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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編Y







旧軍の遺構や資料館など・・・北海道編



(北海道エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)








先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
65年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。
3ページ目は、軍都・旭川とその周辺の第七師団の
遺構をピックアップ致しました。







旭川 陸軍第七師団の遺構

(陸自第二師団 北鎮記念館)



第七師団は、北海道に置かれた唯一の常設・常備師団です。北辺の守りを担う
重要師団であり道民は畏敬の念を込めて”北鎮部隊”と呼んでおりました。
旭川には敗戦前まで北鎮の陸軍第七師団が駐留しておりました。かつての軍都と呼ば
れた旭川は現在では…その面影も失われましたが旧軍の跡地には、陸上自衛隊の第
2師団司令部があり…その駐屯地の構内に”北鎮記念館”が開設されています。屯田
兵の開拓時代から現代の陸自の時代にかけて旭川に駐屯した帝國陸軍や陸上自衛
隊の歴史について数多くの資料を展示している資料館であります。開館は古く昭和39
年です。現在の建物は平成19年に移転してリニューアルオープンした新しいものです。
陸自の第二師団の駐屯地の敷地内にありますが…その建設予算の殆どは
旭川市民の浄財によったものとか、
施設の管理・運営・詳細の問い合わせ
等は第2師団司令部(総務)が担当、現在の館長・平塚 清隆 一佐は定年
後に再任用され館長の職を継続中です。


第七師団長官舎の門柱跡が移駐されています。










兵器庫屋根飾と旅団長官舎の屋根瓦


北鎮第七師団址地之碑
碑文には

北鎮第七師団の将兵は頑健にして克く苦難に耐え厳々として任務に邁進し又戦闘
にあたっては勇猛果敢常に勇名を轟かしていた特に日露戦争において旅順要塞の
死命を制する二○三高地を猛攻奪取して開城を余儀なからしめた偉功は日本陸軍
の華と謳われ又世界戦史上稀にみる戦例として後世に残されている明治二十九年
五月屯田兵部隊を増強して第七師団の編成を完結してから昭和二十年終戦に至る
まで実に五十年の間北海道唯一つの常設師団として主力を旭川に一部を札幌及び
函館に駐屯して外戦又は北海道の防衛に任ずると共に屯田兵の開拓者精神を承け
継ぎ道民のシンボルとして最も親しまれ敬慕されていたのである斯くの如く父祖の
打ち建てた光輝ある伝統を強化して益々本道の興隆発展に寄与せんことを希い開
道百年事業の一環として道民有志の浄財を仰ぎ第七師団将兵練武の地に址碑を
建立し梗概を録してこれを後昆に供えんとするものである冀くは道民諸賢一丸とな
って開拓者精神を基本とするこの碑を象徴として悠久の大義に徴せられんことを

 昭和四十四年八月

 旧第七師団の会々長 鯉登行一 撰


敗戦時までの最期の師団長を務めた
鯉登 行一 元陸軍中将の碑文があります。こ
の碑文の3年後の昭和47年に閣下は他界されています。(松山出身、陸士24期、
陸大36期、昭和16年11月に旭川第七師団長に親補され敗戦まで師団長をつとめ
ました。昭和20年12月に予備役。)







1階のエントランスホールです。



当時の軍事機密である第七師団歴史です。

屯田兵の開拓時代の展示も豊富です。


初代第七師団長で北海道庁長官を務めた永山 武四郎 中将
です(陸軍中将従二位勲一等男爵)。

師団編成地を札幌に置き北海道と東北の兵で構成された第七師団の初代師団長
は薩摩出身の永山 武四郎 陸軍中将。札幌から旭川へ師団が移ることにより旭川
は急速に栄え北海道で札幌に次ぐ街に発展し現在の礎を築きました。











最後の師団長となった第18代の鯉登 行一 中将



 第二代師団長は同じく薩摩の大迫 尚敏 中将 日露戦争で第七師団は大迫 師団長に率いられ乃木第三軍隷下で有名な二百三高地を
攻略します。多大な犠牲を払い結果としてステッセルを降伏せしめ旅順陥落を果たします。


第4代師団長 上原 勇作 元帥陸軍大将


旭川偕行社のミニチュア模型です。今も健在で美術館として使用
されています。

































北鎮の第七師団は…二百三高地の戦い、ノモンハン戦、ガダルカナルの戦い、
アッツ島の戦いと…常に極限の厳しい戦況で投入される事が多い師団でした。
大東亜戦争では幾つかの部隊が抽出され上記の悲劇的な戦いで消耗しました
が、師団主力は北海道外へ出る事は無く…動かさる師団としてその地から強い
存在は…北海道民に安心を与えました。
ノモンハンの肉弾戦のジオラマです。第七師団からは歩兵第二十六
聯隊と二十八聯隊がこの何の遮蔽物の無い炎天のハルハ・ホルス
テン両河畔及びパルシャガル高地で圧倒的な火力の機甲部隊を中
心とした敵の大軍と死闘を交えました。まさにこのジオラマの通り日本
兵 VS ソ連の戦車・装甲車の戦いでした。人対戦車の戦いが行われ
その勇猛なる戦いぶりは後に帝國陸軍全体の語り草となりました。
歩兵第二十六聯隊は須見 新一郎 聯隊長以下圧倒的なソ連の機甲部隊に
対し火炎瓶や竹竿に地雷を括り付けての鬼神の如き肉弾攻撃を敢行し…こ
の聯隊の損耗率は91.6%に達しました。同じく二十八聯隊でも損耗率は、
72.8%に達しました。この歩兵二十八聯隊は…ノモンハンで壊滅的打撃を
受けて三年しか経たずに日米戦が開始されるとガダルカナル島の戦いで…
聯隊長・一木 清尚 大佐が戦死、軍旗も失う壊滅的打撃を再び受ける悲運
を味わいます。また二十六聯隊の方も…ノモンハンから4年後の昭和18年
に北海支隊をアッツ島に出して玉砕し再び壊滅的打撃を被ります。こうして
北鎮の第七師団は師団主力こそ”動かざる師団”であったが内実は多大な
犠牲を幾多の戦争で払い続けた最強兵団でありました。








歩兵第二十六聯隊の須見 新一郎 聯隊長







アッツ島の玉砕で失われた兵力は第七師団隷下の歩兵第二十六聯隊
を中心に工兵第七聯隊から抽出編成された独立歩兵第301大隊および
独立工兵第301中隊の二隊をもって北海支隊(兵員1024名)を形成し
ました。これに独立工兵第二十八聯隊と船舶工兵の一部が加わり約120
0名の部隊が昭和17年6月8日にアリューシャン攻略作戦の為、アッツ島
に上陸これを制圧し占領しました。その後、MI作戦の一環の占領が永続
的占領に方針が変わり、北海支隊は新たに編成された独立歩兵第302
大隊、独立歩兵第303大隊、独立工兵302中隊、独立工兵第303中隊
を中核に独立野戦高射砲中隊、独立無線小隊、固定無線隊、野戦病院
などを加えて北海守備隊に格上げされました。アッツ島の山崎 保代 大佐
率いる北海守備隊第2地区隊守備隊兵力は約3500名(陸軍が2665名
海軍が約1000名)でした。海軍はたまたま視察中に来島していた第五艦
隊航海参謀の江本 弘 海軍少佐が臨時で指揮を執った第51根拠地派遣
隊(と謂っても設営隊に通信隊だけの兵力にならない状況)1000名でした。
昭和18年5月12日、米軍は戦艦を含む機動艦隊の艦砲射撃と空爆の後に航空
支援の下でアッツ島への上陸を1万名の大兵力を持って開始しました。当初、
第七師団長の鯉登 中将は北方軍司令官の樋口 中将に対して逆上陸戦など援
軍の増派を意見具申するも肝心の兵力を送る海軍に送る余力も撤退をさせる艦
隊も出せないでは…いかんともならず結果として山崎部隊を見殺しにするしか方
法なく…山崎 大佐に援軍を繰り返し約束した樋口 北方軍司令官は説明に訪れ
た大本営の秦 彦三郎 参謀次長に激怒して食って掛かったが海軍が船を出さな
い事にはどうにもならず、樋口中将は謝罪の電文を山崎 大佐に送ります。これに
対して全てを汲み取ったかのように山崎 大佐から”国家国軍の苦しき立場は了
承し た。我が軍は最後まで善戦奮闘し国家永遠の生命を信じ武士道に殉じるで
あろう”と返電されました。昭和18年5月23日に断腸の想いで北方軍司令部は
山崎部隊に対して”軍ハ海軍ト協同シ、万策ヲ尽シテ人員ノ救出ニ努ムルモ、地
区隊長以下凡百ノ手段ヲ講ジ、敵兵員ノ尽滅ヲ図リ、最後ニ至ラバ潔ク玉砕シ、
皇国軍人精神ノ精華ヲ発揮スル覚悟アランコトヲ望ム”の電文を送りました。そし
て同年5月29日の深夜に訣別電となる”従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健勝
ヲ祈念ス”…をキスカ島の北海守備隊司令部に打電後、無線機を破壊し山崎
大佐以下150名が訣別電の"敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下シ之ヲ殲滅、皇軍ノ真価ヲ発揮
セントス"の言葉通り…生き残った傷だらけの最後の日本兵300名は山崎 大佐を
陣頭に最後の突撃を行ないました。この意表を突いた突撃によって米軍は大混乱
に陥り、日本軍は次々と米軍陣地を突破。日本軍の進撃は止まらず、遂には米第
7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、ここで体制を立直した米軍の猛反
撃を受け全滅。最後まで米軍の降伏勧告を拒否して日本軍守備隊は玉砕しました
。尚、この突撃中、山崎 大佐は終始、陣頭指揮を執っていた事が両軍によって確
認されています。このまさに鬼神の如き全軍突撃は米軍将兵の心胆寒からしめま
した。

左上の二枚の写真は第七師団長 鯉登 中将、右上は北方軍司令官の樋口 中将













英霊報恩 山崎保代大佐 アッツ島に散華







  左上は少佐時代の一木 清直 大佐(聯隊長)です。




















地元旭川出身の尾崎 義春 陸軍中将の勲記と勲章類です。
閣下は敗戦時、第十九師団長で戦後は旭川市議などを勤め
られ昭和48年9月9日に亡くなられております。



帝國陸軍最後の参謀本部第一部長を勤めた宮崎 周一 陸軍中将の
軍装品も寄贈されて展示されています。
















軍都旭川を象徴する”旭橋”。この橋は旧第七師団が出征、凱旋するときに
必ず通った橋。今だに頑強な姿をとどめているアーチ橋です。









海軍航空隊黎明期の至宝と呼ばれた赤石 久吉 少佐も旭川出身の
郷土の誇るの英雄です。大正15年3月22日に34歳で公務死(追浜
でテスト飛行中に猿島付近でエンジントラブルで墜落事故に遭い殉
職。)


旭川の軍神と謂えば…忘れられないのが加藤 建夫 少将でしょう。映画化され軍歌も
有名な”加藤隼戦闘機隊”です。郷土の英雄を紹介したコーナーです。
























勿論、戦後の自衛隊の活躍の紹介もあります。





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北海道護国神社(旧 北海道招魂社)



第七師団が旭川に長年あった為、北海道最大の護国神社です。
御祭神は明治戊辰の役より大東亜戦争に至る北海道、樺太関
係の国事殉難者 63153柱(平成23年現在)です。
明治35年5月5日、旭川・第七師団長 大迫 尚敏 陸軍中将は、師団将兵の団結精神の
涵養を目的として、戊辰・西南の役および、日清戦争にて国事に殉じて靖国神社に合祀
された将卒の霊に慰霊顕彰を行い、無言の教育を通じて精強な将兵が育つ事を願い、
練兵場に招魂斎場を建て大迫 師団長が祭主となり靖国神社例大祭日に合わせて招魂
祭が斎行されました。明治40年現在地(旭川市花咲町)に移転、社殿の老朽化が著しい
為、明治43年 上原 師団長・河島 醇 北海道庁長官(北海道知事)発起のもと、道内有
志の賛助を得て、明治44年6月4日落成式、5・6日の両日は軍官民挙げて盛大に招魂祭
を斎行しました。この日より毎年の慰霊大祭日と定めました。日本は満州事変・支那事変
に始まり大東亜戦争の勃発、北鎮の将兵は祖国防衛の任に当たり、最終戦たる沖縄玉
砕に至るまで実に5万5千有余柱の尊い命を祖国の為に捧げられました。昭和8年9月25
日 招魂場及び境内整備工事が着工。翌年10月1日内務大臣より北海道招魂社創立の
許可が下され、11月12日には熱意あふれる浄財により招魂社が完成、名実共に北の
靖国神社になりました。昭和14年4月 内務大臣 指定 護國神社となり、北海道招魂社か
ら北海道護國神社と改称、国家が維持管理をする制度改正に伴い専任社司を設けること
が決まり、初代宮司 藤枝 修衡 氏が任命されました。昭和20年8月15日大東亜戦争終結
。この年全国の護國神社・官国弊社にとって最後の官営祭典となり神社史上重要な意義
を持ちます。終戦後連合軍命令により宗教団体法廃止、宗教法人令公布にて全国約10万
9000社の神社が強制的に宗教法人となり、全国護國神社に於いては、連合軍監視をかわ
す一つの方法として「護國」の文字を取る案もあり、当神社にても昭和21年10月北海道神
社と社名を変更、昭和26年9月8日、日本独立により北海道護國神社に復称、然るに終戦
後合祀する英霊は実に戦前の12倍に及び、社殿の狭さを感じる程となり、昭和35年2月21
日社殿の大改修工事計画のもと町村 金五 氏(北海道知事)を総裁に、全道市町村より寄
付を賜り昭和39年9月19日に典雅な総流れ造りの本殿が完成し現在に至ります。昭和43
年9月3日 北海道開拓100年記念式典にご臨場の為、御来道遊ばされました昭和天皇皇
后両陛下には、畏くも当神社に御親拝を賜りました。

                            〜北海道護国神社の由緒より引用〜



この護国神社は北鎮館に国道を挟んで面しています。調度、御本殿を正面から
のぞむと左側面に北鎮館が存在する形になります。上の画像に二枚は、丁度、
北鎮記念館から見た護国神社を撮影したものです。(下の画像を見ると位置関
係が判るでしょう。この右の駐車場も…この撮影場所の後方の場所は現在の
陸自旭川駐屯地になります。)


正面に御本殿を見て撮影した写真です。菊の御紋に桜花をあしらった全国
他の指定護国神社と共通の御紋を使用されています。







旧兵事記念館です。白亜の殿堂として、伝統的な社寺建築の意匠を用いた帝冠様式で
当時(昭和9年)の日本の近代文化建造物として貴重なものであります。尚、平成3年
改修後は6月の大祭並びに神社特別行事の時、或いは平素市民の文化的行事展覧会
などに開放しています。


相撲の土俵です。六月の大祭では青年による相撲大会
が催され、とても賑わうそうです。


南樺太の日本領とサハリンのソ連領を分ける国境標石のレプリカです。
これを見ると樺太と北方領土の悲劇を思い起こし…胸が痛みます。

樺太・北海道池です。上から見下ろすと樺太・北海道の形をしております。
鯉が数十匹飼われており、季節には蓮の花が美しく咲き乱れます。







北海道連合遺族会青壮年部発足25周年を記念し、母に感謝の
思いを寄せて建立された母の象です。


北海道連合遺族会記念碑


歩兵第八九聯隊戦没者合同慰霊碑
歩兵第八九聯隊戦没者合同慰霊碑は、満州独立守備第五第六及び第十大隊を編合し創設。
聯隊長 金山 均 陸軍大佐 以下2680余名の御英霊を顕彰し偉勲を長く後世に傳えんとする
ものです。



一木支隊鎮魂碑
日米開戦の初期、敵の前線基地ミッドウェイ島攻略の為に歩兵第二十八聯隊より
編成され聯隊長 一木 清直 陸軍大佐名を冠して一木支隊と称しました。聯隊長
一木 清直 大佐以下…2300余名の御英霊を顕彰し偉勲を長く後世に傳えんとす
るものです。




旧近衞兵平和慰霊碑









馬魂碑
戦地に於いて過酷な環境の下に死亡された軍馬の慰霊を永遠に顕彰する
ために建立。6月の大祭には慰霊祭が執行されております。




             ↑
上記バーナーをから公式サイトが開きます。







旭川市内及び近隣郊外に残る
    旧 陸軍第七師団の各種遺構




(旧 旭川偕行社
  現 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館)



明治作りの美しい建物です。旧七師団の将校クラブであった旭川偕行社跡です。
現在は国の重要文化財で旭川市彫刻美術館となっています。ここには天皇陛下
が御宿泊された貴賓室(開かずの間)があったと謂います。師団建設を一手に受
注していた大倉組が寄贈しました。



陸軍の星章がこの洋館の美術館が元はただの民間の建物で
ない事を教えてくれております。








(砲兵第七聯隊 忠の碑
          現 春光園の緑地帯の公園)












(旧 演習場の軍用水道の浄水・配水施設
         現 旭川市水道局 春光台配水所)
















(騎兵第七連隊・捜索第七連隊碑
          と旧第七師団覆馬場
             現 旭川電気軌道施設)




この一帯は騎兵第七連隊はじめ砲兵第七連隊、輜重第七大隊など歩兵科以外の
兵科が駐留した場所です。これ等の兵科は当然、軍馬が主体となりますので豪雪
寒冷地帯である旭川では冬期間軍馬の運動不足、訓練不足が問題となります。そ
の解決のために多数作られたのがこの覆馬場です。現在は旭川電気軌道(バス会
社)の修理工場となっています。






この木造の建物も当時の旧軍時代の建物です。いやはや今も現役ですから
大したもんもだと思い感服致しました。この豪雪寒冷地でも木造の古い建物
が健在とは…。




騎兵捜索第七聯隊跡の石碑です。 戦友会が建立したものです。失った戦友の
記憶と偉勲を後世に伝える為に…是非、大切にしたいものですね。






(旧 陸軍第七師団衛戍病院
  現 独立行政法人国立病院機構旭川医療センター)




明治34年創設の旧陸軍第七師団衛戍病院が発祥です。敗戦後、国立療養所道北病院
として発足。平成16年の独立行政法人設置により、独立行政法人国立病院機構の運営
に移行した。かつて道北病院附属看護学校が併設されていたが3年前に閉校しました。
平成22年8月1日付で独立行政法人国立病院機構旭川医療センターへ改称しました。
今は衛戍病院時代の面影は一切ありません。

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上のバーナーから公式サイトが開きます。






(旧 陸軍第七師団衛戍病院層雲峡分院
  現 旭川赤十字病院付属層雲峡診療所(閉院)) 




今や長い閉院期間中に窓ガラスも割れ動物などの侵入もあったようで
かなり内部も傷んでいるようです。元々は昭和3年に建てられた七師団
の衛戍病院の層雲峡分院です。



療養所の開設に合わせて立てられた記念碑が
さびしげに残されたままです。今では誰も訪れ
る人も殆どありません。





大雪山系の旭岳・・・既に冠雪しています。この辺りもすぐに
一面奥深い雪で閉ざされます。


当時(昭和10年頃)旭川衛戍病院層雲峡分院の貴重な画像です。






メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。