トラック諸島に沈む日本の艦船 |
資料提供 元ダイバー様(HN) |
こちらのページでは、トラック諸島で主に旧大日本帝國の
|
![]() |
| 故 Kimio Aisek 氏(2001年逝去) |
![]() |
| 1983年当時に撮影されたトラックの海岸です。 |
![]() |
![]() |
| 左は、トラックのカエデ島。旧軍機の残骸が散乱する海岸です。右は、いまだ水平射撃 をしたまま時を止めたかのように錆付く砲身を海に向ける高射砲です。 |
![]() |
| 美しいトラックの夕陽と海、右下は、病院跡です。 |
![]() |
| 水上機基地の跡 |
![]() |
| 約20年前(当時)の元ダイバー様です。本業 は、医療関係者です。 |
資料を御提供して下さりました元ダイバー様よりのお言葉です。 |
|
『日本から、南東に遠く離れたトラック諸島、今は知る人の少ないこの島々は、かつて大日本帝國の
信託統治領であり、太平洋戦争当時は帝國海軍の最大の策源地でありました。隆起したサンゴ礁 に囲まれた世界最大の礁湖は水深も浅く、波も静かで、対米戦の軍港としては最適であり、 戦艦大和、武蔵以下、多くの海軍艦艇がここに集い、あるいは出撃して行きました。第一次世界大 戦後、日本の信託統治領となったトラック諸島等、南洋の島々に、日本は学校を建て、多くの人に 学ぶ機会を提供し、産業を興し、文化の風を吹き入れました。更には、島の人々が希望したキリスト 教の教会を建て、信仰を尊重しました。戦前、日本がどのような統治をしていたかを詳しく調べる事は 、私には出来ませんでしたが、トラックの年配の方々、大勢から、日本統治時代には希望を持って働 いていたこと、戦争当時は軍属として一生懸命、日本軍に協力したこと、敗戦は悔しく、残念だったこ と、これらとは反対に、その後のアメリカの統治時代には、若者たちが希望を持って働けなくなったこと、 「長幼の序」等の美徳が消え失せてしまったこと等を聞かされ、日本の統治の理念は、欧米のそれより も優れていたのではと思いました。トラック島の方から、靖国神社を参拝した時の写真を数葉見せてい ただきました。その中の一枚、大鳥居をくぐる前、その下で式服に着替える様子を写した写真に強く感 動しました。この写真が撮られた時、着替えている様子を見た人は滑稽に感じたかもしれません。しか し、人になんと思われようとも、英霊に祈りを捧げる前に、身を整えるようとする気持・・・。私は「凄まじ い!日本人以上だ!」と思いました。昭和19年2月、トラックは米第57機動部隊の艦載機の空襲 を受け、多くの艦船が沈みました。多くの方々が船と一緒に海の底に没したのですが、戦後、長い間 忘れられておりました。その間、これらの方々の御遺骨は欧米のダイバー達の興味の対象となっていま した。ただ、一部の日本人ダイバー達とトラック島のダイバー、キミオ氏だけが時々訪れて花を手向け、 手を合わせていたのでした。戦後、40年経って(私がトラックで潜水していた1985年頃)、生き残りの 方々と御遺族の御努力で、一部の船から遺骨収集が行われることになりました。しかし、引き揚げの 決定までには、観光の目玉になっていた遺骨の引き揚げに反対するグループと、引き揚げに賛成する グループの間には激しい対立が有ったと聞きました。この間、キミオさんは引き揚げが実現するよう、一 生懸命に努力してくださったそうです。私がトラックに行くのを止めて20年になります。その間、キミオさ んは亡くなりました。日本を慕って下さった方々の多くも、トラックの土に返ったかもしれません。海底の 船達も海水に痛められ朽ち果てようとしているそうです。引き揚げられる事のなかった御遺骨達は、生 まれ、育ちも判らないままに国に命を捧げ、日本に帰れぬまま…錆びた鉄と一緒にトラックの海底の砂 に埋もれて行くのかもしれません。このページを御覧になった方はトラックの海底に眠る方々の事を覚え ていて下さい。遠く離れた南の島に、強く日本を愛し亡くなられた方々が今も故国の土を踏む事無く 沢山海底に眠ったままでいると云う事も、またトラックの方々がこうした方々を追悼し拝んでくれた事を 覚えておいて頂きたいと思います。最後になりましたが、私に意見を述べる機会を下さった憂国烈士様 に心から感謝申し上げます。』 2005年4月6日 元ダイバー |
| この駆逐艦”文月”と”追風”の略図は、『丸メカニック』にあった詳細図を 基に、元ダイバー様が実際に潜り、補足し内部調査に使用した手製の概 略図です。 |
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() |
| キミオ氏が元ダイバー様へ手書きした 35隻の沈船や航空機の名前です。 1987年6月21日の日付けがあります。 |
潜水記録 |
| ダイビングをする方は、御存知と思いますがレックダイビングは、時に 非常に危険で命を失う事もあります。比較的に浅い深度20m前後の 沈船であれば海上からの光がさえぎられず船の周囲であればライトを 使わなくても良好な視界を得る事が可能です。しかし実際の沈船は、 深度50m以上で有ったりとかなり深い処に有る場合があります。当然、 その程度まで行くと陽の光も差し込まず昼尚、暗い状況にあります。当 然、船内は、暗闇が支配します。手元のライトを頼りに船内を探索する のですが狭い船内には、多くの危険が待ち受けている事があります。 長い時間の経過と沈没時の衝撃で使用できる出入り口が限定される事 また危険な海洋生物が棲みついている事もあります。崩壊しかけた船内 で時として漏れ出した4エチル鉛やその他の化学薬品が漂っている可能 性もあります。また船内は、長く沈殿したシルトなどが堆積している事が 良くあります。狭い船内で不用意なフィンワークでこれを巻き上げると視 界がゼロとなり帰り道を見失います。また最大のネックになるのは、長い 時間潜行していられない事です。深度50mを超えて潜行する場合は、大 体が減圧用に予備のタンクを船外に置いて、決められた時間を探索した らこのタンクを使い減圧を行い時間を掛けて浮上しなければなりません。 これを適当に行うと潜函病になります。こうした様々な危険を予測し十分 に安全なタイムテーブルを用意してディープダイビングを行うわけです。 幸いにトラックの沈船は、多くの場合、環礁内ですから外洋と違い、波の 影響や速い潮の影響を受けずに済みますが、環礁の外の外洋にある沈 船では、上記の危険性以外に外洋のうねりや流れなどの要因を加味しな ければならなくなります。 |
@富士山丸 |
![]() |
| 富士山丸 9524トン 飯野海運所属 海軍の特設給油船として 徴用され昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
| 全長147mのタンカー。右舷に45度傾斜している。この船は、深度が 深い所にある為、サンゴが余り付着していないので比較的、きれいな 状態である。右舷側はデッキ付近まで砂に埋もれている。その辺りで 深度60m強。ガイドブックには、もっと浅い記載のものもある。ブリッジ とその周辺を重点的に見て行く。ブリッジの周囲は、タンカーらしく多 数のパイプ類があり、余り損傷は、見られなかった。ブリッジ最上段に は、操舵装置やコンパスが残存している。この後方に小銃弾のクリッ プが入った木箱が一つだけありました。ブリッジの2段目、三段目には 皿やコップ類が多数残されており、多くが真っ白な皿ばかりで絵皿は 一枚も無い。また楕円形の金属盆が2枚だけありました。ブリッジ内の 遺物は、これ等の食器類のみで、プロダイバーで現地事情に詳しい 某氏によればエンジンルームは、かなりきれいな状態で残っていると の事でした。 |
![]() |
![]() |
| 1985年6月に撮影。左が富士山丸の厨房です。右は、皿のようです。 |
![]() |
![]() |
| 左は、食器入れ、右は船室内 |
![]() |
| 富士山丸の船内 |
A日豊丸 |
![]() |
| 日豊丸 3765トン 岡崎汽船所属 海軍の特設給水船として 徴用され昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
| キミオさんが最も好きだという船である。全長が114mで正立している。 ブリッジより前に二つの船倉があり、その中には、多数の機雷と爆雷が ある。ビール瓶や瓦斯マスクなどもある。本も三冊あったが字は、殆ど 消えていた。この二つの船倉には、サーチライトやレンジファインダーが あった。飯盒や薬缶も大量にあり、キミオさん曰く『良い物だからまだ使 えるよ』との事でした。この辺で約水深50m、ブリッジのすぐ前には、細 長いポケットのような部分があり、ここに20cm砲の弾頭が整然と並べら れてあった。ブリッジ前のデッキには、戦車砲の搭載していない九五式 軽戦車より小さな装甲車が一台ありましたが、九七式軽装甲車テケであ る事が後で判明しました(砲塔に7.7mm機銃または、37mm砲を装備する のですが、日豊丸に積んである軽装甲車には武装が有りません。また二 連装25粍機関砲も砲座ごと転がっていました。ブリッジ内は、テレグラフ、 コンパス等も残っていました。ブリッジより後部には、37mm対戦車砲が多 数ありこの内の一つの砲楯に鹿の頭骨が二個乗っており、これは船長室 に掛けてあった鹿の角の頭だったという話でした。キミオさんが戦争中に 海軍の輸送隊に居た時、日豊丸から愛宕へ良く荷物を運んだそうで、その 時貰ったカルピスの味が忘れられないと言っていました。 |
![]() |
![]() |
| ガスマスクと右は、散乱する壜類です。 |
![]() |
![]() |
| 左は、九七式軽装甲車テケ。右は、37mm対戦車砲弾。 |
![]() |
![]() |
| 船の撮影は、83年と85年の2回に分けてのものを掲載しています。 |
![]() |
![]() |
| 左は、ブリッジのテレグラフ。右は、機雷です。 |
![]() |
![]() |
| 今は、駆け上がる者もいない階段 |
![]() |
| 飾りの鹿の角 |
![]() |
| 25o連装機銃 |
![]() |
| 日東丸の機関室への進入したビデオ画像より取り込んだ画像です。(画像提供 S氏) |
![]() |
B愛国丸 |
![]() |
| 愛国丸 10438トン 大阪商船所属 商船であったが 軍に徴用され特設仮装巡洋艦となる。昭和19年2月 17日のトラック空襲では、撃墜されたグラマン1機が 艦橋付近に激突、乗船部隊730名、船員11名、他乗員 多数が船と運命を共にした。 |
| 全長150mで正立した状態。2回潜水し最後部のみを見る。船尾には、アー ムストロング砲ではなく高角砲があった。これは、70〜80度で上を向いてお り対空射撃中に沈められた様子であった。その砲の直前に船倉があり、そこ を垂直に降りていくと横に入り口があり内部に入る事が出来る。内部には、 非常に多くの遺骨が残されていた。ここの水深は、約57mあり、ニコノスWが 作動しなかった。ここでは、頭蓋骨は、真っ青に見えました。シルトを上げると あの世行きと脳裏に浮かぶ。乗員200名のうち約170名が戦死、その他、第 68海軍警備隊680名中640名が戦死したそうです。キミオさん、前述の某氏の 話では、まだ多くの遺骨が残っており、今年(1985年)潜って見なさいと言わ れました。この船のブリッジより先は、消失しています。船内のシルトは、もの すごくフィンワークの下手なバディと組んで潜ると死ぬ。…と記載されています。 |
C桃川丸 |
![]() |
| 桃川丸 3829トン 川崎汽船所属 貨物船であったが海軍に 徴用され輸送船となる昭和19年2月17日のトラック空襲により 沈没する。 |
| 全長113m、左舷を下にして横転。ブリッジの内部には、直径50cm以上の 山水画の描かれた絵皿や活字がはっきり読める本がある。但しこれ等は、 ミミ(スタッフか?)が隠してあり私だけに特別にそっと見せてくれた。ブリッ ジの前の船倉には、大型航空機の部品、約2機分とシャーシだけになった トラックが有った。この辺で水深約45m。ミミによると爆雷等があるとの事。 |
![]() |
| 1985年6月の撮影 |
![]() |
| 積荷 |
![]() |
| 船内に残る砲弾 |
D長野丸 |
![]() |
| 長野丸 3824トン 日本郵船所属 画像は、同型船の富浦丸 昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
| 全長112m、正立の状態。この輸送船は、ブリッジのみ見る。船倉は、空の 状態であるとの事。デッキで水深約60m、キミオさん曰く『長野丸は、宝船 だよ』と言っていました。言葉どおり美しい絵が描かれた陶器類がブリッジ 内部に多量にありました。皿、水差し、茶碗、急須などなど美しい物ばかり でした。ブリッジ最上段の操舵装置等は、コンパス等残っていましたがテレ グラフは、チェーンで下にぶら下がった状態でした。キミオさんがしきりに『 長野丸は、どうだった?』と何度も聞くので、感動する事間違い無しと思っ ていたのだろうと思いました。 |
![]() |
![]() |
| 1985年6月撮影 |
![]() |
![]() |
| 右は食器類です。 |
![]() |
![]() |
| 左が船室、右は天井です。 |
![]() |
![]() |
![]() |
| 左からラット、船室の入り口、長野丸の天井から入る所の画像です。 |
E第六雲海丸 |
![]() |
| 第六雲海丸 3220トン 中村汽船所属の貨物船 昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 これにより船員3名が死亡。画像は、同型艦では、 ありませんが、同じ中村汽船所属の第一雲海丸で す。 |
| 全長98mの輸送船。正立状態。クラークの所のKiss Meの刺青男と潜る。 こいつはガイドをしないで魚取りばかりをしていた。この船の周りは、トラッ クでは、珍しい位、透明度が良く水面下すぐより大体の物が見える。鳥居 型のマストがはっきり見えるのは、感動的だった。船首に砲があり、その 真下には、靴底、ガスマスク、星章のマークの入った15cm程度の皿が固 まって有った。その他は、何も無くやけにガランとした感じの船だった。水深 約35m、ブリッジはスヌケの部分が多く、やはり何も無い。透明度が良い分 だけ他の沈船に比べてガランとした印象を受ける。Kiss Me男が取ったコシ ョウダイを塩ふりにして焼き、皆で食べた。 |
![]() |
| 元ダイバー様が記載していた絵です(笑)。 |
F桑港丸 |
![]() |
| 桑港丸 5831トン 山下汽船所属の貨物船 昭和17年に 海軍徴用船となり、昭和19年3月17,18日にわたるトラック 大空襲で沈没した。船員5名戦死。 |
| 全長123mの輸送船。正立状態。ブリッジ内部は、床が上から下まで 抜けている。ブリッジ最上段の床が一部残存しており、そこに扉の開 いた金庫があった。ブリッジの前には、数台の軽戦車とトラックが有っ た。一台の戦車は、きちんと置かれてあったが他は、重なり合ってい た。ここで水深が約50m強。この前に機雷が二列に整然と並べられて いた。更に前は、口径10cm以下と思われる砲が丸い円形の砲座の 上にあった。 |
![]() |
| 九五式軽戦車が奥に見える。 |
![]() |
| 天井です。 |
G松丹丸 |
| 画像なしです。どなたか当時の 松丹丸の画像をお持ちの方、お られましたら御連絡下さい。 |
![]() |
| 松丹丸 1999トン 松岡汽船所属 昭和18年に海軍に徴用され 運送船となる。昭和19年2月17日のトラック空襲により沈没する。 |
| 全長96mの輸送船。正立状態。私がトラックの中で最も好きな沈船です。 小さな船なので約20分で船首から船尾まで見る事が出来ます。ブリッジ 直前にトラックが横倒しになっています。その後ろでキミオさんに聞いた ところでは、このトラックには、ウインチがあるとの事。そこより前に船倉が あり中にセメント袋、崩れかけた木箱に入ったビール瓶、四発ずつまとめ られた75mm砲弾が多量にあります。またここには、ラッパもありました。 水深は、その辺りで約60〜70mになります。ブリッジ上には、操舵装置が 残っており、右舷には、25mm単装機銃がありました。その下の船室には 果物を盛り付ける陶器があり、これには、美しい絵が描かれていました。 またその他にも食器類がありました。キミオさんは、ここで大腿骨を一本 見つけました。次の階には、洋式トイレや食器類、お稲荷様がありました。 このお稲荷様は、真っ青に見えましたが、後で現像すると茶色でした。ど うも自分は、50m以上の水深では、色の感覚が狂うようです。ブリッジの後 ろの船倉は、空みたいで、そのすぐ後ろに砲がありました。後でキミオさん は、たった一本の骨でも日本は、遺骨を収集に来るべきだと言っていまし た。私も同感に思いましたが、現実には、無理な話だと思いました。また、 前述の某氏は、前部の船倉の隅で二つの頭蓋骨があると言っていました。 |
![]() |
| 1985年6月の撮影 |
![]() |
![]() |
| 右の画像は、75mm砲弾です。下は、セメント袋と松丹丸の天井ですです。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 右は、船室。左は、積荷でしょうか。 |
![]() |
![]() |
| 左は、ラット。真ん中は、トイレ。右は、ラッタルです。 |
H菊川丸 |
![]() |
| 菊川丸 3833トン 川崎汽船所属の貨物船 昭和16年に 海軍に徴用され輸送艦となる。昭和18年10月7日トラック 島で待機中に原因不明の爆発により火災発生、後に積荷 の爆弾等が誘発して沈没。死者・行方不明者475名にのぼ る。 |
| 全長110mの輸送船。左舷を下に横転した状態。ブリッジのすぐ後ろの 船倉の半分が完全に消失している。この船倉の下の砂地には、ビンや コーヒーカップや様々な陶器類がたくさん散乱している。またこの船倉 の中には航空機用のエンジンが二つと航空機の部品が少々あった。 ブリッジは、開け放たれた扉より覗いたが全くのガランドウのようでした 。後でキミオ氏に確認しても『何も無いよ!』との事でした。船首の方も 何も無く、菊川丸の名前が記載されているが指し示されないと判別は、 し難い状態でした。この船を見つけるのは、大変そうで何度もアンカー を降ろして捜していました。クラークやミミには、この船の位置が判らな いそうです。この船は、事故により沈みましたが、電気のショートまたは 天婦羅を揚げていた時に火災となり積荷に引火し爆発したそうです。島 民を含めると約3000人が亡くなったそうです。しかし遺骨は、全く見当た りませんでした。 |
![]() |
![]() |
| 左はプロムナードデッキ、右は、砂地に埋まった食器類 |
![]() |
| 菊川丸の積荷の航空機のエンジンです |
I乾祥丸 |
![]() |
| 乾祥丸 4862トン 乾汽船所属の貨物船 昭和19年 2月17日、クエゼリン泊地で空爆を受け航行不能とな り、桃川丸に曳航されトラックに入港。2月17日のトラ ック大空襲により沈没する。船員6名が死亡。 |
| 全長124mの輸送船。正立状態。デッキで水深約25m、デッキ上に直径 25cm程の皿が数枚ある。船首の円形砲座に口径が10cmを超える位の 砲がある。この砲座には、砲弾箱が2〜3個あり、中に砲弾が入っている 。船倉の中は何も無い様であった。ブリッジの内部には、コンパス、ラット テレグラフ等があり、その下には洗面台が転がっていました。ブリッジに は小さな部屋が幾つかあり、殆どが空でした。一室では、きちんと畳まれ た青い服が一着と4分の一程、欠けたレコードが一枚だけありました。 またブリッジの天井にレンズの無くなった双眼鏡がありました。ブリッジの 中には、機関室への入り口があり内部に入るとややシルトがかかったエ ンジンがあります。エンジンの外観は、きれいでした。ブリッジから空の船 倉上を抜けて後部船室へ行くと、ここは操舵室らしく舵に直結して大きな 歯車のようなものがあります。スクリューは、大きなものが一つです。こ の船の面白さは。非常にガイドにより左右される事です。クラークの所の ガイドは、ダメでキミオさんの所のガイドが良かった。尚、ブリッジ内には 無線機も残っていました。 |
![]() |
![]() |
| 右は、乾祥丸の船室です。左は、バルブに瓶でしょうか。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |