旧日本軍の初歩・How to !
(階級とは?...部隊って?…etc)





このページでは、今まで旧日本軍に全く興味も無く見ても聞いても
意味不明の方向きに初歩的なものを解説します。陸海軍の階級か
ら…部隊の構成から少しずつ補足していきます。…軍隊は、階級
社会です。この階級と軍律により統制を取り集団として行動するわ
けです。我々の祖父、若い方には、曽祖父の時代の軍制や仕組み
を改めて出来るだけ判り易く御紹介します。







                  (初めに)

私、憂国烈士が個人的に思うに…約60年前に存在した帝國陸海軍
…様々な捉え方を戦後されておりますが…良きしろ悪しきにしろ我
国そして日本民族の歴史であります。事実は、変えようのないもの
です。テレビのニュースで誰が何を言おうと…また、大新聞がどう書
こうと…鵜呑みにせず、自ら一度、歴史を学び自分自身でその近代
史を咀嚼すべです。その上で若い方や皆様が、どう判断を下すのも
自由です。…しかし如何に多くの日本人が戦後に日教組や左翼とい
われる人々の作り出した嘘や、中国・韓国の捏造するプロパガンダ
的な虚構の歴史を信じ込み誤った判断を下しております。イメージだ
けで歴史を捉えては、なりません。真実を見極めて下さい。…確かに
、十五年戦争や大東亜戦争(太平洋戦争とは、米国の呼称)では、我
国は国家の浮沈と民族の滅亡を賭けて総力を挙げて闘い敗れました
。全土で空襲を受け原爆を落とされ…多くの罪のない国民の尊い生
命が失われました。そして、たった一枚の赤紙で召集され異郷の地で
多くの国民が兵士として命を散らしました。まことに酷い事と想います
。しかし、それは、米国も英国もすべからく古今東西を問わず…等しく
同じ運命を同時期に生きた者は、受けねばならない事でした。そして
死が予想もつかない処で理不尽に訪れる事も、また現代でも変わりま
せん。それは、イラクやアフガンを見てもお判りでしょう。そして平和を
謳歌する今の日本でも…交通事故や犯罪による殺人事件…。先の戦
争で多くの旧日本軍兵士は、陸海問わず勇敢に戦いました。それは、
戦後、日本軍と戦った米軍の将官達が、いみじくも語ったように『日本
軍の兵・下士官の精強さ忍耐強さは、超人的なものだった。指揮をす
る将校の硬直した誤算さえなければ明らかに世界最強の軍隊であった
ろう。』と語っている事が全てを現しております。美談でもなく多くの将
兵が死に当たり『天皇陛下万歳』とは、叫んでおりません。多くの者は、
『お母さん』であったり家族・恋する者の名前を呼んで死んだと申します
。…今も昔も変わる事は、ありません。我国の皇軍将兵が勇敢だった
のは、その死生観や日本人としての文化的な美学などが欧米人を初め
とする外国人とは、異質であった事です。また”恥”の文化でありましょ
う。心優しい日本人は、自分が卑怯な行いをして故国に残る妻子や家
族が肩身の狭い思いをする事を良しとしませんでした。どうせ死ぬなら
、死なばもろとも…そうした精神状態も大きく作用したものと想われます
。昔の人とは、言っても死にたくない…生きて家族に逢いたい…そうした
想いは、今と変わりは、ありません。…全て狂気でとか、軍国主義で片
つけられては、余りにも可哀想です。ひとえに家族や国を想い無念のう
ちに死んでいった多くの先人達を学ばずして一刀両断する馬鹿者が余
りに多すぎます。是非とも自分の目で耳で学び、判断して頂きたいもの
と思わずに居られません。







Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)



帝國陸軍の階級




階級(呼称・名称) 襟章 肩章(肘章) 位置付け
二等兵
一等兵
上等兵
兵長(伍長勤務上等兵)
下士官 伍長 分隊長・これより軍官となる。
軍曹 分隊長
曹長 中隊付
准士官 准尉(特務曹長) 見習士官 ・中隊付
士官 少尉 小隊長・連隊旗手
中尉 古参であれば中隊長
大尉 中隊長
少佐 大隊長
中佐 騎兵・戦車連隊の連隊長
大佐 連隊長
将官 少将 旅団長
中将 師団長・軍・方面軍司令官
大将 総軍司令官
元帥(大将) 元帥は、階級は、大将である。
天皇陛下 大元帥(天皇陛下) 陸軍の最高司令官

以下は、昭和15年9月3日に廃止された兵科色です。
立襟時代は、クワ型で、九八式以降では、山型兵科章
などで兵科を判るようにしておりました。九八式階級章
の下部に兵科色を入れる場合もありました。


左上が砲兵科のクワ型、右上が砲兵科の山型


代表的な陸軍の臂章






軍旗

軍旗があるのは、歩兵と騎兵のみです。連隊が創設されると
天皇陛下より軍旗が親授される。従って軍旗は、大変象徴的
なもので由緒ある軍旗を守り奉じて戦ってきました。平時は、
連隊長室に安置され廊下に軍旗歩哨が警護していました。ま
た士官学校を出た新任の少尉が連隊旗手となります。軍旗が
持ち出される時には、誘導将校と軍旗衛兵下士官が2名付く
事になっていました。また戦場では、軍旗中隊が一個中隊組
織され警護します。そしてこれが連隊長の予備部隊となります

騎兵軍旗

最初の軍旗

近衛歩兵第二連隊   近衛歩兵第一連隊
騎兵連隊が軍旗を先頭に進軍。
軍旗が兵営を出ると連隊旗手の少尉が軍
旗を掲げ、2名の警護の下士官に誘導の
将校がつく。
以下は、歩兵第七十三連隊の画像です!
軍旗祭の画像です。
大正13年秋季演習で突撃待機の七十三連隊の連隊旗


天皇旗    皇后・皇太后・太皇太后旗    摂政旗        皇太子旗

親王旗

観兵する天皇陛下。

陸軍の部隊構成


連隊以上の単位(特別な例を除いて平時は、師団が最高単位)
総軍(軍団) 方面軍 師団 旅団 歩兵団
関東軍   南方総軍 朝鮮軍   支那派遣軍第一総軍   etc. 方面軍(軍が2個以上) 軍(師団が2個以上) 師団(歩兵連隊を3〜4個、その他兵科の連隊と病院などの支援部隊を含む。平時は、一万名規模、戦時で二万名ほどになる事もある) 旅団(歩兵連隊2個を基幹とし他兵科を加えた単位。師団の中に作られる時が多いが、独立して作られる事もある。平時には、あまり作られない。)旅団長は、少将がなる。 歩兵団(歩兵連隊一個を基幹とする部隊で旅団よりも小さな規模。)団長は少将または大佐がなる。
司令官は、中将または、大将。 司令官は、中将。 or
軍の最大の単位。司令官は、大将以上(方面軍が2個以上)
師団長は、中将。天皇陛下より親補される。 連隊
歩兵連隊(全ての基幹となる構成単位で出身地で組織され2個大隊を基幹とする。)連隊長は、大佐がなる。但し、歩兵以外の兵科では、中佐がなる。
連隊以下の単位
大隊 中隊 小隊 分隊
歩兵連隊 歩兵中隊3〜4個、その他の兵科の中隊よりなる。 歩兵小隊3〜4個を基幹とする。最も結束力の強い単位。 歩兵分隊3〜4個よりなる。小隊長は、少尉が任じられた。 分隊は、最も小さな単位であり、分隊長は、軍曹がなる。人員は、10〜15名であった。
連隊長 大佐
(約1.500名〜2.500名規模)
大隊長は、少佐が任じる。
中隊長は、大尉または、古参の中尉。家族的な単位として中隊長が父親で兵は、子供という感じとされた。 (一個小隊は、約50〜60名の規模)
(一個大隊は約500〜600名規模)
(一個中隊は約200名規模の集団)

歩兵中隊の戦時編成(昭和12年頃)


・中隊長:大尉

・中隊付将校:中尉と少尉(三名)

・准士官:准尉(一名)

・下士官:曹長(一名)
      軍曹・伍長(二十名)

・兵:上等兵(二十一名)
   一等兵・二等兵(百四十五名)

 合計:百九十二名


上記の階級章の欄を見れば、お判りのように伍長より上の
下士官は、軍官となります。階級章にも下士官より星章は、
金属を用いて区別しています。一般に徴兵は、2年間で初年
兵が二等兵、入営半年で一等兵。徴兵が明け除隊で上等兵
に進む者は特別優秀な兵士。優秀な兵は、選別されて上等
兵になり下士官候補と目されます。そのまま除隊せず下士官
へ進む者と、下士官適任証をもらい除隊する者にわかれます
。多くの同年兵が一等兵で除隊する中で上等兵に進級した者
は、相当に優秀とされておりました。尚、日中戦争以降は、2年
現役解除がならず…除隊即召集が当たり前になった為、古参
兵の数が増えた為、上等兵の上に兵長を作り、これが兵の最
高階級となりました。


中隊は、大きな一家!…無敵皇軍の強さの秘訣!

皇軍は、中隊という単位を軍の根幹を成す単位として敗戦で消滅す
るまで育成を行ってきました。中隊は、陸軍大尉(時に中尉)を中隊
長として150〜250名の兵員よりなります。中隊においては、中隊長
が父親なら内務掛准尉が母親であり各小隊長が長兄で班長(分隊
長)は、次兄となります。まさに一家と言える集団が中隊でありまし
た。この為、中隊長は、全ての中隊の将兵の顔は勿論の事、性情や
家庭環境まで熟知している事が求められ、当然、それが統率の要諦
と言われてきました。従って中隊長と将兵の関係は、その上の大隊
長・連隊長・旅団長・師団長よりも最も密接で濃いものといえます。

現代社会であまり置き換える例えを見つけられませんが、こうした
旧陸軍の軍の単位を簡単に例えるなら、各中隊は自分の住む地域
の小中学校の学級(クラス)と考えて下さい。担任の教師が中隊長
です。その学校の学年単位が大隊で学年主任の先生が大隊長と言
えましょう。そして学校そのものが連隊であり学校長が連隊長です。
地域の学校(連隊)が幾つか集まったものが旅団であり、更に大きく
なって師団となると考えると判り易いでしょう。クラスの副担任が小
隊長殿であり、自分の所属する班の班長さんが分隊長の下士官と
なります。

こうした中で帝國陸軍では、平素から中隊長を中心に一致団結して
教育訓練、起居、人事、賞罰、昇進の全てが中隊を単位に行われて
きました。それゆえに戦闘が激しさを増し戦死者が続出して指揮系統
が混沌となった時は、須く中隊長の基に集まり、一塊となって最後の
最後まで任務に邁進するのが要諦であり、帝國陸軍の考える根本的
思想でありました。…象徴的な中隊と中隊長の関係を表した悲劇が
あの昭和維新を叫んだ2.26事件と言えるでしょう。別に帝都不祥事件
と言われたクーデター未遂事件の安藤大尉は、歩兵第三連隊第六中
隊長でした。当日、麻布三連隊の週番司令だった安藤大尉は、自らの
中隊である第六中隊158名の出動を命じ行動を共にしました。この安
藤中隊は、最後まで投降命令に応じず抵抗した事で良く知られていま
すが、その結果この中隊の158名の運命は、悲惨なものとなりました。
事件後、満州に移駐され多くがチチハル侵攻作戦で戦死、生き残った
者も殆どが再召集を繰り返され北支やノモハンの激戦場を転戦させら
れ留守隊に残された一部の兵を除き、死ぬまで全員が戦わされました
。文字通り安藤中隊は、父である安藤大尉の後を追わされ一家全滅
の憂き目となりました。

インパール作戦や南方の悲惨な島嶼戦では、戦力を徹底的にすり減
らし150〜250名いた中隊が30名、50名まで激減し戦うなんていう話
は、ごまんとありました。転戦に継ぐ転戦で人員の補充も無くすり減っ
ても中隊は、最後まで部隊の基本単位として行動をしました。また下
級士官である少尉〜大尉の小・中隊長は、支那の大陸でも米英の連
合軍を相手にしても最後は、軍刀を抜いての指揮官陣頭の突撃攻撃
を基本としたのは、敗戦まで一貫として変りません。それが皇軍の強
さであり弱さでもありました。装備も士気も劣る支那人相手なら少数の
僅かな兵力でも支那人の圧倒的な数の兵力を気合で打ち破りました。
しかし如何に勇猛果敢で恐れられた日本兵も想像を絶する圧倒的な
火力と物量の前では、敵陣地を突破できずいたずらに戦死者の山を築
くのみとなり…新しい近代戦の火力集中・物量戦の前に日清日露戦争
を勝ち抜いた白兵戦の突撃戦法は、時代遅れとなっておりました。

こうした白兵戦第一主義のもたらした弊害の第一番は、陣頭に立って
突撃する少尉・中尉の戦死による将校不足でした。支那事変が拡大す
るとこの傾向は、大問題となりとても士官学校出の士官で置き換えて
吸収できる規模でなく少尉候補や幹部(甲・乙)候補生制度などを活用
し予備将校の拡大を図りましたが、最後まで初級将校不足の問題は、
解決できない問題となりました。考えてみると航空機による特攻や特攻
艇”震洋”や人間魚雷”回天”での特攻攻撃も九死に一生を得ない非道
なる作戦ですが…常々の戦闘で軽・重機関銃に自動小銃・短機関銃の
火線の中を軍刀や銃剣で突撃するのも当時の連合軍兵士から見ても
今の現代人から見ても日常から旧軍の突撃自体が特攻のレベルと同じ
である事が良く判ると思います。前提で目前の敵陣地を撃たれる事無く
突入でき相手を刺し殺すまたは、斬り殺す事が出来たら生還を果たせ
る訳ですが…。基本は、いつ死んでもおかしくない無謀なる突撃です。
これは、支那人など勇気の欠片も無い連中は、かなりビビるのですぐに
少数の日本軍の前に白旗を揚げ降伏するのが良く判ります。



将軍と提督のお話!

通常、将官を陸軍では、将軍と呼び、海軍では、提督と呼びました。
共に少将以上を言います。陸軍では、士官学校を出ない者、即ち
兵・下士官より叩き上げの者の最高位は、中佐でした。また陸大(
陸軍大学校)を経ない士官学校のみの将校は、多くが大佐、または
少将で定年を迎え、予備役に編入される。戦時では、中将まで上る
者も多かったが、おおよそ平時では、歩兵連隊長を務める陸軍大佐
が出世の一区切りであった。将官も中将となれば師団長となる。師
団長は、戦時では、2万名もの兵のTOPであり、それ以下の指揮官
との大きな違いは、天皇陛下より直接任命される親補職である事
です。…この直隷という形は、絶対的な皇軍の強さの源であり、また
弱点であったとも言えます。これより上は、先任の中将職の軍司令
官、方面軍司令官、更に上の軍団…関東軍や支那派遣軍、南方
総軍などなどは、大将が司令官を務めておりました。大将という官職
は、軍の最高位の最終階級です。元帥は、大将の階級のままで元
帥府に列せられるもので実質的には、大将のままです。陸軍では、
敗戦までに僅か134名、海軍は、77名のみです。陸軍の大将のうち
7名は、大東亜戦争で名誉の戦死をした中将が昇進した死後のもの
です。全陸軍将官4.500人の134名の大将、敗戦時に国外の外地で
復員を待った外征軍が500万とも600万名とも言われましたが…そ
れらを指揮した将軍も僅かに4.500名、その頂点の大将、134名は、
まさに狭き門と言えるでしょう。因みに大将の定年は、65歳、元帥府
に列せられた元帥は、死ぬまで生涯現役でした。尚、帝國海軍では、
大東亜戦争中、実に元帥2名、大将5名、中将56名、少将252名の合
計315名もの提督が戦死されました。海軍全体の戦死者41万名も
合わせて戦史上のレコードでもあります。如何に激しく大規模な戦い
であったかが窺い知れます。また、帝國海軍が滅びた後、もう二度と
こうした大海軍同士の空母対空母…海と空の大海戦は、起こらない
と言われております。確かに今となれば、もう米国海軍に匹敵するよ
うな海軍は、この地球上には存在しません。


補足!

戦前においては、軍人も公務員と同じです。当時の官吏制度にあって
は、陸海軍の大佐以下の士官は、奏任官という身分でありました。こ
れに対して将軍や提督といわれる将官は、勅任官といわれる身分と
されていました。奏任官が任免を奏じるだけなのに対して勅任官は、
天皇の勅任によって任じられる身分でありました。更に陸海軍の大将
ともなれば親任官となり天皇が直接に任命する親任式によって任命さ
れます。一般の文官で親任式で任命される身分は、総理大臣、国務
大臣、特命全権大使などがあります。陸海軍大将の地位は、それと
同等であった事が良く判ります。



陸軍の兵力分布と動員状況


時期・配置 対ソ連 対中国 本土 対英国 対米国 総計
開戦当初     昭和16年12月〜 満州・朝鮮
14個師団(27%)
76.9万人(34%)
中国
23個師団(45%)
61.2万人(27%)
本土・台湾
4個師団(8%)
51.2万人(22%)
南方進攻
10個師団(20%)
34.9万人(17%)
無し 51個師団
227万人
ガ島反抗直前   昭和17年8月 17個師団(28%)
78万人(35%)
航空67中隊
(44%)
27個師団(44%)
63万人(28%)
航空8中隊(5%)
6個師団(10%)
40万人(28%)
航空16中隊
(40%)
ビルマ・マレー8個師団(13%)43万人(19%)
航空61中隊(40%)
比島・豪北
3個師団
(5%)
61個師団
(内3個戦車)
249万人
航空152中隊
ガ島撤退直前   昭和18年1月 16個師団(26%)
航空68中隊
(37%)
24個師団(39%)
航空8中隊
(8%)
6個師団(10%)
航空37中隊
(20%)
8個師団(13%)
航空37中隊
(20%)
上記+南東方面
7個師団(12%)
航空13中隊
(7%)
61個師団
航空184中隊
絶対国防圏    昭和18年9月 19個師団(26%)
航空16戦隊
(29%)
25個師団(34%)
航空4個戦隊
(7%)
8個師団(11%)
航空11個戦隊
(20%)
11個師団(15%)
航空14個戦隊
(25%+)
上記+中部太平洋
10個師団(14%)
航空10個戦隊
(19%)
73個師団
航空60個戦隊
マリアナ決戦当時  昭和19年6月 14個師団(16%) 23個師団(27%) 12個師団(14%) 13個師団    (14%) 同上
24個師団(28%)
86個師団
比島決戦当時  昭和19年6月 8個師団(7%) 26個師団(26%) 12個師団(12%) 14個師団 (14%) 上記+台湾・沖縄
39個師団(40%)
南朝鮮・千島
99個師団
沖縄戦当時    昭和20年4月 満州
8個師団(7%)
31個師団(25%) 23個師団(19%) 15師団 (12%) 同上
46個師団(37%)
123個師団
敗戦時 満州
22個師団(13%)
66.4万人
25個師団(14%)
105万人(20%)
千島・台湾・朝鮮
73個師団(42%)
288.2万人(53%)
14個師団(8%) 上記-台湾・朝鮮
          39個師団(23%)      (玉砕部隊を含む)          82.8万人(15%)
173個師団
547万人

上記の表でお判りのように開戦当初は、大陸の対中国、対ソ連に
対しての配備が60%以上に上っている。しかし、大東亜戦争が進
み、南方の戦線が拡大するにつれて南方の対英米への兵力が増
強され米軍の反抗から敗色が濃くなる時期に至ると、明らかに対
ソ戦用に用意された満州の関東軍が南方へ転用されているのが
判ります。また戦争が長期に継続していた支那全域の軍は、敗戦
の手前でも全軍の25%を張り付かせ維持していた事も判ります。
そして敗戦時は、本土決戦を意識して国内に300万名近い兵力を
集中動員している事も判ります。この時に初めて全軍の25%を超
えていた中国大陸の軍が20%にまで減っています。また敗戦後
のソ連の侵攻により敗戦4ヶ月前まで8個師団(7%)にまで満州
の関東軍は、櫛が抜けるように兵力を引き抜けれましたが…急増
動員で人数だけは、67万名近い軍勢に仕立て上げた事が良くお判
りかと思います。しかし、人数こそ全盛期の無敵精強の関東軍と同
じ数を整えても急な召集で集めた中年兵・老兵などが中心で全員
に小銃もいきわたらない有様でした。






Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)



帝國海軍の階級




階級(呼称) 襟章 肩章(臂章) 昭和17年改正後 改正後臂章 袖章 位置付け
四等水兵 二等兵
三等水兵 一等兵
ニ等水兵 上等兵
一等水兵 兵長
下士官 三等兵曹 二等兵曹
二等兵曹 一等兵曹
一等兵曹 上等兵曹
准士官 兵曹長 兵曹長 士官候補生の袖章
士官 少尉・特務少尉 少尉 兵・下士官から昇進したものは、兵学校出と区別して特務を冠して区別した。
中尉・特務中尉 中尉 昭和17年の改正で特務による差別は、撤廃された。
大尉・特務大尉 大尉 特務大尉の袖章
少佐 少佐 駆逐艦長、潜水艦長
中佐 中佐 巡洋艦・潜水艦長
大佐 大佐 戦艦・航空母艦などの大型艦の艦長。航空隊の司令。
将官 少将 少将 戦隊司令官
中将 中将 艦隊・連合艦隊司令長官(兵科でない軍医等の相当官の最高位。)
大将 大将 連合艦隊司令長官や軍令部総長、海軍大臣などの要職。
元帥(大将) 元帥 元帥の階級章は、大将である。
天皇陛下 大元帥(天皇陛下) 大元帥 海軍の最高司令官
*海軍は、17年改正までは、予備士官の階級章、帽章は、商船大のコンパス。または、袖線などでも区別した。これは、特務士官も同じで、金線を細くしたりしていた。また、改正までは、兵科により色分けで識別線を用いていたが、これら全てが統一され区別が全て無くなり、特務少尉〜特務大尉という呼称による差別も無くした。(尚、海軍では、陸軍と違い大尉を”だいい”と呼ぶ。)


以下は、各科の識別線の色分けや下士官兵の臂章や特技章などです。







左が飛行兵曹長で右が軍医中尉の襟章


























 












軍艦旗

   大将旗       中将旗       少将旗   

司令旗

Z旗
このカラフルな旗は、日本人にとって取分け象徴的な意味を
持つ旗です。…一般には、アルファベットのZを表しており国
際信号旗で『投網中』であるとか『曳航を求む』を意味します
。しかし、このZ旗は、かの明治38年の日露戦争で当時、世
界最強を謳われたロシア海軍のバルチック艦隊を迎え撃つ
た日本海海戦で、連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が
このZ旗を掲げ有名な…『皇国ノ興廃、此ノ一戦にアリ各員
一層奮励努力セヨ』と発し…見事完膚なきまでに敵艦隊を
撃滅しました。以来、帝國海軍は、伝統的に決戦に臨む艦
隊の旗艦では、このZ旗を掲げて同じ訓示を行い、敵艦隊と
相対しました。







連合艦隊とは?



帝國海軍と言えば連合艦隊ですが一体、連合艦隊とは、
どういう位置づけの存在なのでしょうか?これを簡単に解
説しましょう。帝國海軍は、そのお手本を大英帝國海軍と
したのは、有名ですが英海軍にあるGrandFleet(大艦隊)
を起源としている様です!列強の海軍は、それぞれ地名
を由来に黒海艦隊とか地中海艦隊や太平洋艦隊などと艦
隊名を付けていましたが四方を海に取り囲まれた我が国
には、そぐわないものでした。これゆえに帝國海軍は、早く
より第1艦隊より始まるナンバリングで艦隊名を表示してき
たのです。制度としては、明治17年10月1日に連合艦隊編
成条例が制定されましたが当時は、まだ弱小海軍で外洋
に出て戦闘航海が出来る軍艦は、12隻を数えるのみでし
た。明治27年7月に日清戦争勃発し9月に黄海海戦で帝國
海軍は、デビュー戦で大勝利を収める事となる。この時の
連合艦隊(海軍総力と言って過言でない。)は、軍艦31隻、
水雷艇24隻であった。主力は、コルベット艦6隻に巡洋艦4
隻のいわゆる六四艦隊であった!明治36年10月に常備艦
隊制度の廃止と共に(西海艦隊、常備艦隊と言う名前が無
くなった。)敗戦に至るまでの一般的な第1艦隊…という呼
称と編成になっていきました。同年10月19日に連合艦隊司
令長官に東郷平八郎大将が親補され第1艦隊司令長官を
兼任して日露戦争で世界戦史に名高い日本海海戦が闘わ
れたのである!闘いは、旅順港攻撃、黄海海戦、蔚山沖海
戦を経て日本海海戦でかのバルチック艦隊を殲滅撃破の
偉業を達成したのである。この時の連合艦隊は、第1、第2
、第3艦隊の3つより成り、第1艦隊は、旗艦の戦艦「三笠」
を筆頭に戦艦6隻、装甲巡洋艦4隻を主力とする計31隻。
第2艦隊は、装甲巡洋艦6隻、巡洋艦4隻を主力とする計
30隻。第3艦隊は、巡洋艦4隻、海防艦4隻を主力とする
計30隻であり、第3艦隊は老朽艦が多く実際は、第1、第2
両艦隊で日本海海戦を勝ちぬいたのである。この闘いまで
は、連合艦隊は、平時編成では、存在せず臨戦時にのみ
編成される性格のものでしたがこの海戦以降は、平時にあ
っても常に連合艦隊が置かれる様になって行ったのです。
大東亜戦争開戦時は、連合艦隊の編成は、第1−第6艦隊
、第1航空艦隊、第11航空艦隊、南遣艦隊の九つの艦隊を
持ち254隻の軍艦を以って米英蘭豪海軍に挑んでいきまし
た。帝國海軍でこの他に連合艦隊に所属しない兵力として
横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4大海軍鎮守府がありこれら
は、帝國海軍の主用軍港でそれぞれに艦隊、警備隊、陸戦
隊が置かれた(各鎮守府長官は、艦隊司令長官と同じ海軍
中将が務めた)。他にも日本国内や植民地における海軍航
空隊の基地は、連合艦隊の管轄外であった。従って連合艦
隊とは、すなわ帝国海軍主力であるが外洋外地攻撃部隊で
あり本土防衛の諸戦力を除外した戦闘集団を意味したわけ
です!海軍は、ワシントン軍縮で戦艦の比率を5:3とされ次
いでロンドン軍縮で重巡洋艦の比率を10:6にされるという不
平等の制約下にあって、その造艦技術を花開かせ戦艦、重
巡、軽巡、駆逐艦、航空母艦といずれの戦闘艦も欧米の戦
闘艦の技術を遥かに引離した名鑑を産み出して来ました。
あらゆる種類の艦種のどのレベルにおいても世界最高の軍
艦を揃え、開戦時105万トンで戦艦10隻、空母10隻、重巡
18隻、軽巡23隻、駆逐艦111隻、潜水艦64隻、特務艦14隻
、海防艦4隻の254隻で臨み…約3年半の死闘の末…昭和
20年8月15日には、戦時中に作られた383隻、85万8千トン
を加えた参加総戦力637隻、192万5千トンの内(小艦艇を含
まず)、石油無く動かぬ戦艦「長門」に軍港に座礁した空母1
隻と重巡洋艦1隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦30隻、潜水艦12隻
特務艦3隻の合わせて50数隻約13万トン(水雷艇、魚雷艇、
掃海艇などの小艦艇を含まず)にまで激減しており見る影も
無い有様でした。世界戦史々上においてここまで、酷い敗戦
は無くこの戦闘中に元帥2名、大将5名、中将56名、少将252
名の総計315名の海軍提督が戦死し海軍全体で約41万名の
戦死者を出すという世界戦史にも例の無い記録を残した闘い
であった!いかに激しい消耗戦と激戦で僅か3年9ヶ月で実
力世界1位と言われた世界三大海軍国の帝国海軍は消滅し
たのでありました!しかし、この敗戦時においても総屯数と艦
艇数にて世界3位の海軍力(米、英、次いで日本とソ連が同率
)に列せられたのは、いかに帝國海軍の強大なものだったか
を示しており、その巨大さと強さを知る事が出来ましょう。また
、戦時下で海軍が撃沈させたる米英艦は、戦艦4隻、他に大
破させし戦艦4隻、空母10隻、重巡9隻を筆頭に計189隻を撃
沈させたのである!日本国民の圧倒的な支持と誇りが連合
艦隊でありました。それは、奇跡と言われた東郷元帥のバル
チック艦隊殲滅という神話に…いかに国民が驚喜したかを示
しております。明治以降、敗戦まで連合艦隊は、国民の守護
神であった事は、誰も否定し得ない事実でしょう!かって連合
艦隊旗艦として大和に其の座を譲った強運な戦艦「長門」の
最期は、敗戦後、米軍によるビキニ環礁での水爆実験の標的
艦としての最期でした。昭和21年7月1日と7月25日の2発の
原爆実験で長門の他に米戦艦「ネヴァタ」、「ニューヨーク」、
「アーカーソン」、「ペンシルベニア」、米空母「サラトガ」なども
配置されたが長門を除く全てが即日に撃沈した。長門は、5
度の傾斜で傾きながら5日間沈まず、7月30日未明に海底に
姿を没した。この沈没を目撃したものは、誰もいなかった!
米軍は、改めて日本海軍艦艇の造艦技術の高さに舌を巻い
たのでありました。戦艦「大和」、「武蔵」の出現まで基準排
水量4万トン、40cm2連装砲塔を4基持つ戦艦「長門」は、紛
れも無く世界最強の戦艦でした…その人知れず忽然と消え
た最期は、孤高の武人の最期を見るかの様で帝國海軍、
連合艦隊の栄光と挫折をその身で示した様な気がしてなり
ません。最近になりこの海もダイビングが解禁となり数年前
、何処かの新聞の一面をカラー写真で海底の戦艦「長門」の
画像を飾った事がありましたが…いまだにその画像が脳裏に
焼き付いてなりません…!




昭和16年12月…開戦当時の
               連合艦隊編成!!



               (開戦時)



       
 連合艦隊(司令長官 
                海軍大将 山本五十六)

第1艦隊(司令長官 海軍中将 高須四郎)


  第1戦隊  戦艦『長門』,『陸奥』

  第2戦隊  戦艦『伊勢』,『日向』,『扶桑』,『山城』

  第3戦隊  戦艦『金剛』,『榛名』,『霧島』,『比叡』

  第6戦隊  重巡『青葉』,『衣笠』,『加古』,『古鷹』

  第9戦隊  軽巡『大井』,『北上』

   第1水雷戦隊(旗艦)軽巡『阿武隈』
    第6駆逐隊   駆逐艦『雷』,『電』,『響』,『暁』
    第17駆逐隊 駆逐艦『谷風』,『浦風』,『浜風』,『磯風』
    第21駆逐隊 駆逐艦『初春』,『子ノ日』,『初霜』,『若葉』
    第27駆逐隊 駆逐艦『有明』,『夕暮』,『時雨』,『白露』

   第3水雷戦隊(旗艦)軽巡『川内』
    第11駆逐隊 駆逐艦『吹雪』,『白雪,,『初雪』
    第12駆逐隊 駆逐艦『白雲』,『叢雲』,『東雲』
    第19駆逐隊 駆逐艦『磯波』,『浦波』,『敷波』,『綾波』
    第20駆逐隊 駆逐艦『天霧』,『夕霧』,『朝霧』,『狭霧』

  第3航空戦隊 空母『鳳翔』,『瑞鳳』
          駆逐艦『三日月』,『夕風』
    
    附属:特設艦船『神祥丸』


第2艦隊(司令長官 海軍中将 近藤信竹)


  第4戦隊 重巡『高雄』,『愛宕』,『摩耶』,『鳥海』

  第5戦隊 重巡『那智』,『羽黒』,『妙高』

  第7戦隊 重巡『最上』,『三隈』,『鈴谷』,『熊野』

  第8戦隊 重巡『筑摩』,『利根』

   第2水雷戦隊(旗艦)軽巡『神通』
    第8駆逐隊 駆逐艦『荒潮』,『満潮』,『朝潮』,『大潮』
    第15駆逐隊 駆逐艦『黒潮』,『親潮』,『夏潮』,『早潮』
    第16駆逐隊 駆逐艦『初風』,『雪風』,『時津風』,『天津風』
    第18駆逐隊 駆逐艦『霞』,『朧』,『陽炎』,『不知火』

   第4水雷戦隊(旗艦)軽巡『那珂』
    第2駆逐隊 駆逐艦『村雨』,『五月雨』,『春雨』,『夕立』
    第4駆逐隊 駆逐艦『野分』,『嵐』,『萩風』,『舞風』
    第9駆逐隊 駆逐艦『朝雲』,『峯雲』,『夏雲』,『山雲』
    第24駆逐隊 駆逐艦『海風』,『山風』,『江風』,『涼風』
      
       附属:特設艦船『神風丸


第3艦隊(司令長官 海軍中将 高橋伊望)


  第16戦隊 重巡『足柄』,軽巡『長良』,『球磨』

  第17戦隊 敷設艦『巌島』、『八重山』、特設敷設艦『辰宮丸』
   第5水雷戦隊(旗艦)軽巡『名取』
    第5駆逐隊 駆逐艦『春風』,『旗風』,『朝風』,『松風』
    第22駆逐隊 駆逐艦『文月』,『皐月』,『水無月』,『長月』

   第6潜水戦隊(旗艦)潜水母艦『長鯨』
    第9潜水隊 潜水艦『伊123』,『伊124』
    第13潜水隊 潜水艦『伊121』,『伊122』

   第12航空戦隊 水上機母艦『神川丸』,『山陽丸』,『相良丸』

   第1根拠地隊 敷設艦『若鷹』,第19号掃海艇
             特設艦船『辰春丸』,『新興丸』以下9隻

    第2,3砲艦隊、第21水雷隊、第11,30掃海隊、第2防備隊

    第21、31、53、54駆潜隊、第2通信隊、第2港務部

   第32特別根拠地隊
    
     附属:
特設艦船『山彦丸

第4艦隊(司令長官 海軍中将 井上成美)


  第18戦隊 軽巡『天龍』、『龍田』

  第19戦隊 敷設艦『沖島』,『常磐』,『津軽』,特設艦船『天洋丸』

   第6水雷戦隊(旗艦)軽巡『夕張』
    第29駆逐隊 駆逐艦『追風』,『疾風』,『朝凪』,『夕凪』
    第30駆逐隊 駆逐艦『陸月』,『弥生』,『望月』,『如月』

   第7潜水戦隊 潜水母艦『迅鯨』
    第26潜水隊 潜水艦『呂60』,『呂61』,『呂62』
    第27潜水隊 潜水艦『呂65』,『呂66』,『呂67』
    第33潜水隊 潜水艦『呂63』,『呂64』,『呂68』

   第24航空戦隊 水上機母艦『神威』,特設艦船『五洲丸』
              千歳海軍航空隊,横浜海軍航空隊

   第3根拠地隊 特設艦船『福山丸』
    第4砲艦隊、第13掃海隊,第55躯潜隊,第3防備隊、
    第16海軍航空隊

   第4根拠地隊 特設艦船『高栄丸』
    第5砲艦隊、第14掃海隊,第56,57駆潜隊,第4防備隊
    第17海軍航空隊

   第5根拠地隊 特設艦船『勝泳丸』
    第7砲艦隊,第15掃海隊,第59,60駆潜隊,第5防備隊
    第18海軍航空隊

   第6根拠地隊 特設艦船『八海山』,『光島丸』,豊津丸』
    第8砲艦隊,第62,63,64,65駆潜隊,第6防備隊,第16掃海隊
    第51,52,53警備隊、第19海軍航空隊
     
     附属:
練習巡洋艦『鹿島』,
          特設艦船『聖川丸』以下5隻。

         第4港務部,舞鶴第2特別海軍陸戦隊


第5艦隊(司令長官 海軍中将 細萱戌四郎)


  第21戦隊 軽巡『多摩』,『木曽』,『特設艦船『君川丸』

  第22戦隊 特設艦船『粟田丸』,『浅香丸』

  第7根拠地隊 海軍父島航空隊,第10砲艦隊,第17掃海隊
           第66駆潜隊、第7防備隊

   附属:水雷艇『鷺』,『鳩』


第6艦隊(司令長官 海軍中将 清水光美)


  第1潜水戦隊 潜水艦『伊9』,特設艦船『靖国丸』
   第1潜水隊 潜水艦『伊15』,『伊16』,『伊17』
   第2潜水隊 潜水艦『伊18』,『伊19』,『伊20』
   第3潜水隊 潜水艦『伊21』,『伊22』,『伊23』
   第4潜水隊 潜水艦『伊24』,『伊25』,『伊26』

  第2潜水戦隊 潜水艦『伊7』,『伊10』,特設艦船『さんとす丸』
   第7潜水隊 潜水艦『伊1』,『伊2』,『伊3』
   第8潜水隊 潜水艦『伊4』,『伊5』,『伊6』

  第3潜水戦隊 潜水艦『伊8』,特設艦船『大鯨』
   第11潜水隊 潜水艦『伊74』,『伊75』
   第12潜水隊 潜水艦『伊68』,『伊69』,『伊70』
   第20潜水隊 潜水艦『伊71』,『伊72』,『伊73』
    
     附属:
練習巡洋艦『香取

 

第1航空艦隊(司令長官 海軍中将 南雲忠一)


  第1航空戦隊 空母『赤城』,『加賀』
    第7駆逐隊 駆逐艦『曙』,『潮』,『漣』

  第2航空戦隊 空母『蒼龍』,『飛龍』
    第23駆逐隊 駆逐艦『菊月』,『夕月』,『卯月』

  第4航空戦隊 空母『龍驤』,特設空母『春日丸(大鷹)』
    第3駆逐隊 駆逐艦『汐風』,『帆風』

  第5航空戦隊 空母『翔鶴』,『瑞鶴』,駆逐艦『朧』,『秋雲』


第11航空艦隊(司令長官 海軍中将 塚原 二四三)


  第21航空戦隊 特設艦船『葛城丸』
            海軍鹿屋航空隊、東港航空隊、第2航空隊

  第22航空戦隊 特設艦船『富士山丸』
            海軍美幌航空隊、元山航空隊

  第23航空戦隊 特設艦船『小牧丸』
            海軍高雄航空隊、台南航空隊、第3航空隊

   附属:特設艦船『りたん丸』,『慶洋丸』,『加茂川丸』
       
     第34駆逐隊


南遣艦隊(司令長官 海軍中将 小沢治三郎)


  第24戦隊 特設艦船『報国丸』、『愛国丸』,『清澄丸』

  第10航空戦隊 水上機母艦『瑞穂』,『千歳』

  第4潜水戦隊 軽巡『鬼怒』,特設艦船『名古屋丸』
   第18潜水隊 潜水艦『伊53』,『伊54』,『伊55』
   第19潜水隊 潜水艦『伊56』,『伊57』,『伊58』
   第21潜水隊 潜水艦『呂33』,『呂34』

  第5潜水戦隊 軽巡『由良』,特設艦船『りおでじゃねいろ丸』
   第28潜水隊 潜水艦『伊59』,『伊60』
   第29潜水隊 潜水艦『伊62』,『伊64』
   第30潜水隊 潜水艦『伊65』,『伊66』

  第9根拠地隊 敷設艦『初鷹』,特設艦船『相良丸』以下3隻
   第1掃海隊、第11、91駆潜隊、第91警備隊、第91通信隊

  第11特別根拠地隊 特設艦船『永福丸』、第81通信隊

  第1連合通信隊 東京通信隊、高雄通信隊、父島通信隊
             沖縄通信隊、第3,4,5,6通信隊

    附属:水上機母艦『千代田』
         駆逐艦『矢風』,
         標的艦『摂津』
         工作艦『明石』,『朝日』
         運送艦『室戸』
        特設艦船『朝日丸』,『高砂丸』

       第1哨戒艇隊
       佐世保第1,2特別陸戦隊
       横須賀第1,2,3特別陸戦隊
       呉第1,2特別陸戦隊







ありし日の帝國海軍






大海令…海軍の作戦の基礎となる命令書



大海令は、帝國海軍の最も基礎となる命令書です。
軍令部長がサインをして、各艦隊総司令長官
が基本作戦として命令を受けた原本の復刻版が
以下となります。
左は、対米戦にあたり開戦の作戦を
行う事を命じた大海令です。






開戦と敗戦




上下ともに戦後の復古品ですが…こうして始まり終わりました。







    古きよき時代の帝國海軍



昭和11年練習艦隊の記念写真(磐手、八雲)

練習艦隊の磐手、八雲 乗組みの士官、士官候補生がワシントンの
ホワイトハウスが見える公園で、米国海軍作戦部長スタンドレー大将
(中央)を囲んでの記念写真です。右端に居られるのが後の第二航空
戦隊司令官でミッドウェイ海戦で果敢に戦い、空母『飛龍』と運命を共
にした闘将 山口多聞海軍少将(戦死後 中将)の艦隊参謀(当時 
海軍大佐)時代です。






兵役と赤紙…召集令状



大日本帝國時代…徴兵制でしたから初めの頃は、3年の兵役義務が
成人男子に課せられました(後に2年の兵役に変わりましたが)。一般
に、この兵役で現役甲種合格の兵には、この赤紙は、来ません!!
赤紙と言われるのは、臨時”召集令状”と”充員召集令状”の二種類で
あります。陸軍が各年度ごとに決めた戦時定員を充足するのが”充員
召集”であります。またそれで足りない場合に随時、臨時に召集するの
が”臨時召集”となります。…これらは、本籍地のある連隊に所属しま
すので定められた期日に連隊に出頭しないと憲兵隊に連行されてしま
います。


戦前は、成人男子は満20歳になると徴兵検査を受けなければなりません。
(昭和18年の回生で、満19歳、昭和19年の改正で満17歳が徴兵検査を受
けなければなりませんでした。)検査の結果、甲・乙・丙・丁・戊種に分類さ
れます。この結果で甲種合格、乙種(第一・第二)合格、丙種合格は、戦時
でなければ乙・丙種がまず徴兵される事は、ありませんでした。また甲種で
あっても戦時でなければ、充足定員が低い年度であれば抽選で兵役につき
ました。また丙種は、身体上に欠陥があり、国民兵役には適する者。丁種は
身障者など兵役に適さない者。戊種は、囚人など兵役の判定が出来ない者
を差します。従って徴兵検査の合格者とは、甲と乙をいいます。


未使用の徴兵検査通達書です。
裏面がメモ書されて使用されています。


赤紙の戦後複製品。こうした臨時召集令状が送られて来ます。

また2年の兵役を終えた者は、予備役となり各地の在郷軍人会
に所属し、予備役4年3ヶ月、後備役5年を勤める事になっていた。
そして年に一度、簡閲点呼などがあり一日入隊が下士兵卒には
各連隊区ごとに定められていた。




珍しい…臨時召集令状(赤紙)と防衛召集待命令状



召集令状は奉公袋に入れて常時携帯が義務つけられて
いましたが、今となっては奉公袋の中には軍隊手帳はよ
く入っておりますが、召集令状はまず出てくることは有り
ません。この令状は惜しい事に破れと数字の書き込みが
有ります。何かの計算をしたのでしょうか…引き算をして
います(苦笑)。もう一枚の待命令状は初めて見ます。


希少な実物の赤紙です。しかも珍しい事にこの召集令状には
”即帰乙”のスタンプと”脊髄カリエス、二依リ召集規則第百三
十一条該当者ト認ム・陸軍軍医大尉柴田一男”とあります。つ
まり結核性脊椎炎を患っており徴兵不可でシャバに帰されてい
ます。今では脊椎カリエスは、まず見られない病気ですが敗戦
前は、抗生剤が無かった為、結核罹患率がかなり高く、その骨
病変である脊椎カリエスも多かったと言われます。亀背と言わ
れる、背中が湾曲し亀の甲羅のようになっている方を子供の頃
見かけた事がありますが、そういう方の病変です。今は、まず
見掛けません。赤紙は、昭和15年9月2日の集合となっていま
す。
こちらは、初めて見るガリ版刷りの防衛召集
待命令状です。

敗戦直前の昭和20年7月7日の日付けがあります。
何も書かれていないのが印象的です。本土決戦に
備えて5年前に即帰乙で召集免除した人間も防衛
召集しなければならない状況だったという事でしょ
うか。

上記の赤紙と同一では、ありませんが赤紙の封筒です。






充員召集令状(赤紙)



赤紙と呼ばれる物で陸軍の定めた各年度の計画によって戦時定員を充足するのが
充員召集であり、それ以外に必要に応じて召集するのが臨時召集でこの2種類が
赤紙と呼ばれたものである。他にも白、青紙などがある。赤紙を受け取ったものは
日時、記名を受領証に捺印した後は受領証は役場で保管、本記を持参して指定され
た部隊に出頭、受け渡すので召集された本人の手元に残る可能性は大変少ない物
です。
俗に一銭五厘の赤紙と呼ばれますが赤紙の交付は、郵便での交付ではなく
役場の職員などが直接手渡し交付をしていました。普段は、警察署に保管。
現品の赤紙は、明治期に作成・保管されていた召集令状で充員召集がかか
ることなく残っていたもので、時代相応の保管痕跡の為、赤色が退色してい
ます。






尚、兵役により兵士となると認識票を身に着けます。これは、
戦死した時に誰であるかを認識する為です。








官位



下士官以上の軍人は、軍官となる。…まあ公務員と言う事です。
将校になり少尉に任官すると官位が授けられます。

これは、同一人物の陸軍少尉任官と叙任の証書です






勲章



勲章とは、軍人に限らず民間人でも叙勲される人が功労を
認められ、また長年の労を評される晴れ舞台です。授かる
人の官位・階級により勲一等から下は、八等(また功一級
〜功七級)までありました。…また勲章とは、本来は、性格
を異にするものですが従軍記念章や参加章などもあります
が…これも略綬があり軍人を中心に略綬板に取付、胸を飾
りました。略綬とは、その名の通り略した物でこれを付ける
事で、その人がどのような勲章を持っているかが判ります。



金鵄勲章


金鵄勲章。明治に於いて制定された金鵄勲章は、戦時に
於いて武功卓越なる将兵に授与された名誉の勲章である
。特典として終身恩給が支給され(長期の日華事変での授
与者の激増で一時金の支給に変更された)金鵄勲章を身
に付けた軍人が上官に出くわした時も上官が先に敬礼する
程、権威と名誉のある勲章であった。功一級から功七級ま
で制定されていた。七級は兵士に六級は、下士官に五級は
尉官の将校に授与されたが敗戦により昭和22年に廃止さ
れた。
功七級金鵄勲章
兵士の中で初叙
が七級…最高が
功五級となる。鷲
のみが金で残り
が銀色。



 功六級金鵄勲章
 下士官・准士官で
 初叙が六級、極限
 功績で功四級。全
 てが金色である。




  功五級金鵄勲章
  下級将校(尉官)で
  初叙が五級、極限
  で功三級。鳶の部
  分金色で、盾・剣の
  部分等は全て銀色
  、功五級以上は鳶・
  盾・剣の周囲を光線
  で囲ってある。   
  功四級金鵄勲章
  高級将校(佐官)で
  初叙が四級、極限
  功績は、二級。本体
  は,鳶の部分だけで
  なく、盾・剣の部分全
  て金色になっていま
  す。功五級以上は盾
  ・剣等に色がつき、
  周囲を光線で囲って
  ある。尚、功三級は、
  手持ち無く首に下げ
  る形となる。
          功二級金鵄勲章・功一級副章

功二級以上は、将官に授与。初叙が三級。極限功績は、一級。
功二級は功一級の副章にもなる。回りを囲う光線が赤色と白色
になっており、型も大きくなっている。功二級には綬は無い。
功一級には大綬がつく。大綬は他の等級の綬とデザインは同じ
だが、幅が広くなっている。大綬は普通右肩から懸けるが金鵄
勲章勲章の場合、左肩から右脇に懸け正章を吊る。功一級は
正章と副章があり、正章・副章・大綬同時に着用する。


旭日章


  勲八等白色桐葉章       勲七等青色桐葉章   勲六等単光旭日章
勲五等双光旭日章  勲四等旭日小綬章   勲三等旭日中綬章      勲一等旭日章    
勲二等旭日重光章・勲一等副賞


瑞宝章


勲八等瑞宝章   勲七等瑞宝章   勲六等瑞宝章   勲五等瑞宝章
勲四等瑞宝章 勲三等瑞宝章    勲二等瑞宝章
勲一等瑞宝章


その他、従軍記章など


昭和六乃至九年
事変従軍記念章
支那事変
従軍記念章
昭和大礼  
記念章
 大東亜戦争
 従軍記念章
 戦捷
 記念章
   国勢調査
    記念章
  蒙古連合
   記念章
  神廟
 記念章
 大正大礼
  記念章
紀元2600
 年記念章
 国境事変
従軍記念章 
  第一次世界 
  大戦従軍章 
 日清戦争
従軍記念章
   日露戦争
   従軍記念章
   北清事変
  従軍記念章
略綬…勲章の布の部分と同じ物を使う事
で何を授与されたかを知る事が出来ます。


傷痍軍人章


支那事変の頃に
制定されたもので
戦傷が金色、戦
病が銀色でした。



この上記、資料の軍人さんは、昭和10年12月に現役兵として、歩兵第三十六連隊
の第十一中隊に入営。満州へ派遣され、翌年9月に陸軍一等兵に昇進。その後、
昭和12年4月に独立守備歩兵第二十八大隊第四中隊に編入され慶城警備に当たっ
ている。戦傷なのか戦病なのか詳細な記載が途切れている為、判別できませんが
昭和13年1月にハルピン陸軍病院桜花分院に入院。すぐに本院に転院。同年2月に
旅順陸軍病院に転院後、すぐに帰国し、大阪陸軍病院に転院。3月には、津陸軍病
院に転院となる。同年5月14日、に永久服役を免除されて退院となっています。その
後、大里三重療養所に入所したのが昭和14年8月16日で、開戦の年の昭和16年12
月8日に死去されています。病名等は、一切記載されておりません。



その他の様々の徽章関係



元帥徽章

陸軍大学校卒業徽章
  通称:天保銭

陸軍歩兵学校卒業徽章


徽章を付けた上等兵

画像の両方とも剣術徽章です。右は、アルミ製の後期のものです。
射撃徽章なども同じですが、これらの徽章は昭和十五年以降、銀
色の物はアルミ製で製作するようになったそうです。持ち比べてみ
ると軽いです。

小銃射撃兵徽章(昭和十四年十一月制定)
真中は、第三種射撃章。左右は、競点射撃一等章。
一種 剣術徽章





(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正)
(軽)機関銃射撃徽章(昭和四年改正)
機関銃射撃徽章(大正九年制定)
機関銃射撃徽章(兵徽章:昭和十四年改正)
機関銃射撃徽章(大正九年制定)

機関銃射撃徽章(大正九年制定)
歩兵速射砲射撃徽章(左)と砲兵競点射撃優等章(右)
上下共に、砲兵照準徽章(昭和四年改正)

速射砲射撃徽章(兵徽章)
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定)
歩兵砲観測徽章(昭和十一年制定)


砲兵馭術徽章(昭和八年制定)
馬術徽章(昭和十五年改正の方)
砲兵観測微章(昭和六年改正)
速射砲射撃微章(昭和十四年制定)
重砲兵通信徽章(明治四十五年制定)
砲兵通信徽章(昭和六年制定)
こちらも陸軍の砲兵通信徽章ですが戦火で焼けた
後があります。満州でソ連兵に記念品として持ちさ
られた物のようです。ロシアからの里帰り品です。
アルミニウム製で桜に通信機器の受話器を象って
います。
            砲兵通信徽章(下士官用)

昭和6年制定(改正の)下士官用砲兵通信徽章。制定当初の
明治45年は、重砲兵通信徽章。桜と電話機の受話器を組み
合わせたデザインで、砲手の通信手、観測術を担当する成
績優秀な下士官に授与された徽章。前所持者は、満州・支那
事変に従軍の陸軍曹長でその後、除隊して国鉄に就職してい
またそうです。下士官用の徽章はどの兵科も大変貴重で授与
数も少ない為、希少です。

歩兵砲速射砲徽章(兵徽章)
砲兵照準徽章(昭和四年改正)
野戦砲兵・重砲兵・要塞砲兵照準徽章(昭和十六年制定)
自動車操縦徽章(昭和十四年制定)
小銃軽機関銃徽章(昭和十四年改正))
砲兵観測最優等章(明治二十八年制定)

飛行機操縦者徽章(将校徽章と下士官徽章)
大正十二年制定で将校徽章は、昭和十五年
に廃止。下士官徽章の方は、敗戦まで授与さ
れ佩用されました。
”ところてん”の複製品です。上の本物と比較
すると一目瞭然ですが中々、良い味を出して
います。こうした品も面白いものです!!


下士官勤功章(明治四十一年制定)

箱が残っている下士官勤功章
この下士官勤功章は、精勤6年以上の品行
方正な下士官に精勤年功を表彰して与えら
れました。


将官隊長章(昭和十八年十月十ニ日制定)
佐官隊長章は、桜花と桜枝が金色で地は、アルマイト。
尉官隊長章は、桜花と桜枝が銀色で地は、アルマイトで
区別されます。将官隊長章は、明らかに大きさが違うの
で一目瞭然です。
左より尉官隊長章、佐官隊長章、将官隊長章、尉官隊長章


小銃射撃
 兵徽章
  小銃
 射撃徽章
  剣術徽章   馬術徽章  砲術徽章

下士官勤功章


武功章(左が将校用、右が下士官・兵用)
陸軍武功章(乙徽章:兵・下士官用)の複製品です。
昭和十九年制定で金鵄勲章に同等に値するものと
され授与されました。以下は、19年12月13日の朝日
新聞に掲載された武功章の制定に関する記事です。




海軍小銃射撃優等章(前期型)
  (明治44年9月8日制定)
海軍小銃射撃優等章(前期型)
海軍小銃射撃優等章


海軍通信優等章(明治二十八年制定:前期型)
 海軍 通信優等徽章
(明治44年9月8日制定)
こちらも上記の通信優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。


海軍機関運転優等章(前期型)
明治四十四年九月八日制定で昭和
十六年に廃止になりました。銅製。
海軍 機関運転優等章(前期型)
      機関運転優等徽章
    (明治44年9月8日制定)
こちらも上の機関運転優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。


海軍工作優等章(前期型)
上の前期型の方が下の後期型より重量感もありカッコイイです。
  海軍工作優等章(後期型)
 昭和五年四月二十二日制定で
 昭和十六年廃止になりました。
 後期型のアルミ製です。


  海軍航空優等章
(昭和2年6月1日制定)
こちらも上の航空優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。
   海軍航空優等徽章
  (昭和2年6月1日制定)
銀製の後期型の青メダルです。
画像の左が最初に拝領する航空優等章です。これを3年間保持すると
右の優等徽章が拝領されます。双方とも給料に反映されるので薄給の
下士官以下の者は、こぞって狙ったものと聞いています。皇室の菊の
御門を配した右のメダルは、通称:青メダルと呼ばれています。


海軍 艦砲射撃優等章
こちらも銅製の明治44年9月8日に制定された最古の優等章
の一つです。艦砲の年度射撃訓練時に成績優秀な砲手を選
び、褒章として与えました。オリジナルの桐箱付きで退色も無
い極美品です(前期型)。
上の画像のとは、違う艦砲射撃優等章(箱なし)
こちらの上下の徽章も別の箱無しの艦砲射撃
優等章です。
材質は、真鍮製の下地に銅で鍍
金されています。桜と錨は光沢のある金メッキ
です。銅色の焼付け塗装のタイプでは、ありま
せんので新しい時代の優等章で無いと思われ
ます。



海軍 艦砲射撃優等徽章
こちらの青メダルは、上記画像の優等章を3年(回)以上,
続けて授与されると与えられたものです。この青メダルは
授与されると優等章と違い、永久に所持することが許されま
した。明治44年9月8日の制定です。(前期型)
この品は、オリジナルの箱付きの美品ですが、残念な事に裏留の
金具が外されて正面から穴が開けられています。その周りの七宝
が一部剥離しています。戦後の記念にペンダント等にしたのでしょ
うか…惜しいです。


海軍 魚雷発射優等章
(明治44年9月8日制定制定)
こちらも上の魚雷発射優等章を3年連続
保持すると授与される青メダルです。
   魚雷発射優等徽章
(明治44年9月8日制定制定)
これも前期型の青メダルです。


    機雷(敷設)優等章
大正八年四月制定。本品は、
後期型のアルミ製。


    操舵優等章
(昭和5年4月22日制定)


    應急優等章
(昭和14年8月31日制定)
應急優等章を3年連続ホルダー
で下の應急優等徽章(青メダル)
が授与されます。
    應急優等徽章
(昭和14年8月31日制定)


潜水艦修業徽章(潜水学校練習生修業徽章)
     (明治44年9月8日制定)


*海軍には、11種類21個の優等徽章が存在しています。
 (潜水艦修行徽章を除き)


海軍大学校卒業徽章(後期型)


侍従武官徽章(複製品)


某軍装店が客の依頼で少数限定で生産した品で、
材質は本物と同じく銀を使用し凝った造りとなって
います。


大禮使関係員徽章
丁種大禮使徽章
造幣局製。共箱入り。徽章の裏に造幣局製 
I.SATOの刻印があります。

小さな大禮使徽章です。下級官吏用の物と思われます。



Part Uへ続く!