オマケ画像 W




かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長




         異国の丘

  作詞:増田幸治 補作:佐伯孝夫  
  作曲:吉田正


 今日も暮れ行く 異国の丘に
 友よ辛かろ 切なかろ
 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
 帰る日もくる 春がくる


 今日も更け行く 異国の丘に
 夢も寒かろ 冷たかろ
 泣いて笑うて 歌ってたえりゃ
 望む日がくる 朝がくる


 今日も昨日も 異国の丘に
 おもい雪空 陽がうすい
 倒れちゃならない 祖国の土に
 辿りつくまで その日まで








いつも画像ばかりのおまけコーナーなのでたまにはお話を
入れてみました。戦史にも残らない非常に珍しいお話です。



敗戦後、自力でフィリピンよりバンカ(現地のカヌー)
に乗り帆走で日本を目指し出発、バシー海峡を渡り
台湾の南東沖の紅頭嶼(現在の蘭嶼)を経て尖閣諸
島の魚釣島に上陸、更に米軍統治下の沖縄を避け
て北上し・・・30日間、約2,600kmの大航海の果てに
遂に屋久島の西北海上に浮かぶ口永良部島に辿り
ついて自力で復員を果たした日本兵 9名の珍しい話
です。




ネットで拾ったフィリッピンでよく使われる小型のバンカの
画像です。今はエンジン付きが主流ですが、約70年前は
この大きさならオールで手漕ぎです。もう少し大型で6〜9
m位の長さになると帆走出来る形になります。バンカとは
タガログ語です。上下の図のようにアウトリガー方式のカヌ
ーです。
昭和21年6月にルソン島中部のすぐ東側にあるポリリオ島(現在のポリロ島)
に敗残兵のように指揮官を無くした陸海軍の残兵がグループを作り、敗戦の
事実も知らず徴発と自活生活を繰り返し、現地人ゲリラと戦闘で犠牲を余儀
なくされていた中で…小さなバンカしかもたなかった彼等、敗残兵達は日本
への帰還を目指しまずは台湾へ出発を考えバシー海峡を渡る為、大型の帆
走できるバンカを盗む事から始めて…18名いた兵士グループのうち最もまし
なバンカ(全長約6m)を入手したグループの9名が抜け駆けする形で他の9名
を残してポリリオ島を出発します。この日が5月12日でした。北上しながら左手
に大きなルソン島を横に見ながら快調に帆走し21日の午後にはルソン島の
北端に達しています。…これだけでも壮大で大したものです。しかし彼等は僅
か全長6m、幅1m、深さ1mの小舟で魔の海峡と謂われたバシー海峡を制覇
すべく帆走し北上を続けました。案の定、バシー海峡では大時化に遭い転覆し
全滅しかね無い状況を不眠不休で舵取りに海水の排出に船のバランス取りに
奔走し命からがら5月27日に台湾から南に約80qにある紅頭嶼(現在の蘭嶼)
に辿りつきます。そこで流暢に日本語を話す現地人から台湾には国民党軍が
進駐し悪辣非道の限りを尽くしている事を聞き、すぐに台湾本島を避けて日本
を目指し再び船旅につきます。

この9名の陸海将兵は其々が原隊や上官とはぐれて
生き残り寄せ集まった17名の敗残兵です。このうちの
9名が抜け駆けするように現地人から徴発したバンカ
で遥かなる大航海に臨み日本帰国を目指します。彼等
の元々はポリリオ島の最東北部のバンラ岬に駐留した
陸軍の情報隊と海軍の対空監視隊で共に岬の付け根
のアニバ湾の奥に並べるように兵舎があったと謂いま
す。共に昭和19年の8〜9月に陸海の両隊は電探(レ
ーダー)を装備してこの地に展開しました。そして以下
の9名が昭和21年5月13日にバンカで島を出発します。


 西田 定一   陸軍軍曹
 坂端 勝一   陸軍兵長
 藤原 親之助 陸軍上等兵
 沓掛 世嗣   陸軍上等兵
 森 治夫    陸軍一等兵

 柳本 佐一  海軍主計兵長
 杉本 富貴  海軍兵長
 鈴木 一雄  海軍一等水兵
 剣持 政市  海軍二等水兵


丁度、似たようなサイズの帆柱があり2枚の帆布のバンカです。
長さがあっても下の画像を見ると判りますが幅が約1mと細くて
狭いのが特徴です。まあよくこんな小舟でフィリッピンから日本
まで自力で航行して帰国できたものだと感心します。

台湾南部の紅頭嶼(現在の蘭嶼)を出発した9人のバンカは昼に
台湾本島を左手に見ながら…夜は北極星を指針として順調に北
上し出発より3日目の5月31日には台湾北端の基隆(キールン)
を確認し…その日の夕方から二度目となる大時化に遭遇します。
二回目は初めの嵐よりも激しく、ただただ船体にロープで身体を
繋ぎ止めて振り落とされないようにしがみつくだけで精一杯だっ
たようです。地獄のような夜が明けると目の前に島々が見えその
中の一番大きな島に上陸すると…つい最近まで日本人が生活し
ていた痕跡があり食器から蚊帳や布団類に日本語の教科書など
が島内にあるのですが無人島で神隠しにあったようだと思ったそ
うです。ここは尖閣諸島の魚釣島でした。


すぐに悪辣な台湾の国民党の兵士に捕えられ奴隷のようにカツオ漁を一人で
させられている西田と謂う100トンほどの漁船の船長に出会います。そしてここ
が尖閣諸島の魚釣島である事を教えられます。船長に日本まで送って欲しい
と頼むと彼の船には台湾と尖閣とを往復する少量の燃料しか支那兵から貰え
ず…彼は台湾でに日本資本のカツオ船で敗戦後、この船長一人だけ残されて
支那兵の食糧調達の為にカツオ漁をやらせれていました。…船長は9人に海図
とカツオ9匹に醤油、砂糖と釣道具一式を渡し、米軍占領下の沖縄本島を避け
て黒潮に乗って真北に2〜3日北上し、次に北東に進路を変えれば5〜6日後に
は九州方面に辿りつく筈だと教えて激励してくれたと謂います。その後、1週間
は強い風で中々、出発出来ず魚釣島で休息を余儀なくされたが、風が収まり再
び九州を目指して帆走を再開します。
今も昔も明らかに日本の領土である尖閣諸島です。しかし支那や
台湾のクズどもは海底資源があると知ると…恥知らずにも領有権
を主張し始め不法上陸から領海・領空侵犯を繰り返し…遂にはあ
り得ない官製大反日デモを起こすなど常軌を逸した行為に及んで
います。…韓国の竹島問題を同じですが特定アジアの三カ国は本
当にろくなもんじゃありません。


そして海図と腕時計に附いている小さなコンパスだけを頼りに9人は
帆走を継続し、途中に三度目となる大時化に遭うも何とか全員無事
に切り抜けて…昭和21年6月11日、屋久島の西北海上12qに浮か
ぶ口永良部島に辿りつきます。実にフイリッピンのポリリオ島を出発
して30日…2600qの大航海を9人全員が無事と謂う形で終える事
ができました。

他にも戦時中には、ペリリュー島から命令でパラオ本島まで50kmの
外洋を米軍に見つからないよう隠密裏に泳ぎ切った沖縄出身兵士
達の話も凄い物がありました。何しろ激流と謂われる潮の流れの強
いペリリュー周辺から高速ボートでも約1時間掛かる外洋の海を泳ぎ
切るのは並大抵のことではありません。…この話の他にも当サイトで
も収載している 松永 貞市 海軍中将の御子息の 松永 市郎 元大尉
が著した”先任将校”で詳しく書かれていますが、敵潜水艦から魚雷
攻撃を受けて撃沈された軍艦”名取”がフィリピン沖三百マイル(約
500q)の太平洋上からカッターを漕いで生還するサバイバルストー
リーもありました。この名取短艇隊3隻 195名の生還の記録は食糧も
水もなく航海用具も持たず15日間も橈を漕ぎ続け、27歳の先任将校
小林大尉(名取航海長)の決断と次席将校の補佐、隊員の団結で死
の運命を切りひらいた海の男たちの感動の物語ですが…その距離と
謂い…海を知る者が1名しかいない無謀な9人の1か月に渡る2600q
の船旅は…上に紹介した二つのエピソードを凌駕する感があります。
精神力や団結…感動と謂う点では明らかに二つのエピソードが勝りま
すが…とにかく日本に帰りたい近づきたい一心で台湾を目指した9名
のお気楽さも何とか二度の大時化に遭いながらも台湾近くを経由して
尖閣を経て沖縄をスルーして鹿児島県の屋久島に至ったのは…感心
するしかありません。
屋久島から見る口永良部島です。
早朝に上陸したのは9名のうち3名でした。彼等の印象に強く
残ったのは海の傍にある寝待温泉と大きな岩と松の木が自
生している事だったと謂います。島の松の木を見て初めて南
の島でなく日本に戻ったと自覚できたようです。しかしここは
日高さんと謂う老人が一人暮らすだけの土地でしたので船で
島を回り集落のある一湊まで赴くが…ここでも対応が出来ず
駐在の案内で屋久島の宮之浦まで渡り、ここで初めて9名全
員が上陸を果たします。この日は島民の炊き出しで食事を取
り民家に泊り散髪と入浴を済ませ…翌日は、種子島に渡り一
泊します。そして翌日の6月13日に鹿児島港で復員手続きを
済ませて9名は別れ別れとなり、其々が故郷へと帰路につき
ました。足立 倫行 氏の”アジア海道紀行”によると…彼等は
その後、一切顔を合わせる事は無く、昭和51年4月に柳本氏
が中部読売新聞に再会を呼びかけて、実に30年ぶりに全員
が顔を合わせます。しかしこの時に既に森 治男 氏が他界し
ておられたので8名での再会となりました。以降は2年おきに
カヌー戦友会として其々の最寄りの観光地で開かれたそうで
す。
寝待温泉の大きな岩です。
画像等引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

詳しいお話を知りたい方は、平成2年に出版された
こちらの本を読まれるとよいでしょう。この中にある
”波濤、二千六百キロ、日本兵の漂流ーポリリオ島”
です。







米軍撮影の8mmからVHSにおとした映像です。僅か3分未満の映像です。
ニュース配信で使わていたものでしょうが、様々な分野で使い回しされてい
る為か、見た事がある映像もあります。・・・最初は日本軍の特攻機と思わ
れる双発機や単発機の日本軍機が対空砲火で海上に撃墜されるシーンが
少し、米軍の空挺の映像の後に、玉砕した日本軍と思われる映像で火炎
放射器の放射シーンに大勢の戦死した日本兵が撮影されています。残りは
U-ボートやドイツ空軍が攻撃される敗色濃い同盟国・ドイツの断末魔のよう
な映像です。



再生する時はページTOPでMIDIまたはMP3プレーヤー
をOFFにしてからお楽しみ下さい。








日本でも少数を輸入し使用したドイツ製短機関銃


MP 41




スペインのデニックス社製のMP41のモデルガンです。








DRAGON(ドラゴン) サイバーホビーの1/6のMP41です。
オモチャと思い侮るなかれ…ちゃんとコッキングレバーが稼動します。







純国産の百式短機関銃(前期型)
 と精巧手作り真鍮製四分の一スケール
  の百式短機関銃 後期型 二式短剣 仕様




タナカ製の百式短機関銃(前期型)の実寸大モデルガンと比較で並べて見ました。
熊本の義列空挺隊の慰霊碑に参拝した時の事を思い起こしました…。










日本軍の最大の敵は連合軍の
 中心となった米軍です。その米軍の
  兵士が使った主力の歩兵火器の小銃




M1 ガーランド




スペインのデニックス社製のM1ガーランドのモデルガンです。
全長110cmと小さく取り回しも楽な半自動小銃です。


有名な米TVドラマのコンバットでトミーガンを
構えるサンダース軍曹とM1ガーランドを持つ
米兵の画像です。
こちらもデニックス社製のM1ガーランド用のバイヨネット(銃剣)です。
全長が36.5cm です。装飾用の為でしょうか銃剣の鞘が無しです。
M1銃剣(M1Bayonet)の時代から柄が木製でなく樹脂製になり生産性を
向上させました。しかしこのタイプは刃長が24.765cmだった為、日本軍の
長大な三十年式銃剣の40cmに対抗するうえではM1Bayonetよりも41p
と長かったM1905銃剣を使うケースが多かったと謂われています。






M1カービン




こちらもデニックス社製のM1カービンのモデルガンです。
日本で生産販売されているM1カービンは着剣装置が追加されてリアサイトが変更された
戦後生産型ですが、本品はそれらが付いていなかったり簡易型であるWWUに生産され
た品をモデル化ししたもです。またこの品はモデルガン業者が試験的に1丁だけ正規輸入
した品であり、まだ国内販売はされていません。実物のマガジンポーチに戦後生産型のス
リングが付いています。
当初、警備用火器や下士官用の軽量自動火器として開発されました。
後にトミーガンと共に戦場で日本兵も鹵獲兵器として愛用されました。

有名な米TVドラマのコンバットでトミーガンを
持つサンダース軍曹とM1カービンを持って
談笑する少尉役の俳優の画像です。





硫黄島の米兵…手前の兵士はM1カービン銃を・・・その
後方の兵士はM1ガーランドを持っているのが判ります。






トンプソン・サブマシンガン
     (トミーガン)
















M1911A1




コルト・ガバメントミリタリーのオモチャです。BB弾がでます。








ミニチュアですが日本軍の小火器も掲載です!


超精巧…四分の一スケールの手作りの
  真鍮製精密模型の日本軍シリーズの魅力




この精巧さ…匠の職人の技術もさる事ですが…作品のモデル
に対する知識や造詣の深さがなければ作り上げられないのが
良く判ります。三五年式海軍銃にベルグマン短機関銃の海軍
陸戦隊仕様に二十六年式拳銃、南部十四年式拳銃後期型、
そして萱場式(九十式)二連信号銃。陸海軍の九十式鉄帽です
ベルグマンは槓桿は作動し、三五年式はボルトがオープン可能です。
勿論、ともに銃剣付きで着剣出来ます。
兵器の殆どが海軍なのですが…何故か陸軍の方で掲載してしまいました。

九十式二連信号銃(萱場式)は、中折れでダーミー弾の
取り外し可能です。十四年式もボルトを引けます。

べ式短機銃が泣かせますね〜(;へ:)
銃剣が如何にも日本軍で泣かせます〜(*^0^*)

この小さな弾倉にダミー弾が細部にこだわりが見てとてます。








手作り真鍮製 四分の一スケールの
  見事な九二式重機関銃と属品達の世界です。




防盾を装着した画像です。





マズルサプレッサー(消炎器)を装着した画像です。


ここまで極めればまさに芸術品です。
九六式照準眼鏡と嚢です。ここまで凝ると脱帽です!












九六式照準眼鏡を取り付けた画像です。
このデティールの精密さがたまりません。