かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長





    加藤隼戦斗隊歌
  (飛行第六十四戦隊歌)



 作詞:飛行第64戦隊所属 
         田中林平准尉

 作曲:南支派遣軍楽隊所属 
         原田喜一軍曹
         岡野正幸軍曹
        (4番の旋律のみ)

 一、
   エンジンの音轟々と
   隼は征く雲の果て
   翼に輝く日の丸と
   胸に描きし赤鷲の
   印は我等が戦闘機

 二、
   寒風酷暑ものかわと
   艱難辛苦打ち耐えて
   整備に当たる強兵が
   しっかりやって来てくれと
   愛機に祈る親ごころ

 三、
   過ぎし幾多の空中戦
   銃弾唸るその中で
   必ず勝つとの信念と
   死なば共にと団結の
   心で握る操縦桿

 四、
   干戈交ゆる幾星霜
   七度重なる感状の
   勲の影に涙あり
   ああ今は亡き武士の
   笑って散ったその心

 五、
   世界に誇る荒鷲の
   翼伸ばせし幾千里
   輝く伝統受け継ぎて
   新たに興す大亜細亜
   我等は皇軍戦闘隊







ちょっとだけ、フォト・ギャラリー



左の写真は、三種と一種軍衣の海軍士官です。右の飛行服の写真は、
裏に重慶大空爆出撃に際してとあり、昭和14年5月5日 於○○航空
基地と鉛筆書きされています。
左の海軍陸戦隊の写真は、昭和15年7月17日 算山頭敵前上陸の後 13時頃
112高地南方溢路通過と裏書されています。右の写真は、三種服に上海バンド
に帯刀の海軍士官が集合して写っています。比較的新しい大東亜戦争の頃と思
われます。
立襟時代の同一人物の少尉時代と中尉時代です。中尉の右の写真
には、騎兵用のグルメットが軍刀に繋がっているのが見えます。きっ
と騎兵科だったのでしょう。良く見ると判りますが右は、満州国陸軍の
軍服姿(満陸の軍官の軍装)です。左は、日本陸軍の少尉です。日本
陸軍から満州陸軍に転じた方だと思われます。
戦闘帽に座金に曹長の階級章を付けた見習い士官
の写真です。左肩に特技見習士官勤務臂章が見え
ます…。それにしても男前の方です!

開襟の制服を着た軍属の方です。

東部第八部隊(近衛第5連隊)の合同葬儀(英霊400余柱)の模様




東京で行われたこの葬儀には、東條陸軍大将を筆頭に皇族の賀陽宮恒憲王
中将に近衛第二師団長の西村琢磨中将の三将星が臨席。兵士の胸に抱か
れ葬儀会場へ、終わりには、在郷軍人の胸に抱かれて故郷へ帰る様が写さ
れています。西村中将隷下の近衛師団は、開戦劈頭に山下中将の第25軍に
あってシンガポール攻略に参加していました。






ありし日の帝國海軍










霞ヶ浦海軍航空隊の正門前です。





海軍陸戦隊


















左は、722空の金安少尉。右は、松山空の麻村氏(階級不明)







魔都・上海バンドの各国租界に展開する各国軍





まるで義和団事件の際の八カ国軍を彷彿させる写真です。

























古き良き時代の歩兵第二十四連隊

昭和9年の兵営記念アルバム



軍旗
福岡の歩兵第二十四連隊…戦後、平和台球場となり
今は、球場の跡地になっているようです。
第十二師団 師団長の大谷中将、第十二旅団 旅団長の吉村少将、連隊長の上村大佐
このアルバム所持者の所属した大隊長の細川少佐、中隊長、小隊長の渕上少尉














歴戦の曹長殿の個人アルバムより



二枚目の曹長さんです。中国戦線より大東亜戦争が
勃発すると南方戦線(比島マニラ、ミンダナオ島、セブ
島、ラブアン島、ボルネオ島北部サンダカンタワオ)を
転戦して昭和17年10月召集解除されたようです。除隊
後は、八幡製鉄所で指導員を勤められております。
珍しい功五を付けた写真
右の画像は、西部四十六部隊で曹長が除隊前に分隊長時代の分隊員と
別れの記念撮影をしています。左も同じく召集解除記念の写真です。
昭和17年10月15日となっています。メモ書きで”死線ヨリ共ニ幾山河”と
あります。
昭和16年11月、南支 広東省東莞にての
記念撮影。この中の兵士で日米戦開戦後
ガダルカナル島で玉砕していると記載して
あります。
大東亜戦争勃発時の中隊本部全員での
記念撮影。
昭和17年6月ミンダナオ島…防暑帽の方は
信頼を置いて愛弟と記載している軍曹です。

内地に戻り八幡製鉄所で指導員をしていた時の写真です。













画像提供 連合艦隊様






昭和15年11月27日、戦艦”長門”に
ての岡田海軍大将の通礼装姿。






海軍砲術学校絵葉書



俗に鉄砲屋と言われた砲術科は、全盛期の帝國海軍にあっては、
最もハバを効かせた兵科といわれおりました。いつしか時代は、
空母と航空戦が主流となり戦艦・巡洋艦などの鉄砲屋や水雷屋は、
傍流となっていきました。この絵葉書は、巨砲巨艦主義の華やかなり
し頃のものです。…砲術学校は、トンネルを抜けると軍規風紀の風が
吹くといわれていたと言います。



横須賀海軍工廠絵葉書








     ある砲兵の所持品
(野戦砲兵学校の記念徽章と
  野砲兵須知と野戦砲兵学校絵葉)書














航空写真用の箱にあったガラス板のネガの中身の一部です。


















陸軍の航空兵










頂き物の写真です。陸軍の参謀のようです。階級章は、
はっきりしませんが中佐のようです。若々しい青年将校
という感じです。三式の大型階級章をつけているようです
が軍衣に三式袖線は無いようです。






忠良なる国民の兵隊姿



笑顔が印象的な朴訥とした真面目そうな
立襟に戦闘帽の上等兵の方です。
職場の同僚でしょうか。こうした多くの真面目な日本人達が
国家の為、同胞である国民の為に兵役に就き国を守ってく
れました。
貫禄のある曹長殿と一緒に写っています。
右端は、明らかに父上ですね。そっくりです!!
多分、軍旗祭などでのスナップと思われます。
当時の戦友や上官でしょうか。
大隊砲と言われた九二式歩兵砲です。砲に
栓をしていますので撮影の為のポーズのよう
です。略帽の被り方が今も昔も変わらない感
じがして微笑ましいです。
肘章があり下士官刀を持つ見習士官
の方です。先の上等兵の方のような
気もしますが…不明です。




ある若い軍医のアルバムより



このアルバムの軍医さん、笑顔が素敵な若い方です。
とても楽しそうです。軍隊と思えないほどエンジョイし
ているように見えるのは、私だけの勘違いかもしれませ
ん。場所は、ロシアの墓地や大聖堂、白系ロシア人女性
などがたくさん写真に出てくるので満州と思います。
アルバムでは、軍医少尉から中尉までの外地での
写真が中心に収められていますが、羨ましいほど
楽しまれている感じです。
戦闘を主とする兵科将校でありませんが…今までに
様々なアルバムを見てきましたが、これほどシャバッ
気のあるのも珍しいです。
この軍医さんは、無事に戦後、復員されたでしょうか?
何故か気にかかります。
良い笑顔を見せてくれる少尉殿です。







やっぱり楽しそうです!!





何だかメチャ楽しそうです!




満蒙らしさが右の画像で感じられます。

軍医中尉に昇進されています。九八式軍装の時代です。衛生科
の胸章が付いています。このまま大東亜戦争も軍医として軍務
に服し、敗戦。ソ連の侵攻を迎えたのでしょうか…。









左は、鹵獲兵器の対空高射機関砲に狙われるP40戦闘機。右は
南方での陸軍航空隊の画像です。
台湾沖航空決戦にて台湾諸都市に無差別爆撃を行なう
敵艦載機を対空砲火で艦爆と艦戦を撃墜した写真。
台湾沖航空決戦で一息入れれて歓談する陸軍航空隊の隊員達
浜辺のトーチカに火炎放射器を使う海軍陸戦隊
投降した重慶の中国軍の兵士達
支那の湖南前線基地の陸軍一式戦 隼U型の整備風景のようです
北方の連隊の軍旗祭の一コマ




三重海軍航空隊の写真



三重海軍航空隊の正門です。ここは、土浦海軍航空隊と並んで予科練で有名です。
この写真は、アルバムからの取り外しの写真のようです。
昭和17年8月に開隊されています。甲飛(甲種海軍飛行予科練習生)が
旧制中学4年生修了程度の16歳以上、乙飛(乙種海軍飛行予科練習
生)が旧制中学2年修了程度の14歳以上で入隊。教育期間は、甲飛が
1年間、乙飛が2年間とされました。乙飛は、飛行訓練のほか、物理や化
学などの学科もこなす為、一年長くなっています。しかし戦局の悪化によ
って、昭和18年になると、甲飛で6ヶ月、乙飛が1年8ヶ月と短縮された教
育で、戦地へ飛び立っていきました。



陸戦訓練のようです。休耕地で奥に農家が見えます。下の画像は、それ等の
農家の方との交わりの写真だと思います。

左の方が写真の持ち主だった方と思われます。
右の海軍大佐が航空隊の司令だと思います。

当時の写真に写るこの正門は…今も移駐され残っています。
香良洲町歴史資料館(若桜福祉会館)です。

内部には海底から引き揚げられた零戦と思われるエンジンや震洋艇の
エンジンや他の航空機のパーツなども展示されています。






敗戦間近い昭和20年、蒼空を駆けし大空の勇者達…!!



陸攻操縦員(予科練丙15)の方のアルバムより、複写された写真画像です。
元海軍上飛曹 台湾 新竹においてP38に撃墜され、重傷を負うも、戦線に
復帰、硫黄島夜間雷撃を初陣に、 数度の沖縄攻撃にも出撃奮戦。第706
空攻撃704飛行隊(松島)より、敗戦を剣作戦特攻部隊(三沢)にて向える。
現在もご健在です。 この写真は、敗戦の年の沖縄出撃前に、同じ編隊の
ペアを写した、鹿空に進出前、松空にて写せる、最後の写真との事です。
この写真画像の西村少尉ペアは、昭和20年6月に沖縄攻撃に出撃、自爆未
帰還となりました。
沖縄県の慶良間に敵が上陸、菊水作戦が発動され、攻撃第704飛行隊
に沖縄攻撃の命が下りました。大分空進出の前、松山空の指揮所前に
て昭和20年3月24日に集合写真を撮った攻704の勇士達です。この大
部分が戦死され二度と還る事がありませんでした。




我、郷土の生んだ英雄 軍神 加藤 建夫 陸軍少将



北海道のスーパースターといえば旭川出身の
加藤隼戦闘隊で有名な軍神 加藤少将です。
昭和19年には映画化され、有名な隊歌と共に
全国民的な英雄となった方です。近代の大東
亜戦争が大空で雌雄を決した空軍力による戦
争の特徴がありましたが、まさに戦闘機乗りで
あるパイロットの伝説的英雄です。
               
                (略歴)

        ◆加藤建夫 陸軍少将(功二級)◆

         航空科 北海道・旭川出身。

       明治36年9月26日〜昭和17年5月22日

  大正14年 陸士37期卒
  昭和 2年 所沢飛行学校卒
  昭和 6年 明野飛行学校教官
  昭和10年 飛行第五連隊中隊長
  昭和11年 飛行第二大隊中隊長(日華事変で活躍す)
  昭和13年 陸軍大学専科学生(6月)
         任陸軍少佐(7月)
  昭和14年 陸大専科卒業(3月)
         陸軍航空本部員(3月)
         欧米出張(7〜11月)
  昭和16年 飛行第六四戦隊長(四代目隊長)(4月)
  昭和17年 任陸軍中佐(2月)
         戦死(5月22日)後、二階級特進 陸軍少将

…一式戦”隼”による加藤隼戦闘隊を指揮し、マレー半島、
ジャワ、ビルマ方面で英空軍、中国空軍及び米ホラノートと
戦い著しい戦果を挙げる。緒戦の南方制圧作戦に強く貢献
しました。 昭和17年5月22日、ベンガル湾上空でブリストル
・ブレニム爆撃機を邀撃し撃墜するもブレニムの後部銃座か
らの銃撃により機体損傷を来たし自力での基地並びに味方
圏内への帰投が困難と悟り、捕虜となるよりも自決を選び自
ら海面を目指し自爆する。享年38歳の若さでした。戦死後、
二階級特進し陸軍少将。昭和の軍神として軍歌と映画と共
に非常に有名になりました。

左は仙幼時代の閣下。右は、御母堂様と夭折された
陸軍砲兵少尉だった兄上と写る写真です。
陸士卒後、札幌第25連隊で見習士官時代
少尉任官と共に航空科へ転科

まさに日本の航空揺籃期から最盛期掛けてを身をもって
体現した加藤少将です。若き青年士官時代のパイロット
姿と笑顔が素敵です。

所沢飛行学校の教官時代
航空中尉の時に結婚されました。立襟の航空科鍬形が様に
なり凛々しい加藤閣下の青年将校時代です。
支那事変やノモハンで大活躍をした九五式戦闘機に乗る在りし日の閣下

上は陸大に通う為、東京で生活をした時代の
子供達と和やかに遊ぶ閣下の姿です。
下は寺内大将等と一行に加わり訪欧した時のドイツ
での写真。上は訪欧時のパスポートの写真です。




飛行第2大隊第2中隊で加藤建夫中隊長の片腕として活躍したものの、
戦死をすることになった川原幸助中尉が搭乗した95式戦闘機です。垂直
尾翼に「ハ」の文字があり、胴体に3本の帯が入っています。
ありし日の川原中尉…。

隼に変わる前まで九五式、九七式戦闘機に書かれて
いた飛行第64戦隊の撃墜マークです!




九七式戦闘機

飛行第64戦隊の第1中隊は昭和15年1月から16年3月まで、
満州に駐屯した本隊から離れて中国の広東に移動し、独立
部隊として行動しました。中隊長は丸田文雄大尉で、通称
「丸田部隊」として知られました。写真はその時期に撮影され
たもので、赤いカウリングと胴体脇の鷲のマークは64戦隊に
共通でしたが、垂直尾翼のマークは「丸田部隊」独自のもの
です。(加藤閣下の戦隊長になる前の六四戦隊です)
中国の飛行場に翼を並べて駐機する飛行第64戦隊
第1中隊の97式戦闘機です。
加藤閣下の戦隊長時代より前ですが昭和14年に
中国の上空を飛行する飛行第64戦隊第1中隊の
九七戦甲型です。
飛行第六四戦隊に長期にわたり戦った田中林平曹長です。
のちに”加藤隼戦闘機隊”として広く親しまれた戦隊歌を
作詞した文才の持ち主でもありました。



上下ともサングラスの飛行帽・飛行服姿が
加藤戦隊長です(バレンバンにて)。

隼の出撃を帽振れで見送る基地要員
イポーにての加藤隼戦闘隊

昭和17年1月イポーの飛行場から出撃する飛行第64戦隊の1式戦I型
で、後方に97戦が見えます。搭乗しているのは奥山軍曹で、この出撃
で戦死されたとのことです。


イポーでの閣下。下はチェンマイ基地で閣下の愛機を整備する整備兵

ロイウイン米軍基地を襲撃した歳に被弾した加藤隊長機の主翼。
上左は、右主翼下面。右上は、右主翼上面。
ジャワのカリジャージ基地にて
昭和17年5月22日、戦死された日の出撃前に撮影された閣下の最後の写真
になります(アキブヤ北飛行場)。右に写るは中隊長の大谷大尉。
ミンガラドン飛行場で加藤閣下他の遺品や遺骨を載せて帰国
せんとする輸送機(ミンガラドン飛行場)。下は閣下の遺品。


(動画の再生を行う時は、ページ一番上のMIDI
 のコントロール部分で曲をストップさせてから
 再生しお楽しみ下さい。)


加藤隼戦斗隊歌(飛行第六十四戦隊歌)


一、
  エンジンの音轟々と
  隼は征く雲の果て
  翼に輝く日の丸と
  胸に描きし赤鷲の
  印は我等が戦闘機

二、
  寒風酷暑ものかわと
  艱難辛苦打ち耐えて
  整備に当たる強兵が
  しっかりやって来てくれと
  愛機に祈る親ごころ

三、
  過ぎし幾多の空中戦
  銃弾唸るその中で
  必ず勝つとの信念と
  死なば共にと団結の
  心で握る操縦桿

四、
  干戈交ゆる幾星霜
  七度重なる感状の
  勲の影に涙あり
  ああ今は亡き武士の
  笑って散ったその心

五、
  世界に誇る荒鷲の
  翼伸ばせし幾千里
  輝く伝統受け継ぎて
  新たに興す大亜細亜
  我等は皇軍戦闘隊


作詞:飛行第64戦隊所属 
        田中林平准尉

作曲:南支派遣軍楽隊所属 
        原田喜一軍曹
        岡野正幸軍曹
        (4番の旋律のみ)



昭和17年9月22日、東京築地本願寺にて時の首相
東條大将をはじめ閣僚、陸海将星多数が参列し帝
國陸軍の先例にない盛儀を持って昭和の大英雄の
葬儀が行われました。



左は檜与平少佐の若かりし頃です。加藤隼戦闘機隊で活躍し、
昭和18年11月に空戦で被弾して右足を切断することになりまし
たが、義足をつけて戦闘機パイロットに復帰、明野で教育に当
たるかたわら、防空戦闘にも出動し、P-51を撃墜したことで有名
です。総撃墜数は12機とされています。写真は第六四戦隊にい
た時期に一式戦”隼”の脇に立つ中尉時代の檜少佐です。


昭和の軍神 ★ 加藤 建夫 少将閣下
 縁の品々で当サイトの収蔵品を紹介します。



北海道の生んだスーパースターです。特に撃墜王と言えば
陸軍がこちらの軍神★加藤 建夫 陸軍少将で、海軍では
”零戦虎徹”で知られ恐らく日本一の撃墜王である 岩本
徹三 海軍中尉が我郷土・北海道(樺太生まれ札幌育ち)
が有名です。この色紙は時の総理大臣兼陸軍大臣であっ
た東條 英機 陸軍大将が加藤閣下の英霊に供すべく遺族
に贈ったものと思われます。
極天護皇基は、東條大将が好んで使われた言葉
で”天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し
上げよう。”という意味がです。
絶世期にあった時の東條首相の直筆署名に花押
があり”供 加藤少将之英霊”記載されています。
加藤閣下の御自宅の仏前に供えられてだけでなく
事実上、国葬の趣が強かった昭和17年9月22日に
東京築地本願寺で行われた葬儀でも供えられてい
た可能性も高いと思います。
昭和17年9月22日、東京築地本願寺にて時の首相
東條大将をはじめ閣僚、陸海将星多数が参列し帝
國陸軍の先例にない盛儀を持って昭和の大英雄の
葬儀が行われました。これは初の陸軍葬でありまし
たが北原白秋、吉川英治、武者小路実篤といった著
名な作家達までもが、その死を讃え…まるで国葬の
感があったようです。



ボロになり端が破れていますが輝感状一億と題して
軍神・加藤 建夫 閣下 敬仰 計六十八機撃墜破と
記載されています。遺族に手紙として贈られたもので
す。軍人援護強化運動の印が押されています。
加藤閣下の個人撃墜記録は18機です。68機は共同撃墜や
不確実や地上撃破などを加えた数字でないかと思われます。







加藤閣下の少佐時代の正帽です。
収納箱はかろうじて原型をとどめ生きています!

正帽と前立て自体は痛み少なく、型崩れ
少しある程度でひさしの裏側に傷みを少し
見る程度で良好なものです。





中華民国26年12月すなわち昭和12年12月に支那人達
(三荘村民衆)から当時の加藤隊長に贈られたでかいで
かい飾り物です。”仁者之心”とあります。支那事変の勃
発時の昭和12年7月には飛行第二大隊の第二中隊長を
勤めていた加藤閣下はこの頃から支那軍相手に撃墜ス
コアーを伸ばし後に新鋭機・一式戦「隼」を装備した飛行
第六四戦隊で昭和16年12月勇躍、山下奉文中将の第
25軍の指揮下でマレー〜仏印、タイと「エンジンの音轟々
と」のの軍歌の通り…翼に日の丸を輝かせ大東亜戦争緒
戦の栄光を飾りました。その出発点となった支那での品で
す。大きさ232cm×97cmで壁掛けにして飾るのだと思い
ます。

昭和12年10月26日、飛行第二大隊第二中隊長として
支那事変で空戦デビューを果たし翌年4月には陸軍航
空部隊として初の部隊感状を加藤中隊が受けています
。加藤閣下を人柄を語る初期のエピソードに昭和13年
2月の花環の投下の話が有名です。1月に戦死した部
下の川井 陸軍曹長と敵国民党軍の戦死した数多のパ
イロットの霊を弔う為、自軍パイロットの物と敵パイロッ
ト達の物、二つの花環を用意し戦場空域の空中から投
下し慰霊をされています。こうした閣下の人柄が支那の
民にも伝わった結果、こうした贈り物に繋がったのかも
しれません。



こちらも一緒にあった軍帽です。



これ等上下の品は同時期に売りに出された加藤閣下の品です。
上は開戦以来の活躍に加藤中佐に出された感状です。下は名刺
に開襟シャツ、階級章、サングラスです。いずれも非常に高額な値
段で取引されていました。加藤閣下は、生前から「空の軍神」と称
される程の人気の撃墜王で、国民的な英雄として絶大な人気を博
しておりました。その人気は、「加藤の前に加藤なく、加藤の後に
加藤なし」とまで言われる程でした。…上の感状の中でも「…ソノ
武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル
操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タ
リ…」と称えています。飛行第六十四戦隊には、加藤閣下よりも20
歳近く年下の、少年のような若者達が多く配属されており閣下は、
彼等を我が子のように慈しみ、それだけに、部下の中に戦死者が
出ると号泣し、兵舎の外に立って大空を見つめ帰らぬ部下をいつま
でも待ち続けていたと言われています。閣下は、強い責任感とその
温かな人柄により、周囲の多くの人々から慕われていました。その
一方で、閣下は…軍人としても著しい戦果をあげ、マレー、スマトラ
、ジャワ戦線で飛行第六十四戦隊は、獅子奮迅の活躍をし…その
活躍ぶりは連日、新聞やラジオで報じられ、中でも隊長である閣下
は、英雄として人々から絶賛されました。

閣下個人の撃墜数は決して突出した数ではありませんでしたが、そ
れは戦隊長として個人の撃墜数には拘らなかったためで、事実…
閣下は、部下達に個人撃墜数を競う事を禁じていました。華やかな
空中戦に熱中するのではなく、空を抑えて爆撃機や陸上部隊の進
行を容易にするという戦闘機隊本来の役割に徹したと謂われており
ます。それでも、戦隊全体の戦果としては、閣下の戦死までに約150
機の敵機を撃墜しており、名だたる戦闘機隊として、やはり比類なき
能力を示しておりました。

開襟シャツの下はお父上が使われた遺品の屯田兵手帳です。
中身は加藤中佐が普通に走り書きなどされています。唯一、
これが北海道人である事を伺わせる品でした。尚、加藤閣下の
お父上は日露戦争で陸軍軍曹として従軍し奉天会戦で名誉の
戦死を遂げられ金鵄勲章を授与され陸軍曹長に昇進しました。
まあよくもこうした品物が出回るものだと驚きを覚えましたが
加藤閣下の長男であった加藤正昭氏(東大教養学部教授
で東大名誉教授)は平成17年に8月に享年72歳で亡くなら
れております。それから4年、喪主だった奥様もご他界され
た可能性が高いと思われます。御子息の故 正昭 東大名誉
教授は加藤閣下の眠る多磨霊園のお墓に一緒に眠られて
おります。伝え聞く所によりますと戦時中は軍神の家族であ
りましたが、戦後は随分とその事で迫害を受けられたようで
す。軍神である加藤閣下と田鶴夫人の間には3人のお子様
がおいででした。戦後、立派に3人の遺児をお育てになられ
ましたが、戦後の世間様は軍神の遺族に冷たく、生活をする
のに大変な苦労をされ夫人は保険の勧誘員をして何とか育
てあげたと聞き及んでおります。三男の雄三氏はオランダ
日産副社長だった昭和62年にまだ43歳の若さで急逝。次男
の進英氏は日本航空で活躍されていたようですが…こちら
の方も亡くなられたものと想像します。




教官手簿です。閣下が明野飛行学校の教官時代に
使われたものと思います。昭和6年〜10年の間です。
若き青年将校の加藤閣下が28歳〜の頃の
手書きされた内容が手簿に残っております。
当時の日本は多くのアジア系の外国人を受け入れておりました。
多くが朝鮮、支那、タイ、インドネシアなどでした。明野飛行学校
で加藤主任教官が担当した11名の留学生(中国や満洲の軍閥
から派遣された中国人留学生)は部下思いの加藤教官に触れ、
休日も加藤家を訪れ田鶴夫人の手厚いもてなしを受けました。
戦後も夫人は彼等、留学生から贈られた刺繍や写真を大切にし
ていたと謂われています。




陸大の受験に関して書き込みが見えます。閣下が陸大に
専科学生として入学されたのは昭和13年の6月となります。



閣下の最期に関しては有名なので御存知の方が殆どだと思いますが、軽く触れておきます。
運命の昭和17年5月22日、ビルマのアキャブ飛行場のすぐ近くに英軍のブレンハイム中型爆
撃機一機が進入して来た為、同飛行場で出撃準備を整えていた閣下は、部下4名と共に直ち
に離陸、閣下の機も含め5機の”隼”で敵機を追撃しました。しかし、敵機の後方銃座からの
射線により2機が被弾した為、追撃途中で基地に引き返し、残り3機で海面スレスレを飛び逃
げる敵機を追撃しました。閣下は、敵機の後上方から捨て身の肉薄攻撃をかけ、その内の一
連射で敵機の翼とエンジンが火に包まれ撃墜しました。その直後、閣下の機は翼を翻して敵
機から離脱、200mほど上空に上がった所で、閣下の機の右翼から突然、火炎を噴出しました
。閣下の機も敵機に同時に撃たれておりました。すぐに翼全体までが炎に包まれました。その
直後、閣下は、同行の部下2人に挨拶するように機を一回転させた後、海面を目指して突入し
自爆されました。…時は、午後2時30分…実に壮烈な戦死だったと伝えられております。

その閣下の壮烈な戦死の模様は、被弾で引き返した安田 義人 准尉(当時、曹長)は、著書
の「ビルマ隼戦記」の中で次のように記載されております。

”…同行の近藤、伊藤両曹長は息を呑んで見つめていた。部隊長(加藤中佐)がちらりと後ろ
を振り向いたようだった。二人は部隊長の意図がすぐ分かった。二百メートルの高度で、中佐
機はいきなりくるりと反転した。機首が下になった。そのまま真逆様の姿勢で海中に突っ込ん
だ。水柱が立った。あっという間の出来事だった…。低空の反転操作自爆は、部隊長が我々
に日常よく話していた事だった…。”















後日、別に入手した恩賜の煙草の空箱に右手のみ
の手袋が入っていたものと名刺一枚です。共に一連
の加藤閣下の遺品を手に入れた東京・西荻の古物
屋が切り売りして出した品です。

















飛行第24戦隊の隼です。







            昭和の軍神☆伝説の英雄

〜大戦後期…緑の地獄・ニューギニアの空で戦死された
      撃墜王 南郷 茂男陸軍中佐の勲記・写真等の遺品〜
        (飛行第59戦隊 戦隊長)



昭和19年…劣勢の戦場で既に明らかに性能の劣る一式戦”隼”II型を
駆使してニューギニアで敵機15機を撃墜した伝説の撃墜王 南郷 茂男
大尉(戦死後二階級特進し中佐)は、その高潔な人格もあって「ニュー
ギニアは南郷でもつ」とまで称賛された英雄であるエース・パイロットで
ありました。その実の兄もまた海軍の有名なパイロットで支那大陸で活
躍した撃墜王の南郷 茂章 海軍少佐(戦死後特進)です。兄弟揃っての
陸海軍エース・パイロットで共に軍神であり英雄・撃墜王は非常に珍しく
二人の父・南郷 次郎 海軍少将は講道館柔道二代目館長を務めた柔道
の猛者として知られ、祖父・南郷 茂光は元老院議官で海軍省(軍属)高
官というエリート軍人一家でありました。    






ブーツ東飛行場の滑走路を歩く南郷大尉(本部附将校時代)
飛行第59戦隊にあって常に率先出動、必ず結果を残し部下
から不死身と噂され…四航軍及び六飛師司令部の参謀や司
令部職員等…幕僚の信頼を一身に集めた南郷大尉は戦後も
生きた航士の一機先輩にあたる撃墜王・黒江 保彦 少佐が
南郷大尉を評した言葉は『まさに快男子、竹を割ったような性
格というのは、この人のためにある言葉かと思えるほどの、惚
れ惚れする好漢であった。型破りの颯爽とした長身で、いつも
男性的な痩せ意味を発散させていた。その明朗、括淡たる風
格、そして豪勇にして、てらわず、ぶらず、これほど衆望を集め
上下同僚に愛された人物は、また稀有であった』と手放しのべ
た褒めでした。…謂われる通りの優れた人間性が何処からも
伝えられているので本当に素晴らしい理想の人物であったの
だと思われます。


中尉時代の勲記です。


        ◆ 南郷 茂男 陸軍中佐 ◆


  東京都出身、航空科

  陸軍航空士官学校51期

              (略 歴)

大正6年2月26日生
                学習院中等部卒
昭和10年4月        陸軍士官学校予科入校
昭和13年12月22日    陸軍士官学校予科卒業
昭和14年4月27日     陸軍航空士官学校卒業
                任陸軍航空兵少尉
                明野陸軍飛行学校乙種学生
昭和14年8月        飛行第33戦隊附
昭和15年4月        任陸軍航空兵中尉
昭和15年11月       明野陸軍飛行学校甲種学生
昭和16年4月        陸軍航空士官学校教官
昭和17年1月        飛行第59戦隊第2中隊長
昭和18年7月        飛行第59戦隊飛行隊長
昭和19年1月23日     ニューギニア東部ウェワクで戦死
                任陸軍中佐(二階級特進)
昭和19年4月        個人感状


南郷家から出た兄である南郷 茂章 海軍少佐の生写真


この生写真は有名ですが昭和18年の11月から12月の戦死される
1〜2か月前、ブーツ東飛行場を離陸滑走する南郷大尉の搭乗の
愛機・一式戦”隼”U型です。
圧倒的に不利なニューギニアで旧式機の隼を駆り僅かの間に15機の
敵機を撃墜し”ニューギニアは南郷で持つ”と謂わしめた不世出のエー
ス・パイロットです。そんな彼をして戦死する少し前の日記には『もはや

隼の時代では無い』と記されていたという有名な話があります。


南郷家から出た軍人遺族徽章と略綬、航空胸章
や空中勤務者章に軍帽の星章やカフス釦など南
郷中佐の遺品です。


兄で高名な撃墜王である軍神・南郷 茂章 海軍少佐


上のニューギニア地図のピンク線の部分が南郷大尉が活躍した
ブーツ東基地です。そして横のウェワク上空の迎撃戦闘で昭和
19年1月23日に優勢なP-38との乱戦で戦死する。下は敵の猛
爆を受ける我、陸軍のブーツ東飛行場です。


ニューギニアで最大のライバル機であったロッキードP-38ライトニング
です。”双胴の悪魔”の異名を持ちます。南郷大尉が対峙し最期もこの
機に屠られました。戦死する一カ月前の日記に大尉は『P-38は性能を
十分に発揮し散々にやられる。一式戦の時代にあらず。』と書かれてい
る。ニューギニアの陸軍航空隊は、一式戦、二式戦、三式戦でしたが
稼働率の低い二式戦と三式戦に比べ速度も火力も既に時代奥であっ
たが、その高い稼働率ゆえに使用し続けるしか無かったが…軽快さだ
け唯一の取り柄といえた隼で多くの陸軍搭乗員が疲弊し消耗し戦死し
ていきました。緑の地獄と謂われた東部ニューギニアで飛行第1戦隊、
11戦隊、13戦隊、24戦隊、59戦隊と多くの戦闘機隊が進出し戦い圧
倒的物量を誇る連合軍の前に疲弊し消耗していきました。
昭和18年初期のブーツ東飛行場…展開する隼U型は飛行
第24戦隊の列線。増槽を装着し出撃に備えている。


遺髪も爪も残さなかった南郷大尉でしたが…59戦隊の部下達は
せめての品にと出撃前に大尉が吸った煙草の吸殻を集めてジャワ
島以来の付き合いである整備の岩村 裕 中尉が南郷家に届けた
と謂われています。これは南郷家から出た南郷大尉の遺品となっ
た数少ない品々です。支那事変従軍記章之証と略綬に航空胸章に
空中勤務者章等です。




こちらも南郷家から出た遺品です。兄である南郷 茂章 海軍少佐
の生写真に、こちらは有名な写真ですが昭和18年11〜12月に撮
影されたブーツ東飛行場を離陸滑走する南郷大尉の搭乗する一式
戦”隼”U型です。この写真は一番下のプラモデルの箱書きの写真
にもなっています。それに戦死後の軍人遺族徽章です。

制 式 名 称

一 式 戦 闘 機 二 型

試  作  名  称

43-II

全 幅

10.837m

全 長

8.92m

全 高

3.085m

翼 面 積

22m2

翼 面 荷 重

117.7 kg/m2

自 重

1,975kg

正規全備重量

2,590kg

発 動 機

115(離昇1,150馬力)

プ ロ ペ ラ

住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m

最  高  速  度

初期型:515km/h/6,000m
前期型:536km/h/6,000m
後期型:548km/h/6,000m

上  昇  力

高度5,000mまで448

降 下 制 限 速 度

600km/h

航  続  距  離

3,000km(増槽使用)/1,620km(正規)

武  装

機首12.7mm機関砲(ホ1032門(携行弾数各270発)

爆  装

翼下30kg250kg爆弾2


この兄である軍神・南郷 茂章 海軍少佐の写真は一般に出回っていおる
写真では見ない写真で公式写真でメディア等で扱ったものでなく隊員が
個人的に撮影した私的な写真で戦後も外に流出しなった画像と思われま
す。

南郷大尉の戦死…59戦隊の原認証明での空戦空域は『場所:
カイリル島東方約30km、離岸約30km洋上、敵地まで約300km
』とあります。第四航空軍司令官 寺本 熊市 中将より個人感状
が出され二階級特進の措置がとられました。その感状の文面に
は”必死敢闘ノ精神ヲ昂揚シテ執拗果敢ナル攻撃ヲ断行シ、戦
隊ノ嚇々タル戦果獲得ノ骨幹ヲ成セリ”は、まさに大げさでなく
南郷大尉の鬼神のような戦いぶりを淡々と表現した感じでありま
す。