(旧軍の遺構資料館など)







早いもので遺構シリーズも関東編だけにとどまらず南九州
編を作成するまでにいたりました。我々日本人の偉大な先
人達が後世の日本と日本人の為に尊い犠牲を払った証し
でもある旧軍の遺構を老若男女を問わず、現在、この国で
平和を享受して生きる全ての日本人に広く知らしめるべく
新しいページを立ち上げました。中々、遠い現地へ足を運
ぶ事は難しいでしょうが…ネットの画面上を通して尊い犠牲
を我々の為に払って下さった事に想いを馳せ感謝し顕彰す
る心を…日本人同士が互いに通わせる事が出来れば幸い
に想います。
この南九州は沖縄に向けての特攻基地が非常に多く
集中した地域で知られ全国の陸海軍の航空隊より特
攻機が陸海軍の各特攻基地より連日、沖縄に向けて
飛び立って行きました。…一部では知覧や鹿屋、万世
のみが特攻基地としてクローズアップされる傾向があり
ますが…そうしたクローズアップされない基地の遺構も
含めて出来る限り紹介したいと思います。私自身、25
年以上の時経ての再訪の地でありました。特に鹿屋の
二式大艇は実に船の科学館に展示されていた時以来
、30年ぶりの再会となり感激しました。…世代を超えて
語り継がねばならない我ゝ、日本民族の自存自衛の歴
史です。よしあしを判断するのは個人の自由ですが…
まずは起きた事・・・そして当時の先人同胞達が何を考
えどう行動したかを知って再考して欲しいものと感じます
。…時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の念を
捧げます。
                            合掌

                    皇紀2670年10月

                      管理人 憂国烈士










〜紀元2600年記念事業の八紘之基柱
             (あめつちのもとはしら)〜

        (宮崎市平和台公園)


紀元二千六百年記念事業として宮崎県奉祝会が中心となり、
『八紘之基柱』(あめつちのもとはしら)の建設と周辺広場の
造成を実施。作業員延べ66,500人、総工費67万円をかけて
昭和15年年11月25日に完成しました。
高さ36.4m、面積1,070u、体積834?。世界各地の切石1,789個(縦45センチメートル、
横60センチメートル)を含む石材で構成されています。 塔は御幣を表している。正面に
は、秩父宮 雍仁 親王 殿下による「八紘一宇」の文字が刻まれており、四隅には正面
(東側)から時計回りに『奇御魂』(くしみたま)、『荒御魂』、『和御魂』(にぎみた
ま)、『幸御魂』(さちみたま)の四魂像(信楽焼)が配置されています。内部には天孫
降臨や波限の産屋、神武天皇即位、葦原中国平定、明治維新、世界地図、紀元2600年
が描かれたレリーフがありますが、一般公開はされていません。 設計は日本サッカー協
会のシンボルマークの「八咫烏」を制作したことで知られる彫刻家、日名子実三が担当さ
れました。 周辺広場を含めた面積は9,900u(3,000坪)、芝生部分は紀元二千六百に
合わせて2,600坪。 塔の前に石盤がありこの上で手を叩くと音が塔に反響して「ビーン」
と鳴る音が聞こえる仕掛けがなされています。



何か超然たる存在感を感じさせます。





大東亜戦争の敗戦後にGHQ進駐、日本では『大東亜戦争』、『八紘一宇』などの言葉が
日本古来からの精神や国家神道を連想させるとして昭和21年1月に「八紘一宇」の文字
と荒御魂像(あらみたま)が取り除かれ、名称も『平和の塔』と改められました。

昭和32年4月9日に都市公園として指定されることにより、都市公園としての整備も進め
られました。これに伴い平和の塔の復元が決定され、昭和37年10月5日に荒御魂像が、
昭和39年1月30日には”八紘一宇”の文字がそれぞれ復元されました。昭和39年の東京
オリンピックでは平和の塔が聖火リレーの第2スタート地点となりました。現在では、
平和の塔が宮崎県の代表的な観光地のひとつとして運動広場や自然散策路などが地元
住民のレクリエーション施設として機能しています。





 右の白黒写真は昭和20年に宮崎空の士官が見学に出掛けた時の
 記念のスナップです。時空を超えて超然とあるかのようです…。




〜珍しい海軍耐錆鋼の特攻短刀〜

       (登録証付)



特攻短剣です。航空兵に限らず、特攻・震洋艇や人間魚雷・回天と
全ての特攻兵器に乗る隊員に贈られました。

藤原兼永作の耐錆鋼…特攻短刀です。この様なステンレス短刀に登録
許可が下りるのは奇跡に近い思われます。逆に日本刀はごまんとありま
すが許可証のある不錆刀はまずお目に掛かりません。まして特攻短刀と
なれば尚の事で…非常に珍しい物と思われます。
今回の南九州の遺構巡り再訪の旅から帰ったすぐ後に譲り受けた品です。
航空機による特攻に限らず、特攻・震洋艇や人間魚雷・回天…そして海龍
何れにしても空でも海でも特攻に関する遺構巡りが殆どでありましたので…
何か因縁めいた物を感じ…即答で譲り受けました。
短刀袋も短刀も…長い事供養をされていたようで線香の匂いがしみついて
おります。海で逝かれたのか…空で逝かれたのかは不明なれど御遺族は
その直前まで仏壇に上げて供養をされていたのだと想像します。




本名=河村永次郎(刀匠銘・藤原兼永)氏。
戦前の刀匠でも有り、ステンレス刀の実現に尽力された人です。
今回のステンレス短刀は(天照山鍛錬所)で作られた物では無く
息子の寛氏を先手に兼永刀匠、自らが鍛刀作成した物です。
天照山鍛錬所等で大刀の製作が始まる以前の、思考錯誤してい
た時期の物と思われます。作っては壊し又、破棄した数十本の中
で完成し満足の出来る作品に仕上がった一口で有るようです。こ
れを特攻短刀に仕込んであります。






目 次 (table of contents)



  ・宮崎海軍航空隊の遺構    ・陸軍歩兵第二十三連隊の遺構
・陸軍墓地・都城疾風特攻振武隊の慰霊碑(都城・都島公園)
・陸軍都城西飛行場の遺構   ・陸軍都城東飛行場の遺構
・都井岬の海軍鉾部隊の遺構 ・串良海軍航空隊の遺構
・第三十三突撃隊第五回天隊の遺構



・鹿屋海軍航空隊の遺構        ・神雷特別攻撃隊桜花の碑
・鹿屋基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔・鹿児島海軍航空隊の遺構
・出水海軍航空隊の遺構・国分海軍航空隊の遺構(第一・第二国
 分基地)及び陸軍歩兵第四十五聯隊の遺構  
・海軍第五特攻戦隊司令部(桜島)の遺構
・第六三四海軍航空隊・桜島基地及び垂水海軍航空隊の遺構



・指宿海軍航空隊の遺構        ・陸軍知覧特攻基地の遺構
・海軍第125震洋隊(聖ヶ浦)の遺構 ・開聞岳・花瀬望比公園

・陸軍万世特攻基地の遺構       ・人吉海軍航空隊の遺構
・熊本健軍飛行場の遺構        ・熊本陸軍幼年学校の遺構




*当サイトの内容には御遺族や提供者のある内容物
も多く含まれてありますので写真及び画像、文章等の
は無断転写やコピーを含めての二次使用の一切をお
断り致します。









この日本と謂う国が我物顔に勝手な正義を押し付ける図々しく迷惑な
米国を中心とした白人国家に戦争で負けて以来、誰よりも正義を求め
自由を愛する優しき日本と日本人は悪の権化とされどん底の生活を余
儀なくされました。そんな敗戦の苦難の日から早、六十五年の月日が
流れ…未だに米国の属国で大きな顔も出来ない情けないが経済的に
は世界第二位の経済大国として復活を遂げました。…宮城(皇居)は
天子様と呼ばれ現人神と呼ばれた大元帥である天皇陛下が住まわれ
る帝都の中心であり最も神聖な場所の一つであります。また靖國神社
は、この国の防人達が命を賭して戦い天に召された時、生前に『靖國
で逢おう』と友と語り合い死して神として祀られる英霊の眠る栄光の約
束の地であり神聖な場所であります。旧帝国陸海軍の遺構ではありま
せんが、旧軍の最高司令官は陸海軍の大元帥である天皇陛下であり
ます。皇軍の最高司令官の宮殿のある宮城と皇軍の将兵が英霊とな
って眠る安息の地が靖國神社であれば…旧軍の遺構を巡る者がまず
真っ先に手を合わせ頭を垂れるべき場所と謂えるでしょう。日本に生ま
れ日本人であれば必ず一度は訪れて欲しい神聖な場所だと思います。







































その他のコンテンツ


























































*当サイトの内容には御遺族や提供者のある内容物
も多く含まれてありますので写真及び画像、文章等の
は無断転写やコピーを含めての二次使用の一切をお
断り致します。