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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編W


旧軍の遺構や資料館など・・・南九州編

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(九州南部に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)







先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。


この南九州は沖縄に向けての特攻基地が非常に
多く集中した地域で知られ全国の陸海軍の航空隊
より特攻機が陸海軍の各特攻基地より連日、沖縄
に向けて飛び立って行きました。…一部では知覧
や鹿屋、万世のみが特攻基地としてクローズアップ
される傾向がありますが…そうしたクローズアップさ
れない基地の遺構も含めて出来る限り紹介したいと
思います。私自身、25年以上の時経ての再訪の地
でありました。特に鹿屋の二式大艇は実に船の科学
館に展示されていた時以来、30年ぶりの再会となり
感激しました。…世代を超えて語り継がねばならな
い我ゝ、日本民族の自存自衛の歴史です。よしあし
を判断するのは個人の自由ですが…まずは起きた
事・・・そして当時の先人同胞達が何を考えどう行
動したかを知って再考して欲しいものと感じます。…
時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の
念を捧げます。
                   合掌

                皇紀2670年10月

                  管理人 憂国烈士







〜鹿屋海軍航空隊の遺構〜

 (現・海自鹿屋基地及び
    鹿屋航空基地資料館)



現在、海上自衛隊の鹿屋基地です。戦時中は日本最大の
特攻基地であり、総勢で908名もの特攻隊員を送り出した
基地でありました。戦前は真珠湾攻撃のプランはこの鹿屋
で練られ…敗戦まで第五航空艦隊の司令部があり特攻基
地として戦いました。また敗戦時にマッカーサー連合軍最高
司令官のサザーランド参謀長が日本側にまず要求したのは
連合軍の最初に進駐すべき地域として東京湾及び鹿屋両
地区の軍事施設を挙げた事は…米軍が如何に九州鹿屋を
重要拠点と考えていたかが良く判ります。これほど日本海軍
にとっても最重要基地の一つでありました。まさしく鹿屋で日
米戦が始まり鹿屋で終わったと謂っても過言では無いでしょ
う。
現在の鹿屋基地には昔のような艦載の制空戦闘機も爆撃機
も雷撃機もありません。あるのは哨戒機のP3Cを中心にヘリ
などが活躍している程度ですが…将来、日本とアジアの平和
と安定の為にも再び日本の海自が空母を持ち機動艦隊を運
用しこの鹿屋も再び艦載機の離発着が見られるようにしても
らいたいものです。




鹿屋基地内に唯一、現存する防空壕です。
基地内にあった第二十二海軍工廠に働く人間が主に利用した
防空壕です。以前まではもっと数多く残っていたようですが現在
残存するのはこの一つだけとなってしまいました。




鍵のかかった内部をドアの隙間から撮影した写真です。


L字型に曲がり向こう側にまた入口があります(下の写真)。
また途中に換気用の煙突のようなダクトが土中から突き出
ているのが判ります。



  両側の出入口を真横から撮影した写真。


本年で解体をされる木更津海軍航空隊の第二海軍工廠や陸軍の熊本
健軍基地内の三菱工場と同じ作りの当時からの工場です。第二十二海
軍工廠の工場群の一部と思われます。これら近隣の工場から空襲で逃
げる為の防空壕が上のものです。
木更津海軍航空隊の第二海軍工廠の工場



旧軍時代の鹿屋基地の空中写真です。滑走路に激しい空爆で穴が
あいていて使用不能にさせられているのが確認できます。

現在の鹿屋基地です。



今も昔も変わらず使われている司令部庁舎です。4階建になっており
通常の航空隊の司令部庁舎(2階建て)に比べると規模が数段に上
である事が施設を見ただけで判ります。
旧海軍時代の隊門と司令部庁舎です。



当時の鹿屋空の兵舎(家族との面会にも使われた)








鹿屋基地の滑走路と管制塔



こちらは昔、鹿屋基地で海上自衛官をされていた戦艦榛名様
の提供して下さった画像です。現役時代に基地内で撮影した
画像です。…約30年前ですから今よりもずっと鹿屋空時代に
近い時代です。下は懐かしい対潜哨戒機のP-2Jです。平成
6年に全機引退した機体ですが…軍用機として珍しく約13年
間使用され全生産・配備機の全てが無事故のままリタイアした
というエピソードのある機体です。鹿屋基地の外にも現在展示
されております。
またこちらも戦艦榛名様の提供画像で廃機置き場にあった退役トラッカーです。

この下の2枚も戦艦榛名様の画像提供です。左下が
体験搭乗で乗ったS2F”おおたか”で撮影場所は
志布志湾の上空、右下は鹿屋航空隊の西門から撮影
した隊内の写真(大格納庫の後ろ辺り)です。
対潜哨戒機のグラマンS2F-1”おおたか”
下の写真は、昭和56年に戦艦榛名様が教育隊を終え
鹿屋赴任当時に故郷をHSS2ヘリにて凱旋した時のも
のだそうです。…これには『オヤジが庭で旗を振ってた
のを思い出します。』と謂う心温まるようなエピソードが
添えられていました。その様子は旧海軍も今の海自も
変わらないもので嬉しくなりますね。場所は根占(現南
大隅町)とのことです。
当時根占で撮影していました映画「大空のサムライ」
の中で坂井三郎役で主役をつとめた俳優の藤岡 弘
氏が”ラバウルだ!”と叫んだ山です。戦艦榛名様が
故郷の根占で撮影した開聞岳です。…いつ見ても見
惚れる美しい景観ですね。



鹿屋基地内に現存する零戦の掩体壕
芝で覆われると上からは小さな丘程度にしか見えないので
判別は難しかったでしょう。零戦が一機すっぽりと隠される
大きさです。この掩体壕も基地内外に昔はたくさんありまし
たが現在、この一基しか残存していません。












滑走路脇にある為、時折、航空機やヘリコプターが視界を横切り轟音が
響きます。タイムスリップしたような空間が爆音で現実に呼び戻します。



















昭和18年10月21日に、明治神宮外苑競技場で文部省主催の出陣学徒壮行会が
行われました。そして全国各地で同じように学徒出陣の壮行会が行われました。
海軍飛行予備学生で学徒出陣にあたるのは14期以降になります。
このアルバムの13期は、その前の期になり全員が志願して約7万人
から選抜された5200名が昭和18年3月に入隊し、同年9月からは
土浦・三重航空隊で基礎教育を受けます。そして一部、飛行要務専
修者217名が三重航空隊で教育を受けました。







こちらは学徒出陣で特攻隊に配属され敗戦を迎えた14期飛行予備学生の
方が自費出版された非売品の本です。…当時、如何に軍人だけでなく国民
も学生も国難と謂える大戦争に尽力したが判ります。…また理不尽な米英
等の白人国家に唯一亜細亜解放を唱えて戦った日本に虐げられる側にい
ながら東亜の救世軍たる日本と同盟軍を裏切り欧米にくみした支那・中国
の卑怯さを肌で知る世代でもあります。そんな学徒も今では90歳近い高齢
です。戦後を平和と豊かさを享受して生きる戦後生まれの日本人は…平和
を取り戻す為に…民族と国家の尊厳を掛けて戦い命を賭した学徒…陸海将
兵達…その時代をまっしぐらに生きた先人同胞の皆さんに学ばねば誰に学
ぶと謂うのでしょうか?…朝鮮人教師達が日本の転覆を願い反日活動工作
の一環で始めた日教組…このデタラメと嘘を教える連中を教師と仰いで学ぶ
と性根が腐ります。…よくよく考えて再び国や民族を想い憂い行動できるよう
な学徒が育つ日本の教育の再生を図りたいものだと痛切に想います。
学び舎でペンを握る手を零戦の操縦桿に握り替
えた佐藤 孝一 海軍中尉(当時)の敗戦の年の
春の勇姿です。





上の自己出版本に直筆サインされた言葉です。…実際に汗と涙を
流し…血を流す覚悟を決めた人にしか中々、書けない言葉だと思
います。

宮城県白石市で”はたけなか製麺株式会社”の経営を後継に託し
白石商工会議所名誉会頭や地元の社会福祉法人 白石ひまわり
の理事長などを勤めながら次世代へ戦争体験談を語り継ぐなどの
講演活動も積極的にされております。この本を自主出版された6年
前が83歳です。平成24年の現在は89歳の御高齢になられており
ます。下のバナーをクリックすると会長に退きました佐藤氏の会社
と理事長を勤める社会福祉法人の公式サイトが開きます。
                    ↓





予学14期 佐藤 孝一 元海軍中尉の証言




           ↑
御遺族を探されているようです。クリック
でサイトが開きます。


昭和20年4月16日、25番爆装零戦21型で鹿屋基地を特攻出撃する
神風特攻隊 第三昭和隊の中村 栄三 海軍少尉(予学14期)。既に
開戦当初の一騎当千のベテラン搭乗員で米英連合軍を圧倒した将
兵は…既に僅かな教官クラスしか居ない状況で…大戦末期の大空
は僅かな飛行時間の未熟な学徒出陣の予備士官か…予科練出の
下士官搭乗員が唯一の戦力として特攻攻撃を繰返すしか有効な攻
撃手段を持たないのが実情でした。
開戦前の昭和16年2月11日の紀元節の食事…果物も特配されま
した。…彼等、予科練の若鷲が帝國海軍航空隊の主戦力であり
開戦劈頭の目覚ましい勝利を支えました。上の学徒出陣の中村
少尉の特攻出撃姿と好対照の4年前の写真です。
昭和20年4月、特攻機の出撃を見送る戦友
…”散る桜 残る桜も 散る桜”…まさに特攻隊
の隊員の心情を現す歌と謂えます。


出撃前の夜、寝付けない隊員達と煙草を吸う中村 栄三 少尉
神風特攻隊・昭和隊で8月15日の出撃を敗戦で出撃中止で生き残られた予
学14期の佐藤 孝一 元中尉の所持品です。佐藤氏は…戦後は郷里の宮城
県白石市で家業の会社経営を後継に譲り…地元の社会福祉法人の理事長
などをされながら…特攻隊での戦争体験を講演などして活躍されています。
この品は佐藤中尉と同じ神風特攻隊・昭和隊で同期の予学14期で昭和20年
4月16日に鹿屋から二五番爆装零戦で特攻出撃され戦死された中村 栄三
少尉(戦死後、大尉)の辞世の句を平成17年に佐藤 孝一 氏が作成したもの
でヤフオクで入手したものです。
沖縄戦の最中、戦艦”大和”を旗艦とする第二艦隊の水上特攻の後…海軍は
昭和20年4月16日から17日に掛けて”菊水三号作戦”を発動。この辞世の句
を詠んだ中村少尉(拓殖大)は神風特別攻撃隊・第三昭和隊は、4月16日4機
の25番爆装零戦(21型)で鹿屋基地を出撃しました。一番機の西田 肇 少尉
が0810…発進寸前に着陸してきた飛行機に追突されて機体が大破し搭乗し
ていた西田 少尉が戦死するという悲惨なハプニングで出撃がスタートしました
。下の写真が0820に出撃し二度と帰る事が無かった中村 栄三少尉です。三
番機の笹本 洵平 少尉が0821出撃。最後の四番機の高野 道彦 二飛曹の出
撃が0822でした。三機の爆装零戦21型は、喜界島南東55浬及び南50浬の米
機動部隊に突入し戦死されました。


 昭和20年4月16日

    神風特別攻撃隊 第三昭和隊(聯合艦隊告示107号)

 一番機 西田 肇    少尉  (予学13後期)      
 
二番機 中村 栄三  少尉  (予学14期・拓殖大学)  
 三番機 笹 本洵平  少尉  (予学14期・北海道帝國大学)
 四番機 高野 道彦  二飛曹 (乙飛18期)



また佐藤 孝一 氏と同期の予学14期で同じ谷田部空の小川 清 少尉は、
昭和20年5月11日に菊水六号作戦が発令されると神風特別攻撃隊 第七
昭和隊で出撃が命じられました。その日、鹿屋基地を五十番爆装零戦
五二型6機の3番機として0640に出撃。1009に南西諸島沖東方122kmに
おいて「ワレ突入ス」との無電を打ち、隊長機の安則 盛三 中尉(予学13期
)が先にに米空母”バンカー・ヒル”に500kg爆弾を投下後にそのまま見事
に空母に体当たり特攻を行い…爆弾は飛行甲板と舷側を貫通し艦の横数
mの海上で爆発した。その後零戦は飛行甲板に突入し、燃料を満載してい
た艦上機を破壊し大火災を引き起こしました。続いて小川 少尉の3番機が
対空砲火をすり抜けて500キロ爆弾を投下、乗機は艦橋と飛行甲板の境に
突入し戦死されました。彼の投下した爆弾は後部エレベーター付近に達し
て爆発し、航空ガソリンに引火誘爆を引き起こし大火災を発生させました。
この火災で発生した有毒な煙が換気装置を通じて艦内に大量に導入され
た為、艦内にいた多くの搭乗員と一般乗組員が焼死または一酸化炭素中
毒で死亡しました。また消火の為に注入された海水によって艦内に閉じ込
められたまま溺死した水兵も多数いました。米側の戦死者は346名、行方
不明43名、負傷者264名となり、バンカー・ヒルはウルシー環礁まで撤退
し、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投を余儀なくされました。
ウルシー環礁に向かう途中で行われた300名以上の水葬は、現在までに
米海軍が1度に行った最大の水葬とされています。小川少尉は享年22歳。
戦死後、二階級特進によって海軍大尉となり、正七位勲五等功三級の金鵄
勲章を授けられました。平成13年3月27日、サンフランシスコ在住のグレー
ス・美幸さんにより、戦時中にバンカー・ヒル乗組員だったロバート・ショック
氏(平成12年11月7日没)が特攻攻撃後のバンカー・ヒルの復旧作業を行
なっている時、炎上せずに残っていた小川少尉機を発見し機内に残ってい
た遺品をお土産として持ち帰りました。これを戦後ずっと保管していましたが
これを形見として受け取ったロバート氏の孫が、小川少尉の遺品を遺族に
返還したいと申し出があり返還が実現しました。小川の実兄は平成12年4月
に死去されていた為、小川少尉の義理の娘母子に返還されました。遺品は
名前が記された飛行服の布片に戦友からの短歌が書かれた手紙と戦友達
と写った写真が2枚、懐中時計に落下傘の留め金・製造票に日本の紙幣や
軍票等でした。
谷田部空神社の前で微笑み写る小川少尉
引用及び画像出典:フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』


本年5月にMSN産経ニュースで配信されたものです。


特攻隊員の待機宿舎となった野里国民学校。写真は
校庭で特攻隊の第一昭和隊の命名式。
弾痕おびただしい鹿屋空の医務室
昭和20年3月11日、豪州ウルシ―泊地長距離特攻に向かう菊水部隊梓隊の
出撃直前の写真です。ウルシー環礁に在泊中の敵機動部隊を、800キロ爆装
の高速爆撃機”銀河”24機で特攻する丹二号作戦が発動。ここに神風特別攻
撃隊菊水部隊梓隊が編成された。鹿屋から発進する銀河が単独で3,000キロ
も離れたウルシーに到達するのは困難な為、当時最高の航法性能を誇った二
式大艇二機がウルシー直前のヤップ島までの誘導機として、また別に一機が
全行程の3分の2だけ先に飛んで引き返す天偵機として梓隊に入った。天偵機
は別として、敵機動部隊泊地に特攻をかけた誘導機が避退しうる可能性はほと
んどなかった。
11日の出撃時に二式大艇の一番機がなかなか離水できず、や
むなく二番機が単機で銀河隊を率いることになった。また銀河隊も、前日の出撃
中止がたたってエンジン不調などにより途中で7機が引き返した。二式大艇は、
途中雲のために低空飛行を強いられたり、敵艦に遭遇したり、針路に誤差を生じ
たりしたが、それでもなんとか銀河隊をヤップ島まで誘導。銀河隊はヤップ島を視
認すると一気に増速してウルシーに突撃していった。とその時、二式大艇の右翼
内側一番エンジンが爆発停止した。このエンジンは出撃前から調整不能な欠陥を
かかえていたが、なぜか銀河隊の誘導中は酷使に耐えていた。まさに任務を全
うして息絶えたのであった。その約10分後、銀河隊が発する「暗シ、暗シ、艦種
不明、艦種不明」、「ワレ突撃ス」という悲壮な信号を傍受、ウルシー方面に9本
の火柱を見た。二式大艇はその2時間後にメレヨンに不時着する。(…『二式大
艇空戦記』長峯五郎著より抜粋)
ウルシー突入を行った菊水部隊梓特攻隊の記念写真
762空の銀河です。

昭和19年10月13日、台湾沖の米機動艦隊攻撃に出撃する特攻隊員。
台上は、久野 鹿屋空司令で出発報告をるのは長井飛行隊長。



帝國海軍の南九州最大の一大航空基地として誇った
鹿屋空も特攻中心の攻撃が全盛になると米軍の格好
の目標となり、最初の空爆となった昭和20年3月18日
以来、敗戦まで連日のように空襲を受けて52日間・計
268回の空襲を受けました。この空襲に参加した米海
軍の艦載機はのべ約三千機を数えたと謂います。以下
は、廃墟の姿となる鹿屋空の断末魔の姿です。
空爆で骨組みだけになった格納庫と擱座した九七式艦攻
同じく艦載機の空襲で骨組だけになった格納庫
基地内の木造建築物は兵舎から全て完全に焼失し
爆撃の被害を受けた鉄筋コンクリ製の建物や庁舎、
煙突だけが残った有様です。
破壊しつくされ骨組だけとなった格納庫周辺の残骸の山
敗戦後、空爆の被害残る鹿屋空庁舎に進出設置された
米第七航空軍司令部前のジープが見えます。




〜鹿屋航空基地資料館〜









資料館です。


資料館の周囲に展示された航空機群の中で一際、異彩を放って
いるのがこの二式大艇こと海軍二式大型飛行艇です。当時、世界
最高の性能を誇った大型飛行艇です。
上の画像は鹿屋の今の二式大艇です。下は鹿屋に移設される前
東京のお台場の船の科学館に展示された時代の同じ二式大艇で
す。私がはじめたこの機体を見たのは船の科学館です。今回、鹿
屋で30年ぶりに再会した形になり感激しました!…今も以前も印
象は…『でっかい!』です。そして美しい機体です。





完全な姿の二式大艇を見た後で何ですが…ギルバート諸島のマキン島で二式飛行艇を
眺める米陸軍の兵士を捉えた写真です。この機体は損傷して飛行できなくなったあと、
機関銃陣地とされ、上陸する米軍を迎え撃ったとのことで、最後まで戦いぬいたといえる
でしょう。米沿岸警備隊が撮影した写真を通信社が複写して配信したものです。この無残
な姿の二式大艇と比較すれば…この鹿屋の二式大艇はその美しい姿を人々に伝えられ
て幸せなのかも知れません。


新旧の大型飛行艇が同じ展示場にあって仲良く展示されています。
戦後に復活した二式大艇のDNAを持つ新明和(旧 川西航空機)の
US-1Aです。


こちら上(左右)と下の画像は、戦艦榛名様がまだ鹿屋基地に勤務
されていた現役の自衛官だった頃に撮影された鹿屋の史料館から
見たP2J,S2Fと天山と思われるエンジンとプロペラです。



夕映桜島…平山郁夫画伯の原画によるステンド
グラスです。桜島を眺めながら出撃していった特
攻隊員達の心情に想いを馳せ、鎮魂と平和の願
いを込めて描かれています。
館内を館長が自ら一時間ほど案内し説明をして下さり
ました。さすがに詳しい事は勿論なのですが一つ一つ
の品に造詣が深く感銘を受けました。



御覧のように平成4年錦江湾と吹上浜で同時に引き揚げられた二機
の零戦を一機の零戦に復元したのが鹿屋の零戦です。謂わば車や
バイクで良くある中古事故車のニコイチの様なものです。しかし運命的
な48年の眠りから目醒めた零戦が海中より同時に上がった事、そし
て同時期に鹿屋基地に新しい資料館が建設中であった事…また何よ
り海上自衛隊はじめ関係各方面の熱意と努力の賜物が一機の零戦を
この世に復活させたものと思わせます。


館内に展示された零戦です。海から引揚た零戦を復元した機体です。











二十二工廠の鉄柱に残る空襲時の銃撃の跡です。


*昭和16年10月1日、海軍航空廠令が制定され
ました。これにより新たな航空廠は番号を付けて各
地に設置されます。大村の第二十一海軍(航空)工
廠の支廠であった鹿屋は第二十二海軍(航空)工廠
となりました。



帝國海軍が世界に誇った九一式航空魚雷です。
丁度、タイムリーと謂うのか少し前にこの九一式航空
魚雷の安定器を入手したばかりでした。その安定器を
以下で公開しています。興味のある方は、下をクリック
して見て下さい。
                ↓




鹿屋基地資料館が創設されたのが昭和47年の事です。
平成5年に新しく出なおした資料館の10周年を記念して
出された記念誌です。


まさに彼等は国を護りたる英雄であります。その
英雄達の魂のさけびを少しだけ紹介します。
この純粋な想い…そして気高くも散った若き英霊
の姿に学び…我々、現代を平和に生きる日本人は
刮目し自己を見つめ直すべきと感じて止みません。



館長から記念にいただいだ零戦の写真です。良い思い出の品と
なりました。改めて深謝致します。



特攻花です。この花はメキシコ地方に原生する”春駒菊”か”大金鶏菊”
ではないかと謂われています。大戦中に南方かtら帰還した航空機の車
輪に付着した種子が最初に特攻隊が出撃した昭和20年3月に発芽し、
最後の出撃となった6月に実を結んだことから『特攻花』と呼ばれるよう
になりました。







〜鹿屋基地
    特別攻撃隊戦没者慰霊塔〜

   (鹿屋市今坂町小塚公園)



鹿屋基地は大東亜戦争の末期…昭和20年2月から特攻作戦
の基地として使用され、特攻で沖縄へと鹿屋の地を飛び立ち
再び帰ることがなっかた約1千余名もの若者の御霊を祀る為
に昭和33年3月20日、この鹿屋市今坂町に慰霊碑が建立さ
れました。塔の高さは11メートル、塔の上には南海の空に向か
って飛び立とうとしている翼を広げた平和のシンボル、白鳩が
のっています。塔の銘板には特別攻撃隊戦没者908名の階級
氏名、出撃年月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれていま
す。鹿屋市では毎年4月に関係者や遺族の方々を招いて慰霊
祭を実施しています。海自鹿屋基地 第1航空群は慰霊祭に際
しP−3Cによる慰霊飛行、儀仗隊、音楽隊等の派出の支援を
おこなっています。

















特攻の父と呼ばれた大西 瀧次郎 海軍中将の自決前の遺書です。







〜鹿屋基地
  神雷特別攻撃隊(別盃の地)桜花の碑〜

    (鹿屋市野里町旧野里小学校跡)



神雷部隊とは昭和20年2月から鹿屋航空基地に司令部を置いた
第五航空艦隊所属の第721海軍航空隊、人間爆弾”桜花”の部
隊を指します。昭和20年3月21日より6月22日までの間特別攻撃
隊として出撃し南海の空に散った戦友の霊を祀るために昭和53年
3月に第721海軍航空隊の特攻隊員であった小城久作氏が神雷
部隊が宿舎にしていた旧野里小学校の跡地に碑を建立したもので
す。碑文には当時海軍報道班員として野里村に住み神雷部隊の
隊員と親交があった作家山岡荘八氏の撰文が刻まれています。
海自 鹿屋基地の第1航空隊は、平成2年2月からメモリアルオペレ
ーションとして”桜花の碑”の清掃奉仕活動を毎月行っていると謂い
ます。素晴らしい活動であると同時に新旧の防人達が心を一にして
この日の本の國を護ってくれているのだと痛切に感じ入り胸を熱く
しました。





特攻隊員の待機宿舎となった野里国民学校。写真は
神雷部隊でないが校庭で別の特攻隊である第一昭和
隊の命名式。丁度、碑のある場所が写真の野里小学
校である。










昭和20年1月17日、神之池基地の721空(神雷部隊)に天皇
陛下の思召しで侍従武官が見えられた折の記念撮影です。

昭和19年10月1日に721空(神雷部隊)が百里原基地で
開隊。写真は神之池基地に移転した桜花搭乗員の左か
ら中根 久喜 中尉(予13)、、第三分隊長 湯野川 守正

大尉(海兵71)、細川 八郎 中尉(予13)です。中根中尉
は20年4月14日に爆装零戦で特攻死しています。
昭和20年2月、鹿屋基地で待機する721空(神雷部隊)の一式陸攻24丁型です。
721−328号機とその搭乗員達です。桜花の滑空訓練を行ったK1に乗った搭乗
員は、零戦より操縦性能が良く素直な機体であると一様に述べています。
桜花の機上に桜の枝を持ち写真に写るは神雷部隊の桜花搭乗員 上田 兵二
一飛曹です。4月上旬の鹿島基地での事です。この日、第二鈴鹿基地より物資
輸送で鹿屋基地に到着したばかりの1001空(輸送航空隊)の池谷 淳 少尉は
『分隊士、写真を一枚とって下さい。そして私が死んだら写真を遺族に送ってく
れませんか。』と謂れ少尉は軍極秘の桜花であったのも一切、躊躇わずカメラ
を取り出し撮影しました。その後、上田 一飛曹は20年4月16日に桜花でなく…
50番を抱いた爆装零戦で出撃し還らぬ人となりました。敗戦後、まもなく池谷
少尉からこの写真がネガと共に遺族の元に送られてきました。
神之池空で桜花搭乗員の供給を続けた七二二空(龍巻部隊)の
分隊長 新庄 浩 中尉の一式陸攻11型です。中尉のこの機と
一〇八一空の零式輸送機に分散してが4月13日に桜花隊員を
鹿屋基地に送り届けます。この隊員は到着と同時に龍巻部隊(
722空)より神雷部隊(721空)の所属に替わりました。そして其
々が5月以降、桜花及び爆装零戦(建武隊)として特攻出撃しま
した。
神雷部隊(721空)の一式陸攻24丁型と搭乗員達です。攻撃708飛行隊
の機長・沢井 正夫 中尉(予13:後列左より二人目)以下7名は、桜花射
出で母機もろとも喰われる中…2回の桜花出撃射出を成功させ帰還を果
たした稀有な経験を持つ男達でした。1回目は4月16日の第5回桜花出
撃で桜花搭乗員:宮下 良平 中尉(予13)を抱き大陸よりに沖縄に接近し
見事に米機動部隊近くで射出し命中の大火炎を目撃しています。2回目
は4月28日に桜花搭乗員:山際 直彦 一飛曹を雲海の隙間より認めた敵
の対空砲火に向けて射出、巨大な火柱を確認帰投。途中、夜戦に襲われ
島原半島沖に不時着するも無事に帰還する離れ業をやってのけています。
上は出撃前の訓示を受けている神雷部隊の搭乗員達です。
下は桜花を抱いてまさに離陸しようとしている一式陸攻です。



実戦で使われた桜花11型です。この機は
沖縄戦で米軍に接収されたものです。



上下の写真は米軍が撮影したもので桜花を抱く母機が必死で
回避行動する中…遂に撃墜される連続写真です。



昭和20年3月21日に神雷部隊(第721航空隊)の野中五郎少佐
が率いる18機の一式陸攻が出撃、途中でF6Fに迎撃され全滅し
ました。この特攻機”桜花”を胴体下面に搭載した一式陸攻が撃
墜されるのを撮影したガンカメラの映像6枚を1枚の印画紙に焼き
付けたものです。印画紙にTechnical Air Intelligence Center
と焼き込まれており、裏に米海軍公式写真というスタンプが押さ
れています


最大搭載量が1トンの一式陸攻が2トンの桜花を抱いて飛ぶのですから
殺せと謂っているようなものです。F6Fにとっては鴨撃ちのような戦闘
だったと思われます。逃げる事を一切考えずひたすら桜花を抱いて敵機
動部隊を目指す神雷部隊の覚悟が気迫が最期の写真に残されている気
がします。
日の丸が主翼にはっきり見えます。そして射程距離に遠く桜花を射出
出来ない一式陸攻が必死の回避運動を行っている写真です。
桜花を射出すれば身軽になり速度も格段に上がる筈ですが母機が
助かるチャンスよりも…桜花を抱いて敵機動部隊へ射出できる地点
まで最後まで死を覚悟で目指す野中一家の中攻の必死の決意が見
て取れます。


遂に左主翼のエンジン下から被弾による煙が上がります。



上の写真のカラー映像をYou tubuから紹介します。
このページTOPのMIDIの音楽を止めてから再生し
て下さい。





昭和15年4月、霞空の中央指揮所にての野中 五郎 大尉。




実戦に間に合わなかった桜花22型です。ロケットエンジンを
ジェットエンジンに換装してあります。吸気口が左右に張出し
後部が全体に大きくなっているのが判ります。


桜花(MXY7-K1)K1滑空練習機です。桜花11型搭乗員の練習用に
作られました。胴体下面に着陸用の橇があります。機体は下面が灰
白色で上や横は緑薄色に塗装されていました。下は練習用のK1機
が一式陸攻から放たれた瞬間を撮影した写真です。昭和20年8月
2日、操縦者は松林 重雄 少尉です。滑空を3分間行った後、地上に
戻る事が出来ました。全部中央に見える細い線は、投下時に急に操
縦桿を引かない為の制動索です。神之池基地の錬成部隊である722
空(龍巻部隊)でははじめに零戦による最低出力での超低空飛行を
行い、続いてこのK1練習機による滑空訓練を一回だけ体験します。







〜出水海軍航空隊の遺構〜

  (現 出水特攻碑公園)



この出水の特攻碑公園の周辺は全て敗戦前までは旧海軍の
出水海軍航空隊の特攻基地があった所です。この出水空の
特攻基地は、南九州に数多く集中する特攻基地の中でも七番
目に多くの特攻出撃者を出した地であり…ここだけで200名以
上の方が特攻で散華されています。
旧海軍航空隊出水基地の敷地の一角に出水特攻碑公園が
あります。今は市民の街路樹の美しい生活道路となった脇に
忘れられたようにひっそりと佇む様にあります。知覧や鹿屋…
そして万世を訪れる人は多いようですが…私が再訪した日も
誰も他に人は居りませんでした。これは赤江飛行場も都城西
飛行場の跡も全て同じです。自治体の努力で資料館などが
観光コースに組み込まれると違うのでしょうが、有名な万世が
201名の特攻出撃で戦死者をだしていますが、この出水は同
じ200名ですが…資料館が無いと知名度に差が出るようです
。宮崎空の赤江などは387名、国分空も知覧に殆ど変わらな
い427名もの特攻出撃者が居りますが…知名度も低いようで
す。全て等しく国の為に民族同胞の為に散華された英雄達で
す等しく慰霊したいものです。



出水空の正門前の歩哨所(衛兵所)が当時のまま残存してあります。




説明板には、衛兵塔と??…理解に苦しむ名前
が付けられていますが、正門前の歩哨所(衛兵
所)が正しい名称だと思います。






以下の地図からも判りますように滑走路とエプロン、格納庫
など主要部分があった辺りは、現在は…出水ゴルフクラブの
ゴルフコースとなっています。




以下は、出水空の戦闘指揮所防空壕です。流石に戦闘指揮所なだけ
あって広く立派な防空壕で壕と謂うより地下街や地下室の地下通路と
謂う趣です。4か所あった出口のうち空襲を生き延びた2か所の出入り
口から内部を見学できます。
出水基地は、日中戦争の拡大に伴う航空要員の大量養成を目的として
昭和12年に建設準備にかかり、昭和18年に練習航空隊が設置されまし
た。予科練や学徒動員された予備学生の操縦教育が開始されました。し
かし、戦局は日増しに逼迫して出水は…作戦基地に転用される事になり
ました。昭和20年3月1日、練習航空隊は…朝鮮の光州へ移転し光州海
軍航空隊となります。出水基地は、宇垣 纏 海軍中将隷下の第五航空艦
隊の攻撃第四〇五・四〇六飛行隊(新鋭爆撃機銀河装備)が配置されま
した。この両飛行隊及び全国各基地から飛来し終結した特攻機によって
壮絶な大特攻作戦が展開されたのでありました。






赤トンボ(九三式中練)の垂直骨組みが残されてありました。


内部は電灯が無ければ真っ暗です。配管を見ると水と電気はしっかり確保されて
いたようです。最後は本土決戦の籠城で陸戦を想定したでしょうから当然と謂え
ば当然と謂えます。
空襲で潰された2か所の出口のうち一つの方に向かうのでしょうか
ドアが付けられ施錠されて入れません。遠くに光がうっすら見えます
。あそこに別な通路が接続されているようです。




地化戦闘指揮所壕の中は…まるでここだけが時を停めたような
空間と謂う感じが漂っています。




平日の訪れましたが…私以外に誰も拝観者も訪問者も居らず
地下から地上に這い上がると…タイムスリップしたかのような
不思議な印象を受けます。



慰霊碑脇の旗さしのポールが2基…蒼空を貫くように
伸びているのが非常に印象的に感じました。
約200名以上に上る特攻出撃で戦死された方の氏名がこの慰霊碑に
びっしりと刻まれております…。



























以下は、ありし日の出水空の写真です。


出水空本部前の名物”蘇鉄”の樹とたなびく軍艦旗
出水海軍航空隊開隊祈念運動大会。真ん中は出水高女のマスゲーム
昭和18年5月29日、甲種飛行練習生のマット体操
出水空の赤とんぼ(九三式中練)
昭和18年11月、飛行作業開始前の分隊長 竹内大尉の訓示
甲飛10期の応用特殊飛行訓練を見守るピットの教官(後方は紫尾山)
昭和19年9月19日、格納庫前で第五分隊の卒業記念写真
(二列目中央の二種軍衣の方が市木司令)
外出時のスナップ(士官ばかりなので特攻基地になってからの
予備学生の士官達と思われます。)







  〜国分海軍航空隊の遺構〜

=旧出水海軍航空隊国分分遣隊=
      第一国分基地
 
  (旧歩兵第四十五聯隊資料)

    (現 陸自 国分駐屯地)



陸自 国分駐屯地の正門前にある海軍航空隊第一国分基地
司令部壕跡に建立された”特攻機発信之地”の記念碑です。
国分海軍航空隊は、昭和19年8月15日に出水海軍航空隊国分分遣隊
から独立して開隊します。翌20年3月1日に解隊し観音寺海軍航空隊と
して移転し香川県で開隊します。残った国分飛行場は特攻基地として
各地の航空隊から特攻隊が進出し沖縄に向けて飛び立っていきました。



現在の国分基地は海軍ではなく陸上自衛隊の第12普通科連隊
の駐屯する基地となっています。





第一国分基地の発電所の跡です。














第一国分基地無線壕跡のある神社です





かつて無線壕があった場所です。今は慰霊碑があるのみです。










以下は、ありし日の国分空の写真です。
旧国分飛行場(第一国分基地)跡
第39期飛行練習生の駈足競技優勝記念写真(国分空本部前)
敗戦時の記念写真
国分海軍航空隊本部
右から二人目の方の三種軍装に略帽の方が司令の菅原 正雄 海軍大佐(海兵46期)




以下は、陸自国分駐屯地内の資料館である薩摩隼人記念館
を拝観した時の写真です。
陸自国分駐屯地内にある薩摩隼人記念館です。鹿児島には旧歩兵第四十五
聯隊がありました。この鹿児島の郷土部隊は…この国分市では無く実際は鹿
児島市にありました。第六師団歩兵第45連隊は、明治三十年に開設され、日
露戦争以後の戦いに参加し名を知られました。連隊跡は、玉江小から西高校
付近で、県立短大あたりに営門と本部がありました。
現在ある鹿児島の郷土部隊は…この国分駐屯地の
陸自第12普通科連隊となります。こうした関係から
旧歩兵第四十五聯隊と海軍航空隊第一国分基地の
と特攻関係の資料が集められ展示されています。











山下 奉文 陸軍大将の中将時代の軍服と愛用の軍袴です。















 =旧出水海軍航空隊国分分遣隊=
  (旧 十三塚原海軍航空隊の遺構)
        第二国分基地

    (現 鹿児島空港:溝辺空港)










現在の鹿児島空港(溝辺空港)を見下ろす高台の上床公園にある
第二国分基地(旧十三塚原海軍航空隊)特攻の碑です。










第二国分基地の滑走路の一部だったコンクリートが運ばれて飾られています。
えらくコンクリートが粗いのが判ります。現代のコンクリートとは違います。


特攻碑の横に置かれた海底から引き揚げられた零戦のプロペラです。
その曲がり方でこの零戦が海中に没する時にエンジンが生きていて
ぺラが回っていた事が判ります。










正面に現在の鹿児島空港が見えます。その奥は錦江湾です。



桜島が遠くに望める…。


眼下の鹿児島空港をスキャナーで拡大した写真です。
鹿児島空港を轟音を上げて飛び立つ旅客飛行機




東日本大震災のあった年の暮れに中日新聞に掲載されたものです。
第二国分基地から出撃した名古屋海軍航空隊から編成された草薙隊
の九九艦爆のペアのエピソードです。
名古屋海軍航空隊の特攻と謂う事でこの草薙隊哀史を地元紙の中日新聞が
平成23年の暮れに1話から7話で連載されたようです。たまたま東京でこの紙
面を目にして掲載しましたが、購読できない地域でも暫くはWEB上でも見る事
ができます。

草薙隊の原隊である名古屋海軍航空隊の遺構を
紹介したページが以下のバナーをクリックすると開
きます。
               ↓




〜十三塚原史跡公園
     及び愛郷平和祈念公園〜





こちらも第二国分基地の特攻隊の慰霊碑です。非常に
判りずらい場所にありますので訪れる人も余り居ません。










こちらはもっと古く主に日清・日露戦争の県内・地元出身の
戦死者の慰霊を行っています。






日清戦争、日露戦争の祈念碑です。実に碑自体
も古いのが見てとれます。


戦前の桜島の爆発を記念した碑です。







〜鹿児島海軍航空隊(鴨池空)の遺構〜

   (旧 鹿児島空港:鴨池空港)



鴨池ここに海軍の飛行場があり、これが鹿児島海軍航空隊です。
海軍の飛行場は、その後敗戦で民間航空の鴨池空港となり、そ
れも廃止されて…現在の溝辺にある鹿児島空港に移転しました。
旧鴨池空港の跡が、現在の鹿児島県庁などがあるところです。
鴨池空港は、鹿児島の空の玄関口として昭和32年に運用が始ま
り、昭和47年4月に現在の鹿児島空港(霧島市)が開業するま
で使われました。その跡地である鴨池新町地区は、鹿児島県が
策定したニュータウン計画により日本住宅公団(現・都市再生
機構)などの高層住宅やオフィスビルが建設されました。錦江
湾を隔てた対岸の垂水市と結ぶフェリーが発着する港も設けら
れました。平成8年には鹿児島県庁舎が移転してきました。
鴨池小と鴨池中の先には、鹿児島港・中央港区が見えます。
市街地から近いことから近年では郊外型ショッピングセンター
の開業が相次いでいます。








デパート山形屋です。(画像提供:古本屋の常連様)これは錦江湾を真珠湾に見立て
ての雷撃隊の攻撃訓練時に、飛行機がこの建物を目標に錦江湾へ突進しました。今も
残る九州唯一の老舗百貨店です。


昭和16年に建てられた旧海軍の航空基地格納庫の跡です。
格納庫として建設され、終戦間際の度重なる空襲にも耐えた唯一の建物
でした。築67年を迎えた格納庫の老朽化は激しく、雨漏りや台風で屋根
のトタンが吹き飛んだこともあり、修繕にも多額の費用がかかることな
どから倉庫(格納庫)の方は、平成20年に解体撤去が決定し…解体され
現在は平地のバス置き場の駐車場となっています。
惜しくも先日、取り壊された旧格納庫です(画像提供:戦艦榛名様)
画像提供:古本屋の常連様


現在の航空写真では旧飛行場の滑走路も無くなり完全に
市街地の一つに埋没しています。下は昭和30年代後半〜
昭和47年までに存在した鴨池空港(旧鹿児島空港)が写る
空中写真です。
戦後の復興し民間空港としてスタートした鴨池空港(鹿児島空港)です。
昭和33年2月に開業した鹿児島市鴨池の鹿児島空港。総ガラス張りの明るい
空港ターミナルで“南の空の玄関口”鹿児島空港のターミナル・ビルです。
鹿児島空港は昭和32年7月に開港し昭和47年4月に溝辺に移転しました。僅か
10年の寿命でした。元々、水上機と陸上機の両用の海軍の飛行場で予科練生
の訓練基地でしたが…戦後の大型機、ジェット化の時代には都市が近く余りに
も狭い飛行場で使い勝手悪すぎ溝辺空港に移転を余儀なくされました。こうして
戦前戦後…生き延びた鴨池飛行場はその短い歴史の幕を閉じる事になりました


旧鹿児島空港の管制塔跡は、このように再利用されてい
ます。(画像提供:戦艦榛名様)


以下は、ありし日の鹿児島空の写真です。
昭和18年4月1日に開隊し、第19連合航空隊に
編入され予科練教育を担当。昭和20年3月1日
第22連合航空隊に編入される。
鹿児島空の正門から行軍に出発する予科練生
昭和18年、朝融王殿下の観兵式
昭和18年6月、鴨池運動場にて水泳の準備体操
最後の鹿児島空司令 飛田 健二郎 海軍大佐(海兵50期)
寒稽古の後、武道館前にて記念撮影(甲飛13期生)
昭和18年5月27日の海軍記念日に鹿児島市内を行進する予科練生徒達
照國神社参拝行事
霧島神社参拝で教官教員との記念撮影
昭和18年7月の鴨池海岸でのカッター競技







〜桜島海軍基地の遺構〜
(第五特攻戦隊司令部跡)
 
     (現 桜 島)



雄大な眺めの桜島です。この桜島で海軍航空隊が開戦直前の
昭和16年の夏から11月までの期間、錦江湾を真珠湾に見立て
た真珠湾攻撃練習を行い訓練しました。この時空母(赤城等)は
志布志湾に展開しました。






まるで要塞のような桜島化軍基地跡です。残念ながら入口の全てが
封鎖され中を見る事はかないません。ここは、米軍襲来の本土決戦
に備えた第五特攻戦隊の司令部跡です。第五特攻戦隊は、佐世保
鎮守府の所属で鹿児島を本拠地として司令部をこの桜島に置きまし
た。その守備エリアは広く…佐伯から出水までの九州南岸・東岸エリ
アを担当しました。この為、総兵力は、駆潜艇49隻を中心に鹿児島
県内に第三十二突撃隊として第三、第五、第十回天隊に複数の海龍
隊と震洋隊。宮崎県南部の油津に第三十三突撃隊として第九回天隊
に同じく複数の海龍隊そして震洋隊。宮崎県北部の細島に第三十五
突撃隊として第八回天隊と複数の震洋隊を擁し米軍の上陸に備えま
した。司令官は昭和20年5月10日に前職の第四海上護衛隊司令官よ
り転じて着任した駒沢 克己 海軍少将(海兵40期、島根県出身)で潜
水艦畑が専門としたベテランの提督でした。前ページで第三三突撃隊
に関して南郷町の記念碑の部分で記載していますが…宮崎県南部の
油津(現・日南市)に本部を置いた三三突は、第三、第五、第九、第十
回天隊の4隊、回天計26基が続々と配属されました。
ドーム型のモニュメントが無ければ自然の岩肌と上部の密林に埋没し
基地があるとは夢にも思いません。上手く自然を利用して基地を作っ
たものと感心します。


ドアの隙間から内部を撮影したのが下の写真です。明かりが無い為
これが限界ですが…中はまだ崩壊せずしっかりとしているようです。






さすがは海軍の軍事施設です。…海外の旧軍施設もそうですが
民間の戦前の鉄筋コンクリートの施設と違って重爆撃にも耐えう
るように異様にぶ厚く頑丈に作ってあります。活火山で噴火や噴
煙を上げる桜島にあるので何とも言えませんが…内部の崩落が
たび重なる地震等で促進されない限り…100年でも持つような気
がします。既に65年以上経過しています。






目の前に鹿児島からのフェリー着場の港があり…対岸には下の画像で
お判りのように鹿児島市内が見えています。第五特攻戦隊の司令部に
はうってつけの場所だと思います。担当エリアの南九州全体を考えると
大隅半島、薩摩半島からまた日向灘の日南海岸や志布志湾などいずれ
から米軍の上陸作戦が開始されても…鹿児島を手つかず未占領で済ま
すわけには行きません。必ず取りに来る地点ですので特攻兵器である
震洋艇も回天や海龍なども…錦江湾は絶好の攻撃ポイントとなるでしょ
うし…薩摩半島でも防津や枕崎、聖ヶ浦、指宿など震洋艇隊などが配さ
れた場所は絶好の出撃ポイントで上陸する米艦隊などを攻撃しやすく効
果を上げやすい事が素人目にも判ります。








〜第六三四海軍航空隊・桜島基地
       及び垂水海軍航空隊の遺構〜



大東亜戦争中盤から末期に掛けて様々な形で桜島周辺では
新設の航空隊が増設されました。その多くが本土決戦に向け
た準備である事は謂うまでもありません。以下は記念碑だけ
が残る垂水海軍航空隊のものと第六三四海軍航空隊・桜島(
牛根)基地のものを紹介します。共に垂水市にあります。
第六三四海軍航空隊は、航空戦艦を母艦として運用する
変則的な水上機・艦上機部隊として整備されてきましたが
諸般の事情により母艦と連携する機会がないまま、小規模
の水上機地航空隊として敗戦まで運用されました。フィリピ
ン進出し戦地での偵察・哨戒・夜間爆撃という水上機の特
性を最大限に活かし米軍に対して効果を上げました。また
そのゲリラ的戦法で芙蓉部隊と類似点を指摘されます。確
かにこの部隊のように効果的な運用の場所を与えると性能
面で限界のある水上機であっても、その特性を活かし十二
分な戦果を上げられる事を示した好例と謂えます。昭和20
年1月に台湾へ撤退し、3月の菊水作戦にも沖縄近海での
夜間対艦攻撃にも従事しましたが4月になり、本土決戦に
備えて本土に鹿児島・福岡・奄美大島に分散して配置転換
されました。その後、沖縄戦に参加し… 以後、九州近海の
哨戒に従事しました。鹿児島に配置された部隊はこの桜島
基地(垂水市の牛根)に秘匿基地が作られ配置されました。
8月3日、第一航空艦隊より第五航空艦隊に編入となります
。第三十二航空戦隊を編成するも8月15日に敗戦を迎えて
解隊します。
634空の元々の司令は戦艦”伊勢”副長を兼任した
天谷 孝久 海軍中佐(海兵51期)ですが、後に
飛行
長兼戦艦”伊勢”飛行長の江村 日雄 海軍少佐(海
兵57期)が二代目となります。最後に昭和20年8月
3日の編成替えで立見 孝六郎 海軍大佐(海兵51
期)が三代目の司令となり敗戦を迎えています。

主力機となった水上偵察機”瑞雲”です。

   ≪瑞雲(E16A)・基本スペック≫

*愛知航空機が製造。
 米軍コードネーム:Paul

 全長:10.84 m

 全幅:12.80 m

 全高:4.74 m

 主翼面積:28.00 m2

 全装備重量:3,800 kg

 最高速度:448 km/h

 乗員:2名

 発動機:三菱金星54型
     (空冷星型 1,300 hp)

 航続距離:2,535 km

 実用上昇限度:10,280 m

 武装:
   20mm機関砲×2
   7.7mm旋回機銃×1(初期型)
   13mm旋回機銃(量産型)
   60kg爆弾×2または250kg爆弾×1

 生産機数:約220機


以下は、当時の秘匿基地の写真です。
見事に水辺で水上機をカモフラージュし隠している秘匿基地
の様子が判ります。…大したものだと感心します。
僅かに密林の中プロペラだけが何とか判る程度で
空中からは全く基地や水上機の存在は探知不能
だと思います。
とび職さながらの離れ業で機体をカムフラージュされれば
敵の上陸のある日まで余裕で戦力を温存できた筈です。
徹底した対空監視で秘匿基地を守れば本土決戦のその時
に初めてベールを脱ぎ出撃し一矢報いる…オリンピック作
戦が行われた場合、米軍の被害は100万名と米側も試算し
ていたようですが…それ相応の被害が出るのは必定だとい
う事が…南九州の特攻基地や秘匿基地を見れば良く判りま
す。攻める側もタダで済む訳がありません。



秘匿基地の鮮明な写真です。下も桜島水上基地の634空の
もので浜辺で給油中の写真です(昭和20年6〜7月頃撮影)。


上も下も634空の瑞雲です。上は昭和19年10月にルソン島キャビテ軍港水上基地
で撮影された瑞雲11型で634-87号機。下は、呉水上基地の格納庫前で駐機中の
634-77号機です。


敗戦後にフィリッピンで米軍に鹵獲された634空の瑞雲11型です。
634-16号機ですが、国籍マークだけ日の丸が消されて米軍のに
なっています。



垂水海軍航空隊は、昭和19年に設置された秘匿基地です。
海岸沿いの山肌に2本の壕を掘った工場を持ち航空魚雷の
調整とその教育をした基地であります。ここで完成した魚雷
は、壕から海岸に引き出され鹿屋基地へつながる鉄道線路
がある古江港まで船で運搬された謂います。


以下は、ありし日の垂水海軍航空隊の写真です。
昭和18年、九六式陸攻から九一式航空魚雷を発射訓練中の写真です。
丁度機体の下あたりで中央の海岸部分が垂水海軍航空隊です。
昭和19年、垂水空 士官宿舎の庭で第15期予備学生の記念写真。
中央が司令の貴島 盛次 海軍大佐(海兵44期)です。
予科練(甲飛)生の野外行軍時の記念スナップ


戦後に撮影された垂水空の跡地です。(昭和50年代)
昭和18年、第22期普通科雷爆練習生の卒業記念写真。

…昭和20年6月、垂水空は…第61震洋隊に転じて翼な
き予科練の特攻艇部隊に変貌しました。この垂水には61
の他にも垂水港に
第64震洋隊も配されました。
現在の垂水港です。







珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン



無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。








実物のホルスターに納めて見ました。









メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。