-

旧軍関連収集品
(軍装品...etc)PartTc















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








陸軍航空隊 ホー103
       12.7o機関砲(一式機関砲)の砲身




こちらは、加工前の一式機関砲の砲身。本来は、拳銃等
と異なり銃刀法の絡みを受けない砲身ですが、都道府県
の警察により幾分、解釈が違う事が良く言われております
。こちらの品は、前のオーナーが無用のトラブルを避ける
為、砲身内に詰め物をして使用不能にしてあります。
惜しい事に上記の画像のように砲身は、
発射不能の状態になっています。
一式機関砲(12.7o)は、50口径で1940年にホ-103として
制定。昭和16年(1941年)に一式として採用されました。基
本的には、それまでの7.7o機銃と同様でブローニング機銃
をそのまま変更せず採用しています。唯一の違いは、尾筒
底のバッファーで缶状の油圧方式となっていた点です。
一式固定機銃の主要諸元

口径:12.7o
全長:150cm
銃身長:70cm
重量:25kg
発射速度:800発/分



陸軍 一式航空機関砲(12.7mm) 薬莢

2個共に莢底に"シ"の刻印が有りますが、
1個は打ち損じで大きくずれています。


沖縄戦で使用され沖縄で出土した12.7mmと
九九式歩兵小銃の7.7mm弾頭です。
12.7mmの方は、打刻から米軍の使用した
ブローニング機銃のものと思われます。







陸軍 七粍七(7.7mm)航空機銃弾




七粍七弾は、研究資料用の普通弾を
真っ二つにカットしたものです。下は、
カットした普通弾とカットしていない普
通弾です。
陸軍の七粍七航空機銃弾は、九二式重機の
7.7o弾と共通でした。また同様に同口径の
旋回機関銃なども同じでした。







陸軍 一〇〇式四号機上蓄電池
          (航空機用のバッテリー)








24V、2Aの一〇〇式四号機上蓄電池です。陸軍の戦闘機などの
小型機用と思われます。12cm×26cm、高さ16cmの大きさです。
軽量かつコンパクトで今の普通車用のバッテリーより小さ目です。
バイク用のバッテリーよりかなり大き目です。軽自動車と普通車(
1600〜2000cc)の中間位でしょうか。当時の技術の高さに今更な
がら驚かされます。




陸軍の星章が刻印されています。


上下の画像のように三式戦”飛燕”と五式戦で使用
されていた事が判ります。時期的に四式戦”疾風”
などにも使われていた可能性も高いと考えます。



陸軍 一〇〇式二号機上蓄電池
        (航空機用のバッテリー)




上の四号の三分の二位の大きさですが、重量があります。
取っ手は片側欠損しキャップはありません。四号に比べる
と状態が悪いです。
蓄電池上部の鉛部に、”GS”の刻印があります。現在は
合併しGS YUASA(株)になりましたが、旧 日本電池(株
)です。このマークは、タイヤメーカーのBSマークと同じで、
創業者島津源蔵の名から、1908年より”GS”の記号を使
ってたようです。







ある陸軍 戦車将校の所持品




下に掲載した写真の戦車将校が所持した戦車時計(精工舎)です。








中尉か中佐か階級章が不明ですが略綬の数を見ると中佐の
戦車連隊長のような気がします。上の画像は、九八式軍衣と
後方の戦車の形状より昭和14〜16年では?と思わせますが
、下は立襟時代で少し古いと思われます。







陸軍 軍属の開襟服




残念な事に肩章は、切り取られています。
戦後に使用した為でしょう。。


手持ちの軍属(雇人)臂章と胸章を合わせてみました。
肩章が切られているのが判ります。







非常に珍しいマレーシア・ペナン島
  大丸百貨店製の陸軍軍属開襟従軍衣袴




大変珍しい、マレーシア ペナン島 大丸百貨店製の高級仕立且つ極美品です。
地質は将校夏衣袴と同じ薄手毛織、袴は短袴で衣袴完全揃。脇下開閉式、短袴
の尾錠着脱可能。状態は襟の内側に僅かないたみが見受けられますが他は、虫
食いなどの痛みがありません。本品は昭和十八年十月十二日(勅令第775号)
改正陸軍軍属従軍服です。(開襟は袖に折り返し無し。)十五年制では3つ釦で肘
章、袖口に2個釦が付いていた開襟服はこの時、現品のように改正されました。
(但し何故か第二釦のホールは閉じてある。)肩章は付けた形跡はありませんので
元より付いていなかったと思われます。





南方方面(外地)で撮影された物と思われる
陸軍軍属の集合写真です。
最前列中央は勅任官(閣下)が4人確認でき、刀緒は勿論
将官刀緒を付けています。椅子に腰掛けている左から四人
目の閣下は昭和十五年制の(前3つ釦+袖釦2個)で、そ
の他は昭和十八年制従軍服のようで、撮影は大東亜戦争
中19〜20年と思われます。立っている人は昭和六年制も
どきの様な服や肩章が付いていない様々な服装です。









陸軍 軍属の開襟衣













陸軍々属 奏任官 礼装用肩章




陸軍々属・奏任官礼装用肩章(昭和17年までの改正前)







陸軍 軍属(雇人)制服 (未使用・1号大寸)






陸軍 軍属(雇人)の制服。守警 給仕 小使 調教師 馬丁など、
陸軍省・聯隊本部などでの雑務を行なう兵隊以外の軍雇人の制
服です。木綿の夏服で未使用です。寸法も非常に大きいです。







陸軍 軍属(奏任官)外套






軍属(奏任官)の外套です。陸軍将校用外套と同一の
形状ですが、肩章が付き2つの銀星が付いています。
2つが奏任官、3つが勅任官です。将校同様のオーダ
ーメイドですがアルパカが入っていると思われ非常に
柔らかな手触りです。上質な良い外套です。







陸軍 軍属 の外套(奏任官五等)




昭和18年10月改正の陸軍軍属肩章を付けた外套です。
この外套は開襟(海軍 軍属式)ですが、前釦は全て飾り釦と
なり、大型の隠し釦が付いてます。外物入(ポケット)の取り付
けは、普通の陸軍々属より高い位置(軍刀の穴)より高い位置
に有り直立近い形に付いており特徴があります。後裂(背 裾
割れ)は縫いこまれ、背バンドは取り外された様ですが戦後改
造された物では有りません。肩章は、通常の硬式(裏金属板)
の様式でなく、また大きさも規格より少し細身になっております
。もしかすると外地(外国)で使用されたものかも知れないと考
えます。
五等奏任官の肩章ですので、少佐
相当官になるようです。







陸軍 軍属(判任官)外套




判任官軍属の外套です。将校用外套と異なり、右胸に
昭和15年制の判任官用胸章(初付け)が付き、肩章止
めが肩に存在します。襟の前合せあたりに虫なめがあ
り、前合せ右側の端にやや大きめの虫食いがあります。







戦時資料 警防団制服(夏季用上衣)




警防団襟章は、警防員の階級で数字の8と福住の金属徽章。


警防団のゲートルとベルト(下の
ベルトは、別人の方の物です。)


警防団の鉄帽(末期の物です。)







戦時資料 警防団の防火帽と防火外套




共に刺子になっています。
左が外套の右が帽子の方の記名布です。









戦時資料 警防団(防空団・消防団)の団長クラスの制服










防空団(消防団)の階級章と帽章です。警防団と
防空団は、今は消滅し存在しませんが消防団は
現在も存在しています。今の階級は、上から団長
、副団長、庶務部長、分団長、副分団長、部長、
班長、団員と八階級になっています。現在の消防
団の階級章と全く違う形式です。







戦時資料 警防団の副団長の制服




警防団の副団長制服です。鉄釦に、末期と思われる
粗末な綿地服です。画像のベルトは、上下逆でアルミ
製のものが付いています。階級章は、二つある警防団
徽章の一つずつがはずされています。二本線に徽章が
一つの階級章は、存在しません。


警防団用瓦斯マスク

警防団鉄帽


警防団の略帽


上のとは違う警防団の略帽





☆消防団・警防団の襟章や鉄帽前章等々☆




戦前の腕章や襷です。功労章は、埼玉県の消防協会
のものです。防空鉄帽前章に襟章などです。







陸軍 砲兵大尉 三式軍衣軍袴






三式大型襟章に昭和16年改正の兵科色、三式袖章・袖線と典型例の軍衣です。
下腿の両内側から両膝の内側に掛けてセーム皮
を当てて縫い付けしてあります。騎乗をされる砲兵
大尉さんだったと思われます。
偕交社軍需部のタグがあります。つまり吊るしの
軍服です。保坂の名前と何故か、19年5月14日
の記載があります。吊るしにしては、保存状態の
良い美品です。







昭和七年十月に空中戦闘訓練中に
     墜落殉職した太刀洗 飛行第四聯隊
             所属の陸軍航空曹長の品々




殉職した田中曹長の軍隊手帳
昭和4年1月10日に現役志願兵として飛行第四聯隊第四中隊に入隊。
同年7月17日、一等卒。下士官候補者として10月1日に所沢陸軍飛行
学校に入校。12月1日、航空兵上等兵。同日、伍長勤務上等兵。翌年
8月29日、召集下士候補者教育終了に付き退校。12月1日、任航空兵
伍長。昭和6年10月1日、所沢陸軍飛行学校第39期操縦学生として同
校へ入校。12月1日、任航空兵軍曹。昭和7年5月31日、同校退校。
同年10月4日、空中戦闘訓練中に墜落し殉職。同日に航空兵曹長。
昭和七年十月に空中戦闘訓練中に墜落殉職。遺族が太刀洗飛行場内に
建立した記念碑の銘板です。敗戦後に記念碑は撤去され銘板のみ遺族に
返却されたとの事です。
御存知のように太刀洗の飛行第四聯隊は、陸軍航空の揺籃の地
であります。飛行第四聯隊は、大正8年に太刀洗入りし、以来、敗
戦まで西日本の陸軍航空の中枢となり飛行学校、航空廠、飛行機
・機材備品の整備等々で活気に溢れました。ここを巣立ち多くの特
攻機が知覧などへ飛び立ちました。
飛行第四聯隊材料廠の”複葉機の記念楯” 
飛行第四聯隊材料廠が殉職した田中
曹長を偲び遺族に記念に作成して手
渡した品と思います。







元飛行第四連隊・航空兵特務曹長〜少尉の記録

〜満州建国大学のグライダー操縦教育設備計画〜


  (津川 秀雄 陸軍航空中尉の身分証及び書類関係)




元第十二師団飛行第四連隊の
航空准尉だった方の資料です。
この方の軍隊手帳・関連書類に依れば、飛行機
搭乗から材料廠付兵器委員〜飛行機工場主任。
機関工術教育助教からガス係教官・や軍用犬教
育等を経て准士官となり予備役後に乞われて
満州国の建国大学へ行きます。そこで
『昭和十四年十月二十日・操縦教育計画案』の
立案者となっております。














軍隊手帳の方は、特務曹長(准尉)昇進で終っており、
大正九年の志願兵から曹長までの軍歴が記載されて
おります。


以下は、大東亜戦争期の昭和18年、陸軍航空本部
の嘱託として勤務した津川氏の別の記録です。
上が表で下が裏になります。立川陸軍
航空廠の身分証明書です。
一兵卒から叩き上げで少尉に上り詰め、退役後は
嘱託として陸軍航空総監部・航空本部の総務部に
勤務しています。軍人の面魂が見て取れるようで
す。
昭和19年4月20日より、陸軍航空中尉で現役復帰します。
以降、敗戦までセレベス島及びジャワ島で第121飛行場
大隊に所属しています。何故か敗戦の10日前に再び予
備役になっています。飛行場の設営や管理などをされてい
たようです。






昭和10年に陸軍航空少尉で予備役
になるまでの履歴書です。
福岡県田川郡出身、大正9年志願兵として航空
第四大隊入営、大正11年任陸軍工兵伍長、12
年工兵軍曹、15年航空兵曹長、昭和5年航空兵
特務曹長、10年航空兵少尉・予備役編入、昭和
3年に下士官勤功章付与。搭乗員ではなく機械
関連の職務に従事しています。予備役後に嘱託
として航空廠勤務、昭和19年に飛行場大隊に
陸軍中尉として召集。
航空黎明期からの叩き上げの中尉殿です。







飛行第二十戦隊の古参航空兵曹長の勲記等々




一式戦”隼”の戦闘機乗りとして戦後まで生き
延びた歴戦の曹長殿の勲記等です。昭和10年
4月1日の航空兵上等兵で下士官適任証を貰う
所から始まります。




















飛行第二十戦隊は、一式戦”隼”を中心とした戦闘機隊
です。昭和19年10月21日(台湾沖航空戦終了後)に主
力16機が比島へ進出し、第4飛行師団指揮下に入り輸
送船団掩護(対潜哨戒)任務に就きました。ここで有名
な青塗装の隼が生まれたようです。広い海域の洋上飛
行で迷彩効果を高める為だったようです。比島へ進出し
た16機は、19年12月15日までに全ての機が消耗してし
まいました。戦隊は、一部人員のみが12月22日、台湾に
帰還したようです。この石崎秋雄曹長が善行証書をもら
っている日付は、昭和21年2月19日の敗戦後、半年が過
ぎています。恐らくは、比島では、無く台湾にて敗戦を迎
えたようです。







山口正熈 陸軍中将が若き参謀時代に
  軍司令官・井上陸軍中将からいただいた
                 頒恩賜の懐中時計




大正14年5月に当時、軍参謀であった時に
軍司令官であった井上中将より戴いたよう
です。薩軍司令官とありますので薩摩閥の
将軍だった方だと思われます。


山口中将は、歩兵科で東京出身

昭和 3年 8月10日 陸軍大佐(和歌山連区司令官)
昭和 5年 8月 1日  歩兵第四二連隊長
昭和 7年 4月11日 神戸連区司令官
昭和 8年 8月 1日  陸軍少将(津軽要塞司令官)
昭和 9年 8月 1日  第八師団司令部附
昭和10年12月2日  歩兵第一八旅団長
昭和12年3月 1日  陸軍中将(待命)
昭和12年3月29日  予備
昭和12年9月10日  第二軍兵站監









日本軍 宣撫班の伝単☆投降票(対 国民党軍)




”支那事変画報”、昭和十三年七月発行には、「五色旗の下に明示された
宣撫班の伝単、
親日の平和へと立ち上る除州の一風景である。」と説明があ
ります。
塔の上には五色旗、垂れ下がった幕には、「百姓が困窮し国家が焦
土するのは、国民党の抗日戦争である。」との内容が書かれています。…以下
の伝単は、スクラップブックに支那事変の絵葉書と一緒に貼られていた物です。
1911年、辛亥革命で清朝を倒し、中華民国臨時政府樹立し孫文大統領となる。
昭和12年に支那事変勃発。
この一連の伝単は日本宣撫班が昭和12年〜13年に
かけて華北方面でばら撒いた物です。
投降票は、五色旗と日の丸とが組み合わされ
ている所を見ると中華民国臨時政府の協力態勢に有ったと思われます。
文面は「
投降者は、この紙を持って日本軍まで来て下さい。日本軍は、この紙を持っている者に
対して、敵兵とみなさず優遇します。」との内容です。
             ”諸君看□老将発了!”

『皆さん、見てごらん!蒋介石が気が狂ったよ。側近と旧支那要人
は、相次いで華北に行った。蒋介石の暴虐、不信、没落は、目前
に迫っている。すぐに戦争を止めましょう。』と書かれているようで
す。随所に和製中国語が使われているそうです。
           ”地方雑軍反正帰順!”

『地方の雑軍は、投降して帰順した。雑軍には、構わず、早く
おいで、急いで帰っておいで。日本軍は、この紙を持って来
た者を敵とみなさないばかりか優遇します。』と記載されてい
るようです。
     左は、”赤魔党軍最後的狂乱計画”。

『これが果たして国を救う事でしょうか?皆さん、見て下さい。
共産軍と国民党軍の最期の気違いじみた計画を、生か死か
皆さんは、どちらを選びますか?日本軍は、皆様に同情致し
ます。』

     右は、”老将的横暴要将中国滅亡!”。

『蒋介石の横暴は、中国を滅亡させます。良民は日本と提携
して、早く中国の平和の回復に努力しましょう。』

と記載されているようです。
”将政権全帰潰滅!”

『蒋介石政権は、外国へ亡命した。地方雑軍は、投降し
帰順した。』とあるそうです。和製中国語の使用の誤りが
随所に見えるそうです。







珍しい…臨時召集令状(赤紙)
         と防衛召集待命令状




召集令状は奉公袋に入れて常時携帯が
義務つけられていましたが、今となっては
奉公袋の中には軍隊手帳はよく入ってお
りますが、召集令状はまず出てくることは
有りません。この令状は惜しい事に破れ
と数字の書き込みが有ります。何かの計
算をしたのでしょうか…引き算をしていま
す(苦笑)。もう一枚の待命令状は初めて
見ます。




希少な実物の赤紙です。しかも珍しい事に、この
召集令状には”即帰乙”のスタンプと”脊髄カリエ
ス、二依リ召集規則第百三十一条該当者ト認ム
・陸軍軍医大尉柴田一男”とあります。つまり結
核性脊椎炎を患っており徴兵不可でシャバに帰
されています。今では脊椎カリエスは、まず見ら
れない病気ですが敗戦前は、抗生剤が無かった
為、結核罹患率がかなり高く、その骨病変である
脊椎カリエスも多かったと言われます。亀背と言わ
れる、背中が湾曲し亀の甲羅のようになっている
方を子供の頃見かけた事がありますが、そういう
方の病変です。今は、まず見掛けません。赤紙は
、昭和15年9月2日の集合となっています。
こちらは、初めて見るガリ版刷りの
防衛召集待命令状です。


敗戦直前の昭和20年7月7日の日付けが
あります。何も書かれていないのが印象
的です。本土決戦に備えて5年前に即帰
乙で召集免除した人間も防衛召集しなけ
ればならない状況だったという事でしょう
か。


上記の赤紙と同一では、あり
ませんが赤紙の封筒です。







充員召集令状(赤紙)




赤紙と呼ばれる物で陸軍の定めた各年度の計画に
よって戦時定員を充足するのが充員召集であり、そ
れ以外に必要に応じて召集するのが臨時召集でこ
の2種類が赤紙と呼ばれたものである。他にも白、
青紙などがある。赤紙を受け取ったものは日時、記
名を受領証に捺印した後は受領証は役場で保管、
本記を持参して指定された部隊に出頭、受け渡すの
で召集された本人の手元に残る可能性は大変少な
い物です。
俗に一銭五厘の赤紙と呼ばれますが
赤紙の交付は、郵便での交付ではな
く役場の職員などが直接手渡し交付
をしていました。普段は、警察署に保
管。現品の赤紙は、明治期に作成・
保管されていた召集令状で充員召集
がかかることなく残っていたもので、
時代相応の保管痕跡の為、赤色が退
色しています。







ボロの前盒と中身




余り状態の良くない前盒です。
片方にだけ実包の入っていた紙函が残っています。
惜しい事に最上部の印刷部分は、破られて残っていません。









九九式戊 普通実包の空箱 ニ箱




騎兵薬盒の中に入っていた空箱だそうです。上蓋は無く、
本体のみ。箱の裏には、”九九式戊 普通実包18 
三〇二〇 425 二六九 昭18・10”のスタンプが押され
ています。







九二式戊 徹甲実包 空箱




九二式徹甲弾の昭和17年製造の15発入り紙箱
です。
九九式小銃や軽機用で使用された7.7mm
弾のものです。 







九九式戊 普通実包 昭和18年の空箱















九七式戊 普通実包14 三〇一一
      59 二九八 昭14.9 空箱




九七式7.7粍重機関銃用実包の紙箱です。









三八式小銃 狭窄射撃実包20発の空箱と実物空薬莢




三八式狭窄弾の紙箱に薬莢20発です。狭窄弾とは、装薬
を減らし、弾頭を専用のものにした弾薬で、射程距離が短
く、訓練用として用いられました。通常、普通実包が15発
入りの紙箱に入れられて支給されるのに対し、狭窄実包
は20発入りの紙箱に入れられていました。この紙箱も当
時のオリジナルの箱は、珍しいと思います。
普通実包の紙箱は、弾薬盒の中に残っていたり、海外に
持ち去られたものがある程度現存しているようですが、
狭窄弾用の紙箱はあまり、保存されていないようで
見かけません。
薬莢は回収され何度も使用されました。ですので、使用
回数が分かるように底の部分に点を刻印してあります。
点が一つは、2回使用、2つでは、3回の使用である事が
判ります。さらに、薬莢の口の部分には赤いマーカーも
残っているものもあります。これは普通弾を意味します。



南部教練銃用6.5mm狭窄弾・空包用薬莢。戦前に
南部銃製造所が作った教練銃の薬莢です。雷管付
きと、無しの二個。教練銃と薬莢は、主に青年学校
等で使われ、一部は陸軍の幼年学校等、軍の施設
でも使用された形跡が有ります。薬莢に関しては、
通常の三十年式薬莢(軍用)と異なり、リローディン
グが容易に出来るようになっており、又、当時、
一般に売られていた猟用1号雷管が使用出来る為
、特殊な軍用雷管を使うより、経済的なのが売りだ
ったようです。



上とは違う別の三八式小銃弾の
   発火済実物薬莢と空箱の残骸二つ











三十年式小銃 普通実包十五発用の空箱の蓋
      (明治三十五年八月製造)








火薬は東京造兵廠と思われますが明治三三年一二月の
製造刻印が朱色で入っています。







九二式飯盒(未使用のデットストック)




ボロの傷だらけの飯盒しか見た事が
無いので新品のこの飯盒は、感動し
ました!!
昭和17年の大支検定


昭和7年制定の九二式飯盒は、蓋と内盒と外盒の
3つより構成されます。アルミ製で掛子と呼ばれた
中蓋で、すり切り一杯が2合となります。外蓋一杯
の水でちょうど2合の飯が炊けるように出来ていま
す(旧軍の一食が標準2合でありました)。また
内盒と外盒の入子式になっていて両方を用いる
と一度に8合の米が炊け、また飯と味噌汁を同時に
調理することもできるようになっている優れものの
アイテムでした!!







開戦の年の兵・下士官用 九八式防暑軍衣




襟を縫い付けしています。下で判る
ように4人に仕えた軍服です。







昭五式時代、過渡期の試作品
       と思われる珍しい防暑軍衣






剣吊りは、外されていますが取り付けていた
跡が残っています。防暑用の脇下のフラップ
は、ボタンが外されてしまっています。両肩の
肩章は、外されたようで痕跡が残っています。
肩章留が外されているのが判ります。
襟は、ホックが一つ付けられています
。しかし立襟でなく元々から折襟です。
面白い品であります。







引田 乾作 陸軍中将の佩用していた勲章一式






連結金具にただ装着しただけでは無く、勲章の
綬が痛まないように布の台座に縫い付けるドイ
ツ軍のメダルバーのような造りになっています。
布の台座は軍衣(軍服)用の生地のようです。
軍人に授与されない国勢調査記念章があります
が、所有者の方は昭和になってすぐ退役していま
すので、退役後の役職で授与されたものだと思い
ます。


    ◇引田 乾作 陸軍中将の経歴◇

(歩兵科出身、功四級、独逸駐在、東京出身)

大正4年    歩兵七二連隊長

   7年    青島守備歩兵隊司令官

   7年11月 少将昇進

   9年    青島守備軍参謀長

  11年    第一師団付

  12年    下関要塞司令官

  12年8月  中将昇進

  13年    第二十師団長

昭和2年    待命

綬に痛みが多いですが
功四級金鵄勲章です。
引田乾作中将の将官大礼服との事です。







大口径の機関銃・機関砲の清掃具






左は、十一年式軽機の属品、
右は九七式車載機銃の属品



拳銃手入器











四十年に及ぶ収集家から出た襟部特別章




中々お目に掛かれない珍しい特別章です。


山砲兵連隊付将校以下と砲工兵技術准尉・下士官・工機兵
師団通信隊(電信隊付将校以下)と台湾山砲兵隊
鉄道隊と気球隊(徽章が逆に付いています)
独立守備歩兵隊と教導隊・下士官候補者一組







陸軍 九二式望遠測角機鏡眼鏡 珍品!




昭和十四年のシリアルNo.339で収容嚢と
眼鏡本体は、一致します。日本光学製です。
通常は、付属品として揃三脚”木製2段式”が
あるのですが欠品で、眼鏡本体と収容嚢のみ
です。
珍しいのは、単眼である部分に顕微鏡の分岐のよう
に双眼の物を取り付けている点です。これが戦後改
造なのか、戦前に改造した物か不明ですが、色合い
と作りを見ていると戦後の改造のような気もします。
下に単眼の良くある九二式を比較の為、掲載しまし
た。比較すると単眼の接眼の
率25倍(視野2度)
が付く部分に回転式の15倍と25倍の切替式眼鏡に
加工してあります。非常に興味深く面白い品です。
戦後に自衛隊の前身である警察予備隊や保安隊で
使用したのかとも想像します。戦前に改造された物で
あるにしろ、日本光学が改造したものと推察します。


九二式望遠測角機は、陸軍の砲兵隊で
使われた眼鏡です。目標に対する角度を
精密に測定する為のもので、コンパスの
ついた台座に据え付けて計測します。


こちらが良く出る単眼の九二式です。


規正水準器または、傾斜測定器でしょう。
これは、シリアルNo.が違いますので、
後家合わせのようです。







南方で使用された陸軍のカポック




非常に珍しいカポックです。陸軍航空隊
の他に南方の空挺作戦でも使用された
という話しもあります。
フンドシが無いのが最大の特徴です。
昭和十九年と京の印があります。







陸軍航空隊 不時着用糧食 携行嚢

















陸軍 不明の小型物量落下傘




陸軍の星章に19.10の刻印があります。
15センチ×15センチ厚さ5センチほどの
嚢の中に落下傘が入っています。四辺から
120センチほどの、直径7ミリほどのシルク
紐が付いています。これに投下物を縛った
のでしょうか。嚢の口は糸で縛ってあり、白
いコードを引きでして、何かにフックを引っ
掛けて投下すれば、糸を切って落下傘が膨
らむ仕掛けのようです。通信筒や小型の
物資を投下する物と想像します。







サイパンで玉砕し戦死された
    川島少尉の日の丸の寄せ書きに手紙と写真




御自宅に残された日の丸の寄せ書きを御遺族が大事
に保管されていたのでしょう。展示会等に用意したも
のと思われます。第四十三師団第百三十五聯隊と思
われます。岐阜編成のこの聯隊は、三千名中、二千
九百名が戦死されています。写真の方は、三式軍衣を
着用された陸軍少尉です。このように履歴のはっきり
した日の丸の寄せ書きは、少なくなりました。
大きさは、72cm×102cmで非常に薄い
シルクの布で出来ています。







陸軍 二式擲弾器(対戦車用)










アメリカからの里帰り品らしく、発射機構は、潰され
ている無可動の実物品です。ライフリングを1本ず
つフライス加工で入れる最初期型ではなく、ブロ
ーチを通したパイプを加工する後期型との事です。


こちらの榴弾は、下と違う弾頭部がφ40oの物。


二式擲弾器と収納袋、専用榴弾(φ
30o)と発射用木製弾丸の空砲。



陸軍 ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾(タ弾)




ニ式擲弾器(タテ器)用の擲弾(タ弾)です(羽が欠品です)。
本体に 航 昭和18.12 ウ と記載されています。
タテ器もタ弾もドイツから供与された希少
な技術の一つです。昭和18年の初頭か
らタテ器もタ弾も名古屋工廠で製作が開
始され、4月より試作品のテストを重ねて
製作された本土決戦用の兵器の一つで
もありました。
このタイプと同じになります!左は、初期の
二式擲弾器用の擲弾。真中は後期の物で
す。二式小銃擲弾用の40o擲弾です。







九九式軽機関銃用の銃口蓋




非常に珍しい九九式軽機関銃用のマズルカバーです。
全体に錆がありますが、バネも生きていて閉めると
パチンと良い音がします。







チェコ製軽機関銃 ZB26 無可動実銃




20連発の弾倉を持つチェコのZB26は、各国の軽機関銃
のベースとなった事で知られる名機関銃です。日本でも
このZB26がベースとなり九六式軽機関銃や九九式軽機
関銃が作られた事は、有名な話です。先の大戦では
日本軍だけでなくドイツ軍も使用していました。
設計は1926年の銃です。作られてから約70年は経って
いると思いますが木部の状態といい…とても良いコンデシ
ョンと思われます。










三十年式小銃から三八式に移行する際に、すでに問題
になっていた6.5o口径が小さ過ぎるという批判が無視
され、6.5o口径のまま昭和の動乱期に突入した陸軍は
、当然の事ながら口径過小の問題にぶつかってしまいま
した。 満州事変、支那事変、そして大東亜戦争と、敵
国は、口径を増え続けましたが、そのいずれもが・30口
径(7.62o)級の小銃や機関銃を装備しておりました。
当然、弾薬重量も重く長射程での射ち合いでは、相手が
一クラス上になってしまいました。 中国戦線で捕獲した
チェコのZB軽機が九六式軽機関銃より将兵に喜ばれ使
用されていたのは、こんなところにも理由があるようです。
 ZB26の原型は「プラハVz24」という機銃だそうです。
ZB26として制式採用になってからも、チェコ本国ではしば
らく「プラハVz24」と呼ばれていたそうです。私の手に入れ
たチェッコ機銃の刻印がVzとなっているのは、そうした意味
で初期ロットの為と思われます。ZBの刻印にVz26となって
います。チェコが自国で使ったもののようです。チェコの小火器は
、大体がVz○○と刻印されているようです。
上記の画像は、大先輩の方の所持している無可動実銃
のZB30と26です。写真右がZB30です。ZB26とチョ
ットだけ違いますが殆ど同じようです。脚はZB26の方
が断然格好良いとの事でした。九六式、九九式軽機関
銃は、ZB26を参考に作られましたが、ZBでは排莢が
ストレートに真下に、九六、九九式では、真横に排莢さ
れます。真横に排莢するようにした分、故障が多くなっ
たと言われています。

余談ですが、戦前の有名な本「戦う日本刀」の文中に
鹵獲したZB26を日本兵が分けて欲しがる様子が書い
てあるそうです。また、ニューギニアで高砂族が活躍し
た様子を書いた本では、高砂族の部隊を二人の中野学
校出身者が率いており、その内の一人の愛銃がZB26
だったそうです。ZB26の実包は、7.92mmで、日本
の銃とは違いますが、日本では「智(チ)式実包」として
ZB26用に作っていました。
いい笑顔の兵隊さんです。ZBを担いでいます!
上の画像は、支那事変直後の豊台の居留民の
義勇隊の写真です。右から2人目が担いでいる
のがチェッコです。小銃はモーゼルKar98kです
ね。下の画像は、昭和8年3月の熱河作戦で戦
死した第17連隊第11中隊の成田酉蔵上等兵
の傍らに有るのがチェッコです
ZB26を肩に担いでいるのは、桂林に潜入する、
工作員の画像です。見ての通り服装が、日本軍
人の軍装と違う事が判ります。中田達夫上等兵
が真の姿です。
支那の戦場で活躍するZB26です!
ZB26と日本兵、カッコいいです!
寝る時もZB26が傍らにあります。
銃身のみ見えています。
日本軍と共闘した時の国府軍。
ZBを使っています。

三八式歩兵小銃が6.5oなのに、ZB26は、7.92o弾を
使うチェッコ式を分隊の機関銃とするのは不適当では、と
一般に思われますでしょうが、三八と同口径の十一年式
軽機関銃を使うにしても、十一年式の弾は、発射薬の量
を減らした弱装弾なので、三八式とは、別に弾を用意しな
ければなりません。三八式の弾をそのまま使えない事もない
のですが、薬莢が焼きつく可能性があるようです。焼きつい
たら外すのは、非常に大変です。わざわざ五発ずつクリップ
に挟んだまま装填出来るように工夫したのですが、まるっきり
意味が無い工夫のようです。逆に三八式に弱装弾を使うと
、ただでさえ殺傷力の弱い銃が更に殺傷力が弱くなります。
九二式重機もかなり使われましたが、この弾は、7.7oのセ
ミリムド薬莢(尻のヘリが少し出ている)の弾ですから、三八
式に使えないのは、勿論、同口径の九九式歩兵小銃にも
使えません。九九式歩兵小銃の弾は、リムレス薬莢(尻が
出っ張ってない)ですが、この弾は九二式重機に使えない
事も無いのですが、尻が出っ張ってないので、九二式重機の
エキストラクターに引っ掛かりにくくなり、排莢不良を起こし易
くなるそうです。まあ何とも不便極まりない話ですが、と云うわ
けで、軽機関銃としてZBを採用しても、然程面倒さが増え
るワケでは無かったようです。十一年式軽機関銃は、故障ば
かり起こしているので「単発式機関銃」と呼んでいた部隊もあ
ったようです(苦笑)。チェッコを「無故障機関銃」と呼んでいた
のは有名な話です。この辺からも捕獲戦利品で取り合いにな
った話が頷けます。







相模陸軍造兵廠の銘板




昭和16年9月、製造の刻印とシリアルNo.
495号が刻印されています。
御存知のように旧相模陸軍造兵廠は、現在の
米陸軍相模総合補給廠となっております。戦前
の旧造兵廠時代は、戦車を生産しておりました
ので、このジュラルミン製のプレートが12cm×
6.5cm、厚さ3mmとかなり大きいので戦車の
銘板である可能性もあります。実物の戦車の
銘板は拝見した事が無いので、実際のところ何
とも言えませんが…。







今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した
収集品の一部を画像に収めてUPしてみました。
まだまだ仕事が忙しくて収集品の整理が出来ており
ません。今後、少しずつ更に奥に仕舞われたままの
収集品も、新しく収集した品も含めて、画像アップし
ていきたいと考えております。





九六式軽機で攻撃する皇軍兵士