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鎮魂の旧大日本帝國陸海軍・番外編Y







旧軍の遺構や資料館など・・・北海道編



(北海道エリアに点在する旧軍の遺構や資料館を巡る)








先の大戦が敗戦という不幸な結果で終わってから
65年が経過しました。敗戦国という現実は誠に厳
しく良い事も悪い事も当然あっただろうが、反日マ
スゴミと反日日教組が支配するこの国では全ての
諸悪の根源とされ忌み嫌われるのが旧軍の残渣
や遺構、余波的また末裔的な存在の全てです。
各地に残る遺構の中には、その謂れや歴史すらが
意識的に隠蔽され消え去ってしまった物も多く…そ
の遺構を訪れて驚く事も多々あり…改めてこの国
の特殊な事情の虚しさややりきれなさを痛感します
が、戦後半世紀以上が経過し堅牢であった遺構も
崩壊が始まったり地域の事情や変化で取り壊しが
進み姿を消すものも多くなり改めて歩ける範囲で
再訪し記録を残すべきと感じました。時間の許せる
範囲で巡る事が出来た最近の遺構を紹介したいと
思います。
この北海道編は主に管理人である憂國烈士の
故郷である北海道を自らの足で周り再び見つめ
なおし紹介しようと改めて思いたち立ち上げまし
た。まずは生まれ育った札幌周辺エリアから紹
介して広げていきたいと思っております。

              皇紀2671年6月

                管理人 憂国烈士

札幌護国神社(旧 札幌招魂神社)です。近くに豊平川が流れ
中島公園が近くにあります。また近隣には旧制 札幌一中(現
札幌南高校)や旧
札幌静修会女学校(現 札幌静修高校)が
あります。
西南の役で戦死したる屯田兵の慰霊より始まり以来
約130年…各戦役(日清・日露戦争〜大東亜戦争)で犠牲とな
られた戦病役者の霊と殉職警察官や殉職消防官の霊を合祀さ
れ約2万5千柱以上の御祭神が祀られております。
人口190万名を超える札幌市の都心部に近い場所にありながら
喧騒を忘れる静寂の空間を常に保っており…心安らぐ場所と謂え
ます。そして多くの方から寄贈された遺品を保管し展示している
遺品殿は札幌歩兵第二十五聯隊を中心に旧陸海軍の様々な遺
品が揃っております。また境内には三笠宮崇仁親王殿下が命名さ
れた彰徳苑があり…多くの顕彰碑、慰霊碑、石碑があります。



上の写真は札幌市内の中心部で深い緑に囲まれた
贅沢な空間にある北海道知事公邸です。下の写真
は、はるか遠くにある山がロープーウェイのある藻岩
山です。札幌の子供はここで市立スキー場があって
スキーをして遊びます。写真の左斜め道路の延長線
上にある茶色い少し高い建物が公立札幌医大です。



私の大好きな風景の一つです。…高島岬に沈む夕陽
です。下は私の子供の時から全く変わらず今も尚…美
しい透明度を誇る高島岬周辺の海岸の風景です。この
海と北海道の自然の美しさが保たれている光景を目に
する事が北海道出身者にとって無上の喜びであります。



高島岬沖を航行する新日本海フェリーです。小樽の港を出て新潟県の
新潟港か福井県の敦賀港か京都府の舞鶴港に行くのでしょう。




桜の名所としても有名な手宮公園より望む小樽港です。







〜 旧 千歳海軍航空隊の遺構 〜



正門及び第二・三飛行場滑走路(連山滑走路)、
第一と第二滑走路間の板敷誘導路跡、給水塔、
千歳駅から航空隊への鉄道引込によるプラットホ
ーム跡(軍用鉄道)…etc


(現 陸上自衛隊 東千歳駐屯地 陸自第七師団)



陸上自衛隊 東千歳駐屯地の正面ゲートです。
以下の画像をクリックすると陸自第七師団の公
式サイトが開きます。
             





*旧千歳海軍航空隊の隊門(正門)です。
戦後も米軍キャンプそして陸自で使用されました。








*旧海軍の千歳航空隊の第二飛行場(第二滑走路)です。
この第二滑走路は通称・連山滑走路と呼ばれ米本土爆撃を
期待された四発重爆撃機”連山”用の二千五百m×八十mの
大滑走路です。実際には連山が使われる事無く…このコンク
リ滑走路は皮肉にも敗戦2日後にB-29が完成直後のこの滑
走路に初着陸をしたと謂います。
この画像はデジカメのパノラマ撮影をしたものですが、普段は
陸自唯一の機甲師団である第七師団(戦車3個連隊を基幹)
の戦車や重量のある戦闘車輛の訓練・演習に使用されており
両脇に写りお判りのようにパレードをする場所にもなっており
見学者用の登り見学台が据え付けられています。
地面を見るとお判りのように砂ぼこりの混じった土の下に荒いコンクリートの
滑走路の地肌が見えます。戦後65年以上手入れもされず戦車などの重い車
輛に踏みつけられてもこうして大きな穴を作る事も無く健全と無言のまま存在
している滑走路に…何とも言えない感情が湧いてきます。



このような創立記念行事の観閲行進が行われています。








海軍陸上攻撃機”連山”(中島十八試陸攻)G8N1




You tubeにあった中島飛行機で行われた十八試陸攻
”連山”の進空式の動画です。






空中写真や衛星写真からは一目瞭然の無蓋掩体壕
だが地上からは原生林が密生しているので殆ど見分
けがつかない。また演習地は熊や鹿がよく出没する
ので特に羆は糞を見るので危険です。


*旧海軍の千歳航空隊の第三飛行場(第三滑走路)です。
こちらの第三滑走路は火山灰を利用した簡易舗装の仕上げ
でしたので現在は土ぼこりが酷い滑走路です。大きさは連山
滑走路の約半分で千二百m×七十五m。敗戦時は対潜哨戒
機”東海”13機が残存していと謂います。またこの滑走路の外
れには陸軍の空挺部隊用の訓練用に実物大のB-29の木製
模型があったようです。
案内をしてくれた広報の隊員の方によりますと滑走路には
いまだに地下通路に続くような穴があり、これが防空壕な
のか他の第一滑走路や第三滑走路に続く連絡通路なのか
不明ですが…試しに調べようと思った所、上の方に危険だ
からと止められたようです。


この滑走路を東海が飛ぶ姿を思い浮かべ苫小牧や北海道
の太平洋側の海域を哨戒飛行する姿を想像すると何となく
イメージが湧くので不思議なものです。
九州陸上哨戒機 ”東海”(Q1W1):緒元

  項 目

      データ

  全 幅

 16.00 m

主 翼 面 積

 38.20 m2

  全 長

 12.09 m

  全 高

 4.12 m

エ ン ジ ン

 日立 天風31 出力610 PS×2

最 大 速 度

 320 km/h(高度1340 m

航 続 距 離

 2,415 km(最大)

  乗 員

 3

実用上昇限度

 4,500 m

全 備 重 量

 4,800 kg

  武 装

20 mm×1 7,7 mm×1250kg爆弾×2



陸上哨戒機”東海”の映像がYou Tubeで紹介
されていたので引っぱってきました。以下です。







*第一滑走路と第二滑走路を結ぶ板敷誘導路跡です。
この陸自の隊員が訓練で歩いている手前の未舗装道路は
第一滑走路(現在の空自の千歳基地)と第二滑走路を結ぶ
板敷誘導路跡です。現在は板は無く…ご覧のように未舗装
の土埃の舞う道が残っているだけです。







*旧千歳海軍航空隊で使用されていた給水塔です。
雑草と原生林に覆われてしまいかすかにしか見えませんが
まだかつての給水塔が残っているのがかろうじて確認でき
ます。下の画像で判り易く矢印を入れました。給水塔の塗装
が剥げて錆の浮いた屋根の一部と周辺のタンクのようなも
の雑木林の中にあるのがお判りになるでしょうか。




下は現在この駐屯地で現役で使用中の給水塔
です。高さ30mあり隊員が良く登っているそうで
す。







*千歳海軍航空隊内に引き込まれた軍用列車のプラットフォーム跡です。
旧軍時代に海軍が引込み線を入れて使った軍用列車の
跡です。プラットフォームだけが今もしっかり残っています。
このまま現在の千歳空港(旧千歳海軍航空隊第一滑走路
)まで続く線路だった筈で現在もその先には旧千歳空港駅
(現在の南千歳駅)が存在します。
昔のコンクリなので粗さが目立ちますがまだまだしっかり
しています。流石は軍用の施設だと感心します。
北海道鉄道が引込線を引いた軍用列車は千歳空の基地内の
弾薬砲弾倉庫に乗り入れています。以下の衛星写真と地図を
見ると東千歳駐屯地のすぐ下をJR北海道の石勝線と千歳線が
走っています。どこからでもすぐに引込できたものと思われます。










〜 第七師団資料館 〜


・旧陸軍第七師団関連資料
・旧千歳海軍航空隊関連資料
・戦後、陸自第七師団関連資料


(現 陸上自衛隊 東千歳駐屯地
            陸自第七師団)






旧軍コーナーの特に千歳海軍航空隊時代の展示です。





以下は主に旧陸軍時代の第七師団のコーナーです。












今も尚、自衛隊の最強部隊と謂えば第七師団であります。
今も昔も北鎮の第七師団が北海道を守り抜く戦前からの
伝統と栄光に彩られた名誉ある師団名であります。
本年三月十一日…忘れもしない大震災が東北を襲いました。
こちらの第七師団からも被災地救助支援に隊員が派遣され
活躍しました。その活動が早くも展示されておりました。







かつて冷戦時代は我国最大の仮想敵国は旧ソ連でありました。
この旧ソ連の脅威に対抗する為、北海道に存在したのが陸上自
衛隊唯一の機甲師団であり最強師団である精鋭・第七師団で
あります。今では仮想敵国はロシアから領土的な野心を剥き出し
にする中国に移行し…この為、距離的に遠い北海道の第七師団
に以前であれば真っ先に配備される筈だった最新鋭戦車(10式
戦車)も配備されていない。…この第七師団の存在意義とさえ謂
えた旧ソ連と北方領土そして冷戦時代の時事を展示してあります。






〜 旧 千歳海軍航空隊 第一飛行場跡
      及び第四十一海軍航空工廠跡 〜
           ( 遠 景 )



(現 航空自衛隊 千歳基地 )



今回は時間の関係で空自の千歳基地まで見学する事が
出来ませんでした。この基地は現在の新千歳空港が開港
するまでは半官半民で空自の千歳基地と共用で使用して
いました。私の若い頃は千歳空港から羽田に飛ぶのに飛
行機に乗ると窓からスクランブルして飛ぶファントムの姿を
見る事が普通に出来ました。まあついこの間まではF15Jが
飛ぶ姿も見られましたが、今では飛行場が分離されフェンス
外からしか飛ぶ姿を見る事が出来なくなりました。分離と謂
っても航空管制は相変わらず空自側が管制しております。
この現在使っている空自の千歳基地の滑走路は、旧海軍の
千歳航空隊が使用し戦後は米軍が使用したものです。今回
帰京のフライトの直前に旧千歳空港跡の側からフェンス越し
に旧千歳海軍航空隊 第一飛行場(第一滑走路)を撮影して
みました。
この第一飛行場は敗戦前まで主に零戦や九六式艦戦、九六式陸攻
一部に一式陸攻、艦爆”彗星”などが使用しました。…その同じ地の
滑走路を今の防人である空自はF15イーグルを飛ばして我国の空を
守っています。



新しい格納庫や施設がハンガーの前に整然と並んでいます。
旧海軍施設は北海道では冬の自然が厳しく殆ど残る事があり
ません。本州や九州では驚くほど古い旧軍の施設が残存し時
に現役で使用されている建物や施設もありますが…ここ北海
道では雪害で早くに老朽化や痛みが進み、殆どが戦後の施設
に入れ替わっています。北海道の隊員の皆さんはその点は幸
せであると仰っておりました。東京都内の駐屯地でも非常に老
朽化した旧軍時代の建物を目にしますが…本年(平成23年)3
月の大震災のような大きな地震の揺れを経験すると自衛隊員
の方々もあの施設では…とても生きた心地がしないものと気の
毒になります。早くに赤い赤い民主党政権がまともな保守政権
に代わり施設の近代化を図って上げて欲しいものです。お国を
守ってもらう前に大切な防人達を地震など自然災害で失いかね
ないなんて笑えない話です。
上の写真の右方向の辺りが千歳基地の正面ゲートになります。
パノラマ撮影を試みましたが遠すぎてダメでした(笑)。





天気の良い日は基地の後ろに樽前山を望む事が出来ます。




恐らくこの緑の屋根の建物は今も残存する旧第41航空廠
の数少ない建物の一つです。この空自千歳基地のゲート近
辺から千歳市役所にかけての朝日町は航空廠が置かれた
エリアでした。








〜 札幌護国神社 〜

 (彰徳苑・遺品殿)



各県に最低一つは存在する護国神社です。軍都の多い西日本の県では
一県に3〜4つ存在する事もありますが、ここ北海道は最多で道内に6つ
の護国神社が存在します。中でも最大の規模を誇るのが軍都・旭川にあ
る北海道護国神社です。北鎮の歩兵第七師団の旭川師管区なだけにご
祭神数
も63.151柱と多い。これに次ぐのが札幌護国神社でご祭神数が
25.537柱を数えます。因みに第三位が函館護国神社でこちらのご祭神数
は13.000余柱です。

札幌護国神社は御鎮座131年の歴史と昨年の皇紀2670年(平成22年)に御創
祀77年を迎えました。全国にある護国神社同様に英霊をお祀りしておりますが…
我が国ではマスゴミと謂う大新聞を代表とする系列報道メディア見ればお判りの
ように敗戦までは国民を聖戦に駆り立てながら…GHQの米軍が進駐してくるや
コロッと一転して反戦の旗手を気取るかのような華麗な転身を見せます。その変
わり身の早さはギネス並みです。しかしこの傾向はマスゴミにだけに限らず…多
かれ少なかれの違いはあれど世の中が強いものに巻かれて行く傾向は同じであ
りました。そうした中で戦前戦後も一貫して御国の為に犠牲になった多くの御霊
を祀り続けてくれ変わる事の無い安住の場を…心ある国民や英霊たちの遺族に
与えてくれました。護国神社の境内には時を止めたような外界と違う静かな空間
が流れる感じを強く受けます。(以下、札幌護国神社の歴史です。)

明治10年の西南の役に戦病没した屯田兵の霊を祀ります。有栖川熾仁親王に
より屯田兵招魂碑と題し明治12年8月2日、屯田兵司令部に於て祭祀を斎行しま
す。明治40年2月、中島公園に移転し、明治27・28年の日清戦争の戦病没者を
合祀し、明治37・38年の日露戦争の戦病没者の合祀の為、改めて忠魂碑を建て
乃木将軍之を題します。昭和8年11月17日、現在地に前身となる札幌招魂社を
造営し官幣大社 札幌神社に奉斎せる神霊を此処に奉還します。昭和11年には
昭和天皇の北海道行幸の砌、祭粢料御下賜されます。昭和14年4月1日、内務省
指定の護国神社となります。敗戦により昭和21年4月30日、神社本庁に所属。
同年12月12日、札幌彰徳神社と改称します。昭和26年10月23日、境内社多賀殿
を奉斎、神社本庁に承認されます。昭和47年2月3日、昭和天皇皇后両陛下の御
親拝されます。昭和54年7月6日、札幌護國神社御創祀百年奉祝祭を催行(西南
の役より百年)。その記念として遺品殿の新設並びに境内の整備等を行います。こ
の整備では昭和60年6月7日、三笠宮両殿下の御参拝時に特に”彰徳苑”と命名
されました。平成7年8月15日、天皇陛下奉幣臨時大祭執行します。




靖国神社の社殿の門には菊の御紋が…此処
札幌護国神社の門には蝦夷桜の紋が使われ
ております。













札幌護国神社の彰徳苑や遺品殿を紹介した冊子です。
こちらの冊子の中身と一緒に画像で紹介していきます。







〜 彰 徳 苑 〜



三笠宮殿下が御命名された彰徳苑です。
初夏の午後に訪れた護国神社は近くに豊平川や中島公園や
札幌静修高校(旧札幌静修会女学校)や札幌南高校(旧制
札幌一中)がある札幌都心の近くにありながら静かな環境に
恵まれた場所です。その中でも特にこの護国神社は静謐さと
独特の空間を保っています。





手水舎をよく見ると陸軍の星章が見れます。

*以下に彰徳苑の碑を紹介します。中の説明文は
護国神社で戴いた冊子を転載させていただき紹介
しております。






〜 屯田兵招魂之碑 〜



北海道と謂えば屯田兵です。これは開拓の歴史
を語る上で切っても切れない話です。この碑の
建立は、明治11年2月。碑筆者は、従四位勲二
等 陸軍中将 山田 顯義 閣下です。
明治10年の西南戦争に従軍した屯田兵第1大隊(琴似・
山鼻屯田兵)戦没者の偉勲を称え明治11年に両兵村によ
って建立された。明治10年2月 征韓論に破れた陸軍大将
西郷隆盛は鹿児島にて15,000の兵を挙げ叛乱を起こした
。開拓使長官で陸軍中将を兼ねていた黒田清隆の命令で
4月10日屯田兵第1大将(琴似兵村第1中隊・山鼻兵村第2
中隊で編成)の出征が決定し派遣屯田兵部隊は15日、
汽船太平丸で小樽を出航、九州熊本に直航した。

 屯田兵部隊は、山田顯義少将の指揮する別動第2旅団に
配属され、旅団の企画している人吉方面の進撃に参加する
事となった。屯田兵部隊は肥後小島町から宇土、小川を経
て八代町に集結、万江越道方面を担当した屯田兵部隊は
5月17日より攻撃前進を開始。部隊は西郷軍を撃破しつつ
6月1日、人吉に突進、白兵戦の後ちこれを占領、この後も
猛進撃を続け、8月1日の一ノ瀬川の戦闘は屯田兵部隊と
して最大の激戦となったのである。

 この激戦を観戦していたある参謀が「屯田兵部隊の負傷
者下士・兵卒に多く、将校に負傷者がいないのを不審に思
っていたが、今日の戦闘を見て戦闘をしているのは下士卒
兵で将校でない事がやっと判った」と語っている。屯田兵の
戦闘は指揮官の号令がないのに兵卒同士が巧みに展開し
て戦いを有利に運んでいた。それもそのはず、かれら屯田
兵下士兵は旧会津藩士・仙台藩士・庄内藩士で占められ
10年前の戊辰戦争で 薩長軍と戦闘した経験があったの
である。

 8月2日の高鍋旧城下への攻撃を最後に、戦線縮小によ
り屯田兵部隊は第一戦から退き戦争の終結を待たず8月
21日鹿児島到着、同地に3週間滞在して9月30日 札幌に
凱旋。碑の表文は 有栖川宮幟仁親王の揮亳であり、碑
の裏は 陸軍中将山田顯義が揮亳しこの戦いで倒れた
37名の屯田兵士の名前が記されている。






 〜北鎮砲兵発祥の地記念碑〜

(旭川 山砲兵第七聯隊 営門哨舎)















〜 樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑 〜



殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会が平成4年7月11日
に建立した慰霊碑です。

昭和二十年八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。樺太
北部の恵須取町太平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難し
たが、大平神社の丘の横穴式防空壕に避難していた炭鉱病院待避所
には、八人の重症患者を守って高椅婦長以下二十三名の看護婦が踏
みとどまっていた。午後になってソ連軍が上陸したことを知り、ソ連軍兵
もこの重症患者に危害を加ることはないだろうと薬を渡して、炭鉱病院
看護婦も夕刻になって避難をはじめた。上恵須取への道約二十四キロ
夏草のなかを十キロほど進んでいくうちソ連軍と遭遇したのである。
誰もが一瞬、心臓が凍りついた。次の瞬間、道路脇の草の中を泳ぐよう
にして逃げ葡萄沢まで辿り着いたとき、ソ連軍に囲まれ南下することも
太平に戻ることも不可能となった。高橋婦長が思ったのは若い者護婦を
預かっている責任、もし無事な姿で親のもとにかえすことができないとし
たら、死を選ぶしかないという事だった。その気待ちはみんなにも伝わっ
た。死を決意すると小高い丘を登っていった。ハルニレの大木が一本あ
り、それを囲んですわると君が代を歌い、山桜の歌を低く唱和し、看護婦
達は手首をつかんで血管にカミソリの刃を立てた。やがて自らが力を失
い倒れるからだを起こしては狂気のように掻き切った。そのまま生死の
境をさまよい六名が絶命したのである。

婦長 高椅 ふみ(三十三歳)   副婦長 石川 ひさ(二十四歳)

久住 きよ子 看護婦(二十二歳) 真田 かずよ 看護婦(十九歳)

佐藤 春江 看護婦(十七歳)   瀬川 百合子 看護婦(十六歳)

以来四十七年、殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を
終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、
六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念するた
めにこの碑を建立したのである。







〜 札幌招魂神社碑と山鼻神社碑 〜



昭和9年7月、帝國在郷軍人会札幌支部により建立。
題字は、正三位勲一等功五級 渡辺 錠太郎 陸軍
大将の書。創建当時は、札幌護國神社を「札幌招魂
社」と呼んでおり、その頃の社碑である。社殿造営の
翌年に建立された。札幌招魂社は、昭和14年4月1日
内務省指定の護國神社となり、社号を札幌護國神社
と改称申し上げることとなった。昭和60年6月7日、
三笠宮崇仁親王殿下より慰霊碑・記念碑群の一帯を
彰徳苑と賜名されて、この年苑内の整備計画を進め
「札幌招魂社碑」も移設する事となり、台石も新しく建
設して翌61年8月現在地に移設した。
山鼻神社は、山鼻屯田兵の守護神として明治23年5月
南22条西13丁目、西屯田の南端に建立され、境内は
約150坪、松・桜・柳などがあって風景を添えていたが
昭和46年5月1日、山鼻神社の神霊を札幌護国神社
多賀殿の相殿にお迎えして御奉斉申し上げ山鼻地区
の守護神として御鎮座いただいてその御奉斉のみぎり
に天照皇大神宮さまを御合祀されている。






〜 歩兵第二十六聯隊軍旗奉焼之碑 〜



昭和61年9月14日に歩兵第二十六聯隊軍旗
奉焼之碑建立期成会が建立したものです。
歩兵第二十六聯隊も札幌第二十五聯隊と同様に元々は
札幌の部隊でした。後に旭川に転営し明治33年12月22
日に軍旗を拝受しました。以来、日露戦役奉天会戦では
連隊長が戦死。満州駐箚、シベリア出兵ではチタに進出。
満州事変以降は長く大陸あり支那事変や張鼓峰事件そし
てノモンハン事件に参戦した歴戦の部隊です。大東亜戦
争では一部部隊を北千島に移駐の後、帯広に移動し旭川
で敗戦を迎えます。昭和20年9月に明治32年の創設され
た地である札幌・月寒の月寒神社の境内で軍旗を奉焼し
栄光ある聯隊の歴史に幕を下ろします。部隊通称号は、
熊9203でした。






〜 頌 徳 碑 〜



当初、旭ヶ丘にあった帝國在郷軍人会札幌市
分会長 松本 謄四郎 陸軍大佐(明治43年〜
大正八年の在任)の生前の功績に対して大正
14年に建立されたものです。昭和35年に旭ヶ
丘よりこちらの顕彰苑に移設され、以降はこれ
までの功績のあった在郷軍人の皆様の霊も合
祀し毎年、遺族を招いて札幌彰徳会が9月10
日に慰霊祭を行っています。








〜 尼 港 殉 難 碑 〜



尼港事件に関しましては、こちらでは無く
目次ページの一番下に小樽市手宮公園
の尼港殉難追悼碑の方で詳細を記載しま
したので…そちらを参照下さい。(彰徳苑
の説明文を以下に記載します。)
大正9年1月中旬、尼港に重大事件が発生した。尼港
とは露領サガレン州ニコライスク市北樺太の北端と肩
をならべる大陸側の黒龍江河口の町である沿海州屈
指の漁港で人口1万5千人、ここに在留邦人400名が
早くから住み着いており領事館も開設され極めて平和
な漁港であった。

この尼港が5千人のパルチザンに狙われ、全世界の
人々から『世界的大虐殺』と宣伝され日本人として忘
れる事のできない悪夢の尼港事件となっていった。
尼港には歩兵1個大隊を基幹とする日本軍の守備隊
が配置されシベリア地方政府軍(白軍)四百名と共同
して尼港の防衛にあたっていたがパルチザンが黒龍
江に沿って通過する村落で掠奪をしながら手薄な尼
港に迫ってきた。白軍はこれを攻撃し白軍の要請で
日本軍も出動し一度はパルチザンを撃退したものの
多勢に無勢、23日には尼港は完全に包囲されてしま
った。

パルチザンは入城後、白軍将兵だけにとどまらず有識
知識階級・官吏・富豪その子までことごとく投獄、連日
銃殺を行い、尼港の秩序は全く奪われ虐殺・掠奪・強
奪・婦女暴行が続き荒れ狂うパルチザンの魔の手は
ついに日本人にまで伸ばされて来た。守備隊は全員
戦死、在留邦人は全員惨殺され領事は妻子とともに
自決。邦人1千名の外ロシア人資産家6千名が惨殺
されたのである。

この事態を重く見た軍部は救援隊派遣の方針を固め
第七師団に多門支隊の出動を命じ、半年後には札幌
歩兵第25連隊を基幹とした北部沿海州派遣隊を出動
させたのである。しかし強行上陸した尼港の街はこと
ごとく灰燼に帰し邦人は一人残らず惨殺されパルチザ
ンは何処かへ逐電していたのである。

この碑ははじめ旭ヶ丘にあったが昭和35年にここに移
されて現在は(財)札幌彰徳会により毎年9月10日に
慰霊祭が執り行われている。

この碑は帝国在郷軍人会札幌分会により昭和3年10
月に建立されたものです。






〜 アッツ島玉砕雄魂之碑 〜



この碑は、昭和43年7月29日にアッツを偲ぶ会により建立されました。

ミッドウェー作戦が惨敗した為、アリュ−シャン列島攻略に方針
が変わり 昭和17年6月、アッツ・キスカ両島を占領し北方より
の米軍の反攻に備え同島を警備していた。
昭和18年5月12日午前10時30分、米陸軍部隊の主力がアッツ
島マサッカル湾の南浜めがけて上陸したを強行した。米軍の兵
力は2万を超えるものと推定されたが、これに対する北海守備第
2地区隊(アッツ守備隊)は、隊長 山崎 保代 大佐以下2千6百
38名にすぎなかった。この敵を迎え撃った北海道と東北出身の
精兵は,上陸以来連日、概成した陣地に拠り、あるいは陣前に出
撃して白兵を交え、圧倒的な敵兵力と物量に対して一歩も退くこ
となく各所に激戦を繰り広げた。

北洋の島の戦いは1日ごとに凄絶さを加えていった。この知らせ
を聞いてもっとも心痛したのは 隣のキスカ島にいた北海守備隊
司令官 峰木 十一朗 少将であった。いや、峰木 少将ばかりでは
ない。北千島守備隊、海軍第五艦隊そして北方軍司令部・大本
営もこのアッツ島守備隊の救援に心肝を砕いた。

救援のため第七師団の主力の派遣が真剣に計画されアッツ島に
送るべく諸準備がすすめられ、第七師団長 鯉登 中将は、自ら北
方軍司令部に出頭し「郷土の兵隊を見殺しにはできん。この反撃
はぜひ第七師団にやらせてほしい」と卓を叩かんばかりに懇請し
た。しかし、一兵も、一艦も、一機もアッツ島に送ることが出来ず、
ただできることは『激励』と『健闘』を祈る電報のみであった。

5月29日午後9時10分、アッツ島より最後の電報が届いた。
「従来ノ懇請ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健闘ヲ祈念ス」残存130名の
将兵は、午後10時30分、山崎大佐を先頭に 暗夜一団となって
最後の突撃を敢行、全員玉砕したのである。
 








〜 ノモンハン英魂之碑 〜



この碑は、昭和42年にノモンハン戦没将兵慰霊碑建立期成会に
よって建立されました。
昭和14年5月12日 満州國の西方国境でノモンハン事件が勃発した。
事件の起こったノモンハンは満州西北部のハイラル南方約600キロ
付近の草原にある小村でその西南方ハルハ河をソ蒙兵の小部隊が越
境して満州國軍と衝突したのが事件の発端で、20日ソ連機械化部隊
と外蒙騎兵が再び越境し この地区の防衛を担当した、第23師団と
の間で戦闘が繰り返された。ノモンハンの戦闘は7月3日から5日ま
でがもっとも激甚を極め ハルハ河を渡って侵攻してきた敵機械化
部隊にたいし第二十三師団と郷土の歩兵第二十六連隊・歩兵第二十
八連隊が遮蔽物の全くない炎天のハルハ・ホルステン両河畔及び
パルシャガル高地で圧倒的な敵大軍と死闘を交えたのである。
8月20日から30日にかけてはウズル水西方752高地付近の激戦が展
開されたが、フイ高地では猛砲撃による死傷者が続出、更に戦車を
伴う歩兵の攻撃をうけ連絡が遮断され 歩兵二十六連隊の第1大隊、
歩兵第二十五連隊歩兵砲中隊が全滅するという悲運の外、歩兵第六
十四連隊、井置捜索連隊が全滅しノロ高地付近では第八国境守備隊
も全滅している。この攻撃は総崩れの敗退となり、第二十三師団は
壊滅状態となり戦場で敵の猛攻を支えているのは歩兵第二十六連隊
の2個大隊と歩兵二十八連隊の2個大隊のみで、従って27日以降 
ホルステン河南岸の全戦線における戦闘の中心は 第二十三師団か
ら第七師団に移行せざるを得ない状態となった。第七師団は連日に
渡るソ連軍の執拗な攻撃を受け多くの死傷者を出していたが「9月
18日夜を期し総攻撃開始」の命令が伝達され、総攻撃に備えていた
が9月15日、モスクワで停戦協定が成立し16日午前8時 第七師団に
停戦の命が下ったのである。現在は、毎年9月16日に遺族・戦友が
集まり慰霊祭が行われている。







〜 忠 魂 碑 〜



明治37年から39年まで続いた日露戦争に従軍した歩兵第二十五連隊
戦没将校の偉業を称え明治40年に地元の在郷軍人会が建立しました。
ロシアの横暴な行動に堪え切れず 明治37年2月4日の御前会議にお
いて遂に軍事行動に移る事が決められ 翌5日 両国の国交は断絶さ
れ2月10日に宣戦を布告した。第七師団は乃木将軍の率いる第三軍に
編入され 第三回総攻撃に参加する事となった。第三回総攻撃は11月
26日、攻城砲兵旅団の突撃支援射撃によって火蓋が切られ、軍司令
部はかねて準備中の中村 少尉指揮の特別支援(この部隊は全員白襷
をかけ出陣したので白たすき決死隊と呼ばれている)を松樹山第4砲台
付近に突進させ今後の軍攻撃の突破口を命じた。しかし敵は早くもこれ
を探知、猛火を浴びせ指揮官 中村 少尉は重症を負って倒れ 歩兵第
二十五連隊長 渡辺 水哉 大佐が決死隊の指揮をとり敵堡塁約20メート
ルまで肉迫したが突撃は成功せず累々たる屍の山と化した。死力を尽く
しての攻撃も功を奏しない為第三軍は本攻撃を改め、二百三高地攻撃
命令を下達 第七師団の全力投入が決せられ 11月30日攻撃を開始。
この戦闘は熾列を極め歩兵第二十六連隊隊長 吉田 中佐は戦死、歩兵
第二十五・二十八連隊長は負傷 この突撃も敵の喉元まで迫りながらも
兵の大部を失い頓挫した。各連隊の人員は半減し 残ったものも不眠不
休 大多数の兵は負傷していたが、5日攻撃再開 歩兵第二十七・二十
八連隊はおしよせる波のように二百三高地西南の山頂に突入 入れか
わり突入して山頂を占領、これを歩兵第二十五連隊が逆襲を撃退し確保
、占領の旗を打ち立てたのである。10日間の白兵戦によって二百三高地
は第三軍の手に落ちた。この戦闘に参加した約6万4千名中、死傷者は1
万7千名を出し ようやく旅順要塞の死命を制した。尚、題字の忠魂碑は
正三位勲一等 男爵 乃木 希典 陸軍大将の筆によるものである。







〜 メレヨン島戦歿者慰霊碑 〜



昭和46年に北海道メレヨン会が建立した碑です。
特に上陸戦等が行われた激戦地で無い為、一般に知られては
おりませんが、一部に”メレヨンの悲劇”として伝えられています。
メレヨン島は西カロリン諸島(現在のミクロネシア連邦ヤップ州の
ウォレアイ環礁のウォッタガイ島)にありましたが、高低差の無い
サンゴ礁出来た島に飛行場を作り守備に就いた日本軍は当初か
ら連合軍の猛爆撃に晒されて飛行場も使えず食料の殆ど全てを
揚陸直後に喪失してしまい
以後の守備隊は敗戦まで極度の飢
餓に苦しみました。島全体が標高の殆どない珊瑚礁の為農耕に
は向かず、漁具もなかったことから、食糧生産もはかどらず、潜
水艦による4度の補給はあったものの、深刻な飢餓が発生し、
連合軍飛び石作戦で戦闘が無いのにも関わらず…敗戦までに守
備隊全体の7割に当たる4493名の餓死病死者を出しております。

結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅しており、戦わ
ずして玉砕した悲劇の島と言われています。
メレヨンでは、敵軍との地上戦こそなかったが、武器弾薬輸送船と食料輸送船が相次
いで敵潜水艦に撃沈され、基地機能は敵機動部隊の空襲で破壊され、補給の途絶し
た絶海の孤島であったため、将兵の7割が餓死、病死する惨状であった。…メレヨン島
派遣部隊は、アメリカ海兵隊を相手に善戦しているペリリューの戦いに転進を意見具申
していたが、すでに輸送手段は途絶しており、やがて暗号規約の更新も不可能となった
ため、完全に孤立して餓死を待つのみとなった。メレヨンでは伝染病が発生し、連絡に
訪れた日本軍潜水艦に傷病兵が収容されると、潜水艦の艦内で伝染病が発生し、横須
賀に到着したときには傷病兵は全員病死していた。また、メレヨン島に不時着した二式
大艇の記録では、島内では銃声が鳴り響き、それは兵士達が自殺する時の銃声であっ
たと記述されています。
メレヨン島に配備された陸海軍守備隊は総勢6426名。このうち帰還後の死没者を
含めて実に5千名が飢餓と病で陣没し、復員時の生還者も約半数の7百名が帰国
後に体力が回復せず死去し、実質的な生還者は僅かに6百名に過ぎませんでした
。この陣没者の最も多くの犠牲者を出したのが北海道でした。この為、札幌護国神
社の境内に慰霊碑が建立されました。









〜 北千島慰霊之碑 〜



この碑は昭和50年8月23日に北千島慰霊の会が建立しました。
先の大東亜戦争の終結後、国内で最後の地上戦が行われたのが
樺太・北千島など所謂、北方領土の戦いです。 

千島列島最北端の占守・幌筵など北千島の諸島は大東亜戦争に
於ける国土防衛の北東方面最前線であった。ここを守る第九十一
師団は総兵力2万8千名。海軍部隊5千名を併せると3万2千名、
当時の陸軍においては最精強師団の一つでありました。

昭和20年8月17日深夜 時既に終戦であるにもかかわらずカムチ
ャッカ半島先端のロバトカ岬と占守海峡を挟んでわずか14kmで対
峙する。国境の島・占守島の北端竹田浜一帯を猛砲撃し、午後
11時30分にソ連軍が上陸を開始。占守島に配備された第73旅団
と戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約1万3
千名は敢然と反撃を開始…その勇猛な闘いぶりで終始、ソ連軍を
終始圧倒したのは有名な話です。…札幌の第五方面軍からの停
戦命令で日本軍の総攻撃は停止されて停戦協定がソ連軍との間
で結ばれたがソ連軍上陸軍司令官のA・グニェチェコ少将は『日本
軍が総攻撃しなかった事に感謝する。』とメッセージを伝えたほど
で日本軍の戦死者350名に対してソ連軍側は既に3000名以上が
戦死していました。こうしてソ連軍は全滅の恐れから逃げ延びたが
…強い日本軍が降伏し島を占領させられるという皮肉な結果となり
ました。ソ連共産党機関紙『イザべスチャ』は、この戦闘に触れ”占
守島の戦いは満州・朝鮮における戦闘より遥かに損害が甚大で
8月19日はソ連人民の悲しみである。”と記載した。…その後もソ
連軍の南下は続き卑怯な連中は、8月28日には、択捉島、9月1日
には、色丹島、5日には水晶島が占領されそこでやっと停戦した。

占守島の戦闘が無ければ恐らく南下は北海道に及んだと言われて
いるが今に思えば全軍を挙げて千島列島戦で完膚なきまでソ連軍
を撃退すべきであったと考えてやまない。これら千島を防衛した
日本軍と成人男子の民間人は、シベリアへその後強制連行され(
マガダン)最も過酷な鉱山採掘労働に従事させられその殆どが無
念の死を迎え再び祖国の地を踏む事が無かった。しかし彼等の
鬼人のような戦いぶりでソ連の北海道占領の意図は打ち砕かれ、
我国は”ベルリンの壁”に象徴されるような分断国家の悲劇を味わ
う事無く済みました。まさしく占守島の戦いは”国土を護った最期の
戦い”と謂って過言でありません。








〜 北海道全海軍英魂之碑 〜



我々と同じ郷土、北海道・樺太出身の海軍関係の戦没者約1万5千柱
の慰霊の為に昭和53年8月20日に”北海道全海軍の集い(代表:山内
英一元海軍大佐)”が建立。両側に献納された海軍錨二基は浦賀造船
所・住友重機械工業(株)から贈られたもので加古型重巡(7100t)用の
主錨で一つが4.5tの重量があります。
毎年、5月27日の海軍記念日に海軍関係者が集まり盛大に慰霊祭が
行われています。






近くには戦艦武蔵の生き残りの皆さんの北海道在住者
が植樹した記念樹がまだ小さいですがありました。







〜 海軍予備学生之碑 〜



この碑は、第十三期海軍飛行予備学生・在住北海道有志
一同が入隊50周年を記念し、亡き戦友を偲んで平成5年
5月13日に建立したものです。









〜 南方地域戦死者慰霊碑 〜



こちらの碑は、平成21年10月31日に完成した比較的新しい
慰霊碑です。伊藤義顯氏が建立されています。
2年前に建立されたばかりの立派な慰霊碑です。碑文を読むと
ニューギニア戦に従軍された帰還兵の方のようです。北海道出
身の380名の戦友と共にニューギニア入りされたもののようで
す。団体で無く個人でこれだけの規模の慰霊碑を建立されるの
は珍しいものと思います。どんなに若くても既に90歳前後の御
高齢の方と推察されます。…碑文に寄せる想いに感銘を受けま
した。






〜 沖縄戦戦没者慰霊碑 〜



元々、札幌の藻岩山(ロープーウェー)に作られていた
沖縄戦英霊記念之碑が不便な場所で遺族以外に訪れ
る人も無く今後、荒れ果てる恐れもある事から、札幌の
中心部にあり参拝者も多い護国神社に移転しました。丁
度、参拝した時が移転が完了したばかりの日で業者さん
が周りをきれいに掃除し、慰霊碑を磨ききれいにしていま
した。
藻岩山は比較的近くにありますのでスキーや遊びに行くのに子供の頃は
よく行ったので移築する前の山麓のロープーウェー前の記念碑をおぼろ
げに覚えております。また藻岩山には印象的な仏舎利塔もありました。
北海道沖縄会も戦後65年…設立から46年を経て会員の高齢化が進み
かつて8000人以上を数えた会員は700人にまで減少。昨年4月の定
期総会で今年の慰霊の日までに碑を取り壊し、札幌護国神社の境内に
新設することを決め…まさに作られたばかりでありました。

北の地…北海道にありながら何故か沖縄戦では沖縄県民を除くと最も多い
戦死者を出したのが北海道出身の将兵でした。沖縄戦では20万
人以上の
戦死者を出しています。このうち道内出身の戦没者は沖縄県民(約12万人
)に次ぐ約1万5000人に上っています。北海道にありながら…これだけの
規模の慰霊碑が再び建立される理由はそこにあります。


沖縄防衛戦で戦死した北海道出身の将兵約1万5千柱の名が刻まれています。












上の画像をクリックすると札幌護国神社の
公式HPが立ちあがります。





〜 遺 品 殿 〜



昭和54年御創祀百年の記念事業として社殿の地下に遺品殿が造営
されました。札幌の地にふさわしく殆どが郷土部隊である旧札幌の歩
兵第二十五聯隊の遺品が中心です。素晴らしいのは敗戦前に樺太に
移駐されていた旧札幌歩兵第二十五聯隊歴史記念館の陳列品の一
部が…昭和20年8月9日のソ連の対日参戦で急遽、敗戦後に聯隊の
歴史を喪物語る貴重な資料を残す為、これ等の記念品を梱包して稚内
の宗谷要塞司令部に送り届けましたが、敗戦の混乱で行方不明となり
36年後の昭和56年秋にこの札幌護国神社で発見されました。
陳列品には歩兵第二十五聯隊 初代聯隊長 渡辺 大佐の軍服を始め
日露戦役着用の軍服 乃木大将の感状、征露記念寄書、山海関の
戦闘で戦死した児玉・吉田両大尉血染めの軍服 満州事変で戦死し
た加藤中尉・斉藤少尉の血染めの軍服 ノモンハン事件で戦死した
金野・小野大尉の血染めの軍服等々、歩兵第二十五聯隊関連の遺
品が数多く展示されおります。また他にも、海軍戦没将兵の遺品や
記念品、アッツの小石、ノモンハンの桜とハイラルの砂 沖縄戦場の
電線、硫黄島の砂、サイパン島の砂と小石 ノモンハンにて採集した
戦没将兵の遺品等々、又 当時の写真多数が展示されております。


歩兵第二十五聯隊で使う予定で発注した菊の御紋
が敗戦で使われる事無く新品のまま保存され、こち
らの護国神社に寄贈されています。見事な輝きです。














〜 高射砲第二十四聯隊第四中隊

          小樽 手宮陣地の遺構 〜


(現 手宮公園陸上競技場)



高射砲第二十四聯隊は第五方面軍(札幌)の直轄
の防空部隊(第五高射砲隊)に所属しました。聯隊
長は前田 二男 陸軍中佐。この小樽港に近い高台
に設けられた高射砲陣地は大戦末期に米機動部隊
の艦載機による空襲を受けますが…この小樽に住む
私の親戚(現在、78歳)がこの高射砲陣地の砲撃で
米艦載機が撃墜する様を目撃し話を聞かせてくれま
した。
古代文字で有名な洞窟がすぐ下にあり、有名な鉄道
記念館もあります。この手宮公園は桜の名所としても
有名ですが小樽の港を見下ろす高台にあり…中学生
や高校生、大学生が陸上競技を練習するすぐ脇に高
射砲の台座があり…このコントラストは不思議な感じ
を受けます。美しい青空の下…この高台から空中を乱
舞し機銃を掃射し爆撃する米軍機に向けて激しい砲撃
が加えられた事など…まるで嘘のような静かで平和な
空間がそこに存在しておりました。




トラックのすぐ脇に無造作に忘れられたように置かれた
砲座の跡です。案内板の石板が墓標のように見えます。















〜 陸軍飛行第五十四・六十三戦隊
   札幌第二飛行場(丘珠飛行場)の遺構 〜

  (現 陸自 丘珠駐屯地 + 丘珠飛行場)



私の子供の頃は丘珠と謂えば玉葱畑だけで何も無い所というイメージ
しかありませんが…30数年ぶりに丘珠飛行場を見に行きました。周辺
が都市化してしまい驚きました。札幌の中心部より僅かに車で10〜15
分で飛行場です。札幌には大正15年に北海タイムス社が札幌第一飛
行場が、大東亜戦争がはじまり北海タイムスがありましたが不十分な規
模と判断され、丘珠に新たに札幌第二飛行場が整備されます。これが
現在の丘珠飛行場です。陸軍が本格的に飛行場整備に取り掛かり昭
和18年7月に丘珠飛行場として再び航空機の離発着が再開されます。
昭和19年5月に滑走路・格納庫及び兵舎が次々と完成し、第21航空基
地司令部と飛行第63戦隊(1式戦闘機「隼」)進出しました。現在と同様
でコンクリート製の滑走路は1200m×100mが1本。格納庫7棟、無蓋掩
体(大)× 3、無蓋掩体(小)×23、有蓋掩体(小)× 4があったと記録され
ています。主力の一式戦”隼”が24機〜、この他試作機のキ-106が1
機、同じ試作機のキ-102(戦闘・襲撃機)が1機、練習機の赤トンボが
20機余りに偵察機が2機、軽爆撃機1機などがあったとようです。この
隼を主力とする飛行63戦隊はニューギニアに投入されます。入れ替わり
に飛行第54戦隊(同じく一式戦”隼”の部隊)が丘珠に展開しました。
飛行第54戦隊は敗戦まで丘珠にあり…その守備範囲は長大で北千島
方面から北海道の札幌、小樽、室蘭、苫小牧など主要都市を網羅しまし
たが戦隊戦力の南方への転用もあり相当に負担が大きく苦労した部隊
でもあります。敗戦時にはソ連軍の南下侵略で北千島への出撃が決まり
発進しましたが途中で帰投命令が出て引き返しましたが、一部の隼や他
の機首が敗戦後に特攻出撃を行った話もあります。…写真は民間空港の
丘珠空港のエントランス部分です。










子供の頃の印象と違い全然、アクティブな空港なので驚きました。
東京の調布飛行場程度の感覚で見に行きましたら…全然、規模も
離発着も全然、丘珠の方が上でした。




滑走路からエプロンをパノラマ撮影しました。左側のヘリがたくさん駐機しているのが
陸自の丘珠駐屯地のエリアです。


         ↑
クリックで公式HPがひらきます。


丘珠空港は敗戦前の陸軍航空隊の時代は一式戦”隼”を装備した飛行54戦隊
や63戦隊が板飛行場です。現在の陸自の航空機はLR-2です。愛称は奇しくも
”ハヤブサ”です。…その事に想いを馳せながら着陸してきたLR-2を見て少し
感動を覚えていたのは…私だけだったのかも知れません…。


OH-6Dヘリコプターが頻繁に離発着の訓練を行っていました。
UH-1Hも頻回に離着陸を繰り返していて…黙って空港ターミナルビル
の屋上から見学していても飽きませんでした。








千歳空港同様に丘珠でも空港の管制をコントロールしているのは
自衛隊です。この管制塔が民間機も自衛隊機も警察や他の官庁
の航空機も全て完成しています。


史料館(北翔館)の先に見えるのがレーダードーム
で愛称:たまちゃんドームです。
史料館(北翔館)
一式陸攻のプロペラが掛けられています。スピナーは
戦後の後家合わせです。


あのリンドバーグも飛来した札幌飛行場です!



熱心に熱く語ってくれる広報の方に感激致しました。


九九式双軽の主輪と隼の主輪です。





飛行第54戦隊長 島田 安也 陸軍少佐


飛行54戦隊第1中隊の面々(上も下も)


北の空の勇士達は…既に時代遅れとなった感のある一式戦
”隼”U型を駆って領空をよく守り戦いました。
珍しい帯広飛行場での54戦隊。

今も昔も北の大地の飛行場で除雪するのは機動力のある
除雪車です。この時代ながら凄い除雪車に驚きました!

島田隊長以下、隼U型23機が進出した54戦隊の面々です。

大東亜戦争の主体となった南方ばかりがクローズアップ
されがちですが…北の防人達は人知れず頑張りました。













こちらも撃墜された五式戦の残骸とのことです。


昭和20年4月7日、鹿屋を1300に発進した司偵振武櫻隊の百式司偵二機は
(竹中 隆雄 中尉と吉原 重發 軍曹の操縦する)誘導に飛び立った海軍131
航空隊の彗星(大沼 宗五郎 海軍中尉と宮田 治夫 上飛曹)に先導され
沖縄の嘉手納沖の到達彗星の見守る中、1400に竹中・吉原機の両機が
嘉手納沖の敵空母に突入するのを見届けた後、自分達も『我モ敵空母ニ突
入ス』の打電を残して遂に還りませんでした。初めから先導の海軍機もまた
覚悟を決めての突入でした。この日、米海軍では護衛空母が三隻、戦艦が
三隻、重巡二隻、軽巡二隻、駆逐艦6隻が被害を受け、高速掃海艇が1隻撃
沈しています。)
三階級特進して少尉になった吉原軍曹の遺書や勲記などの遺品が
展示されています。


昭和19年4月14日、インド洋上のアンマンダン諸島上空で
船団護衛をしていた飛行24戦隊の一式戦”隼”U型に搭
乗の石原 清雄 曹長は、雷撃を仕掛けんとした敵潜水艦を
発見、直ちに敵潜水艦を爆撃した後、発射された魚雷を追
い銃撃を加えるも遂に爆破出来ず輸送船”松川丸”(陸軍
将兵1.300名が搭乗)の多数の同胞の命を守る為、機体ご
と魚雷に突入し輸送船の同胞多数を守った軍神です。吉原
少尉(戦死後、二階級特進)には南方総軍総司令官・寺内
寿一 元帥より感状が贈られています。









郷土の生んだ英雄・加藤隼戦闘機隊の加藤隊長こと
軍神 加藤 建夫 陸軍少将の遺品の一部が遺族の奥
様から寄贈され飾られています。


飛行第64戦隊第3中隊長の安間 克巳 大尉の遺品です。
昭和13年、支那事変でデビューしノモンハン戦で敵機5機
を撃墜し撃墜王の仲間入りを果たす。以来、、マレー・ビル
マ戦線で活躍し昭和17年4月8日にビルマ北部でフライン
グ・タイガースのP40に撃墜され戦死されるまで敵機32機
を撃墜のスコアーを誇るエースでした。


撃墜された二式戦”鍾馗”の部品と謂われています。







昭和18年8月12日の北千島防空戦で幌筵海峡東方を高度5〜6千mで
飛来したB-17爆撃機9機(実際には誤認でB-24が9機)を発見、直に
54戦隊に通報され、幌筵島北ノ台飛行場から島田少佐以下の稼働機
全機が迎撃に上がります。その前に海軍の452空の二式水戦10機他が
迎撃に上がるも戦果無く敵機は片岡海軍基地と柏原の陸軍基地等に
爆撃を加え離脱した所を捉えて空中戦となります。この時、第三中隊長
の岩瀬 勲 中尉の一式戦”隼”U型は、敵B-24を捕捉し1機を撃墜す
るが自らも被弾し占守島に不時着し戦死します。戦死された岩瀬 勲 
中尉(戦死後、大尉)は航士54期出身です。
占守島に不時着し戦死した岩瀬大尉の遺品を余市に住む
灯台守が二代に渡り受け継ぎ遺族を探して、やっと戦後に
遺族に手渡した美談が北海タイムスの紙面に書かれてい
ます。



旧飛行54戦隊、63戦隊、64戦隊の空の防人達の遺品が所狭しと
飾られています。物言わぬ軍神達の遺品が…この現世の為体を
嘆いているように訴えているように感じてなりませんでした。

現世の防人たる丘珠駐屯地の隊員の皆様の活躍
を紹介しているパネルです。




まだまだ震災関連のニュースや標語が目につく札幌でした。



        ↑
クリックすると丘珠駐屯地の
公式HPがひらきます!


丘珠基地のオリジナルキャラクターで札幌の子供たちに人気があるそうで札幌雪まつりの
会場でのグッズ販売では女の子にも大人気のようです。




今回の東北の大震災で改めて自衛隊の有難味や素晴らしさを実感した
国民は多いのでは無いでしょうか?…あんなに無能な総理大臣や防衛
大臣を上司に持ちながら嫌な顔一つ見せず…命懸けで任務に励む姿は
我々国民に常に感動を与えてくれます。…被災地の方でも勘違いされた
方は自衛隊を救助専門の助け屋とでも勘違いして露骨に下働き扱いす
る輩がおる事には同じ国民として憤りを覚えずにはいれらませんでした。
自衛隊はあくまで国土と国民を守る防人であってレスキュー隊や助け屋
さんではありません。本来の任務の他に緊急時に助けに来て下さってい
る方々である事を忘れては天罰が下る事でしょう。誰でもがそうですが
助けていただければ感謝の意を表し謙虚にあらねばなりません。黙して
多くを語らない自衛官と自衛隊に…より一層の好感度UPと尊敬の念をU
Pさせました。震災の初期対応が一段落した今…改めて国民の一人とし
て自衛隊の皆様に感謝の言葉を贈りたいと思います。…ありがとうござい
ました。常に駐屯地等を訪問する際に感謝の念で一杯になります。
そんな北部方面隊のパンフレットの紹介です!
数々の自然災害や震災を乗り越えて確実に自衛隊は国民に最も頼りにされる
国軍になりました。その信頼は政府や政党や霞が関の官僚より遥かに大きなも
ので強い強い信頼が生まれていると感じております。
有事や災害で守られた国民は政府や官僚などから不当な差別や待遇を受ける
自衛隊を国民が盾となり逆に守り抜く事が我々、国民の安全に繋がります。
先の皇軍…帝國陸海軍は、今は陸海空の自衛隊です。今も昔も誇りある
国軍として防人達が私達、国民と日本の国土を守ってくれています。












メチャメチャキュートだったので買ってしまったQPシリーズです。
こちらもお土産によく買われる予科練像の模型です。