トラック諸島に沈む日本の艦船X(番外編)


(あるダイバーのダイビング記録)


資料提供 元ダイバー様(HN)







番外のエピソード



番外編:元ダイバー様の記録より紹介エピソード。


若かりし頃の元ダイバー様の記録は、日記的な側面もあり、非常にユーモア
に溢れて、その人間味に惹かれます。ほんの一部ですが御紹介致します。ま
た20年前の事ですので現在では、有り得ないダイビング事情なども当時は、
ありました。今では、考えられないような減圧無しの浮上するダイバーやガイ
ドがゲストを見ないで勝手に潜らせるなど…当時は、何処でもありえた事です
が念の為、現代では、そうした事は、しっかり管理されており、アバウトな事は、
ありえませんので、お判りとは、思いますが念の為記載しておきます。

1981年10月…新婚旅行で元ダイバー様は、初めてトラックに行かれました。
          この時の第一印象を元ダイバー様は、こう記載しています。


         『空港からホテルまでガタガタ道に揺られ行く途中、家々が余り
          に貧しいのに驚く。木箱を壊して建てたという感じ。しかし全島
          及びホテル内は、プルメリアの甘い香りでむせかえるよう、夕
          焼けも空が全部、燃え上がり炎が渦巻くようでムードO・K!』

         『この時のトラックの駐在員は、戸島さんで、第一印象は、変わり
          者!…しかし彼は彼で後で女房に「お宅の旦那様は、かなりの
          変人みたいですが、気になりませんか?」と聞いたそうで、お互
          いに同じ印象を持ったようだ。』

         『夜、トラックに水中作業で来ている日本人の所に遊びに行かな
          いかと、戸島さんが誘いに来た。彼等は、東京アクアラングの潜
          水士達で、私が行った時には、二人が居たのだが、一人は、肺
          をやられたみたいでベットにの中でひどい咳をしていた。もう一
          人は、しばらく山をやっていたみたいで潜水夫になって日が浅
          いとの事だった。彼は、仕事が終わってから魚の写真を撮りまく
          っていて、それを見せられたがクローズアップが多かった。沈船
          には、興味が無いとの事だった。彼に小笠原の兄島瀬戸の真ん
          中で潜った時の話をすると凄く羨ましがっていた。「大潮の時、
          そこで8ノットの流れがあるんだけど、それに乗って化け物みた
          いなタテジマキンチャクダイとかが一杯居て凄く面白いよ。でも
          東京のダイバーが二人死んで、今は、そこ潜水禁止だけどね。
          そこ、実際は、クラックになっているからリップカレントで10ノット
          以上出したと思うけどね…。」と得意になって話していたら12時
          を回っていてホテルに帰ったら締め出されて暫く部屋に入れな
          かった。』

         『セカンドダイブで五星丸に潜る、エンジンルームを無理矢理抜け
          船室に入ったは良いが皆とはぐれて一人ぼっちとなる。帰り道を
          忘れてしまった。小さい窓から無理矢理、外に這い出る。俺が
          デブだったら死んでいたぞ!』

         『夜、ホテル近くの食堂でオーストラリア人三人とアメリカ人夫婦、
          我々、夫婦の七人で夕食をとる。女房が「スイカが好きだ。」と
          いうと皆、女房にスイカをくれた。アメリカ人夫婦は、亭主が27、
          女房が33で「でも愛しあっているもんね。」と女房のほうが亭主
          の肩に顔を載せた。私が「日本では、年上の女房は、金の靴を
          履いて探せ」と言われていると言うと非常に喜んでいた。この食
          堂は、ガラス張りと言うか、透明プラスチック張りと言うか、外か
          ら中が丸見えだったが、その窓一杯に現地人がイモリの様にへ
          ばりついていた。上野動物園のパンダになったよ

                          
1982年6月…パラオに行こうと思っていた元ダイバー様は、一目でも潜水艦を
         自分の目で見たく再び、トラックを訪問。


         『妊娠しお腹の大きな女房に見送られ汽車に乗った時、「ミミの
          でたらめなガイドで、もしもの事があったら、父無し子になってし
          まうんだなぁ」と思ったら涙が出てきた。…トラックで戸島さんが
          ホテルの人々、ダイビングショップの人々が皆、私の事を覚えて
          いてくれて、非常に感激したと言うと…「元ダイバーさんは、特
          徴が多すぎるんですよ!」…だと。』

         『一日目、乾祥丸と平安丸を潜る。ミミがガイドだったけど彼は、た
          だ我々の前を泳いでいるだけに過ぎない。…2日目、ミミに潜水
          艦を見せてくれと頼むと「ダメ!連れて行くとクビになる。」と言わ
          れ戸島さんに助け舟を求めると「彼等は、年に1〜2回しか行かな
          いんですよ。」と。そこでクラークが来たので彼に頼むと「OK,ノー
          プロブレム!」。ミミの姉ちゃんは、クラークの女房。…クビになる
          わけが無いだろ〜〜!!』


1983年6月…三度目のトラックとなる元ダイバー様。日本のテレビでも取り上げら
         れた四エチル鉛の件で酷い目にあっています。


        『トラックでコレラが流行し駐在員は、居なかった。この時、女房以外
         の道連れが出来た。後に有名になるA氏とB君である。初日、数時
        間かけて花川丸に行く。マリンライフの美しさに圧倒されたけど、積荷
        のアンチノッキング剤(四エチル鉛)で首をやられる。首の半分が焼
        けただれた様になった。これは、後に痣になる。』

        『慰霊団が来ていて神国丸で水中慰霊祭を行う。それをA氏とC氏が
         撮影した。一回目は、撮影失敗、翌日、もう一回撮影、遺骨をこの
         時、船室から取り出して最上甲板集め拝んだけども…何故か霊に
         対して申し訳ない気がした。後に御遺族から戴いた手紙には、礼文
         と共に遺骨を撮影すべきでは、無いか?…と書かれていた。同感
         であった。最終日、帰る筈の予定の飛行機に乗れなかった。ポナ
         ペで急病人が出て三人の患者とその家族、医師が乗り込む事にな
         った。日本に帰国するのが4日後になってしまった。家に電話を入
         れ、「帰れなくなった。帰ったら職場に辞表を書くよ。怪我もした。」
         と言った。女房は、私が帰るまでただ泣いていたそうだ。俺は、バリ
         バリに潜っていた。疲れ気味のA氏達を無理矢理誘って潜っていた
         。慰霊団では、一組だけ夫婦(Oさん)だけが取り残された。彼等に
         は、立派な肩書きを持つ人が大勢いたけど、皆、オロオロして抽選
         となっった時、Oさん夫婦が自ら「私達が残ります。」と仰ていた。
         私は、失礼ながら、こんな頼りない人達が残って大丈夫なのかと思
         っていたら、案の定、グアムからマニラ行きの飛行機に乗せられそ
         うになり、サイパンでは、下ろされそうになり、スカイライナーには、
         乗り方が全く判らないという具合で、少しも目を離せなかった。スチ
         ュワーデスには、「添乗員の方ですか?」と言われた。しかし後で
         聞いたところでは、戦争中、他の方々が皆、トラックに米軍が来るか
         もしれないとの事で要領よくサイパンに逃げた時に、Oさん達は、ト
         ラックに取残されたそうである。しかしサイパンは、玉砕しOさん達は
         結果的に無事でした。戦後、Oさんは、非常に大きなガソリンスタン
         ドの経営者になっていました。…僕にも少し土地をくれるってさ!…
         今回も戦争中にマーシャルから連れられてきた少年労働者(彼は、
         今は、出世してトラック一の大金持ちになっていた。)にOさんは、彼
         に一目逢いたいと思っていたそうだ。…結果的に取残された事で
         この元少年労働者と再会を果たす事が出来た。二人は、抱き合って
         嬉し泣きの涙で再会を喜んでいた。その夜、私達もこのマーシャル
         人に招かれた。石焼のタイマイが出された。…国際保護動物は、実
         に美味い!!!』


1984年7月…四度目のトラック。…最早、元ダイバー様は、トラックの魅力に引き寄
         せられ虜になられたようです。


        『キミオさんは、遺骨引き上げで忙しく全く一緒に潜ってくれなかった。
         潜水は、5日間でうち初日と2日目は、TBSのカメラ助手として活躍し
         た!その間、桑港丸、愛国丸、平安丸、二式大艇等を潜り撮影する
         。ファーストダイブは、50m以上、一日タンクを4〜5本、減圧が大変
         だった。もっと潜りたいと言うとガイドが泣きそうにして「勘弁して!」
         と拝み頼むので諦める。この時、日本映像記録「知らざれる世界」の
         スタッフと一緒のボートだった。彼等のカメラマンは、大津善彦氏…
         彼自身の言葉によると「PADIのインストラクターで非常に有名なカメ
         ラマンで主にナショナルジオグラフィックの仕事をしている。中村征
         男は、アマチュア上がりだけど、自分は日大の映画科の出身なんだ
         。』とても自信に溢れた方で、後にその世界で有名となる方でした。
         …3日目も普通のお客さんは無く、テレビ朝日の西村カメラマン、玉水
         記者、その他エンジニア1名と海に出た。この日は、クラークのボート
         を借りる。クラークのガイドも付いたのだが、彼は、全然、やる気無し
         私は、全くのプロガイドとなった!この時のクラークのガイドは、顔に
         Kiss Meの刺青があった。私と西村氏は、この日5回、タンクにして
         4本ずつ潜水した。4日目は、米国人一人同行。私、ミミ、アメ公の3
         人。彼は、グランドキャニオン近くの出身で空母”ミッドウェイ”の水
         兵、私が31歳、米兵が28歳、ミミが27歳。ミミとアメ公に「Old Man
         」と呼ばれる。ミミは、私をアメ公に「彼は、気違いダイバーだ」と紹
         介したてた。米兵の親戚は、皆、海軍だったそうで「伯父さんは、
         戦艦”大和”が怖かった。」と言っていたなどと話していた。昼飯は、
         ミミと船頭にたかる。主食は、パンの実を発酵させたもの。凄い臭い
         で生ごみの臭いと同じ。蝿も一面に集って来る。これを手で丸めコン
         ビーフを入れて食う。臭いは、凄まじいが味は、普通のパンと同じ、
         だからパンの実というのか…などと思い納得した。「刺身も食え」と
         毒々しい色の熱帯魚をタバスコとレモン汁につけたもので、はじめ
         のうちは、さすがに手を出しかねたが恐る恐る食べると物凄く美味
         かった。私が今までの一生の中で食った刺身の中で最高の物だっ
         た。結局、私が全部食べてしまった。蝿も2〜3匹食べてしまった。

大津善彦氏

大津氏撮影の画像である。海は、憂国烈士が最も憧れる豆南諸島である。
チベット・ヒマラヤ・豆南(ズナン)諸島と言われる日本の秘境中の秘境の海
である。その辺のトラックやパラオ、南太平洋に比べても全然、上を行く素晴
らしい世界ランクでもTOP3に位置する知らされる海です。水中銃でマグロを
射止めているのは、現石原都知事です。この透明度、魚影の濃さ、鮫の群れ
や大型回遊魚…人の立ち入りを禁止した秘境の海で人を恐れ逃げる魚もい
ません。まさしく手付かずの太古のままの海がそこにあります。…涎が出そう
です。本当に羨ましい…。




1985年6月…5回目のトラック!…完全に地元に溶け込んでいるようである。

        『キミオさんとの雑談。キミオさんは、この年で58歳で夏島の出身で春
        島に住んでいる。キミオ:「間宮と伊良湖(給糧艦)は、本当にいい香り
        がしたよ。他の船とは、全然、違った。」…私:「お菓子でも作っていた
        のかな?」…キミオ:「饅頭が美味かったよ。」…私:「キミオさん、羊羹
        は、好きじゃないの?」…キミオ:「僕には、美味すぎるよ。戦争中、僕
        は、輸送隊にいたよ。日豊丸から愛宕へ荷物を運ぶとカルピスもらっ
        たよ。それが美味かった。凄く美味かった。戦争終わってからカルピス
        を輸入してくれと頼んだけどダメだったよ。」…私:「日本に帰ったら送
        るよ。でも重くて航空便だと金が掛かるから船で送るよ。」…キミオ:「
        僕は、日本軍で色々な仕事したけど運輸部で大発に乗ったのが一番
        面白かったよ。色んな島に行けたからね。」…キミオさんは、戦後ハワ
        イに7年住んでいたそうです。マウイに4年、オアフに3年。…私:「この
        時、ラハイナに潜水艦”ブルーギル”が沈んでいた?」…キミオ:「あれ
        は、僕がトラックに帰ってから沈めたんだよ。いらなくなったからさ。」
        日本統治時代にキミオさんは、魚についての講習をしににパラオまで
        行ったそうだ。キミオ:「パラオ人は、魚を生で食べないんだよ。彼等に
        少しずつ食べさせたところ慣れて食べれるようになったんだよ。戦争中
        は、陸軍と海軍は、本当に仲が悪かったよ。まるで戦争しているようだ
        ったよ。道で出会うと必ず喧嘩になり、ピストルを撃ち合ったり、日本
        刀を振り回したり、死人が出る事もあったよ。陸軍の人が道で看護婦
        達に声を掛けると海軍の人が後ろから行ってぶん殴ってたよ。ある時
        二式大艇がラバウルから参謀達をつれて帰る途中、グラマンに銃撃さ
        れ、ようやくトラックに帰り着き墜落した。参謀達は、全員助かったけど
        副操縦士一人だけが死んだよ。…軍艦では、鈴谷の乗組員が一番気
        が荒かったよ。何を話す時も必ず”馬鹿野郎”と言ったよ。愛国丸の人
        達は、おとなしかったけど機関長だけは、乱暴だったね。…戦争前と戦
        争の中頃まで海軍で働いていたよ。終わり頃は、陸軍で働いたよ。」
        …私:「どんな仕事してたの?」…キミオ:「設営隊で働いたり、ハウス
        ボーイやったり、輸送隊で働いたりさ。」…私:「殴られた?」…キミオ:
        「よく殴られたよ。海軍精神棒…そう良くヤキ入れやるって言われてね
        。今日は、何本入れるって言われて殴られたよ。」…キミオさんは、菊
       川丸の沈没の時も輸送隊にいて、事故で沈んだけどこれが大事故で原
       因は、二説あり、一つは、天婦羅を揚げてる時に火が付いたと言うもの。
       もう一つは、機関室の電気のショートによるものと言う説。消火の為に輸
       送隊その他が駆り出されタグボートも数隻駆けつけた(タグボートは、船
       舶火災消火の為のホースやポンプを搭載していた。)。しかし火災を鎮火
       出来ず、結局、大爆発を起こし沈んだ。乗組員は、その時点で避難して
       いたそうですが、かなりの人が巻き添えで死んだそうです。キミオさんの
       話では、2〜3000人でこのうちの殆どが消火に当たった人々だったと言
       う事でした。爆発は、真夜中に起こり全島を揺り動かす程、すごく寝てい
       人も皆、起きてしまったそうです。この日、キミオさんは、当番だったけど
       ガールフレンドと約束があり他の人に代わってもらっていたそうで、その
       代わった人から聞いた話によると、彼等が菊川丸から荷物を大発に積み
       岸に着く寸前に大爆発が起こったそうで、もう少しで死ぬところだったと
       の事でした。…キミオさんは、夏島と竹島に土地を持っているが、ダイビン
       グショップの土地は、借りているものです。夏島の土地は、海から離れて
       いるもので良くない土地、竹島の土地は、海に面している良い土地なの
       で、ここにベースを作る予定だ!…昭和19年2月17日の大空襲の時に
       捕虜となったパイロット達は、皆、殺されたそうです。その中に黒人の中
       尉がおり、彼は「クロンボの癖に生意気だ」と言われ散々、殴られた挙句
       嬲り殺されたそうです。キミオさんが見た時は、彼は泣いていたそうです。
       撃墜された飛行兵の殆どがキングフィッシャー水偵に救助されたみたいで
       す。キミオさんが実際に見ていないけれど仲間の話から、衛生兵達の訓
       練として縛り付けた捕虜に対して銃剣突撃なども行われ、病院でも生体
       解剖がやられたという噂もあったそうです。この為、司令官は、戦後死刑
       軍医も何名かが死刑となりました。この中に上野千里さんという軍医がお
       られて、この方は、上官の命令に背き捕虜の救命の為、手術を施し助け
       ましたが、上野軍医が居ない間に捕虜は、処刑され殺害され、その責任を
       を問われて刑死されたそうです。また囚人達で作られた青隊は、散々苛め
       抜かれたそうです。彼等は、最初は、2万人位いたそうですが敗戦の時に
       は、数百人しか残っていませんでした。青隊捕虜は、作業終了後、整列さ
       せられ、ポケットの中などを検査され、もしも小指程度のタバコでも見つか
       ると散々殴られ、倒れても尚、滅茶苦茶に殴られたそうです。…キミオさん
       が言うには、「トラック環礁のエンタービ島があり、この島の兵隊が空襲後
       一番、可哀想だったよ。食べるものが何もなく、皆、骨と皮ばかりになって
       いたよ。」…私:「キミオさん達も食べるもの無かったでしょう?…どうしてい
       たの?」…キミオ:「草とか食べていたよ。』

       『薄に関して…キミオ:「薄は、ガダルカナルでやられたんだよ。それがタグ
       ボートで引っ張られてトラックに来たんだけど修理してなおって3日目で沈
       められたんだよ。」…私:「キミオさん、それを見たの?」…キミオ:「うん、
       ブリッジも無くなって変な形だったよ。」

キミオ氏が言う薄の状態
         トラックでは、ガソリン1ガロン・1ドル50セント、水1ガロン・1ドル90セント。
         キミオ:「戦争が近くなると教会は、壊され、教会に行く人は、スパイだと思
         われたんだよ。その前は、日本人の士官達にもクリスチャンが居て教会に
         来てたんだよ。」…私:「キミオさんは、カソリック?」…キミオ:「プロテスタン
         トだよ。君は、ブッタだろう?…教会は、殆ど壊されたけど一つだけ残された
         んだよ。そこは、兵舎に使われていたからね。でもそこが壊されなくて本当
         に良かったよ。」…私:「神社があって、キミオさん達も拝まされたんでしょ?
         」…キミオ:「うん。戦争が終わった時、日本人は、トラック神社を爆破して行
         ったんだよ。アメリカ人達も何故壊したのか不思議がっていたよ。そんなとこ
         ろが日本人の欠点だと思うよ。」…私:「そうなんだよ。日本人は、他人の価
         値観を認めず、自分のものを押し付ける傾向があるんだよ。」…外国人と話
         すと宗教の話に触れられる事が多い。自分の不信心ぶりに恥じ入りばかり
         だが、潜る前に必ずお祈りは、させてもらう。現在、トラックの病院には、薬
         が殆ど無い。病人が発生するとハワイの病院に行くという。トラックの医者は
         遊んでいると言う。私は、キミオさんと約束して、日本に帰国後、薬品を送っ
         たものだった。元富山連隊の人達と桟橋で会った時も「キミオ、後でおいで
         よ、薬上げるから。」と言っていた。本当にトラックの薬不足は、深刻のよう
         です。…キミオさんは、高血圧があり時々、上が220を超えるのだそうだが薬
         が無くて、そういう時は、氷水で身体を冷やすしかないそうだ。とても深刻だ。
          別な日に富山連隊の団体に、また会うと「日本語、上手だね。」と褒められた
         キミオさんと並んでいると「キミオさんの息子かい?…良く似てるね。」と言わ
         れキミオさんも僕も大爆笑した。…この時、ホテルの前の海、水深18mで飛
         行機が見つかる。クラークのところが毎日、潜ってた。キミオさんは、水上機
         だと言うけど、ビル達の話では、どうも雷撃機らしい。エンジンが無くなり、風
         防も無くなり翼端無いらしい。傍に魚雷が転がっていたそうだ。僕は、ビル達
         に「フロートじゃないの?」と聞くと彼の父親が「スクリューもあり魚雷に間違い
         無い。」と言っていた。機銃も無かったそうだ。是非、見たかったが今回は、
         諦めて次回、追風と一緒に見ようと考えた。…キミオさんが何度か「…トッピ
         ン、抜けたら〜、ドントコショ…」と口ずさんでいた。聞いたら「昔、日本人の子
         供達が歌っていて聞いてるうちに覚えたよ。」だと。他にも歌っていた。』

        『キミオさんから教えてもらった敗戦前の話。…戦争中のトラックにも慰安所は
        あったようで、パンパン屋と呼ばれ、士官用、下士官用、兵用に分かれていた
        が現地人は、使えなかった。またキミオさんの記憶では、病院は、海軍・陸軍・
        とその他の病院があったが、例えどんな瀕死の重傷をおっていても海軍は、陸
        軍は、関係ないと、陸軍は、海軍は、関係ないと搬送されても助けず放置された
        という。また看護婦は、30人位いたけど戦争の終わり頃には、居なくなったそう
        である。』

        『ある時の会話。…私:「キミオさんは、何処のC-カードを持ってるの?」と聞いた
        ところ、キミオ:「PADI、NAUI、JUDFのDM(ダイブマスター)だよ。」…私:「イン
        ストラクターを取らなかったの?」…キミオ:「うん。アッピンとチュニーには、取ら
        せるんだよ。」…私:「いつから始めたの?」…キミオ:「30歳位、米兵に教わった
        んだよ。」…キミオさんの長男は、余り仕事好きでなく、まあプラプラしている。財
        産は、次男のアッピンにやると言っていた。トラックでは、たとえ長男でも仕事を
        しない人間には、財産を継がせないそうだ。』

        『ある日の記載。チュニーのダイビング技術は、凄まじい。私の師匠の柳田さんよ
        り上だ。こんなダイバーを私は、見た事が無い。中性浮力を保つ技術がすごい。
        減圧停止でもロープに捕まらず、どんな時も水中の一点に微動だにせず立ってい
        られる。厭きると仰向けになり、あたかもベットに寝ているように微動だにせず空
        気の輪を作っている。沈船の中でも全く埃を立てない。しかし山たての技術は、
        追風を探している時、キミオさんでも「こいつらには、呆れるよ。」と言う程だった』

        『キミオさんが新しい沈船を見つける時は、ドイツ人やアメリカ人の友人がソナーを
        持って来た時で、その時に集中するそうだ。また、慰霊団は、山霧丸、清澄丸、愛
        国丸とチョコチョコ来るけど山たて出来ガイドを付けないから、いつも検討外れの
        所で慰霊祭やってるよ。』


1987年6月…2年ぶりのトラック。その前年は、台風の被害に医薬品不足を訴えたトラックの
        要請に応え元ダイバー様は、86年に予定した旅費で医薬品を購入し現地に送
        った為、昨年は、トラックに行っていません。この年が最後のトラック訪問となり
        ダイビングを止められた年になるようです。その後、本当に元ダイバーとなり、
        新たにスカイダイビングの道に挑んで行かれたようです。

        
 『一度帰宅し寝ている二人の子供の顔を見てから出発する。成田でお土産
         のカルピスを3本買い膝の上に載せ機上の人となる。機内では、じっとダイビ
         ング事を考えていた。数多くの神仏に祈る事も想い出す。この2年間は、ただ
         ”追風”に潜りたい!の一心で念じ続けた。トラック環礁が見えて来た時は、
         感無量だった。機が空港に付き扉が開くや外に出た。懐かしさの余り身体が
         震えそうだった。空港には、Sさん、Yさんが出迎えに来てくれていた。「お帰り
         なさい。」彼等は、そう言った。Sさんは、現地スタッフになっていた。トラックの
         禁酒法は、かなり厳しくなっていてカルピスが疑われてSさんが一生懸命説明
         してくれた。キミオさんは、ショプに居らずホテルに着くとロビーで出迎えてくれ
         た。僕を見て嬉しそうな顔をしてくれた。握手する。「キミオさん、また御願いし
         ます。」…キミオ:「手紙ありがとう。」あらかじめリクエストを手紙にして出して
         おいたのである。…私:「追風に潜らせて下さい。」…キミオ:「いいよ。君が来
         たから天気も大丈夫だよ。」その夜は、カメラの準備。翌朝、桟橋にアッピン、
         チュニー等がいた。キミオさんは、中風の為、現役を引退し来なかった。僕は
         スタッフ達と打ち合わせし、「俺は、今日は、追風と文月に潜りたい。」と言うと
         「今日は、二つは、無理だから文月に行ってくれ」とアッピン。アッピンは、他の
         客を連れて出て行く。僕は、一人で一つのボート!…そうキミオさんは、僕の
         為に僕一人にボートを一艘用意してくれたのだ!!…ガイドが二人、船頭が
         一人、大名旅行だ!…ガイドの一人は、気心の知れたチュニー、彼は無口だ
         が僕の無理を聞いてくれる。文月は、凄かった。しかしカメラの絞りが一つ小さ
         かった。またオイミッヒは、スイッチを入れ忘れ、二本目は、タグボート。小さい
         の10分で見終る。その後、キミオさんの竹島に行き休憩し、皆でパンモチとコ
         ンビーフを食う。私は、もう二本行ったので終わりかと思ったが、「じゃあ、次、
         行くぞ!」と声が掛かったので「じゃあ、もう一回、文月だ!」、皆が飽きれてい
         た。結局、ガスが無く清澄丸に3本目を潜る。清澄では、折角、丁寧にガイドし
         てくれたのに気分が悪くなり集中できなかった。どうも昼食を取るとダメな体質
         ようで水中で吐いてしまう。その後も気分がすぐれず見て回るのがしんどかっ
         た。ボートに上がり桟橋に付くのもどかしく部屋に上がるとトイレに駆け込み吐く
         その後、グロッキーで横になる。夕食の時には、何とか回復する。キミオさんが
         来て、明日は、キミオさんが北洋丸をガイドしてくれると言う。夜、SさんとZさんと
         酒を飲む。翌朝は、完全回復、北洋丸へ向う。しかし中々見つからず、麗洋丸に
         回ってもらう。麗洋丸は、すぐに見つかる。しかしストロボが故障。2本目は、文
         月に行く。夜は、キミオさんのおごりで5人で宴会となった。3日目は、追風がす
         ぐに見つかる。油が油紋として虹色に浮いていたのだ。アンカーも一発で決まる
         。この追風で生まれて初めて窒素酔いを経験する。酔いは、缶ビール一本分を
         引っ掛けた感じだった。この日の水中は、かなり暗かった。そのせいでは、と思
         った。浮上しボートに上がると気が抜けてしまった。2本目は、どうでもよくなり神
         国丸へ行く。もうこの船は、何回潜ったか知れない。…この日、追風艦長の妹さ
         に追風の中にあった砂と貝殻を記念に持ち帰り帰国後、小瓶に入れて渡した。
         4日目は、天城丸からだった。私がチュニーに「天城丸は、ボトムタイムは、短く
         て良いから…。」と言いだしたとたん皆に爆笑され、次のセリフを読まれてしまっ
         ており「OK!文月」。期待して無い天城丸は、ガイドブックには船倉は、空となっ
         ていたが…飛行機の翼が何枚もあり、乗用車やトラックも何台も有り、ドラム缶
         も多数あってかなり面白かった。…2本目の文月では、頭蓋骨を見る。その日の
         夜は、スイス人の夫婦と知り合いになり2時間ほど過ごす。奥さんは、凄い美人
         だが英語がダメ。二人ともダイビングで沈船目当てで来ていた。最終日、朝食
         をキミオさんにごちそうになる。キミオ「ホキ丸には、もうお客さんを連れて行かな
         いよ。」とかなりアンチノッキング剤が出ているらしい。キミオさんに「今度、いつ
         帰って来る?」と聞かれシンミリする。空港までYさんが送ってくれた。彼も「今度
         いつ帰ってくる?…○○は、もうトラックでは、有名なダイバーだよ。」だってさ。
         帰りの機内は、気が抜けて呆けた状態。グアムで一泊する。グアムの変わりよう
         に驚く…カラオケバーが一杯。夜、ガイドへの付き合いで射撃に行く。M−16は
         は、おもちゃだった。ここのベトナム帰りのアメリカ人に「僕は、AK-47の方が好
         きだ」というと「私もそうだ。」といった。彼は、スペシャルフォースでベトナムで5
         年狙撃兵をしていたそうだ。「べトコンを何人殺したの?」と聞くと「200人」と答え
         る。「ランボーみたいだね。」と言うと「あれは、フィクションさ。でも俺は、事実だ」
         …その夜は、トラックの興奮の余韻で良く寝れなかった。


トラックにて元ダイバー様と奥様でしょうか。
多彩な国の顔ぶれです。ダイバーの行く海は
こうした魅力がつきません。

86年頃のキミオさんとガイドのチュニー






壮烈なり日本商船隊の戦い!



海上の玉砕。…先の大戦で我国の商船隊などの一般船員の戦死者は、実に
60.331名に上ります。死亡率43%…この数字は、陸海軍の兵の2倍以上と言
われております。海の上では、逃げようが無く、例え敵機や敵潜水艦の攻撃で
命を奪われなくとも船が沈められていれば助かる確率は、皆無に等しい。まさ
に海上の玉砕です。本来、戦闘用艦船として作られていない商船は、装甲など
無いに等しく攻撃を受ければ一たまりもありませんでした。その記録や詳細は、
軍人で無い為、戦史で語り継がれる事も無く多くの国民が知る事もありません。
…軍人でも無いのに国家・民族同胞の為に危険を顧みず海に船出し二度と帰る
ことが無かった多くの勇敢な日本船員に感謝と追悼の意を表します。また日本近
海で哨戒船として任に当たった戦死船員の数に入っていない大勢の日本漁民の
方に同様に感謝と追悼の念を捧げます。

まさに沈まんとする小型船…左端に生存者が一名見える。



断末魔の日本商船隊…。



まさに日本商船隊の墓場である。

東京湾口の観音崎灯台の近くの戦没船員の碑








これで番外編も終了です。青年時代の多感な元ダイバー様の記録でした。…ダイビング
を行わない方には、お判りいただけないでしょうが反復潜水によるディープダイビングを
繰り返し行い。レックダイビングもまだ今のように観光化されて安全なルートが確立され
ていない、現地で発見されて間もない沈船を潜っています。元ダイバー氏自らも述べて
おられましたが何度も死と生の間を感じたと仰られておりました。非常に危険な事も事実
です。当然、当時は、連れて行けないお客さんのダイバーと連れて行くダイバーの選別が
あります。これは、今もそうですが、難易度の高い上級コースなどは、有る程度のレベル
に達しないと中々、行けない海があります。場所によっては、技量の高い客がある一定の
数にならないとボートを出せない場合も多々、あります。行けるか行けないかは、運次第
というところもあります。元ダイバー様は、当時、インストラクタ-であり現地に溶け込みトラ
ックの海を潜り倒しています。87年を境にダイビングは引退されましたが、危険が元ダイバ
ー様の血を沸かすのでしょうか、スカイダイビングやパラグライダーなどの道へ進まれてい
ます。…ヒマラヤやチベットからの命がけのパラグライダー飛行なども経験されております。
私から見れば根っからの”命知らずの冒険野郎”です。…特にこの番外編では、元ダイバ
ー様の心優しき青年時代、ユーモアに溢れ、面白いエピソードに溢れています。残念な事
は、たくさんあるエピソードも時効なのでしょうが…元ダイバー様が恥ずかしがり掲載を止
めた物も多々あります(笑)。また多くの写真が存在していたらしいのですが、多くが紛失や
流出し残された僅かの写真しか掲載できなかった事です。私は、この記録を通し元ダイバ
ー様の体験した青春時代の息吹をほんの少し嗅げた様な気がしています。…同じダイバー
として共感する部分も多々あり、貴重な資料を提供下さった元ダイバー様に改めて感謝する
次第であります。
                                  2005年4月12日
                                          憂国烈士