鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編 U



旧軍の遺構や資料館など・・・広島・山口 編


(広島県・山口県周辺で瀬戸内海に
             点在する旧軍の遺構や資料館など)











瀬戸内海・柱島沖に眠る戦艦”陸奥”を潜る

(海中慰霊シリーズ)



随分と昔の若い頃にバイクでツーリングをして回った
関西や中国地方、山陰山陽方面ですが…中々、その
後は行く機会も無く30年近くが経過しました。江田島
の海軍兵学校や大津島の回天記念館、周防大島の
陸奥記念館、四国に渡って宇和郡御荘町の紫電改
展示館…長い歳月を経て見るものが同じ物として写る
のか違う物として写るのか…その見る者の過ごした歳
月が大きな違いを与え左右するのでしょうが、私にと
ってもう一つ気がかりでならなかった戦艦”陸奥”を潜
る事を棚上げにしていた事でした。まだ身体の自由が
きくうちに日本のど真ん中に一隻残る沈船の陸奥を慰
霊し…序に若い18〜19歳で旅した想い出の地を再訪
してまいりました。短い日程でたった一日でワンチャン
スで潜りましたが…念願が叶い海底に眠る陸奥の40
cm主砲の砲口をこの手で触れる事ができました。一
部引揚がなされた船体ですが…未だに残る船体には
…四十数柱の御遺体が眠っておられると聞き及びます
。改めて犠牲になられし多くの御霊の御冥福をお祈り
致します。 
      合掌

  <戦艦陸奥:最終改装後の基本性能データ>

基準排水量:39.130t

主要寸法:全長224.94m×幅34.60m×喫水9.46m

エンジン:蒸気タービン4基4軸 出力:82000PS

速力:約25.3kt

航続力:10090浬(16k航行時)

乗員:約1500名

主要兵装:45口径41センチ砲×8門 14センチ副砲×18門
       12.7センチ高角砲×8門 25ミリ機銃×20挺

水上偵察機3機搭載

戦艦”陸奥”は、所謂、八八艦隊計画の戦艦”長門”型の二番艦として”長門”建造
の約一年後、横須賀海軍工廠で建造されました。ワシントン軍縮会議直前の大正
10年10月24日に竣工。しかし工事未了の箇所が多く、米・英は完成艦とは認めず
廃艦処分にすることを要求。日本はこれに反発し、度重なる交渉の後、米・英に其
々、40センチ砲搭載艦二隻の保有を認めるという妥協案によってようやく”陸奥”の
存続が決まりましたその後、ワシントン軍縮条約により昭和12年まで新たな戦艦の
建造は認められなかったので、アメリカの”メリーランド”、”コロラド”、”ウエストバ
ージニア”、イギリスの”ネルソン”、”ロドネー”そして日本の”長門”と”陸奥”は、当
時、七大戦艦と呼ばれました。昭和9年から11年にかけて”長門”とともに近代化大
改装が行われ、41センチ主砲は最大仰角30度、射程30,200m、砲の推進機も水圧
式であったのを、最大仰角43度、射程37,900m、砲の推進機は空気式の新方式に
転換しました。この時取り外した四番砲塔が海軍兵学校の教材として、今も江田島
に設置され残っています。主砲弾の総重量は1トン、有効射程距離は30キロメート
ルです。戦艦”陸奥”は、昭和18年6月8日正午過ぎ、山口県柱島泊地にて三番砲
塔付近で 突如謎の爆発事故を起こし沈没。艦長 三好輝彦 海軍大佐(海兵43期)
以下乗員 1,121名の方が戦死されております。
長門と共に栄光の連合艦隊旗艦として大日本帝國の海軍力の及ぶ範囲の
海に君臨した戦艦”陸奥”は、大和級戦艦の”大和”と”武蔵”が出現するま
で世界最強の戦艦といって過言でありませんでした。そして謎の爆沈を遂げ
た海底に眠り66年の歳月が流れましたが…今も尚、その威容と栄光は消え
る事無く我々日本人の心に残っています。爆沈で乗員1.474名のうち1.121
名の方が犠牲になられました。








柱島泊地(広島湾)に沈む 戦艦 ”陸奥”


海軍 戦艦 ”陸奥”



上の其々の青と赤の大きな星印が陸奥が沈んだ柱島泊地のポイントとなります。

陸奥の沈む海上のボートより360度をぐるり見渡して撮影してみました。
上の左右が有名な柱島です。この静かなのどかな海域がつい半世紀以上前
まではアジアに世界に覇を唱えた帝國海軍の一大拠点だったとは…とても窺
い知れない感じでした。
まさしくこの海に陸奥は沈み…約64年前は帝國海軍最大の泊地として一大拠点
あった海域です。今は時々連絡船や漁船が通るのみの静かな海です。
鳴く
許されたワンチャンスの当日は生憎の氷雨でした。海面は凪いでいましたが
その空と風景は…陸奥の犠牲者達が哭いているような印象を持ち、エントリー
前より敬虔な気持ちになりました。
下の左右の島は大きな周防大島(屋代島)です。ここには陸奥記念館があります。
東京から出発する前の1〜2ヶ月は吉村氏の名著”陸奥爆沈”や陸奥引揚の
実現を適えた遺族の17年を描いた”海市のかなた”を再読しイメージを高めて
この日を迎えました。


現在の海底にある陸奥の状況図です。艦体の約70%が浮揚され
艦橋部と艦首部等を除く艦の前方部分などが海底に残ています。
平成19年4月9日に第六管区海上保安本部所属の測量船”くるしま”が
マルチビーム探索機を使用して海底調査を行う戦艦”陸奥”の艦影を
三次元画像処理し一般公開した画像です。

アンカーブイを打って集合場所になっている艦底部の一番浅い部分です。
ここで約水深12〜3mです。上の左右の画像は集合部でビデオ撮影をし
ている私(憂国烈士)です。この辺りまでは撮影はきれいにうつるのです
がここから海底に向かうと透明度がガタ落ちして暗い為、写した映像も?
?と言う具合になりました。
   オレンジの花が咲き乱れたような艦底部です。非常に透明度が悪く濁っています。

ガイドさんです!水深12〜18mでは、まだ透明度が5〜6mありますが
光が差さない20m以下、海底の40m付近は透明度が2〜3mでしょうか
あまり条件の良いポイントで無い事は確かなようです。
シルト及び海中の浮遊物が多くフラッシュをたいて撮影しても暗い海底では
この浮遊物を写してしまいデジカメやビデオのオートフォーカスが効きません
でした。透明度の良い南方の海でレックをしていると中々気が付かない状況
と言えます。道理で深い領域での画像が少ないのが納得します。YouTubeな
などの動画が時々、UPされていいますが大体が浅い艦底付近が中心です。
船体に開いた亀裂…爆発の規模の大きさが想像されます。
舷窓は殆どが開いておりました。
80回以上陸奥を潜っているガイドさんは、この日…艦内に
入り新しい通路とトイレなどの残存を確認できた仰っていま
した。
船腹から海底に向けて潜行中の私(憂国烈士)です。
EAN33のナイトロックスのダブルタンクで潜りました。


海底に散乱する食器類です。この他にも履物など多くの物が
落ちています。この後に船尾に向かい第一砲塔の主砲を見に
向かいます。上記の図と少し違うのは主砲は砂地に埋もれる
ように下を向き砲口は三分の二以上が砂に埋まっています。
砲口部の砂を手で掻き出して撮影しましたが…暗くて透明度
悪くよく映っていませんでした。それが残念でしたが念願の主
砲の砲口を手で触れて還る事が出来…感激しました。


旧海軍兵学校の教育参考館に展示されている陸奥の
艦首に取り付けられていた菊の御紋です(右の大きい
方)。水中から引揚られた為、歪な変形を見ます。
旧海軍兵学校にある陸奥の第四砲塔と主砲
陸上にあるこの美しいシルエットの砲と海底で触れた砲が
同じものとは何となくピンと来ず実感が湧きませんでした。
下は陸奥の41cm主砲に使われた
同型艦”長門”の主砲砲弾です。

呉の大和ミュージアムに展示されている陸奥の主砲と主錨、主舵、スクリュー

東京の船の科学館に展示されている陸奥の主砲です。



以下はYouTubeにあった戦艦”陸奥”の引揚の記録映像です。


戦艦”陸奥”の引揚の動画 1



戦艦”陸奥”の引揚の動画 2



戦艦”陸奥”の引揚の動画 3



戦艦”陸奥”の引揚の動画 4



戦艦”陸奥”の引揚の動画 5







戦艦”陸奥”の沈没海域を望む
        周防大島にある 陸奥記念館


(山口県周防大島町大字伊保田)




爆沈した陸奥の眠る海域を望む場所にある陸奥記念会館です。







以下は記念館の外の展示品です。
菊のご紋が外された陸奥の艦首部分です。今、外された
菊のご紋は江田島の旧海軍兵学校 教育参考館に展示
されています。





























記念館内部の展示の風景です。







水中慰霊祭も行われていたようです。





























出身県別の乗組員の写真が掲示されています。
引揚作業を担当した深田サルベージの
潜水夫が使用した実物の潜水服です。





〜 軍艦 陸奥 引揚を記念して作成された記念品 〜
    (引揚の実物廃材を利用して作成)


引揚材料使用した軍艦 陸奥 引揚記念の副錨(1/30 模型)です。
高さが約13cm、横約9.5cm、幅約2.8cm、重さ約197gあり
ます。




こちらは少し大きな軍艦 陸奥 引揚記念の主錨です。
深田サルベージ株式会社によって引揚げが行われ、
三井金属工芸株式会社によって加工制作されました。
本品は「陸奥」の引揚材の中の真鍮部分を使用して作
られています。表面処理は純金メッキ仕上げです。
この記念錨は30〜40年くらい前に一般に領布されま
した。その利益は、靖國神社の顕彰碑建立基金の一助
となりました。

「陸奥」の小錨は靖國神社遊就館に展示してあります。

この品は前のオーナーが飾らずに保管してあったので、
状態は美品です。但し残念な事に元箱がありません。

 (大きさ)

 高さ:約21cm 幅:約13cm 奥行:約5cm
 重さ:約2.5kg



同じくサルベージ記念のメダルです。


上の画像は靖國神社の遊就館に展示されている引揚げられた
戦艦”陸奥”の副砲と小錨等です。







大津島の回天記念館と回天基地の遺構

       
(山口県周南市)




  ”天を回らし戦局を逆転させる”

          (めぐらし)

            ↓

こうして命名されたのが必殺の特攻兵器人間魚雷”回天”でした。

 人間魚雷”回天”(○六金物一型)

回天の訓練基地として山口県周南市(旧・徳山市)の徳山湾に浮かぶ大津島がよく
知られています。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につな
がってひとつの島になった馬島に戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすた
めのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地がありました。島の反対側までトンネ
ルがあり、その先に発射練習基地があります。発射練習のコースは大津島の徳山湾
の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第1コースと…やはり内海
側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第2コースと…内海
側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第3
コースがありました。この大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防
灘側の光と平生にも基地が設けられました。更に大分県速見郡日出町大神にも基地
が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになります。回天の出撃は
、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回の出撃が行われまし
た。発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部
老朽化が進み立ち入り禁止になっています。通称「ケイソン」と呼ばれています。

敗戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、
予備学生など合わせて1,375人に及びました。このうち実際に出撃戦死した者
は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、敗戦により自決した
る者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり
…その方々を全員含めると 145名に及びます。




徳山港(現山口県周南市)からフェリーにて大津島へ渡ります。
戦前は海軍燃料廠(旧海軍煉炭製造所)があり大企業も進出して
大正時代には徳山港として開港、特別輸出入港に指定され繁栄
した港です。
戦後、昭和23年に下松港を編入し徳山下松港となる。海軍燃料廠の跡地に
昭和32年、出光興産が進出。徳山精油所を整備し、石油化学コンビナート
の礎を築く。これと相前後して、戦後復興による好景気も手伝って徳山下松
港の利用も増加し、昭和26年に重要港湾への指定されました。昭和40年に
特定重要港湾に指定され、以後、徳山地区(旧徳山市域)、新南陽地区(
旧新南陽市域)を中心に整備事業が行われています。
昭和20年5月10日に徳山港がB−29による空襲を受けている写真
です。上下とも、爆撃中のB-29から撮影された写真になります。


大津島への玄関口となる徳山港にも回天のレプリカが設置
されています。…レプリカと思えない迫力がありました。
いきなりの回天が無造作に道路脇に置かれていて
出発前にボルテージは最高潮に上がり始めました。
このレプリカは、映画”出口のない海”で使用されたものです。
全  長   14.75m
全重量     8.3t
爆  薬    1.55t
軸馬力    550馬力
最大速度 (T型)30ノット
       (W型)40ノット
潜航深度   80m  





徳山港を出港する小さなフェリーです。


別名 回天の島です。


大津島の馬島港に到着するとすぐに目に入るのが回天供養の像と碑です。


魚雷調整場から発射試験場へ抜けるトンネル。当時のままに
残っています。通路の下には回天を運んだレールの後がコン
クリで埋められた跡が残っています。当時のままの頑強で静
寂なこの空間…誰も居ないトンネルを歩くと当時と同じ空気、
雰囲気がそのまま流れているのを感じて厳粛な気分にさせら
れます。
長いトンネルの途中にある出口の一つから見る魚雷発射試験場
トンネルが広く拡がる辺りでは、このように写真パネルが展示
され人が通過するとセンサーが反応し説明が開始されるように
なっています。





















回天坂を上り養浩館を過ぎて上がると回天記念館へ至る石畳の
回天烈士の名前と出身地が刻まれた銘碑の道が粛然と続きます。
回天碑の横にある平和祈念の鐘・・・ここは静かで厳粛な空気が漂います。


回天碑です。


森繁久彌氏の”浮きつ島 鼓海を訪ふ”の碑


記念館の前に展示されている実寸大の複製模型です。





実際の回天の推進器の残存したものです。





以下は館内となります。





私達日本国民は貴方達を決して忘れません。時が過ぎても皆さんが示した勇気を伝え続けます。
若く純粋な皆さんが愛し守ってくれた日本に生まれ育った事を私達は誇りに想います。

回天烈士の英霊の皆様、本当にありがとうございました。



















映画”出口のない海”で主演の市川海老蔵氏が乗った操縦席です。



回天を題材にした映画で2006年に公開された”出口のない海”です。
戦闘シーンの無い戦争映画として話題になりました。











































感動のフラッシュ”嗚呼、回天特別攻撃隊”です。

再生の際しては先にこのページTOPのMIDI音楽を止めて
からお楽しみください。







靖國神社の遊就館に展示されている回天1型です。
…右奥は戦艦”陸奥”の副砲、奥に艦爆”彗星”。








嗚呼、江田島の海軍兵学校
      (現 海上自衛隊第一術科学校)


(広島県江田島市江田島町中郷)




海軍兵学校のシンボルである古鷹山(標高376m)です。
明治21年の旧海軍兵学校江田島開校以後は、心身鍛錬のために兵学校
生徒が登りはじめ、小説「坂の上の雲」の登場人物で有名な広瀬中佐も兵
学校在学中に100回以上登ったという逸話もあります。現在でも、多くの
海上自衛隊員が登っています。昭和17年10月12日にサボ島沖海戦にて
戦没した重巡”古鷹”は、この山が由来と成り命名されています。


広島を訪れてこの江田島に足を向けないわけには行きませ
ん。こちらも若い10代の時以来の再訪となりました。最近の
若い人は、呉の大和ミュージアムを見て江田島を訪れずに
帰る人もいると聞き驚きました。大和ミュージアムも悪くは無
いでしょうが…流行廃りの人気アトラクションより帝國海軍百
年の歴史を感じ…そして今、活躍する海自を良く知ってもらい
たいものと強く感じます。
大講堂です。鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年に兵学校生徒の入校式、
卒業式また精神教育の場として建築されました。外壁には瀬戸内海産の
花崗岩を使い、内部はほぼ吹抜けとなっており、約2000名の収容能力が
あります。90年以上経った今日も、変わらぬ姿で、建っております。 現在
は幹部自衛隊員候補生、自衛隊生徒等の入校式、卒業式等儀式に使用さ
れています。




こちらは一般の人が出入りする入り口です。この裏に貴賓用の専用エントランス
がありますので…この一般の出入り口は裏口に当たるようです。

こちらが普段使われない貴賓者
用のエントランスです。
こちらを利用される方は、戦前は皇室の御関係者で
現在は防衛大臣や地方自治体の長で江田島市長や
広島県知事などもこちらの入口を使用するようです。





海軍兵学校生徒館で通称:赤レンガと呼ばれた建物です。
現在は幹部候補生学校庁舎として使われています。


かつて燦然と輝いた菊の御紋章は今は無い。

約百年前に建てられた施設群ですが…美しく存在するように見えますが
よくよく見ていると気が付きますが電柱が一つもありません。今も首都・
東京は電柱の地下埋設工事を急いでおりますが…多くの電線が邪魔で
景観を台無しにしている事は…この景観を見れば明らかです。電線を百
年前に埋設した明治の先人達の知恵には脱帽させられます。





有名な回廊です。右の姿見の鏡を見て
海軍兵学校の生徒が軍帽や短剣など
その威儀を正しました。黙ってみている
と如何にも短剣を吊った凛々しい士官生
徒が涼しげに敬礼をして通り過ぎる気が
します。


教育参考館の前には戦艦大和主砲砲弾
や特殊潜航艇(甲標的)、蚊竜、日清戦争
で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の
主砲砲弾
などが置かれています。















不沈艦と謂われた歴戦の雪風の主錨です。



教育参考館です。ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造の2階建てのこの教育参考館は
先輩の偉業を偲び、「温故知新」によって自己修養と学術研鑽の資とするため、兵学校
卒業生の積立金及び一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936)に建築されました
。教育参考館には、戦前約40,000点の歴史的資料が保存されておりましたが、敗戦
時に一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した他は、進駐軍による没収
を恐れ焼却処分とされました。現在は、返却された資料等約16,000点を保存しており
そのうち約1,000点が展示されております。

(主な展示資料)

・勝海舟の書
・広瀬武夫中佐の資料
・佐久間勉大尉(第6潜水艇長)の遺書
・海軍将校の書
・特攻隊員の遺書
・横山大観画伯の富士を描いた作品「正気放光」

等があります。年間約7万人の見学者が同館を訪れると謂いますが広島県に訪れた方
は原爆ドームや平和記念館は勿論ですが、こちらも必見だと思います。呉の大和ミュー
ジアムも流行り物で見るには良いかもしれませんが…帝國海軍百年の歴史を感じて見て
は如何でしょうか。


ここより中は撮影禁止です。この赤絨毯の上を上り正面
のドアの奥に軍神であり大英雄である東郷平八郎元帥
の遺髪が安置されています。


海軍兵学校西生徒館(現在は、第1術科学校学生館)です。
兵学校西生徒館として昭和13年に建てられましたが、昭和
31年、横須賀にあった術科学校がここ江田島に移転し、現
在、第1術科学校学生館として使用されております。もともとは
クリーム色の3階立ての建物でしたが老朽化に伴い、平成10
年から全館改築し、真新しい現在の建物となっています。



桟橋に並ぶ海沿いに設置され有名な戦艦陸奥の主砲
(主砲第4砲塔)と同型艦長門の主砲砲弾があります。
この二連装砲は、戦艦”陸奥”の四番主砲々塔として搭載され
ていた40cm砲(実際には41cm)です。昭和10年に海軍兵学
校生徒の教材としてこの地に移設されました。









左上の画像の先は下の画像の桟橋です。今も昔も卒業生は
この桟橋より見送られ練習艦隊に乗り込み世界中の海への
遠洋航海に旅立ちます。また右上の画像の小高い丘の中腹
に見える石垣の置くには、右下の画像の水交館があります。
江田島湾に面して突き出ている浮き桟橋を「表桟橋」と呼び、兵学校卒業生はここから
軍楽隊の演奏の中を盛大な見送りを受けて、沖に待機する練習艦隊に乗り組み、巣立
っていきました。現在では、幹部候補生学校卒業生及び海上自衛隊生徒卒業生が同様
にここから音楽隊の演奏の中を、練習艦隊へあるいは部隊へと旅立っていきます。また

水交館は、明治憲法公布の前年、明治21年に「集会所」として建築されましたた。江田
島地区で現存する最も古い建築物です。以後、「文庫館」、「図書館」、「会議所」、「将校
集会所」と名称、使用目的を変更しながら、敗戦まで使用されました。進駐軍接収時には
牧師等の宿泊所としても使用されましたが、海上自衛隊に返還後は「水交館」と名付け、
国内外の来賓の接遇等に使用しております。
見学に来た人が記念に押すスタンプです。最早、旧帝國海軍の江田島
ではなく海上自衛隊の江田島である事が、此処に訪れる度に思い知ら
されます。

尚、見学は無料ですが、時間帯があり良く調べたほう
が良いでしょう。見れる物と見れない物があります。
陸奥砲塔や表桟橋については、土、日祝祭日及び状
況に応じて見学することができるようです。

(一般的見学コース)

見学者控室(START)
⇒大講堂(儀式等がなければ内部も見学できます。)
⇒幹部候補生学校(通称赤レンガ)
⇒教育参考館


上のばーなーをクリックすると海自の第一術科学校の
サイトが開きます。下は簡単なMAPです。




〜敗戦前、絵葉書に見る
        ありし日の海軍兵学校〜