帝國陸海軍で活躍した軍醫達V(番外編)!

(嗚呼、広島・長崎の原爆被害)













  嗚呼、慟哭の広島・長崎
 忘れえぬ原爆被害と後遺症
(米国の侵した人道への大罪)








広島の原爆瓦




毎年8月が来る度に…長崎・広島、そして敗戦を思い出せます。
そして長崎・広島以上の被害を出させた東京大空襲やその他、
全国の都市空襲…まさに民間軍事の区別なき無差別絨毯爆撃
…徹底した焦土化は人の心を持つ者が到底行え得ない所業で
す。我々、日本人は決してこの米国の行った非道を許し忘れて
はならないと思います。この瓦を見る度に、ぶつけようのない
憤りと例えようのない悲しみが込み上げます。無念の想いで
苦しみの果てに亡くなった無数の同胞の姿が浮かぶようです。
広島の原爆公園の記念碑に、「二度と同じあやまちを繰り返しません」
などというふざけた言葉が刻まれております。過去に小野田少尉が此処
を訪れた時に『これは、誰が誰に対して謂っているのか?』と述べた話が
有名ですが…お馬鹿なサヨどもには怒りがこみ上げてなりません。我々、
日本人は自虐的な行為を繰り返し忍従の奴隷生活を行っているような現
状から脱却しなければなりません。誰が考えても原爆投下も東京大空襲
も米国が行った人道への最大の罪です。まさに超無差別大量虐殺です。
あの国に人道を語る資格などありません。少なくとも戦時下の日系米国
市民の扱いを謝罪した時のように、原爆投下を正当化せず…人種差別の
果てに犯した過ちである事を謝罪するまでは、謝罪を要求するべきです。
間違っても自虐に自虐を込めて「二度と同じあやまちを繰り返しません」
などと刻んで欲しくない。これでは国の為に死んだ者も…亡くなるその瞬間
までも愛国者として行動した多くの市民が浮かばれません。
これが問題の碑です!!

この原爆瓦は、広島の学校の子ども達が、発掘した物の一つです。
1981年に発掘されたものです。その後に書かれた子ども達の文章
のコピーが以下となります。こちらは日教組など反日国賊教師のグ
ループに属さない真面目な学校の先生よりお譲りいただいた貴重な
品です。
この純粋な子供達の想いを逆手に取り利用する日教組などの
ふざけた反日の連中が原爆や本土空襲の悲惨な被害を利用
する事には非常に憤りを覚えます。
この瓦の破片は…広島・長崎の原爆にまつわる事の悲劇を凝集したような
遺物の一つですので大切に保存し後世に伝えて行きたいと思います。



廣島の原爆で溶けたガラス片2個
            と瓦礫の溶融塊2個




前のオーナーが昭和55年に、広島で入手された原爆で溶けた
ガラス片2個です。原爆瓦と同じで原爆による高熱の熱線をあび
てグニャグニャに溶融しています。元が何に使われていたガラス
なのかは不明です。







こちらも前のオーナーが昭和55年に廣島で拾った原爆で溶融した
瓦礫2個です。大きい方が高熱の為、金属片が溶けて瓦に固着し
たもので…元々の金属は、鉄片だと思われるとの事。小さい方の
は前身が何であったのか不明ですが、グニャグニャに溶融して穴
だらけの溶岩状になっています。










上のボタンをクリックすると、お世話になっております
大先輩の軍医少尉様の管理されるサイト”軍医少尉
の資料館”の【廣島・原爆】のコンテンツにジャンプし
ます。軍医少尉様のお父上は廣島で被爆体験を廣島
陸軍第二病院でされております。この病院の軍医で
唯一の生存者だったそうです。戦後、お父上様は91
歳と長寿を全うされ御他界されたようですが、その直
前の90歳まで現役の医療人として御活躍されておら
れたそうです。貴重な被爆体験と共にその足跡を軍
医少尉様がウェブ上にUPされておりますので、特に
このページからもリンクさせていただき御来訪の皆様
にも是非、”軍医少尉の資料館”のHPを拝観いただ
ければ幸甚です。


被災現場となった廣島と長崎では上記の軍医少尉様の
お父上のように生き残った軍医・日赤・大学病院などの
勤務医、街の開業医が自らも被爆し被災者でありなが
ら懸命の医療活動に従事しました。しかし被爆により医
療を受ける必要がある重傷者の数は余りに多く、薬品
無く交換するガーゼも消毒する消毒液も無い有様で手
探りでの必死の医療活動が繰り広げられましたが、毎
日が亡くなる方を看取るだけの地獄日々が続いたそう
であります。その戦場を遥かに凌駕する地獄絵図を必
死に堪えて医療活動を行った全ての医師と看護婦達に
後世に生きる日本国民の一人として感謝の意を表した
たいと思います。後に被爆による障害や発癌で無念の
死を遂げられた方も大勢居ると思います。また生涯にわ
たり被爆による後遺障害に悩まされた方も大勢おると聞
き及びます。心無いものの謂われ無き差別で被爆者の
方が同胞より差別を受け、被爆体験をひた隠しにして生
きなければならない実態がこの周辺地域にあった事は
実にやるせない想いが致します。今も尚、原爆投下を正
当化し正式な謝罪もしない米国に強い憤りを感じずにい
られません。



御来訪の皆様へお知らせです!



当サイトでリンクして御馴染みの軍衣少尉様のHPが2009年6月14日
毎日新聞に取り上げられました。全くおめでたいニュースとなりました。
また以下に掲載したように本年8月6日の廣島陸軍病院の慰霊碑に参
拝する時に遺族に配る為、軍医少尉様が小冊子を200冊発行され御用
意されております。内一部をお送りいただきましたので少しだけご案内
致します。反日サヨの立場でなく愛国の国民の1人として行動された多く
の廣島市民と被爆後も戦った軍医や医療関係者、その他多くの人々の
貴重な記録を後世に伝えてくれています。是非、一度上のバーナーを
クリックして見てくださるようにお願いします。そして平和や人道を語る資
格が米国に無い事を再確認して欲しいと思います。


尚、更に朝日新聞の取材を受けて掲載
された朝日新聞のサイトです。クリック
で新しいウィンドウが開きます。

            ↓



平成22年、新たに改訂された軍医少尉様の小冊子です。
昨年度のものより厚手になり中身の資料もより充実してお
ります。大先輩である軍医少尉様のライフワークとして取り
組む真摯な姿勢を肌で感じる事が出来る作品となっており
貴重な資料と謂えます。







 廣 島 




昭和20年8月6日(月)に廣島に原爆を投下し帰投したB-29 エノラ・ゲイ

廃墟と化した広島の中心部(昭和20年敗戦後の9月)



被爆直後の廣島産業奨励館
上は商工会議所の屋上から写した廣島北西部の被災地。下は
焼け残った中国新聞社屋上から写した比治山方面。

右は護国神社近辺の焼跡。左は吹き飛んだ広島城の天守閣部分
爆心地付近…原爆ドームが印象的です。
右は元第二部隊の焼跡。左は紙屋町交差点付近の惨状。
海軍工廠砲煩実験部から撮影した爆発後
約2〜5分の廣島上空の原子雲。高さは、
約12.000mに達したといわれます。












人類初の実験を行った広島に8月6日に投下
されたリトルボーイ。ウラン235の核分裂で
作った原子爆弾。
昭和20年8月6日午前8時15分、エノラゲイ号は、広
島上空高度9600mより原爆のリトルボーイを投下。
約50秒後に広島上空約600mで閃光と共に爆発、
直径約150mの火球が出現、次いで画像のようなキ
ノコ雲を作る。その高さは、約高度15000mに達し、
遠方はるか600kmも離れた場所からも視認できたと
言われている。
テニアン基地に帰投したエノラ・ゲイ
一発の原爆は、一瞬にして広島市民
約90.000名の命を奪った。
左は救援に駆けつけた近隣の兵士が死体の収容
作業を行っている写真。右は原爆投下後4時間の
広島市内、御幸橋西つめに避難した被災者達で
す。多くが酷いヤケドを負っています。
負傷者が次から次へとトラックで運ばれて
来る中、既に水を飲む気力すら失われた
被爆した幼女。
白黒写真で黒く炭化したように見える皮膚は、現実には
真っ赤に焼け爛れた皮膚だという事です。
右の方は目蓋ごと焼爛れ眼球が乾燥して失明しています。






廣島と長崎の原爆瓦



二枚の原爆瓦です。上の画像は裏側になり共に変化はありません。
上は広島の原爆瓦、下は長崎の原爆瓦です。共に入手先の
方が現地の爆心地付近で採取したもので上の広島のものが
昭和57年に、下の長崎のものは昭和60年に採取したもので
す。共に原爆の熱線をあびた面はすさまじく焼けただれガラス
質の泡状の火ぶくれを生じております。






長 崎



長崎に原爆を落としたB-29、機首にボックスカー
(貨車)のニックネームと長崎に原爆を落とした戦
歴が描かれています。今もこの機体は米オハイオ
州のパターソン空軍基地に保存されているそうで
す。
下が長崎に投下された同型のプルトニウム
爆弾。全長3.2m、直径1.5m、重さ4.5t
昭和20年8月9日、午前11時2分に廣島に続き二発目の
原爆が投下されました。下は、長崎港外香焼島の気象
観測所で撮影された原子雲です。爆心地より13km離れ
ており爆発約10分後に撮影された写真です。灰白色の
雲海の下に薄橙色の陰を宿して空を分厚く覆った原子雲
の高さは高度12.000mに達したと言われています。
この爆発で一瞬にして約75.000名もの人々の命が失われ
…その後にも多数の死傷者を出す大惨事でした。
爆弾投下二日前の航空写真(左)と原爆投下二日後の航空写真(右)です。
国鉄浦上駅付近の惨状
稲佐山より見た浦上方面の被爆状況
無残な長崎県庁の残骸と裁判所の跡
三菱製鋼長崎製鋼所(左)と三菱兵器製作所大橋工場近辺(右)
の惨状左の製鋼所では当日勤務していた工員2.150名のうち約
1.400名が爆死しました。
右は大橋町付近のなぎ倒された樹木。
左は桶屋光永寺付近の惨状。
坂本町の山王神社の荷の鳥居砕けて
片足のまま立って残っていた。
左は浦上天主堂の無残な姿、右がその下部の礎石が約10cmほど
すれている写真です。爆風の凄まじさを物語ります。尚、この日は
浦上天主堂で西田三郎主任司祭のほか信徒十数人が堂内におり
その全員が下敷きになり死亡しています。
上は爆心地付近の惨状、焼死体が無残にも
転がっている。下は、長崎要塞司令部の倉庫
の屋上にある防空監視所から空襲警報解除
で降りてきた監視兵が剣帯を外し羽目板の釘
に掛け軍衣の釦を外している処で原爆の閃光
をまともに浴びて反対側に焼きついた姿です。
はしごと兵士、壁に掛けた剣帯が影と成り焼き
ついています。この影の部分だけが元のター
ル塗りのまま黒く残っています。



米軍機から撮影した原子雲



長崎医大で有名な永井隆博士が出した
”原子爆弾救護報告”を戦後になり週刊
朝日が臨時増刊号で特集を組み発行し
た物です。
廣島と同様に長崎でも長崎医大だけでなく生き残った
医師や看護婦達が生存者の救助、必死の医療活動を
おこないました。



上の二枚は共に長崎医大の惨状です。
下は浦上天守堂です。


この報告を作成した有名な永井 隆 先生です。
長崎医科大学 物理的療法科 主任の助教授
であった永井博士は 長崎医科大学で被爆して
重傷を負いましたが、被爆直後から第十一医療
隊三山救護班の隊長として被災者の献身的な
救援に奔走しました。また8月から10月までの
2ヶ月間にわたる救護活動をこの”原子爆弾救
護報告”に生々しいまとめました。その後、被爆
前に発症したCML(慢性骨髄性白血病)が悪
化し、昭和26年5月1日、43歳の若さでこの世を
去りました。敬虔なカトリック教徒と知られた
先生は、如己堂に横たわりながらガラス窓から
見える浦上天主堂を眺めていたと謂われており
ます。写真のように澄んだ目で見ていたのかと
想像させられます。
左は三ツ山の第11医療隊救護所跡の記念碑。
右は永井先生の自宅跡にクリスチャンの信徒が
建てた如己堂。病んだ身体を横たえて執筆に専
念したようです。如己堂の名は如己愛人(己のよ
うに人を愛する)を意味して名付けたようです。
永井先生は、軍歴をお持ちです。昭和8年(25歳)に召集
,幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し満州事変に行
きました。昭和12年(29歳)の時に再召集を受け軍醫中尉
として日中戦争で2年半、軍務を勤めました。合計4年の軍
醫としての軍務は、満州事変+日中戦争で72カ所の戦場の
中で負傷者の救護にあけくれました。その中で死を覚悟し
た場面が20回あり、生と死の狭間で医療活動を真摯に行
った方であります。大陸でも敵や味方の区別に関係なく傷
病者を手当し多くのの中国人難民の命を救いました。また
中国人の子供達に日本語の童話を読み聞かせたり絵本や
古着をはじめ食料まで差し上げたといいます。その万人へ
の博愛ぶりは、後に妻となる下宿先の森山家がカトリックで
あり召集前に大きく傾倒していた事にも由来すると思われま
すが、事実、除隊して戻ると昭和9年6月に洗礼を受けていま
す。大陸の現地で永井軍醫は、”生き神様”とまで支那人達
に慕われたと伝えられています。

         ◆永井 隆 醫博(略歴)◆

明治41年2月 3日 島根県松江市出身

昭和 3 年4月    松江中学を経て長崎医科大学に入学。

昭和6年       浦上天主堂近くの森山家に下宿する。尚
            この森山家の一人娘が後に妻となる緑
            (洗礼名:マリア)でした。

昭和7年4月     大学卒業後、助手として放射線医学教室
            に入局。

昭和8年2月1日   幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し
            満州事変に出征。

昭和9年2月1日   召集解除。大学研究室助手に復帰。
      6月      洗礼を受けカトリックの聖ヴィンセンシオ
             会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・
             無料奉仕活動などを開始する。
      8月      森山緑と結婚。緑夫人との間に一男二女
             (長女は原爆投下前に夭折)をもうけた。

昭和12年       長崎医科大学講師に就任。
             日華事変に第5師団衛生隊長として出征。

昭和15年       長崎医科大学助教授・物理的療法科部長
             に就任。

昭和19年 3月 3日 医学博士号を授与。

昭和20年 6月    長年の放射線研究による被曝で白血病と診
             断される。余命3年の宣告を受ける。
       8月 9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から
             700メートルの距離にある長崎医大の診察
             室にて被爆。重傷を負いながらも負傷者の
             懸命な治療を開始する。8月10日一時 帰
             宅。台所跡から骨片だけの状態となった妻
             の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。8月12日
             救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
       9月10日 一時昏睡状態に陥る。直前、辞世の句とし
             て「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠む
       9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は
             解散となる。
      10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を
             作成し長崎医大に提出する。

昭和21年 1月28日 長崎医科大学教授に就任。
       7月    長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すこ
             とになる。
昭和23年 3月    如己堂が完成。
       8月    大学を休職、療養専念。
      10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに来訪。

昭和24年5月27日 昭和天皇に面会。
      5月30日 ローマ教皇特使のギルロイ枢機卿が見舞
            いに来訪。

昭和26年5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。21時50分
            逝去。享年43。

遺体は、ご本人の希望もあり解剖に献体される。長崎市葬の後
長崎市坂本町にある国際外人墓地に埋葬されます。
 



この救護活動を報告する第十一医療隊も主体を成す
医師三名が被爆負傷を負いながらの懸命の救護活動
に当たっていたのが判ります。尚、隊長である永井先
生は、右側頭動脈を切断する重症を負いながらも自ら
の身をかえりみず救護活動を続けました。





永井先生の”原子爆弾救護報告”より

地球ガ裸ニナッタ

市民ハ先ズ異様ナ爆音ヲ聞キ、スグツイデ非常ニ明ルイ
白色ノ閃光ヲ見タ。地表ハ美シク紅色ニ光ッタト云フ人モ
アル。之ヲ市民ハ『ピカリ』ト名付ケタガ、全ク晴天ノ霹靂
ノ如クピカリト眼ヲ射タ。
…爆心近クノモノハ同時二熱ヲ皮膚ニ感ジタ。次デ爆風ノ
如キ爆圧ガ襲来シタ。地上一切ノモノハ瞬時ニ粉砕セラレ
、地球ガ裸ニナッタ。…タダ『アッ』ト叫ンダ間ニ浦上一帯ハ
カク変相シテイタノデアル。唯一瞬間ニ。…

長崎医大の西森教授の血染めの白衣
です。当日、診療中に被爆…自らも負傷
しながらも救護活動をされました。
被爆後にこうした酷いヤケドのケロイドで苦しむ人
もおれば、外傷が一つもないのに体中から出血や
紫斑を出して高度の放射線障害亡くなる方が大勢
おられました。




水すら飲む力なき赤子に筆で水分を与える
日赤の救護看護婦達…(勝山国民学校)。
取り壊し前の勝山小学校

新興善国民学校に開設された日赤の救護所、
ここが長崎での日赤救護所の本部となりました。
また当時は、佐世保海軍病院や針生海兵団など
に派遣された日赤の救護班も海軍の軍医達と
ここで医療活動を行っておりました。
長崎では敗戦後に米軍の第二海兵師団が駐留しました。
昭和20年10月23日から旧陸軍病院の建物・医療施設の
全てが接収され占領軍管理の下、県と市が協力し長崎
慈恵病院(後の長崎市民病院)と改称し被災者の治療に
当たりました。
日赤第362救護班(長崎支部)です。大村海軍病院に勤務
していましたが、原爆投下後すぐに市内入りを命じられ出動
しています。惨状が余りにも落ち着かず手術も出来ない為、
海軍病院に戻り患者搬送で医療活動を継続しました。
大村海軍病院です。下は病棟になります。ここは
後の国立長崎中央病院になります。
下は佐世保海軍病院雲仙分院に派遣されてい
た日赤救護班です。原爆投下後すぐに諫早分
院へ進出し医療活動を開始しています。
この他にも磨屋国民学校では、熊本医大の医学生
等も診療に加わり、長崎市内で生き残った開業医
達が集まり内科、外科や診療科を問わず医者と名の
付く者は誰もが救護活動に寝食を忘れ没頭したと聞
き及びます。(下は、今は無き磨屋小学校)
下は被災地でやっと見つけた身内の遺体を焼く子供達。








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鎮魂Uへ!
日赤の救護看護婦のページへ!






平成21年(2009年)秋に広島を訪れた時の画像です。



世界遺産となった原爆ドームの昼の顔です。




この日も生憎の天気でしたが大勢の修学旅行
や見学旅行の生徒・児童らがたくさんおりました
。こうして過去に広島を訪れた方もたくさん居ら
れるのでは無いでしょうか?私もその一人ですが
集団で見るものと違い…個人でゆっくり見て回る
時に同じ物を見て違う物が見えてくる事がよくあ
ります。広島と長崎は大人になっての再訪が必
要な地の一つだと感じさせます。
これが問題の愚かな碑が置かれた平和公園です。何とか
この碑を撤去し碑の文言をしっかりとしたものに替えないと
この國のありよう自体が否定される事になります。國家と
國民の未来の為にも成さねばならない事があるやに想い
ます。反戦・平和の大義の元に反國家・反日の精神を見事
に散りばめたサヨのプロ市民達の手腕の見事さには舌を
巻きますが…これを何時までも見過ごし放置する事は、こ
の國と民族の将来に良い結果をもたらさないのは明白で
す。本来は國家そのものか手足で働く機関なりが動き適
切に処理するのが当たり前なのでしょうが…この國の今の
ありようは正常でありません。心ある愛国者が手を携えて
立ち上がり行動を起こす必要性がでてくるのかもしれませ
んね。NGOだ、ボランティアだと…これを生業にしているプ
ロ市民やサヨが広島や長崎で多大な犠牲を強いられた愛
國の市民達の遺族に取り込み真意を曲げて反日運動に走
らせるような真似は言語道断で許せません。あるべき姿に
正すべきであります。








世界遺産となった原爆ドームのライトアップされた夜の顔です。







平成25年(2013年)秋に長崎を訪れた時の画像です。






長崎原爆資料館




以下は広島と並び被爆地となった長崎の余りに有名な長崎原爆資料館です。































永井先生のブースです。先生は被爆する以前、支那で陸軍の軍医中尉
としての従軍経験もある放射線科の医師でした。










長崎市 平和公園












































































日赤長崎原爆病院です。…随分と立派な病院なので驚きました。




雨の長崎駅です。…昭和の世代の人間なら
前川 清の歌が聞こえてきそうです。