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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編 Z


旧軍の遺構や資料館など・・・北九州編

(3ページ目)

(九州北部に点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)







我々日本人の偉大な先人達が後世の日本と日本人の為に
尊い犠牲を払った証しでもある旧軍の遺構を老若男女を問
わず、現在、この国で平和を享受して生きる全ての日本人
に広く知らしめ記録を残したい想いは変わらず…この北部九
州編の新ページを立ち上げました。中々、遠い現地へ足を運
ぶ事は難しいでしょうが…ネットの画面上を通して尊い犠牲
を我々の為に払って下さった事に想いを馳せ感謝し顕彰す
る心を…日本人同士が互いに通わせる事が出来れば幸い
に想います。
この北部九州地区は南九州地区に比べると地域性で
沖縄に向けての特攻基地は少なく…どちらかと謂えば
戦前からの施設が多い印象です。しかし大刀洗の様に
知覧や鹿屋、万世と同じような資料館もあります。特に
この大刀洗は昔と違い綺麗にリニューアルされ驚きまし
た。いずれの遺構も…世代を超えて語り継がねばなら
ない歴史です。それは我ゝ、日本民族の自存自衛の歴
史です。よしあしを判断するのは個人の自由ですが…
まずは起きた事・・・そして当時の先人同胞達が何を考
えどう行動したかを知って再考して欲しいものと感じます
。…時を超えて日本の為、日本人の為に戦い命を投げ
出し戦ってくれた多くの若き防人達に心より感謝の念を
捧げます。
                            合掌

                    皇紀2671年11月

                      管理人 憂国烈士








旧 大村海軍航空隊の遺構:掩体壕




かつて大村海軍航空隊の戦闘機など小型機用の掩体壕です。今では住宅街の
中の児童公園のオブジェと化しています。主婦や子供が走り抜け談笑する不思議
な場所になっていますが…此処から海沿いの滑走路まで数kmありますから分散
して隠匿していたのでしょう。もっとも度重なる空襲の悪化で飛行場は既に使い物
にならず郡川に沿って隠し飛行場と謂いますか第二飛行場を作りました。これが
所謂、福重飛行場と謂われ昭和19年後半から使用が開始され…それでも本格的
に完成したのは敗戦の数か月前だったようです。この飛行場を使用したのは草薙
部隊と呼ばれた第352空が主で局地戦闘機”雷電”に零戦、夜間戦闘機”月光”
を配備して佐世鎮隷下の長崎・佐世保・大村の防空の任に就いていました。度重
なる空襲に迎撃戦を挑みつつ菊水一号作戦に連動して鹿屋基地や笠之原飛行場
に進出して防空戦を戦いました。竜巻部隊の稲妻がマーキングされた雷電21型は
余りに有名ですので誰しもがプラモデル等で一度は目にされた事があると思われ
ます。この部隊も昭和20年5月には戦力が消耗し雷電も補充なく大村に帰隊。そ
の後は夜戦部隊として零戦隊も廃して月光や彗星夜戦型の戊型など少数機で残
存し一部を築城に派遣し迎撃戦を継続するも7月後半には稼働機がゼロとなり…
敗戦を迎えています。
大村海軍航空隊は上の地図の左手にある郡川沿いに
紫で示した部分に第二飛行場となる滑走路を設けて昭和
19年後半から敗戦まで福重飛行場で防空戦を戦いました。


この掩体壕は旧大村空からも福重飛行場からも離れた
場所に作られていますが旧大村空の方が近い場所にあ
ります。しかし時期的な事を考えると末期の福重飛行場
で活用したのではないかと想像します。



上の福重飛行場の場所を拡大したのが下です。


稲妻のマーキングが特徴的な352空の雷電21型
彗星の夜戦タイプです。


掩体壕は頂上に踊り場が作られ上る事が出来ます。
そして裏手は子供たちの滑り台になっています。
大村海軍航空隊は、大正11年に設置され敗戦まで存続しました。
掩体壕についての記録はなく設置時期は判明していません。



中は倉庫状態と謂うよりゴミ捨て場に近い感じでガッカリしました。






真上から下をのぞいた写真です。









  旧 大村海軍航空隊の遺構

(旧大村空港、海自大村航空基地、
 陸自竹松駐屯地、大村入管…etc)




大村市を一望に出来る琴平岳の琴平スカイパークから長崎空港と
旧大村空港並びに海自大村基地、陸自竹松駐屯地を見ています。





この琴平スカイパークはパラグライダーのメッカとしても有名のようです。
長崎空港の浮かぶ大村湾…遠くは雲仙に佐世保市の西海橋や新西海
橋まで一望に出来ます。
長崎空港のドアップです。








ありし日の大村空の正門と司令部庁舎です。




この眼下を流れるのが郡川です。この先で海に向かい一度大きく
右側に蛇行して見えなくなりますが、中央の小高い山の反対側の
方に福重飛行場(第二飛行場)があり大戦末期の防空戦はそこを
軸として戦われました。下の地図から分かるように丸印の地点から
撮影して★印部分が福重飛行場、◆印が旧大村航空隊の場所に
なります。

上の福重飛行場の場所を拡大したのが下です。




新長崎空港側から見た大村市(海上自衛隊大村基地と旧長崎空港)
横に長い特徴的な建物は大村入管(大村入国管理センター)です。
この一帯は、旧大村海軍航空隊と第二十一航空廠だった地域です。




かつて官民両用で海自と一緒に使用された長崎空港は沖合の浮島の
新長崎空港として移転し、旧飛行場(旧大村空港)は海自大村基地と
長崎県警航空隊及び長崎県防災航空隊が共同使用しています。この
上の画像部分が旧大村空港で今も共同使用されている部分です。
上はまだ初期の頃の第二十一空廠です。
旧大村空港のあった場所は主に第二十二航空廠があった地域で
その先の海自の大村基地から隣接する陸自の竹松駐屯地にかけ
ての地域が旧大村海軍航空隊があったエリアとなります。
少し時代を感じさせる管制塔…。
大村入管(大村入国管理センター)の巨大さには驚かされました。




格納庫前には海自のUH-60Jが駐機中です。かつては艦載機や
中攻機が離発着したこの地も…空母なき海上自衛隊には艦載機
と謂えばヘリのみで航空機は皆無です。再び空母と艦載機航空
隊の勇姿を見たいものですね。
これが非常に面白いYの字になった道路で右が陸自の竹松駐屯地で
左が海自の大村航空基地に分かれます。全国でもこうした光景は余り
見られないと思います。



昭和20年3月の大村空襲の際に米軍撮影の写真です。
左上が第二十一空廠で右上が既に空爆の爆煙が見えて
いますが大村海軍航空隊のエリアです。








旧第二十一海軍空廠の遺構:本部庁舎跡地と防空壕




陸軍の大刀洗とこの大村の第二十一海軍航空廠は共に
東洋一と称される規模を誇りました。その本部庁舎跡地に
唯一残る本部庁舎の防空壕です。


ありし日の第二十一航空廠の本部庁舎です。


全盛期には210万uの広大な敷地に180棟の工場が建設され、日本中から
集められた技術者や工員など5万人が働き、東洋一を誇った飛行機製作工
場です。この工場では、主に零式水上観測機、流星、紫電改といった航空
機や発動機の製作・修理を手がけていました。度重なる空襲を受けた大村で
すが…昭和19年10月25日の大空襲では完全に壊滅状態となり、昭和19年
11月30日廃廠となりました。



出入口は2か所で分厚いコンクリートの爆風除けが設けられています。
内部への入り口は共に塞がれて入ることは出来ません。

















旧第二十一海軍航空廠の遺構:慰霊塔公園




第二十一海軍航空廠の本部庁舎前に設置された防空壕の遺構を
利用し上に慰霊塔を作り公園としています。
第二十一海軍航空廠は、昭和16年10月に佐世保にあった
海軍工廠航空機部が移転し開設された。海軍の観測機や
戦闘機を製造し、5万人の工員が就業した。この人口増と、
関連施設が当時の大村町のみならず周辺の村にも及んだ
ため、航空廠の設置が、大村町と周辺6村が合併し大村市
が誕生する契機となっています。



昭和19年10月25日の大空襲の犠牲者を奉っています。

















旧第二十一海軍航空廠の遺構:工員養成所正門




今は大村市立西大村中学校の裏門になっている工員養成所の正門です。
昭和16年の第21海軍航空廠の設置に伴い、昭和18年、佐世保海軍工廠工員養
成所航空機部が移転し開設しました。見習科、専科、補修科があり、航空技師の
要請を行いました。







正門以外に残る遺構は無く…唯一、中学校の校内に
工員養成所跡の記念碑が建っているのみです。












立山防空壕(長崎県防空本部跡)




長崎歴史文化博物館の裏手にある防空壕です。
ここにいるプロ市民のオッサンですが…市の職員なのかボランティア
なのかよくわかりませんが…訪れる子供たちや人々に日本は悪くて
支那と朝鮮は如何に良いかを売り込んでいて…唖然とさせられまし
た。広島でもこうした反日のアカのプロ市民が大勢おりましたが、長
崎でも同じような輩が原爆の地を利用して日本と日本人を貶め在日
の特権を助長するかのような運動を展開しているこ事には憤りを禁じ
えませんでした。





           ↑
上の画像をクリックすると長崎市の公式サイトで
立山防空壕を紹介するサイトが開きます。























橘 神 社 (軍神 橘 周太 陸軍中佐 銅像)







軍神 橘 周太 中佐をお祀りした神社。橘神社の入口には彫刻家・北村西望作に
よる勇ましい橘 周太中佐の銅像が立ちます。橘 中佐とは東宮侍従武官(大正
天皇の教育係)や、名古屋陸軍地方幼年学校長などを歴任した人物です。、その
素晴らしい功績とともに、人望厚く優れた性格で全国に知られています。昭和12
年に創造されたこの神社は、春には約1000本の並木桜が参道をトンネルのよう
に連なり多くの客で賑わいます。また敷地内には橘 周太中佐の生家の一部、橘
中佐遺徳館を移築されています。年末になるとギネスブックにも認定された「世界
一の門松」が登場する事でも知られています。高さ約11m以上の巨大門松は明け
方までライトアップされ、荘厳な雰囲気の中で新しい年を迎えらると謂います。

大正八年に同じ長崎県出身の彫刻家 北村 西望 氏の作成
された堂々たる軍神 橘 周太 像です。5年後の平成29年に
製作・建立からちょうど百年を迎えます。

軍神 橘 周太 陸軍中佐






軍神橋


大社殿


橘中佐遺徳館
           橘中佐(周太)生家由緒

 この建物は当神社の祭神橘中佐が、慶応元年(一八六五
年)呱々の声をあげられたゆかりの生誕の家であります。
 橘家は有名な楠正成の支族で今から約四百五十年前の
享禄二年(一五二九年)近畿地方からこの地に移住、橘姓
を称し代々大庄屋をつとめ、治績をあげ里人斉しく「本
家」と称し尊敬された旧家でありました。
 もとこの家は本町より田代原を経て城下町島原へ通ず
るいわゆる殿様道と言われていた街道筋、現在の県道
平石千々石線に沿う小倉名字馬場の中心にあり別掲図の
とおり、母屋を中心に門・石垣・塀をめぐらした広大な
敷地に厩舎、土蔵等を配した典型的な地方豪家の構であ
りました。
 屋根裏に残されていた棟魂板に天保二年(一八三一年)
と記録があり今から約百五十年前の造作と推量されます。
 昭和三十四年橘家の屋敷が、長崎営林署貯木場用地に
転用される際、橘家の縁家にあたる小浜町の旧家湯本の
本多氏のご厚意により、この生家の座敷の部分だけを敷
地の一隅に移転存置されていたものを、この度、橘中佐
没後七十周年の記念事業の一環として町内外有志の浄財
、ご芳志により当神社境内に修復移転したものでありま
す。
 最近生活様式の都市化に伴い建築も近代化がすすむな
かに、茅葺・瓦庇のこの古風なたたずまいは文化財とし
ても貴重な建物で、中佐の遺徳を偲ぶ一象徴として永く
保存したいものであります。
                
             昭和五十二年八月吉日
                    橘中佐顕彰奉賛会








おまけ(長崎の原爆関連
      長崎原爆資料館等と、
       長崎歴史文化博物館や
        雲仙岳災害記念館等…他)







長崎原爆資料館




以下は広島と並び被爆地となった長崎の余りに有名な長崎原爆資料館です。































永井先生のブースです。先生は被爆する以前、支那で陸軍の軍医中尉
としての従軍経験もある放射線科の医師でした。










長崎市 平和公園












































































長崎歴史文化博物館






























日赤長崎原爆病院です。…随分と立派な病院なので驚きました。




雨の長崎駅です。…昭和の世代の人間なら
前川 清の歌が聞こえてきそうです。



眼鏡橋です。













オランダ坂
下は甲子園出場でも有名な海星高校です。







長崎の夜景です。


女神大橋(ヴィーナスウィング)
三菱重工長崎造船所
稲佐山はガスっています。








日本二十六聖人記念館 聖フィリッポ教会




























雲仙岳災害記念館と
      土石流被害家屋保存公園

































〜 脱線…御当地グルメ 〜




長崎と謂えば”長崎ちゃんぽん”に”皿うどん”です。発祥は地元の中華料理屋さん
からと謂う事で地元の老舗の中華で駐車場のある江山楼さんに行きました。こちら
は給仕をしてくださるのが比較的、高齢(中高年以上)の和服に割烹着の女性で古
い街の料理旅館や料亭の仲居さんを思い出させて…何か子供の頃を思い出し郷愁
を感じました。
普段、東京でチャンポンを食べる時は、大体がリンガーハット
ですが…長崎に来てまで全国チェーンの味では芸が無いと思
い食べましたが…よい思い出になりました。
最もシンプルな”ちゃんぽん”を注文。美味でした。
こちらも一番シンプルな”皿うどん”…美味でした。

勿論、完食ばい…!




せっかく本場に来たので別の一般の無名の食堂の出す”ちゃんぽん”
と”皿うどん”も味わってみました。これはこれで美味でした!
やはり東京で食べるリンガーハットより美味いと思います。
後で失敗したと思ったのは地元長崎のリンガーハットは普
通に美味いらしいので入るべきだった事でした。
いずれにしろ…完食です。








〜 脱線 2…御当地グルメ 〜




大村の郷土料理と謂えば大村寿司(角寿司)と”にごみ”です。地元で有名な”やまと
”さんでいただいてまいりました。残念ながら”にごみ”は置いてなかったようです。
大村市では…文明六年(1474年)にさかのぼる大村氏第十六代の純伊が島原の
有馬勢に攻められて負け戦となり唐津沖の玄海の孤島に逃れました。その六年後
に他国の援軍を得て大村を奪還した時、喜んだ領民たちが領主とその将兵を迎え
た時に祝いに長方形の浅い箱(もろぶた)に入れて出したのが起源と謂われます。
武将たちはこの寿司を脇差で角切りにして手掴みで食べた事から大村寿司や角寿
司と呼ばれるようになったようです。
実に素朴な味わいで美味しくいただけました。なんとなくお店の中の
お客さんの年齢層(比較的に高齢)もさることながら法事や親類縁
者の集まりの会食で使われているようで…こちらも古い街にある独
特の郷愁を感じさせる風情がありました。
シンプルで素朴な料理ですが、味わって食すと日本人に生まれた
歓びをしみじみと感じます。心貧しい韓国だの支那だの北朝鮮に
間違ってでも生まれたら最悪でしょうから…。




長崎市では折角来たので創作・卓袱料理をいただいてみました。
異国情緒が溢れた長崎らしさを味わい…日本の奥深さを噛みし
める想いがし、改めて支那だの朝鮮半島だのに生まれなくて良か
ったと実感した次第です。








〜 脱 線 3 〜




*今回このページの曲に取り上げたのは甲斐バンドの名曲『そばかすの天使』です。
この曲は昭和52年の秋に発売された8枚目のシングルになります。A面がこの曲で
B面は…こちらも名曲の『きんぽうげ』です。共に大好きな曲です。
福岡出身で現在60歳になった甲斐よしひろ氏です。奥様は女優として
活躍した竹田かほりさんです。娘さんの甲斐名都さんはシンガーソング
ライターで活躍しています。





そばかすの天使




この曲も大好きな曲の一つです。実に懐かしい歌です。




























珍しい九四式自動拳銃の
       可動式のモデルガン




無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない
九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ
れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本
軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳
銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく
なるもので予約して手に入れました。
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので
ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。








実物のホルスターに納めて見ました。









メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。