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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V |
旧軍の遺構や資料館など・・・関東編(4ページ目) |
(首都圏を中心とした関東に
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先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから 64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳 しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての 諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣 や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。 各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが 意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国 の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も 崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが 進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で 再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる 範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと 思います。 |
〜陸軍豫科士官學校の遺構〜
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上の図は占領時代のキャンプ・ドレイクのエリアを示した航空写真です。 川越街道(R254)を挟んで北側がノース・ドレイクと呼ばれ南側がサウス ・ドレイクと謂われ画像のように南側は現在の陸自朝霞駐屯地や理化学 研究所、国立埼玉病院(陸軍振武台病院)、税務大学校、労働大学校な どがあります(昭和49年撮影のCamp Drake全体航空写真)。下は平成 元年撮影の航空写真です。 |
左上は川越街道の北側から見た朝霞駐屯地、右上は裏門内部側から 見た陸自の朝霞駐屯地裏門エリアです。 |
民主党の事業仕分けで急速に来館者増えたという朝霞広報センターです。 |
広報センター前で駐屯地裏門近くに置かれたイラク支援で 派遣された陸自の装甲車が置かれています。下は内部で す。まさに現代の開かれた自衛隊の姿を感じます。 |
〜陸軍豫科士官學校の遺構〜
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陸軍予科士官学校の当時の地図です。(現在の陸自駐屯地と少し専有 敷地が変わり大きさが一致しませんが、昔はもっと広い敷地だったという 事です。) |
現在の朝霞駐屯地の正門です。 |
かなり散りましたが桜の最後の季節…正門付近の桜もきれいでした。 |
正門をくぐりすぐに振武台碑がゲートを背に左手にあります。 下に迎えの公用車が写っていますが、その左脇に振武台碑 が写っています。また 右手後奥には雄叫神社があります。 |
下は既に鳥居も除去され完全な神社跡だけが残る雄叫神社跡です。 |
表通りは交通量の非常に多い川越街道…大泉学園側も同じですが この雄叫神社跡は時を止めたかのように静かな空間に時を超えて 超然と存在するかのように…また忘れ去られたように存在しておりま した。 |
朝霞駐屯地の正門です。こちらの大泉側が正門となります。 |
下の予科士官学校の正門は、今の駐屯地正門より南に あり大泉中央公園から更に南の長久保交差点付近にあ りました。(下は現在の朝霞駐屯地正門付近です。) |
下は当時の朝霞の予士校の正門を写した写真です。 |
ありし日の正門です。 |
相武台の旧陸軍士官学校の皇族舎を移設した修武記念館と 陸軍予科士官学校の正門の門柱です。 |
旧正門の後ろには相武台から移設した陸軍士官学校の旧皇族舎があります。 |
戦後に撮影されたまだ当時のままの位置にあった振武台の正門です。 |
左上は正門から外を右上は内部を写した戦後の写真です。 |
遙拝所の石碑です。予科士官学校の敷地内 には幾つか遙拝所があり、そこでは宮城や神 宮や様々な地域(父母のいる出生地等々)に 向かい将校生徒達が遙拝した場所です。当時 は大きな方位を示す石も一緒にあり方角を確 かめて遙拝しました。振武台記念館を移築す るにあたりこの石碑を脇に移築し見学できる ようにしてあります。右上は振武台の遙拝所 での遙拝する将校生徒達の写真です。下は、 相武台の遙拝所の写真です。 |
上は現在の朝霞駐屯地にある皇族舎です。下の写真は まだ市ヶ谷にあった当時の皇族舎を写したものです。 |
下は修武記念館を上から撮影したものです。 | ||
館内に再現された雄叫神社…。 |
戦後長らく土中に隠し埋められていた菊の御紋章に扁額 です。一緒にあった雄叫神社の御神体は靖国神社に奉安 しました。これが昭和40年の事になります。 |
米軍に汚されるのを恐れ土中に埋められ痛んだ扁額です。 |
かつて学校本部に取り付けられていた菊の御紋です。 |
この振武台碑の裏を高木少佐の命で敗戦後 穴を掘り雄健神社の社殿から御神体等と菊の 御門、学校名の扁額を白布で覆い埋めました。 |
当時まだ米軍管理下にあったので米兵が見守る中、旧陸士関係者に 朝霞の自衛隊員が加わって昭和40年12月に発掘作業が行われました。 |
上に掲載し館内に飾られている菊の御紋章と崩れた神剣や宝鏡・御神体 などが出てまいりました。御神体はその後、靖国神社へ奉安されました。 |
一緒に埋める作業に携わった将校生徒が一緒に埋めた品も 出てきています。 |
当時の将校生徒の自習室の机です。 |
修武記念館の脇に置かれた地元ロータリー倶楽部 と自衛隊の記念碑です。その横には米陸軍第一騎 兵師団が記念して残したキャンプ・ドレイクの記念 碑がありましたが、当サイトは米軍を顕彰するサイト ではありませんので割愛しました。 |
皇族舎は多くの皇族の軍人を見守り続けました。 |
この皇族舎をお使いになられた武窓の皇子達です。前列左より一人置いて 奥保鞏元帥、北白川宮永久王殿下(43期)、竹田宮恒徳王殿下(42期)、 李鍵公殿下(42期)、上原勇作元帥です。昭和3年10月10日に撮影された 写真です。 |
こちらの敬礼されている方は49期の東久邇宮盛厚王殿下で予科士官 学校を卒業され在校生にお別れをしている写真です。下は同殿下の 士官学校本科時代(先頭左の方)です。 |
左上は予科士官学校の野営演習での三笠宮崇仁親王殿下(48期) です。右の写真は予科を卒業し在校生にお別れをされる殿下です。 |
また修武記念館間から埼玉よりに少し移動すると 東京ゴルフ倶楽部(朝霞コース)の唯一の遺残で ある琵琶湖があります。池越えのショートコースの 跡でしたが…自衛隊では以前は渡河訓練にも使 用されていたようですが…現在は臭うドブ池となっ て時々、水を入れ替えて清掃をしているそうです。 |
こちらが今は無い当時の医務室と琵琶湖です。 |
昭和18年12月9日の大元帥陛下の行幸。 この日より振武台の名を賜わる。 |
学校本部…菊の御紋が輝いています。 |
当時の生徒舎です。 |
自習室と食堂です。 |
外から見た食堂です。 |
鹿島池附近での野試合 |
野外騎乗に出発する将校生徒達 |
左上は予科士官学校最後の入学式となった昭和20年4月1日の第61期乙の 入学式です。右上は最後の卒業式となった昭和20年7月29日の第60期生。 |
60期航空生徒卒業式(昭和20年3月23日) |
生徒舎前に於いて区隊で記念撮影する60期生 |
新鹿沢に於ける牟田口 廉也 校長(中将)と服部 征夫 演習隊長 |
左上は今はもうない香取池です。右上は琵琶湖と医務室。 |
戦後に撮影された学校本部、菊の御紋がありません。 |
剣道場 |
大講堂 |
生徒舎(裏側) |
厩舎です。 |
生徒舎(第21中隊) |
学科講堂 |
実習講堂 |
左上が西練兵場で右上が射撃場です。 |
振武台の雄健神社の跡です。 |
上と下は市ヶ谷台の雄健神社 |
振武台の遙拝所の跡です。 |
予科茶目で馴染の深い…平林寺 |
当時の絵葉書に見る陸士豫科 |
〜陸上自衛隊 輸送学校〜
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陸自の輸送学校は現在は新しい立派な建物になっておりますが 平成5年9月に現在の庁隊舎に移転する前は振武台の陸士予科 学校本館を使用しておりました。その当時の写真が上となります。 振武台記念館を前回訪れた時と別に…知人の自衛隊関係者を介 して輸送学校を見学させていただきました。光栄な事に学校長の 佐藤 正 閣下に改めて振武台記念館と雄叫神社も御案内いただ き恐縮致しました。 |
旧軍では輜重・輸送を軽視しがちで…結果、非常に多くの将兵が先の大戦では 悲惨な運命を辿った事は有名な話ですが…戦後の自衛隊では昔と大きく違う 一面を勉強させていただきました。この輸送教育センターでは…自衛隊が参加 したPKOなど海外支援活動に関する様々な輸送業務を詳しく説明していただき ました。ほんの一部ですが旧軍の輜重・輸送に関する資料も展示してあります。 |
旧校舎だった旧陸軍予科士官学校本館の模型(下) と本館で使われていた鬼瓦(上)です。 |
輜重兵が良く使用した三八式騎兵銃。九八式軍刀(何故か 九五式軍刀と誤記載されていました)なども展示されていま した。 |
旧軍時代の輜重兵の苦労の集大成とイメージすれば浮かぶの はやはりイラワジ河や泰緬鉄道です。戦車を乗せた大発の模型 など色々とありました。 |
〜陸軍士官學校・大本営陸軍部、
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帝國陸海軍の栄枯盛衰を見てきた市ヶ谷記念館です。 |
旧1号館の一部を移設した市ヶ谷記念館。 正面エントランスの上にある バルコニーから自決した三島由紀夫が激を飛ばしました。 |
陸上自衛隊東部方面総監部時代に取り付けていた 大時計と自衛隊のシンボルマークの桜です。 |
旧大講堂の内部は薄暗さのせいか…まるで 時が止まったかのような淀んだ空気の空間 が拡がったような印象を受けます。 |
この旧大講堂で東京裁判が行われました。その法廷だった フロアーに立つと不思議な感じがしました。 |
今も昔も変わらず明りを灯した天井の電灯…に歴史の 重みを感じずにいられませんでした。 |
この電燈も天井も全てが陸軍士官学校時代も東京裁判も全てを 見てきたものかと想像すると…長い時の流れと時代に翻弄され た様々な人達の様々な想いが交差したであろう…この空間に息 が詰まるような感じがします。 |
大講堂建設当時(昭和9年)に作られたもので、中身の 白熱灯以外は当時のままです。 |
戦勝国の勝手な論理で敗戦国を裁いた東京裁判は 我国にとって受け入れがたい屈辱的な裁判でありま した。 |
昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として作られました。敗戦後、昭和21年 5月から23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として 使われました。 |
玉座です。天皇陛下が陸軍士官学校にお出ましになられたときに使用された。 |
旧軍時代は陸軍大臣室でした。最後の陸軍大臣は割腹自決された 阿南 惟幾 陸軍大将です。戦後は東部方面総監部の総監室として 三島事件で脚光を浴びます。 |
旧陸軍大臣室は、士官学校時代は士官学校長室として使われました。 昭和16年以降は陸軍大臣室でありました。戦後は陸上自衛隊東部方 面総監の執務室として使われました。 |
昭和20年8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃。 介錯を拒み、早朝絶命。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」という遺書を残す。辞世の句として「大君の深き恵に 浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」という歌を添えたが、これは昭和13年の第109 師団長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりでの食事によばれた際に、その感激を詠っ たものである。 出典引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
陸軍大臣の公印など |
取り壊される前の旧1号館のミニチュア模型がありました。旧1号館からこの 市ヶ谷記念館に移設された旧大本営陸軍大講堂と旧陸軍大臣室の見学で した。 旧陸軍大講堂は極東国際軍事裁判が行われた場所であり、旧陸軍 大臣室は昭和45年に三島由紀夫がたてこもり自決した部屋です。 |
有名な三島事件の時の刀傷が残る総監室の扉 |
全部で3カ所の刀傷が残っています。 |
三島事件(楯の会事件) 三島事件とは昭和45年11月25日に三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター) の呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。また楯の会事件とも呼ばれる。 11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」 メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」であった。総監・益田兼利陸将と談話 中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監 に飛び掛って縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦 、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた自衛官もいた。 また総監室も数百万円単位で破損した、のち三島家が弁済した。 三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを要求してそれを 認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、自衛官達からは「昼食 の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらに は三島の演説の内容についての反撥も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、 バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた (三島はマイクを用意していなかった。この悲痛な光景を、テレビで見た作家の野上弥生子は、 後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった。」と述懐している(堤堯談))。また、水木しげる は『昭和史』のなかで、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは戦後育ちばかりで、個人主義 享楽主義になっていたからだとしている)。そして森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱した のち、三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半身裸となり、「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀 を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度も失敗 してしまい(刀が曲がってしまったともいう)、有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ねた。 警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右 に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外 に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。 ノーベル文学賞候補に上ったことがある日本人作家のクーデター呼びかけと割腹自殺は日本 だけでなく世界中に注目を集めた。 出典引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
旧便殿の間です。士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)でした。 その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われました。 |
2階席から見た東京裁判の行われた法廷 |
2Fの廊下部分と上から見た講堂です。 |
市ヶ谷台の全体のミニチュア模型 |
〜陸士卒業生(士候56期生)のアルバムに見る
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昭和天皇が命名された相武臺の地を代表する 陸軍士官学校(本科)の跡は戦後一貫して米 軍の座間キャンプが占有しその遺構を容易に 拝観できなくなっております。自衛隊の施設で あれば何とかお願いすれば見れるかも知れま せんが米軍施設となれば一般の日本人が中に 入れるのは年一度の交流の祭りの時だけです 。これに合わせて仕事を休む事も出来ないので かつての陸士卒業生のアルバムから…当時の (敗戦前)相武臺の姿を紹介する事とします。 |
アルバムの所持者だった陸士本科将校生徒の写真です。 階級章は陸軍軍曹です。 |
階級は陸軍伍長です。陸軍予科士官学校を卒業後に 陸士本科入学前の半年間を原隊で隊附をします。この 時の士官候補生達の階級は上等兵です。その後、隊附 中にに伍長になります。また陸士本科入学時には軍曹 の階級になります。この方の原隊は東京・麻布の歩兵第 一連隊です。歩一は北満に渡っておりましたので遠いソ 満国境までこの方は隊附に出掛けています。 |
今は無き陸軍士官学校の正門の門柱です。 本部庁舎には菊の御紋が飾られているのが 見て取れます。 |
相武臺の記念碑の裏には以下の文面が彫られておりました。 昭和十二年陸軍士官学校此ノ地ニ移ル冬十二月二十日 天皇陛下卒業式ニ 行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校所在地名ヲ 特ニ相武台ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益々練武養材ノ実ヲ挙ケ 聖旨ニ副ヒ奉ラ ンコトヲ奉答セリ 謹ミテ按スルニ相模国ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊 東征ノ条ニ相模国ニ作ル台ハ其ノ形勝ヲ占メ相模原ヲ控ヘ最モ武ヲ練リ鋭ヲ養 フニ適ス乃チ武ヲ相ル意ヲ寓シ給ヒタルモノト拝ス茲ニ御命名書ノ相武台ノ三字 ヲ廊大シテ碑ニ題シ縁由ヲ背ニ記スト云爾 陸軍大臣 杉山 元 陸軍大将 |
遥か向こうに大山を望む |
大講堂 |
雄叫之獅子 |
雄叫神社 |
陸軍士官の養成は、海軍の士官養成と全く異なります。 同じエリートを集めても海軍は明らかに兵・下士官と一 線を画するエリート集団である士官を単独で育成し食事 すら兵や下士官と共にする事は無い教育を受けて巣立 ちます。一方、陸軍士官は予科時代では上等兵として原 隊附を行い、本科では下士官として隊附を再び行い兵・ 下士官とも同じ釜を食いながら、尚且つ原隊である所属 連隊の将校団の先輩達からあるべき士官像の薫陶受け て育てられ陸士卒業と共に見習い士官として原隊に復帰 しここで少尉に任官します。 |
入校式の閲兵 |
入校式の訓示をする山室 宗武 中将(校長) |
アルバムから山室中将と土肥原大将が校長として存在します。 予科入学時が昭和14年12月で本科卒業時が昭和17年12月と なる陸士56期生のアルバムです。歩兵第一聯隊は昭和19年11 月にフィリッピン(レイテ島オルモック)に上陸…敗戦を比島で迎 えています。このアルバムの持主だった方も生きて復員されて おれば…敗戦時(昭和20年6月10日)に陸軍大尉となっておら れたと思われます。 |
区隊(区助と呼ばれた区隊長の士官以下30数名の 同じ釜の飯を喰う同期生が切磋琢磨しました。) |
教練班 |
この方の原隊は、歩兵第一聯隊です。同期の歩一の士官候補生 一同の集合写真です。中央で座っているのがアルバムの所持者 だった方です。今の時代、このような凛々しい姿の若者が本当に 少なくなりました。敗戦前は…このような若者が男女ともに大勢お りました。日教組による教育の崩壊は…日本人をドンドンダメ人間 に改造しているようにしか見えません。 |
〜第一次現地戦術演習(於:高師)〜 |
豊橋の高師ヶ原演習場で行われた野外演習の歳 に岩屋観音頂上でのワンショットです。既に将来の 大参謀…将官の面持ちが見えますでしょうか。 |
大岩寺は愛知県豊橋市大岩にある曹洞宗の寺院です。山号は 亀見山。本尊は千手観世音菩薩坐像。境外仏堂として、天平2 年(730年)に行基開基による岩屋観音があります。 |
豊橋駅南側にあった旧陸軍の高師ヶ原演習場は現在は 住宅街や一部国有地で公園として豊橋市に貸与されて 昔の面影は残っていません。 |
第34代校長時代の山室中将。この後、予備役となり 召集され陸軍野戦砲兵学校長、砲兵監を勤め…再び 第39代陸士校長を昭和19年8月より20年3月まで務 めています。 |
高師ヶ原演習場での校長閣下 |
現戦統裁官 三田村 陸軍中佐 |
於:高師ヶ原練兵場 |
練習船”報徳丸”の楼上にて |
54期生を送り出す(卒業時)の56期生達 |
第35代陸士校長を務めた土肥原 賢二 陸軍大将です。 学校本部前で撮影した生写真で玄関上に掲げられてい た”校學官士軍陸”の扁額がよく判ります。 |
〜第二次現地戦術演習(於:高崎)〜 |
高崎入り |
下は陸軍高崎練兵場 |
現地指示 |
移動 |
〜第二次(後期)野営演習(於:富士裾野)〜 |
校長閣下の巡視 |
戦術訓話 |
閲兵 |
皇室に対する畏敬の念の深さはアルバムにも顕れます。この お写真と皇室関係には保護用紙がしっかり掛けてあります。 写真の下に殿下とあります。54期生に皇室の方は一名だけ です。彰常王の将校生徒時代のお写真です。昭和15年10月 25日(陸士54期卒業の1ヶ月後)に臣籍降下が認められ昭和 天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せ られました。以降、粟田 彰常を名乗られました。因みに粟田 侯爵家は日本で最後に創設された侯爵家でした。 |
このすぐ後に卒業そして臣籍降下となりますので皇族として 最後の頃の生写真と思われます。彰常王のお写真は少ない ので貴重な一枚と思います。 |
殿下は敗戦時、陸軍大尉(勲一等旭日桐花大綬章)で軍歴を終えました。 |
昭和22年5月3日に日本国憲法が施行され華族制度が 廃止された為、粟田侯爵は華族の身分を失しないます。 戦後は東京農業大学を卒業し東京都の建設局に勤務し 飼育係として上野動物園に入職。畏れ多くもニワトリや ヤギなどの飼育を担当。家庭では2人の男子を儲けられ 平成18年8月30日に御逝去されております。 |
こちらも彰常王殿下が先頭で三八式歩兵銃を担いで進軍する写真です。 |
畏れながら殿下は端正なお顔立ちで二枚目だと思います。 |
生徒隊長の國方 慶三 陸軍大佐です。後に歩一 連隊長を務めこのアルバム所持者の親分(連隊 長)となります。敗戦時は陸軍少将で台湾軍管区 兵務部長でした。 |
○○部長閣下とありますが…何方か不明の将 官が視察されております。と |
NHKのライブカメラの映像から、左上は現在の自衛隊の富士演習場 の画像で、右上は富士山の様子です。今も昔も変わらず霊峰富士は 存在し麓で切磋琢磨する防人達を見守っています。 |
二冊のアルバムにある情報から推測するとこの アルバムの持ち主だった方は、旧制呉港中出身 (甲子園など野球で有名な)、陸軍予科士官学校 から陸士本科と進み56期を卒業された方です。 |
〜大元帥陛下御臨席の観兵式〜 |
若かりし日の昭和天皇に三笠宮殿下、海軍の高松宮殿下 陛下の右後方には閑院宮殿下等の馬上姿が見えます。 |
椅子にお座りになり閲兵する大元帥陛下です。 |
天皇旗の近衛騎兵を先頭に皇族の殿下達を従えた昭和天皇の 白馬の隊列が多くの将兵を睥睨し荘厳に進みます。 |
馬上で答礼をする大元帥陛下 |
昭和17年12月…同期生1672名と共に晴れて 卒業します。陸軍曹長の階級に座金です階級は 陸軍曹長の上で准尉の下にあたる見習士官で す。御両親と東京での記念撮影の一枚です。こ の後、原隊である歩兵第一聯隊に赴任し2カ月 後に将校団の許しを得て陸軍少尉に任官します 。歩一は昭和14年から大陸に出兵し続けていま す。木坂氏は中国で少尉に任官し。移動が無け れば第一聯隊は昭和19年に上海よりフィリッピン に上陸し敗戦は同地で迎えます。この方も存命で あれば支那から比島に渡り、圧倒的な物量と火力 を誇る米軍と戦ったと思われます。御無事であれ ば敗戦時は陸軍大尉です。そこで彼の5年に及ぶ 短い軍歴と戦争が終わった筈です。 |
〜北満の隊附勤務(歩兵第一連隊)〜 |
このアムール川(黒竜江)を挟んだ対岸はロシア(ソ連)領です。 |
東京麻布の歩兵第一連隊はノモンハン事件の発生後 連隊主力を昭和14年8月に北満に上陸させました。 |
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歩一の士候53・54期生達です。 |
北満の隊附勤務を終えて2日目。この後、陸士本科に進む事に なります。立襟の歩兵科クワ型に原隊を示す第一連隊のNO.に 士官候補生襟章、肩に伍長の肩章を付けた冬の軍衣袴姿が凛 々しい士官候補生です。 |
こちらの週番士官肩章を掛けた若い少尉は、歩一の兄と 慕う先輩であり…小隊長として戦場で散華したようです。 |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |