旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_16














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








有馬 良橘 海軍大将が紀州徳川家
 当主 徳川 頼倫 侯爵より拝領し海軍
   士官短剣に仕込んで愛用された短刀
                  (阿州 正宗)




有馬 大将が士官短剣に収めていた短剣です。純銀に18金で鍍金された三つ葉葵
の目貫に黒漆塗りの短刀拵えに入った見事な短刀です。この短刀が…日露戦争の
序盤の大作戦の一つとなった旅順口閉塞作戦の詳細を煮詰め自らが指揮官となっ
て参加した有馬 良橘 海軍大将(当時、第一艦隊参謀)が主家である紀伊徳川家
十五代当主の 徳川 頼倫 侯爵より拝領し長らく海軍士官短剣の拵えに収め愛用さ
れた短剣です。






まだ参謀時代の若かりし頃の有馬提督の写真です。
有馬 良橘 と聞いてもピンとこない若い方は、 司馬
遼太郎の原作をNHKがドラマ化した”坂の上の雲”で
俳優の加藤 雅也 氏が演じた役と謂えばお分かりか
と思います。(下の方が俳優の加藤 雅也 氏)


惜しい事に提督の佩用した海軍士官短剣の外装は転売され行方不明です。
最後に確認された時の昭和40年の図鑑に残された写真からのものです。






短刀自体の由来です。随分と古いもののようです。確かに下のように士官短剣
として収めれば違和感が余りありませんが…短刀としてみれば明らかに異質で
厚みのある正に鎧通しです。


紀州徳川藩の出身であった有馬良橘が、明治の紀州徳川当主である徳川頼倫から拝領し
海軍将官在籍中は海軍短剣の外装に納めていた短刀。
左上の方は主家筋となる紀伊徳川家十五代当主になる 徳川 頼倫 侯爵(正二位勲一等)です。
元々は御三卿の一つ田安徳川家第八代当主の 徳川 慶頼 公の六男として生まれ、紀州徳川家
最後の藩主となった第十四代当主の徳川 茂承 公の養子になりました。一方、右上の有馬 良橘
 大将の父・有馬 元函 は紀州藩士であり、紀州徳川家家臣として幕臣で戊辰戦争に参戦転戦し
た為に…長男であった提督が幼少の頃は朝敵扱いされ辛酸を舐めたエピソードが残されておりま
す。この短刀は、 有馬 良橘 提督が徳川 頼倫 侯爵から拝領しました。既に明治が終わってより
百年以上が経過しています。思えば明治も遠い歴史の彼方になりました。その歴史を担った方が
残した貴重な品と謂えると思います。

        ◆ 有馬 良橘 海軍大将 ◆

  海軍大将正二位勲一等功三級


  文久元年11月15日生、和歌山県出身 
  海兵12期 


            〜 略 歴 〜


明治15年 9月30日  海軍兵学校入校
明治18年10月24日  筑波乗組
明治19年12月 7日  海軍兵学校卒業(12期)
              任海軍少尉候補生・高千穂乗組
明治21年 1月13日  任海軍少尉 高千穂分隊士
明治21年 4月 9 日  天城分隊士・航海士
明治22年 6月25日  天城航海長心得
明治24年 4月21日  千代田航海長心得
明治24年12月14日  任海軍大尉
              千代田航海長
明治27年 4月23日  浪速航海長・分隊長
明治28年11月16日  横須賀鎮守府参謀
明治29年10月24日  侍従武官
明治30年12月 1日  任海軍少佐
明治32年 9月29日  任海軍中佐
明治32年12月21日  常備艦隊参謀
明治34年 5月 1日   三笠航海長
明治36年 4月21日  常磐副長
明治36年10月27日  常備艦隊参謀
明治36年12月28日  第一艦隊首席参謀
明治37年 4月18日  大本営附
明治37年 5月24日  音羽艦長
明治37年 7月13日  任海軍大佐
明治38年 6月14日  笠置艦長
明治38年12月12日  竹敷要港部参謀長
明治39年11月22日  磐手艦長
明治40年12月27日  第二艦隊参謀長
明治41年12月20日  海軍砲術学校校長
明治42年12月 1日   任海軍少将
明治43年12月 1日  軍令部第一班長
大正元 年12月 1日  第一艦隊司令官
大正2 年12月 1日   任海軍中将
大正3 年 1月28日   将官会議議員
大正3 年 3月25日   海軍兵学校校長
大正5 年12月 1日   海軍教育本部長
大正6 年 4月 6日   第三艦隊司令長官
大正8 年11月25日   任海軍大将昇進
大正8 年12月 1日   海軍教育本部長
大正11年 4月 1日   予備役編入
大正11年 4月20日   正三位
大正15年11月15日   後備役編入
昭和6 年9月14日    明治神宮宮司
昭和6 年11月15日   海軍退役
昭和6 年12月26日   枢密顧問官
昭和14年10月21日   議定官
昭和18年 8月27日   免明治神宮宮司
昭和19年 2月 1日   正二位
昭和19年 5月 1日   逝去(84歳)
              勲一等旭日桐花大綬章


よくある普通の薄い刀身ではなく、鎧通しのような造り込みで、刀身は
長さ14.8cm 、元重ねがmm もある豪壮なものです。


添えられた古い袋に"頼倫公拝領 阿州正宗"、裏に"良橘"という刺繍があり
伝来が分かります。現在は拝領した当時頃の黒漆塗短刀拵に収まり、葵紋の
目釘目貫になっています。


隕鉄など異種の鉄材を混ぜた作と謂うのも頷ける不思議な刀身です。銘は"正宗"
と切ってあり、袋に"阿州正宗"とあるので、幕末安政年間頃の阿波國の刀工です。
柾に杢目の鍛肌が顕著に出ており、刃紋は小互目のようです。
有馬良橘には子がなく養子を取りました。有馬 寛
海軍中将です。家督を相続しましたが昭和26年に
他界されております。彼の子孫が受け継いで保管
した模様です。昭和38年の4桁番号の和歌山県
の登録証です。


短刀が収められていた時代の古そうな御家紋入りの塗箱です。
箱はかなり痛みが激しく御家紋が薄れております。


         一番上が菊の御紋です。        五七の桐の桐花紋が真ん中です。         一番下が三つ葉葵の御家紋です。



箱の中は痛みなくきれいなものです。








刀袋には、片側に”良橘”と提督の名前があり、別な面に
は、”頼倫公拝領 阿州 正宗”と刺繍が施されています。
































有馬良樹橘海軍大将の書を印刷した手拭です。
明治神宮宮司 有馬良橘 海軍大将の書と名が印刷された手拭です。
”挙国感激”と書かれています。このタオルは記念の手拭で関係者に
配られたものと思われます。”寄贈者 侯爵夫人 西郷 豊子”と書か
れています。西郷 隆盛の弟、西郷 従道 海軍大将 侯爵の夫人は
清子ですので、従道の二男、従徳の夫人 豊子と思われます。西郷
従徳は陸軍大佐で侯爵家を継ぎました。豊子夫人は岩倉具視の孫で
す。手拭のサイズは横90p、縦30p。








有馬 大将は,御存じのように東郷 平八郎 元帥海軍大将の側近中の
側近であった人物でした。この為、有馬 大将は東郷提督の国葬の葬
儀委員長をつとめられました。また有馬提督は”サイレントネイビー”を
地でいくような方で明治・大正・昭和の三代に渡る各天皇の信任が篤
い事でも有名でした。特に明治天皇の侍従武官を務めた事からも晩年
は明治神宮の宮司を再び勤められました。その生活は位人臣を極めた
方とは到底思えない
と清貧を極めたものだったと謂われます。この上下
の画像は有名な宮中杖です。御和15年、80歳で有馬 元提督は特旨
を以って宮中杖差許の辞令に目録(宮中杖料)を下賜されています。
明治以降に宮中杖を賜わる栄誉を受けた方は非常に少なく…親任官
にして齢八十を越える者、特旨による者、三朝に歴任した旧公家当主
と定められて受けた方は、国民として最高の名誉とされました。尚、昭和
に入ってからは敗戦までに有馬元提督を含めて10人だけしかおられま
せん。







十三期豫備學生(後期)として
 敗戦時、詫間空の特攻隊員で
  琴平水心隊を見送り生き残った
   宇野 浩一 海軍少尉のアルバム等




13期予備学生(後期)で水偵搭乗員となり三座水偵(零式水上偵察機)
で詫間空の特攻隊員として敗戦を迎えた宇野 浩一 元海軍少尉が戦後
も大切に保存されてきた貴重な遺品を紹介します。


御当人が所持していた寄書のある日章旗です。
13期予備学生は、全国7万人の志願者の中から選抜された5200名が入隊しました。
13期後期は昭和18年9月から土浦空と三重空に分散して約四か月間の基礎教育を
受け、飛行要務士に回らざるおう得なかった者を除く約4700名が搭乗員となり…うち
約1600名が戦死されました。





千人針です。武運長久の文字と、トラの形に千人針が縫われています。
”虎は千里行って千里帰る”と謂われているので無事の帰還を祈りこの
千人針を家族が街角に立って縫い付けをお願いしたのでしょうか…我子
の無事を願う母親の願いが込められている気がします。
千人張に五銭硬貨が縫い付けてあります。”死線を越えて五銭、苦戦を超えて十銭”
と謂い…五銭と十銭の硬貨を縫い付けるのが流行していました。この千人針では五銭
のみが縫い付けられています。



航空手簿が残されていますが、記載は一切ありま
せん。復員時に搭乗員は戦犯とされる可能性があ
るとされて身の回りの証拠になる様な品を処分する
ように指示があった部隊も多かったようです。





アルバムの紹介です。
三重海軍航空隊司令をを当時勤めていた古瀬 貴季 海軍大佐(海兵42期)です。
この方はこの後、比島の菲島海軍航空隊(後に北菲海軍航空隊)の司令として
フィリピン防衛戦を戦います。昭和20年3月にマニラ市街の攻防戦に海軍陸戦隊
が敗れてマニラ市街から撤退した残存兵はマニラ南部の古瀬部隊に合流し再編
成されました。この時期既に北菲海軍航空隊は名ばかりで航空機も無く陸兵とな
って敗戦をした迎えました(敗戦時、古瀬 司令は海軍少将に昇進されていました)。
三重海軍航空隊の副長だった藤村 正亮 海軍中佐(海兵49期)です。





























宇野 浩一 氏が所属した第十分隊の分隊長と分隊士。
こちらの分隊長の川橋 省三 大尉も大先輩になる六期飛行豫備學生
で開戦前に海軍の門を叩いた方です。この方は戦後も存命で白鴎遺
族会の六期理事として…多くの戦没者慰霊際に参加され祭文等を奏
上されておりました。下の方は分隊士の勅使河原 正彦少尉とありま
す。恐らくこちらの方も12期辺りの予備学生と思われます。







昭和18年9月から翌19年5月末までの僅かな
期間だけの海軍少尉候補生時代の写真です。



戦時特例の窮余の策でありますがスピード出世で海軍少尉です。
その姿を見て本チャンの海兵での士官が若気の至りで腹を立てて
彼等、予備士官に鉄拳制裁を加えた気持ちも判らなくもありません。
しかし国家の緊急事態に学業を半ばで切り上げて死出の旅に向か
う学徒の気持ちを汲めれば…愚かな妬み僻みなど無意味な事と気
がつく筈ですが…特攻に際しても多くが学徒の予備士官や予科練出
の下士官や特准と呼ばれた叩き上げの特務士官や准士官がメイン
で出撃させられ…海兵出の士官は温存されました。この若き優秀で
純粋な学徒に支えられた特攻と謂って過言とは思えません。もし特
攻死した若き学徒達が存命であったなら国家を担う優秀なエリートと
して想像もつかない国家…いや世界に貢献する働きをしたものと想
像します。
























十三期後期で水上機に回された同期の仲間でしょう。誰しも希望は第一志望
は戦闘機。しかし誰もが希望通りに戦闘機に回されません。陸上機の攻撃機
爆撃機、偵察機・・・水上機と花形ではありませんが、適正を考慮され選別さ
れましたが・・・生死を左右する選択ですから予備学生たちには、悲喜交々の
結果が待ち受けたようです。


三重空で飛行専修予備学生の基礎機教育を済ませ操縦に回った中で水上機の
者は鎮海海軍航空隊で転勤しパイロットとして歩み始めます。土浦空で基礎教
育を終えた十三期の水上機の者は北浦空に転じました。以降、中練教程が始ま
ります。約四ヶ月の九三式水上中間練習機での訓練を終えて水上機の実機練
習部隊である詫間海軍航空隊へ移動しています。その途中、博多空での記念
撮影です。前列左から三人目で座って写っているのが宇野少尉です。この博多
空もまた水偵操縦の偵察実用機教育を担った部隊でしたが、他隊と同様に特攻
の実戦部隊に姿を変えていきました。


有名な神風特攻隊の琴平水心隊です。この余りに旧式な九十四式水偵
で出撃する特攻隊は・・・数あるほかの特攻隊に比べても特段心に残り
ます。しかも多くがエリートである学徒の予備学生達です。無駄死に飛ぶ
のに三名も乗せる必要が到底あるとは思えず・・・下命し送り出した海軍
の上層部の神経が理解できません。せめて送るにしてもパイロット一名で
十分だったでしょう。


笑顔で出撃する三名のペアー・・・若い学生を無駄死にさせ30代以上の壮年の
職業軍人は誰ひとり出撃させず、昨日まで学生服を着ていた若者と予科練の
少年達・・・10代と20代前半の若者を次から次へと死地に送り込んだ罪は今も
消えてはいません。しっかりとした総括もなされず・・・この日本は今に至ってい
る気がします。取るべき立場のものが責任を取らない無責任体質は、現在に
受け継がれ・・・福島第一原発対応の菅総理の無能の責任も問われず、年金
問題を起こした厚労省の役人も誰も責任を取りません。


特攻自体が酷いものであるが・・・水上機や白菊や赤トンボで特攻に行かせる
神経が許せ無い気がします。零式水偵は800kg爆弾を九四式水偵は500kg
爆弾を抱いて出撃させています。零式水偵の最高速度は367km/hで九四式
水偵が260km/hでしかありません。重い爆弾を腹にだけば零式水偵は出せて
も200km/h以下でしょう。九四式水偵など150km/h以下でヨロヨロと飛んだ事
でしょう。米軍機のF6Fグラマンが600km/hを越す優速で飛ぶので…止まって
いるような速さの標的でしかなかった筈です。まさに死にに行くような出撃だと
判っていながら飛ばざるおう得ない状況・・・行かせる方もどうかしているとしか
思えないまさに狂気の沙汰です。命令を出して送り出した側の職業軍人で敗戦
後に責任を取った人は本当に僅かしか知りません。
こちらの二機の三座水偵は尾翼にキタの記載が読めるので北浦空の水偵だと
判ります。従って同じ指宿から前後して出撃した三座水偵と九四式水偵の混合
で出撃した第一・第二魁隊の出撃前の写真と思われます。其々、昭和20年5月
4日(第一)と昭和20年5月11日(第二)の魁隊が出撃しましたが・・・零式水偵
が二機出撃したのは第一魁隊だけなので第一魁隊の出撃前の写真だと思われ
ます。この二機のどちらかがこのサイトの別ページでも紹介している舟津 一郎
海軍少尉(予学14期)が操縦して出撃した機体だと思われます。
上の左右のどちらの機体かは判りませんが、この機体に搭乗されたのは
第一魁隊の操縦:舟津 一郎 少尉(予学14期)、偵察:前原 喜雄 少尉(
予学14期)、電信:山本 謹治 少尉(予学14期)のぺアか、操縦:飯塚
英次 上飛曹(甲飛8期)、偵察:野見山 俊輔 少尉(予学13期)、電信:
金子 清明 二飛曹(甲飛13期)のペアのどちらかと思われます。

〜指宿基地より出撃した北浦空の魁隊〜


昭和20年5月4日出撃 7機

神風特別攻撃隊 第一 魁隊



 零式水偵(800kg爆弾)2機

一番機  0530出撃

偵察:野見山 俊輔 少尉(予学13期)
操縦:飯塚 英次 上飛曹(甲飛8期)
電信:金子 清明 二飛曹(甲飛13期)

二番機  0600出撃

操縦:舟津 一郎 少尉(予学14期)
偵察:前原 喜雄 少尉(予学14期)
電信:山本 謹治 少尉(予学14期)


 九四水偵(500kg爆弾)6機  0600出撃

一番機

操縦:宮村 誠一 少尉(予学13期)
偵察:玉木 麻人 少尉(予学13期)
電信

二番機

操縦:渡部 庄次 少尉(予学14期)
偵察: 林  元一 少尉(予学14期)
電信

三番機

操縦:中村 正一 一飛曹(甲飛12期)
偵察:岩佐 忠男 一飛曹(甲飛12期)
電信

四番機

操縦:佐藤 憲次 少尉(予学14期)
偵察:碇山 達也 少尉(予学13期)
電信

五番機

操縦:武井  清 少尉(予学14期)
偵察:中島 之夫 少尉(予学14期)
電信

六番機

操縦:山口 龍夫 少尉(予学14期)
偵察:河野 宗明 少尉(予学14期)
電信



昭和20年5月11日出撃 2機

神風特別攻撃隊 第二 魁隊



 零式水偵(800kg爆弾)1機 0400出撃

操縦:四方 厳夫 中尉(予学13期)
偵察:飯沼  孟 少尉(予学13期)
電信:大日向 景介 一飛曹(甲飛12期)


 九四水偵(500kg爆弾)1機 0400出撃

操縦:阪本 明   少尉(予学14期)
偵察:山崎 誠一 少尉(予学14期)
電信


昭和20年4月29日、指宿基地を出撃線とする琴平水心隊の零式水偵
操縦:安田 友彦 少尉 (予学13期) 、偵察:井上 静夫 少尉(予学14期)
電信:小住 昭雄 二飛曹(甲飛12期)の3名のペアです。



同じく昭和20年5月28日に指宿基地を出撃した琴平水心隊の零式水偵
操縦:山口 平 少尉(予学14期)、偵察:細田 真仁 一飛曹(乙飛18期) の
ペアです。



詫間空の零式水偵のパイロットだった宇野少尉です。同期や十四期の
予備学生達の出撃を見送りました。そして自分の出撃の出番を待った
わけですが・・・彼の所属した琴平水心隊は、昭和20年4月29日に5名
を皮切りに、5月4日に27名が出撃、5月28日に7名が出撃。前後して
北浦空の第一魁隊が18名、鹿島空の第二魁隊が5名、福山空から琴
平水偵隊が3回に分けて6名と1名と2名が出撃。天草空からも十二航
戦水偵隊として3回に分けて3名、9名、2名がこの指宿基地より出撃し
ました。いずれも下駄履きで零観(零式観測機)または三座水偵(零式
水偵)か九四式水偵でありました。



宇野少尉はこの三座水偵で出撃予定でした。零式水偵に
しろ九四式水上偵察機にしろ・・・ただでさえ遅い下駄履き
に爆装させて出撃させるなど無駄死にを命じるも同然でし
た。既に陸上機の零戦であっても爆装し鈍速になった特攻
機が万全の構えで臨む米軍の哨戒網を抜けて米機動部隊
に特攻を成功させる確率は最早、初期の特攻のように高い
確率でもなく・・・まして下駄履きの水上機が800kg爆弾を
抱いて米軍機が赤子の手を捻るように撃墜できる鴨ネギの
ような出撃をさせた軍上層部の命令は犯罪に近いものだと
言えるでしょう。

"零式水上偵察機(E13A) 性能”

・全長:11.49m、全幅:14.50m、全高:4.70m
・全備重量:3650kg、翼面積:36.20u
・乗員:3名
・最高速力:367 km/h
・主要兵装:7.7mm機銃1丁(旋回1)
・生産数:約1423機


20年4月、遂に水上機さえも特攻機となった。第一魁隊員の特攻出撃
で北浦空を飛び立つのを帽触れで見送る基地隊員…。霞ヶ浦より南九
州の指宿基地へ移動し・・・沖縄へ向けて出撃しました。



哀しき翼の九四式水上偵察機(2型)…。
川西航空機(現在の新明和工業)が世界のTOPに
立つ水上機メーカーとなる足掛りを作った機体と言
える九四式水偵です。

複葉・双フロートの水偵で日華事変の前期から大東亜戦争
の末期まで活躍しました。水上基地、戦艦・重巡洋艦・水上
機母艦のカタパルト発射用水偵として使用された”複葉3座
水偵”の傑作機です。水冷式エンジンの旧型を94式1号機
(E7K1)、空冷式星型エンジンを94式2号(E7K2)と区別して
います。機体は、鋼管フレームの骨組み羽布張り、フロート
は全金属製、約12時間の航続距離を持ち、安定性、操縦性
凌波性ともに単発の水偵としては、抜群の性能を持っていた
名機です。敵の艦船や潜水艦を攻撃するために、胴体の下
に60Kg爆弾を2個または、30Kg爆弾を4個取り付ける事もで
きました。大戦の最後は、500kg爆弾を抱いて特攻に出撃し
た悲しい翼です。

   ”川西 九四式水上偵察機(E7K) 性能”

・全長:14.41m、全幅:14.00m、全高:4.55m
・全備重量:3000kg、翼面積:43.6u
・乗員:3名
・最高速力:259 km/h
・主要兵装:7.7mm機銃3丁(機首2、旋回1)
・生産数:約530機



九四式水偵の前で出撃命令を受ける水心特攻隊員。
また同様に北浦海軍航空隊からも予備学生達が同じ
水上機で魁隊が同時に指宿基地を出撃ししています。
別杯。詫間空より特攻機地の指宿へ旅立にあたり司令と
最後の別れを交わす水心特攻隊員。


上のバナーをクリックすると詫間空の琴平水心隊と同じく
指宿より出撃した北浦空の第一魁隊で特攻散華された
慶応大出身の舟津 海軍少尉の品を展示したページが
開きます。また下のバナーをクリックすると琴平水心隊や
第一魁隊が特攻で飛び立った指宿基地の遺構を紹介し
たページが開きます。



指宿基地から出?した第一魁隊が錬成した北浦空
の遺構を紹介したページです。



以下はアルバムの中から抜粋した御本人と十三期豫備学生(後期)
の仲間達の写真です。三重空から青島空、上海、鎮空、詫空まで。







































まだまだ学生気分が抜けていないようです。



























錬成の任地でも同世代の学生とは気が合うのは当然です。
ペンを操縦桿に置き換えた若者と白衣を手にする医学生です。



学生服と海軍士官制服を見ると・・・国が彼等、学徒に美しい死に衣装を与えた
感を受けます。当時の若者の憧れの海軍士官の制服に短剣を吊り、この後の
僅かな期間に多くの一三期豫備学生達は特攻機で散華しました。













































かつてこの国は存亡の危機迫る国難にあたっては職業軍人でもない学生達が
ペンを銃に操縦桿に持ち替えて同胞民族国家の為に学業半ばに立ち上がり
その若い生命を散らしました。・・・今の日本の若者は同じような危機の中でどう
対処するでしょうか?・・・中国が尖閣から様々な口実で侵略を開始した時に・・・
腑抜けた戦後の在日朝鮮人教師の作った日教組の馬鹿げた教育で育った戦後
世代の日本人は・・・この敗戦末期に戦った学徒のように国や家族を守る為に戦
う事が出来るのか甚だ疑問であり・・・不安を感じます。一日も早く反日自虐史観
に貫かれた教育を受けてマスゴミの洗脳され腑抜けになった人々の目を覚醒さ
せ・・・敗戦以降、失ってしまった日本人・日本民族が失ってしまった・・・いやGHQ
が日本人から消し去ってしまった日本人の強さの源であった神道の精神を復活
させる事こそが我国再生への唯一最大の効果的な道だと信じてやみません。
奪われ汚され腐ってしまった日本の教育を再生させる事は国家百年の計にほか
なりません。






































詫間空の零式水偵のパイロットだった宇野少尉です。特攻出撃をしないまま
敗戦を迎え戦後を生き延びられました。既に高齢で鬼籍にはいられましたが
彼はこの敗戦後をどのような目で見つめていたのでしょうか?・・・今となれば
知る由もありません。最近では映画にしろ書籍にしろ漫画までもが旧軍にス
ポットを当てたようにブームです。多くは大和や零戦に人気が集約されます。
零戦搭乗員にスポットを当てた作品が多く水兵から予科練から豫備学生から
搭乗員になった将兵を取材し本や写真集にして稼いでいる連中も多いようで
すが・・・このサイトで取り上げている多くの将兵のように有り得ない下駄履き
の鈍足の水上機や練習機で特攻する搭乗員や・・・予科練から水中特攻や水
上特攻で回天や震洋に乗って特攻訓練に励んだスポットライトを浴びない多く
の将兵がおり日本の為に家族や友人など民族同法の為に汗を流し、訓練で仲
間を失い血を流し・・・出撃し特攻散華したもの、生き残って敗戦を迎えた者な
どが居た事を知って下さい。・・・我々、戦後の平和を享受して生きる日本人は
在日朝鮮人や中国人の工作活動やマスゴミや日教組、プロ市民達の工作活動
に惑わされる事無く真実の歴史を自分で見つけて仲間や親族で伝えて下さい。
そして可能なら日本を再生し・・・世界に掛け値なしに誇れる日本を再び甦れさ
せたいものです。







師匠からいただいた長門
 約50年前のキットを30年前に
  製作した年代物のプラモ作品




我心の師・椿様が製作された昔の作品をいただいたものです。
この長門のキットは50年位前の物で…これを30年位前に在庫
を探してもらって取り寄せて作ったものとか。当時は今のように
軍艦の詳細な資料も何もなく製作したのでかなりアバウトに作っ
たようです。本当は艦橋の対空指揮所の下には窓は無いのです
が…そこに窓を付けてみたりとか…。
この長門もまた…あの東日本大震災の地震を生き延びた椿様作品の一つです。

























呉海軍工廠 五年勤続之章











海兵75期生の守屋 昭 氏の木札です。
海兵75期生は昭和18年12月1日入校して昭和20年10月1日に3378名が
敗戦により閉校する為、卒業式を急遽行って75期生には卒業証書が授与
されました。76期以降の在校生には修了証書を贈り海軍兵学校は・・・その
栄光の歴史に幕を閉じました。・・・75期生は卒業せれど任官する海軍が
消滅し軍人としての道を絶たれた最期の海軍兵学校卒業生となりました。







海軍航空隊で搭乗員に特別糧食として配給された
アイスクリームです。チョコレートもキャラメルも甘い
ものは戦争が進み戦況が悪化する度に入手困難と
なり民間は勿論、軍用でも限られた兵科でのみ特
配されるものでした。
航空用 夏期特殊栄養糧食 横須賀海軍軍需部
の記載が読めます。先の大戦では陸海軍とも航
空隊の搭乗員が主戦力となって戦ったので糧食
だけでなく棒給の加算から昇進のスピードも何事
も優遇されました。勿論、それだけ消耗が極めて
激しい兵科でありました。







〜 脱 線 〜




*今回、このページで採用したBGMは、平成11年に46歳の若さで
脳内出血で急逝した不世出の天才シンガーソングライターの村下
孝蔵 の”あなた踊りませんか”です。因みにこの曲は平成8年に彼
の25枚目になる”16歳”というシングル盤のB面にあった曲です。
29歳の遅咲きで4枚目目になるシングル”ゆうこ”がヒット
続いて30歳の時に”初恋”が大ヒット・・・素晴らしい世界を
以来、我々ファンに17年間聞かせてくれました。村下さんが
亡くなられて約14年・・・今も時々、彼の作品を聞き続けてい
ます。


 あなた踊りませんか   



まだ村下さんが存命であれば素晴らしい作品が
ドンドン生まれて我々をきっと魅了し続けてくれた
事でしょう。・・・本当に残念でなりません。
惜しい才能を失いました・・・。















〜 脱 線 2 〜


WIT'S 1/12 Kawasaki Z1000R1




KZ1000-J1でWGPチャンピオン・エディ・ローソンがAMAスーパーバイク選手権
の王者を獲得したのを記念して限定販売されたメモリアルバイク・Z1000Rのダイ
キャストモデルです。 E.ローソンのスポンサーだったKER KER の4into1 集合管
が泣けます!当時、タンクに張られたデカールからELR:エディ・ローソン・レプリカ
と呼ばれ・・・今もローソンレプリカと呼ばれています。カワサキカラーのライムグリ
ーンのみのカラーで北米、カナダ、南アフリカの各仕様が900台限定で販売され
ました。発売時、21番のシリアルナンバーを持つ車両がE・ローソンに授与された
のはあまりにも有名な話です。実車は高額で手が出ませんがミニカーならコレク
ションに加えられます。
バイクが最も熱かった時代のCB-Fの最大のライバル車です。
ローソンにスペンサー・・・懐かしいですね〜(^ ^















海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。
菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番
です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。