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(北海道エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る) |
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大沼海軍水上基地跡
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今は見渡す限り湖以外に何も無い砂州によって海と切り離された海跡湖です。しかし 敗戦まで約2年間…日本最北の海軍水上機基地である大沼海軍水上機基地(大湊 海軍航空隊稚内派遣隊)がこの建物の一帯にありました。 |
この観察センターのある場所は戦時中、大沼海軍水上機基地が設置され 大湊海軍航空隊稚内派遣隊が進出し、零式水上偵察機6機が宗谷海峡の 哨戒にあたっておりました。 |
近くに稚内空港が見えます。 |
大沼のパノラマ写真です。この静かな美しい湖面を零式水偵が離水しながら大空を 駆け上がったかと想像すると不思議な気持ちになります。 |
丁度、この辺りに30m×15mのスリップが設営され昭和18年に完成しました。 観察センターの管理者の方の話では、管理人さんが子供の頃までは、このス リップ跡の周辺は砕かれたレンガがたくさん散らばっていたそうです。これは、 大沼が塩分が多い為、水上機基地に真水で機体を洗浄する為のレンガで囲 われた貯水設備があったのですが、進駐軍が取り壊しレンガも破片だけになっ たそうです。 |
とても静かで美しい湖面です。ここからオホーツク海は車でほんの数分です。 荒波のオーツク海よりも波の影響が少ない大沼を選んだ事は…成程と得心さ せられました。 |
零式水偵 |
昭和18年10月11日に大沼から発進した零式水偵部隊は海上の駆潜艇など 三艇と連携してこの米潜水艦”ワフー”を宗谷海峡で仕留めました。詳細は この下の大岬(宗谷岬)の平和慰霊碑で取り上げています。 |
大岬(宗谷岬)の旧海軍望楼
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日本最北端の碑が建つ宗谷岬です。条件の良い日には43q先の南樺太 (サハリン)を見る事ができます。横に間宮海峡を渡った間宮林蔵の銅像 が建っております。 |
あいにくこの日は樺太(サハリン)を見る事が出来ませんでしたが…美しい海が広がり ます。下の写真はパノラマ撮影したものです。 |
宗谷岬の灯台です。 |
大岬 旧海軍望楼 |
大岬旧海軍望楼は、旧帝国海軍が明治35年に国境の防備として建造したものです。 昭和43年12月に稚内市の有形文化財に指定されました。明治8年に樺太と千島が交 換され、宗谷周辺は国境となりました。まさに堅牢な要塞のような作りです。宗谷海峡 43qは望遠鏡で監視すれば通過する艦船の動きはここより一望に監視できます。敵 の砲撃を受ける事も当然、想定して堅牢なつくりにしたのでしょう。…最果ての地に今 も100年以上前の施設が寒風吹きすさむ国境の岬で健全と存在する姿に時を忘れて 見惚れました。 |
鏡越しに内部を撮影しました。木製ドアや板張りの床にも歴史の重みを感じさせます。 |
当時、帝政ロシアは樺太に軍備を進めるなど国交が悪化しており、明治35年に旧帝国海軍 により国境の防備として建造された。稚内市は数回にわたる大火で古い建造物を消失して おり大岬旧海軍望楼は、稚内市内で現存する唯一の明治時代の建築物。当時最強と謳わ れたバルチック艦隊の動きを早期に察知する必要性から、重要な海上監視の任務が課せら れていた。日露戦争の終結とともに要塞としての使命は終わったものの、大正9年に沿海州 で勃発した尼港事件の際には無線通信基地として機能した。また、大東亜戦争では対潜水 艦監視基地として機能しました。 |
この圧倒的な青い空に大海原…タイムスリップしたような空間です。 |
大岬 平和の碑
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この米潜水艦”ワフー”は、南太平洋から太平洋、黄海、日本海と暴れ 回り最後は宗谷海峡に出没し日本の船を民間船も軍艦も構わず方端 から沈め回りました。上で紹介した稚内(大沼)から飛び立ち哨戒して いた大湊航空隊分遣隊(大沼海軍水上基地)の零式水偵は昭和18年 10月11日9時20分に宗谷岬の42度12海里の地点で潜航中のワフー を発見しました。ワフーは2ノットで航行中と判断されました。零式水偵 の報告により徹底的攻撃が厳命され、第15号駆潜艇および第43号駆 潜艇、第18号掃海特務艇の三艇が零式水偵の誘導のもと発見海域に 急行しました。この時、同隊の別の零式水偵も9時41分にワフーに対し 爆撃加え、海面に気泡と重油がわき上がってきました。次いで10時34 分に再度の爆撃を実施します。この後、誘導された駆潜艇が現場海域 に到着。第15号駆潜艇は12時3分と7分、18分の三度にわたって爆雷 17発による爆雷攻撃を行い、第43号駆潜艇も12時21分に爆雷7発を 海中に投下しました。これら一連の攻撃の結果、「潜水艦の航行が停 止した」との報告がなされました。その後、第18号掃海特務艇が到着し 、13時30分に更に爆雷2発を投下しました。こうして、ワフーは午前・午 後を通じて執拗な攻撃を受け、5時間にわたる戦闘の末に樺太留多加 郡能登呂村二丈岩の200度 7.5海里の地点で撃沈され、艦長のモート ン中佐以下80名の乗組員は全員戦死しました。日本側の対潜掃討は 念を入れて16時過ぎまで実施され三艇による計63発の爆雷攻撃と零 式水偵が空から爆弾40発が投下されワフーの息の根を止めました。 周辺海域には、幅60メートル、長さ3海里に渡り重油の帯がしばらく残 っていたと謂います。21時、大湊警備府司令長官 井上 保雄 海軍中 将からワフー撃沈に対する祝電が送られたました。 |
ワフーに撃沈させられた関釜連絡船”崑崙丸”(,7,908t) | 秋田県沖で撃沈した漢江丸(飯野海運、2,995トン) | 日本海で撃沈させられた第二正木丸(日下部汽船、1,238トン)同形船”平野丸”の写真です。の |
ワフー艦長のダドリー・W・モートン中佐…日本艦船を大戦中に18隻も沈めた 殊勲艦であったがパラオ海域で日本の特設巡洋艦”浮島丸”を攻撃した際に 沈む船から救命ボートに移る人員に向けて使える砲や機銃で攻撃したという 不名誉で恥知らずな真似を行っている為、本来であればとうに名誉勲章を受 章しておかしくない戦果を挙げているのに授与されなかった。右上の写真は 戦後、2007年7月8日、アメリカ海軍の艦船が沈没現場海上で米露両海軍主 催による花輪献呈式を行った時のものです。この宗谷海峡の海底65m付近に ワフーは眠っています。 |
↑ 上のバーナーをクリックすると2006年にロシア人 ダイバーが海底に横たわるワフーの船体を発見 写真に撮影し公開したサイトが開きます。 |
大岬 宗谷海域海軍戦没者慰霊碑 |
宗谷臨時要塞 の遺構
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宗谷砲台観測所の遺構
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まあ見事に残っているものです。この宗谷砲台観測所は昭和15年1月に 完成したもので…この岬のこの地に宗谷要塞重砲兵連隊(聯隊長 平野 恒三郎 陸軍中佐が着任し展開したのが昭和16年 11月8日になります。 |
まさに…兵どもの夢のあと…の感を強く覚えます。 |
錆びかけた大型のフックが今も残っています。おそらく偽装網を敷設する 時に使うものと思います。 |
見渡す限りの大草原と大海原です。水平線と地平線が両方楽しめます。 |
遠くに宗谷海峡を渡る船が見えます。ズームアップで拡大したのが 下の画像です。こうして観測所から砲撃の司令を出したのでしょう。 記録によれば昭和18年に米潜”ワフー”に対して以外にもソ連潜水 艦と思われる二隻へも砲撃を加えた記録が残されています。 |
宗谷要塞司令部跡
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こちらも現在は全く旧軍時代の面影はありませんが、昭和15年1月に宗谷要塞 司令部が置かれました。僅かに体育館の裏手の土手辺りが痕跡を残していそう な感じがします。 |
宗谷要塞陸軍病院
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今は建て替えられて全く旧軍時代の面影はありませんが…ここは 昭和16年12月に陸軍兵舎の一部を改造し、30名収容の宗谷臨時 要塞陸軍病院として創設されました。敗戦と共に廃院となりますが、 昭和20年12月1日に厚生省に移管され国立 宗谷病院として再発足 します。その後、結核療養所に転換。病院名を国立療養所宗谷病院 と改称。その後、幾つか名前を変えて国立療養所 稚内病院になり、 平成15年3月1日に市立稚内こまどり病院として開院します。(療養 病棟45床、職員33名) |
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メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |