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(九州北部に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る) |
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海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー) |
海上自衛隊の佐世保資料館(別名:セイルタワー)です。陸自のりっくんランド(朝霞) と空自のエアパーク(浜松)などの広報館がありますが、これの海自版と謂えます。最 近では平成19年に開館した呉資料館(てつのくじら館)もありますが、こちらのセイル タワーは平成9年に開館した。海自最初の広報館です。またこの建物は佐世保水交社 だったものです。敗戦後、米軍に摂取され将校クラブとして使用されてきましたが、昭 和57年に日本へ返還され以降は大蔵省が管理していました。平成6年に防衛庁に所 管が代わり、平成9年に帝國海軍の遺産を継承する施設としてこの佐世保資料館が建 設されました。その際、前面の一部3階建て部分…旧水交社を修復し一部活用してい ます。 |
この入り口と一部3階建ての前面部分の建物が旧水交社の明治36年建設以来の ものです。約130年の歴史ある建物となります。下がありし日の佐世保水交社の画 像です。 |
下の画像が現在のセイルタワーを横から見たものです。前面の一部 だけが旧佐世保水交社の建物を利用して作られている事がよく判り ます。また上のパネルのような物が帆を張ったように見える事から 別名のセイルタワーと呼ばれるようになったと謂います。 |
↑ 上のバナーをクリックすると セイルタワーの公式サイトが 開きます。 |
屋外に展示されている旧軍時代に礼砲として使用された 山内短五糎砲です。 |
セイルタワーの最上階となる七階・展望ホール |
セイルタワーの最上階となる七階・展望ホールから佐世保港を見て撮影した 画像です。正面に高速道路が邪魔をしていますが、その向こうに護衛艦や 海が見えます。 |
下は小串浦の川棚魚雷艇訓練所周辺の地形模型…上は”震洋”関係の展示です。 |
平成6〜7年まで現役で使用されていた72式魚雷T型のカットモデル |
おまけで海自佐世保地方隊の冊子より紹介です。 頑張れ海自…”おおすみ”の事故なんかに負けな いで!! |
旧 海軍佐世保鎮守府凱旋記念館
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セイルタワーの道路を挟んで斜め前に存在するのが凱旋記念館です。 |
第一次世界大戦で海軍佐世保鎮守府に所属する艦艇が連合国側に属して 欧州(地中海等)で戦い活躍したことを記念して建てられたものです。敗戦後 に米軍に接収されましたが、昭和57年に返還され以降は佐世保市が管理し ています。今年で調度、建築され90年になります。 |
旧 佐世保無線電信所(針尾送信所) |
美しい風景が続く西海パールラインです。その先に針尾通信塔が見えてきます。 |
先の大戦では日米戦の開戦の際に”ニイタカヤマノボレ一二〇八” を送信したとされて有名になった送信所です。実際にはGF旗艦の 戦艦”長門”から打電し呉通信隊が発した暗号を更に中継して支 那や南方に発したものと謂われています。戦時中の通信が中短波 の使用が主流に変わると針尾送信所の重要性は薄れ…大戦末期 に無線塔は食料倉庫としても使わたそうです。 |
大正7年11月に着工し、大正11年に完成した旧佐世保無線電信所(針尾送信所) です。完成から90年以上が経過しています。戦後は米軍の管理を経て長らく佐世 保海上保安部と海自が共同で電波塔として使用しましたが、平成9年に新しい無線 施設が完成してからお役御免となり電波塔としての役目を終えました。既に物言わ ぬコンクリの塊と化して16年です。現在は国の重要文化財に指定され公園として保 存する方向のようですが…建造物としての寿命が精々20〜30年との事なので補修 などを行い維持するのも大変そうです。 |
近いと三本の無線塔が収まりきらない巨大なものです。 |
i1号と2号塔が高さ135m、3号塔が137mと謂う 巨大さです。三本の塔は300mの間隔で正三角 形をなしています。当時は頂部をワイヤでつなぎ 一つの巨大アンテナとして機能させていました。 下の画像は完成当時のものです。 |
すぐ近くには長崎ハウステンボスがあります。因みにこの国道からも 目立って見えた建物はハウステンボスジェイアール全日空ホテルな んだとか…いきなりメルヘンです。…まあ浦安のTDLを車窓から眺 め慣れていると違和感を覚えませんが…そうでもないと違和感を覚 える人も多いのかもしれません。経営破たんして現在はHISの澤田 会長が社長となり地元・九州の財界と県の支援を受けて再建再生中 です。頑張って欲しいものですね。 |
尚、この長崎ハウステンボスのある一帯は旧海軍の針尾海兵団 のあった場所であり海軍兵学校針生分校があった地でもあります。 |
ハウステンボス駅です。 |
針尾海兵団全景と佐世保引揚援護局位置図 |
佐世保引揚援護局(旧針尾海兵団) |
警察予備隊針尾駐屯部隊(旧針尾海兵団) |
この針生送信所にある針生島には他にも戦争にまつわる遺構があります。 |
同様にこの針生島には海軍兵学校の針生分校が敗戦の直前 である昭和20年4月に誕生しました。そして敗戦まで僅か5か 月間ですが…この地で海兵第78期生が学びました。 |
浦頭引揚記念平和公園です。ハウステンボスから約7km位の 近さにあります。昭和20年8月15日の歴史的な敗戦に伴い、 日本の国外にいた邦人約629万人が日本に引き揚げました。 このうち佐世保港のこの浦頭の地に、昭和20年10月14日米軍 の上陸用舟艇(LST)で、韓国の済州島から旧陸軍軍人9,997 人が揚陸したのをはじめ、以後…昭和25年4月までに、主に中国 大陸や南方諸島から引揚船1,216隻により、一般邦人・軍人・軍 属合わせて1,396,468人もの方々が、引揚げの第一歩を印され ました。ここ浦頭には佐世保引揚援護局検疫所ありました。引揚 者の多くは、栄養失調や下痢・皮膚病、敗戦の失意と迫害のため に疲労困憊の極限にありました。さらには、無言の帰国をされた人 船内で病に倒れ上陸直後に不帰の客となられた人々がありました 。しかしながら、これらの方々は一様に故国日本の土を踏みしめる 事を夢にみた為…安堵感も併せ噛みしめ…その哀歓は筆舌に尽く しがたいものでした。このような状況の中で引揚者は、上陸と同時 に消毒のためDDTの散布を全身に浴び、検疫の後、収容先となっ た佐世保引揚援護局(元針尾海兵団)までの約7キロメートルの山 道を、一歩一歩踏みしめながら歩かれました。そしてたどりついた 援護局宿舎で、引揚手続きを終えると衣服、日用品等の支給を受 け、二泊ないし三泊の後、南風崎駅からそれぞれの郷里へ向かわ れました。この公園は、元検疫所跡地をみおろす地に全国からの 募金をもとに建設されまました。 |
まさしく悲哀の地であり…引揚者にとっては日本の戦後 の再興を踏み出す一歩を印した時と地となりました。 |
旧佐世保 弓張岳防空砲台(高角砲陣地)跡
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〜画像提供 : brassww2006 様〜 |
佐世保港と九十九湾を見下ろす弓張岳のさ山頂付近にある弓張 岳砲台です。お馴染の brassww2006様が旅行で立ち寄って下さ り画像を提供して下さいました。山頂の展望台からは…海軍の重 要港であった佐世保港を眼下にでき…海軍四大鎮守府の一角を 占めた佐世保鎮守府を守るべく佐世保要塞が存在していました が、後に長崎要塞と合併します。また空軍力の全盛の時代を見越 して佐世保の空の防御を固める為に日米戦の直前に突貫工事で 完成したのが…この高角砲(高射砲)陣地の砲台です。 |
澄み渡る青い空と海…この美しい風景からは物々しい高角砲陣地など の存在は、とても想像し難いものです。この弓張岳から隣の但馬岳(僅 か400m余りの距離)に三基の高角砲が設置され、佐世保海軍警備隊 の記録によると弓張岳防空砲台側に九六式25粍三連装機銃が2基に 九三式十三粍二連装機銃2門と九三式十三粍単装機銃5門も設置され ており、但馬岳防空見張所側には毘式四十粍二連装機銃2門に毘式四 十粍単装機銃1門、九六式25粍三連装機銃が5門に九六式25粍単装 機銃が2門、九三式十三粍単装機銃5門が設置されておりました。 |
上下の衛星写真から判るように弓張岳から但馬岳への僅かな 距離に三基の高角砲の砲台跡があり…現在は公園として整備 されています。また但馬岳の方と合わせてコンクリート製の指揮 所がそれぞれ設けられや兵舎に山の隧道内に作られた弾薬庫 に発電所が置かれており…今もその遺構が残されています。 |
尚、この弓張と但馬の両岳にまたがる砲台と見張所には 対空電探が三基、探照灯や各種通信機がありました。 この佐世保海軍警備隊が実戦で戦ったのが昭和20年6月 28日の佐世保大空襲ですが…深夜の12時前からAM2:00 位までB29の大編隊 140機以上が高々度から約1200トン と推定される焼夷弾を軍港や佐世保鎮守府では無く佐世保 市街地を目標にして爆撃した為、佐世保市内は壊滅状態に なり約1230人が亡くなり…被災者や6万5千人を超えました 。この時も市内各地に設置された高角砲陣地から応戦が始 まり、この陣地でも十糎高角砲が三基とも火を吹き続けて 300発を発射しましたが…高々度から爆撃するB-29には 届かず…戦果を挙げる事は出来ないまま敗戦を迎えます。 |
現在、砲台跡は公園として整備されましたが…イノシシが出る為 ロープで規制して立ち入りを禁止しています。そんな中でbrassww 2006様は突撃取材で撮影をしてきて下さいました。 |
左上の砲の設置は臨時の感が否めませんが、右上はこの砲台跡と 同じ作りでしっかり工事して設置されたのが判ります。 |
まずは高角砲を設置してあった1基目の砲台跡です。中央の九八式十糎 二連装高角砲があった辺りは草木が茂り…元からある変わった公園の様 な感じでもあります。この砲台の周囲には…如何にものテーブルと椅子が 設置され、所々にゴミ箱も設置され公園ムードを演出しています。 |
これだけだと中々、イメージを掴めない方の為に以下を用意 しました。こちらの砲台跡は元々有った筈の待避所が埋めら れているようです。以下のYoutubeの動画には、貴重な動く 九八式十糎二連装高角砲の運用しているものが出てきます 。大体、4分40秒以降からとなります。またその下は九六式 二十五粍連装機銃の射撃シーンが出てきます! |
[日本軍] 高射砲 WW2 Japanese AA GUN |
九六式二十五mm機銃 Type96 25mm Anti Aircraft Gun |
御覧の様に三基の砲台跡の周囲を繋ぐように公園の遊歩道が 作られています。まだ工事中のようですが、こうした手法よりも きちんと戦時の遺構として整備して後世に遺す方が有意義であ るように思えてなりません。なんでも敗戦前の特に軍事色のある ものは目の敵にして見えないように排除するやり方には…情け なさしか感じられません。こうした取り組みは各地方自治体により 千差万別ですが…こうした物の扱い方一つで…佐世保市のスタ ンスが判って来るような気がします。 |
こちらは二基目の九八式十糎二連装高角砲の砲座跡です。 この弓張岳見張砲台だけで二連装高角砲が3基設置されて おり、その周辺に九六式25粍三連装機銃が2基に九三式十 三粍二連装機銃2門と九三式十三粍単装機銃5門が設置さ ておりました。判りずらいですが上の画像の手前側の少し凹 んだ部分が待避所となります。 |
右下が九六式25粍三連装高角機銃で左下が同じく二連装 高角機銃になります。まあこれ等の高射機関砲も発射速度 が遅く…航空機の飛躍的な性能の向上により、最高時速が 600q/hを超えるのが当たり前の時代になると…米軍のよ うにVT信管でもつけない限り…まぐれ当たりを期待して撃ち まくるしか手がありません。 |
九六式二十五粍機銃の有効射程距離は約3000mで 最大射程は約8000m、空に打上げても最大射高が約 5250mと謂いますから…超高度の一万mで飛来する B29を撃ち落とすのは所詮、無理な話です。まあ精々 飛来して低空から攻撃してくるような艦載機にまぐれ 当たりを願うのが関の山ですね。 |
ちょうどファインモールド製プラモデル箱の表紙に判り やすい絵がありましたので掲載しました(上)。 |
左上は同じく弓張岳で装備されていた九三式(ホ式)十三 粍二連装高角機銃です。また右上は但馬岳見張所で使用 された毘式四十粍二連装機銃…所謂、ポンポン砲です。 |
こちらが三基目の九八式十糎二連装高角砲の砲座跡です。 ここは戦後二十年ほどして炭鉱閉山による失業者救済事業 の一環として砲台跡を野外コンサート広場に作り替えたようで す。しかしどう考えても有効活用しているようには見えません。 無駄な税金を投じて貴重な旧軍遺構をいたずらに破壊しただ けと謂う感じです。…最後に改めて画像提供をして下さいまし た brassww2006 様に感謝しお礼を謂わせていただきます。 |
川棚町 特攻殉国の碑 |
穏やかで美しい景観の小串浦に面した元の川棚魚雷艇訓練所跡地に 特攻殉国の碑があります。昭和19年、日々悪化する戦争の戦局を挽 回するため海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地に移し特攻 の訓練を開始しました。 |
戦争中、小串に置かれた海軍特攻隊の訓練に励み、遠く南海の果てに散った 三千人もの隊員を顕彰する鎮魂の碑。昭和42年5月に旧隊員らが全国に呼び 掛けて、旧海軍の魚雷艇訓練所があったゆかりの地に、南海の激戦地コレヒド ールと沖縄の石を使って建立されました。今も訪れる人の姿が絶えません。 |
旧海軍の魚雷艇訓練所があったゆかりの地である小串に 作られた鎮魂の碑。日本近海より南方の海に散った約三千 名が刻まれ顕彰されています。 |
昭和十九年、日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回する為 日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀からこの地長崎県 川棚町小串郷に移し魚雷艇隊の訓練を行った。 魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇でペリリユー島の攻撃 硫黄島最期の撤収作戦など太平洋印度洋において活躍した。 更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願 して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊、伏竜 特別攻撃隊を編成し、また回天、蛟竜などの特別攻撃隊の 練成を行った。震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体 当たりする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配 置され比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃沈した。 ほか沖縄でも最も困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を 突破して特攻攻撃を敢行した。伏竜特別攻撃隊は、単身潜 水し水中から攻撃する特攻隊でこの地で訓練に励んだ。 今日焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき、 これひとえに卿等、殉国の英霊の加護によるものと我らは 景仰する。ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて、 ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し遠く南海の果てに 若き生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる偉業を とこしえに顕彰する。 昭和四十三年五月二十七日 有 志 一 同 元隊員 一 同 |
石碑には…戦没者の名が刻まれています。 |
目の前には美しく静かな内海が広がり…ここで特攻訓練が行われた などと想像が出来ない…。 |
まるで池や湖の様に波一つなく透明度も高い美しい海です。 |
当時の桟橋の台座と謂われますが、クレーンの台座と謂う話もあります。 静かな水面にコンクリートの台座が何事も無かったように佇んでいるよう に見えます。 |
海軍 魚雷発射試験場の遺構 (川棚町 片島) |
何かのオブジェのような廃墟…軍事施設とは想像がつかない感じです。 |
こちらも廃墟の教会のような感じです。 |
戦前に軍の管理下で片島は埋め立てで陸続きとなりましたので見た目は半島のようです。 |
地元のパンフレットから取った全景です。時間の関係で観測所跡は 見ずに済ませましたのでパンフからの画像を紹介します。この全景 からよく判るのはBの魚雷発射試験場本部の1階で発射可能な状態 に調整された魚雷は運搬用の軌道車に搭載されレールの上を走りA の魚雷発射試験場に向かいます。ここでクレーンで吊り上げられて所 定の場所で海に降ろされ発射され、これを@の観測所で雷跡を確認 するものと思われます。恐らく一番右端の2階建ての海上の施設も観 測の為の施設で魚雷の回収などにも使われたものと想像されます。 |
上は衛星画像の片島です。下は川棚の海軍工廠側から撮影した片島です。 |
他にも多くの小さな施設があったようで崩れた石積の塊が随所に見受けられます。 |
こちらが魚雷発射試験場本部の跡です。天井が抜けて2階部分の崩れて四方の壁だけが残っている形です。 |
全体に丸い楕円の片島が埋め立てられて陸続きになったそうですが その埋め立て部分が細く首の様に民家が密集し右側は何もない海岸 で左側は船着き場になっているのが判ります。 |
とても日本の軍事施設とは思えません。この写真だけ切り出せば 国外の教会や朽ち果てた西洋建築という印象です。 |
中は天井が全て抜けて二階部分も抜け落ちて無くなっています。下は タイルでできており…木々が内部で生育して大きくなっています。 |
i一階部分は魚雷の調整に必要なのか水回りと思われる設備跡が 多くみられその周辺から生命力の強い木が大きく成長しています。 |
正面の大きな二つの入口は発射試験場に向けて両方から 魚雷を搬出するためと思われます。まっすぐ進むとレールの 敷設跡のある橋に向かいます。 |
夏草や兵どもの夢の跡…何とも…と謂う空間です。 |
片島魚雷発射試験場跡 佐世保鎮守府が開庁されて間もなく、海軍工廠が 佐世保湾の北岸に開設された。この工場で製造され る魚雷を実地に発射実験するために大正七年(一九 一八年)川棚村三越郷の片島に魚形水雷発射試験場 が設置された。 発射した魚雷の進行状況を頂上の観測所から観測 し性能試験を行った。 太平洋戦争勃発後、昭和一七年(一九四二年)川棚 に分工廠が設置されたことに伴い、魚雷発射場の施 設がさらに拡張され、その際に片島は海峡が埋め立 てられて陸続きとなった。 平成一八年(二〇〇六年) 川棚町教育委員会 |
今も尚、魚雷を運搬したレールの跡がはっきり残っています。 |
魚雷発射試験場です。下は内部を撮影した写真です。 |
内部に塗っていた塗装が落ちて煉瓦の下地が見えています。 これが尚更、軍事施設らしさを感じさせません。 |
唯一の丸窓から沖合を望んだ写真です。 |
それぞれの窓から見える風景 |
このスリット部分の海面にクレーンで魚雷を下し発射実験を行ったのでしょう。 |
今やこの廃墟のような遺構を訪れるのはご覧のような釣人ばかりでしょう。 |
かつて魚雷を吊り上げたり下ろしたり移動させたクレーンの台座部分と思われます。 |
今はもうこの美しい海で魚雷が疾走してテストされることが無くなり68年以上が経過しています。 敗戦まで伝統ある帝國海軍の必殺の長槍を試験した海も…現在は地元の太公望達が釣糸を競っ て垂れる静寂の海に変貌しています…。 |
川棚町 工廠の見える丘公園(城山公園)
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旧川棚海軍工廠のあった町を見下ろす高台に慰霊碑が作られています。 |
川棚海軍工廠は昭和17年に佐世保海軍工廠の川棚分廠として設立 主に魚雷の生産を行いました。昭和18年には川棚海軍工廠として独 立し航空魚雷の生産では日本一の生産力を誇りました。 |
ここの工廠は比較的新しい時期に作られたため工廠内に 小型機用の短い滑走路を設けて川棚飛行場を建設してあ ったそうです。下の戦後(昭和22年)に米軍が空撮した写 真には滑走路らしきものが確認できません。 |
左上の写真は城山公園から眺めた工廠跡地付近です。右上は衛星画像です。 |
また川棚町には激しい空襲を避けての地下工場などもまだ4基ほど残っています。 |
右手には片島が見え…この丘の下の海軍工廠で作られた魚雷が片島の 魚雷発射試験場でテストされ合格されたものが全国各地に送られたので しょう。しかし…今のこの静かな美しい景観と街並みを見ているとそうした 事がSF小説の世界の話ような気もします。 |
〜 脱線…御当地グルメ 〜 |
長崎県で食べログのラーメン人気NO.1のお店…〇龍です! |
流石に美味でした!…上が定番の〇龍ラーメンで下が佐世保豚骨ラーメン です。…いや〜意外とあっさりしていて大満足しました。 |
勿論、完食ばい…! |
〜 脱線2…キリ番ゲッター 〜 |
今回、九州で使用したレンタカーのメーターです。たまたま高速道路上で距離計が キリ番を踏むのを捉えてデジカメで撮影しました。6万6千6百6十6kmです。たった それだけの事ですが…何となく旅の思い出になりました(苦笑)。 |
〜 脱 線 3 〜 |
*今回このページの曲に取り上げたのは甲斐バンドの名曲『LADY』です。 昭和49年にデビューした甲斐バンドです。この曲は昭和58年の夏に発売 された甲斐バンドの10枚目のシングルになります。この後に『HREO(ヒー ローになる時、それは今)』が発売されヒットチャート一位となり全国区で有 名になります。そのメジャーになる前の名曲です。この曲はオリコンのヒット チャートで94位だったそうです。私的には次のHEROより大好きな曲です が…。この甲斐バンドはデビュー以来、活動を続け昭和61年に一時解散、 平成8年に期間限定の再結成から、平成11年に活動再開…今に至る九州 出身のバンドです。甲斐よしひろを中心にメンバー全員が60代になってい ます。 |
福岡出身で現在60歳になった甲斐よしひろ氏です。奥様は女優として 活躍した竹田かほりさんです。娘さんの甲斐名都さんはシンガーソング ライターで活躍しています。 |
L A D Y |
この曲は甲斐バンドの中でも大好きな曲の一つです。 甲斐バンドらしいと謂うか、アンニュイで暗いイメージで よいです。 |
珍しい九四式自動拳銃の
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無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない 九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本 軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳 銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく なるもので予約して手に入れました。 |
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。 |
実物のホルスターに納めて見ました。 |
メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。 |
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。 |