するものである。

                        平成11年5月27日

                           元鹿島海軍航空隊在隊者一同
                                       他有志一同

旧燃料庫は分厚いコンクリートの半地下の構造物で保護されて
おり今も尚、現役で近隣の農協の倉庫として使われています。



鹿島海軍航空隊の正門と思われます。
正門から真っ直ぐ進むと奥には霞ヶ浦の水面が広がります。
右脇にはまだ壊れたボイラーのある戦後は工場として使われ
た廃墟や幾つかの小屋のような建物、一時的に戦後に東京
医科歯科大学霞ヶ浦分院として使用された旧鹿島空司令部
が残存してます。

      東京医科歯科大学霞ヶ浦分院跡
      (旧鹿島海軍航空隊司令部庁舎)
 人の訪れる事の無い広大な跡地に残る舗装路
航空写真で見る司令部跡
心霊スポット化していますが…一人で踏み
入るのはちょっと勇気がいります。
旧鹿島海軍航空隊司令部庁舎
今もこの広大な基地跡は国有地です。


大雪に見舞われた日の鹿島空の司令本部前と庭です。


左上は航空写真で見る広大な鹿島空の跡地です。広く大きなスロープを作った
水上機用のスリップが2面あるのが判ります。そして桟橋にカタパルトの設置跡
もあります。一部北部に三角形の土地で使用されているのが独立行政法人 国
立環境研究所の水環境保全再生研究ステーション管理室等です。右上の画像
は後の病院と共に茨城県の心霊スポットにもなっているらしい高く突き出ている
煙突のある廃墟の旧ボイラー室と発電施設と思われます。その右手にも少し離
れて廃墟と化した建物が確認できます。そしてその下にはコンクリの基礎部分
だけが残る幾つかの施設跡が見受けられます。
完全に廃墟と化しています。奥に国立環境研究所の新しい戦後の
建物が見えます。対称的で…手間の敗戦国の旧海軍施設はとても
物悲しく見えます。


屋上の給水塔が妙に新しく戦後の東京医科歯科大学
霞ヶ浦分院時代のものである事が想像されます。



ありし日の鹿島空…。






こちらも左上の航空写真は桟橋と南側の水上機スリップの一部です。
各所に色とりどりの小さな物がたくさん写っていますが駐車場の車で
は無く…レジャー用のボートなど、このスロープから休日に霞ヶ浦で
水遊びや釣りを楽しみ人などが置いている場所です。右上は基地跡
の跡地にコンクリの基礎として残る兵舎や水上機の格納庫などと思わ
れる施設の跡です。

南側の大きい方の水上機スリップの一部とカタパルト跡
の突堤付近をアップした航空写真です。(以下が実際の
写真画像です。)
今は無きクレーンとカタパルトが下の写真のように
あってそこから水上機の射出訓練が行われており
ました。


霞ヶ浦全体を収めた航空写真です。
右は鹿島灘と太平洋です。



最も大きなスリットがく南側のスリットです。


上は鹿島空所属の教練用の零式水偵がスリットから引き上げられている画像です。





鹿島空の主要装備機は、九〇式水上練習機 ・九三式水上中間練習機・
九五式水上偵察機零式水上観測機です。・・・赤とんぼだけでなく零観
がこのスロープにある姿を想像すると美しい機体が水面に映えたのだろ
うな〜とウットリします(個人的に零観の美しさに魅せられているので)。


鹿島空の零観の教練機(上)と大空を飛ぶ鹿島空の赤とんぼ達です。(下)

この練習機の赤とんぼが特攻に出た事もありました。
それを想うと泣きたくなりますね。…紅顔の少年達を
若鷲に育てた甘酸っぱい想いの翼であると同時に末
期には…物悲しい翼でもありました。
ありし日の鹿島空の駐機中の赤とんぼです。
練習機とえどもこれだけ揃うと圧巻です。

一番大きな南側の水上機用スリップと桟橋があります。

内外の様々な水上機基地のスリットの中でも最も痛みの無い美しいスロープ
の形を保っている場所と言えます。普段はレジャーボートの出入に使われて
います。誰も居ないスリップと夕暮れがとても寂しげに見えます。
全盛期には千名を超える海軍将兵が活動した鹿島空の水上機用スリップです。
現在はレジャー施設やペンションのような民家がまばらに建ち…大きな時代の
移ろいを感じさせます。
上下共に鹿島空所属の零観です。背景の格納庫も今は
ありませんが映っています。
零観…帝國海軍最期の双葉機ですが…まるで古さを感じさせない
その洗練されたスタイルの美しさにいつも魅了されます。私個人的
に最も好きな水上機の一つです。
霞ヶ浦は最大水深が7mで平均水深が2mと非常に浅い為、湖とも謂えない微妙な
存在です。また透明度も悪く平均2mで潜っても殆ど視界が利かないでしょう。しかし
陸上から見る水面はとても美しく…見とれてしまう風景でした。
多くの戦死者を一人前の大空のサムライに…若鷲に育てた霞ヶ浦です。
今も霞ヶ浦は美しい朝焼けと夕焼けを私達に無言で見せてくれます。…
しかしこの美しい光景を目にした多くの若鷲達が大空のサムライとして…
異郷の地や国内で二度と還る事の無い戦いで尊い生命を失っています。
鹿島空の零式水偵です。
南側のスリットの終わる部分です。






数年前までのカタパルトの跡です。
  現在のカタパルト跡です。痛みが激しくなっています。           カタパルト脇の桟橋も現役です。
以前はカタパルトの回転する基部を固定していた
鉄の金具が円周上に錆び付いて突き出ていまし
たが誰かが転んで怪我したか…若しくはその前
にと配慮したのか土嚢を円周上に突起した鉄の上
に被せてあります。ここは霞ヶ浦で水遊びをする
一般市民の多くの人が来訪する珍しい遺構です
ので当然の配慮かと思います。
ありし日の鹿島空のカタパルトです。
当時の鹿島空のカタパルト発射訓練の写真です。零式水偵が用意されています。
陸上や水面よりクレーンで吊り上げられてカタパルトに設置されます。
                     ↓
しっかりとカタパルトの射出台に正確に乗るように慎重に作業します。
                     ↓
火薬が装填され作業員の作業が終わると搭乗員が機体に乗り込みます。
                      ↓
そして射出されます。この時搭乗員に掛かるGは、2.7Gと謂われています。
最高で3.0〜4.0Gに収まるように計算され射出されます。
この上は巡洋艦より射出されんとした一瞬を撮影された零式水偵です。


当時の面影を全くとどめない岸辺になっています。


上は鹿島空の零観が基地前の霞ヶ浦より離水して飛び立つ写真です。
こちらは鹿島空の九四式水偵です。後方に今は無い時計付きの大型格納庫があります。
東側の小さい方の水上機用スリットです。
今、見ていても大規模な計画で工事を進めて水上基地
作りをしたのが良く判ります。戦前の先人達の努力に頭
が下がる想いがします。




上は鹿島空のスリットで翼を休める赤とんぼ達です。
下は離水中の鹿島空の赤とんぼ達です。




上のフェンスゲートは正面の正門から真っ直ぐ続く舗装路
で途中、司令部庁舎前を通り真っ直ぐこの下にある霞ヶ浦
に出ます(東側のスリット)。
基地から台車で出てきた下駄履きの赤とんぼがこのスロープを
降りて目前の霞ヶ浦を元気良く離水して大空に浮かぶのが想像
出来そうです。そして下の画像は、東側のスリットの終わりです。
東のスリットの終わりから向こうは国立環境研究所の施設
となり…いきなり整備され緑地もきれいに手入れされてい
ます。まさしく天国と地獄のような扱いです。




南面のスリットのもう少し南側にある桟橋です。複数が
存在します。国立環境研究所のボートも繋留されてます


戦後64年以上経過しても未だに現役で使われています。








今では釣り客です寄りつかぬ廃墟となった船着き場やスロープ周辺ですが
海軍時代は…水上飛行機だけでなくカッター訓練やヨットなども走る賑わい
を見せていました。



南西側の旧燃料庫近くの格納庫のような建物
余談になりますが、この鹿島空はイ号400潜水艦シリーズに
搭載した晴嵐の水上機部隊である第六三一海軍航空隊の
開隊された基地でもありました。パナマ運河奇襲攻撃作戦で
有名になりました。結局この作戦は棄却されて代わりに嵐作
戦(ウルシー環礁奇襲)が発令されましたが敗戦になり帰還
を命じられイ400と401は洋上で米軍に投降します。第一潜水
隊司令で第六三一海軍航空隊司令(兼副長)を兼ねた有泉
龍之介 海軍大佐(海兵51期)は司令室で自決して果てまし
た(昭和20年8月29日)。

因みに昭和19年12月に大橋 富士郎 海軍大佐を司令として
第六艦隊直属の航空隊として存在しました。実機となる晴嵐
は横須賀海軍航空隊でテストを続行しながら六三一空は、
この鹿島水上基地で瑞雲で隊員の錬成訓練を行っていまし
た。その後、六三一空は昭和20年1月20日に呉の水上基地
移転し晴嵐による本格的錬成を開始しました。
         水上偵察機”瑞運”(E16A)           特殊攻撃機”晴嵐”(M6A1)


伊号第400潜水艦 カラー映像



上はスミソニアン博物館に保管されている晴嵐です。
上は2005年にハワイ大学の調査チームがオアフ島
沖合いの深度800〜900mの海底で発見した爆沈
処理された伊401の映像です。
2009年11月に再び海底で発見された伊401の25mm
三連装機銃が水中ライトに照らされて写されています。



近隣の農家の塀や道との境界を良く見ると
下のように海軍用地と掘られた境界を示す
石が見つかります。
他でも注意深く見ると既に上が割れてしまった
境界を示す石も見受けられます。



まるで海辺で迎える夕闇のような美しい霞ヶ浦の夕焼けです。ありし日の
鹿島空の水上機搭乗員たちも同じ光景を目にしたのでしょう…。


土浦海軍航空隊そして鹿島海軍航空隊などを代表として霞ヶ浦海軍航空隊
から派生的に誕生した航空隊が霞ヶ浦を中心に茨城県内には非常に多く感
じます。筑波空や谷田部空などもそうた分遣隊から独立し教育飛行隊となり
敗戦近くになり実戦部隊になり特攻などへ駆り出されて行きました。これ等
の中心となった霞ヶ浦は予科練…海軍飛行予科練習生の本家本元のメッカ
でありました。予科練といえば海軍航空隊そのものを指しておかしくない本
流でありました。実に大東亜戦争で中国大陸、印度洋から太平洋全域にわ
たる地域を戦い尽くした翼が予科練でありました。そして予科練出身の若者
が敗戦までに18.900柱が戦死され…敗戦末期には絶望的な戦況下で特攻
に駆り出され散華するもの2.534柱が戦死者に含まれています。末期は予
科練でありながら飛ぶ翼が最早無く…航空服を着て特攻艇と言われたベニ
ヤばりのモーターボートに爆弾を積んで突撃する”震洋”や人間魚雷と言わ
れた”回天”の搭乗員となった者も大勢おりました。
この上下の画像はマルシン製の下駄履きの赤とんぼです。
塗装は鹿島海軍航空隊の仕様です。
赤とんぼは、戦前・戦中を通じて帝國海軍の練習機分野を
独占しました。正式名称は、九三式中間練習機。総計5589
機という日本の練習機史上最多の量産を記録。海軍練習
機の代名詞でもあり、太平洋戦争に参加した海軍搭乗員
で本機のお世話にならなかった者はいない程でありました
。危険防止の理由から、昭和13年12月29日より、各種練
習機は最も目立ちやすい橙黄色に塗る事が航空本部より
通達、規定された。その特徴的な色から、国民の間に赤と
んぼの通称で親しまれました。また、敗戦間近には特攻機
として作戦に加わった九三式中練もありました。








     大日苑(旧植竹庄兵衛邸)

(鹿島海軍航空隊司令をされた
  海軍中将 久邇宮朝融王殿下の仮官舎)




こんな所に…と霞ヶ浦の田んぼと畑の続く雑木林の森の中に隠れ家の
ように存在する豪壮な昭和初期に建築された洋館風の和洋折衷の館
です。この大日苑は、江戸崎入干拓の生みの親である植竹庄兵衛氏が
自らの居住を目的として昭和14年に建てた住宅です。江戸崎入り干拓
地を望む台地に建っています。その後、皇族であり海軍鹿島航空隊の
司令官でもあった久邇朝融王 海軍少将(当時)が一時仮官舎として使
用されました。、戦後は「大日苑」として結婚式場や宴会場としても利用
されていました。

この門構えだけを見ても普通の民家で無い事は明らかです。
現在の持ち主は、亡くなった田中角栄元総理の刎頚の友と
謂われた入内島金一氏です。彼は群馬県の出身で、角栄氏
が上京し働き始めた時の会社の先輩でありました。五反田ゆ
うポートや医療法人 高徳会 上牧温泉病院と老健施設、こ
の茨城県下では結婚式場など手広く事業を展開されておられ
たようです。
脳梗塞後の田中角栄氏を休ませる為に車寄せ前をヘリポートにして
広げたようです。しかし愛娘の真紀子さんが嫌がったとかで結局、
角栄氏が使用する事は一度も無かったようです。この屋敷以外にも
以前はもっと敷地があり別棟の建物もあったようですが、それらは既
に売却処分されたようです。今ある敷地と建物は保存する事を前提
にNPO法人に入内島氏側より委託されているようです。
この邸の構造は、洋風建築と和風建築を折衷した木造2階建です。外部意匠
は玄関アプローチから2階部分にかけてはアール・デコ風。座敷の部分は伝
統的な和風意匠となっています。明治の近代化を進める中で、和と洋を折衷
させた典型的な住宅です。戦前に建てられた中央の公官庁の施設や大資本
家の住宅と違い各部分に意匠の自由さと奔放さが見受けられ、他に例をみな
い貴重な住宅と謂えます。相当に裕福な方が建築された事は拝観するとよく
判ります。宮様である閣下の仮官舎として白羽の矢が立ったのが良く判りま
す。現在は、NPO法人 大日苑保存会が管理しています。普段は閉まってい
ますので見る事が出来ません。


惜しい事に玄関部分は、戦後に大きく改築されオリジナルとは違った
ものとなっています。本来は、車寄せに張り出した柱と雨避けの張り
出しがありましたが…張り出しは無くなり柱も撤去されています。また
日本庭園と反対側の庭に当たる部分ですがウッドデッキの舞台やバ
ーベキューが出来るような土台が作られていますが、こちらも戦後に
イベント用に作られたものとの事です。
玄関脇に置かれた一枚板の豪快な丹頂鶴が描かれた屏風です。



1階の玄関部分の前の車寄せに柱と雨避けの張り出しがあった
戦前に高松宮殿下(椅子に座られた中央の方)を囲んだ写真で
す。
久邇宮朝融王殿下の海兵生徒時代〜海軍大尉時代です。
海軍少将の基地司令時代の殿下です。殿下は久邇宮邦彦王
殿下の第一王子です。敗戦後は他の御皇族と同様に皇籍離
脱後は様々な事業に手を出されるも悉く失敗に終わり資産を
次々と売却しました。



           ◆ 久邇宮朝融王殿下 ◆

 明治34年2月2日生
 皇族・海軍中将大勲位功四級

               (略 歴)

大正10年2月     貴族院議員(皇族議員)

大正10年 7月16日 海軍兵学校卒業(49期)
             海軍少尉候補生・「出雲」乗組
大正11年 4月 8日 「霧島」乗組
大正11年 5月25日 任海軍少尉・「山城」乗組
大正11年11月 1日 「伊勢」乗組
大正12年12月 1日 海軍砲術学校普通科学生
大正13年 4月 1日 海軍水雷学校普通科学生
大正13年 7月 4日 山城乗組
大正13年12月 1日 任海軍中尉
大正14年 1月26日 伏見宮知子女王と成婚
大正14年 5月 1日 「長門」乗組
大正14年12月 1日 「阿蘇」分隊長
大正15年12月 1日 任海軍大尉・海軍砲術学校高等科学生
昭和 2年12月 1日 「陸奥」分隊長
昭和 3年12月10日 軍令部出仕
昭和 5年12月 1日 海軍大学校甲種学生
昭和 7年 5月25日   大勲位菊花大綬章受章
昭和 7年12月 1日 任海軍少佐・「榛名」副砲長兼分隊長
昭和 8年 9月15日 軍令部出仕
昭和 8年11月15日 「木曾」砲術長
昭和 9年 7月19日 「八雲」砲術長
昭和10年 8月 1日 軍令部員
昭和11年12月 1日 軍令部第一部第一課員
昭和12年11月20日 兼大本営海軍部参謀
昭和12年12月 1日 任海軍中佐・「長門」砲術長
昭和13年12月 1日 横浜海軍航空隊副長
昭和14年10月10日 第1連合航空隊参謀
昭和14年10月18日 兼支那方面艦隊司令部附
昭和14年11月15日 任海軍大佐
昭和15年 1月10日 横須賀鎮守府附
昭和15年 4月29日 功四級金鵄勲章受章
昭和15年 7月 9日 「八雲」艦長
昭和15年11月 1日 木更津海軍航空隊司令官
昭和17年 3月20日 高雄海軍航空隊司令
昭和17年10月 5日 南西方面艦隊司令部附
昭和17年10月21日 軍令部出仕
昭和17年11月 1日 任海軍少将
昭和18年 4月 1日 第19連合航空隊司令官
昭和19年 9月29日 練習連合航空隊司令部附
昭和19年(1944年)10月1日 第20連合航空隊司令官
昭和20年(1945年)5月1日 任海軍中将
昭和20年(1945年)8月25日 軍令部出仕
昭和20年(1945年)10月15日 海軍省出仕
昭和20年(1945年)11月30日 予備役

昭和22年(1947年)6月28日 妃知子女王薨去
昭和22年(1947年)10月14日 皇籍離脱
昭和34年(1959年)12月7日 逝去(享年58歳)


     引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


植竹庄兵衛氏と地元関係者、干拓事業の関係者を
招いての宴の写真と思われます。
一枚ガラスは明治の頃のガラスと同じでよく見ると
歪みがあります。昔懐かしい…小樽や函館の建物
や硝子を思い起こさせます。
枯れてしまった日本庭園が寂しいですが…再び手を
入れれば見事に再生する事でしょう。


欄間も凝っております。外から光の当たる部分はステンドガラスの欄間に
なっており…中の和室の欄間は裏表が違う風景が見える職人の匠の技
を感じさせます。全体に飴色となり良い風合いの古色が出掛けた感じで
す。豪華ですが小樽の鰊大尽として栄華を極めた青山家の別荘として建
てられ、現在は小樽市の歴史的建造物に指定されている「鰊御殿・貴賓
館(旧青山別邸)」は、大正時代に建てられた木造建築の最高傑作といわ
れ、建物のみならず、中には豪華な美術品が数多く並ぶ、まさに贅を尽くし
た「豪邸」です。そこまでの豪壮さはありませんが…辺鄙な片田舎の霞ケ
浦の農村を思うと…流石は宮様の宿泊先になる位の豪邸だと思わせます。


1階と2階にあるトイレはどちらも広いスペースを取っており贅を
凝らした作りであると思います。






二階の窓からは庭の奥に霞ヶ浦が見えます。この仮官舎から鹿島空の基
地は、車で約15分です。…基地から飛び立つ水上機を司令の久邇宮殿下
も見たものと思います。この窓から霞ヶ浦の水面に落ちる夕陽もとても
美しいものと思われます。






大日苑の由来になったと思われるのが敷地の中の林の中にひっそり
と佇むこの杜のようですが…中をのぞくと大日様です。しかも立派な
しかし…底が崩れて傾き沈んでいます。長らく手入れされていないの
で酷い有様ですが…置かれた大日如来立像も内部の作り非常に立
派なものでした。同じく昭和14年前後に建物と同時に建立されたもの
のようです。




左右の狛犬も珍しく母犬と子犬のペアです。右は
母犬の乳をのむ子犬。左は母犬の前で遊ぶ子犬
です。
邸宅の方も日本庭園など手入れもあるでしょうが
こちらの仏様も何とか陽の目を見れるように修復
して欲しいものです。


現在は、NPO法人稲敷伝統文化保存会が管理しています。
拝観希望者はこちらに連絡を取り、内部を見せていただけま
す。








〜谷田部海軍航空隊の遺構〜




谷田部海軍航空隊の基地にあった谷田部航空
神社です。敗戦時、基地が廃止となり米軍によ
る撤去命令もありましたが住民等が地元の氏
神様として現在の農林研究団地より約数百mと
近い移動距離ですが…この場所に移設して守ら
れてきました。


               ≪谷田部海軍航空隊≫

谷田部海軍航空隊は、搭乗員の初歩訓練を推進する練習航空隊であっ
た。しかし昭和19年12月に要員を総入れ替えし、昭和19年2月15日に
開かれた神ノ池海軍航空隊を迎え入れ、戦闘機操縦訓練隊に変貌した。
一方、初歩練部隊は山形県北村山郡の神町飛行場に移転し、神町海軍
航空隊を立ち上げました。菊水作戦実施直前に、教官は特別攻撃隊を編
成し、沖縄方面の特攻作戦に従事しました。

昭和7年
 茨城県筑波郡谷田部町に霞ヶ浦海軍航空隊の補助飛行場が建設され
 予科練の霞空と連動して練習機専修の分遣隊を設置することとした。
 谷田部分遣隊は昭和14年12月をもって独立した。

昭和14年
 12月1日、霞ヶ浦海軍航空隊谷田部分遣隊を独立、開隊。第十一連合
 航空隊に編入。陸上機の操縦教育を継続。 

昭和17年
 12月、予科練卒業者受け入れ開始、甲飛第8期入隊。

昭和19年
 7月頃、甲飛13期500名が大量入隊。
 11月頃、戦闘実用機訓練隊教官にフィリピン進出を命令。
 12月5日、練習生教程の甲飛13期500名を神町海軍航空隊に移転。
 当日をもって、初歩練教育を山形県北村山郡東根町の神町飛行場に
 移転し、谷田部飛行場は神ノ池空の戦闘機搭乗訓練隊に譲られた。

主力機種

 九〇式機上作業練習機
 九三式中間練習機


神ノ池飛行場は桜花と一式陸上攻撃機に占有されたうえ、多数の護衛
戦闘機も用意されたため、神ノ池空は谷田部に移転せざるを得なくなっ
た。一方で、慣熟訓練の支障となる初歩練を神町飛行場に押しやること
で、練習施設を確保した。

昭和19年
 12月5日 神之池より戦闘機搭乗員訓練生が移転
                  (定数戦闘機180機)
昭和20年
 1月31日 甲飛12期の訓練完了。
 2月10日 関東にB-29襲来。第二五二海軍航空隊・第三〇二海軍
        航空隊・陸軍第十飛行師団の迎撃に協力。
 2月16日 関東に敵機動部隊襲来。翌日まで迎撃に協力、5機喪失。
 3月 1 日 十航艦新編、隷下に入る。
 3月26日 「天一号作戦」発令、「神風特別攻撃隊・昭和隊」と制空隊
        は九州進出準備開始。
 4月 2 日 先遣隊九州着、本隊第一陣は8日着。
 4月11日 本隊第二陣16機出撃、機体不調のため14機落伍。
 4月12日 「菊水二号作戦」発動、防空隊26機出撃。空中戦で14機
        喪失。
 4月14日 第一昭和隊12機出撃、全機喪失・突入なし。
        第二昭和隊8機、鹿屋飛行場に到着。

 4月16日 「菊水三号作戦」発動。第二昭和隊出撃準備中、敵機襲来
        6機地上撃破。
 4月17日 3個昭和隊、大村海軍航空隊第三神剣隊・第七二一海軍
        航空隊第七建武隊に同行。4機喪失。
 4月22日 「菊水四号作戦」発動。制空隊全力出撃。
 4月23日 増援8機鹿屋着。
 4月25日 残る昭和隊員は七二一空建武隊に編入。
 5月 5 日 練成中の紫電18機と要員を筑波海軍航空隊に編入。
        以後、鹿屋派遣隊は九州防空、谷田部残留隊は練成に
        従事。

        終戦後解隊

 主力機種

  零式艦上戦闘機
  紫電


              引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







この移転した神社の周辺は閉鎖し解体された飛行場の
施設でも管理区域のあった地域にあたるそうです。
この航空写真の建物は神社のすぐ近くにある
大きな総合病院(筑波学園病院)です。現在、
真新しい大病院として建て換えられましたが、
戦後の当初はここにあった基地内の海軍病院
の建物をそのまま使用していたようです。この
海軍病院跡から管理部門である谷田部神社の
移転した辺りは、徒歩でも2〜3分の数百mの目
と鼻の先にあります。

更に2〜3分歩くと常磐自動車道に掛かる飛行場橋
があります。ここは唯一、飛行場があった事を連想さ
せる名前の付いた場所であります。


橋を渡ると広大な農水省の現在所管する農業工業研究所や
農林水産技術会議事務局、食品総合研究所、農業者大学校
などがあります。この橋のかかる常磐道も含め筑波学園病院
も全て谷田部海軍航空隊の基地の敷地の一部でありました。
       航空写真で見る飛行場橋です。  農業大学校や食品総合研究所などです。これ等は殆どが
 滑走路と格納庫や整備施設等があった地域でコンクリー
 トが埋まり戦後の開墾等をする上で大変だったようです。



今は跡を偲ぶ痕跡すら残されていない元谷田部空の跡地一帯ですが
当時は学徒からの予備学生士官や予科練の若者達、大勢が集い国難
に討ち勝たんと奮いたっておりました。


昭和19年の大雪の日、司令部庁舎東側の時計塔の雪景色


常磐自動車道と農水省関連の施設や総合病院しかない
現在の地域と…この上下の写真を比較して見ると…まさ
に隔世の感を感じます。上下の航空兵を見ていると兵ど
もの夢の跡…の言葉が脳裏に浮かびます。


特攻行きの別れの水杯がワイングラスと珍しい谷田部空
のワンショット。下は零戦の前で笑顔を見せる士官搭乗員
達です。學徒と想われます。
















〜東部百五部隊(陸軍柏飛行場)の遺構〜
      (陸軍航空審査部特兵隊)




陸軍柏飛行場にロケット迎撃戦闘機”秋水”の実用部隊
立ち上げる為として陸軍航空審査部特兵隊が移転配備
された基地です。ここは飛行場から少し離れた高台を利
用した秋水用の液体ロケット燃料を備蓄した隠蔽された
地下燃料庫です。本来はこの部分も地中に埋まってい
た筈なのでしょうが…大きく出ています。
すぐ横が民家でこの塀とフェンスで囲まれた壕だけが国有地として
立ち入り禁止になっています。しかし…凄いものがあるものです。
入り口は完全にコンクリで封鎖してあります。しかし厚さが判りますが
明らかに基地への空襲を避けて燃料庫をわざわざ相当に離れた場所
に設置した事は明らかなようです。







こちらも同じエリアの最も高台に当たる部分に地下より突出した
地下燃料庫からの通風口のようです。頑丈な鉄筋コンクリート
でこの筒は作られており…相当に大掛かりな地下施設であった
ことが想像されます。



実に不思議な光景です。




同じエリアで上の二つの場所からそう離れていません。
高台の下側というか中腹に当たる場所に造られた頑丈
なコンクリート製の地下燃料庫の隠蔽壕です。入り口は
戦後に鉄製のドアで塞がれています。
雑草と木々で良く見ないと中々気が付きません。当然、空中からは絶対に
判別が付かない場所です。中々、巧妙に隠してあります。





東部百五部隊の営門がそのまま今も残っています。
下が当時の営門です。衛兵が小銃を持って立っています。
下は東部第105部隊の司令部


           ≪陸軍柏飛行場(別名:東部第105部隊)≫


 総面積 - 約264ha(敗戦時)

 滑走路 - コンクリート舗装1,500m×60m(ターニングパッド1箇所)

 飛行機分散秘匿誘導路(転圧) - 東/1,600m、西/3,400m、北/576m

 兵舎収容人員 - 約1,500名分

 掩体 - 79基(無蓋)

 燃料集積(昭和20年5月) - 航空機用揮発油ドラム缶2,000本
                   自動車用40本

 弾薬集積(昭和20年5月) - 13粍弾6万発、20粍弾4万発、500kg爆弾
                   30発、250kg爆弾50発、100kg爆弾240発


昭和12年に地元振興策の一環として軍施設誘致活動を行った結果、首都周
辺に防空用飛行場用地を求めていた陸軍の計画にもとづき飛行場が開設さ
れることとなり、昭和13年11月に完成した。また昭和14年には、飛行場南側
の十余二梅林地区(後の柏機械金属工業団地付近)に飛行機の整備等の訓
練・教育を行う第4航空教育隊(東部第102部隊)、飛行場西側の八木村(現
・流山市)駒木新田地区に飛行機の整備・点検等を行う陸軍航空廠立川支廠
柏分廠が開設されました。当初は防空用飛行場としてよりも練習用飛行場とし
て使用される傾向があったが、大東亜戦争末期には、B-29などによる空襲に
対する防空のため、飛行第87戦隊、飛行第1戦隊、飛行第18戦隊、飛行第70
戦隊の各部隊が駐留し、関東地方への本格的な空襲が始まった昭和19年後
半以降は頻繁に邀撃が行われた。また、日本初のロケット戦闘機”秋水”の実
用実験の為、昭和20年に入ると東京都福生市の多摩飛行場から陸軍航空審
査部特兵隊が展開し、飛行場に隣接する法栄寺(流山市駒木台)を宿舎として
敗戦までこの柏飛行場で飛行実験を行いました。また飛行第70戦隊は、秋水
を装備する予定でありました。昭和20年8月15日の敗戦により陸軍柏飛行場
の武装解除します。 昭和20年9月に占領軍の指示により、飛行第70戦隊の
二式単戦”鍾馗”4機を横須賀海軍航空隊(追浜飛行場)へ空輸します。 昭和
20年10月20日に米陸軍第112騎兵連隊戦闘団砲兵中隊が進出し占領されま
す。戦後は、米軍に接収されて柏無線送信所(後の柏通信所)となりますが。
その後返還され、跡地は現在、防衛省航空自衛隊航空システム通信隊システ
ム管理群柏送信所と千葉県立柏の葉公と東京大学柏キャンパス、柏の葉公園
住宅となっています。

            引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


上下とも柏飛行場で飛行第70戦隊・二式単戦”鍾馗”です。





柏市(教育委員会)が編纂したA4判の”歴史アルバム
かしわ”(昭和59年)にある旧柏飛行場の図です。
現在も自衛隊が使用している通信施設です。戦後は
米軍が使用していました。
上の航空写真から判るように現在の柏の葉公園の脇の50m道路に
被るように1500mのメイン滑走路が国立がんセンター東病院や東大
方向に向けて走っていました。
柏基地での二式戦”鍾馗”




帝都防空隊の極致ともいうべき
      対B-29体当たり特攻部隊

      第一震天制空隊




柏基地では、新兵器としての秋水の開発・習熟
・訓練基地であると共に陸軍の調布・成増基地
海軍の厚木基地と並ぶ帝都防衛の要となる防
空隊の拠点基地でもありました。他の基地同様
に柏基地においても震天制空隊が組織されて
B-29に対する特攻が行われました。



柏基地の飛行第70戦隊の第三中隊長 吉田
好雄 大尉です。下も愛機の二式戦U型乙
です。吉田大尉は昭和20年3月10日から5月
27日までにB-29を夜間戦闘で6機撃墜した
エースです。


昭和20年6月頃に雑誌の取材で撮影された70戦隊の搭乗員達の
写真です。全員が少飛出身の伍長〜軍曹です。




柏基地で陸軍側の特兵隊の面々です。



海軍で行われたテスト飛行の写真です。
搭乗しているのは犬塚大尉です。


                ↑↑
上の画像をクリックすると下に掲載された秋水など
の収集品も収載してある帝國陸海軍資料館のペー
ジにジャンプします。(以下の紹介する秋水は、陸軍
側のものでなく海軍の開発した秋水に関するもので
す。)
海軍がテスト飛行した時の写真です。下は墜落した犬塚大尉機です。
横須賀海軍航空隊追浜飛行場のテスト飛行で
殉職された若い犬塚豊彦大尉(戦死後、少佐)。








ロケット戦闘機”秋水”の保管燃料呂号大瓶




以前の所持者の伯父上が戦前、碍子に勤務しており記念に所持していた
物のようです。「秋水」を製造していたのは、静岡の三菱発動機でしたが
燃料の保存用の容器は、陶器製で日本硝子が作成に当たりました。こち
らにお勤めなされていたようです。秋水は、良く知られるように同盟国
ドイ
ツより伊号潜水艦によって入手されたメッサーシュミットMe163bコメートの
僅かな資料を元に、三菱重工名古屋工場で開発されました、我国初の
ロケット戦闘機『秋水』の燃料保存用の容器です。呂号大型瓶と呼ばれ、
甲液(80%濃度の過酸化水素水)、乙液(水化ヒドラジン)の2種が実践時
混合使用される事から、対激性・腐食性を考慮して日本碍子により常滑焼
中心にした陶器で作製されました。現在『秋水』は下の画像の通り三菱重
工によって復元され脇には呂号大型瓶(甲液用)が説明文と共に展示され
ております。残念ながら『秋水』は第1回テスト飛行に失敗し一機の実戦投
入もなく、この新鋭機開発は、敗戦を向え終了ました。甲液・乙液用セット
呂号大瓶は極めて貴重な物であり、現存するものが殆ど無いのでは、無い
かとおもいます。 

                   サイズ(2個とも) 高さ47cm×胴径26cm 


秋水に搭載された空技廠製の特呂2号ロケットエンジンです。



十九試局地戦闘機 秋水 :J8M(海軍)・キ-200(陸軍)



秋水の計画は、海軍がB29完成の情報を基に高高度から飛来し与圧室
や排気タービン過給器を持たない我国の防空戦闘機隊や高射砲が無効
となる事を予期しドイツのMe163bコメートやMe262と言ったロケット推進
、ジェット推進の戦闘機に目を向けた事から始まります。昭和18年 伊29
潜水艦は、巌谷真一海軍技術中佐を乗せドイツ(フランス)より、7月14日
にシンガポールへ寄港する。巌谷中佐は、シンガポールより空路で帰国
する。主にMe262の資料を中心に持ち、Me163bの資料の大半は、伊29
にあったそうです。伊29は、帰国の為、シンガポールを出港するが同年7
月26日、バシー海峡にて米潜水艦ソードフィッシュの雷撃に遭い撃沈され
ます。結局、Me163bの僅かな資料しかもたらす事が出来ませんでしたが
空技廠長 和田操中将の決定で秋水の計画は、発動となりました。陸海
軍が共同開発となり、機体は、海軍主体で三菱重工名古屋航空機製作所
が担当、エンジンは、陸軍が主体となり三菱重工名古屋発動機研究室が
担当しました。機体よりエンジンの開発に手間取り、陸軍に任せておけず
海軍がエンジンも手掛けて僅かな青図からほぼ不可能と言われた完成を
見ました。従って国産と言って間違いの無いロケット戦闘機と言えます。

昭和20年7月7日試験飛行で搭乗する312空(第一飛行隊分隊長)
犬塚豊彦大尉(海兵70期)。この後、発進し順調に高度を伸ばすと
思われたが高度500m前後でエンジンがストップし、何度か再始動
を行うが点火せず、諦めて燃料を捨てた大尉は、安全の為、もしも
の時は、海に着水しろと勧めてられていたが周回し飛行場への着
陸を行う。無事に着陸するかに見えたが基地内の木造の小屋の対
空哨戒櫓に翼を引っ掛けて着陸する。衝撃で大尉は、入院後に死
亡する。その後、計画は、凍結されました。…これが我国初の有人
ロケットによる初飛行となりました。エンジンストップの原因は、燃料
を半分に減らした為、急角度で上昇した秋水が鋭角になった時に
燃料が遮断された為と言われています。

当初、横空内の空技廠で初の実戦部隊として昭和19年に大村空
元山分遣隊で訓練中だった予備少尉16名が選ばれ横須賀航空隊
の分隊長 小野二郎少佐(海兵64期)元に集結し訓練が開始され
ました。昭和20年2月5日に横須賀海軍航空隊 312空として開隊さ
れます(司令 柴田武雄大佐)。この16名の第一飛行隊の分隊長
がテスト飛行で殉職する犬塚豊彦大尉(海兵70期)でありました。

我国が敗戦の間際に唯一、飛ばせた有人ロケットです。…秋水は、
B29邀撃の切り札とされましたが既に特攻機として準備計画され、
この為の要因として予科練生を集めて秋田に送り、土浦空秋田分遣
隊として800名、更に三重空特一部として1200名が訓練を重ねてい
ました。

      =秋水・データ=

全長: 5.95 m
全幅: 9.50 m
翼面積: 17.73 m2
上昇限度: 12,000 m
上昇能力: 10,000 m (所要時間3分)
航続時間: 約 4 分
武装: 30mm機関砲×2
乗員: 1 名


戦後、米国でテストされる秋水

柏飛行場の秋草(練習用の軽滑空機)








〜 お ま け 〜




関東の霊峰”筑波山”と筑波山神社




関東では西の富士山と東の筑波山と称される霊峰の筑波山です。その中腹には
約三千年の歴史を有す筑波山神社があり筑波山そのものを御神体(男体山と女
体山)としています。この日本百名山のひとつにも挙げられる筑波山に行き筑波
神社を参拝して参りました。
晴れた日にはこのように二峰と美しい稜線を持つ筑波山。その優雅な山容は
古来より高貴な色、紫で表され”紫の山”、”紫峰”と呼ばれました。下は霞ヶ浦
から見た筑波山です。かつてこの周辺には筑波空や百里空、霞ヶ浦空などの
海軍航空隊や陸軍の航空隊も茨木、埼玉、千葉には多く存在しました。多くの
航空搭乗員にとって必ず目に入る目印となるシンボリックな山でもありました。
日頃の行いが悪い為か…私がこの坂東無双の霊山・筑波山を30年ぶりに目指した
日は曇りで中腹より上はガスで山裾から上は見えない状態でした。
筑波神社の大鳥居近くの建物から筑波山を背に霞ヶ浦〜東京方面を撮影した
ものです。…靄っていて遠くが見えません。冬の晴れた日は富士山が見え、夜
間なら夜景がとても美しくスカイツリーも見る事が出来るのですが…。











  〜東峰(女体山 ・標高 876m)〜

筑波女大神 :女体山祭神(伊弉冉尊)




東峰の女体山の山頂の御本殿です。ガスで何も見えません。








ケーブルカーの女体山駅です。







  〜西峰(男体山 ・標高 871m)〜

筑波男大神 :男体山祭神(伊弉諾尊)




筑波山は二峰あり登頂するには三経路あります。
普通に登山道を登る方法と東峰側のロープーウェ
ーで登頂する方法。そして西峰側のケーブルカー
で登る方法です。いずれにしても二峰とも駅のある
場所から山頂は少し歩きで登らなければなりませ
ん。若い人に交じりヒーヒー謂いながら中高年の方
が大汗をかきかき登っておりました(苦笑)。
筑波山の中腹以下はガスもなく普通です。こちらがケーブルカーの
宮脇駅です。あいにくの天気のせいで訪れる人もまばらです。








山頂は下界に比べ気温が6℃位低いのですが、ガスのせいでもの凄い湿気です。
このガスでは下界はおろか…左右の山頂すら見えません。
男女山の連絡通路のような感じの御幸ヶ原です。売店や食
堂が立ち並んでいます。
この御幸ヶ原より男体山の山頂を目指します。結構、急峻な登坂でガスで濡れた
岩肌は滑りやすく怖かったです。大昔上った時は快晴のときだったので条件が違
うとこうも変わるのかと驚きました。(下は晴れている時の山頂への道です。)







西峰の男体山の山頂の御本殿です。こちらもガスで何も見えません。
御本殿は江戸城を向いています。この筑波山は徳川幕府の守護山と
して崇められておりました。



下界は何も見えません!



こちらは明治35年に開設された山階宮筑波山測候所が7年後に国に寄贈され以来
中央気象台附属筑波山測候所として運営されてきました。そして明治42年から平成
13年12月にアメダス(地域気象観測システム)観測地点の統廃合により廃止される
まで,百年以上にわたり我国の山岳気象観測の拠点としての一翼を担ってきたこの
中央気象台附属筑波山測候所は役割を終えて閉鎖されました。その4年後に筑波
大学大学院生命環境科学研究科の大気科学・水文科学研究グループが筑波山気象
・水文観測プロジェクトとして平成18年1月より筑波山・男体山山頂の旧筑波山地域
気象観測所施設内において気象観測ステーションを始動させました。しかしそのプロ
ジェクトも既に終了し、平成24年からは筑波大学の計算科学研究センターの事業の
一つとして、新たに”筑波山プロジェクト”(担当:日下 博幸 准教授)として引き継が
れています。
一見すると看板も表札もなく廃屋のような感じですが…今も無人の施設の中で
監視カメラや計測が行われデーターは地上に送られています。下のバナーから
サイトを見るとそのリアルタイムのデータや画像を見る事が出来ます。


左上は終わってしまった筑波山気象・水文観測プロジェクトのサイト。
下は現在、引き継がれた筑波山プロジェクトの公式サイト。右上は今
もデーターや山頂のカメラ画像を配信する筑波山プロジェクトのサイト
の一部です。それぞれクリックするとサイトが新しいウィンドウで開き
ます。







〜 筑波山神社 〜

























〜 脱 線 3 〜




牛 久 大 仏










          ↑
クリックで公式サイトが開きます。









































次のページの内容紹介です。

 ・陸軍成増飛行場
 ・神ノ池海軍航空隊
 ・北浦海軍航空隊
 ・百里原海軍航空隊
 ・振武台陸軍病院
 ・巣鴨プリズンの跡
              …etc.

ページの一番下にある Next Page
をクリックして2ページ目へお進み
下さい。







メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。

こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。