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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編 Z


旧軍の遺構や資料館など・・・北九州編

(1ページ目)

(九州北部に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)







我々日本人の偉大な先人達が後世の日本と日本人の為に
尊い犠牲を払った証しでもある旧軍の遺構を老若男女を問
わず、現在、この国で平和を享受して生きる全ての日本人
に広く知らしめ記録を残したい想いは変わらず…この北部九
州編の新ページを立ち上げました。中々、遠い現地へ足を運
ぶ事は難しいでしょうが…ネットの画面上を通して尊い犠牲
を我々の為に払って下さった事に想いを馳せ感謝し顕彰す
る心を…日本人同士が互いに通わせる事が出来れば幸い
に想います。
この北部九州地区は南九州地区に比べると地域性で
沖縄に向けての特攻基地は少なく…どちらかと謂えば
戦前からの施設が多い印象です。しかし大刀洗の様に
知覧や鹿屋、万世と同じような資料館もあります。特に
この大刀洗は昔と違い綺麗にリニューアルされ驚きまし
た。いずれの遺構も…世代を超えて語り継がねばなら
ない歴史です。それは我ゝ、日本民族の自存自衛の歴
史です。よしあしを判断するのは個人の自由ですが…
まずは起きた事・・・そして当時の先人同胞達が何を考
えどう行動したかを知って再考して欲しいものと感じます
。…時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の念を
捧げます。
                            合掌

                    皇紀2671年11月

                      管理人 憂国烈士








〜筑前町立 大刀洗平和記念館と
        大刀洗陸軍飛行場の遺構〜




個人から町立に代わりこんなに綺麗になり驚きました。この地を訪れるのは
学生時代以来です。資料館としては零戦以外は撮影不可など制約も多い割
には見るべきものが少なく…こればらば他の資料館のように堂々と撮影させ
てあげたほうが宣伝にもなるし後世に伝えるのにもより役立つと思うのです
が…。










この陸軍の九七式戦闘機と下の海軍の零戦三二型はこの世で唯一、現存する
実機であり貴重な存在です。九七式戦闘機の方は、平成八年に博多湾から引
き揚げられ復元された機体です。
名古屋から福岡に移された零戦三二型が福岡から寄贈され飾られています。
元々は、マーシャル諸島タロア島で発見された残骸を中日本航空が復元して
平成16年まで名古屋空港航空宇宙館に展示されていた機体です。その後、
福岡宇宙協会の所有物となりましたが、寄贈されここに飾られています。































零戦は撮影可ですが…本来、陸軍の飛行場でありメインとなる九七式戦闘機は
撮影不可なのでパンフ等からの使い回しで紹介します。いつも思うのですが、
あれが良くてこれが駄目の線引きが???ですね。

平成8年に博多湾で引き揚げられた九七式戦闘機です。現存する機体
としては世界で唯一この機体だけです。陸軍最初の低翼単葉戦闘機と
して昭和11年にデビューした画期的な戦闘機でしたが第二次世界大戦
では既に旧式機であり第一線で陽の目を見る機体では無かった筈だが
特攻機として転用された哀しき翼の飛行機です。
当時、大刀洗飛行場も特攻の中継基地としてまた直接の出撃地として
多くの特攻隊員を死地へ送り出しました。この機体も250s爆弾を搭載
し…やっとのこと飛行しましたが、低馬力の機体に250s爆装は負荷が
掛かりすぎて発動機不良を起こし博多湾に不時着を余儀なくされた機体
と謂われています。
練習機の赤トンボや下駄履きの水上機で特攻に出されるよりはまだ
ましですが…固定脚の低速な旧式機に爆装させて更に低速でヨタヨ
タと飛ばせた特攻機を操縦するは飛行時間も短い若い未熟な飛行兵
です。落として下さいと謂わんばかりの出撃は…気の毒としか謂いよ
うが無い想いで一杯になります。





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大刀洗駅と太刀洗レトロステーション
       (旧 大刀洗平和記念館)




一時、閉館したそうですがレトロステーションとして再度、開館しました。



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〜大刀洗陸軍飛行場の遺構〜




太刀洗の飛行第四聯隊は、陸軍航空の揺籃の地であり
今もこの周辺には大刀陸軍洗飛行場の遺構が色濃く残
されております。以下はその遺構の一部の紹介です。






第五航空教育隊の正門









こちらが移設前の元々正門があった場所です。下が当時の
第五航空教育隊(西部第百部隊)の空撮写真です。






飛行第四聯隊の正門
















飛行第四聯隊の時計台跡と記念碑




太刀洗の飛行第四聯隊は、陸軍航空の揺籃の地であります。
飛行第四聯隊は、大正8年に太刀洗入りし、以来、この地は…
敗戦まで西日本の陸軍航空の中枢となり飛行学校、航空廠、
飛行機・機材備品の整備等々で活気に溢れました。ここを巣立
ち多くの特攻機が知覧などへ飛び立ちました。
大正8年10月に大刀洗陸軍飛行場が完成し以来、陸軍が使用してきましたが
昭和4年4月に民間の日本航空輸送株式会社が大刀洗支所を設置して以降、
7年間…昭和11年に福岡の雁ノ巣飛行場に移転するまでは、この大刀洗飛行
場から東京、大阪など国内だけでなく台湾、朝鮮(釜山・京城)、満州(大連)
に定期航路を開き…まさに官民挙げての西日本航空発祥の地と謂えました。
ありし日の日本航空輸送(株)の航空機に格納庫






かつて飛行第四聯隊の司令部庁舎前庭の時計塔は慰霊碑に生まれ変わっています。








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当サイトの中で収載した展示物の中で
飛行第四聯隊の関係するもののあるペ
ージが上記バナーをクリックで開きます。



昭和20年3月27日…大刀洗大空襲で炎上する大刀洗基地の施設です。
当時、東洋一と謂われた陸軍の一大航空施設がこの地にありました。
大刀洗飛行場を中心に大刀洗航空廠や大刀洗航空機製作所、高射砲
第四聯隊、第五航空教育隊に大刀洗北飛行場がこの地でさながら一大
軍都として田園風景の中に存在し…スタートした大正5年から敗戦までの
約30年の歴史を刻みました。
B-29の大編隊は約1000発に及ぶ爆弾を六波に分かれて投下し
集団下校途中の立石国民学校の児童たちや一般市民達にも多く
の犠牲者を出しました。








監的壕

















飛行隊井戸














大刀洗北飛行場の掩体壕(爆撃機用)
     
 (現在は農家が倉庫として使用中)




刈り取りの終わった田圃の中に残る掩体壕です。農家の倉庫として使用中の
為、単独で放置されていた掩体壕は昔はもっとありましたが戦闘機用の小さな
物は全て取り壊されましたが、こちらの爆撃機用のものはあまりに大きかった
為、解体されずに残存したようです。隣の農家の家の一部と比較してもその大
きさが知れる。







上は現在、道路として活用されている北飛行場の全景。下は
戦後の昭和23年に米軍が撮影した北飛行場の跡の空撮写真。










〜 博多海軍航空隊の跡 〜

 (現・海の中道海浜公園)




旧博多海軍航空隊の跡地でスロープと思われる部分です。現在は、海の中道マリーナ
として使用されています(海ノ中道公園の中にあります)。右上は戦後に米軍が撮影した
博多空の水上機基地です。
海の中道公園にはリゾートホテルに水族館やマリーナまであり
ここにかつて海軍航空隊があったなど想像がつかない場所です。
博多海軍航空隊は、昭和15年11月15日に水上偵察機の操縦・偵察
の教育の為にこの地に開隊しました。九四式水上偵察機を装備した
水上機教育隊でしたが昭和19年4月に解隊。同じ中道に陸上滑走路
の西戸崎飛行場を利用した博多空(二代目)が 陸上実用機の教育隊
として再開します。同年8月には天草分遣隊を設置します。この部隊は
昭和20年3月に天草空として独立し開隊します。博多空は同年6月に
第九〇一海軍航空隊の博多派遣隊が置かれました。また零式輸送機
を主体とする第一〇二二海軍航空隊が鹿屋より移駐してきました。そ
して敗戦までその所属は第五航艦の第十二航空隊へ編入され特攻に
駆り出されて敗戦を迎えます。その後、米軍が進駐しました。


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左上は二代目・博多空の陸上滑走路を全景で捉えた戦後の米軍の空撮写真です。
下は拡大したものです。右上は旧滑走路があった辺りの現在の衛星画像です。



周辺の海辺です。沖合に見えるのは福岡市内中心部です。








福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)の跡 〜
   

        (現・雁の巣野球場)




唯一残る雁の巣飛行場(福岡第一飛行場)のスロープです。スロープの側が
工事中で残念ながら降りることが出来なかった為、対岸より撮影しました。
この雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)は水上機と陸上機滑走路を両方持つ飛行場として
開発された民間機用の飛行場でした。当時の福岡には水上機専用の名島水上飛行場は
ありましたが陸上滑走路を持つ飛行場は大刀洗飛行場しか無く利便性が悪く雁ノ巣飛行
場が昭和11年に開港しました。当初、陸上滑走路は600m×30mが1本。これに約80m
の水上機用スリップが1本に格納庫2棟でのスタートでした。戦前は此処より朝鮮・台湾・
支那・東南アジアへ空路を開いた民間の国際空港でした。の日米戦が開戦するや雁ノ巣も
陸海軍共用の飛行場となり、博多空も此処を使用しました。
戦後の空撮に見る雁ノ巣飛行場跡です。でかい二つの滑走路跡は戦後から暫く
米軍に接収されブレディ飛行場として使われた名残です。その基地も昭和52年に
返還され…今は雁の巣レクリエーションセンターとして野球場などになっています。
上は水上機用のスロープを拡大した画像です。下は現在の衛星画像です。
陸上滑走路の名残はありませんが…水上機用のスロープだけが現在も残
され…他の各地と同じようにヨットや小型船等の上げ下ろしに活用されてい
るのが遠目からも判ります。

かつては向こう岸に見えるスロープから国際線の水上機が大陸や朝鮮半島に
台湾や東南アジアへと離水して飛翔していった岸辺です。今はヨットに小型の
レジャーボートや釣り船等が浮かぶ入り江になっています。




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〜 陸軍歩兵第四十八聯隊の遺構 〜

 (現・陸自 久留米駐屯地・資料館)
   
    陸上自衛隊 第4特科連隊




かつて久留米のこの地は陸軍最強と謂われた歩兵第五十六師団(龍兵団)
と歩兵第十八師団(菊兵団)を輩出した地です。それにあやかってか陸自の
久留米駐屯地と第4特科連隊は菊と龍をデフォルメしたマークを部隊マーク
として使用しています。
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上の画像をクリックすると公式サイトが開きます。



ありし日の歩兵第四十六聯隊の営門


現在、広報資料館となっているこの建物は、旧歩兵第四十八聯隊の
本部庁舎だったものです。立派にまだまだ現役で残っている事に驚き
を感じます。


外壁などはモルタルで塗り固められて一見新しくてよく判りませんが煉瓦の部分や
ドアの木枠やデザインの庇等は昔のままで当時の様子を垣間見る事が出来ます。

時代を感じさせる趣のある門燈と思いきや偕行社で使用されたものを使っていました。

内部は木製なのでミシミシと音がしたり子供の頃の木造の小学校を思い出させて
懐かしい気分に浸れました。まさに昭和までの香りをとどめた空間です。

復元された四十八聯隊旗です。

旧第六師団長の応接室の革張りの椅子です。よく残ったものです。


大東亜戦争の緒戦…戦火の火蓋を切ったマレー半島コタバルの上陸戦で
兵士の鉄兜の内部にあった日章旗です。タイトル通り…弾痕と血染めの
日章旗です。



日本最古の戦車聯隊として知られる戦車第一聯隊は戦車第一大隊としてこの
久留米の地で大正15年5月に誕生しました。その後、昭和8年に戦車第一聯隊
に改編され、大東亜戦争では第二十五軍第三戦車団に所属しマレー作戦〜
シンガポール攻略戦〜ビルマ作戦に活躍します。高名な作家の故・司馬遼太郎
氏は見習士官として満州にあった戦車聯隊に配属され、敗戦時は本土決戦に
備えて栃木県佐野市で第三中隊第五小隊長(少尉)として終えています。


なぜか名だたる歴戦の渦を生き抜いた殊勲の幸運艦・駆逐艦”雪風”の軍艦旗です。
下は雪風が所属した沖縄水上特攻の第二艦隊司令長官として
戦艦”大和”と運命を共にした伊藤整一海軍中将(戦死後、大将)
です。この方は久留米の近く福岡県三池郡高田町出身(現在の
みやま市)という事で…何故か海軍関係も一緒に飾られておりま
した。






久留米の独立工兵第十八大隊と謂えば肉弾三勇姿で有名です!


























歩兵第四十八聯隊の記念碑

龍兵団の龍第6736部隊(歩兵第百四十八聯隊)の記念碑



久留米独立山砲兵会の建立した慰霊碑です。

戦後、自衛隊が使用する前の一時期…一部を九州大学がキャンパスの一部として使用していました。


こちらも旧歩兵第四十八聯隊時代の隊舎をそのまま使用してる建物です。







〜 陸軍歩兵第四十六聯隊の遺構 〜


 (現・陸自 大村駐屯地・鎮西精武館)




陸上自衛隊の大村駐屯地です。その昔は旧陸軍の歩兵第四十六
聯隊がありました。現在は陸自の第16普通科連隊がここを拠点に
国防の任に就いています。


下の画像をクリックすると駐屯地の公式サイトが開きます。
                 ↓






この鎮西精武館の正面の庭に置かれた石碑に彫られた”生々躍動”の由来ですが…
昭和20年4月、西日本防衛第2総軍司令官の任にあった畑 俊六 元帥陸軍大将が
当時の久留米第一陸軍予備士官学校長  野副 昌徳 陸軍中将(広島の歩兵第五
十五聯隊が宇垣軍縮の廃止になり、昭和12年に大村で再び軍旗を拝受して再編さ
れます。その初代聯隊長が当時 大佐だった野副閣下でした。)に『大村部隊の兵士
は非常に強いが、やや大人しい傾向があるので激励してもらいたい…』旨をお願いし
たところ、元帥が快諾され”生々躍動”と揮毫されたものと謂われています。
旧陸軍歩兵第四十六聯隊の本部庁舎をそのまま資料館(鎮精武館)
として旧大村藩時代から現代に至る資料を展示しています。
モルタルでクリーム色に塗られ瓦も煉瓦と同じ色に塗られており新しい感じ
の建物にみられますが…明治・大正・昭和・平成と長い年月が刻まれ皇軍
そして陸上自衛隊の伝統と歴史が刻まれています。




こちら大村でも久留米同様に菊と龍を郷土の誇りある伝統を引き継ぎたいと
部隊マークに使用されています。反日のプロ市民やマスゴミがガタガタと喚い
ても人々の心に刻まれた栄光の歴史や伝統を打ち消す事は不可能です。



明治維新前の大村藩時代の品まで展示されております。








大村は陸軍の大刀洗と並び海軍の軍都でありました。第二十一海軍航空廠
をはじめ大村海軍航空隊が存在しました。


大空襲で海軍航空廠と大村空は被害を受けました。













陸軍中将として第303師団長を務めて敗戦を迎えられた野副 閣下の寄贈された
貴重な品が並びます。野副 閣下は大村で第五十五聯隊の初代聯隊長を務めら
れただけでなく昭和12年4月16日には…ここの歩兵第四十六聯隊の留守隊長を
務めらており縁の深い将軍です。



歴代の聯隊長室です。





こちらの第十代聯隊長を務められた大村 純英 陸軍少将(歩兵第二十三旅団長)は
御当地の大村藩第十一代藩主 大村 純顕の三男の大村武純から生まれた世が世
なればの御家系の方です。従って華族であり従四位 伯爵です。因みに御夫人は
信濃松代藩の最後の藩主・真田幸民の次女で田鶴子様です。



昭和15年9月27日に大村で編成された歩兵第百四十六聯隊もまた
開戦から坂口支隊の基幹部隊としてフィリッピン・ダバオに上陸。以
来、ボルネオ…ジャワと転戦しました。その後、マレー作戦からビル
マ作戦に転用され雲南省怒江の戦線に進出します。そして北ビルマ
で敗戦まで戦いました。




三名中二名が地元の長崎県出身という事もあり、こちらの大村でも
肉弾三勇士の展示が見られました。



この天井やドアは補強の鉄枠やドアノブや鍵を除き窓枠など色も当時のままです。





長崎の災害出動と謂えば雲仙普賢岳を真っ先に思い浮かべます。
地元部隊だけに多くを扱っています。








感動的なのはPKO派遣に先立って下の様に旧軍時代と
変わらず千人針を作って持っていかれたとの事…絶えた
と思われた伝統がここにも生きておりました。




資料館以外にも残存し今も使われている旧軍時代の貴重な建物です!


こちらも外壁をきれいにモルタルで塗り固めて近代化しています。


こちらは倉庫代わりに使用されているだけなのでb渡り廊下まで
昔のままの外壁を残しております。皮肉なことに人の余り入らない
倉庫だけが皇軍時代の面影をひっそり留めているわけです。








歩兵第四十六聯隊の記念碑です。










脱線…御当地グルメ




博多と聞けば…明太子にラーメンに…と色々思いうかべます。
検索した一番人気が”博多だるま”でしたが…本店は朝が遅く
一番早い時間開いていた店舗を探して食してきました。
流石に美味でした!…札幌ラーメンに旭川ラーメンなど王道の醤油系や
味噌ラーメンと違う…豚骨の王道を行く九州ラーメンです。
勿論、完食ばい…!








〜 脱 線 2 〜




*今回このページの曲に取り上げたのは甲斐バンドの『BLUE LETTER』です。
この曲は昭和57年の秋に発売された甲斐バンドの21枚目のシングルになりま
す。昭和49年にデビューした甲斐バンドは…以来、活動を続け昭和61年に一時
解散、平成8年に期間限定の再結成から、平成11年に活動再開…今に至る九州
出身のバンドです。甲斐よしひろを中心にメンバー全員が60代になっています。
福岡出身で現在60歳になった甲斐よしひろ氏です。奥様は女優として
活躍した竹田かほりさんです。娘さんの甲斐名都さんはシンガーソング
ライターで活躍しています。





BLUE LETTER




甲斐バンドは全国区でメジャーになる前の曲の方が
好きです。…しかし懐かしいです。




























珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン




無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。








実物のホルスターに納めて見ました。









メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。

こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。