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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V |
旧軍の遺構や資料館など・・・関東編(3ページ目) |
(首都圏を中心とした関東に
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先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから 64年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳 しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての 諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣 や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。 各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが 意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国 の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も 崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが 進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で 再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる 範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと 思います。 |
〜陸軍調布飛行場の遺構〜
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東京都調布飛行場です。旧陸軍調布飛行場の滑走路をそのまま利用し ています。メインの滑走路(1000m)、サブ滑走路(675m)…です。飛行 場全体としては旧軍時代の調布基地よりかなり敷地は狭くなっています。 現在の警察学校よりずっと先まで基地でした。また現在の甲州街道を越 えて旧甲州街道の際まで掩体壕がありましたので…かつての調布基地 の広大さが良く判ります。(当時は関連施設を含めると約60万坪を基地と して使用していたと謂います。) |
双発の小型機が着陸したのを写した写真です。低いフェンスで囲まれて 周りは北側は公園になっています。周りに高いビルは勿論、何もないの でこの周辺は…本当に都内??と初めて連れて行く人には必ず聞かれ ます。本当に広大な空き地が多く…群馬や埼玉、茨城、千葉にいるよう 錯覚に陥ります。まあ三鷹〜府中の周辺は学園都市みたいな感じで… 海上技術研究所、宇宙航空研究開発機構、国際基督大、東京神学大、 ルーテル学院大、杏林大、国立天文台と広大な敷地を持つ大学や高校 や各種研究施設が集中しています。そして深大寺や神代植物公園、野 川公園、多磨霊園と東八道路を府中の試験場に向かうまでに全く高層 ビルが無く…爽やかな地方都市のバイパスを走っている感じです。また この辺にまで来ると地方の郊外型大店舗と同じく大駐車場が完備したも のが目に付きます。都心の新宿辺りから裏道を使えば30〜40分で来れ ます。久我山や高井戸あたりまでは、こうした大型店は見られません。 この周辺は車で無いと生活に支障来たすエリアである事が良く判ります。 私は必ず深大寺蕎麦を食べて…この広い自然を満喫して帰宅しています …何しろ遠い伊豆や箱根、また奥多摩などに行かなくても車や二輪で僅 か20〜30分でディープな自然に触れられ心癒されるエリアであります。 |
この看板を見ると…此処が国土交通省の所管の空港でなく 石原都知事の管理する都営コミューター空港である事を認 識します。 |
戦後、約60万坪という広大な陸軍の調布基地は占領軍である 米軍の管理下になり飛行場として使用されていました。一部は 東京オリンピックの開催で代々木のワシントンハイツの機能が 移転され関東村として米軍住宅施設として活用さていました。 飛行場は戦後10年で米軍との共同使用で運輸省が管轄とし て使用しました。その後、昭和48年に全面返還となり、国と東 京都に三鷹・府中・調布の三市を加えて協議を繰り返し平成 4年に国から都が正式に管理運営が引き継がれました。この間 にも昭和54年から現在も運用している新中央航空の調布〜 新島便の運航が不定期便で開始され、昭和59年から調布〜 大島間、平成7年からは調布〜神津島間も運行が開始されま した。平成13年に正式な飛行場として都営コミューター空港と して開港平成18年には調布飛行場内にあった国土交通省東 京航空局や気象庁の出先部門が全て廃止され完全に東京都 に全ての権限が移管されています。 |
現在、見る事が可能で現存する調布基地の掩体壕は4基あります。 そのうちの二つが調布飛行場の北部にある都立武蔵野の森公園に あります。そのパンフレットになります。結構、お金が掛かったパンフ です! |
飛行場のメイン道路にある隊門(正門)です。現在は バス停などがあり見過され易いのですが…今も当時 を偲ぶ遺構として存在しています。 |
門柱はありますが、ゲートはありません。門柱には当時の 看板は無く変わりに現在の東京調布飛行場の看板があり ます。…立派な門柱です! |
上は向かって正面右側の門柱です。下は左側の門柱になります。 |
飛行場脇にはかつての外周水路が今も利用されています。 |
空港ターミナルです!…バス停と駐車場が少しあり…いつも 閑そうに京王タクシーが5〜6台以上客待ちをしています。あ れで商売になるのか…関係ないのですが…心配になります。 |
小さいです!!…初めて来る人は…??…思うみたいです。 |
大島か新島か神津島から到着したDo(ドルニエ)機です。 |
搭乗・到着ゲート兼搭乗受付です。 |
バス停から見た飛行場管制塔です。 |
都営ですので東京都のパンフレットがあります。裏に夢破れた 2016年東京五輪誘致の運動のマークが寂しげにあります。 |
★印が付いた所が飛行場周辺の遺構が残る場所です。 |
〜掩体壕(大沢1号)〜 |
こちらは調布飛行場に隣接する都立武蔵野の森公園にある 掩体壕二基です。其々、大沢1号と2号と名前を付けられて います。 |
〜掩体壕(大沢2号)〜 |
野川公園と隣接する武蔵野の森公園は共に旧調布基地の一部でありました。 |
〜府中市指定史跡・白糸台掩体壕〜 |
甲州街道と旧甲州街道の間に残る掩体壕です。甲州街道(R20)のすぐ 脇にある形ですが一段低い窪地にある為、通常、R20を走行していても まず気が付く事はありません。御覧のように住宅と住宅の間にあります。 と言うよりは…掩体壕のある場所にドンドン迫るように住宅が後からドン ドン作られたと言うほうが正確なのだと思います。基地からは最も遠い 秘匿掩体壕となります。 |
上の写真の一段高い所を人と車が通過しています。ここが 甲州街道(R20)です。右が都心に向かう方で、左は山梨 方面です。逆に手前側に100m程、戻ると旧甲州街道が 走っています。 |
この掩体壕と下の掩体壕は基地から遠くにわざわざ戦闘機を隠す為の 秘匿掩体壕です。下の画像のように農道の様な道を人力で押しながら これらの掩体壕へ運び本土決戦に備え隠しました。調布基地から秘匿 掩体壕へ百式司偵を移動中の独歩17中隊の整備員達。昭和20年5 月頃の画像ですが…P51の出現で大きく環境が変わりました。 |
〜民有地で非公開の白糸台掩体壕〜 |
こちらは民家というより工場経営されている方の民有地で掩体壕を活用して 工場にその入り口部分を合体して今も倉庫や作業場として利用されている為 一般公開されていません。 |
上の写真を見ると手前の民家の掩体壕の終わる側を埋めている様子が 良く判ります。雑草が覆い繁っていて遠目からは判別困難ですが、実際 はこの雑草の下には掩体壕の外れがあります。 |
掩体壕のTOP部分です。右が工場の一部で接合されているのが判ります。 またTOPは鉄骨が露出し経年の痛みで水漏れでもするのでしょうかビニー ルシートのようなもので覆われています。 |
右のトタンの壁に窓の部分が工場です。正面に半地下の掩体壕が 工場と接している部分があります。雨よけの為か、この部分だけ 雨よけの庇になっていて付け足しで作られています。 |
〜どんぐり山の高射砲陣地跡〜 |
調布基地の東側、飛行場を見下ろす高台にある 通称:どんぐり山には調布基地を守る高射砲陣 地が設置され当時、6基の高射砲が設置されて おりました。現在、このうちの4基の土台がこの 保育園の敷地の中に残っております。 |
↑ 上の保育園の画像をクリックすると 保育園の公式HPが開きます。 |
この地にあった高射砲部隊は東部第1903部隊(晴1903部隊) でした。正式名称は高射砲第112聯隊です。この高台から見え る目の前の小学校、ここに兵舎がありました。そしてこの小学 校の建物の裏側に調布飛行場が見えました。 |
高射砲第112聯隊は敗戦時、久我山高射砲陣地で唯一、 五式十五糎高射砲が二門配備された部隊でした。 |
今や保育園の園庭の国旗掲揚ポールの土台に転用されて いる高射砲の砲座跡です。その大きさから八八式七糎半 高射砲若しくは、九九式八糎高射砲と思われます。 |
上が八八式七糎半高射砲です。下が九九式八糎高射砲 です。高射砲第112聯隊は75mm砲が5個中隊、88mm砲 を4個中隊持っておりましたので何れも配備可能でした。 この他に夜間空襲に備えて照空隊、標定機を扱う隊が附 属したものと思われます。 |
現実的には七高や八高では一万m以上の 高々度で飛来するB29を捕らえる事は出来 ません。唯一、下にある十二高(三式十二 糎高射砲)のみがB29を補足迎撃する事が が可能でしたが東京西部地区を担当する帝 都防空の最重要の高射砲第112聯隊でも 装備は3個中隊のみでした。他の帝都防衛 の高射砲聯隊の多くは1個中隊の配備しか されていない状態でした。 |
こちらも花壇の一部になっていますが砲座跡です。 |
こちらの砲座跡は何かのアンテナの塔に代用されています。 |
こちらも4つ目の砲座の跡です。何かのオブジェで鐘の 台座に生まれ変わっています。 |
保育園の敷地の外れ部分で調布飛行場を見下ろす場所に 高射砲第112聯隊の調布派遣の一個中隊の記念の石碑が あります。この部隊の戦友会が戦後にこちらの保育園に土 地を寄付した元三鷹市長の好意で半永久的に設置を認めら れ、以来、戦友会が高齢で解散するまで毎年の敗戦記念日 はこの石碑の前で会が行われ…この地の防空戦闘で戦死さ れた方の慰霊と共に園児達も参加して交流がありました。 |
石碑の裏には6基の高射砲を派遣された中隊の指揮官であった中尉殿の 名前と中隊の生き残りの代表者など発起人等の名前に全中隊の名前が 刻まれています。 |
大戦末期に防戦の戦いが本土決戦へと大きく 転換されていきました。飛行第244戦隊は調布 を離れ関西中京地区の防空戦から沖縄特攻支 援の戦いへ国内を転戦します。この時期に合わ せて昭和20年4月、この地で調布基地を守った 高射砲中隊も…碑文にあるように富山に転進し そこで敗戦を迎えています。 |
下は石碑脳あら側から見た調布飛行所の辺りです。 |
〜調布基地をベースに活躍した帝都防空の若き勇者達〜 |
大東亜戦争の期間中に帝都の防空の必要性が 真剣に問われたのは昭和17年4月18日に行わ れたドーリットル空襲が奇襲と言う形で成功した 事からです。開戦以来、全戦連勝で破竹の勢い の日本軍に対して米軍は空母に陸軍の双発爆 撃機を搭載して日本本土を初空襲するという奇 襲作戦を敢行しました。空母”ホーネット”に米 陸軍のジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆 撃機16機が搭載され発進し、東京府東京市、 神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市 、三重県四日市市、兵庫県神戸市を縦断する ように爆撃に成功しました。日本側の被害は、 50人の死者、家屋262戸の被害と小さいもの でしたが…陸海軍首脳部に与えた衝撃は大き く陸軍は早速、東部軍司令官・中村 孝太郎 陸軍大将により陸軍防空学校高射砲第七聯隊 の高射機関砲を皇居周辺に配備させ、独立飛 行第四十七中隊を防衛司令官の直轄の隷下と して帝都防空の任当たらせ、この任に適う基地 として成増飛行場を選定し工事を開始し完成を 急がせました。また調布や柏などの在来の航空 基地には帝都防空部隊の更なる整備を急がせ ました。 |
調布基地と言えば244戦隊、三式戦”飛燕”とマ ニアならばすぐに頭に浮かぶほど有名な部隊で ありました。この飛行第244戦隊が調布飛行場 の主だった主達であったといっても過言で無い でしょう。この244戦隊は特に禁闕守護(=皇居 の警護)を最重要任務としていた為、”近衛飛行 隊”と自他共に称していた精強部隊でした(通称 号”師三四二一三部隊”)。 |
昭和16年8月、陸軍飛行第144戦隊として編成さ れました。昭和17年4月、西日本方面の防空専任 部隊(近畿地区の飛行第246戦隊・九州北部地区 の飛行第248戦隊等)の新編に伴なって飛行第 244戦隊と改称されました。 操縦者の錬度が非常に高かったと言われますが、 本格的な本土防空戦が始まる頃には、ベテラン 搭乗員の大半が他戦隊に引き抜かれ、錬度が落 ちていたのが実情でした大東亜戦争中に戦隊全 体で100機を超える敵機を撃墜破(空対空特攻含 む)し、対B-29戦では、陸軍航空部隊随一とも言 われる戦果を挙げました。戦隊長は、泊重愛少佐 、村岡進一少佐、藤田隆少佐、小林照彦少佐が 有名です。大戦末期に着任し当時陸軍最年少 (24歳)の戦隊長であった小林少佐(最終階級) が特に有名です。 部隊編成時より調布飛行場を本拠として展開しま した。当初の装備機は九七式戦闘機でありました。 昭和18年7月に三式戦”飛燕”が制式化されると、 全機機種改変を行われました。不調の多かった水 冷エンジンに悩まされつつも整備陣の努力により、 同戦闘機装備の部隊としては高い稼働率を維持し 結果、高い戦力を維持できました。 昭和19年11月初頭からは来襲するB-29に体当た りを含めた迎撃(震天制空隊)を開始、飛行第244 戦隊の名前と活躍振りは連日新聞紙面を賑わせま した。部隊は昭和19年12月頃から浜松・知覧等に 移動・転戦し、アメリカ海軍機動部隊の迎撃や中京 地区の防空任務にあたるようになります。しかし対 艦上戦闘機というより対戦闘機戦闘が得意としなか った飛燕は消耗していきます。昭和20年4月頃から はB-29にもP-51が随伴するようになり、さらなる苦 戦を強いられました(244戦隊によるP-51撃墜の記 録は0機)。 昭和20年4月下旬、五式戦闘機が制式化されるとた だちに全機改変し、それまで苦手であった対戦闘機 戦でも有利な戦いを展開するようになりました。同年 5月〜6月には天号作戦に参加。沖縄戦の特攻機援 護等を受け持ちました。沖縄戦終結後は小牧〜八日 市と転戦し、編成から一度も外地へ派遣されることな く敗戦を滋賀県八日市で迎えました。そして同年8月 末に戦隊は…解隊されました。
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敗戦後、八日市基地で米軍の命令でスピナーと 発電機を取り外し引き渡しを待つ飛行第244戦隊 第三中隊の五式戦T型乙です。帝都防空の華と 謳われし飛行第244戦隊の最後の戦いは昭和20 年7月15日に知覧基地より滋賀県の八日市飛行 場に後退し本土決戦に備えて第11飛行師団第30 戦闘飛行集団の隷下に入ります。翌16日、訓練飛 行中にP-51と戦闘になり空戦を行った為、師団長 から出動禁止命令を受けていました。しかし7月25 日に的機動部隊の艦載機が来襲すると戦隊長の 小林 照彦 陸軍少佐は全隊員の意をくみ取り出撃 を決意、自らが先頭に立ち残された飛行第244戦 隊の全ての残存兵力である五式戦30機以上をも って発進し、和歌山上空から大阪方面へ攻撃に向 かうF6F24機を飛行場上空で補足、迎撃空戦の末 小原 伝 大尉と生田 准尉が戦死し失うも敵12機を 撃墜し帝國陸軍航空戦闘機隊の最後の大空戦の しめを飾りました。 |
〜ありし日の…調布基地の勇者達の画像〜 |
調布基地の独立飛行第17中隊が使用していた夜間着陸表示灯です。 上から見るとTの字に見えるようにカラーライトが付いています。これが 回転しTの字(旧軍では飛行機を図示する時にTと記した)が示す方向 が飛行場の位置だけでなく進入経路を示してくれます。 |
昭和17年秋の調布基地。九七式戦闘機乙に乗込む 244戦隊第二中隊の鷲見 忠夫 軍曹。 |
こちらも昭和17年秋頃の調布基地の244戦隊の九七戦乙です。 ドーリットル初空襲で地上の高射砲部隊から味方機が誤認され 攻撃されてから誤射の無いように胴体・主翼共に白帯の中に日 の丸を描くようになりました。同様に主翼の前縁がオレンジ色に 塗られているのも空対空の敵味方識別用です。 |
右上の人は鷲見 軍曹で左上は、独飛101中隊の志村 一三 曹長(九七式司偵) で昭和17年5月ごろに地調布基地で撮影された写真のようです。 |
昭和17年初夏にの調布基地。独飛101中隊の九七式司偵の列線で並ぶ姿です。 |
244戦隊第二中隊の九七戦乙です。三式戦に変わる前の古い戦隊 マークを使用しています。黒丸は二つの4を示し、白線二本が2を示 します。これで244戦隊を現しました。胴体の日の丸の後ろの赤帯は 第二中隊を示しています。 |
17年8月4日に独飛101中隊は、第17飛行団司偵中隊と改称され 以降、新型の三菱・百式司令部偵察機U型(キ-46U)に機種変 更がなされていきました。上は調布基地の97司偵と100式司偵。 |
昭和18年1月、244戦隊第一中隊全員80名(搭乗員12名、整備員 68名)による記念撮影です。 |
昭和18年の元旦に調布基地の97戦乙に注連飾りを付けて 記念撮影する244戦隊第二中隊の鷲見 軍曹。 |
244戦隊第一中隊の空中勤務者全員による記念撮影。前列 左から根岸 延次 伍長、佐々木 准尉、小松 豊久 中尉、 中隊長の渡辺 七郎 中尉、安西 為夫 少尉、青山 少尉、 浅野 曹長、後列左より新宝 篤 伍長、宮田 正二 伍長、 寺田 軍曹、人羅 軍曹、山田 伍長、計12名です。 |
同じく調布基地に配備された第十七飛行団の司偵中隊の 百式司偵の機載用のバッテリーを整備する整備兵。 |
昭和18年春の調布飛行場の夕暮れに第十七飛行団の 百式司令部偵察機U型にカバーを掛ける整備員達。 |
18年4月、244戦隊長の藤田 隆 少佐(手前)と 第三中隊長に着任した村岡 英夫 大尉(調布飛 行場にて)です。 |
18年4月の調布基地の244戦隊の一コマです。まだ貧弱な九七式戦 乙が主力で奥に並んで見えます。 |
昭和18年3月に柏飛行場から調布飛行場に移動して きた独立飛行第四十七中隊の二式戦”鍾馗”二型甲 です。これで調布基地には244戦隊を中心に第十七 飛行団司偵中隊、独飛47中隊の三部隊が展開し正 に帝都防空部隊の中心の呈をなしてきました。 |
18年夏、独飛47の二式戦を整備する整備員達。当時、陸軍航空隊の最速最強と 謂われた最新鋭の二式戦と三式戦を装備し、整備の難しい両機を高い整備技術で 高い稼働率を上げていました。 |
調布基地の南側地区に作られたテント張りのピスト。碁を 打って寛ぐのは鈴木中尉(背中側)と真崎 康朗 中尉。見 ているのは整備の刈谷 正意 少尉。テントの向こう側に 複数の縛帯がぶら下がっています。独飛四十七中隊の面 々です。 |
昭和18年5月、陸軍航空総監兼航空本部長 安田 武雄 陸軍中将が調布へ 防空部隊の検閲に来訪された時の記念撮影の写真です。バックは将校集会 場で第十七飛行団の各飛行部隊の主要幹部が揃っています。前列右から 244戦隊長の藤田 隆 少佐、第5戦隊長の小松原 虎男 中佐、第一航空軍 参謀長 田副 登 少将、航空総監兼航空本部長 安田 虎男 中将、第一航空 軍司令官 李 王垠 中将、第十七飛行団長 佐藤 正一 少将、第一航空軍参 謀です。 |
調布基地でタキシングする独立飛行四十七中隊の二式戦”鍾馗”二型甲 |
昭和19年8月に撮影された244戦隊本部。ピスト(空中勤務者待機所)から 写したものです。敵機の攻撃に備え黒色系の迷彩がなされています。屋上 に搭乗員が離陸時に風向きが判るように吹き流しがあります。右に244戦 隊の駐機中の三式戦(T型)の尾部が見えます。 |
土嚢を重ねた掩体壕の内側の三式戦T型です。下の写真と同様にまだ244戦隊の 部隊マークも描かれていません。各務原の川崎・岐阜工場から送られてきたばかり の機である事が判ります。 |
安全な国内…しかも帝都である為か国外では既に第一線から姿を消した 九七式戦闘機が本土防空隊では昭和18年に入ってもまだ主力戦闘機の 座にありました。この調布基地でも昭和18年7月から順次、三式戦T型に 切り替わっていきました。上の画像は土嚢を積んだ無蓋掩体壕の左が新 品のキ61-Tで右が旧式の九七式戦闘機です。 |
昭和18年秋頃の244戦隊の第一中隊(つばくろ隊)のキ61-Tです。 |
昭和19年の夏、三式戦の前で写る244戦隊第一中隊の幹部将校 です。右から中隊長の小松 豊久 陸軍大尉、四宮 陸軍中尉、竹田 五郎 陸軍中尉です。 |
独飛17中隊の百式司偵U型のまえで記念撮影をする244戦隊 第三中隊長の村岡 英夫 大尉(調布基地にて)。 |
19年6月頃の調布飛行場 |
百式司偵V型乙…高度1万m以上の高高度で飛来するB29を邀撃する為 当時最も1万mまで上昇時間の短く飛行性能が良かった百式司偵に20mm 機関砲を搭載し急場しのぎの防空戦闘機に改造しました。見ての通り機種 部にホ-5の20mm機関砲を2門搭載しています。操縦席の計器盤に射爆 照準器が付けられているのがわかります。U型のエンジンを1500馬力まで にして換装し最大速度を630km/hrに伸ばしてあります。 |
昭和19年9月、調布基地で三式戦と百式司偵V型乙の弾道テストをしている ものです。三式戦は同じ調布基地をベースにしている飛行第18戦隊のもの。 |
砂塵を巻き上げて調布基地を発進する244戦隊の三式戦T型です。 B-29が到来する高度1万m以上に上昇する為には約50分を要しまし た。 |
右上は、昭和20年3月に調布飛行場で独飛17中隊の整備班長の川口 俊男 中尉と 百式司偵V型の写真。左上は、独飛17中隊が第30戦闘集団に編入されたのを機に 新マークに変わりました(八咫烏)。そのマークの百式司偵V型の前で近所の中学生 と写真に写る大谷 清 軍曹(整備班)。 |
昭和20年4月中旬、愛機の三式戦T型丁の前で記念撮影をする 大尉時代の小林 照彦 244戦隊長と整備の鈴木 茂 中尉。 |
昭和19年12月3日のB-29迎激戦は244戦隊の名前を一気に 高めました。3機の特攻機がB-29ni体当たりを敢行し撃墜する 戦果を挙げて3機ともパイロットが生還しています。上の写真は 体当たりから帰還直後の四宮 徹 中尉(左)と板垣 政雄 伍長 です。四宮機の三式戦は写真でお判りのように左の主翼が約 2m程吹き飛んでいます。 この日、四宮中尉は帝都上空9500mで待機、約9000mで飛来 したB-29の5機編隊に前上方より突入し右翼に被弾しながらも 最後尾のB-29に特攻、敵の右外側のエンジンに当たり左主翼 の翌端を吹き飛ばされましたが機をコントロールし中尉は調布 基地に無事に帰還しました。板垣伍長は印旛沼上空1万200m で11機のB-29の悌団を発見、やはり前上方より接近し機首の みに残した12.7mm機銃で射撃しようとしたが故障で弾丸が出 ず、仕方なくそのまま肉迫特攻を敢行、やはりしんがりの機で 右内側の発動機と主翼の付け根に激突…B-29の主翼はもげ 板垣機も空中分解するが伍長は偶然に操縦席から外に放り出 され落下傘降下で生還しました。 尚、この後…四宮中尉はフィリッピンでの対艦船特攻である神 風特攻隊・振武隊に志願し244戦隊を離れ比島へ赴任します。 また板垣伍長は3週間ほどの休養の後に再び特攻隊に復帰し 昭和20年1月27日に二度目の体当たりを成功させ生還してい ます。 |
昭和19年12月3日の3人目の生還者の中野 松美 伍長の当日の出撃前の写真です。この 日は、二度の体当たりに失敗し、三度…高度 をとり9500mから最後のB-29の悌団(12機) に向かって降下し悌団中央のB-29の胴体下 に潜り込みフルスロットルで機首を上げ敵機 の水平尾翼をぺラで叩き折りました。この敵 機はしばらくして安定を失い機首を下げて墜 落していきました。伍長の機は振動が激しく 制御が不能となり茨城県の水田に不時着し 生還を果たしました。 |
調布基地の飛行第53戦隊は二式複戦装備の部隊です。この特攻隊 8機が昭和19年12月3日に全機出撃し一時間以上を掛けて高度1万 mに達したものの待機空域をB-29が通過せず7機が失敗に終わりま したが、沢本 政美 軍曹の機が体当たりに成功。翌4日に体当たりと 戦死が確認されました。上の写真の左から4人目が沢本軍曹です。 |
244戦隊長の小林 照彦 大尉(昭和19年11月28日に着任)。 史上最年少の飛行戦隊の戦隊長で航空士官学校53期卒。 若き24歳の大尉でした。赴任直後の12月3日の迎激戦では、 指揮官陣頭で高度8000mでB-29に攻撃を仕掛けますが敵 の火砲でエンジンをやられ一旦、調布飛行場に引き返し予備 機に乗り換えて再出撃するも…完全装備の三式戦の為、高 高度へ上がれず7500mまででアップアップの為、銚子沖に出 て離脱機のB-29を探すも敵を捕捉できず引き返しています。 当日の244戦隊の戦果は撃墜6機、撃破2機でありました。 |
上は小林 戦隊長の僚機である安藤 喜良 軍曹。 下は安藤 軍曹の愛機の三式戦T型の写真です。 安藤 軍曹もB-29に体当たりを敢行し愛機は松戸 周辺に墜落し戦死を遂げています。 |
244戦隊の鈴木 正一 伍長と愛機の三式戦T型丙。 昭和20年2月16日、この日五度目の出撃を小林 戦 隊長の僚機として迎撃に上がります。SB2C約20機を 護衛するF6Fと乱戦になり火達磨となった鈴木 伍長 の機は何とか人家の無い所まで運び足利市郊外の 水田に突っ込み戦死しました。4日後に20歳の誕生日 を迎える若さでしたが、B-29を単独で一機、協同で 4機を撃墜し、3機を撃破しているエースでした。 |
244戦隊の小林 照彦 大尉の愛機です。防空戦隊の戦隊長で 唯一のB-29の体当たり撃墜記録を持っています。飛燕のB-29 撃墜マーク6機に一機だけ体当たりマークが記載されています。 |
こちらの三式戦も小林 戦隊長の三式戦T型丁です。昭和20年2月16日 に撃墜したF6Fの撃墜マークが追加されています。8機のB-29とF6F2機 の10機がマーキングされています。乗っているのは整備の土屋 伍長で す。 |
四宮 中尉が第五震天隊より離脱後、昭和19年12月27日に 吉田 曹長が戦死。そして昭和20年1月に…244戦隊の震天 隊は4名編成で右から隊長の高山 正一 少尉、丹下 充之 少尉、佐藤 権之進 准尉、板垣 政雄 軍曹となりました。 |
昭和20年1月9日の迎撃の戦果は撃墜3機、撃破4機 でした。このうち高山 少尉と丹下 少尉の体当たりによ る撃墜2機が含まれています。高山 少尉は生還を果た しましたが丹下 少尉は戦死し二階級特進し大尉になっ ています。上の画像は244戦隊長室の神棚です。手前 に玉串とともに捧げられているのは丹下 少尉の撃墜し たB-29のプロペラ先端です。 |
戦死した丹下 少尉に代わり負傷して離脱していた中野 松美 軍曹が復帰し4名の体制に復しました。上の写真は第日本婦 人会より慰問で贈られた人形と丹下 少尉の遺影を持ち写る ものです。右から板垣 軍曹、中野 軍曹、高山 少尉、佐藤 准尉です。この後、1月27日の防空戦で高山 少尉は体当た りで戦死。板垣・中野の両軍曹は二度目の体当たりで生還を 果たします。 |
ピストから出て愛機へ向かう第五震天制空隊の面々。左から 隊長の高山 少尉、佐藤 准尉、板垣 軍曹、中野 軍曹です。 |
244戦隊第二中隊の田中 四郎兵衛 准尉です。 田中 准尉は1月27日、東京郊外の原町田(現 在の町田市)の上空でB-29の14機悌団を見つけ 2機に体当たり攻撃を仕掛け、落下傘降下で東京 湾に降下、漁船に救助されるが頭蓋底骨折の重 傷を負っており再び空を飛ぶ事はありませんでし た。東部軍司令官の藤江 大将から功績戦果が顕 著なりとして武功章を授与されています。 |
小林 雄一 軍曹は、244戦隊から転じて常陸教導飛行 師団に移ったその日に二式複戦で後席に鯉渕 夏夫 伍長を乗せて迎撃にでて千葉上空でB-29に体当たり を敢行し鯉渕 伍長ともども戦死しました。 |
既に圧倒的な戦力の前に落日の帝都防空戦闘隊は対B29に対する 特攻攻撃である震天制空隊による攻撃を余儀なくされました。それは 最早、防空戦闘というよりも若き将兵の死を持って家族・友人・同胞 達を一日でも長く生かすだけに過ぎない時間稼ぎにもならない外道の 戦いと謂えます。…後で平和な時代になり振り返り愚かだとか…謂う 人が…マスゴミや左巻きのバカサヨに多く身受けますが、守る手段が それしか無ければ…愛する家族を守る為になら…今の我々でもやら ねばなら無い時はやるしかなかった。…そう思います。そしてそれを 実行した愛国者であり愛する家族を守った父親であり息子である若き 日本人達を私は尊敬して止みません。…バカな死にかた…だとか、 犬死だとか…口さがない連中の弁を軽蔑します。いつまでも帝都の空 を守り日本の空を守ってくれた若き防人達の事を愛国者達は忘れませ ん。帝都空襲と本土空襲で亡くなった全ての日本人犠牲者と陸海軍の 防空隊の若き命を大空に散らした戦士達に改めて哀悼の意を表します。 合掌 |
〜三式戦”飛燕”の各種動画〜 |
(動画を見る方は、ページTOPの MIDIの音楽をストップしてから 再生し音声もお楽しみ下さい。) |
「三式戦」 Kawasaki Ki-61 Type3 tony fighter 「飛燕」 |
Kawasaki Ki-61 Hien (Tony) landing |
川崎 三式戦闘機「飛燕」 |
〜陸軍造兵廠東京工廠 練馬倉庫及び
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(現 陸上自衛隊練馬駐屯地:
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現在の陸上自衛隊練馬駐屯地の正面ゲートです。このゲートの脇に 以下にある旧帝國陸軍の造兵廠東京工廠練馬倉庫時代の正門と歩 哨所が残されています。この現在の正門の目の前の建物は陸自第一 師団司令部の庁舎です。首都圏の東京都心に近い実戦部隊の駐屯 地である為、防衛大臣は勿論多くの政治家や要人が、よく視察に訪れ ます。この陸自の第一師団は形成14年に政経中枢師団へ改編されま した。この聞きなれない政経中枢師団とは大都市部における市街戦 専門の作戦単位をさします。具体的には、ここ第1師団(練馬)と第 3師団(兵庫・千増)の二つの師団です。市街戦が主任務で、大阪, 東京の中心部に侵入した朝鮮特殊部隊等をを殲滅することが具体 的目標となります。普通科部隊の柔軟な機動力、軽快な戦闘力が 十二分に発揮されねばならぬ作戦単位で、敵背面への攻撃、迂回 、浸透、奇襲など地形、地物を克服、利用したりする必要がありま す。敵機甲部隊と正面から激突する場面は少ないので、編成は軽 いものとなっています。 |
東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫の旧正門前です。現在は練馬区 北町にある陸上自衛隊 練馬駐屯地になっています。 |
いつも渋滞している川越街道沿いにある旧正面ゲートです。 陸自の練馬駐屯地の正門ゲートは、これよりもう少し池袋よ りに戻るとあります。 |
歩哨所がしっかりと当時のまま残っています。 誰が置いたのか椅子にお茶までありました。 |
◆東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫◆ 昭和 5 年 - 現在地に、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成。 敷地面積1万坪の資材置き場でした。 昭和18 年 - 陸軍第一造兵廠構内駅(後に"東武啓志線")が、 敷地内に開業。 昭和20年8月15日 -敗戦。戦後は大蔵省関東財務局に引き継がれる。 昭和21年3月25日 - 陸軍第一造兵廠構内駅を練馬倉庫駅に改称。 昭和25年 -警察予備隊、第一管区隊所駐在地となる。 昭和26年9月 - 警察予備隊が久里浜から移転。敷地面積を 8万坪に拡張。 昭和26年12月15日-練馬駐屯地として開庁。 昭和27年10月15日-保安隊 に改組。 昭和29年7月11日 -陸上自衛隊(保安隊の廃止により)練馬駐屯地 となる。 昭和34年7月22日 - 練馬倉庫駅廃止。 平成14年3月 - 第1師団が政経中枢師団へ改編。 |
陸軍造兵廠は、大正12年3月29日に創設された帝國陸軍の機関の一つ です。小銃・弾薬・火砲等の製造から馬具や軍刀に至るまで、国内4箇 所の工廠と2箇所の兵器製造所に於いて製造にあたりました。陸軍大臣 に直隷し、長官には、陸軍中将が就きました。初代長官は横山彦六中将 です。昭和15年4月1日、第8代長官の小須田勝造中将の時に陸軍兵器 廠に統合されました。前身は、明治12年10月に設置された砲兵工廠で す。砲兵工廠提理が統括しました。本廠である東京砲兵工廠と、支廠た る大阪砲兵工廠の二つが在りました。大正12年3月29日に陸軍造兵廠 に改編され、長を提理から長官に改めました。本廠は、兵器の考案・設計 、長官直轄製造所の管理、所掌事務を行い、東京・大阪・名古屋に工廠 を置きました。 火薬・爆薬の製造を主に取り扱った工廠を火工廠とし、これも東京に置き ました。後に小倉・南満州に工廠を増設しました。夫々の工廠には小銃・ 砲具等の製造所を置き、火工廠は火薬製造所を置きました。この他、 本廠直轄製造所として、小倉兵器製造所・平壌兵器製造所がありました 。昭和11年に、長官の植村東彦中将、首席陸軍技師(勅任官)西村文雄 氏が兵器納入業者から賄賂を受け取ったとして逮捕される事件が起きま した。 昭和15年4月1日に、従来の陸軍兵器廠と統合され廃止されます。この陸 軍兵器廠の下に支廠として各陸軍造兵廠が置かれました。これは、今ま での工廠にあたる格で東京第一・東京第二・相模・名古屋・大阪・仁川・ 南満に置かれました。東京第一の場合、正式には「東京第一陸軍造兵廠 」と称しました。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
地図と空中写真で見るとお判りのように川越街道に 面した市街地にあり埼玉県と練馬区の境がすぐそば になります。 |
一見狭そうに見えますが…中に入ると結構広いものです! |
車止めやドラム缶の障害物のある正面ゲートを抜けて内部に 入ると下にある第一師団司令部の建物があります。 |
東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫の旧正門の内部です。 |
調度、塀の外が川越街道になります。右が池袋方面で 左が埼玉(朝霞・和光)方面です。 |
この建物も戦前からの物です。歩哨の詰所みたいなもの と思われます。 |
塀沿いには戦前に建立された日清戦争の戦没者の慰霊碑 |
この練馬駐屯地ではPKOでゴラン高原やイラクなどに 部隊を派遣しています。また地下鉄サリン事件ではここ の化学防護隊が出動し活躍しました。殉職された自衛 隊員の慰霊碑です。 |
こちらは聞くところによると歩兵第一連隊の建物を移築した物とのことです。 |
かなり老朽化して危なげですが…立派に現役で生きている様は感動します。 |
天井がかなり抜けて穴が開いていました…。 |
今は昔…下は現在の第一普通科連隊(つまり歩兵第一連隊)です。 |
広報資料館です。 |
資料館前には陸自で活躍した国産の74式と61式戦車 と米軍供与のM24軽戦車が展示されています。 |
この史料館は、陸軍第一造兵廠練馬倉庫だった場所で ある事から…そうした内容の展示があるのかと考えます が…そうでなく。陸自練馬駐屯地が第一師団司令部と 第一普通科連隊が存在する事に因んで旧日本軍の第一 師団、特に歩兵第一連隊に関するものがメインとなって おります。 |
陸軍大元帥の最高司令官で在らされた昭和天皇を筆頭に 皇族出身の陸軍将校をクローズアップされて紹介してあり ます。 |
現在の皇室と違い、戦前の皇室の男子は直系の皇太子殿下を 除き必ず陸海軍の何れかの士官学校、兵学校に学び軍人とな りました。こうした宮様の軍人の中には非常に強く軍に対し影響 力を行使された方も多く…転じて政界で活躍される皇族出身の 総理大臣も輩出された事もありました。 |
右の成久王殿下は砲兵大佐だった大正12年、パリ郊外で 自動車事故のため37歳で薨去しました。同乗していた妃の 房子内親王と朝香宮鳩彦王も重傷を負いました。左の四代 目に当たる永久王殿下も昭和15年、日華事変に出征し蒙疆 方面で演習中、軍用機の不時着事故により戦死。享年31歳 の若さでした。二代目当主の北白川宮能久親王も日清戦争 で近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受けて 台湾征討軍の指揮に当たりましたが、明治28年に現地で戦 病死されています(享年49歳)。三代続けて不幸が続いたこ とから北白川宮家は”悲劇の宮家”と言われましたが、戦後 は皇籍離脱し宮家は無くなりました。 |
閑院宮載仁親王は、元帥陸軍大将大勲位功一級。昭和20年5月20日 81歳で薨去。翌月、国葬を賜る。親王宣下による親王では最後の生存 者であり、また大日本帝國最後の國葬となりました。稀に見る美男子と して有名。七代当主の春仁王殿下(陸軍少将)は、戦後に皇籍離脱、 閑院純仁を名乗り、実業家として成功しますが…昭和63年6月、85歳で 逝去されます。実子なく…また養子も取らなかったので閑院家は断絶と なりました。秩父宮雍仁親王殿下は、敗戦時陸軍少将です。昭和15年 に肺結核と診断され、翌年より御殿場で療養生活を送られました。敗戦 時には御殿場別邸にて療養中でありました。戦後は療養生活を送りな がら執筆活動を行っっておりましたが、昭和28年1月4日、病状が悪化し 療養先である神奈川県藤沢市の鵠沼別邸にて薨去。50歳の若さであり ました。雍仁親王は宮号ゆかりの秩父神社に合祀されています。その42 年後の平成7年8月25日、勢津子妃殿下の薨去により秩父宮家は絶家と 相成りました。 |
東久邇宮稔彦王殿下は、陸軍大将で従二位大勲位功一級。皇族の 内閣総理大臣では唯一。大日本帝國最後の内閣総理大臣であり、 戦後の日本国の最初の内閣総理大臣となりました。敗戦処理内閣と して憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣しました。連合国に対す る降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔 を唱え国内の混乱を収めようとしましたが、GHQの強硬的な改革方針 についていけず、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職しました。 昭和22年10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍 を離脱し、以後は東久邇稔彦と名乗りました。平成2年1月20日に102 歳で逝去され、特例として豊島岡墓地に葬られました。右上のお写真 は東久邇宮稔彦王殿下の御長男の東久邇宮盛厚王殿下。敗戦時は 陸軍少佐で第三十六軍の情報参謀でした。昭和22年10月14日の 皇籍離脱後は、北海道炭礦汽船社長室勤務の後 帝都高速度交通 営団監事等を務め、昭和34年に日本狆クラブ会長に就任。昭和44年 2月1日、52歳の若さで逝去されています。 |
歩兵第一連隊の軍旗です。明治7年12月19日 軍旗を拝受以来、敗戦まで歴代34名の連隊長 がこの軍旗の下…栄光を刻みました。その歴 代の連隊長の中には後で出てくる東條 英機 大将、バターン死の行進の責任を取らされて処 刑された本間 雅晴 中将、沖縄戦で玉砕された 牛島 満 大将などが名を連ねます。 |
栄光の歩兵第一連隊(玉5914)は、昭和19年 11月1日 に軍旗と共に レイテ島オルモックに 上陸…この地で米軍と死闘をくり返し戦力を消 耗、同年末の生存者は300余名に激減しました 。昭和20年1月、セブ島への転進を命じられまし たが乗艇をことごとく破壊され、セブ島に着いた のは聯隊長以下僅かに72名のみでありました。 以降は敗戦までゲリラ戦を継続して戦い抜きま した。…全軍に軍旗奉焼が命じられましたが… 聯隊長が独自の判断で旗竿のみを焼き軍旗は 細断し将兵達に分け祖国に持ち帰えさせました。 後日これらは継ぎ合わされ保存され今日に至り ます。 |
聖将と謳われた乃木大将の辞令です。 |
有名な殉死の遺書です。元帥の称号を賜る話はありましたが 乃木大将本人が固辞した為、元帥になっておられません。 大正元年 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに古式に 乗っ取り日本刀で自刃しました。享年62歳でありました。遺書の 内容は、以下です。 遺言条々 第一 自分此度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候 然る処明治十年役に於いて軍旗を失ひ其後死処得度心掛候も 其機を得ず皇恩の厚に浴し今日迄過分の御優遇を蒙り追々老 衰最早御役に立の時も無余日候折柄此度の御大変何共恐入 候次第茲に覚悟相定め候事に候 第二 両典戦死の後は先輩諸氏親友諸彦よりも毎々懇諭有之候得 共養子弊害は古来の議論有之目前乃木大兄の如き例他にも不 尠特に華族の御優遇相蒙り居実子ならば致方も無之候得共却 て汚名を残す様の憂へ無之為天理に背きたる事は致す間敷事 に候祖先の墳墓の守護は血縁の有之限りは其者共の気を付可 申事に候乃ち新坂邸は其為め区又は市に寄付し可然方法願度 候 第三 資財分与の儀は別紙の通り相認め置き其他は静子より相談可 仕候 第四 遺物分配の儀は自分軍職上の副官たりし諸氏へは時計メート ル眼鏡馬具刀剣 等軍人用品の内にて見計ひ儀塚田大佐に御依 頼申置候大佐は前後両度の戦役にも尽力不尠静子承知の次第 御相談可被成候其他は皆々裁談に任せ申候 第五 御下賜品(各殿下よりの)御紋付の諸品は悉皆取纏め学習院 へ寄附可然此儀は松井猪谷両氏へも依頼仕置き候 第六 書籍類は学習院採用相成る分は可成寄附其余は長府図書館 へ同断不用の分は兎も角もに候 第七 父君祖父曾祖父君の遺書類は乃木家の歴史とも云ふべきもの なる故厳に取纏め真に不用の分を除き佐々木侯爵家又佐々木 神社へ永久無限に御預申度候 第八 遊就館は出品は其儘寄附致し可申乃木の家の記念には保存 無此上良法に候 第九 静子儀追々老境に入り石林は不便の地病気等の節心細との儀 尤もに存候家は集作に譲り中野の家に住居可然同意候中野の地 所家屋は静子其時の考に任せ候 第十 此方死骸の儀は石黒男爵へ相願置候間可然医学校へ寄附可 致墓下には毛髪爪歯(義歯共)を入れて充分に候(静子承知) 恩賜を領けと書きたる金時計は玉木正之に遣はし候筈なり軍服 以外の服装にて持つを禁じ度候右の外細事は静子へ申付置候 御相談被下度候伯爵乃木家は静子生存中は名義可有之候得共 呉々も断絶の目的を遂げ度大切なり右遺言如此候也 大正元年九月十二日夜 希典 湯地定基殿 大舘集作殿 玉木正之殿 静子殿 また御夫妻の辞世は、以下、 辞 世 うつし世を 神さりましし 大君の みあと慕ひて 我はゆくなり 乃木希典 いでまして 帰ります日の なしと聞く けふの御幸に あふぞ悲しき 乃木静子 |
明治大帝に殉死された当日の朝の御夫妻の 写真と現場となった乃木邸です。 |
私が乃木希典であります Natural voice of the Nogi Maresuke |
レイテで戦った第一師団歩兵第一連隊の遺品…十一年式軽機関銃 に擲弾筒…90式鉄帽など錆付いて時代を感じさせます。 |
三八式歩兵銃の残骸に銃剣など…。 |
こちらも旧第一師団、第一連隊のものです。 |
末期の九九式歩兵小銃と砲兵刀 |
明治23年、東京砲兵工廠製の砲兵刀です。 砲兵の護身用の刀です。 |
日清・日露戦争は勿論の事、ノモンハン事件から 支那事変そして日米戦と日本の絡んだ重大な戦 争には必ず第一連隊は絡んで参加しています。 |
旅順港外閉塞船”米山丸”の遺片です(第二次閉塞作戦)。 |
明治37年3月27日未明、旅順口を閉塞するため |
理不尽な東京裁判でA級戦犯として訴追され身勝手な 戦勝国側の論理の犠牲となり絞首刑となった元首相の 東條 英機 陸軍大将の国民服です。 |
資料館の中でも端の余り良い場所とは謂えない所に展示され ていたので非常に気の毒に感じました。色々と評価は分かれ ますが…一時は第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣 を兼務し後に外務大臣・文部大臣・商工大臣・軍需大臣に参謀 総長をも兼務した独裁的政治指導者でしたが戦争指導はお世 辞にも上手いとは謂えず内閣総辞職し野に下った予備役軍人 ですが…最高位を極めた人物だけに扱いは余計に酷に見えた のは私だけでありましょうか…。決して東條賛美論者でも庇う つもりもありません。 |
東 條 英 機 散る花も落つる木の実の心なき さそふはただに嵐のみかは 今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ 昭和二十三年十二月二十三日 午前零時一分 |
以下は駐屯地内に残る
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明らかに戦前の建物と微妙に古い戦後??という建物が混在しています。 |
これなどは木造で屋根は瓦の戦前の建物ですが…ドアや壁は厚みが薄く 武器弾薬の倉庫でなった事は確かです。練馬倉庫は資材置き場の様な ものだったようですからたくさんの倉庫があったと思われます。 |
〜過去で無く…現在の我々、国民を守ってくれる自衛隊〜 |
演習などの帰りだったのか車両の整備や物品の整理を する大勢の自衛隊員の姿が目につきました。 |
市街地戦を想定した訓練は…現在らしくコンバットゲーム のようにBB弾を使用して訓練を行っているそうです。 |
整備や跡形付けに追われる隊員が多い中、左上はラッパの 練習をする隊員達が良い音色を出して励んでいました。 |
〜陸上自衛隊練馬駐屯地祭〜 |
陸自練馬駐屯地で記念式典 戦車や飛行部隊など披露 |
平成21年度陸上自衛隊練馬駐屯地祭@ |
平成21年度陸上自衛隊練馬駐屯地祭A |
平成21年度陸上自衛隊練馬駐屯地祭B |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |