このページでは、今まで旧日本軍に全く興味も無く見ても聞いても
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(初めに)
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Imperial Japanese Army
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帝國陸軍の階級 |
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以下は、昭和15年9月3日に廃止された兵科色です。 立襟時代は、クワ型で、九八式以降では、山型兵科章 などで兵科を判るようにしておりました。九八式階級章 の下部に兵科色を入れる場合もありました。 |
左上が砲兵科のクワ型、右上が砲兵科の山型 |
代表的な陸軍の臂章 |
軍旗 |
軍旗があるのは、歩兵と騎兵のみです。連隊が創設されると 天皇陛下より軍旗が親授される。従って軍旗は、大変象徴的 なもので由緒ある軍旗を守り奉じて戦ってきました。平時は、 連隊長室に安置され廊下に軍旗歩哨が警護していました。ま た士官学校を出た新任の少尉が連隊旗手となります。軍旗が 持ち出される時には、誘導将校と軍旗衛兵下士官が2名付く 事になっていました。また戦場では、軍旗中隊が一個中隊組 織され警護します。そしてこれが連隊長の予備部隊となります |
騎兵軍旗 |
最初の軍旗 |
近衛歩兵第二連隊 | 近衛歩兵第一連隊 |
騎兵連隊が軍旗を先頭に進軍。 |
軍旗が兵営を出ると連隊旗手の少尉が軍 旗を掲げ、2名の警護の下士官に誘導の 将校がつく。 |
以下は、歩兵第七十三連隊の画像です! |
軍旗祭の画像です。 |
大正13年秋季演習で突撃待機の七十三連隊の連隊旗 |
天皇旗 | 皇后・皇太后・太皇太后旗 | 摂政旗 | 皇太子旗 |
親王旗 |
観兵する天皇陛下。 |
陸軍の部隊構成 |
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歩兵中隊の戦時編成(昭和12年頃) |
・中隊長:大尉
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上記の階級章の欄を見れば、お判りのように伍長より上の 下士官は、軍官となります。階級章にも下士官より星章は、 金属を用いて区別しています。一般に徴兵は、2年間で初年 兵が二等兵、入営半年で一等兵。徴兵が明け除隊で上等兵 に進む者は特別優秀な兵士。優秀な兵は、選別されて上等 兵になり下士官候補と目されます。そのまま除隊せず下士官 へ進む者と、下士官適任証をもらい除隊する者にわかれます 。多くの同年兵が一等兵で除隊する中で上等兵に進級した者 は、相当に優秀とされておりました。尚、日中戦争以降は、2年 現役解除がならず…除隊即召集が当たり前になった為、古参 兵の数が増えた為、上等兵の上に兵長を作り、これが兵の最 高階級となりました。 |
中隊は、大きな一家!…無敵皇軍の強さの秘訣! |
皇軍は、中隊という単位を軍の根幹を成す単位として敗戦で消滅す |
将軍と提督のお話! |
通常、将官を陸軍では、将軍と呼び、海軍では、提督と呼びました。
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戦前においては、軍人も公務員と同じです。当時の官吏制度にあって
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陸軍の兵力分布と動員状況 |
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上記の表でお判りのように開戦当初は、大陸の対中国、対ソ連に 対しての配備が60%以上に上っている。しかし、大東亜戦争が進 み、南方の戦線が拡大するにつれて南方の対英米への兵力が増 強され米軍の反抗から敗色が濃くなる時期に至ると、明らかに対 ソ戦用に用意された満州の関東軍が南方へ転用されているのが 判ります。また戦争が長期に継続していた支那全域の軍は、敗戦 の手前でも全軍の25%を張り付かせ維持していた事も判ります。 そして敗戦時は、本土決戦を意識して国内に300万名近い兵力を 集中動員している事も判ります。この時に初めて全軍の25%を超 えていた中国大陸の軍が20%にまで減っています。また敗戦後 のソ連の侵攻により敗戦4ヶ月前まで8個師団(7%)にまで満州 の関東軍は、櫛が抜けるように兵力を引き抜けれましたが…急増 動員で人数だけは、67万名近い軍勢に仕立て上げた事が良くお判 りかと思います。しかし、人数こそ全盛期の無敵精強の関東軍と同 じ数を整えても急な召集で集めた中年兵・老兵などが中心で全員 に小銃もいきわたらない有様でした。 |
Imperial Japanese Navy
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帝國海軍の階級 |
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以下は、各科の識別線の色分けや下士官兵の臂章や特技章などです。 |
左が飛行兵曹長で右が軍医中尉の襟章 |
軍艦旗 |
大将旗 | 中将旗 | 少将旗 |
司令旗 |
Z旗 |
このカラフルな旗は、日本人にとって取分け象徴的な意味を 持つ旗です。…一般には、アルファベットのZを表しており国 際信号旗で『投網中』であるとか『曳航を求む』を意味します 。しかし、このZ旗は、かの明治38年の日露戦争で当時、世 界最強を謳われたロシア海軍のバルチック艦隊を迎え撃つ た日本海海戦で、連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が このZ旗を掲げ有名な…『皇国ノ興廃、此ノ一戦にアリ各員 一層奮励努力セヨ』と発し…見事完膚なきまでに敵艦隊を 撃滅しました。以来、帝國海軍は、伝統的に決戦に臨む艦 隊の旗艦では、このZ旗を掲げて同じ訓示を行い、敵艦隊と 相対しました。 |
連合艦隊とは? |
帝國海軍と言えば連合艦隊ですが一体、連合艦隊とは、
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昭和16年12月…開戦当時の
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(開戦時)
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ありし日の帝國海軍 |
大海令…海軍の作戦の基礎となる命令書 |
大海令は、帝國海軍の最も基礎となる命令書です。 軍令部長がサインをして、各艦隊総司令長官 が基本作戦として命令を受けた原本の復刻版が 以下となります。 |
左は、対米戦にあたり開戦の作戦を 行う事を命じた大海令です。 |
開戦と敗戦 |
上下ともに戦後の復古品ですが…こうして始まり終わりました。 |
古きよき時代の帝國海軍昭和11年練習艦隊の記念写真(磐手、八雲) |
練習艦隊の磐手、八雲 乗組みの士官、士官候補生がワシントンの ホワイトハウスが見える公園で、米国海軍作戦部長スタンドレー大将 (中央)を囲んでの記念写真です。右端に居られるのが後の第二航空 戦隊司令官でミッドウェイ海戦で果敢に戦い、空母『飛龍』と運命を共 にした闘将 山口多聞海軍少将(戦死後 中将)の艦隊参謀(当時 海軍大佐)時代です。 |
兵役と赤紙…召集令状 |
大日本帝國時代…徴兵制でしたから初めの頃は、3年の兵役義務が
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戦前は、成人男子は満20歳になると徴兵検査を受けなければなりません。 (昭和18年の回生で、満19歳、昭和19年の改正で満17歳が徴兵検査を受 けなければなりませんでした。)検査の結果、甲・乙・丙・丁・戊種に分類さ れます。この結果で甲種合格、乙種(第一・第二)合格、丙種合格は、戦時 でなければ乙・丙種がまず徴兵される事は、ありませんでした。また甲種で あっても戦時でなければ、充足定員が低い年度であれば抽選で兵役につき ました。また丙種は、身体上に欠陥があり、国民兵役には適する者。丁種は 身障者など兵役に適さない者。戊種は、囚人など兵役の判定が出来ない者 を差します。従って徴兵検査の合格者とは、甲と乙をいいます。 |
未使用の徴兵検査通達書です。 |
裏面がメモ書されて使用されています。 |
赤紙の戦後複製品。こうした臨時召集令状が送られて来ます。 |
また2年の兵役を終えた者は、予備役となり各地の在郷軍人会
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珍しい…臨時召集令状(赤紙)と防衛召集待命令状 |
召集令状は奉公袋に入れて常時携帯が義務つけられて いましたが、今となっては奉公袋の中には軍隊手帳はよ く入っておりますが、召集令状はまず出てくることは有り ません。この令状は惜しい事に破れと数字の書き込みが 有ります。何かの計算をしたのでしょうか…引き算をして います(苦笑)。もう一枚の待命令状は初めて見ます。 |
希少な実物の赤紙です。しかも珍しい事にこの召集令状には ”即帰乙”のスタンプと”脊髄カリエス、二依リ召集規則第百三 十一条該当者ト認ム・陸軍軍医大尉柴田一男”とあります。つ まり結核性脊椎炎を患っており徴兵不可でシャバに帰されてい ます。今では脊椎カリエスは、まず見られない病気ですが敗戦 前は、抗生剤が無かった為、結核罹患率がかなり高く、その骨 病変である脊椎カリエスも多かったと言われます。亀背と言わ れる、背中が湾曲し亀の甲羅のようになっている方を子供の頃 見かけた事がありますが、そういう方の病変です。今は、まず 見掛けません。赤紙は、昭和15年9月2日の集合となっていま す。 |
こちらは、初めて見るガリ版刷りの防衛召集 待命令状です。 |
敗戦直前の昭和20年7月7日の日付けがあります。 何も書かれていないのが印象的です。本土決戦に 備えて5年前に即帰乙で召集免除した人間も防衛 召集しなければならない状況だったという事でしょ うか。 |
上記の赤紙と同一では、ありませんが赤紙の封筒です。 |
充員召集令状(赤紙) |
赤紙と呼ばれる物で陸軍の定めた各年度の計画によって戦時定員を充足するのが 充員召集であり、それ以外に必要に応じて召集するのが臨時召集でこの2種類が 赤紙と呼ばれたものである。他にも白、青紙などがある。赤紙を受け取ったものは 日時、記名を受領証に捺印した後は受領証は役場で保管、本記を持参して指定され た部隊に出頭、受け渡すので召集された本人の手元に残る可能性は大変少ない物 です。 |
俗に一銭五厘の赤紙と呼ばれますが赤紙の交付は、郵便での交付ではなく 役場の職員などが直接手渡し交付をしていました。普段は、警察署に保管。 現品の赤紙は、明治期に作成・保管されていた召集令状で充員召集がかか ることなく残っていたもので、時代相応の保管痕跡の為、赤色が退色してい ます。 |
尚、兵役により兵士となると認識票を身に着けます。これは、
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官位 |
下士官以上の軍人は、軍官となる。…まあ公務員と言う事です。
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これは、同一人物の陸軍少尉任官と叙任の証書です |
勲章 |
勲章とは、軍人に限らず民間人でも叙勲される人が功労を
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金鵄勲章 |
金鵄勲章。明治に於いて制定された金鵄勲章は、戦時に 於いて武功卓越なる将兵に授与された名誉の勲章である 。特典として終身恩給が支給され(長期の日華事変での授 与者の激増で一時金の支給に変更された)金鵄勲章を身 に付けた軍人が上官に出くわした時も上官が先に敬礼する 程、権威と名誉のある勲章であった。功一級から功七級ま で制定されていた。七級は兵士に六級は、下士官に五級は 尉官の将校に授与されたが敗戦により昭和22年に廃止さ れた。 |
功七級金鵄勲章 兵士の中で初叙 が七級…最高が 功五級となる。鷲 のみが金で残り が銀色。 |
功六級金鵄勲章 下士官・准士官で 初叙が六級、極限 功績で功四級。全 てが金色である。 |
功五級金鵄勲章 下級将校(尉官)で 初叙が五級、極限 で功三級。鳶の部 分金色で、盾・剣の 部分等は全て銀色 、功五級以上は鳶・ 盾・剣の周囲を光線 で囲ってある。 |
功四級金鵄勲章 高級将校(佐官)で 初叙が四級、極限 功績は、二級。本体 は,鳶の部分だけで なく、盾・剣の部分全 て金色になっていま す。功五級以上は盾 ・剣等に色がつき、 周囲を光線で囲って ある。尚、功三級は、 手持ち無く首に下げ る形となる。 |
功二級金鵄勲章・功一級副章 功二級以上は、将官に授与。初叙が三級。極限功績は、一級。 功二級は功一級の副章にもなる。回りを囲う光線が赤色と白色 になっており、型も大きくなっている。功二級には綬は無い。 功一級には大綬がつく。大綬は他の等級の綬とデザインは同じ だが、幅が広くなっている。大綬は普通右肩から懸けるが金鵄 勲章勲章の場合、左肩から右脇に懸け正章を吊る。功一級は 正章と副章があり、正章・副章・大綬同時に着用する。 |
旭日章 |
勲八等白色桐葉章 | 勲七等青色桐葉章 | 勲六等単光旭日章 |
勲五等双光旭日章 | 勲四等旭日小綬章 | 勲三等旭日中綬章 | 勲一等旭日章 |
勲二等旭日重光章・勲一等副賞 |
瑞宝章 |
勲八等瑞宝章 | 勲七等瑞宝章 | 勲六等瑞宝章 | 勲五等瑞宝章 |
勲四等瑞宝章 | 勲三等瑞宝章 | 勲二等瑞宝章 |
勲一等瑞宝章 |
その他、従軍記章など |
昭和六乃至九年 事変従軍記念章 |
支那事変 従軍記念章 |
昭和大礼 記念章 |
大東亜戦争 従軍記念章 |
戦捷 記念章 |
国勢調査 記念章 |
蒙古連合 記念章 |
神廟 記念章 |
大正大礼 記念章 |
紀元2600 年記念章 |
国境事変 従軍記念章 |
第一次世界 大戦従軍章 |
日清戦争 従軍記念章 |
日露戦争 従軍記念章 |
北清事変 従軍記念章 |
略綬…勲章の布の部分と同じ物を使う事 で何を授与されたかを知る事が出来ます。 |
傷痍軍人章 |
支那事変の頃に 制定されたもので 戦傷が金色、戦 病が銀色でした。 |
この上記、資料の軍人さんは、昭和10年12月に現役兵として、歩兵第三十六連隊 の第十一中隊に入営。満州へ派遣され、翌年9月に陸軍一等兵に昇進。その後、 昭和12年4月に独立守備歩兵第二十八大隊第四中隊に編入され慶城警備に当たっ ている。戦傷なのか戦病なのか詳細な記載が途切れている為、判別できませんが 昭和13年1月にハルピン陸軍病院桜花分院に入院。すぐに本院に転院。同年2月に 旅順陸軍病院に転院後、すぐに帰国し、大阪陸軍病院に転院。3月には、津陸軍病 院に転院となる。同年5月14日、に永久服役を免除されて退院となっています。その 後、大里三重療養所に入所したのが昭和14年8月16日で、開戦の年の昭和16年12 月8日に死去されています。病名等は、一切記載されておりません。 |
その他の様々の徽章関係 |
元帥徽章 |
陸軍大学校卒業徽章 通称:天保銭 |
陸軍歩兵学校卒業徽章 |
徽章を付けた上等兵 |
画像の両方とも剣術徽章です。右は、アルミ製の後期のものです。 射撃徽章なども同じですが、これらの徽章は昭和十五年以降、銀 色の物はアルミ製で製作するようになったそうです。持ち比べてみ ると軽いです。 |
小銃射撃兵徽章(昭和十四年十一月制定) |
真中は、第三種射撃章。左右は、競点射撃一等章。 |
一種 剣術徽章 |
(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正) |
(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正) |
機関銃射撃徽章(大正九年制定) |
機関銃射撃徽章(兵徽章:昭和十四年改正) |
機関銃射撃徽章(大正九年制定) |
機関銃射撃徽章(大正九年制定) |
歩兵速射砲射撃徽章(左)と砲兵競点射撃優等章(右) |
上下共に、砲兵照準徽章(昭和四年改正) |
速射砲射撃徽章(兵徽章) |
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定) |
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定) |
砲兵馭術徽章(昭和八年制定) |
馬術徽章(昭和十五年改正の方) |
砲兵観測微章(昭和六年改正) |
速射砲射撃微章(昭和十四年制定) |
重砲兵通信徽章(明治四十五年制定) |
砲兵通信徽章(昭和六年制定) |
こちらも陸軍の砲兵通信徽章ですが戦火で焼けた 後があります。満州でソ連兵に記念品として持ちさ られた物のようです。ロシアからの里帰り品です。 アルミニウム製で桜に通信機器の受話器を象って います。 |
砲兵通信徽章(下士官用) 昭和6年制定(改正の)下士官用砲兵通信徽章。制定当初の 明治45年は、重砲兵通信徽章。桜と電話機の受話器を組み 合わせたデザインで、砲手の通信手、観測術を担当する成 績優秀な下士官に授与された徽章。前所持者は、満州・支那 事変に従軍の陸軍曹長でその後、除隊して国鉄に就職してい またそうです。下士官用の徽章はどの兵科も大変貴重で授与 数も少ない為、希少です。 |
歩兵砲速射砲徽章(兵徽章) |
砲兵照準徽章(昭和四年改正) |
野戦砲兵・重砲兵・要塞砲兵照準徽章(昭和十六年制定) |
自動車操縦徽章(昭和十四年制定) |
小銃軽機関銃徽章(昭和十四年改正)) |
砲兵観測最優等章(明治二十八年制定) |
飛行機操縦者徽章(将校徽章と下士官徽章) 大正十二年制定で将校徽章は、昭和十五年 に廃止。下士官徽章の方は、敗戦まで授与さ れ佩用されました。 |
”ところてん”の複製品です。上の本物と比較 すると一目瞭然ですが中々、良い味を出して います。こうした品も面白いものです!! |
下士官勤功章(明治四十一年制定) |
箱が残っている下士官勤功章 |
この下士官勤功章は、精勤6年以上の品行 方正な下士官に精勤年功を表彰して与えら れました。 |
将官隊長章(昭和十八年十月十ニ日制定) |
佐官隊長章は、桜花と桜枝が金色で地は、アルマイト。 尉官隊長章は、桜花と桜枝が銀色で地は、アルマイトで 区別されます。将官隊長章は、明らかに大きさが違うの で一目瞭然です。 |
左より尉官隊長章、佐官隊長章、将官隊長章、尉官隊長章 |
小銃射撃 兵徽章 |
小銃 射撃徽章 |
剣術徽章 | 馬術徽章 | 砲術徽章 |
下士官勤功章 |
武功章(左が将校用、右が下士官・兵用) |
陸軍武功章(乙徽章:兵・下士官用)の複製品です。 昭和十九年制定で金鵄勲章に同等に値するものと され授与されました。以下は、19年12月13日の朝日 新聞に掲載された武功章の制定に関する記事です。 |
海軍小銃射撃優等章(前期型) (明治44年9月8日制定) |
海軍小銃射撃優等章(前期型) |
海軍小銃射撃優等章 |
海軍通信優等章(明治二十八年制定:前期型) |
海軍 通信優等徽章 (明治44年9月8日制定) |
こちらも上記の通信優等章を3年連続 保持すると授与される青メダルです。 |
海軍機関運転優等章(前期型) |
明治四十四年九月八日制定で昭和 十六年に廃止になりました。銅製。 |
海軍 機関運転優等章(前期型) |
機関運転優等徽章 (明治44年9月8日制定) こちらも上の機関運転優等章を3年連続 保持すると授与される青メダルです。 |
海軍工作優等章(前期型) |
上の前期型の方が下の後期型より重量感もありカッコイイです。 |
海軍工作優等章(後期型) 昭和五年四月二十二日制定で 昭和十六年廃止になりました。 後期型のアルミ製です。 |
海軍航空優等章 (昭和2年6月1日制定) |
こちらも上の航空優等章を3年連続 保持すると授与される青メダルです。 |
海軍航空優等徽章 (昭和2年6月1日制定) 銀製の後期型の青メダルです。 |
画像の左が最初に拝領する航空優等章です。これを3年間保持すると 右の優等徽章が拝領されます。双方とも給料に反映されるので薄給の 下士官以下の者は、こぞって狙ったものと聞いています。皇室の菊の 御門を配した右のメダルは、通称:青メダルと呼ばれています。 |
海軍 艦砲射撃優等章 |
こちらも銅製の明治44年9月8日に制定された最古の優等章 の一つです。艦砲の年度射撃訓練時に成績優秀な砲手を選 び、褒章として与えました。オリジナルの桐箱付きで退色も無 い極美品です(前期型)。 |
上の画像のとは、違う艦砲射撃優等章(箱なし) |
こちらの上下の徽章も別の箱無しの艦砲射撃 優等章です。材質は、真鍮製の下地に銅で鍍 金されています。桜と錨は光沢のある金メッキ です。銅色の焼付け塗装のタイプでは、ありま せんので新しい時代の優等章で無いと思われ ます。 |
海軍 艦砲射撃優等徽章 |
こちらの青メダルは、上記画像の優等章を3年(回)以上, 続けて授与されると与えられたものです。この青メダルは 授与されると優等章と違い、永久に所持することが許されま した。明治44年9月8日の制定です。(前期型) |
この品は、オリジナルの箱付きの美品ですが、残念な事に裏留の 金具が外されて正面から穴が開けられています。その周りの七宝 が一部剥離しています。戦後の記念にペンダント等にしたのでしょ うか…惜しいです。 |
海軍 魚雷発射優等章 |
(明治44年9月8日制定制定) |
こちらも上の魚雷発射優等章を3年連続 保持すると授与される青メダルです。 |
魚雷発射優等徽章 (明治44年9月8日制定制定) これも前期型の青メダルです。 |
機雷(敷設)優等章 大正八年四月制定。本品は、 後期型のアルミ製。 |
操舵優等章 (昭和5年4月22日制定) |
應急優等章 (昭和14年8月31日制定) |
應急優等章を3年連続ホルダー で下の應急優等徽章(青メダル) が授与されます。 |
應急優等徽章 (昭和14年8月31日制定) |
潜水艦修業徽章(潜水学校練習生修業徽章) (明治44年9月8日制定) |
*海軍には、11種類21個の優等徽章が存在しています。 (潜水艦修行徽章を除き) |
海軍大学校卒業徽章(後期型) |
侍従武官徽章(複製品) |
某軍装店が客の依頼で少数限定で生産した品で、 材質は本物と同じく銀を使用し凝った造りとなって います。 |
大禮使関係員徽章 |
丁種大禮使徽章 |
造幣局製。共箱入り。徽章の裏に造幣局製 I.SATOの刻印があります。 |
小さな大禮使徽章です。下級官吏用の物と思われます。 |
Part Uへ続く! |