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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編V



大日本帝國・帝都の中心

宮城(皇居)と靖國神社







この日本と謂う国が我物顔に勝手な正義を押し付ける図々しく迷惑な
米国を中心とした白人国家に戦争で負けて以来、誰よりも正義を求め
自由を愛する優しき日本と日本人は悪の権化とされどん底の生活を余
儀なくされました。そんな敗戦の苦難の日から早、六十五年の月日が
流れ…未だに米国の属国で大きな顔も出来ない情けないが経済的に
は世界第二位の経済大国として復活を遂げました。…宮城(皇居)は
天子様と呼ばれ現人神と呼ばれた大元帥である天皇陛下が住まわれ
る帝都の中心であり最も神聖な場所の一つであります。また靖國神社
は、この国の防人達が命を賭して戦い天に召された時、生前に『靖國
で逢おう』と友と語り合い死して神として祀られる英霊の眠る栄光の約
束の地であり神聖な場所であります。旧帝国陸海軍の遺構ではありま
せんが、旧軍の最高司令官は陸海軍の大元帥である天皇陛下であり
ます。皇軍の最高司令官の宮殿のある宮城と皇軍の将兵が英霊とな
って眠る安息の地が靖國神社であれば…旧軍の遺構を巡る者がまず
真っ先に手を合わせ頭を垂れるべき場所と謂えるでしょう。日本に生ま
れ日本人であれば必ず一度は訪れて欲しい神聖な場所だと思います。






〜偉大なる大和民族の長であり
     大日本帝國の君主のお住まい〜
       
         宮城(皇居)


宮城(皇居)は大日本帝國を統治する君主たる天皇陛下の
お住まいであると同時に国家宗教である神道の最高神官で
ある天皇陛下のお住まいでもあります。皇居は欧州の王族の
城と違い質素であり上品です。大都会の中でこれほどの自然を
沢山残している居城など世界に例が無いものと思われます。…
流石は日本神道の最高神官であらされる陛下のお住まいなれば
こそと拝観するたびに感銘を深めるばかりです。


よくある間違いに関して先に触れておきます。明治天皇・大正天皇・
昭和天皇の三代の元号を付けた天皇の呼び方はその天皇の崩御後
に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としてはいけません。
諡号ならびに追号は、天皇が崩御した後に贈られる称号であり制度上
必ずしも元号が追号になるわけではなく、明治以降諡号が元号と同一
であるのは先の三代の天皇のみの事情であります。あくまで慣例にと
どまっています。この為、今の天皇陛下が崩御後に平成天皇という諡号
が贈られると確定している訳ではありません。因みに、皇室典範などの
法令に於いては諡号ならびに追号に関しての規定は皆無です。また、
「平成天皇」という呼称自体の使用を禁じている法令は存在しませんが
確定して贈られる諡号でない仮の名を在位中から陛下を指してお使い
するのは不敬であり失礼です。よって”平成天皇”と謂う使い方をするべ
きではありません。

この皇居には明治天皇以来、大正・昭和そして
平成御世の今上天皇の四代に渡る天皇陛下が
お住まいになられてまいりました。
皇室は,天皇
陛下と皇族方で構成されています。これらの方々
は,内廷にある方々とそれ以外の宮家の皇族方
とに分かれています。

現在,内廷にある方々は,天皇陛下,皇后陛下
皇太子殿下,皇太子妃殿下,敬宮殿下の五方で
す。
また,宮家の皇族方は,秋篠宮(五方),
常陸宮(二方),三笠宮(二方),ェ仁親王(四方)
,桂宮(一方),高円宮(四方)の各宮家の十八方
です。


以下に宮城(皇居)に君臨されし今上天皇をはじめ
昭和・大正・明治天皇を御紹介します。
今上天皇陛下は、第125代 明仁天皇陛下

天皇皇后両陛下
天皇陛下と皇后美智子陛下




昭和天皇陛下 第124代 裕仁天皇陛下
今を生きる世代の日本人では今上天皇と
やはり昭和天皇の印象が最も強いものと
思われます。その中でも長い昭和の在位
と激動の歴史を鑑みれば…日本人誰しも
の心に様々な強い想いが去来するのは…
昭和天皇の御世であると思います。
海軍大元帥の正衣袴姿の陛下。因み
にその上の写真は陸軍大元帥の正衣
袴姿の陛下となります。






東宮殿下(後の昭和天皇)の御真影
























大正天皇陛下 第123代 嘉仁天皇陛下
生来健康に恵まれず病弱な方で47歳で
御崩御されました。明治以降の近代天皇
制で初の一夫一妻制をとった天皇として
記憶される方です。また天皇として史上
初めて、関東の地である多摩陵に葬られ
た方です。




明治天皇陛下 第122代 睦仁天皇陛下

*近代国家日本の指導者として活躍
 偉大な天皇。その功績から戦前には
 明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝と称さ
 れました。







現在の御皇室の皆様方です。







  東宮家(内廷皇族)



 ・皇太子徳仁親王 殿下

 ・皇太子妃雅子 殿下

 ・敬宮愛子内親王 殿下


(赤坂御用地内の中にある
 東宮御所にお住まいなら
 れています。)









      秋篠宮家


 ・秋篠宮文仁親王 殿下

 ・文仁親王妃紀子 殿下

 ・悠仁親王 殿下

 ・眞子内親王 殿下

 ・佳子内親王 殿下


(秋篠宮邸は,東京都港区元
赤坂の赤坂御用地内にありま
す。秋篠宮邸は,改修した旧
秩父宮邸を平成9年3月からご
使用になっています。)








       常陸宮家


 ・常陸宮正仁親王 殿下

 ・正仁親王妃華子 殿下


(常陸宮邸は,東京都渋谷区
東にあり昭和51年12月からご
使用になっています。)









      三笠宮家


 ・三笠宮崇仁親王 殿下

 ・崇仁親王妃百合子 殿下

        寛仁親王家

 ・ェ仁親王 殿下

 ・ェ仁親王妃信子 殿下

 ・彬子女王 殿下

 ・瑶子女王 殿下

(三笠宮邸は,東京都港区元
赤坂の赤坂御用地内にあり,
昭和45年11月からご使用に
なっています。ェ仁親王邸も
同じく赤坂御用地内にあり,
昭和57年12月からからご使
用になっています。)








       桂宮家


(三笠宮家より独立。独身で
宮家を創設 した為 まだ家
族はございません。桂宮 邸
(御仮寓所)は東京都千代
田区三番 町にあり,昭和63
年1月からお住まい になられ
ています。)



 ・桂宮宜仁親王 殿下








      高円宮家

 ・憲仁親王妃久子 殿下

 ・承子女王 殿下

 ・典子女王 殿下

 ・絢子女王
殿下



(高円宮邸は,東京都港区
元赤坂の赤坂御用地内に
あり,昭和61年12月からご
使用になっています。)















宮城(皇居)は明治維新以降百年以上にわたり代々の
天皇陛下の居城となっておりますが、その以前は謂う
までも無い徳川幕府(江戸幕府)の264年の長きにわた
る徳川15代の征夷大将軍が日本を支配した中心の居
城であります。慶長8年2月12日(1603年)に徳川家康
が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いてから本日に
至るまで400年以上、日本の最高権力者の居城であり
日本の中心であり続けていると言って過言でないと思い
ます。






















〜 一般参観コースで見る吹上御苑 〜
  (主に皇居西半分の一部を見学)



桔梗壕と巽櫓です。
皇居外苑公園です。…広いです…こう広く建て物が無いスペースが
急に都心にあると毎度、呆然とする感があります。
右は桔梗門です。
皇居の桔梗門です。ここから一般参観はスタートします。
左は蛤壕です。
桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする
門で「内桜田門」と呼ばれています。


窓明館(休所)は一般参観で訪れた方や勤労奉仕で訪れた
一般の方々が使用するスタート点になります。土産物も売っ
ています。


元枢密院庁舎です。現在周りを工事中です。

大正10年(1921年)に完成,現在の国会議事堂のモデルになった
建物と言われています。
当時近世復興式と呼ばれた鉄筋コンクリート
2階建ての建物で,広さは約1,740平方メートルあります。

枢密院は、天皇の最高諮問機関として明治21年に
設置されました。敗戦後の昭和22年に廃止されまし
た。枢密院は、枢密顧問(顧問官)により組織される
天皇の諮問機関。憲法問題も扱った為、「憲法の番
人」とも呼ばれました。略称は枢府。議長は枢相とも
呼ばれました。国政に隠然たる権勢を誇っていまし
たが、昭和6年の満州事変以後、政党勢力が後退し
て軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は
低下し、日本国憲法施行により昭和22年に廃止され
ました。
当時、近世復興式と呼ばれた鉄筋コンクリート2階
建ての建物で枢密院廃止後は最高裁判所仮庁舎
や皇宮警察本部として使用されました。

枢密院の権限は、皇室の機関としての権限と国家の機関としての権限とに
分けられる。 (A)皇室の機関としての権限は議決を行なう事項と諮詢に応
える事項とに分けられる。 議決を行なう事項には、天皇が久しきにわたる
故障によって摂政を置くべき場合の決定(旧皇室典範19条)、天皇の故障
が止んで大政を親らする場合の決定、摂政または摂政たるべき者の順序
の変更(旧皇室典範25条)である。この場合は枢密院は皇室会議とともに
一時、国家最高の意思決定機関となる。諮詢に応える事項には、皇位継
承の順序の変更、太傅の選任および退職、世伝御料の編入解除および世
伝御料の属する土地の上に物権を設定すること、皇室典範の改正増補、
皇族の臣籍降下、元号の制定、皇族失踪の宣告などがある。 これらの事
項については諮詢をまって初めて意見を開陳するのにとどまり、みずから
発議を行なうことはできない。 (B)国務に関しては諮詢に応えるのみでみ
ずから発議を行なうことはできない。 その決議が採納されるか採納されな
いかは国務大臣の輔弼による。 枢密院の議に付せられるべき事項(枢密
院官制6条)は、憲法の条項または憲法に附属する法律、勅令に関する草
案および疑義、戒厳の宣告、緊急勅令および罰則の規定のある勅令、
列国交渉の条約および約束、枢密院の官制および事務規程の改正、その
他臨時に諮詢された事項などである。 なお、行政裁判法には、これらのほ
かに権限争議の裁判も枢密院の権限と規定される。枢密院は施政に関与
することができず(枢密院官制第8条)、大臣以外と公務上の交渉を行うこ
とを禁じられていた(枢密院事務規程第3条)。

          出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山を
ご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)
の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。

天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかった
ので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見
ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上
にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優
美です。
右上と左下の画像は蓮池濠です。左下の一部に富士見多聞
が写っています。
富士見多聞は江戸城本丸の武器を収めて
いた現存する建物の一つです。石垣の高さは水面から約20
メートルあります。右下の小さな交番の奥は蛤濠です。


宮内省の庁舎です。戦後の暫くの間は下の
三階部分が仮宮殿として使用され、この窓か
ら一般参賀の日は両陛下と殿下達ががお手
を振られました。
下のバーナーをクリックすると宮内庁のHP
へ飛びます。
            ↓


坂下門です。西の丸大手門と桔梗門(内桜田門)との
間にあり、宮内庁への出入り口となっています


宮殿東庭と宮殿の長和殿です。上の入り口は一般の
日本人の叙勲者や宮中に呼ばれた方が入る入口の
北車寄せです。
北車寄は,国内の賓客が宮殿に参入される際の玄関です。


この東庭は一般参賀で大勢の人が日の丸を振り陛下に万歳を
する姿を見る場所です。この広場の地下は駐車場となっていて
約120台収容できます。この東庭は広さが約4500坪あり、
一般参賀などの多いときには約2万人が一度に参賀できます。
足元の石畳は四国香川県産の安山岩が使用されており、大変
水はけの良い石で足に優しい石と説明がありました。

この場所で、新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と
皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり国民からのお祝いを直接お受け
になります。その際,天皇陛下からのお言葉があります。


右側にある大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように
作られた照明塔です。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とっ
た照明塔です。
夜に明かりがともったところを見たいものですが、一般人はそ
の時間は入れません。


宮殿の南庭は、広い地形と芝生を利用して、大刈り込みの下は小川が流れていて
流れを主としたお庭になります。小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大
刈り込み」でいろいろな樹木が合わさって出来た刈り込みです。大変大きなもので
高いところでは6mもあります。
刈り込みは職人が入り込んで、すべて手バサミで
刈り込みをしています。

南庭の奥に見えている屋根は千草の間と千鳥の間と回廊です。この奥に
正殿と表御座所、そして中庭があります。
こちらの入り口は各皇族方をはじめ各国の大統領や元首
クラス、大使や海外からの国賓を招く宮殿の表玄関南車
寄せです。


右上は豊明殿で大饗宴に使用されます。左上は宮内庁から
渡り廊下で繋がる紅葉渡です。その下の道が山下通りにな
ります。
目の前の中門の遠くに見える建物は”桜田門”とも謂われる
警視庁です。


正門鉄橋(二重橋)です。
正門鉄橋の左側に正門石橋が見えています。



正門石橋の向こうに皇居外苑の皇居前広場そしてその
奥に丸の内のビル街が立ち並んでいるのが見えます。
中門を背に正門鉄橋(二重橋)を渡り見学する一般
参観者たちです。やはり若い方よりも年配の方が目
立ちます。また外国人観光客の姿も目につきます。
年配の方には意外に高低差のあるアップダウンがきつい
ようで中々…時間通りに人波が移動しきれないようでガ
イドする宮内省の職員の方も時計を睨みつつ四苦八苦さ
れていました。
上と右下は伏見櫓でこのずっと奥に両陛下のお住まいの御所
などがある吹上御苑です。この伏見櫓は京都伏見城から移築
したものと伝えられています。別名で「月見櫓」とも呼ばれてお
り、皇居で最も美しい櫓と言われ櫓の高さ約13.4メートルあ
ります。石垣も櫓も堅牢に出来ており関東大震災でも崩れませ
んでした。

上は二重橋濠の終わりの部分になる一番奥の部分です。
左が正門鉄橋(二重橋)で右が正門石橋です。下は正門。


宮殿を後にして山下通りを下ります。上の写真は豊明殿と連翆
の一部が見えている写真です。
左上の写真の宮内庁職員の奥を上がると西車寄の一部が見え
ています。その奥には表御座所があり御車寄があります。右上の
写真は宮内庁庁舎の裏側の部分です。
山下通りを降り切ると蓮池濠に突き当たります。この道を左に行く
と突き当たりが乾門となります。この門は明治になり建てられたも
ので乾濠、西結橋門、蓮池濠、道灌堀を経て宮内庁へ行きます。

蓮池濠と右上に富士見多門が見えます。その先の遠くは
乾門を越えて北の丸公園になります。



〜戦前の宮城(皇居)ほか〜



敗戦前の宮城の正門です。
戦前の皇居正門石橋です。家にある白黒写真をから抜き出してみると
下に見えるように正門を警備するのは皇宮警官では無く…敗戦までは
帝國陸軍の近衛兵(近衛師団近衛連隊の兵士)が明治24年から昭和
20年までの54年間を衛兵として儀仗と警護を平時の任務としました。ま
た宮内省には内部として戦前も宮内省皇宮警察部が明治19年より昭
和20年まで警護任務を行いました。敗戦から一時期は近衛師団と宮内
省警衛局皇宮警察部が解体され、皇族の警護と皇室御用地を範囲とし
た警察・消防などを目的に禁衛府が設立され禁衛府皇宮警察部と皇宮
衛士総隊が作られて前者は皇宮警察より、後者は主に近衛師団から選
抜した精鋭をもって継続して警護等の任に当たりました。これは昭和20
年〜21年の短い間で終わり…設立の翌年3月末をもって禁衛府は廃止
されました。皇宮警察は宮内省皇宮警察署に改組され昭和22年1月1日
に警視庁皇宮警察部となり、その後も改組、移管をかさねて現在の警察
庁皇宮警察本部に至ります。



以下は戦前の明治宮殿です。
          御車寄です。
      千種之間(左上)と豊明殿(右上)
    西留之間(左上)と旭之間(右上)
賢所正門(左上)と松之間(右上)
賢所正殿(左上)と御内庭(右上)
吹上御苑(左上)と振天府(右上)
建安府(左上)と客間
赤坂離宮正門(左上)と出門した陛下の車列
赤坂離宮御車寄と内部

赤坂離宮…明治42年東宮御所として建造されましたが現在は
迎賓館赤坂離宮として華麗なネオバロック様式の洋風建築の
美しさを残し国の迎賓施設として使われています。
赤坂離宮の東門(左上)と青山御所正門(右上)
下は近衛第一旅団の田安門です。

宮城に限らず皇室御用地の全てを近衛兵が警護を行いました。

新宿御苑(上左右とも)、下は明治神宮

近衛歩兵第一連隊正門と北白川宮殿下銅像(左上)と近衛歩兵第一連隊営庭(右上)
近衛歩兵第一連隊軍旗(左上)と近歩二の正門(右上)
下は近歩一の営庭を進軍する姿です。

近衛歩兵第一連隊の将兵達です。
日本中の優秀兵を集めて編成することになっていた近衛師団の一員と
なる事は兵にとっても郷土にとっても大変な誉でありました。
近衛連隊は禁中警固の任に固く任じました。当初各鎮台よりの選抜兵で
部隊をなしましたが、その後は全国の徴兵区から優秀な現役兵を元から
配属させる形に変更されました。いずれにしても非常に誇り高く意識レベ
ルも一般の部隊に比して高い連隊でありました。


第二十八代近歩一連隊長の平松英雄
大佐(後に陸軍中将)
左上は第十九代近衛第一師団長の森岡 守成 中将。
右上は近衛歩兵第二旅団長時代の津野一輔少将(後
に第二十一代近衛第一師団長)です。
留守近衛第二師団長だった栗林 忠道
陸軍大将閣下です。
近衛師団司令部庁舎は戦後、旧禁衛府庁舎となり
現在は、東京国立近代美術館工芸館となって北の
丸公園に存在しています。
敗戦後、発足まもない禁衛府の衛士達…彼等は
元近衛師団から選抜した精鋭をもって作られた皇
宮衛士総隊でした。






〜 皇 居 東 御 苑 〜
  (皇居の東半分)





一般参観コースで吹上御苑側の見学コースを見終えると
上の写真の警官のいる大手門近くの三の丸肖蔵館の近く
から皇居東御苑に入園しこちら側の見学を行います。

ここは皇宮警察の本部庁舎。右は柔道場です。
下のバーナーをクリックすると皇宮警察のHPへ
飛びます。
              ↓


大手門近くの見所の第一は下に紹介する三の丸尚蔵館です。
三の丸尚蔵館は昭和から平成に変わる時に皇室から
国へ美術・工芸品が寄贈されました。これを収蔵した
場所です。その後も故秩父宮妃殿下、故高松宮妃殿
下、香淳皇后陛下の御遺品が寄贈され収蔵品は約
9.500点に及びます。
三の丸尚蔵館の中は写真撮影禁止です。






























明治4年9月9日に皇居内の江戸城本丸跡庭園にて陸軍近衛師団
が空砲による報時を開始。午砲台の運営はその後、海軍兵学校な
どへ転々とする。大正11年9月15日 この日限りで軍が経費削減の
ため撤退。その後は東京市が業務を引き継ぎ、東京市報時所とな
る。昭和4年5月1日 経費難などのため空砲による報時を終了。
市内各所に設置したサイレン(号笛所)による報時に切り替えました
。現在は、午砲台跡地は芝生が張られ整備されており、「午砲台跡」
の小さな石碑が残るのみである(砲自体は江戸東京たてもの園に
保管展示されています)。正午になるとこの大砲がなって時を知らせ
ます半ドンの語源にもなったそうです。
右上の砲は、江戸東京たてもの園で展示されている砲です。












桃華楽堂


天守閣跡






右上は天守閣跡から見える北桔橋門。左下の写真は
武道館の屋根が見えています。

天守閣の跡の石垣の高さだけでも結構な眺望が
あって江戸時代であればこの上に高さのある天
守閣からであれば相当に景観が望めたものと想
います。…この江戸城の規模は…他の城の概念
を越える広さと大きさであり…徳川十五代二百六
十年の栄華と権勢が如何に凄まじいものであっ
たのかを改めて想い知らされます。






書陵部庁舎










二の丸の回遊式庭園


武蔵野の面影のある雑木林に人工の滝もあり
これが東京のど真ん中である事を想うと不思議
な気がする空間です。























和田倉公園の噴水


内堀通りから見た平川門









〜防人達の眠る栄光の約束の地〜
       (靖國神社)



靖國神社の起源は明治2年(1869)6月29日に
建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の
日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変
わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程
にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政
権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり
海外との交流を厳しく制限していました。ところ
が、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って
日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖
国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混
乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力
を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上
し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国
づくりに向けて歩み出すこととなったのです。
しかし、そうした大変革は、一方において国内に
避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)
を生み、近代国家建設のために尽力した多くの
同士の尊い命が失われる結果となりました。
そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために
一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝
え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの
地に「招魂社」を創建したのです。この招魂社が
今日の靖國神社の前身で、明治12年(1879)
6月4日には社号が「靖國神社」と改められ別格
官幣社に列せられました。



          ↑
上のバーナーをクリックすると靖國
神社の公式HPに飛びます。



東京招魂神社


昭和二十年八月十五日…敗戦の日の社頭。







大鳥居(第一鳥居)


空中から見た靖国神社と参道


         ”常陸丸殉難記念碑”です。


明治37年6月15日、運送船『常陸丸』は
日露戦争の際、満州に出征する軍の増援
の為に濃霧の玄界灘を航海していた時に
突然現れたロシアのウラジオ艦隊に猛烈
な集中砲撃を受けて反撃もままならないに
海底の藻屑となりました。この時、将校は
一同が自決し、乗組員も千二百余名のう
ち9割近くが殉難しました。

この記念碑は元は九段会館の敷地内にあ
りましたが、戦後、進駐軍の命令により破
却されてしまいました。それが地下鉄十号
(都営新宿線)工事の際に地中より無残に
も三つに切断された形で発見されたのを機
に復興される事となり昭和40年靖国神社
に再建を見ました。毎年6月15日にこの碑
の前で慰霊祭が行われています。



   

   シベリアで最期を遂げた
          ”田中支隊忠魂碑”です。


第一次世界大戦で跋扈するロシア革命派の掃討
を図るため第十二師団歩兵第七十二聯隊はウラ
ジオストクに上陸、ハバロフスクを経由し、現在の
中国黒龍江省北部、アムール州方面に進出しま
した。この地の日本軍は苦戦を強いられていた為
大正8年2月25日、第三大隊長 田中 勝輔 陸軍
少佐は砲兵などの配属を受けて田中支隊を編成し
敵の大軍の退路を断つべく、ユフタ(ブラゴベシチェ
ンスク北方)付近まで進軍しました。斥候として派
遣した44名から成る香田歩兵中尉の小隊は、会
敵し戦死者41名、負傷者3名の大損害出します。
斥候が見つかった事で、田中支隊の主力150名
も約20倍の敵軍に包囲されます。田中支隊長は
敵弾を受けた後…自刃、支隊も壮烈な戦死を遂げ
全滅しました。また包囲される田中支隊の救援に
赴いた西川達次郎指揮する砲兵中隊、歩兵一小
隊112名も敵と交戦し107名が戦死しました。

この忠魂碑は、この時の戦闘で僅かな生き残りで
ある山崎千代五郎氏らが、昭和9年2月26日に
九段坂下の九段会館の近くに建立したものです。
昭和館の建設に伴い平成8年9月3日、靖国神社
に移設されました。




        慰霊の泉

異境の厳しい戦場で『お母さん、水を!』
と言葉を残し息を引き取った多くの兵士達
を偲んで、国際的社会奉仕団である(社)
東京キワニスクラブが明治百年を記念して
昭和四十二年に奉納されました。慰霊の泉
は、明治100年を記念して将来末永く残る
有意義な事業を興したいという、設立間も
ない東京キワニスクラブメンバーの強い意
志で、当時1600万円の寄付を募って靖国
神社の中に建てられた「清らかな水を捧げ
る抽象的な母」の記念碑です。この記念碑
は、戦没者の多くが死に臨んで「お母さん
水を!」と叫んで息を引き取るのに、靖国
神社には「水」がない、「清らかな水を戦没
者に」という、故大西滝治郎中将(特攻の生
みの親と言われ、終戦日の翌朝壮烈な自刃
をとげた海軍中将)の未亡人淑恵さんの悲
願を叶えるものでもありました。



        戦跡の石


激戦の戦跡では遺骨収集も困難を
極める異境の地が多々あります。
『せめて戦場の石だけでも…』そん
な遺族達の希望に応じて日米関係
機関のご協力により、ブーゲンビル
島、グァム島、フイリッピン各地、硫
黄島、沖縄など各戦地から計五十一
個の石が集められ、そのうちの二十
五個が展示されています。…異境の
地で散華した多くの戦歿者を偲ぶ事
ができます。




              靖國の時計塔


全国四十万人余りの戦歿者の妻(未亡人)達
(日本遺族会婦人部)からのけんきんにより
昭和四十年に建設されました。

妻たちの平和の祈りを、永く後世に伝えようと
する祈りが込められたブロンズの時計塔です。



日本初の西洋式銅像である大村益次郎像が
まず出迎えてくれます。そして大灯篭が左右
ありその下にレリーフがあります。ここを素通り
するような真似をしてはなりません。
上海事変 爆弾三勇士
  (斎藤 素厳 作)
北清事変 天津城の攻撃                  日清戦争 明治天皇の廣島大本営入
   (畑 正吉 作)                            (畑 正吉 作)
第一次世界大戦 地中海遠征の特務艦隊
        (吉田 久継 作)


日本一大きな花崗岩で出来た高さ13mの大灯篭です。
第二鳥居の手前左右に一対そびえます。社殿に向かっ
て左側に陸軍、右側が海軍の日清戦争から満州事変に
至るまでの主な戦闘場面が七面ずつレリーフが描かれ
ています。このレリーフは帝国美術院長の正木直彦氏
が監修で四人の高名な彫刻家が製作し、昭和10年に
富國徴兵保険相互会社(現富国生命)が奉納した物で
す。

左側陸軍の大灯篭のレリーフ

日露戦争 奉天入城式(斎藤 素厳 作)

 第一次世界大戦 装甲列車の戦闘
       (斎藤 素厳 作)


   満州事変 熱河長城攻撃
       (畑 正吉 作)


    上海事変 爆弾三勇士
      (斎藤 素厳 作)

台湾鎮定明治41年警官隊の戦闘
(畑 正吉 作)

日清戦争明治天皇の廣島大本営入
(畑 正吉 作)


北清事変 天津城の攻
(畑 正吉 作)



 右側の海軍の大灯篭のレリーフ

第一次世界大戦 地中海遠征の
特務艦隊   (吉田 久継 作)

日露戦争 日本海海戦戦艦三笠艦
橋の東郷元帥 (吉田 久継 作)


 上海事変 上海附近の空中戦
   (小倉 右一郎 作)


上海事変勃発 海軍陸戦隊
(吉田 久継 作)

救護 日本赤十字社救護看護婦の活
動 (小倉 右一郎 作)


日清戦争 黄海海戦(吉田 久継 作)

日露戦争 第二回旅順港閉塞の広瀬
中佐 (小倉 右一郎 作)


”日本陸軍の父”と謂われた
大村益次郎(村田蔵六)は、
長州出身で蘭学に優れ維新
政府に参画し近代軍隊の基
礎を作りました。また東京招
魂神社を九段坂上に建立す
る事を決定しました。明治二
年、大村に反感を持つ旧士
族に京都で襲われ重傷を負
い招魂社送検直後に大阪で
歿しました(享年47歳)。明治
26年、門人らの篤志で完成し
たこの銅像は、我国で最初の
西洋式銅像でたちまち東京の
新名所となりました。

高さ12mあり、彫刻家の大熊
氏廣 作です。






神門
神門の門扉に掲げられた十六弁の菊の御紋章
が東京招魂神社以来の本来は正当な国営の追
悼慰霊施設である事を如実に物語っています。
門をくぐればいよいよ本殿です。

神門と第二鳥居(青銅大鳥居)…美しき参道です。





                   ご本殿
靖国神社の最深部。幕末から大東亜戦争までの英霊二百四十六万
六千余柱が、ご祭神として祀られています。明治五年、伊藤平左衛
門(建築家)の設計による遊大豪壮な名建築と謂われています。


     霊璽簿奉安殿


二百四十六万六千名余柱の
ご祭神名を浄書した和紙を綴
った『霊璽簿』は、約二千冊が
五十領の唐櫃に入れられ、こ
の奉安殿(本殿の奥)に納めら
れている。


          元宮


ご本殿に向かって左側、
回廊外側の小さなお社が
元宮です。昭和六年、靖
國神社に奉納されました。
東京招魂社が創建される
以前、京都で、志士たちの
霊を祀った小社。いわば
靖國神社のルーツでした。


           鎮霊社


元宮の南側にある鎮霊社
は、嘉永六年遺構の戦争・
動乱により亡くなっても、靖
國神社のご本殿に祀られて
いない日本人と諸外国人の
霊を一括して鎮め祀ってい
ます。昭和四十一年の創建
です。



〜遊 就 館 の 周 り〜


遊就館正面

靖国神社に奉納された”護国 海防艦”の碑

右下は、海防艦顕彰の碑文

碑文には以下の内容が記載されています。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工
の『占守』を第1号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役
19隻を含め建造数189隻にのぼった。

  要目は、全長約7.0メートル 排水量約800トン 乗員約200余名
小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち、操縦性、航洋性の点におい
ても優れていた。

   乗組員延総数3万余、士官には商船学校出身者、学徒出身者、
兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。

  十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポ
ールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当たった。人
員、兵器、物資の輸送を果たしつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃
墜する戦果もあげたが、戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を
失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。

  ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、
併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。

                               昭和55年5月5日
                                    海防艦顕彰会








パール判事顕彰碑
極東国際軍事裁判の判事として、A級戦犯全員の無罪を
主張したインドの法学者ラダ・ビノード・パールを顕彰する
為、平成17年に建てられました。


左上は母の像。戦争で父親が亡くなってから母親が
子供を育ててくれたことに感謝し、昭和49年に建てら
れました。右上は、鳩魂塔で通信に使われた伝書鳩
の慰霊をする為、昭和57年に奉納されました。

戦没馬慰霊像
戦場で死んだ軍馬の慰霊の為、昭和33年に
奉納されました。…大東亜戦争だけでも命を
落とした軍馬は20万頭と謂われます。軍用
犬同様に国に生還したものは一頭もいませ
ん。


軍犬慰霊像
戦場で死んだ軍用犬の慰霊の為に平成4年3月に
奉納されました。伝令、警戒、捜索、運搬、襲撃に
と広範に活躍した軍犬は一万頭が戦場に送られ
ました。


     特攻勇士の像


この像の原型は遊就館に展示中の
彫刻家・北村 西望
作『海軍飛行予
備学生の像(雄風)』です。東京美術
学校(現・東京芸術大学)教授の時
に海軍飛行予備学生を志願し大空
に散華した教え子への哀悼と鎮魂の
祈りとともに制作した。

それを弟子の石黒 光二氏が拡大制
作し、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協
会が平成11年3月に奉納しました。





          憲兵之碑


戦前・戦中に靖国神社に常駐した
憲兵隊は、大正十二年の関東大
震災、昭和二十年の帝都大空襲
の際にも社殿を命懸けで守りまし
た。その功績を後世に伝える為、
昭和四十四年に建てられました。


           軍人勅諭の碑

明治十五年一月四日、明治天皇から陸
海軍人に賜った『軍人勅諭』。同三十八
年、書家・土肥直康が精魂込めて書き
上げた。紆余曲折あって有志の努力で
奉納されたは昭和五十年の事でした。

         軍人勅諭

一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。

一、軍人は礼儀を正しくすべし。

一、軍人は武勇を尚ぶべし。

一、軍人は信義を重んずべし。

一、軍人は質素を旨とすべし。

…この五カ条は天地の公道、人倫の常
経なり。行い易く守り易し。汝等軍人、よ
く朕が訓に遵ひて、この道を守り行ひ、国
に報ゆるの務めを尽くさば、日本国の蒼
生拳りて之を悦びなん。…



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〜 遊 就 館 の 中 〜






遊就館
零戦52型







零戦に搭載され有名になった栄光の20mm機銃




八九式十五糎加農砲と九六式十五糎榴弾砲





余りにも有名な映画”戦場にかかる橋”で有名な
泰緬鉄道…映画はフィクションです。映画で描か
れた橋は今も健在であり、その設計段階でも全
てが日本人の設計で完成されたものです。一万
五千名の日本軍鉄道隊が中心となって作った泰
緬鉄道は、一部で 捕虜が土砂運びなど単純作
業だけを手伝わせた事実はありますが、建設の殆
どを鉄道隊が行いました。また鉄道隊は東京帝大
土木学科卒業の専門家たちが将校として指揮して
建設しました。 決して無学の白人に手伝ってもらう
必要があるわけも無く…映画の様な事はありませ
んでした。







回天1型…右奥は戦艦”陸奥”の副砲、奥に艦爆”彗星”



桜花と艦爆”彗星”

















































メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。


こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。