(旧軍の遺構資料館など)








南九州を遺構シリーズの為に再探索して1年が経過しまし
た。今回、北部九州地区の旧軍遺構を収載する為に30年
ぶり位に福岡〜長崎の日本海側を再訪しました。広範囲な
ので今後、佐賀〜熊本〜大分も別の機会に再訪します。
戦後も約70年…旧軍の遺構もかなり失われてきています。

我々日本人の偉大な先人達が後世の日本と日本人の為に
尊い犠牲を払った証しでもある旧軍の遺構を老若男女を問
わず、現在、この国で平和を享受して生きる全ての日本人
に広く知らしめ記録を残したい想いは変わらず…この北部九
州編の新ページを立ち上げました。中々、遠い現地へ足を運
ぶ事は難しいでしょうが…ネットの画面上を通して尊い犠牲
を我々の為に払って下さった事に想いを馳せ感謝し顕彰す
る心を…日本人同士が互いに通わせる事が出来れば幸い
に想います。
この北部九州地区は南九州地区に比べると地域性で
沖縄に向けての特攻基地は少なく…どちらかと謂えば
戦前からの施設が多い印象です。しかし大刀洗の様に
知覧や鹿屋、万世と同じような資料館もあります。特に
この大刀洗は昔と違い綺麗にリニューアルされ驚きまし
た。いずれの遺構も…世代を超えて語り継がねばなら
ない歴史です。それは我ゝ、日本民族の自存自衛の歴
史です。よしあしを判断するのは個人の自由ですが…
まずは起きた事・・・そして当時の先人同胞達が何を考
えどう行動したかを知って再考して欲しいものと感じます
。…時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の念を
捧げます。
                            合掌

                    皇紀2671年11月

                      管理人 憂国烈士











〜蒙古塚(蒙古軍供養塔)と玄海灘〜

     (福岡市東区志賀島


元寇の際の蒙古塚です(別名は首切り塚)。文永11年(1274年)と
弘安4年(1281年)の二度にわたる蒙古襲来の古戦場です。元軍
の兵士の為、昭和2年に日蓮宗の僧・高鍋日統の提唱で建立され
ました。昭和13年にはあの蒙古連盟自治政府の徳王も参拝され
ています。
例え侵略者であっても死者は仏になります。敵であっても日本人は
その罪を許し供養します。しかし支那人や朝鮮人には…そうした心の
度量の広さが無いだけでなく根性自体が捻じ曲がって悪辣非道であ
る事は戦後の一連の歴史を見るとよく判りますね。



目前には玄界灘の海が広がっています。遥か彼方の大陸から渡って
きた蒙古の兵とその指示に従って戦った支那人や朝鮮人は大陸と半
島から渡り…対馬の日本人を虐殺し…この地で滅びました。
玄界灘の夕暮れです。





台風の接近で穏やかだった海の表情が険しく厳しいものに
かわる玄界灘です。








〜 珍しい海軍耐錆鋼の特攻短刀 〜

        (登録証付)




特攻短剣です。航空兵に限らず、特攻・震洋艇や人間魚雷・回天と
全ての特攻兵器に乗る隊員に贈られました。

藤原兼永作の耐錆鋼…特攻短刀です。この様なステンレス短刀に登録
許可が下りるのは奇跡に近い思われます。逆に日本刀はごまんとありま
すが許可証のある不錆刀はまずお目に掛かりません。まして特攻短刀と
なれば尚の事で…非常に珍しい物と思われます。
今回の南九州の遺構巡り再訪の旅から帰ったすぐ後に譲り受けた品です。
航空機による特攻に限らず、特攻・震洋艇や人間魚雷・回天…そして海龍
何れにしても空でも海でも特攻に関する遺構巡りが殆どでありましたので…
何か因縁めいた物を感じ…即答で譲り受けました。
短刀袋も短刀も…長い事供養をされていたようで線香の匂いがしみついて
おります。海で逝かれたのか…空で逝かれたのかは不明なれど御遺族は
その直前まで仏壇に上げて供養をされていたのだと想像します。




本名=河村永次郎(刀匠銘・藤原兼永)氏。
戦前の刀匠でも有り、ステンレス刀の実現に尽力された人です。
今回のステンレス短刀は(天照山鍛錬所)で作られた物では無く
息子の寛氏を先手に兼永刀匠、自らが鍛刀作成した物です。
天照山鍛錬所等で大刀の製作が始まる以前の、思考錯誤してい
た時期の物と思われます。作っては壊し又、破棄した数十本の中
で完成し満足の出来る作品に仕上がった一口で有るようです。こ
れを特攻短刀に仕込んであります。









目 次 (table of contents)



  ・筑前町立 大刀洗平和記念館 (旧 大刀洗陸軍飛行学校)と
 大刀洗陸軍飛行場の遺構
・博多海軍航空隊の跡 (現 海の中道海浜公園)
・福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)の跡 (現 雁の巣野球場) 
・陸軍歩兵第四十八聯隊の遺構 (現 陸自 久留米駐屯地)   
・陸軍歩兵第四十六聯隊の遺構 (現 陸自 大村駐屯地)   



・海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー)
・旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館 (現 佐世保市民文化ホール)
・旧佐世保無線電信所(針尾送信所) 
旧佐世保 弓張岳防空砲台(高角砲陣地)跡(弓張公園)
・川棚町 特攻殉国の碑(旧 魚雷艇訓練所跡)
・海軍 魚雷発射試験場の遺構 (川棚町 片島)
・川棚町 工廠の見える丘公園(城山公園):慰霊之塔と平和の塔



・旧 大村海軍航空隊の遺構:掩体壕
・旧 大村海軍航空隊の跡 (旧 長崎空港及び現 海自大村基地)
・旧第二十一海軍航空廠の遺構:本部庁舎跡地と防空壕

・旧第二十一海軍航空廠の遺構:慰霊塔公園
・立山防空壕(長崎県防空本部跡) ・橘神社(軍神 橘周太中佐像)
・おまけ(長崎原爆資料館、長崎歴史文化博物館、…他)




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は無断転写やコピーを含めての二次使用の一切をお
断り致します。









この日本と謂う国が我物顔に勝手な正義を押し付ける図々しく迷惑な
米国を中心とした白人国家に戦争で負けて以来、誰よりも正義を求め
自由を愛する優しき日本と日本人は悪の権化とされどん底の生活を余
儀なくされました。そんな敗戦の苦難の日から早、六十五年の月日が
流れ…未だに米国の属国で大きな顔も出来ない情けないが経済的に
は世界第二位の経済大国として復活を遂げました。…宮城(皇居)は
天子様と呼ばれ現人神と呼ばれた大元帥である天皇陛下が住まわれ
る帝都の中心であり最も神聖な場所の一つであります。また靖國神社
は、この国の防人達が命を賭して戦い天に召された時、生前に『靖國
で逢おう』と友と語り合い死して神として祀られる英霊の眠る栄光の約
束の地であり神聖な場所であります。旧帝国陸海軍の遺構ではありま
せんが、旧軍の最高司令官は陸海軍の大元帥である天皇陛下であり
ます。皇軍の最高司令官の宮殿のある宮城と皇軍の将兵が英霊とな
って眠る安息の地が靖國神社であれば…旧軍の遺構を巡る者がまず
真っ先に手を合わせ頭を垂れるべき場所と謂えるでしょう。日本に生ま
れ日本人であれば必ず一度は訪れて欲しい神聖な場所だと思います。








































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