かくすれば
 かくなるものと知りながら
    やむにやまれぬ大和魂
        
         吉田松陰

敷島の 大和ごころを
  人問はば 旭日に匂う 山桜花
          
         本居宣長









敗戦前、国内では何処でも見かけた
           出征兵士を送る風景です。



かつて現在のように米国の属国となる前は、我国は唯一の
有色人種の先進大国として大亜細亜解放の聖戦を戦いまし
た。結果は大日本帝國の壊滅と現在も続く奴隷国家の様な
状態です。国内のマスコミは心と良心を完全に失い白人諸
国とこれに連動しアジアと日本を裏切り欧米に与した蒋介石
率いる当時の中国国民党…そして毛沢東率いる中国共産
党は、今も都合のよい嘘を塗り固め日本を悪しざまに批難し
ます。しかし歴史は…当時、植民地と圧政に苦しむアジアの
同胞の解放を夢見た日本の正義の聖戦を消し去ることが出
来ません。…日本の苦しい白人諸国との戦いを同じアジア人
でありながら裏切った支那がどういい繕っても…その後のア
ジアの歴史を見れば日本は自らを犠牲にしてアジアの解放に
成功した事が如実に示されている事が理解できます。ビルマ
そしてベトナム、タイ、インドネシア…一部に華僑が国の政治
の中心をになっているシンガポールやフィリッピンなどは、基
本的に反日の国で支那のぞっ属国と謂って過言でありません
ので支那に同調した反日の歪曲した歴史を植え付けようとしま
すが…真実を打ち消す事は出来ません。朝日新聞やHNKなど
の反日マスゴミが宗主国の中国様の都合のよいように歴史を
歪曲しても…真実を私達日本人が子々孫々に伝えます。


すでに階級章(98式少尉らしき)を付けています。右胸に在郷軍人会
の徽章と明らかに歩兵科では無い兵科章を付けています。予備役の
少尉さんのようです。
大阪のようです。雰囲気から日華事変の頃、日米戦まで至らない
頃のようです。たくさんの人が見送りに来ています。大日本愛国
婦人会、地元の在郷軍人会…親戚、友人、知人に見送られ入営
します。




     出征兵士を送る歌

 作詞:生田 大三郎
 作曲:林 伊佐緒


一、

わが大君(おおきみ)に召されたる
生命光栄(はえ)ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征(ゆ)けつわもの日本男児


二、

華(はな)と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて
正義の軍(いくさ)行くところ
たれか阻まんその歩武(ほぶ)を
いざ征けつわもの日本男児


三、

かがやく御旗(みはた)先立てて
越ゆる勝利の幾山河
無敵日本の武勲(いさおし)を
世界に示す時ぞ今
いざ征けつわもの日本男児


四、

守る銃後に憂いなし
大和魂ゆるぎなき
国のかために人の和に
大磐石のこの備え
いざ征けつわもの日本男児


五、

ああ万世の大君に
水漬き草むす忠烈の
誓致さん秋(とき)至る
勇ましいかなこの首途(かどで)
いざ征けつわもの日本男児


六、

父祖の血汐に色映ゆる
国の誉の日の丸を
世紀の空に燦然(さんぜん)と
揚げて築けや新亜細亜
いざ征けつわもの日本男児



 陸軍省選定
 大日本雄弁会講談社募集当選歌
 昭和十四年十月



昭和14年「出征兵士を送る歌」 オリジナルPV ノーカット版



<軍歌>出征兵士を送る歌



出征兵士を送る歌



御近所、職場、皆が万歳で送り出しました。

まだ物資が豊かな頃の大阪の理髪店です。
セーターににスカートのお母さんに小学生の
坊やです。大阪市倶楽部と入口上にありま
すが…戦前らしく右から読む形です。まだバ
ーバーの英字もあります。昭和10〜
16年頃
でしょうか。旭日旗がいいですね。



家族が友人が御近所が…あの日あの時、皆に送られて…。
あの時代のあるべき家族たちの肖像です。
勇ましく見送られ…あの顔、この顔…そして見送ったあの人は無事に戦地から
戻る事が出来たのだろうか?…そして見送った多くの人々は、激しかった空襲
を生き延びたのだろうか?
送る側も…送られる側も様々な想いが胸に去来し全てを飲みこんで万歳が
連呼され斉唱される。そして見送る人は頭を下げる。…今見ても切なく万感
迫る見送りのワンシーンである。








祝応召幟


出征が決まると御近所から祝福されながら
このような幟と以下のような襷を掛けて見送
られて軍に行きました。実際は、右の幟は、
小さいタイプで全長132cm、幅48cmです。左
のものは、大きいです。長いので画像も3分
割したのを加工しました。
出征兵士が見送られる時に身に付けた赤襷です。下は、当時の
模様の画像です。
平時においては、成人になった男子が通る儀式であり
大変名誉な事とされる国民の義務の一つでしたが…
戦時では、家族にとって顔で笑って心で泣くのが…
一般的であった事でしょう。…まさに奉公そのものとい
う感じしょうか。




海軍出征兵士幟



こちらは、海軍ですが…大きな幟です。滑川警察署と
なっておりますので富山県警の警察官だった方でしょ
う。…新兵として入隊すると警官は、かなり辛い目に
合わされたと聞き及びます。また富山から呉まで遠い
旅路になったものと思います。










千人針・武運長久




かっては、兵役により出征が決まると家人の女性が無事の
帰還を祈り千人針の腹巻を用意します。そして街角などに
立ち町行く女性に一針ずつ縫ってもらいます。こうして出来
た千人針は、敵の弾に当たらないと謂れお守り代わりに身
に付ける兵士が多かったようです。この千人針は、腹巻の
内側に【武運長久】に五銭と十銭が縫い込まれております。
四銭(死線)越えて十銭(実戦)に武運長久の祈りが込めら
れております。大きさ幅15x長さ140cm・長さ55cmの紐
4本付いてます(正絹製)。







銃後を支えた日本の婦人達!



割烹着に襷掛けのいでたちでお馴染み
の各種婦人会のものです。





京都二条女学校学生の防空頭巾



戦時中に作られ使用された防空頭巾です。黒い布に、裏地は赤。
いかにも当時の女学生が作ったものという印象です。
左側の防空頭巾に”京二条女 1年6組 住所氏名
 B型”とあります。こちらは程度が良好です。右側
は、記名がありませんが、同じ布なので、同一人の
ものと思われます。記名は無く、破れ、若干の虫食
いもあり戦後の歳月の流れを感じさせます。


左は、軍旗用と基本的に変わらない、旗を支える
腰の皮具。在郷軍人の隊旗の箱から出てきたそ
うです。これは予備だったようで、殆ど使用された
形跡がありません。右の方は、正剣帯のような
タイプで直接、腰に差すタイプです。左の用具は、
肩から吊るし剣帯を通す二重式です。






戦死公報…死亡告知書



ボロボロの封筒に一枚の薄い死亡告知書です。届いた
のは敗戦後の半年経過した冬の昭和21年1月17日の
印があります。戦死した日は敗戦の二日前の昭和20年
8月13日、場所は満洲帝國の間島省 図們で時刻不明
戦死とあります。 図們は北朝鮮と支那の国境の街で
今では時々、北朝鮮からの脱北者が多く報道される事
で知られる地名です。所属は、満州鉄道第19雑隊とあ
ります。戦死後の階級は兵長ですから上等兵で戦死さ
れたのでしょう。満鉄の雑隊と謂う部隊を良く知りません
が恐らく満鉄の沿線を守る為、車両に配備された兵か
沿線を移動しながら満鉄の守る部隊と想像します。新京
- 図們
を結んだ京図線(現在の長図線)529kmをどれだ
けの兵力で守備したか知りませんが…その後時期的に
ソ連の参戦とまだまだ先の混沌がある時期でしたが…敗
戦の二日前に戦死ですから遺族には悔やまれてならな
かった事と思いますが…。この敗戦期は日本全国で同じ
ように…遺骨なき死亡告知書が多くの遺族に届いた事で
しょう。…しかしこの名も無き多くの兵士達の死が今の日
本の繁栄を支えたのであります。我々、後世で平和を享受
し生きる日本人は…その事を努々、忘れてはなりません。







大日本軍宣撫官の腕章と写真資料
  (知らざれる軍属・宣撫官!)



史上最強の軍隊であった旧日本軍と、砲煙弾雨の中で行動を
ともにしながら、戦禍に苦しむ現地民たちの慰撫救援にあたっ
た旧日本軍宣撫班。大陸の戦野に、大義、愛民の尖兵としてそ
の青春を捧げた若き日本人達がおりました。兵隊とは違う形の
今でいえばNPOのようなボランティアに近い存在。この時代の
日本にも…こういう若者たちがいたのだ―ということをぜひ知っ

てもらいたい。
武器なき戦士や平和の戦士と謳われた宣撫班・宣撫官の腕章です。
糸がかなり解れています。公印がありますが薄れて難読です。宣撫官
とは「宣撫」つまり占領地において日本軍の目的や方針などを知らせ
て、人心を安定させることを任務とした軍属です。宣撫工作とは、その
ための諸々の活動を指し、行軍する部隊や担当地域ごとに配置される
宣撫班が基本単位でありました。
その起源は、満州事変にともなう昭和7年の熱河作戦において南満州
鉄道総局愛路主幹の八木沼丈夫を班長とし路担当者三名で組織され
た宣撫班から始まります。これが予想外の成果をあげた為、関東軍が
別途に編成することになりました。
日本は大戦前から占領地政策のため、満州や中国において活動する
宣撫班を組織しました。その役割は日本の目的や方針を示し、そのこ
とにより占領地における人心を安定させ治安の維持に寄与することで
あり、多岐にわたる作業が行われ「武器なき戦士」とたたえられました
。なお宣撫工作自体は、宣撫班が結成させる前にも日本軍の各部隊
で実情に応じて行われておりました。また宣撫班による宣撫工作は、
移動する部隊に同行して行われる従軍宣撫と地域に弁公処という拠
点を用意して行われる定着宣撫とがあり、この二つは任務の性質が
異なりました。
従軍宣撫班は日本軍部隊と行動をともにするが、反日的な宣伝工作を除き
日中親善のチラシなどで広報活動を行うため、可能な限り部隊に先行して
活動した。部隊が休む時は村落工作に出かけ、日本軍派遣の大義、中国共
産党、中国国民党の悪業を説いた。 民衆の理解が得られると軍用道路、
架橋、軍需物資の調達等に協力を求めることができた。労役を求める場合
には、中国側のように民衆に無賃労役を強制することがないことが違いだ
った。信頼関係ができると日本に有利な情報を収集して提供する者も出た。
中国国民党軍がとった「堅壁清野之計」という焦土作戦のため、国民党軍
が敗走する場合には一切の物資を略奪または焼却破棄・破壊して日本軍に
一物も与えないという行動がなされた。このため日本軍が戦闘を行う場合
従軍宣撫班は食事を準備し、戦闘後に住民に配った。
定着宣撫班とは、民衆が怯えないように日本軍の守備隊からある程度
離れた場所に弁公処という拠点が用意し、 新しい占領地に対しての
作業は避難民に対しての帰来勧告から始まることが一般的でした。ま
ずは彼らを探し出すことから行われるが普通は残留しているものが少
数は、いたのでその者たちを手がかりに次から次へと帰来勧告がなさ
れました。 帰来した避難民の衣食住から就業支援などの相談に応じ
て必要な物資の援助などを行いました。
民衆の生命財産を保護するため、たとえば避難した住民の留守宅の
家屋財産を保護する手段を講じ、また難民救済として薬や食事を配
給することも避難民収容所や施薬所、施米所、施粥所を用意して行
われました。その施設のために守備隊から食料が供給されたり、守
備隊の日本兵が資金を提供することもありました。また中国国民党
軍がとった焦土作戦のために広域にわたって食に窮する民衆が発生
し、遠方から評判を聞きつけて援助を求めてこれらの施設を訪ねて
くる者も多くありました。 中国の医療機関が逃げさった地域のた
めに宣撫班は日中戦争が発生してから中国北部各地に施療班を設
けて難民の医療を行うこととなり、その組織として満鉄施療班、同仁
会施療班、大阪朝日施療班、大阪毎日施療班が組織され、各地宣
撫班も管内所在の医療機関を動員して施療を行いました。戦禍の恐怖
や衣食住の心配が薄らぐ段階になると地域社会自体の様々な問題が
注目され始め、宣撫班の問事処が設けられました。貸借問題、権利
問題、警察関連問題から家庭問題など広範な問題が持ち込まれまし
た。これとは別に住民自身による役所の組織指導も行われました。




新しく内地から来た男子宣撫班員が盧溝橋近くの一文字山の戦跡で
盧溝橋事件の説明を聞いています。
中国人の病気を施療する宣撫班員
北京の日本語学校。婦女宣撫班員が大学の教室を使って教えている。
昭和13年(1938年)4月17日午前7時半、杭州、上海間の鉄道線路が破壊された
ことを付近の中国人が発見、鉄道警備隊に報告して事なきを得た事例。列車乗
務員及び中国人作業者が協力し15分で修理、列車は無事上海に向けて発車した。

                 引用:フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』


腕章と一緒に熊本から出た写真です。

盧溝橋の建物は盧溝橋駅で写っている白い腕章の人物は
宣撫官と思います。
中国における戦闘後は、大日本宣撫官により戦闘で破壊された
道路・家屋・橋等の修復工事の写真です。現地人を使い指導す
る宣撫官の姿があり、一枚には中国人の高官だろうと思われる
三名の人物が写っています。昭和13年1月国民政府を非難し、
絶縁、日支提携の南京自治委員会を発足していますので、その
後に写された写真と思われます。中国国民党軍は”堅壁清野之
計”という焦土作戦を取っており、国民党軍が敗退する時は一
切の物資の略奪・焼却破棄・破壊し日本軍には一物も与えない
作戦を取った。一番困るのは民衆であり、食べ物もなく住む家も
なくその後日本軍は従軍宣撫班により食事・医療等の世話・住
居・道路等の現地民衆を指導し賃金を出し労役に付かせた。中
国の軍隊については、無賃労役であったので、自国の軍隊につ
いては反発があったそうです。当事民衆は自国軍より日本軍に
好意を持っていたと聞き及びます。 







ありし日の宣撫官たちの姿

軍属扱いなので制服は陸軍の軍服に腕章と軍刀の
佩刀を許されていました。階級章は無く変わりに座
金に宣の文字のある徽章を襟章としていました。この
為、遠目から見ると襟章が見習士官に見えて紛らわ
しいと一般兵下士官からは不評のようでした。身分も
判任官待遇なので兵下士官待遇です。当然、日本人
だけでなく満州人や中国人、蒙古人の宣撫官も大勢
男女で参加しました。
何期生か不明だが送別会の写真
寿張県宣撫班

宣撫班小史によると昭和13年の内地募集は
4、7、10月の3回行われ、その年の末に本班
1、軍指揮班2、兵団指揮班5、現地班113、
連絡班3、施療班4、計128班、人員は日系の
宣撫官が1014名、満支人542名の計1556
名が投入されました。そしてその年の1月に尾
崎宣撫官の戦死を筆頭に年内で戦死者は82
名に達し、病気による退職帰還者は日系宣撫
官で160名、満支人で12名。現地で病魔に
侵されても再起し職務に復帰しえた者は延べ
1600名という統計がありました。宣撫官の人
数は少なく…任地は広く大勢の人を相手にしな
ければならず過労と不規則な生活を強いられ、
また常に国民党軍のスパイや中共のスパイが
暗躍し襲撃や暗殺の危険も心配せずにいられ
ません。まさに敵地での非武装のボランティア
活動を行っているようなものですが、戦死者も
多く過酷な仕事である事が判ります。

       支那人の女子宣撫官            子供達と宣撫官

    当然、宣撫班には病院や診療所の開設も求められ医療を提供した。.
         便衣姿の宣撫官           愛妻と宣撫官
      館陶県の女子宣撫員達       ちょっとカマぽい宣撫官…(T_T;

    支那では特に地方での移動は馬が宣撫官には重宝されました。
    子供達と宣撫官…多くの難民や捨て子を救ったのもやはり日本人でした。
  子供達と宣撫官…同じ支那人である中共にも国民党軍にも迫害され日本人を頼る
  支那人が多かった。そうして支那人の中から宣撫官になる者も多かった。今では
  そうした事実も語られず、全て日本が悪い事にされている。恐ろしきは中国共産党
  である。また互いに口をつぐむ台湾の国民党も同罪である。
山東派遣の第6期生
何期生か不明だが北京の訓練所を終えた集合写真
          第一期生は国内から輸送船で支那へ送られました。
             北支派遣軍本部前の第二期生の記念撮影
梅壇寺の宣撫官訓練所を訪問し5期生に訓示する
北支派遣軍参謀長時代の山下奉文中将(恐らく昭
和13年頃と思われる。)

引用:大日本軍 宣撫官〜ある青春の記録〜より






嗚呼…耐え難きを耐え
      忍び難きを忍び…涙の敗戦…

      そして地獄の引揚げや復員…










外地からの引き揚げは特に満洲・中国・朝鮮では悲惨を極めました。
敵はソ連兵ばかりでなく中国人や朝鮮人が強姦・輪姦・虐殺・強盗と
引揚の市民達が祖国の土を踏む間にどれだけ多くの人が犠牲になっ
たか…鬼畜なのは米・英・ロシアだけでなく中国人や朝鮮人も忘れて
はならない!
遺骨を抱いて一人帰国した孤児の少女…。右の孤児の
少女は女の子とばれないように髪を切り男装をしている
如何に朝鮮人や中国人が残虐なのかを…こうした写真
が今に伝えている。まだ中国大陸には残留孤児がいた
が…満洲〜支那〜日本に帰る陸路の朝鮮半島には、何
故か残留孤児問題の話を聞かない。全て虐殺されたか
らである…。恐るべき隣国を日本人はよく知るべきであ
ろう。
両親を失い幼い姉が乳飲み子の兄弟をおぶり
帰国する姿は涙を禁じ得ない。
東京大空襲の焼跡に立つバラック…今の近代的な
ビルが林立する大都会・大東京からは想像がつか
ない世界がありました。その悲惨な歴史を忘れては
なりません。


生きて祖国の土を踏む旧陸軍の兵士達
支那より敗戦で部隊単位で復員する旧日本兵の隊列

ヤミ米など買い出しの市民達。

疎開先より学童が帰還する。

焼跡の学校






復員兵士の帰還列車の駅に掲示されたサボ



この赤十字が示す通り海外の戦地からの陸海軍の将兵たちの
帰国事業や復員には赤十字が積極的に関わり貢献しました。


昭和20年8月15日の敗戦の日から昭和21、22年の最盛期に旧国鉄の
駅で使われた復員列車への案内のサボと思われます。恐らく復員輸送
船が入港するような港町の基幹駅に掲載されたとのでは想像します。
最盛期の昭和21年をピークとして全国的には使われ無くなり…一部、
舞鶴などソ連軍によってシベリアに抑留された日本人達の帰国が昭和
22年から昭和31年にかけて抑留者47万3000人の日本への帰国事業
が行われました。…当然、この時期も使われた可能性があります。いず
れにしろよく残ったものだと感心します。このサボは…多くの復員兵の
悲哀を見つめてきたのでしょう…。

敗戦と共に陸軍省と
海軍省は解体され、
それぞれ第一復員
省と第二復員省に
衣替えされ、それぞ
れの所属した陸軍と
海軍の将兵の復員
(海軍では解員と謂
った)作業に当った。
後に合併して復員庁
を創設して第一復員
局が旧陸軍関係を、
第二復員局は旧海
軍関係を担当して復
員作業にあたった。
昭和22年10月15日
に復員庁は廃止とな
り第一復員局は厚生
省に移管し、第二復
員局は総理府直属と
なった後、昭和23年1
月1日に廃止され復
員業務は全て厚生省
復員局に引き継がれ
ました。