トラック諸島に沈む日本の艦船 |
資料提供 元ダイバー様(HN)
|
こちらのページでは、トラック諸島で主に旧大日本帝國の
|
故 Kimio Aisek 氏(2001年逝去) |
1983年当時に撮影されたトラックの海岸です。 |
左は、トラックのカエデ島。旧軍機の残骸が散乱する海岸です。右は、いまだ水平射撃 をしたまま時を止めたかのように錆付く砲身を海に向ける高射砲です。 |
美しいトラックの夕陽と海、右下は、病院跡です。 |
水上機基地の跡 |
約20年前(当時)の元ダイバー様です。本業 は、医療関係者です。 |
資料を御提供して下さりました元ダイバー様よりのお言葉です。 |
『日本から、南東に遠く離れたトラック諸島、今は知る人の少ないこの島々は、かつて大日本帝國の
|
早いもので…最初にトラックの沈船のページを立ち上げてから11年の歳月が経過しました。
|
山元 翔太 氏 近影 元ダイバー様もそうでしたが、山元様もかなりのイケ面 です。私が女性だったら間違いなく惚れています(笑)。 |
この駆逐艦”文月”と”追風”の略図は、『丸メカニック』にあった詳細図を 基に、元ダイバー様が実際に潜り、補足し内部調査に使用した手製の概 略図です。 |
キミオ氏が元ダイバー様へ手書きした 35隻の沈船や航空機の名前です。 1987年6月21日の日付けがあります。 |
トラック大空襲(海軍丁事件) |
当時、日本にとって遥か南方各地の拠点基地に対しての中継点となる 一大根拠地がトラックでありました。ここには帝國海軍の要となる連合 艦隊も全線に向けて送り出される物資・石油・食糧などあらゆるものが 集中され備蓄されておりました。各地で傷ついた艦船も本土に回航する までも無いものであればトラックで修理され、各地へ補給される戦闘機 をjはじめとする航空機は本土より飛来し…トラックに運ばれ中継されまし た。この為、トラックの広大な泊地には軍艦だけでなく多くの貨物船が 集中するまさに帝國海軍最大の策動拠点でありました。昭和19年2月17 日〜18日、米軍は…このトラックを無力化する為に空母9隻を基幹とする 機動部隊による大空襲(ヘイルストーン作戦)を仕掛けました。圧倒的な 戦力での空襲は戦闘準備の整わない日本軍にとって最前線で疲弊した 航空戦力が部隊再建と錬成の為、翼を休めているに過ぎない戦力が多 かった。また近々の米軍の来襲を予想して連合艦隊主力を移動させて いた中での攻撃で…来襲予想を知らされていない輸送艦等の徴用され た商船の多くが犠牲となる形になり…これら一般船員たちの恨み節が聞 こえる結果となりました。この為、二日間の攻撃で軍艦は7隻(巡洋艦3 隻、駆逐艦4隻)に小艦艇3隻と10隻程度の損失にすぎませんでしたが 徴用輸送船を含む商船等は37隻もが海の藻屑になり消えました。 |
その空襲被害による沈没艦船は、以下 海軍の軍艦(小艦艇を含む) 軽巡洋艦 ”阿賀野”、軽巡洋艦 ”那珂” 練習巡洋艦 ”香取” 駆逐艦 ”舞風”、駆逐艦 ”太刀風”、駆逐艦 ”追風”、駆逐艦 ”文月” 第24号駆潜艇、第29号駆潜艇、第10号魚雷艇 民間商船等の徴用船(陸海軍) 海軍特設巡洋艦 ”赤城丸”、特設巡洋艦 ”愛国丸” 海軍特設潜水母艦 ”平安丸 海軍特設駆潜艇 ”第十五昭南丸” 海軍特設給油船 ”第三図南丸”、海軍特設給油船 ”神国丸”、 海軍特設給油船 ”富士山丸”、海軍特設給油船 ”宝洋丸” 海軍特設給水船 ”日豊丸” 海軍徴用輸送船 ”清澄丸”、海軍徴用輸送船 ”りおでじゃねろ丸”、 海軍徴用輸送船 ”瑞海丸”、海軍徴用輸送船 ”国永丸”、 海軍徴用輸送船 ”伯耆丸”、海軍徴用輸送船 ”花川丸”、 海軍徴用輸送船 ”桃川丸”、海軍徴用輸送船 ”松丹丸”、 海軍徴用輸送船 ”麗洋丸”、海軍徴用輸送船 ”大邦丸”、 海軍徴用輸送船 ”西江丸”、海軍徴用輸送船 ”北洋丸”、 海軍徴用輸送船 ”乾祥丸”、海軍徴用輸送船 ”桑港丸”、 海軍徴用輸送船 ”五星丸”、海軍徴用輸送船 ”山霧丸”、 海軍徴用輸送船 ”第六雲海丸”、海軍徴用輸送船 ”山鬼山丸”、 海軍徴用輸送船 ”富士川丸”、海軍徴用輸送船 ”天城山丸”、 陸軍徴用輸送船 ”暁天丸”、陸軍徴用輸送船 ”辰羽丸”、 陸軍徴用輸送船 ”夕映丸”、陸軍徴用輸送船 ”長野丸” |
『画像引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
潜水記録 |
ダイビングをする方は、御存知と思いますがレックダイビングは、時に 非常に危険で命を失う事もあります。比較的に浅い深度20m前後の 沈船であれば海上からの光がさえぎられず船の周囲であればライトを 使わなくても良好な視界を得る事が可能です。しかし実際の沈船は、 深度50m以上で有ったりとかなり深い処に有る場合があります。当然、 その程度まで行くと陽の光も差し込まず昼尚、暗い状況にあります。当 然、船内は、暗闇が支配します。手元のライトを頼りに船内を探索する のですが狭い船内には、多くの危険が待ち受けている事があります。 長い時間の経過と沈没時の衝撃で使用できる出入り口が限定される事 また危険な海洋生物が棲みついている事もあります。崩壊しかけた船内 で時として漏れ出した4エチル鉛やその他の化学薬品が漂っている可能 性もあります。また船内は、長く沈殿したシルトなどが堆積している事が よくあります。狭い船内で不用意なフィンワークでこれを巻き上げると視 界がゼロとなり帰り道を見失います。また最大のネックになるのは、長い 時間潜行していられない事です。深度50mを超えて潜行する場合は、大 体が減圧用に予備のタンクを船外に置いて、決められた時間を探索した らこのタンクを使い減圧を行い時間を掛けて浮上しなければなりません。 これを適当に行うと潜函病になります。こうした様々な危険を予測し十分 に安全なタイムテーブルを用意してディープダイビングを行うわけです。 幸いにトラックの沈船は、多くの場合、環礁内ですから外洋と違い、波の 影響や速い潮の影響を受けずに済みますが、環礁の外の外洋にある沈 船では、上記の危険性以外に外洋のうねりや流れなどの要因を加味しな ければならなくなります。 |
海軍特設給油船 富士山丸 |
富士山丸 9524トン 飯野海運所属 海軍の特設給油船として 徴用され昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
全長147mのタンカー。右舷に45度傾斜している。この船は、深度が 深い所にある為、サンゴが余り付着していないので比較的、きれいな 状態である。右舷側はデッキ付近まで砂に埋もれている。その辺りで 深度60m強。ガイドブックには、もっと浅い記載のものもある。ブリッジ とその周辺を重点的に見て行く。ブリッジの周囲は、タンカーらしく多 数のパイプ類があり、余り損傷は、見られなかった。ブリッジ最上段に は、操舵装置やコンパスが残存している。この後方に小銃弾のクリッ プが入った木箱が一つだけありました。ブリッジの2段目、三段目には 皿やコップ類が多数残されており、多くが真っ白な皿ばかりで絵皿は 一枚も無い。また楕円形の金属盆が2枚だけありました。ブリッジ内の 遺物は、これ等の食器類のみで、プロダイバーで現地事情に詳しい 某氏によればエンジンルームは、かなりきれいな状態で残っていると の事でした。 |
1985年6月に撮影。左が富士山丸の厨房です。右は、皿のようです。 |
左は、食器入れ、右は船室内 |
富士山丸の船内 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された富士山丸の画像です! |
上は富士山丸の船首部分です。下は船首の砲座部分です。 |
今も昔も変わらず時を止めた幽玄の世界で海底に佇む富士山丸です。 |
ブリッジ(左上)部分です。右上と左下下の画像はブリッジの右舷部分。 遠くにダイバーの後ろ姿と黄色フィンが見えます。 |
右上は、右舷の主錨です。 |
左上はブリッジ後部。右上はブリッジ後部の煙突の周辺です。 |
海軍特設給水船 日豊丸 |
日豊丸 3765トン 岡崎汽船所属 海軍の特設給水船として 徴用され昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
キミオさんが最も好きだという船である。全長が114mで正立している。 ブリッジより前に二つの船倉があり、その中には、多数の機雷と爆雷が ある。ビール瓶や瓦斯マスクなどもある。本も三冊あったが字は、殆ど 消えていた。この二つの船倉には、サーチライトやレンジファインダーが あった。飯盒や薬缶も大量にあり、キミオさん曰く『良い物だからまだ使 えるよ』との事でした。この辺で約水深50m、ブリッジのすぐ前には、細 長いポケットのような部分があり、ここに20cm砲の弾頭が整然と並べら れてあった。ブリッジ前のデッキには、戦車砲の搭載していない九五式 軽戦車より小さな装甲車が一台ありましたが、九七式軽装甲車テケであ る事が後で判明しました(砲塔に7.7mm機銃または、37mm砲を装備する のですが、日豊丸に積んである軽装甲車には武装が有りません。また二 連装25粍機関砲も砲座ごと転がっていました。ブリッジ内は、テレグラフ、 コンパス等も残っていました。ブリッジより後部には、37mm対戦車砲が多 数ありこの内の一つの砲楯に鹿の頭骨が二個乗っており、これは船長室 に掛けてあった鹿の角の頭だったという話でした。キミオさんが戦争中に 海軍の輸送隊に居た時、日豊丸から愛宕へ良く荷物を運んだそうで、その 時貰ったカルピスの味が忘れられないと言っていました。 |
ガスマスクと右は、散乱する壜類です。 |
左は、九七式軽装甲車テケ。右は、37mm対戦車砲弾。 |
船の撮影は、83年と85年の2回に分けてのものを掲載しています。 |
左は、ブリッジのテレグラフ。右は、機雷です。 |
今は、駆け上がる者もいない階段 |
飾りの鹿の角 |
25o連装機銃 |
日東丸の機関室への進入したビデオ画像より取り込んだ画像です。(画像提供 S氏) |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された日豊丸の画像です! |
日豊丸のブリッジ内部です。 |
ブリッジの後部側になります。 |
テレグラフが今も健在です。 |
ラットにテレグラフです。 |
左上は湯呑に茶碗…昔の陶器のヒューズボックスなど生活感を垣間見える 品です。右上は給水船である事はよくわかる浄水用フィルターです。 |
九四式軽装甲車(TK)です。まだ原型を保っています。 |
キャタピラも完全なまま…船は沈められましたが、積載されたこの 軽装甲車は破壊されず…船と共に沈んだだけなので当時のまま の原型をほぼ残しています。 |
今にも動きだしそうなTKです。 |
海軍特設仮装巡洋艦 愛國丸 |
愛國丸 10438トン 大阪商船所属 商船であったが 軍に徴用され特設仮装巡洋艦となる。昭和19年2月 17日のトラック空襲では、撃墜されたグラマン1機が 艦橋付近に激突、乗船部隊730名、船員11名、他乗員 多数が船と運命を共にした。 |
全長150mで正立した状態。2回潜水し最後部のみを見る。船尾には、アー ムストロング砲ではなく高角砲があった。これは、70〜80度で上を向いてお り対空射撃中に沈められた様子であった。その砲の直前に船倉があり、そこ を垂直に降りていくと横に入り口があり内部に入る事が出来る。内部には、 非常に多くの遺骨が残されていた。ここの水深は、約57mあり、ニコノスWが 作動しなかった。ここでは、頭蓋骨は、真っ青に見えました。シルトを上げると あの世行きと脳裏に浮かぶ。乗員200名のうち約170名が戦死、その他、第 68海軍警備隊680名中640名が戦死したそうです。キミオさん、前述の某氏の 話では、まだ多くの遺骨が残っており、今年(1985年)潜って見なさいと言わ れました。この船のブリッジより先は、消失しています。船内のシルトは、もの すごくフィンワークの下手なバディと組んで潜ると死ぬ。…と記載されています。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された愛國丸の画像です! |
船体後部のキングポスト…透明度が良い日に海面から降りて行くと 聳え立つキングポストを見ながら空中降下しているような感覚に襲 われる事があります。 |
ダイバーと比較するとその大きさが判ります。ほのかに上部の海面が 明るく見えます。…ここも時を止めたような幽玄の世界です。 |
愛国丸は猛爆発でブリッジ後部だけを残し…前半分は吹き飛んで いる状態です…。鋼鉄がひしゃげ千切れる凄まじい破壊を加えられ た船の残骸に…潜水する度に目を奪われます。 |
武装を強化して雷装までしても…所詮は民間船ですから軍艦のような 敵の攻撃を想定した防御構造は全くないに等しく…空からの攻撃や潜 水艦による攻撃の前には無力でした。 |
ブリッジ後部の周辺です。本来は3階建の状態ですが、激しい空爆による 爆発で潰れて墜ちて重なった状態になっています。 |
船体後部に残る五〇口径三年式十四糎単装砲です。今も尚、砲身は 海面先の遥か虚空を睨み対空戦闘中に沈んだ事を物語ります…。また 砲身に絡みつく貝類などの生物が過ぎ去った歳月の長さを感じさせます。 |
戦艦”陸奥”の五〇口径三年式十四糎単装砲 |
戦艦”陸奥”の五〇口径三年式十四糎単装砲 |
左舷側に残る二十五粍対空連装機銃です(手前)。そして横にあるのが 探照灯の台座のようです。二連装機銃は左右に一基ずつ計二基が、他 に十三粍二連装機銃が二基がありました。左下の画像で探照灯の台座 の手前が朽ち落ちた探照灯。右手奥に右舷側の二十五粍対空連装機銃 の台座でしょうか…残っているのが判ります。 |
船体の後部です。 |
海軍徴用輸送船 桃川丸 |
桃川丸 3829トン 川崎汽船所属 貨物船であったが海軍に 徴用され輸送船となる昭和19年2月17日のトラック空襲により 沈没する。 |
全長113m、左舷を下にして横転。ブリッジの内部には、直径50cm以上の 山水画の描かれた絵皿や活字がはっきり読める本がある。但しこれ等は、 ミミ(スタッフか?)が隠してあり私だけに特別にそっと見せてくれた。ブリッ ジの前の船倉には、大型航空機の部品、約二機分とシャーシだけになった トラックが有った。この辺で水深約45m。ミミによると爆雷等があるとの事。 |
1985年6月の撮影 |
積荷 |
船内に残る砲弾 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された桃川丸の画像です! |
桃川丸の船首部分です。見て分かるように左舷側を下にして 横倒しになっています。下はブリッジ内部です。 |
テレグラフが何とも象徴的です…。 |
船倉内にある大型機(一式陸攻または九六式陸攻)の主翼で丁度 エンジンの取付基部に当たる部分だと思われます。 |
船倉にあるトラックのシャーシ部分です。後部の荷台部分でしょう。後輪の ダブルタイヤが四輪とも判ります。また右上の画像の奥にタイヤも転がって います。 |
全体像が判らず不明ですが…何かの燃料タンクと装置のよう…との事です。 |
転がっている一式陸攻の火星エンジンと思われます。 |
タイヤや砲弾類が沈没横転したはずみで船倉内で乱雑に転がっています。 |
右上の画像は一式陸攻と思われる主翼部内部の燃料タンクです。 防弾ゴムで覆われていますが、一部劣化して剥げて中のジュラル ミンが見えています。 |
こちらは当サイトで収蔵している一式陸攻のものと 考えられるジュラルミン製の燃料タンクの一部です。 海中の画像のものと比較するとよく判ります。 |
陸軍徴用輸送船 長野丸 |
長野丸 3824トン 日本郵船所属の貨客船 画像は、同型船の富浦丸 昭和19年2月17日のトラック空襲により夏島の近海で沈没する。 |
全長112m、正立の状態。この輸送船は、ブリッジのみ見る。船倉は、空の 状態であるとの事。デッキで水深約60m、キミオさん曰く『長野丸は、宝船 だよ』と言っていました。言葉どおり美しい絵が描かれた陶器類がブリッジ 内部に多量にありました。皿、水差し、茶碗、急須などなど美しい物ばかり でした。ブリッジ最上段の操舵装置等は、コンパス等残っていましたがテレ グラフは、チェーンで下にぶら下がった状態でした。キミオさんがしきりに『 長野丸は、どうだった?』と何度も聞くので、感動する事間違い無しと思っ ていたのだろうと思いました。 |
1985年6月撮影 |
右は食器類です。 |
左が船室、右は天井です。 |
左からラット、船室の入り口、長野丸の天井から入る所の画像です。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された長野丸の画像です! |
長野丸の船首部分です。左上は前側から撮影したもので 右上はブリッジ側から撮影した船首部分です。 |
左上は右舷から撮影した船首部分。右上はブリッジ周辺の写真です。 |
船倉内です。ここは軍用トラックがほぼ無傷で残っています。前にあるのは キャタビラがありエンジンが付いていますのでコマツのT25 トラクターと思わ れます。 |
上がコマツのT25 トラクターです。 |
この時期に最も一般的だった陸軍の九七式自動貨車です。 製造は、いすゞ自動車でTX40型の軍用に転用したものです。 |
恐ろしく状態が良いのが驚きです。フロントガラスもサイドガラスも 完全のままで…今からでも走り出しそうな感じです。 |
下を見ると嬉しいのがタイヤは勿論ですが、フロントライトも 割れずに積載された時と同じ原型を保っているのは感動的 すらあります。 |
陸軍徴用輸送船 第六雲海丸 |
第六雲海丸 3220トン 中村汽船所属の貨物船 昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 これにより船員3名が死亡。画像は、同型艦では、 ありませんが、同じ中村汽船所属の第一雲海丸で す。 |
全長98mの輸送船。正立状態。クラークの所のKiss Meの刺青男と潜る。 こいつはガイドをしないで魚取りばかりをしていた。この船の周りは、トラッ クでは、珍しい位、透明度が良く水面下すぐより大体の物が見える。鳥居 型のマストがはっきり見えるのは、感動的だった。船首に砲があり、その 真下には、靴底、ガスマスク、星章のマークの入った15cm程度の皿が固 まって有った。その他は、何も無くやけにガランとした感じの船だった。水深 約35m、ブリッジはスヌケの部分が多く、やはり何も無い。透明度が良い分 だけ他の沈船に比べてガランとした印象を受ける。Kiss Me男が取ったコシ ョウダイを塩ふりにして焼き、皆で食べた。 |
元ダイバー様が記載していた絵です(笑)。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された第六雲海丸の画像です! |
船首部分です。この船は明治38年に英国で竣工しました。 |
かろうじて原型をまだ保っています。他の船よりも艦齢が古いので 朽ちるのもその分、早いものと思われます。 |
珊瑚がびっしり密生して何がなんやら判らない状態になった船首の 備砲です。この恐ろしく古い砲も英国製のようです。銘板らしきもの があり、その部分だけ珊瑚が削られて読める様になっています。 |
右上は前部のマストです。 |
上はブリッジの周辺です。ラッタルが朽ちずに残存しています。 |
この上下の画像は厨房(キッチン)です。 |
調理用の鍋でしょうか…二点見えます。 |
上は後部船倉です。 |
この上下は機関室です。動きを止めて久しいエンジンが見えます。 |
機関室ですが上部の甲板や側面が穴だらけで光が海面から射しています。 |
機関室のラッタルの下は薄暗くなっていきます。 |
上の二枚は倒壊した煙突です。 |
船尾です。…右上の写真は爆雷が搭載されています。恐らく潜水艦対策で設置 されていたものと思われます。 |
海軍徴用輸送船 桑港丸
|
桑港丸 5831トン 山下汽船所属の貨物船 昭和17年に 海軍徴用船となり、昭和19年3月17,18日にわたるトラック 大空襲で沈没した。船員5名戦死。 |
全長123mの輸送船。正立状態。ブリッジ内部は、床が上から下まで 抜けている。ブリッジ最上段の床が一部残存しており、そこに扉の開 いた金庫があった。ブリッジの前には、数台の軽戦車とトラックが有っ た。一台の戦車は、きちんと置かれてあったが他は、重なり合ってい た。ここで水深が約50m強。この前に機雷が二列に整然と並べられて いた。更に前は、口径10cm以下と思われる砲が丸い円形の砲座の 上にあった。 |
九五式軽戦車が奥に見える。 |
天井です。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された桑港丸の画像です! |
左上は少し不気味な感じですがマストで手前に船倉が見えています。 右上は錨用のウインチと思われます。奥にダイバーがいるので大きさ が対比するとよくわかります。 |
この船の最大の魅力は…何と謂っても無傷なままの九五式軽戦車 が数輛ある事です。上は上部から見て撮影した画像なのでわかり ずらいですが下の画像は右横と斜め前からの撮影なので砲塔と 三十七粍戦車砲がはっきりと見えます。 |
桑港丸は垂直に沈み海底でも直立の状態で眠る形なので 甲板上に搭載されていた九五式軽戦車がそのままの形で 甲板上にあります。気持ち横向きになっている部分は船が 攻撃された時の爆風等よる衝撃のせいと思われます。 |
船はブリッジの後ろで船の中間あたりに爆撃され破壊されています。 丁度、この九五式軽戦車の左後方はその攻撃によりダメージを受け ているようです。またその後方は破壊され爆撃の凄まじさを物語るよ うです。 |
右上は甲板上で折り重なるように乗り上げている二輛の九五式 軽戦車が見えます。判りずらいですが、その手前はトラックです。 |
船首です。左右の主錨を巻き上げるウインチの後方に砲座があり 搭載砲が砲口を左舷側水平に向けているのが判ります。 |
搭載砲を左前から見た画像(上の二枚)と真上近くから撮影した 画像(下二枚)になります。 |
船倉内に積まれている爆雷です。これが誘爆していたら船自体が 形状を残さずに破壊されていた事でしょう…。小魚の群れが何か 余りにも平和過ぎて象徴的に感じます。 |
船倉内の給油トラック(小型のタンクローリー)です。昔のものは 今のタンクローリーと違って給油タンクそのものが小型です。 |
給油車の車輛部分(トラック)はボンネット部分と運転席部分 が朽ちています。かろうじてエンジン部分が残っています。右 下の画像には隣の給油車のタンク部分が写っているのが判り ます。左下の画像ではトラック部分の前輪タイヤはトレッドパ ターンがはっきりと見えています。 |
横に並んだもう一台の給油車です。小さいタンクが完全です。 またこちらは運転席のフロントガラスの枠がまだ残存している のが判ります。 |
『画像引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
海軍徴用輸送船 松丹丸 |
画像なしです。どなたか当時の 松丹丸の画像をお持ちの方、お られましたら御連絡下さい。 |
松丹丸 1999トン 松岡汽船所属 昭和18年に海軍に徴用され 運送船となる。昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
全長96mの輸送船。正立状態。私がトラックの中で最も好きな沈船です。 小さな船なので約20分で船首から船尾まで見る事が出来ます。ブリッジ 直前にトラックが横倒しになっています。その後ろでキミオさんに聞いた ところでは、このトラックには、ウインチがあるとの事。そこより前に船倉が あり中にセメント袋、崩れかけた木箱に入ったビール瓶、四発ずつまとめ られた75mm砲弾が多量にあります。またここには、ラッパもありました。 水深は、その辺りで約60〜70mになります。ブリッジ上には、操舵装置が 残っており、右舷には、25mm単装機銃がありました。その下の船室には 果物を盛り付ける陶器があり、これには、美しい絵が描かれていました。 またその他にも食器類がありました。キミオさんは、ここで大腿骨を一本 見つけました。次の階には、洋式トイレや食器類、お稲荷様がありました。 このお稲荷様は、真っ青に見えましたが、後で現像すると茶色でした。ど うも自分は、50m以上の水深では、色の感覚が狂うようです。ブリッジの後 ろの船倉は、空みたいで、そのすぐ後ろに砲がありました。後でキミオさん は、たった一本の骨でも日本は、遺骨を収集に来るべきだと言っていまし た。私も同感に思いましたが、現実には、無理な話だと思いました。また、 前述の某氏は、前部の船倉の隅で二つの頭蓋骨があると言っていました。 |
1985年6月の撮影 |
右の画像は、75mm砲弾です。下は、セメント袋と松丹丸の天井ですです。 |
右は、船室。左は、積荷でしょうか。 |
左は、ラット。真ん中は、トイレ。右は、ラッタルです。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された松丹丸の画像です! |
船首部分です。正立して夏島沖の海底に沈座しています。全長87m 大きな船ではありません。米艦載機の攻撃で積載されていた2.5トン のダイナマイトが誘爆し爆沈しました。 |
この船は船首には備砲が無く、船尾に備砲があり砲座と共に 残存している筈ですが…船尾の方は潜水時間の関係から見る 余裕がなかったようです。。 |
前方のマスト周辺です。下は煙突です。 |
マストの手前はブリッジと思われます。左上の画像のブリッジの 左奥には救命ボートを吊るすクレーンが見えます。以下は船倉 内の画像になります。 |
左上は形状から見て明らかにコンプレッサーと思われます。右上 と左下は大量のセメントの袋です。右下にはフェンス用の金網を ロールにしたようなものやドラム缶のようなものが転がっていま す。 |
まさに空襲の当日、米軍機が撮影した写真です。これから 攻撃を受けて沈む松丹丸が必死に航行して待避しているの が判ります。ここに写る他の桃川丸、北洋丸、桑港丸、伯耆 丸、長野丸、宗谷、西江丸、麗洋丸等も海底に沈みました。 |
左上は朽ちたトラックの後輪部とシャーシ、その下に前輪のタイヤ 等があり、右奥にには砲弾も散乱しているのが判ります。 |
トラックは空爆によるものか、ダイナマイトの誘爆によるものか 不明ですがバラバラに破壊されており、周りに無数の大小様々 のビン類が散乱しています。下は一部、拡大した画像です。 |
大きいものは一升瓶、ビールの大瓶やラムネサイズの瓶なども あるようです。これらの物資が前線で待つ同胞将兵のもとに届く 事無く海底の藻屑となる姿を見ると…虚しさを覚えます。命も物 資も無駄に浪費される大戦争の時代は連合軍も日本軍も変わら ず命の値段が極めて安い印象が拭えません…。 |
左上は砲弾類が散乱し、右上は不明の機械類が転がっています。 下の二枚は朽ちた双眼鏡が写っています。 |
下の画像が双眼鏡を拡大したものとなります。 |
海軍徴用輸送船 菊川丸 |
菊川丸 3833トン 川崎汽船所属の貨物船 昭和16年に 海軍に徴用され輸送艦となる。昭和18年10月7日トラック 島で待機中に原因不明の爆発により火災発生、後に積荷 の爆弾等が誘発して沈没。死者・行方不明者475名にのぼ る。 |
全長110mの輸送船。左舷を下に横転した状態。ブリッジのすぐ後ろの 船倉の半分が完全に消失している。この船倉の下の砂地には、ビンや コーヒーカップや様々な陶器類がたくさん散乱している。またこの船倉 の中には航空機用のエンジンが二つと航空機の部品が少々あった。 ブリッジは、開け放たれた扉より覗いたが全くのガランドウのようでした 。後でキミオ氏に確認しても『何も無いよ!』との事でした。船首の方も 何も無く、菊川丸の名前が記載されているが指し示されないと判別は、 し難い状態でした。この船を見つけるのは、大変そうで何度もアンカー を降ろして捜していました。クラークやミミには、この船の位置が判らな いそうです。この船は、事故により沈みましたが、電気のショートまたは 天婦羅を揚げていた時に火災となり積荷に引火し爆発したそうです。島 民を含めると約3000人が亡くなったそうです。しかし遺骨は、全く見当た りませんでした。 |
左はプロムナードデッキ、右は、砂地に埋まった食器類 |
菊川丸の積荷の航空機のエンジンです |
海軍徴用輸送船 乾祥丸 |
乾祥丸 4862トン 乾汽船所属の貨物船 昭和19年 2月17日、クエゼリン泊地で空爆を受け航行不能とな り、桃川丸に曳航されトラックに入港。2月17日のトラ ック大空襲により沈没する。船員6名が死亡。 |
全長124mの輸送船。正立状態。デッキで水深約25m、デッキ上に直径 25cm程の皿が数枚ある。船首の円形砲座に口径が10cmを超える位の 砲がある。この砲座には、砲弾箱が2〜3個あり、中に砲弾が入っている 。船倉の中は何も無い様であった。ブリッジの内部には、コンパス、ラット テレグラフ等があり、その下には洗面台が転がっていました。ブリッジに は小さな部屋が幾つかあり、殆どが空でした。一室では、きちんと畳まれ た青い服が一着と4分の一程、欠けたレコードが一枚だけありました。 またブリッジの天井にレンズの無くなった双眼鏡がありました。ブリッジの 中には、機関室への入り口があり内部に入るとややシルトがかかったエ ンジンがあります。エンジンの外観は、きれいでした。ブリッジから空の船 倉上を抜けて後部船室へ行くと、ここは操舵室らしく舵に直結して大きな 歯車のようなものがあります。スクリューは、大きなものが一つです。こ の船の面白さは。非常にガイドにより左右される事です。クラークの所の ガイドは、ダメでキミオさんの所のガイドが良かった。尚、ブリッジ内には 無線機も残っていました。 |
右は、乾祥丸の船室です。左は、バルブに瓶でしょうか。 |
以下は、山元様が近年、潜水し撮影された乾祥丸の画像です! |
上の二枚は上からブリッジを見た画像です。天井の鉄組はありますが 外板は無く海面からの光が船橋内に薄っすらと差し込んでいます。 |
ブリッジ上部には船内からの遺物を集めて置いてあります。洗面台にタイプライター に皿などの食器にビール瓶など雑多です。急須のようなものも見えて船員達の生活 が偲ばれる感じがします。 |
朽ちた双眼鏡の残骸が流れ去った70年以上の歳月を改めて認識 させます。また下の画像に見えるのは、小型無線機でしょう。 |
タイプライターのキー部分に長年堆積したシルトが覆っていますが、ダイバーが 指で払ったのでしょう…U 、I 、O、 Pなどのアルファベットを読み取る事が出来 ます。 |
左上は先行してブリッジ上部の穴から入るガイドのダイバーでしょう。 下が海パンなので日本人ガイドでなく現地人の方と思われます。右 上の画像を見ると先に船橋内に入ったダイバーのエアーが浮かんで きているのが判ります。 |
ブリッジ内の通信機器です。天井は思いっきりオープンになっています。 |
倒壊しかけたテレグラフ…船橋内も下に穴が開いており爆弾が貫通して爆発した ものと思われます。ブリッジ内にいた船員はまず助からなかったものと推察されま す。船首側に対して左側に倒れ込む形ですが…元がどっちの方向にあって爆風で どうなったかは不明ですが…乾祥丸はクェゼリンで空襲を受けて航行不能となり 吉田丸に曳航されルオットに、そこから桃川丸に曳航されトラックに修理する為に 来て空襲に遭い沈没しました。…この内部の破壊具合から見て空爆の凄まじさが 想像されます。 |
船中央の煙突です。 |
左上は船内のトイレの小便器です。右上は厨房の卵焼き用の四角いフライパン。 |
船の後部にある機関室(エンジンルーム)です。ここも爆撃の為、上に穴が開き 最後尾で最深部の場所ですが、容易に入れます。まずは上の部分からそして ラッタル下にある最深部になりますが、舞い降りて見ております。 |
静寂の中のエンジンルーム…機関を止めて70年以上…このエンジンに 火が入る事はありませんでした。天井の破壊された開口部から射す海面 からの薄明かりが幻想的で幽玄の空間を映し出します。 |
機関室中空のキャットウォークを遊泳するダイバーの後ろ姿。本来なら 有り得ない姿でありますが・・・無重力の宇宙遊泳の様にも見えますね。 |
上の二枚は船倉への入り口部分です。 |