オマケ画像 V




かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長




            歩兵の本領

  加藤明勝作詞
  永井建子作曲


 万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く
大和男子と生まれなば 散兵戦の花と散れ

 尺余の銃は武器ならず 寸余の剣何かせん
知らずやここに二千年 鍛えきたえし大和魂

 軍旗を守る武士は すべてその数二十万
八十余ヶ所にたむろして 武装は解かじ夢にだも

 千里東西波超えて 我に仇なす国あらば
港を出でん輸送船 しばし守れや海の人

 敵地に一歩我れ踏めば 軍の主兵はここにあり
最後の決は我が任務 騎兵砲兵協同せよ

 アルプス山を踏破せし 歴史は古く雪白し
奉天戦の活動は 日本歩兵の粋と知れ

 携帯口糧あるならば 遠くはなれて三日四日
曠野千里にわたるとも 散兵戦に秩序あり

 退く戦術われ知らず みよや歩兵の操典を
前進前進また前進 肉弾とどく所まで

 わが一軍の勝敗は 突喊最後の数分時
歩兵の威力はここなるぞ 花散れ勇め時は今

 歩兵の本領ここにあり あな勇ましの我が兵科
会心の友よさらばいざ ともに励まん我が任務








大戦前の古き良き時代の帝國軍人達の姿




正衣袴姿の騎兵少尉です。九八式軍刀
を手にしていますので騎兵科が無くなる
頃、後期の写真と思います。











左は、大礼服の中将閣下。右は、少将閣下です。

 石井 常造 陸軍少将

福島出身、功四級、砲兵科、陸大18期

大正 5年 8月18日 野砲兵第五連隊長

    6年 8月 6日  陸軍大佐 

    7年11月1日  第一七師団参謀長

   10年 7月20日  陸軍少将
             野砲兵第三旅団長

   11年 8月15日  基隆要塞司令官

   12年 8月 6日  待命

   12年 9月 1日  予備

陸軍 軍属勅任官の写真です。こちらの
閣下は、勲三等瑞宝章、将官刀緒をつ
けています。

右の写真の方は、真崎大将。
ありし日の帝國陸海軍の将星達です。
豪華な顔ぶれの帝國海軍の提督達です。

真ん中に米内大将、右隣は、豊田大将です。


陽炎級と思われる駆逐艦甲板での記念写真




仲良く二人で写る野間口・財部両海軍大将です。


        ★野間口 兼雄 海軍大将★

鹿児島県出身、慶応2年2月14日〜昭和18年12月24日
海兵13期、海大卒後イギリス駐在等を経て、海軍省副官
兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。巡洋艦の
艦長などを歴任後、軍務局先任局員を経て第1艦隊参謀長
となり、佐世保鎮守府参謀長、海軍砲術学校長、呉鎮守府
参謀長、軍務局長、呉工廠長、海軍兵学校長、舞鶴鎮守府
長官、第3艦隊長官を歴任し、大正9年に海軍大将、さらに海
軍教育本部長、軍事参議官を経て、大正13年に予備役に
編入されし昭和11年に退役。


こちらも豪華な豪華な写真です。海軍四大将が
並んで正衣袴で記念撮影をしています。
左から山下 源太郎 海軍大将(海兵10期)正二位勲一等功三級男爵、
山本 権兵衛 海軍大将(海兵2期)従一位大勲位功一級伯爵、斉藤 實
 海軍大将(海兵6期)従一位大勲位子爵、財部 彪 海軍大将(海兵15
期)功三級…錚々たる顔ぶれに息を呑みます。実在し目前に彼等が座
っておられたら言葉も無い状態になるものと想像します。



宮里 秀典 海軍中将の少将時代
の御写真です。昭和18年5月とあり
ます。第十一特別工作部長をされ
ていた時と思われます。

 鹿児島県出身、海兵30期

開戦前に戦艦”大和”初代艦長を
勤めた方(艤装員長)です。船舶
救難本部長、船舶警戒部長で敗
戦、そして予備役になっています。



第一軍の情報主任参謀から近衛師団参謀に転じたその日に
撮影された写真のようです。太原は支那の地名で山西省の省
都です。前職の第一軍が太原にありましたので移動する前に
太原で撮影された写真なのかと想像します。この後、近衛師団
は混成旅団を南支那方面軍として広東に上陸し広東作戦に南
寧作戦と激戦に参戦していきます。小原中佐は、同年6月に近
衛留守師団参謀に転じたのちに同年8月に大佐に昇進して第
25師団参謀となります。

      ◆ 小原 重孝 陸軍大佐 ◆  


 陸軍大佐功四級
 歩兵科、陸士32期、 陸大41期
 東京都出身


           ≪ 略 歴 ≫


大正 9年 5月26日 陸軍士官学校卒業(第32期)

大正 9年12月26日 陸軍歩兵少尉

大正15年12月24日 陸軍大学校入校

昭和 4年11月29日 陸軍大学校卒業(第41期)

昭和13年 7月15日 第一軍参謀(情報主任)

昭和14年 5月 5日 近衛師団参謀

昭和15年 6月 8日 留守近衛師団参謀

昭和15年 8月 1日 任陸軍歩兵大佐
             第二十五師団参謀長

昭和17年 3月 2日 陸軍大学校教官

昭和17年11月 1日 歩兵第二十九聯隊長

昭和18年 3月23日 留守近衛師団司令部附

昭和18年12月28日 第二野戦鉄道司令部高級部員

昭和20年 8月15日  敗 戦(南京で迎える)




日米戦の開戦の4か月前…長 勇 大佐(当時)が印度支那派遣軍参謀長
の時の写真と思われます。お隣に座る馬奈木 敬信 大佐は陸軍省軍務局
付(タイ・仏印国境画定委員)だった時期です。

        ◆ 長 勇 陸軍中将 ◆  


 正四位勲二等功四級
 歩兵科、陸士28期、陸大40期
 福岡県出身


          ≪ 略 歴 ≫


昭和11年12月 1日 漢口駐在武官

昭和12年 8月15日 上海派遣軍情報課長

昭和12年12月11日 兼中支方面軍情報主任参謀

昭和13年 3月 1日 任陸軍大佐
             歩兵第七十四聯隊長

昭和14年 3月 9日 第二十六師団参謀長

昭和15年 8月 1日 台湾軍附

昭和15年 9月 6日 仏印派遣軍参謀長

昭和16年 6月28日 第二十五軍参謀副長

昭和16年 9月25日 軍務局附

昭和16年10月15日 任陸軍少将

昭和17年 7月 9日 兼南方軍附

昭和17年11月10日 第十歩兵団長

昭和19年 3月 1日 関東軍附

昭和19年 6月26日 参謀本部附

昭和19年 7月 8日 第三十二軍参謀長

昭和20年 3月 1日 任陸軍中将

昭和20年 6月23日  自 決 (49歳)



       ◆ 馬奈木 敬信 陸軍中将 ◆ 


 功四級
 歩兵科、陸士28期、陸大36期
 明治30年8月19日生、福岡県出身


           ≪ 略 歴 ≫


昭和12年11月2 日  独逸駐在

昭和13年 7月15日 任陸軍大佐

昭和14年 3月 9日  蘭国公使館付武官

昭和15年 3月 9日  歩兵第七十九聯隊長

昭和16年 4月10日 北支那方面軍司令部付

昭和16年 6月19日 軍務局附
             泰・仏印国境画定委員

昭和16年10月15日 任陸軍少将

昭和16年11月 6日 第二十五軍参謀副長兼軍政部長

昭和16年12月〜昭和17年2月 
             マレー作戦に参加

昭和17年 4月11日 ボルネオ守備軍参謀長

昭和19年 9月22日 第三十七軍参謀長

昭和20年 3月 1日 任陸軍中将
             第二師団長

昭和20年 8月15日  敗 戦(サイゴンで迎える)

昭和25年 6月      復 員

昭和54年11月 4日   歿  (83歳)






こちらは第32軍参謀長の長 中将の自決の際、介錯し
た副官の坂口 少佐の写真とお墓の写真です。




もう一枚 坂口 勝 少佐に関するものです。
不思議なもので上の方が少佐で後年ですが、この少尉時代の写真の方が
えらく老けて見えます。上の少佐の階級章を付けた写真は青年のように若
く見えます。
裏面は写真が剥ぎ取られています。小生の名前入り写真と記載があります。
昭和18年3月で第十師団歩兵団長(891部隊)三江省佳木斯あります。佳
木斯市は三江省の省都です。現在は黒龍江省の佳木斯市です。第十歩兵
団の当時の団長は千知 波幸治 陸軍少将の後を受けた長 勇 陸軍中将そ
の人です。横に復学という記載があります。長 歩兵団長と共に写っているの
か名前を記載して写真を贈呈されたか?…その辺が不明です。



古いアルバムの台紙は良いのですが…この後でフエルアルバム
に貼り直しされた写真は最悪です。剥がそうとする破れそうにな
るので剥がせません。裏に記載がある場合は…読み取りが不能
になります。…研究者・コレクターとしては後に残す資料を保存す
る観点からも気を付けて貰いたいものです。

一緒にあった地図に写真のコピーです。地図は河南省・安徽省・山東省
を中心に一部、河北省に山西省、湖北省が含まれた地図です。佐々木
登 陸軍少将が最後の騎兵旅団となった騎兵第四旅団(4KB)を指揮し
た旅団長時代の昭和14年10月2日から昭和15年3月9日までの間の支
那での写真です。余談ですが・・・この4KB(騎兵第四旅団)は、かつて
多く存在した騎兵連隊が捜索連隊や自動車化騎兵に生まれ変わり軍旗
を返納しました。騎兵の名を部隊名に残しても・・・唯一、敗戦まで騎兵と
して存在し得たのが4KBと隷下の騎兵連隊です。乗馬騎兵部隊として
世界で最後の騎兵突撃を敢行し老河口飛行場を急襲占領したのが所謂
老河口作戦(昭和20年3月後半〜6月末)です。世界戦史に残る騎兵の
最後の戦いを勝利で飾った騎兵第四旅団(4KB)の活躍は燦然と日本及
び世界戦史レコードとなって記憶されています。
陸軍少将時代の佐々木 登 閣下です。右端と左下の写真は騎兵第四旅団長
として支那でものです。左下はo靖軍総司令官・コイツ?大将とあります。上
の中央の写真は、第六軍参謀長時代のものと思われます。

        ◆ 佐々木 登 陸軍中将 ◆   


 広島県出身、明治26年1月1日生
 騎兵科、陸士26期、 陸大35期(優等)


            ≪ 略 歴 ≫


大正 3年 5月28日 陸軍士官学校卒業

大正 3年12月25日 任陸軍騎兵少尉
             騎兵第5聯隊附

大正 9年12月 7日  陸軍大学校入校

大正12年11月29日 陸軍大学校卒業
              騎兵第5聯隊中隊長

昭和 7年 4月11日  陸軍大学校教官兼参謀本部部員

昭和12年 7月 6日  馬政局資源部長

昭和12年 8月 2日  任陸軍騎兵大佐

昭和14年 8月 1日  任陸軍少将
              陸軍兵器本部附

昭和14年10月 2日 騎兵第4旅団長

昭和15年12月 2日 第6軍参謀長

昭和17年 7月 1日 陸軍機甲本部附

昭和18年 5月 1日 南東支隊長

昭和18年11月21日 第8方面軍司令部附

昭和19年10月26日 任陸軍中将

昭和20年 8月15日 敗 戦 (ラバウルで迎える)

昭和36年 3月27日   歿


右上は4KB隷下の騎兵連隊の聯隊長の中佐です。恐らく騎兵第二十五聯隊
の聯隊長だった星 善太郎 中佐(当時)と思われます。
o靖軍総司令官・コイツ?大将の拡大写真です(左上)。右上は騎兵聯隊長。

右上は4KB参謀の大熊 初五郎 少佐、左上は同じく斉藤 少佐です。


騎兵第二十五聯隊の慰霊碑と慰霊祭の写真です。共に
戦後のものです。これらからも所持者だった方は4KBや
25Kの関係者や遺族の可能性も高いと考えます。

慰霊祭では他の騎兵聯隊の戦友会からの花輪など盛大にとりおこなわ
われているのが判ります。



騎兵第二十六聯隊の軍旗 騎兵第二十五聯隊の軍旗 騎兵第三聯隊の軍旗

騎兵第二十五聯隊の営門
騎兵第二十六聯隊の営門
騎兵第三聯隊の営門


明治に始まり大東亜戦争の敗戦でその歴史に幕を閉じた
日本陸軍の騎兵の最後の大仕事は老河口作戦でした。
高速重装甲の戦車に装甲車を主体とした機甲部隊の時代にはノスタルジック
とも言える騎兵が存在する余地は最早や第二次世界大戦では無い筈でした。
事実、帝國陸軍も既に存在し得る名実ともに騎兵と言える部隊は4KBを残す
のみの状態でした。英米の連合軍相手では騎兵が出る余地は全くありませ
んが・・・中国大陸の二流・三流の機動化されていない支那軍相手では、まだ
騎兵の機動力が十二分に活躍する場が残っていたのが生き残っていた理由
です。そして二十世紀最後の騎兵の戦いを老河口作戦の見事な騎兵突撃の
成功で・・・その栄光の歴史の幕を下ろしたと言える気がします。
老河口作戦を指揮した藤田 茂 中将




大陸を行く騎兵と完全武装の騎兵と軍旗を先頭に進む騎兵です。


下は襄東作戦における騎兵第二十五聯隊







靖国神社への大元帥陛下の御親拝














同盟が提供配信した検閲済み写真です。













緒戦で活躍した機甲部隊の写真です。

マレー半島のタイピンに入城後、更に進撃する機械化部隊の写真です。
マニラのルネタ公園通りを堂々と入場する九五式軽戦車です。







戦前の御皇族



〜現人神と崇められし人々〜
































東宮殿下(後の昭和天皇)の御真影










秩父宮 雍仁親王殿下の姿が中央にあります。立襟の参謀姿
で階級が大佐ですので、昭和14〜15年の大本営参謀時代の
病気療養に入る前に支那派遣軍を訪れた時と思われる生写真
です。左の海軍軍人は、中将時代の豊田副武第二艦隊司令
長官と思われます。前列右端が大佐時代の河野閣下です。当
時は、斉南特務機関長時代と考えられます。




戦前に撮影された超大型の皇居二重橋の額縁写真

とにかく大きな写真です。額縁のサイズが105cm×76cmです。
橋の詰所で小銃を持ち警備する近衛兵の姿が写っています。
現在の皇居・二重橋



敗戦の詔勅









〜天皇陛下よりの御下賜品〜



本来であれば軍装品では、ございませんが御皇室の
皆様の中でも特に明治以降…敗戦までの歴代(明治
・大正・昭和)天皇陛下は、大元帥陛下として陸海軍
の最高位の統率者でもありました。それ故に日本陸
海軍は、皇軍の別称でも呼ばれます。…軍装品を研
究収集する中で縁あって巡りあいました。数少ない品
を特にそうした意味で御紹介します。







大正天皇陛下の御下賜品のパナマ帽



今や大正天皇陛下の御遺品となったパナマ帽子です。
当時の侍従長であった徳川達考伯爵に大正10年12月
11日に御下賜された品である事が徳川伯爵の箱書きが
あります。その後に昭和13年4月2日に徳川伯爵家の
家従であった福田豊識氏が主人より拝領し、福田家代々
の家宝ぬすべしと記載されています。
帽子のサイズ56p







昭和天皇陛下の御下賜品のシャツ



特別に誂えたのでしょう。二重の木箱に
大切に保管されております。中の木箱は
桐のようです。

今上天皇御衣 昭和三年 御下賜品です。外箱の蓋裏に由来が書かれています。
読めない部分もありますが、大体の内容は次の通りです。

この御物は今上天皇階下の御召衣で前侍従武官現任騎兵第四族団長陸軍少将
服部閣下、御下賜の御物を昭和三年十一月、御大典記念として御大豊御終了後
の同年十二月に服部閣下より川田氏が贈与をうけた。

川田氏の部分が川田◎子爵と読めるような気もしますが、はっきりしません。
服の状態は破れや虫食いはありませんが、全体にシミがあります。
長期間箱に入ったままの状態のため、折り目がついています。
     サイズ:着丈79cm、身幅55cm 素材は綿です。
とても強く糊が効いています。


胸に菊の御門があります。



畏れ多くも畏くも、あの昭和天皇陛下が御召しになされた
御服を手にすると考えただけで…やはり一臣民の一人と
しては、指の震えを覚えました。




大元帥陛下(若かりし頃の昭和天皇陛下)胸像






明治天皇陛下の御下賜品のシャツ



明治天皇が御着用になり御下賜
になられたシャツです。


箱書きにある辱友 山田得多は、号を古香と称し山田古香として
有名な京都で活躍した書家です。讃岐の生まれで書を長三洲に
学びました。京都の七卿西竄紀念碑(東山区東大路通七条 
妙法院内)や鳥羽伏見戦跡碑の碑文をはじめ多数の碑文を揮毫
しています。北野天満宮表参道双狛台座銘や鳩居堂京都店看板
も山田得多の揮毫によるものです。
シャツは、上の昭和天皇のものと同じでしっかりと糊が効いております。






嗚呼、郷土の誉れ北鎮精強の
     第七師団(旭川)兵舎の集合煙突の煤出し口



旭川第七師団の兵舎解体時に出たものだそうです。
重さ:6.5kg 鋳物製でサイズは、22.0x30.0cm 
厚さが10.0cm…ずっしりと重いです。 
伝統ある北鎮の守護を敗戦まで務めた栄光の
第七師団の煙突の煤出し口の扉です。保存状
態が良好で70年以上昔のものとは、思えませ
ん。
御存知の明治に屯田兵より生まれた北国の兵団が
この第七師団です。明治29年、日清戦争の後に
第七師団となりました。通称号は、熊兵団で編成地
は、我が故郷の札幌です。

旧陸軍第七師団跡地(錬兵場)は、現在、
陸自の旭川駐屯地になっています。この
中に北鎮記念館があります。以下、クリッ
クで詳細ページへ飛びます。






某氏の収集された品々



航空物の収集家の某氏の収集された品の中で特別に
紹介を許された画像を少し公開いたします。涎の出そう
なお宝が満載です。
零戦の胴体後部です。
零戦の操縦桿とシートです。
零戦二一型の左主翼の翼端部の骨組です。
左は、零戦の主脚カバーの一対です。右は、カウリングの上部です。
九八式射爆照準器
大戦末期に使用され零戦にも搭載
された四式射爆照準器です。
陸軍機に多く装着されました百式射爆照準器
左は、赤トンボ(九三中練)のシート。
右は、四式戦”疾風”のシートです。
九九艦爆の片側の主脚柱
多座機の風防の枠の一部(機首不明)
キ−105の木製扉
キ-105の木製桁






古来、神々の住む神聖な島として
          崇められし宮島と厳島神社



日本三景の一つ”安芸の宮島”、厳島神社の大鳥居です。
1400年の歴史を持ち日本全国約五百社の厳島神社の総
本社です。古代より島そのものが進行の対象とされ人が島
に入る事そのものを禁じられた聖域でありました。人が住む
ようになったのは明治になってからです。
本来、神社は大鳥居をくぐり参道に進むものです。厳島(宮島)
では、これが海上から船でくぐるのが正式なルートとなります。
現在は、神社を正面に見て左側にある船附場にフェリーが着き
多くの来島者や参詣者は、このフェリーできます。しかし良く考
えると鳥居をくぐらないので裏口から入ったようなものとなりま
す。
















実に心に沁みる美しい景色です。様式美…日本文化の格調高い
美しさの原点が濃縮されているような気がします。この風景を目
にする度に私は…『日本に日本人として生まれて良かった。』と痛
感します。