オマケ画像 U


かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長






        
嗚呼神風特別攻撃隊


     作詞 野村俊夫
     作曲 古関裕而
                   (昭和20年)

 無念の歯がみこらえつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ 
   今こそ敵を屠らんと 奮い起ちたる若桜

 この一戦に勝たざれば 祖国の往くていかならん 
   撃滅せよの命うけし 神風特別攻撃隊

 送るも往くも今生の 別れと知れどほほえみて 
   爆音高く基地をける あゝ神鷲の肉弾行

 大義の血潮雲そめて 必死必中体当り 
   敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果

 凱歌はたかく轟けど 今はかえらぬ丈夫よ 
   千尋の海に沈みつつ なおも皇国の護り神

 熱涙伝う顔あげて 勲をしのぶ国の民 
   永久に忘れじその名こそ 神風特別攻撃隊 
   神風特別攻撃隊







航空物の生写真




















”空の英雄・片翼帰還の樫村”と日本全国にその名を
轟かせた樫村寛一三等航空兵曹の九六式艦上戦闘
機です。海軍元帥の軍服に身を包まれた昭和天皇に
説明しているのは後の連合艦隊司長官で戦死される
山本 五十六 元帥海軍大将(当時、中将)です。










































(動画の再生を行う時は、ページ一番上のMIDI
 のコントロール部分で曲をストップさせてから
 再生しお楽しみ下さい。)

この嗚呼神風特別攻撃隊と言う軍歌は大戦末期に作られた
名曲ですが・・・詞といい、メロディーといい胸に迫り泣ける曲
です。昭和19年10月に関行男海軍大尉による初の神風特
別攻撃隊である零戦五機が250kg爆弾を積んで米艦隊に体
当たり攻撃をしました。これを当時、NHKが放送した時に使わ
れた曲です。

       嗚呼神風特別攻撃隊


     作詞 野村俊夫 作曲 古関裕而
                        (昭和20年)


 無念の歯がみこらえつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ 
   今こそ敵を屠らんと 奮い起ちたる若桜


 この一戦に勝たざれば 祖国の往くていかならん 
   撃滅せよの命うけし 神風特別攻撃隊


 送るも往くも今生の 別れと知れどほほえみて 
   爆音高く基地をける あゝ神鷲の肉弾行


 大義の血潮雲そめて 必死必中体当り 
   敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果


 凱歌はたかく轟けど 今はかえらぬ丈夫よ 
   千尋の海に沈みつつ なおも皇国の護り神


 熱涙伝う顔あげて 勲をしのぶ国の民 
   永久に忘れじその名こそ 神風特別攻撃隊 
    神風特別攻撃隊




出征兵士や学徒出陣の将兵に贈られた日の丸の寄せ書きです。
この日の丸は珍しく上掲載した軍歌の”嗚呼神風特別攻撃隊”や
下に掲載した軍歌の”暁に祈る”で有名な作曲家の古関裕而先生
が手書きで寄せ書きした絹製の当時のものです。”暁に祈る”の
楽譜も手書きされ奥様の”古関金子”という署名もあります。



     
     暁に祈る    

  作詞 野村俊夫 作曲 古関裕而     
                     
(昭和15年)

    ああ あの顔で あの声で
         手柄頼むと 妻や子が
    ちぎれる程に 振った旗
         遠い雲間に また浮かぶ


    ああ 堂々の 輸送船
         さらば祖国よ 栄えあれ
    遙かに拝む 宮城の
         空に誓った この決意


   ああ 傷ついた この馬と
         飲まず食わずの 日も三日
   捧げた生命 これまでと
         月の光で 走り書


   ああ あの山も この川も
         赤い忠義の 血がにじむ
   故国(くに)まで届け 暁に
         あげる興亜の この凱歌













昭和20年3月21日に神雷部隊(第721航空隊)の野中五郎少佐
が率いる18機の一式陸攻が出撃、途中でF6Fに迎撃され全滅し
ました。この特攻機”桜花”を胴体下面に搭載した一式陸攻が撃
墜されるのを撮影したガンカメラの映像6枚を1枚の印画紙に焼き
付けたものです。印画紙にTechnical Air Intelligence Center
と焼き込まれており、裏に米海軍公式写真というスタンプが押さ
れています

最大搭載量が1トンの一式陸攻が2トンの桜花を抱いて飛ぶのですから
殺せと謂っているようなものです。F6Fにとっては鴨撃ちのような戦闘
だったと思われます。逃げる事を一切考えずひたすら桜花を抱いて敵機
動部隊を目指す神雷部隊の覚悟が気迫が最期の写真に残されている気
がします。
日の丸が主翼にはっきり見えます。そして射程距離に遠く桜花を射出
出来ない一式陸攻が必死の回避運動を行っている写真です。
桜花を射出すれば身軽になり速度も格段に上がる筈ですが母機が
助かるチャンスよりも…桜花を抱いて敵機動部隊へ射出できる地点
まで最後まで死を覚悟で目指す野中一家の中攻の必死の決意が見
て取れます。

遂に左主翼のエンジン下から被弾による煙が上がります。


上の写真のカラー映像をYou tubuから紹介します。
このページTOPのMIDIの音楽を止めてから再生し
て下さい。



昭和15年4月、霞空の中央指揮所にての野中 五郎 大尉。
















機体の形状より陸軍の九七式重爆(キ-21)と思われます。



不明ですが多分、零観の翼下のフロート部分だと思います。





上は月光から降りる遠藤大尉、下は戦死する
前の遠藤中佐の写真です。



上下共に敗戦後の写真ですが…物悲しいです。
上は秋水で下は紫電改でしょうか不明ですが、
頭の悪そうなGIが日の丸を塗りつぶそうとして
います。







アホ面の毛唐がコクピットに座っていて妙に腹が立ちます。












海軍 九九式艦上爆撃機の大判空撮写真



写真サイズ、40cm x 31cmでアルミ・フレームの額
に入った複写では無くてネガからじかに引き伸ば
した非常にシャープな写真です。
迫力のある空撮写真です。
以下のように写真の裏に「昭和15年秋」などの書き込みがあります。
あまり古びた感じがしないので、戦後のある時期にネガの所有者、あ
るいはネガを借用した人が大きく引き伸ばしたものと思われます。「世
界の傑作機:99式艦上爆撃機」の23ページにこの写真が掲載されてい
るとの事で、11試艦爆の増加試作2号機という説明がつけられていた
そうです。その説明の真偽は、定かではありませんが、どうも試作機で
無く量産機型と思われるとの事です。






第四航空戦隊 機関長 宮崎 幸武 海軍大佐
              ( 航空母艦 龍驤 )
    が所持していた開戦劈頭の航空生写真とコピー



こちらも手書きの説明が写真を貼り付けた台紙に記載されています。
軍の公式写真でなく航空隊の搭乗員個人が撮影した生写真です。
航空畑をずっと歩まれた宮崎大佐は、機関科将校なので最終的には
整備畑に落ち着きます。この写真の時期は昭和13年です。宮崎大佐
が当時、中佐で第15航空隊(初代)の整備長をされた時期です。爆撃
能力の高い九六式陸上攻撃機と機動性の高い艦上戦闘機に艦上攻
撃機をの3本柱を主体に戦爆連合組んだのが初代の第15航空隊であ
りました。第二聯合航空隊に所属し一連の漢口攻略作戦に従事しまし
た。南昌攻略作戦では有名な飛行隊長 南郷 茂章 大尉が戦死されて
います。…九六陸攻に九六式艦戦、九六式及び九七式艦攻…これ等
をよく整備し戦果を上げる事に貢献をした縁の下の力持ちです。一連の
作戦は漢口陥落で終了し同時に十五空も解隊し一部の戦力は支那に
残るが大半が大村に帰還しました。…宮崎大佐はその後、歴史に残る
日本の空母機動部隊の一角を占める第四航空戦隊の戦隊機関長とし
て日本海軍航空隊の全盛期を支えました。機動部隊が失われ…海軍
航空隊の緒戦の圧倒的な勢いが失われて行くと同時に縁の下の力持
ちの宮崎大佐の居場所も無くなっていった感もアルバム等を見ていると
感じられます。









ここまでが日米戦開戦前の支那事変の頃、第二聯合航空隊
(十五空)時代のものです。後で一番下に聯合航空隊時代の
ものも掲載紹介致します。




以下は南方作戦の緒戦の写真記録で以前、紹介した写真と
同時期の別な写真で新たに入手したものです。
今から70年前の昭和16年12月8日…第一航空艦隊がハワイの真珠湾を奇襲
同時に比島攻撃が南比支援隊の第四航空戦隊(空母”龍驤”)によって同日の
0745(午前7時45分)にミンダナオ島のダバオ飛行場を第一次攻撃隊が攻撃、
ついでマララグ湾を攻撃、飛行艇2機炎上させました。次いで第二次攻撃隊も
マララグ湾を攻撃し駆逐艦を撃沈させました。
第四航空戦隊 空母”龍驤”より、この日発艦した戦力は
第一次攻撃隊が九六艦戦9機、九七式艦攻12機の計21
機です。第二次攻撃隊は九六艦戦3機、九七式艦攻2機
の計5機です。この日の戦闘での損失機は、九六艦戦が
1機、九七式艦攻1機の計2機です。
この九七式艦攻は攻撃を終えた第一次攻撃隊の12機のうちの1機
でしょう。既に魚雷も25番も腹に抱いていません。
燃えているのは第一次攻撃隊の九六艦戦に撃墜させられたPBY
カタリナ飛行艇2機(米軍)です。下の画像の同型機です。
記載には米駆逐艦”プレストン”とあります。この艦は後に
昭和17年11月12〜15日の第三次ソロモン海戦で14日に
日本側の砲撃を受けて撃沈されます。
古写真のスキャナーの拡大では、はっきりしませんが
下がUSS Preston (DD-379)の詳細な写真画像
です。


フィリッピンのレガスピーです。マニラより遥か南でルソン島の
最南端の手前でサマール島よりにある古い町です。


ラゴノイ湾からアルベイ湾に至り上陸する日本軍地上部隊の
支援の時の写真のようです。向かうところ敵なしの機動部隊
に見守られた部隊は、さぞ頼もしい思いで上陸占領を果たし
た事でしょう。



70年前も今と同様に噴煙を上げ続けるマヨン山を横目に必殺の魚雷を腹に
抱いて飛ぶ空母”龍驤”の九七式艦攻二機です。
現在も変わらない活火山のマヨン山です。
拡大した画像偵察席と通信席の人影が見える両機とも風防を開けている。






今は古い教会があり結婚式場として観光客が訪れるらしい
下が現在の衛星写真から見たサン・オーガスチン岬



下が拡大画像です。船首部分から爆炎が確認できます。


インドネシアのアナベス諸島は、ボルネオ島とマレー半島の中間に位置します。


黒煙が天を覆う…日本に手渡すのが嫌だからと謂って性悪なオランダ人は
戦後も卑怯で罪もない日本兵をBC級戦犯で処刑し…再び現地人を大勢虐
殺しました。嫌なダッチ野郎は生涯無視するに限る!


九七式艦攻の右翼に日の丸が見えます。偵察席から写真を撮影したのでしょう。


更に南下してカリマタ海峡をブリトゥン島を挟むとこのガスパル海峡
です。この撮影日が2月17日ですが、この2日前の15日にこのガス
パル海峡では、クアンタン基地から出撃した美幌空の4個中隊27機
の九六式陸攻が北上中の英・米・蘭の連合艦隊の攻撃に向かいまし
た。その時は、軽巡”ホバート”を小破した程度の戦果だったようです
。二五番直撃とあるので九九艦爆による9九九式25番通常爆弾1型
(250kg徹甲爆弾)で仕留めたものと思われます。



下がビリトン島です。


昭南(シンガポール)は英軍の最大の拠点ですから、2月から3月半ばまで
びっちり昭南方面の作戦で貼り付いていいるのが写真の日付けを見ていて
も判ります。2月15日にシンガポールが攻略ですが周辺を全て制圧するの
には暫くは時間を擁したということでしょう。








ここもシンガポールよりすぐ上にある飛行場です。今も
マレーシア空軍から移管されたマレーシア陸軍の航空
隊が使用しています。


ここもジョホール州の飛行場です。


ビルマです。メルグイ飛行場は現在のマイエイク空港です。
プーケット島のはるか北でアンダマン海に面したビーチリゾ
ートで有名なカダン島が目の前にあります。



海軍機関学校第27期出身で航空マーク持ちの宮崎海軍大佐が
所持していた写真です。尚、この大佐は、開隊間もない霞ヶ浦
海軍航空隊にて機関学生教程を修了しております。開戦時は、
第一航空艦隊(司令長官:南雲忠一中将)第四航空戦隊(司令
官:角田覚治少将)の四航戦機関長(四航戦幕僚)として空母”
龍驤
”で開戦以来…印度洋作戦、アリューシャン作戦など参加
しました。四航戦は、空母”龍驤”を戦隊旗艦として特設空母”春
日丸”(後の空母”大鷹”)と第三駆逐隊の駆逐艦”帆風”、”汐
風”を従えて、緒戦を戦いました。南雲艦隊から離れ真珠湾作戦
とミッドウェイには参加しませんでしたが緒戦の南方攻略作戦を
支援し画像のとおり東南アジア各地を転戦しているのが判ります
。また文面よりも当初半年から一年が向かうところ敵なしのまさ
に破竹の勢いだった事を裏付けます。
まさに開戦記念日となる昭和16年12月8日より印度洋作戦中
の昭和17年4月6日までの生写真とコピーの記録となります。
第四航空戦隊幕僚であった宮崎大佐が空母”龍驤”が移動す
るごとにその写真を記録しています。フィリッピンのダバオから
はじまり同ルソン島のレガスピー湾、ベトナムのサイゴン、そし
てシンガポール、スマトラ島横のシンケップ島、ガスパル海峡、
バタビア沖海戦、ビリトン島、ジャワ海、ペナン島、印度洋(作
戦)と転戦しているのが良く判ります。
開戦時、昭和十六年十二月八日(開戦時)の
第四航空戦隊の幕僚は以下となります。

角田 覚治 (司令官・39)
小田切 政徳 (首席参謀・52)
吉冨 茂馬 (航空参謀・55)
岡田 恰 (通信参謀・57)
石森 市五郎 (機関参謀・機39)
宮崎 幸武 (機関長・機27)

尚、軍医長と主計長の氏名等が不明です。
昭和16年12月8日よりフィリピン攻略作戦に参加し
更に南下して南方攻略作戦を支援していきます。








昭和17年1月19日、アナンバス攻略作戦に参加!
同年2月10日、バンカ・バレンパン攻略作戦に参
加。同月13日にはバンカ海峡で九七式艦攻により
商船8隻を撃沈。翌14日にもバンカ海峡にて九七
式艦攻にて魚雷艇母艦1隻、特務艦1隻、砲艦1隻
を撃沈せり。またその翌15日には、ガスパル海峡
にて九七式艦攻をもって連合国艦隊を爆撃を行い
損傷を与える大活躍をしています。


東洋に置ける大英帝国の一大要塞であった為、
思い入れが深いのか記載量が多いのが判ります。











昭和17年年3月1日、カリマタ海峡で米駆逐艦”ポープ”
を爆撃により大破させ、セマラン港を爆撃する。以下の
画像と思われます。
龍驤の艦載機である九七式艦攻の250kg爆弾(25番)直撃
で沈む1万トン急商船です。上の二枚は駆逐艦です。


ジャワ海 適砲艦撃沈(龍驤砲果)とあります。
即ち八九式12.7cm40口径連装高角砲 6基
の片側の3門で砲撃して沈めたと言う事でしょ
う。流石は闘将・角田司令官です!



シンガポールを攻略しマラッカ海峡を抜ければインド洋です。







九七艦攻による爆撃で仕留めた商船と思われます。
昭和17年4月1日より始まったインド洋作戦では商船9隻を
撃沈しています。この作戦の後、5月20日にアンダマン、
ビルマ攻略作戦に参加しています。


朝焼けか夕陽か判別付きませんが水平線の彼方、左に沈む英国
商船、右に手前は帰投する駆逐艦”島波”。その奥は大型艦で
味方の戦艦だと思われます。金剛、比叡、榛名、霧島の四戦艦
がインド洋に参戦して来ていました。このうちの何れかでしょう。
昭和17年4月6日の日付があります。”朝飯前の商船狩”と記載
されています。緒戦の大勝利にまだまだ湧き立っている頃です。
この”朝飯前の商船狩”が僅か数年も経たないうちに自らの身に
起きる等とは、まだ夢にも思い描きもしなかった頃と思います。
空母”龍驤”の飛行甲板より3人の海軍々人が沈みいく
敵国商船を見ています。右と中央の二名は双眼鏡で見
ているようです。インド洋らしく半袖半袴の防暑衣に二種
戦闘帽姿のようです。このショットを写しているのが恐ら
く宮崎大佐本人と思われます。宮崎大佐は、その後将官
へ昇進する事無く戦後も生きておられました。昭和38年
5月30日逝去されておられます。四航戦は一航艦(南雲
機動艦隊)がミッドウェイ攻略作戦(MI作戦)で壊滅した
時、その支援作戦としてアリューシャン攻略作戦(AL作戦
)を展開し空母”準鷹と共にダッチハーバーを攻撃しまし
た。ミッドウェイで一航艦が壊滅後は四航戦も解散します
。この時に宮崎大佐は空母機動部隊から離れたようです
。龍驤はその後、新編成の機動部隊である第三艦隊の
第一航空戦隊に組み込まれガダルカナルを巡る死闘が
繰り広げられたソロモン海で第二次ソロモン海戦を戦いま
した。この海戦では、南雲第三艦隊の支隊として原忠一
少将指揮の下、空母”龍驤”、重巡”利根”、駆逐艦”
時津風”、”天津風”の計4隻でガ島攻撃に向かいました。
米軍が占領したガダルカナル島の飛行場を零戦15機、
九七式艦攻5機を上げて攻撃しています。そしてこの写真
が撮られた約4ヶ月後の昭和17年8月24日に敵空母
”サラトガ”の攻撃隊の爆弾が四発命中し左舷に一本の
魚雷が命中し大火災の後、ガダルカナル島北方海域で
同日の18:00に沈みました。幸い艦載機は母艦が火災
で着艦不能の為、近くのブカ基地に降りるか不時着しま
した。艦載機25機をこの海戦で失いましたが全員が戦
死でなく生存した搭乗員もおりましたのでミッドウェイのよ
うな優秀な搭乗員を丸ごと失うような大被害には至らな
かったものの軽空母とは謂え制式空母をまたも失う結果
となりました。





ありし日の空母”龍驤”です。

改装後、龍驤の武装です。

八九式12.7cm40口径連装高角砲 6基
九六式25mm60口径二連装機銃 2基
九三式13mm76口径4連装機銃 6基

尚、開戦当初は零戦の配備が間に合わず
九六式艦戦18機・九七式艦攻12機+補用
機で南方攻略戦に臨みましたが、AL作戦
時には、零戦が間に合い零戦16機・九七
艦攻21機、計37機を搭載して戦いました。



     ◆角田 覚治 海軍中将◆

新潟県出身、海兵39期、功二級、

開戦からAL作戦までを司令官として戦った
闘将 角田 覚治 中将です。四航戦司令官
として開戦の日にダバオ飛行場を空母”龍
驤”で空襲させています。その作戦指揮は
所謂、アウトレンジ戦法で航空畑出身と違
い砲術科出身ですが…与えられた情況と
兵力を最大限活用し敵にダメージを与える
能力に非常に長けた指揮官でした。インド
洋作戦で航空機が発艦できない悪天候で
は空母を敵基地に近ずけて、龍驤の高角
砲で砲撃を行うなど破天荒である敵を殲滅
する猛将でした。南太平洋海戦で空母”翔
鶴”がやられ南雲司令長官より指揮権が
委譲されるや座乗の空母”準鷹”を最大戦
速で突進させ敵空母”エンタープライズ”を
退けさせ”ホーネット”を大破せしめた上に
鹵獲を企図し曳航を命じるが不能の為、魚
雷により沈めた等、その闘将ぶりは有名で
あります。南雲機動部隊が壊滅し四航戦が
解散後…基地航空隊で再編された第一航
空艦隊司令長官として昭和18年7月にマリ
アナ沖海戦を支援するが(あ號作戦)、いた
ずらに航空兵力を失うのみの結果となり、
再編された機動部隊も壊滅しました。その
後、指揮する船も航空機も無いままテニア
ン島で地上戦に突入。昭和19年7月31日に
”今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類
の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム”の訣別電
を最後に玉砕をされております。享年53歳。

下は第二次ソロモン海戦で敵の攻撃を受けて炎上する
断末魔の空母”龍驤”を空撮した画像です。龍驤の前に
護衛の駆逐艦らしき小型艦が一隻、左後方に退避しな
がら戦場海域を高速で離脱せんとする駆逐艦らしき小
型艦が見えます。時津風と天津風と思われます。






海軍・軍艦物の生写真


頂き物画像ですが上は敗戦後の戦艦 長門
下は潜水空母のイ-400です。







空挺物の生写真












珍しい陸軍の飛行第十五連隊(または飛行第十大隊)の94偵の写真


満州上空を飛ぶ九四式偵察機の編隊写真です。
尾翼に桜花3枚の部隊マークです。
陸軍の飛行第十五連隊もしくは飛行第十大隊