-


鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



旧軍の遺構や資料館など・・・関東編

(5ページ目)



(首都圏を中心とした関東に
        点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)






先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。






〜陸軍宇都宮飛行場の遺構〜
   (大型機用の掩体壕)

 (現・栃木県農業大学校及び
    作新学院大学女子短大
    と宇都宮市清原工業団地)



大型の爆撃機用の掩体壕の残存する栃木県農業大学校です。
正面にある道路の遥か右先が旧清原飛行場(宇都宮陸軍飛行
場)の滑走路などがあった地域となります。また逆に戻ると掩体
壕に向かいます。
この農大の敷地内には、地域全体で10数ヶ所あったと謂われる掩体壕
のうち二基が現存しています。一つは大型機用で一つは小型機用です。




農大の地図と空中写真です。★印の二か所が掩体壕のある地点です。


今回、お世話になった栃木県農業大学校です。近く農大祭があるそうです。
御興味のある方は、是非、見学に行かれて下さい。


左のバーナーをクリック
すると栃木県農業大学校
の公式HPが開きます。


珍しい陸軍の大型機用の有蓋の掩体壕です。RC造で間口が28.1mで奥行22.6m
あります。ここの宇都宮飛行場(清原飛行場)には四式戦”疾風”と百式重爆撃機”
呑龍”が配備されておりました。百式重爆の全幅が20.42mで
全長が16.81m、高さ
4.25mありました。しかし十二分に入る余裕の大きさです。因みにこの清原飛行場
には海軍の一式陸攻も頻繁に飛来したと謂われており、その百式重爆を遥かにしの
ぐ性能の良さに陸軍側から羨望の声が上がっていたというエピソードもあったようで
す。


キ-49 百式重爆撃機”呑龍”です。


この上下の画像の左右を見るとお判りのように開口部の左右から天頂部分が
一部崩落し下に落ちた事が判ります。真ん中にひびが入っています。







内部の左側には戦後に使われた有毒農薬のPCBが処理待ちでコンクリートブロックで
覆われて封印貯蔵されています。崩落が起こっているので危険ですが…。


掩体壕の周囲です。牧草地となっていますが、戦後に土盛りされたそうです。
元はもう少し平地だったと思われます。北に約2kmも離れた飛行場の滑走路
に双発の大型機を人力で押して行く事は考えられないので目の前を離陸した
ものと想像します。大小二基の有蓋の掩体壕が残存していますので恐らくは、
無蓋の掩体壕もあったものと想像されます。




⇒部分が今回見て撮影した掩体壕の空中写真を拡大したものです。
更に南の雑木林の中にも小型機用の掩体壕が残っています。
記録によれば、昭和19年11月3日から3日間の徹夜工事で
南北方向に長さ1500m幅50mの滑走路コンクリート舗装工
事を行ったとあります。またこの工事は、昭和19年7月に陸軍
技師待遇で配属された東京工業大学建築学科の学徒出陣2
年生4名による設計で更に、この他にも航空用ガソリン貯蔵用
の横穴壕建設に飛行機掩体格納庫建設、飛行機掩体土塁偽
装工事に従事したとあります。昭和19年6月、宇都宮教導飛行
師団の編制がなされました。また別の資料の中でも
  ・大型格納庫:14箇所
  ・小型格納庫:12箇所
  ・爆撃機用および戦闘機用掩体壕:24箇所
  ・その他作業場所
が設置されていたとされていて、かなり大がかりな飛行基地で
あった事が判ります。


農業大学の方でまとめた掩体壕の資料です。





       上が野球グランドの空中写真です。
  ★印が滑走路があった作新学院大や清原工業団地です。

野球グランドのフェンスの下に滑走路へ残る誘導路のコンクリート
が見られます。この大学と清原工業団地の周辺には清原飛行場の
格納庫の基礎や発電所跡に掩体壕、そして鉄道輸送に使われた
宇都宮陸軍航空廠線(廃線となっています)の線路の跡やプラット
ホーム跡など多くの遺構が残っています。


上のバーナーをクリックするとかつて清原飛行場があった
作新学院大学女子短期大学の公式HPが開きます。


〜陸軍の宇都宮飛行場(通称:清原飛行場または、鐺山飛行場)〜

この飛行場は、現在の作新学院大学女子短大から宇都宮市の清原
工業団地にかけて存在しました。始まりは、昭和14年に陸軍が清原
村(現・宇都宮市清原工業団地)の都小千波ガ原(鐺山・氷室地区)
に約3.000haの用地を買収した事からです。翌年、勅令により”宇都
宮陸軍飛行学校”が発足。昭和16年には、滑走路と兵舎、宇都宮陸
軍航空廠を併設した陸軍宇都宮飛行場が完成しました。昭和17年に
は、昭和天皇が三笠宮・東条首相・杉山元帥などを伴って行幸され、
落下傘部隊と地上防衛軍の大演習が行われました。この時の白黒
写真はかなり出回って当時の写真雑誌等にもけいさいされましたの
で目にされた方も大勢いると思います。昭和19年には、飛行学校の
優秀な教官を本土周辺の決戦任務につかせる為に、宇都宮教導
飛行師団が編成されたほか、実戦部隊である重爆撃機隊も配置さ
れました。

併存した宇都宮陸軍航空廠は、国内の五大航空廠の一つであり、
主に飛行機・爆弾・弾薬などを調達し作戦戦域に届けるなどの補給
また損傷機の修理や改造などを行う事を目的とした施設でした。

尚、飛行場の滑走路はコンクリート製で南北に2,070m×1,550mと
伸びており、付属施設として、

  ・大型格納庫:14箇所
  ・小型格納庫:12箇所
  ・爆撃機用および戦闘機用掩体壕:24箇所
  ・その他作業場所

が設置されていたと資料には記載されています。

また宇都宮陸軍飛行学校に関しても紹介しておきます。
宇都宮陸軍飛行学校は、熊谷陸軍飛行学校分教場として発足ます。
昭和15年9月14日勅令第577号”宇都宮陸軍飛行学校令”により、
宇都宮陸軍飛行学校に昇格しました。学校の目的は、少年飛行兵
の教育で、生徒は陸軍少年飛行兵学校の卒業生。毎年、二回の入
校があり、修業年限は一年。卒業後は所属部隊で6ヶ月在営後、
伍長に任官となりました。臨時に将校以下の教育を行う場合もありま
した。昭和19年10月10日軍令陸乙第47号により熊谷陸軍飛行学校
に分校として編入されました(熊谷陸軍飛行学校宇都宮分校)。昭和
20年4月17日に清原村(現宇都宮市立清原中学校)に勅令によりつ
くられたこの陸軍飛行学校は、沖縄陥落後…閉鎖され、在校生は
卒業を待たずして各地の部隊に配属されていきました(勅令第228号
”陸軍航空本部令外三勅令中改正等ノ件”により”宇都宮陸軍飛行
学校令”廃止)。


動画の再生に際してはサイトのページTOPのMIDIの音源を止めて
から見るようにして下さい。

日本ニュース第112号(昭和17年7月29日に公開)です。
一番目のニュースに"大元帥陛下天覧 空地連合演習"
として宇都宮陸軍飛行場(宇都宮飛行学校)で昭和17年
に昭和天皇が三笠宮殿下・東条首相・杉山元帥などを伴
って行幸され、落下傘部隊と地上防衛軍の大演習が行わ
れたニュース。宇都宮飛行場が動画で見る事が出来ます。
また宇都宮飛行学校の少年飛行兵達のあどけない顔の制
服姿など貴重な生の映像を見る事が出来ます。

(ナレーション)
…かしこくも大元帥陛下には7月21日、栃木県宇都宮の
陸軍飛行場に行幸あそばされ、空中と地上に展開され
る壮烈なる陸軍特別演習を親しく見そなわせられまし
た。陛下には飛行場に着御の御後、まず山田統監の
ご先導にて玉歩を格納庫脇に進め賜い、落下傘部隊
用兵器・被服等、および、敵が精鋭を誇るロッキード・
ハドソン、ホーカー・ハリケーン、マーチン等の鹵獲飛
行機を天覧あらせられました。次いで天覧の光栄に勇
み立つ無敵陸軍落下傘部隊の攻防演習は、パレンバ
ン、カリジャヂの激闘もさこそとばかり、大東亜を覆う威
武をこの一瞬にあらわして、すさまじい立体戦の絵巻を
繰り広げました。仰げば尊し、大元帥陛下には折からの
猛暑も御厭いなく野外にお立ちあそばされ、お熱心に
天覧あらせらる。空からの猛威激しくようやく地上からの
威力減ずると見るや、はるかなる空からまたも攻略軍の
大編隊。これぞかつて勝利の光を純白の絹地に溢れさ
せ、南の空パレンバンに乱れ開いた花の群れ、敵の虚
を突き天下る奇襲部隊の姿ではありました。急襲部隊、
地上部隊、いずれ劣らぬ覇気に燃えて実戦さながらの
熱戦は続けられたのであります。陛下には演習終了後、
参加両軍部隊の堵列する戦線を御巡視あそばされまし
たが、このたび親しく陸軍将兵の指揮を鼓舞、激励あら
せられた聖慮のほどは、拝するだにかしこき極みであり
ます。

今回、時間の関係で見に行けなかった行幸記念碑
です。上で紹介した日本ニュース第112号にある天
皇陛下の宇都宮飛行場への行幸を記念した石碑で
す。


当時の航空写真で見る宇都宮飛行場。そして所謂、清原軍用線と謂われた
宇都宮陸軍航空廠線が古い当時の地図上には、はっきりと残っています。
右上の航空写真では、大小二本の滑走路に複数の誘導路が確認できます。
米軍の空襲でやられた爆撃の跡や幾つものクレーターも確認できます。
戦時中の地図です。陸軍飛行場は、当然、軍事機密となりますので
白抜きされて全体像がつかめませんが、宇都宮陸軍飛行学校の記
載があり場所が確認できます。また宇都宮陸軍航空廠線は鬼怒川
左岸の栃木県塩谷郡阿久津村(現・同郡高根沢町)にあった宝積寺
駅と陸軍宇都宮飛行場に隣接する航空工廠を結んでいた軍用線で
す。航空機の工場であった航空廠への物資の輸送や工員の輸送を
目的としていましたが、宇都宮駅から直接の鬼怒川越えの橋梁建設
が困難だった為、東北本線で鬼怒川を渡った宝積寺駅より鬼怒川左
岸に路線が設けられました。廃線後の鉄道敷は道路に転用され、今
日でもその痕跡が地図上で確認できます。終点の鐺山駅は宇都宮
東警察署鐺山町駐在所から北西約200m付近に位置しており、現在
プラットホームの一部が残存しています。
尚、余談ですが…陸軍の宇都宮飛行場がある関係で軍事施設と軍需工場は
米軍の格好の爆撃の対象となりました。この為、宇都宮でも飛行場だけでなく
宇都宮市内を含めて空襲を受けています。

宇都宮にある施設を攻撃目標とした空襲は、昭和20年2月16日の米海軍の
艦載機によるものが最初でした。これは、陸軍宇都宮飛行場に対するもので
したが、翌17日には市街地に近い上空で陸軍の四式戦”疾風”1機と米艦載
戦闘機3機の空中戦が行われ、多くの市民がこの様子を目撃しています。こ
の話の詳細は、米軍機の宇都宮飛行場攻撃後、宇都宮南飛行場から四式戦”
疾風”1機が迎撃の為離陸し、グラマン3機と交戦したが多勢に無勢で交戦後
に撃墜されました(空母ヨークタウン戦闘報告による)。米軍機は、卑怯にも落
下傘降下した日本陸軍のパイロットを繰り返し銃撃し虐殺しました。この空中
戦は、多くの市民の目前で展開されましたが墜落した疾風の機体は、市内簗
瀬地区に落下し建物3棟を全焼させる被害を出しました。

このような艦載機などによる飛行場・軍需工場・交通機関への攻撃は、敗戦
のまぎわまで何度も繰り返されました。そして同年7月12日23時19分、B-29
戦略爆撃機による本格的な大空襲がはじまりました。米第21爆撃機集団第
58航空団所属のB-29爆撃機120機により、昭和20年7月12日深夜23時19
分から始まりました。これは宇都宮市街地を攻撃目標とする焼夷弾爆撃でし
た。空襲は13日未明1時39分までの約2時間20分にわたり繰り返されました
。この空襲で投下されたのは、M47焼夷爆弾・E46収束焼夷弾です。E46は
投下後ある一定の高度で、中から38個のM69焼夷弾が分かれて落下する仕
組みでした。深夜の空襲は2時間を越す長い時間にわたり、避難と消火活動
は困難を極めました。つぎの朝、市民が目にしたのは、焼け野原になった宇
都宮です。現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間はほぼ壊滅状態とな
り、死亡者数620名以上、負傷者数1128名以上を出すという大きな被害を受
けました。この空襲は、古い町並みと貴重な文化財を焼失させ、市民生活に
大きな打撃と混乱を与えたのはもちろん…その後、長期にわたって心身に傷
跡を残しました。

その後も以下のように攻撃が繰り返されました。

7月28日:P-51市街地攻撃、駅前焼け跡の整理奉仕中、下野中学、宇工生
      徒に死傷者あり。

7月30日:9時〜10時10分空襲警報、偕行社、宝積寺方向に火の手が上がる
      宇都宮南飛行場 F6F 8機、宇都宮飛行場 F6F、F4U 31機来襲。

8月13日:宇都宮中学に午前8時機銃掃射、午前11時40分20kg爆弾落下
      宇都宮飛行場・宇都宮南飛行場F6F 20機が来襲。

           出典引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 



尚、宇都宮には上記の清原飛行場(宇都宮飛行場)の他に米軍が
宇都宮南飛行場(地元の人は中島の飛行場と呼んだ)と呼称した
飛行場がありました。こちらは現在、陸自北宇都宮駐屯地として上
記の画像の通り自衛隊が使用しています。正式には陸上自衛隊
第12飛行隊,航空学校宇都宮分校と謂うのだそうです。ここは、
昭和17年5月に中島飛行機により工場敷地と飛行場敷地の買収
が開始されました。昭和18年4月に工場を含めほぼ完成し中島飛
行機宇都宮製作所としてスタートしました。この為、飛行場の正式
な名称は、中島飛行機宇都宮製作所飛行場となります。ここでは、
昭和19年1月より四式戦”疾風”の生産が開始されます。そして同
年5月には、早くも四式戦”疾風”の初出荷が開始されました。ここ
には正式な陸軍の航空部隊は存在しませんでしたが、陸軍の空中
勤務者たるパイロットや中島のパイロットが独自に生産された四式
戦”疾風”を使って1〜数機程度で防空を行っていたようです。上で
昭和20年2月16日の米機動部隊艦載機による初空襲で僅かに1機
だけ迎撃に上がった四式戦”疾風”は、この飛行場から飛び立った
戦闘機と思われます。当時飛行場には、宇都宮陸軍航空廠雀宮出
張所があって、宇都宮製作所で完成した機体は、航空廠検査課の
パイロットにより清原の宇都宮陸軍飛行場に運搬、航空輸送部第
三飛行隊などが其々の戦地に空輸していたとの事です。恐らくこの
航空廠検査課のパイロット若しくは中島のパイロットのいずれかが
迎撃戦を行い戦死されたと考えます。







〜陸軍 宇都宮師管区司令部
   の八幡山地下司令部壕の跡〜



宇都宮市の中心部、県庁に程近い市民の憩いの公園である
八幡山公園です。春には桜の名所でもあります。この遊園地
や競輪場もある公園は…戦時中に本土決戦に備えて宇都宮
師管区司令部の地下壕が掘られました。準備だけで使われず
に敗戦を迎えました。現在、三か所残存する入口は封鎖されて
年に一回だけしか内部を見る事は出来ません。
空襲と本土決戦に備え八幡山公園内に建設が進められて
いた地下壕は、出入り口が11ヶ所、総延長721mにおよぶ
巨大な地下施設でした。宇都宮師管区司令部(現国立栃木
病院)をここに移す計画でした。敗戦間際の昭和20年6月か
ら敗戦までの約2ヶ月間にわたって建設が続けられ、完成前
に敗戦。作業部隊には東部36(宇都宮)・37(水戸)・38(高
崎)部隊から歩兵3個中隊と同42部隊(水戸工兵隊)が従事
し、司令部からは作業隊長に軍医と衛生兵もが参加しました
。敗戦により工事は頓挫する事となりますが、米軍が来た時
に中途半端な工事が日本陸軍の恥とならないようにと最期ま
で完成させて部隊は解散したと謂われています。現在、内部
は宇都宮市平和月間(7月12日から8月15日)に併せて一
般公開を実施しています。それ以外の期間は中を見る事が出
来ません。
元々この宇都宮は、陸軍第14師団があることから軍都・宇都宮
とも呼ばれておりました。当然のことながら戦時色が濃くなって
いく昭和12年には関東防空演習があり、これにも参加した宇都
宮の夜では、初めて灯火管制により黒一色になったと謂います。
また、昭和15年に第14師団が宇都宮から満州のチチハルへ移
駐になると、かわって陸軍第51師団が編制されました。その翌年
には、大政翼賛会宇都宮支部が発足するなど、国力の全てが戦
争に向けられていった時代でした。昭和15年に米の配給がおこ
なわれ、砂糖・マッチ・味噌・醤油・衣類・燃料へと拡大されていき
ました。翌年には、銅や鉄などの金属回収が全国にさきがけて行
われています。日中戦争から日米戦の開戦へと戦火は拡大して
いきました。宇都宮では戦前に生産都市への転換を図り、中島飛
行機宇都宮製作所をはじめ、多くの軍需工場の誘致を進め、軍需
生産に力が注がれるようになりました。しかし、成年男子の多くが
戦場に駆り出された戦争末期、これらの軍需生産を支えたのは多
くの女性や学生たちでありました。また、軍事施設も次々に造られ
ていく中で、昭和15年に旧清原村に宇都宮陸軍飛行学校が発足
し、翌年には航空廠を併設し宇都宮陸軍飛行場が完成しました。

大正14年の「宇垣軍縮」から昭和20年初頭までの内地に於ける
軍政は常設師団の師団長の管掌事項であり、常設17個師団のう
ちの内地に在る13個師団が、管轄する師管区内の連隊区司令部
を管掌し、新師団設置の業務・教育・あるいは補充などを担当して
いました。尚、有事の際などは師団や師団長が外地に出征し不在
の場合、内地に於ける補充業務などの軍政については留守部隊
である留守師団が行う体制であり、そのため留守師団長が置かれ
るようになりました。昭和20年になると本土決戦が必至の状況とな
り、それまでの軍の編制を根本的に改め作戦と軍政の分離を推し
進める事となり師管区司令部が設けられ常設師団が管掌していた
補充業務などの軍政を切り離しました。

昭和20年になり米軍機による地方都市や工場などをねらった空襲
が激しくなると高射砲部隊が宇都宮にも派遣されるようになりまし
た。 そして八幡山に師団の地下司令部建設が進められました。こ
の地下司令部は…第14師団や第51師団でなく宇都宮師管区司令
部の入る地下司令部として掘られておりました。

      出典引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
12日深夜、B-29による宇都宮空襲が行われたのである。













残存する入口の一つです。厳重に封鎖されて内部に侵入
できないようになっています。
残存して崩落を見ない素掘トンネル群の長さは、364.6m(他に9本の
支線)地下指令部は良好な形で保存されていると聞き及びます。





上の二つの坑口を空中写真に★印で記載しました。
この2か所は一般公開時に入口と出口として使われ
ているようです。(下の図ではAとBラインです。)
下が宇都宮市の公開した内部写真です。




2か所目の入口です。





丁度、下の画像で謂うとHラインになるのが上の空中写真
の★印になります。ここが3点目の坑口で写真は以下です。


雑木林の地下に地下壕があるとは想像付きません。


三か所目の入口は、殆ど公園内部と謂うよりは外部の
民有地のギリギリ目の前と謂う場所です。



以前、市で公開した内部の写真です。






〜 陸軍駒沢練兵場
   野戦重砲兵第八聯隊
    近衛野砲兵聯隊・野砲兵第一聯隊
           陸軍糧秣廠倉庫の遺構 〜

(現 陸自三宿駐屯地・自衛隊中央病院
   陸自衛生学校・医療史博物館”彰古館”)



平成21年1月に建て替えられて立派になった自衛隊中央病院です。
総合病院に匹敵する診療科を具える病院であるが、有事に負傷者を
収容することを前提としているため、常に一定の空きベッドを確保し運
営しています。地上10階建て、地下2階、延べ床面積は約2倍半にな
り、屋上には緊急輸送のためのヘリポートを備え付けています。地震
対策としてを免震構造採用し、緊急時には平時の2倍1000床の増床
が可能となります。

(標榜診療科目)
内科、呼吸器内科、消化器内科、循環器内科、神経内科、
代謝内科、感染症内科、外科、呼吸器外科、心臓血管外科
脳神経外科、整形外科、形成外科、精神科、リウマチ科、
小児科、皮膚科、泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻喉科、リ
ハビリテーション科、放射線科、麻酔科、歯科
(許可病床数) 500床

(精神病床)50床
(感染症病床)10床
(結核病床)20床
(一般病床)420床




この陸自三宿駐屯地の中に衛生学校と自衛隊中央病院がありますが
この敷地の外、現在は民間の土地となり住宅街や商業地と化していま
すが昭和初期までは…広大な陸軍駒沢練兵場でありました。またこの
周辺には、近衛野砲兵聯隊・野戦重砲兵第八聯隊・野砲兵第一聯隊
などがあありました。





左上は、旧自衛隊中央病院があった場所で取り壊しが行われていました。
駐屯地内の衛生学校前から東山官舎方向を向いて撮影…紅葉が美しく駐
屯地である事を忘れます。

陸自衛生学校


近衛野砲兵聯隊の顕彰碑です。


野戦重砲兵第八聯隊の顕彰碑です。




駐屯地の外で住宅街の中にある旧陸軍糧秣廠の倉庫です。
しっかりと残っています。現在はクロネコヤマトの宅急便が
使用しています。
立派に現役で生きている姿は…感動します。



今も唯一残る野砲兵第一聯隊の兵舎です。皮肉な事に民団の
世田谷支部が東京世田谷韓国会館として使用しています。
まあよく残ったものです。また現役で民団が使っているのが驚きです。
典型的な陸軍兵舎です。ストーブの煙突穴も残っています。地盤沈下したのか
相当に歪みが出ていて窓が既に斜めになっています。
一部にシャッター付きの雨戸を付けたりしていますが基本的には当時の
兵舎のままである事がよく判ります。




こちらも移転しリニューアルしたばかりの彰古館です。





驚きの出逢いのあった彰古館です。
驚くべき博識を持つ現役自衛官であり学芸員の方が懇切丁寧に解説して
下さります。何よりも戦陣医学というより、日本の近代医学の歴史の全て
そのものが此処にあると謂って過言では無いでしょう。展示しきれない多
くの紙物資料をはじめとした資料が倉庫に眠っています。是非、国は予算
を別に付けて独立した資料館・博物館として全てが展示できる施設を作る
べきと痛感させられます。


御親切に解説していただいた学芸員の方から頂いた
彰古館と衛生学校が刻まれた携帯ストラップです。











メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。


こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。